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== 略歴 == |
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=== デビューまで === |
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1944年12月12日、愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)に生まれる。父親は[[石川県]][[河北郡]][[津幡町]]笠谷の旧家の出で、父方の祖父は「立山伊次郎」の四股名で[[雷部屋]]に所属した[[力士]]であった<ref>『[[女学生の友]]』 1966年8月号([[小学館]])188-193ページ</ref>。舟木が父から聞いたという話によると、本名の「成幸」という名前は[[楠木正成]]と[[真田幸村]]の二人の武将から一字ずつとって命名したとのことである<ref name="sponichi1710011/>。音楽に興味を持ち始めたのは、1か月間肩叩きを続けたご褒美にと祖母から[[ハーモニカ]]をプレゼントしてもらったこと、ラジオで[[三橋美智也]]の歌を聴いたことがきっかけの一つ<ref>[[スポーツニッポン]] 2017年10月2日 22面「我が道 舟木一夫」</ref>。13歳年下の弟が出来た頃、家が貧しかったことから「誰かがこの家にお金を入れ続けないと。弟が物心つくまでに人並みの生活をさせてあげたい」として学校卒業後は自分の才能で短い間に稼げる世界に行きたいと思うようになり、そんな時に友人の家のテレビで歌手を見て、これだと思い歌手を目指すようになった<ref>[[スポーツニッポン]] 2017年10月3日 18面「我が道 舟木一夫」</ref>。中学2年生の時に父に頼み込み、中学の音楽の先生の紹介で[[指揮者]]の山田昌宏を紹介してもらい、[[名古屋市]]内の教室に通ってレッスンを受ける<ref name="sponichi171004">[[スポーツニッポン]] 2017年10月4日 20面「我が道 舟木一夫」</ref>。高校2年であった[[1962年]][[2月]]、地元の[[CBCテレビ]]の番組『歌のチャンピオン』に出場して[[松島アキラ]]の『湖愁』を歌い、チャンピオンになる<ref name="sponichi171004"/>。同年[[3月]]、名古屋市内の[[ジャズ喫茶]]で行われた「松島アキラショー」で、ステージ上の松島アキラが『湖愁』を誰か一緒に歌わないかと客席に声を掛けた所、前列に居た高校生が勢いよく手を上げた。少年は隣に居た同級生に手首を掴まれての事であった。狐に摘まれた表情で舞台に上がった少年は、見事松島と共に「湖愁」を歌いきった。この少年こそ、後の舟木一夫である<ref name="sponichi171005">[[スポーツニッポン]] 2017年10月5日 18面「我が道 舟木一夫」</ref>。 |
1944年12月12日、愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)に生まれる。父親は[[石川県]][[河北郡]][[津幡町]]笠谷の旧家の出で、父方の祖父は「立山伊次郎」の四股名で[[雷部屋]]に所属した[[力士]]であった<ref>『[[女学生の友]]』 1966年8月号([[小学館]])188-193ページ</ref>。舟木が父から聞いたという話によると、本名の「成幸」という名前は[[楠木正成]]と[[真田幸村]]の二人の武将から一字ずつとって命名したとのことである<ref name="sponichi1710011" />。音楽に興味を持ち始めたのは、1か月間肩叩きを続けたご褒美にと祖母から[[ハーモニカ]]をプレゼントしてもらったこと、ラジオで[[三橋美智也]]の歌を聴いたことがきっかけの一つ<ref>[[スポーツニッポン]] 2017年10月2日 22面「我が道 舟木一夫」</ref>。