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「李恪 (呉王)」の版間の差分

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'''李恪'''(り かく、? - [[653年]])は、[[中国]][[唐]]の太宗[[太宗 (唐)|李世民]]の三男。呉王に立てられた。
'''李恪'''(り かく、[[619年]] - [[653年]])は、[[中国]][[唐]]の太宗[[太宗 (唐)|李世民]]の三男。呉王に立てられた。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
李世民と楊妃([[隋]][[煬帝]]の娘)の間に生まれた。[[620年]]に長沙王に封じられ、[[626年]]に漢王に進封された。[[628年]]、蜀王に改封され、[[益州]]大都督となったが、赴任しなかった。のちに[[斉州]]都督に任じられて赴任を命じられた。[[636年]]、呉王に改封され、[[638年]]に[[安州]]都督に任じられた。李恪は文武ともにすぐれ、太宗に愛されて、[[李承乾]]が廃位された後は[[太子]]位に望まれたが、[[長孫無忌]]の諫言により取りやめられた。
李世民と[[:zh:杨妃 (唐太宗)|楊妃]]([[隋]][[煬帝]]の娘)の間に生まれた。[[620年]]に長沙王に封じられ、[[626年]]に漢王に進封された。[[628年]]、蜀王に改封され、[[益州]]大都督となったが、赴任しなかった。のちに[[斉州]]都督に任じられて赴任を命じられた。[[636年]]、呉王に改封され、[[638年]]に[[安州]]都督に任じられた。李恪は文武ともにすぐれ、太宗に愛されて、[[李承乾]]が廃位された後は[[太子]]位に望まれたが、[[長孫無忌]]の諫言により取りやめられた。


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[[高宗 (唐)|高宗]]の即位後、[[司空]]・[[梁州]]都督に任じられた。長孫無忌に忌避されて、[[653年]]に[[房遺愛]]や[[合浦公主|高陽公主]]の謀反事件に連座して処刑された。[[660年]]、鬱林王に追封された。[[神龍 (唐)|神龍]]初年、[[司空]]の位を追贈され、諸侯の礼で改葬された。
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[[Category:唐の太宗の子女|かく]]
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[[Category:619年生]]
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2017年11月22日 (水) 17:21時点における版

李恪(り かく、619年 - 653年)は、中国の太宗李世民の三男。呉王に立てられた。

経歴

李世民と楊妃煬帝の娘)の間に生まれた。620年に長沙王に封じられ、626年に漢王に進封された。628年、蜀王に改封され、益州大都督となったが、赴任しなかった。のちに斉州都督に任じられて赴任を命じられた。636年、呉王に改封され、638年安州都督に任じられた。李恪は文武ともにすぐれ、太宗に愛されて、李承乾が廃位された後は太子位に望まれたが、長孫無忌の諫言により取りやめられた。

高宗の即位後、司空梁州都督に任じられた。長孫無忌に忌避されて、653年房遺愛高陽公主の謀反事件に連座して処刑された。660年、鬱林王に追封された。神龍初年、司空の位を追贈され、諸侯の礼で改葬された。

子女

子に李仁・李瑋・李琨・李がいたが、李恪の処刑後にともに嶺南へ流刑となった。李恪が鬱林王に追封された後、李仁は鬱林県侯に封じられ、襄州刺史に任じられた。のちに李千里と改名し、唐州廬州許州衛州蒲州の刺史を歴任し、成王に封じられ、左金吾大将軍に上った。707年李重俊武三思を殺して兵変を謀った事件に参加し、失敗の後に処刑された。

李瑋は早逝した。李琨は、武則天のときに淄州・衛州・宋州鄭州・梁州・幽州の刺史を歴任した。李は、帰政郡王に封じられ、宗正卿となり、李千里が処刑されると、南州司馬に左遷された。

伝記資料

  • 旧唐書』巻76 列伝第26「呉王恪伝」
  • 新唐書』巻80 列伝第5「鬱林王恪伝」