13歳年下の弟が出来た頃、家が貧しかったことから「誰かがこの家にお金を入れ続けないと。弟が物心つくまでに人並みの生活をさせてあげたい」として学校卒業後は自分の才能で短い間に稼げる世界に行きたいと思うようになり、そんな時に友人の家のテレビで歌手を見て、これだと思い歌手を目指すようになった<ref>[[スポーツニッポン]] 2017年10月3日 18面「我が道 舟木一夫」</ref>。中学2年生の時に父に頼み込み、中学の音楽の先生の紹介で[[指揮者]]の山田昌宏を紹介してもらい、[[名古屋市]]内の教室に通ってレッスンを受ける<ref name="sponichi171004">[[スポーツニッポン]] 2017年10月4日 20面「我が道 舟木一夫」</ref>。高校2年であった[[1962年]][[2月]]、地元の[[CBCテレビ]]の番組『歌のチャンピオン』に出場して[[松島アキラ]]の『湖愁』を歌い、チャンピオンになる<ref name="sponichi171004"/>。同年[[3月]]、名古屋市内の[[ジャズ喫茶]]で行われた「松島アキラショー」で、ステージ上の松島アキラが『湖愁』を誰か一緒に歌わないかと客席に声を掛けた所、前列に居た高校生が勢いよく手を上げた。少年は隣に居た同級生に手首を掴まれての事であった。狐に摘まれた表情で舞台に上がった少年は、見事松島と共に「湖愁」を歌いきった。この少年こそ、後の舟木一夫である<ref name="sponichi171005">[[スポーツニッポン]] 2017年10月5日 18面「我が道 舟木一夫」</ref>。 |
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偶然そこに取材に来ていた「[[週刊明星]]」の記者恒村嗣郎が目を付け、上田少年に氏名と住所を聞き、東京に帰ると、早速ホリプロの会長だった[[堀威夫]]に名古屋での出来事を話し、興味を持った堀は、電話で上田少年に歌のテープを送ることを依頼。そのテープを聴いた堀は、翌年5月上田少年を上京させ、[[日本コロムビア]]のディレクターだった斎藤昇に紹介。斎藤は作曲家[[遠藤実]]にレッスンを受けさせることにし、上田少年は、[[愛知中学校・高等学校|愛知高等学校]]から転校した[[自由ヶ丘学園高等学校]]へ通いながら、遠藤実のレッスンを受けることとなった<ref name="sponichi171005"/>。 |
偶然そこに取材に来ていた「[[週刊明星]]」の記者恒村嗣郎が目を付け、上田少年に氏名と住所を聞き、東京に帰ると、早速ホリプロの会長だった[[堀威夫]]に名古屋での出来事を話し、興味を持った堀は、電話で上田少年に歌のテープを送ることを依頼。そのテープを聴いた堀は、翌年5月上田少年を上京させ、[[日本コロムビア]]のディレクターだった斎藤昇に紹介。斎藤は作曲家[[遠藤実]]にレッスンを受けさせることにし、上田少年は、[[愛知中学校・高等学校|愛知高等学校]]から転校した[[自由ヶ丘学園高等学校]]へ通いながら、遠藤実のレッスンを受けることとなった<ref name="sponichi171005"/>。 |
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2017年11月29日 (水) 00:08時点における版
舟木一夫 | |
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出生名 | 上田成幸 |
生誕 | 1944年12月12日(80歳) |
出身地 | 日本, 愛知県一宮市 |
学歴 | 自由ヶ丘学園高等学校 |
ジャンル | 演歌、歌謡曲 |
職業 | 歌手、タレント |
担当楽器 | 歌 |
活動期間 | 1961年 - |
レーベル | 日本コロムビア |
事務所 |
ホリプロダクション→ 第一共栄プロダクション→ 舟木音楽事務所→ アイエス |
公式サイト | 舟木一夫情報局 |
舟木 一夫(ふなき かずお、本名:上田 成幸、1944年12月12日 - )は、日本の歌手、タレント。橋幸夫、西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれている。学生服と八重歯がトレードマークで、デビュー当時は、学園ソングとよばれる、高校生活をテーマにした歌が多かった。血液型はO型。身長172cm。
概要
初期の所属事務所はホリプロダクション、現在のホリプロであった。
愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)出身。当初は舟木和夫という芸名になる予定だったが[注釈 1]、舟木が「和はひ弱な感じがあるので、一にして欲しい」と希望したために一夫になったという[1]。本人は、紙に書いたら字が縦に長くなって横倒しになりそうで頼りない感じがしたので、「和」を「一」にして“つっかえ棒”としてほしい、とお願いしたとも話している[2]。のびやかな美声で1960年代を中心にヒットを飛ばし、同じ時期にデビューした西郷輝彦、橋幸夫とともに「御三家」として人気を集める。青春ソングの定番「高校三年生」に代表されるように、学生時代を題材にした歌謡曲のほか、『銭形平次』のテーマソングのように、時代モノも数多く歌っている。また舞台などにも出演し、多彩な活動をしている。
略歴
デビューまで
1944年12月12日、愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)に生まれる。父親は石川県河北郡津幡町笠谷の旧家の出で、父方の祖父は「立山伊次郎」の四股名で雷部屋に所属した力士であった[3]。舟木が父から聞いたという話によると、本名の「成幸」という名前は楠木正成と真田幸村の二人の武将から一字ずつとって命名したとのことである[2]。音楽に興味を持ち始めたのは、1か月間肩叩きを続けたご褒美にと祖母からハーモニカをプレゼントしてもらったこと、ラジオで三橋美智也の歌を聴いたことがきっかけの一つ[4]。13歳年下の弟が出来た頃、家が貧しかったことから「誰かがこの家にお金を入れ続けないと。弟が物心つくまでに人並みの生活をさせてあげたい」として学校卒業後は自分の才能で短い間に稼げる世界に行きたいと思うようになり、そんな時に友人の家のテレビで歌手を見て、これだと思い歌手を目指すようになった[5]。中学2年生の時に父に頼み込み、中学の音楽の先生の紹介で指揮者の山田昌宏を紹介してもらい、名古屋市内の教室に通ってレッスンを受ける[6]。高校2年であった1962年2月、地元のCBCテレビの番組『歌のチャンピオン』に出場して松島アキラの『湖愁』を歌い、チャンピオンになる[6]。同年3月、名古屋市内のジャズ喫茶で行われた「松島アキラショー」で、ステージ上の松島アキラが『湖愁』を誰か一緒に歌わないかと客席に声を掛けた所、前列に居た高校生が勢いよく手を上げた。少年は隣に居た同級生に手首を掴まれての事であった。狐に摘まれた表情で舞台に上がった少年は、見事松島と共に「湖愁」を歌いきった。この少年こそ、後の舟木一夫である[7]。 偶然そこに取材に来ていた「週刊明星」の記者恒村嗣郎が目を付け、上田少年に氏名と住所を聞き、東京に帰ると、早速ホリプロの会長だった堀威夫に名古屋での出来事を話し、興味を持った堀は、電話で上田少年に歌のテープを送ることを依頼。そのテープを聴いた堀は、翌年5月上田少年を上京させ、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇に紹介。斎藤は作曲家遠藤実にレッスンを受けさせることにし、上田少年は、愛知高等学校から転校した自由ヶ丘学園高等学校へ通いながら、遠藤実のレッスンを受けることとなった[7]。
上田少年は芸名を舟木一夫とし、ホリプロに所属することになった。社長の堀は、当時デビュー2年目で全盛期を迎え、舞台で時々学生服を着て歌っていた橋幸夫の対抗馬として、当時現役高校生だった舟木を学生服デビューさせると決定した[8]。
デビュー
1963年6月5日、デビュー曲は恩師遠藤実作曲、日本コロムビア専属だった丘灯至夫作詞の「高校三年生」と決定した。4月で高校を卒業していた舟木だったが、「学生服で行け」という遠藤実の指示で、歌謡界異例の学生服デビューとなった。なお、「高校三年生」のレコードジャケットで舟木が着ているのは当時の母校の制服である[8]。
「高校三年生」は、発売1年で100万枚の大ヒットを飛ばし、舟木は第5回日本レコード大賞新人賞を、丘は作詞賞を受賞した。デビューから2ヵ月後、本人が主演した同名映画も大ヒットし、舟木は一躍スター歌手になった。それに続き、学園三部作と言われた「修学旅行」「学園広場」もヒットした。
1964年3月には初のワンマンショーを東京・浅草国際劇場で行う。当日には、地元・一宮市から東京駅まで国鉄がワンマンショー観覧客のための特別列車を運行させ、東京駅から浅草国際劇場まではパトカー先導の元で観光バス19台で移動するというほどまでになった[9]。
スター歌手に
1970年前後には、こうした青春ソング以外にも時代モノ、民謡調などの歌にも独特の持ち味で数々のヒットを飛ばした。テレビ時代劇『銭形平次』のテーマソング「銭形平次」も、番組のロングランもあって舟木の歌としてよく知られるところとなった。
また特に詩歌、文学をモチーフにした叙情歌謡と呼ばれるジャンルでは持ち前の歌唱を活かして第一人者的存在となり、「絶唱」「夕笛」「初恋」などがヒットし、1966年には「絶唱」で第8回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。このジャンルとしてはその集大成ともいうべきアルバム『その人は昔』がある。これは作家松山善三の長編抒情詩を正味1時間すべて舟木の歌唱で埋めるという、前代未聞の作品であり舟木の歌唱力が最大限に発揮されている。更にこの作品はLPとしては当時記録的な売上となり、後に舟木と内藤洋子の主演により映画化もされた。そしてこのLPおよび映画が劇画作家ながやす巧に大いなる影響を与え、その代表作『愛と誠』を生むきっかけとなった、という事実は、コミック界では有名なエピソードである。
低迷から復活へ
1969年までは名実共に高い人気を保持していたものの1970年に入ると、かねてより多数出演していた歌謡映画が廃れ、TVドラマへの需要が無くなり、それに追い討ちを掛けるが如く歌謡界の変化に伴い表立った仕事は激減し舞台と地方公演が主な活動の場となってゆく。それゆえに1970年、1971年、1972年に自殺を図るが未遂に終わったり、1973年には心身の不調のため翌年まで10ヶ月間静養することとなる。また、私生活でも可愛がっていた年の離れた弟が、死亡するという不幸にもあっている。
その後十数年に渡り不遇時代が続いたが、デビュー30周年プレ公演を機に、主に中高年女性のアイドルとして人気再燃、そのなかで「同じ青春を過ごした仲間にしか通用しない歌い手でいい」と述べている。1997年には念願でもあった新橋演舞場での初座長公演を行う[10]。そして1999年には中日ドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ!'99」を歌い(舟木自身も大のドラゴンズファンである)、25年ぶりにオリコン40位ランクインを記録。
2007年にはデビュー45周年を迎え記念コンサートを行う。そして「単なる流行歌でない。何も変える必要はない。これでいい」と述べている。
2016年、第1回あらえびす文化賞・特別賞を受賞[11]。
現在も、歌手としてテレビやコンサートで精力的に活躍しているほか、舞台俳優としても毎年座長公演をこなし、幅広い層から根強いファンを集めていることで知られている。
代表曲
- 高校三年生 (c/w 水色のひと) 作詞:丘灯至夫/作曲:遠藤実 昭和38年6月発売
- 修学旅行 (c/w 淋しい町) 作詞:丘灯至夫/作曲:遠藤実 昭和38年8月発売
- 学園広場 (c/w 只今授業中) 作詞:関沢新一/作曲:遠藤実 昭和38年10月発売
- 聖夜 昭和38年11月発売
- 仲間たち (c/w はるかなる山) 作詞:西沢爽/作曲:遠藤実 昭和38年11月発売
- 叱られたんだね (c/w 初恋の駅) 昭和39年1月発売
- あゝ青春の胸の血は (c/w 夕月の乙女) 作詞:西沢爽/作曲:遠藤実 昭和39年1月発売
- 君たちがいて僕がいた (c/w 青春はぼくらのもの) 作詞:丘灯至夫/作曲:遠藤実 昭和39年3月発売
- さあさ踊ろうよ 昭和39年3月発売
- 涙の敗戦投手 (c/w さらば古い制服よ) 作詞:丘灯至夫/作曲:戸塚三博 昭和39年3月発売
- 貝がらの歌 作詞:西村益子/作曲:遠藤実 昭和39年4月発売
- 東京新宿恋の街 昭和39年4月発売
- まだ見ぬ君を恋うる歌 (c/w ひとりになると) 昭和39年6月発売
- しあわせの星二つ (c/w 織姫音頭) 昭和39年6月発売
- 夢のハワイで盆踊り 昭和39年7月発売 共唱:二代目コロムビア・ローズ
- アロハ・オエ (c/w 少女) 昭和39年7月発売
- おみこし野郎 (c/w いなせじゃないか若旦那) 昭和39年8月発売
- 花咲く乙女たち (c/w 若き旅情) 作詞:西条八十/作曲:遠藤実 昭和39年9月発売
- 青春の大阪 昭和39年9月発売
- 右衛門七討入り (c/w 右衛門七節) 昭和39年11月発売
- 火消し若衆 (c/w 木挽哀歌) 昭和40年1月発売
- 北国の街 (c/w はやぶさの歌) 作詞:丘灯至夫/作曲:山路進一 昭和40年3月発売
- 成人のブルース (c/w あの娘をまもろう) 昭和40年3月発売
- 竹千代音頭 (c/w 竹千代の唄) 昭和40年3月発売
- 東京は恋する (c/w 虹のむこうに) 昭和40年4月発売
- あゝりんどうの花咲けど (c/w 待っている人) 作詞:西沢爽/作曲:遠藤実 昭和40年6月発売
- 渚のお嬢さん (c/w 月とヨットと遠い人) 昭和40年7月発売
- 浜の若い衆 (c/w 磯浜そだち) 昭和40年8月発売
- たそがれの人 (c/w 夜霧のラヴレター) 昭和40年8月発売
- あゝ鶴ケ城 (c/w お城かこんで輪になって) 昭和40年8月発売
- 高原のお嬢さん (c/w 夏の日の若い恋) 作詞:関沢新一/作曲:松尾健司 昭和40年10月発売
- 歩いて行こうよどこまでも (c/w すたこら音頭) 昭和40年11月発売
- 東京百年 (c/w やなぎ小唄) 昭和40年12月発売
- 山のかなたに (c/w ふるさとの乙女) 昭和41年1月発売
- 哀愁の夜 (c/w 銀座すずらん通り) 昭和41年2月発売
- 友を送る歌 (c/w おもいをこめて手をふろう) 昭和41年4月発売
- 今日かぎりのワルツ (c/w ひぐれ山唄) 昭和41年5月発売
- 敦盛哀歌 (c/w 銭形平次) 作詞:関沢新一/作曲:安藤実親 昭和41年5月発売
- 踊ろうぼくと (c/w ひとりぼっちの女の子) 昭和41年6月発売
- 太陽にヤア! (c/w 真珠っ子) 昭和41年6月発売
- 絶唱 (c/w 雨の中に消えて) 作詞:西条八十/作曲:市川昭介 昭和41年8月発売
- ジングル・ベル (c/w おやすみ恋人よ) 昭和41年11月発売
- ブルー・トランペット (c/w 話してごらんこの僕に) 昭和41年12月発売
- 一心太助江戸っ子祭り (c/w 淋しかないさ) 昭和42年1月発売
- 星の広場へ集まれ! (c/w 北国の旅情) 昭和42年3月発売
- 夏子の季節 (c/w あいつと私) 作詞:丘灯至夫/作曲:船村徹 昭和42年5月発売
- 心こめて愛する人へ (c/w じっとしてると恋しい) 昭和42年7月発売
- 夕笛 (c/w さんざしの花咲けば) 作詞:西条八十/作曲:船村徹 昭和42年8月発売
- センチメンタル・ボーイ (c/w 愛につつまれて) 昭和42年11月発売
- くちなしのバラード (c/w 北風のビギン) 昭和43年1月発売
- 残雪 (c/w 幸せよ急げ) 昭和43年3月発売
- 知りたくないの (c/w 恋心) 昭和43年4月発売
- 夜霧の果てに (c/w 夢の中の恋人) 昭和43年5月発売
- オレは坊ちゃん (c/w 喧嘩鳶(野狐三次)) 昭和43年6月発売
- 荒城の月 (c/w 赤とんぼ) 昭和43年9月発売
- 銀色の恋 (c/w ふたりだけの街角) 昭和43年9月発売
- 青春の鐘 (c/w 幸せを抱こう) 昭和44年1月発売
- 永訣の詩 (c/w 京の恋唄) 昭和44年2月発売
- 追憶のブルース (c/w 素敵なあなた) 昭和44年5月発売
- ああ桜田門 (c/w 恋のお江戸の歌げんか) 昭和44年7月発売
- 夕映えのふたり (c/w 高原のひと) 昭和44年8月発売
- 北国にひとり (c/w いつか来るさよなら) 昭和44年12月発売
- 心配だから来てみたけど (c/w 再会) 昭和45年4月発売
- 青年の唄 (c/w うわさのあいつ) 昭和45年7月発売
- 紫のひと (c/w 東京みれん雨) 昭和45年9月発売
- 霧の街 (c/w 二人の夜) 昭和45年12月発売
- あゝ名古屋城 昭和46年4月発売
- 日曜日には赤いバラ (c/w 三本のローソク) 昭和46年5月発売
- 春の坂道 (c/w 里の花ふぶき) 昭和46年8月発売
- 初恋 (c/w あなたの故郷) 作詞:島崎藤村[12]/作曲:若松甲 昭和46年9月発売
- 遥かなる草原 (c/w さりげない別れ) 昭和47年1月発売
- よみがえる夜明け (c/w 麦笛) 昭和47年3月発売
- 帰郷 (c/w どこかへあなたと) 昭和47年3月発売
- 流浪 (c/w 青春) 昭和47年10月発売
- 都井岬旅情 (c/w 白鳥) 昭和48年1月発売
- 少年いろの空 (c/w 明日に向って走れ!) 昭和48年4月発売
- 親不孝通り (c/w 俺が死ぬ日) 昭和48年7月発売
- サンチャゴの鐘 (c/w 夏子) 昭和48年9月発売
- 旅路 (c/w 寝顔) 昭和49年9月発売
- 愛の新雪 (c/w 別れの瞳) 昭和50年1月発売
- 日本晴ればれ音頭 昭和50年4月発売
- 津和野川 (c/w むかえ火) 昭和50年4月発売
- 許されるなら (c/w 哀しみの歌) 昭和50年12月発売
- 別れの部屋 (c/w 噂めぐり) 昭和51年4月発売
- レマンのほとり (c/w 日曜の恋人) 昭和51年8月発売
- 一葉舟 (c/w 恋唄) 昭和52年1月発売
- 快傑!児雷也 (c/w さくら仁義) 昭和52年6月発売
- 愛はまぼろし (c/w 君の手で花束を) 昭和52年8月発売
- 春哀し (c/w 愛を探しに) 昭和52年11月発売
- 立ち話 (c/w この胸に帰れ) 昭和53年6月発売
- ららばい (c/w はぐれカモメ) 昭和54年3月発売
- グッド・バイ・ソング(c/w 明日は明日で)作詞・作曲:上田成幸 昭和55年1月発売(昭和56年3月のピンク・レディー解散コンサート時ラストナンバーとして歌われ[13]、ライブアルバム『さよならピンク・レディー』にピンク・レディー版〈題は『グッドバイ・ソング』〉が収録された)
- どうしているかい (c/w 秋着駅) 昭和55年10月発売
- 日本海の見える町 (c/w さんざしの花) 昭和56年5月発売
- 愛だなんて言うまえに (c/w End・Love) 昭和57年6月発売
- つばさ (c/w 青春ばなし) 昭和58年4月発売
- 落日のあとで (c/w 風のワルツ) 平成2年9月発売
- 友よ (c/w いつか愛したおまえ) 平成3年11月発売
- 人生半分 (c/w これから) 平成4年6月発売
- 泣かないで (c/w 北の道しるべ) 平成5年5月発売
- ありがとうあなた (c/w めぐり逢う日を…) 平成6年1月発売
- 風、好きに吹け〜迷夢本望〜 (c/w 最後の恋) 平成7年9月発売
- ラブレター (c/w ラモーナ) 平成8年6月発売
- 想春 (c/w いつでも青春) 平成8年12月発売
- 君へ心こめて (c/w 29小節の挽歌) 平成9年8月発売
- 君よ振りむくな (c/w 明日は明日で) 平成11年1月発売
- 燃えよドラゴンズ!'99 (c/w 燃えよドラゴンズ!'99韓国三銃士) 平成11年7月発売
- 想い出カフェ・オ・レ (c/w どうせOnTheRock) 平成12年1月発売
- 小さな手紙 平成12年8月発売
- 蜃気楼 (c/w さよならの朝に) 平成12年10月発売
- 浮世まかせ (c/w ありがとうも さよならも) 平成14年5月発売
- 恋唄 (c/w たそがれの人) 平成16年7月発売
- 船頭小唄(c/w 燦めく星座)平成18年7月発売
- 明日咲くつぼみに(c/w 浮世まかせ)平成24年1月発売
- 眠らない青春(c/w 恋人形)平成26年6月発売
- 春はまた君を彩る(c/w そばにいるから)平成27年5月発売
出演
テレビ
- NHK大河ドラマ (NHK)
- 〜石坂洋次郎 青春シリーズ〜
- 東芝日曜劇場 第597回「川止め」(1968年、TBS)
- 泥棒育ちドロボーイ(1968年、NTV) - 骨董品屋のひとり息子 純一
- 恋愛術入門(1971年、TBS)
- 柳生一族の陰謀 第30話『生きていた影武者』(1979年、KTV/東映) - 木下延由
- 12時間超ワイドドラマ 「赤穂浪士」(1999年、テレビ東京/東映) - 清水一学
- 連続テレビ小説「オードリー」(2000年 - 2001年、NHK) - 栗部 金太郎
- 水戸黄門(TBS/C.A.L.)
- 銭形平次(CX / 東映)
- 第3話「謎の夫婦雛」(1966年) - 秋月新太郎
- 第192話「春の風来坊」(1970年) - 半次郎
- 第233話「恋文悲願」(1970年) - 倉田仙三郎
- 第271話「虚無僧絵図」(1971年) - 小弥太
- 第323話「その名は呼べない」(1972年) - 美代吉
- 第394話「上州無宿鉄次郎」(1973年) - 鉄次郎
- 第888話 最終話「ああ十手ひとすじ!!八百八十八番大手柄」(1984年) - 立花左馬之介
- オールナイトフジ(司会者として出演)(フジテレビ)(1969年 - 1975年、ただしレギュラー放送は1971年まで。それ以降は毎年大晦日のみの放送となる。)
- 愛する二人別れる二人(フジテレビ)
- ドロボーイ(日本テレビ)
- 主題歌「恋だけが」は、和製ソフトロックの隠れた傑作として知られている。CD『まちどおしい夏休み〜ドライブ編』に収録。
- 低迷期に、メイン司会者として出演したローカル午後ワイド。外からの中継もこなした。
映画
- 作品一覧
- 「高校三年生」(大映、1963年9月)
- 「学園広場」(日活、1963年11月)
- 「仲間たち」(日活、1964年2月)
- 「君たちがいて僕がいた」(東映、1964年5月)
- 「あゝ青春の胸の血は」(日活、1964年7月)
- 「夢のハワイで盆踊り」(東映、1964年8月)
- 「続・高校三年生」(大映、1964年9月)
- 「花咲く乙女たち」(日活、1965年1月)
- 「北国の街」(日活、1965年3月)
- 「東京は恋する」(日活、1965年9月)
- 「高原のお嬢さん」(日活、1965年11月)
- 「哀愁の夜」(日活、1966年4月)
- 「友を送る歌」(日活、1966年6月)
- 「絶唱」(日活、1966年8月)
- 「太陽に突っ走れ」 (東映、1966年9月) - 本人
- 「北国の旅情」(日活、1967年1月)
- 「一心太助・江戸っ子祭り」(東映、1967年4月)
- 「夕笛」(日活、1967年)
- 「銭形平次」(東映)
- 「その人は昔」(東宝、1967年)
- 「花の恋人たち」(日活、1968年1月)
- 「残雪」(日活、1968年)
- 「青春の鐘」(日活、1969年1月)
- 「センチメンタルボーイ」(東宝、1967年12月)
- 「永訣」(松竹)
- 「いつか来るさようなら」(松竹)
- 「青春II」(ATG)
NHK紅白歌合戦出場歴
- 1963年 第14回「高校三年生」
- 1964年 第15回「右衛門七討ち入り」
- 1965年 第16回「高原のお嬢さん」
- 1966年 第17回「絶唱」
- 1967年 第18回「夕笛」
- 1968年 第19回「喧嘩鳶」
- 1969年 第20回「夕映えのふたり」
- 1970年 第21回「紫のひと」
- 1971年 第22回「初恋」
- 1992年 第43回「高校三年生」
書籍(エッセイ)
- 酔ってSinger(1983年/青山書房)
- 怪傑!!高校三年生(1992年/近代映画社)
- 風来坊(1999年/マガジンハウス)
写真集
- 舟木一夫〜風まかせ〜(1999年/東京新聞出版局)
- 芸能生活40周年記念 写真集舟木一夫(2002年/マガジンハウス)
- 密着写真集「瞬」(2009年/マガジンランド)
- 密着写真集「華」(2010年/マガジンランド)
- 密着写真集「愁」(2011年/マガジンランド)
- 密着写真集「透」(2012年/マガジンランド)
後援会の不祥事
2009年5月12日、舟木一夫のファンクラブを経営している会社「舟木一夫友音事務所」が、ファンからの支援金など約1億6000万円を隠し、3年間で約5000万円を脱税したとして、同社と藤谷和子社長が法人税法違反罪で告発されていたことが発覚。同社は「カンパは預かり金で、売り上げではない」と主張したが、修正申告を行った。藤谷社長は、支援金は「将来、コンサート会場に空席が目立つようになってしまったら舟木さんが悲しむ。そのときの動員に使ってほしい」などと会員から寄せられたものであると説明した[14]。
その他の特記事項
- 舞台「快傑!!児雷也」
- 舟木はこの舞台で主題歌となる「快傑!!児雷也」を歌っている。舟木は以前より特撮ヒーロー物が好きで、特撮ヒーロー物の主題歌を歌いたいという意向があったのだが、スタッフにより却下されていた。後にこの舞台を踏むにあたって、音楽を担当していた渡辺宙明(「人造人間キカイダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」などで知られる)に、舟木が「ぜひ特撮ヒーロー物っぽい曲を作って欲しい」と頼み込んでこの曲が生まれ、かねてよりの夢が実現した[15]。
- 趣味
- ファミコンなどのレトロゲーム愛好家である。特にドラゴンクエストシリーズを好む。
- 足の指の絆創膏
- 2012年頃から舞台で歌う際には、必ず両足の親指と小指に絆創膏を貼っている。これは元々歌う時に両足の内側に力が入る癖があるため、65歳頃から足の指にタコが出来て割れるようになり始めたため、これを防ぐためのものである[16]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b BIG3(後編) 舟木一夫 オン・ザ・ロード2014 チャンネルNECO
- ^ a b c スポーツニッポン 2017年10月11日 22面「我が道 舟木一夫」
- ^ 『女学生の友』 1966年8月号(小学館)188-193ページ
- ^ スポーツニッポン 2017年10月2日 22面「我が道 舟木一夫」
- ^ スポーツニッポン 2017年10月3日 18面「我が道 舟木一夫」
- ^ a b スポーツニッポン 2017年10月4日 20面「我が道 舟木一夫」
- ^ a b スポーツニッポン 2017年10月5日 18面「我が道 舟木一夫」
- ^ a b 『怪傑!!高校三年生』(近代映画社)32-43ページ
- ^ スポーツニッポン 2017年10月14日 26面「我が道 舟木一夫」
- ^ スポーツニッポン 2017年10月29日 28面「我が道 舟木一夫」
- ^ “舟木一夫に「あらえびす文化賞」 「銭形平次」主題歌を評価”. スポーツ報知. (2016年4月24日) 2016年4月25日閲覧。
- ^ 島崎藤村の詩集「若菜集」より。『まだあげそめし前髪の』で知られている。
- ^ 『舟木一夫の青春賛歌』(2012年 産経新聞出版 ISBN 978-4-8191-1157-7)P185・186
- ^ 「舟木一夫後援会が脱税 カンパ金など約1億6000万円所得隠し[リンク切れ]」2009年5月12日。
- ^ 唐沢俊一の渡辺宙明へのインタビュー。
- ^ スポーツニッポン 2017年10月28日 26面「我が道 舟木一夫」
関連項目
外部リンク
- 舟木一夫情報局 (所属事務所による公式ページ)