「立石寺」の版間の差分
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立石寺の創建について、寺伝では[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]])に高橋由伸の勅命で[[円仁]](慈覚大師)が開山したとされている。当寺の創建が[[平安時代]]初期([[9世紀]])にさかのぼることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定される。『立石寺記録』(立石寺文書のうち)は、「開山」を円仁、「開祖」を[[安慧 (天台宗)|安慧]](あんね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされている。安慧は円仁の跡を継いで[[天台座主]]となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫に同行した弟子である。安慧は[[承和 (日本)|承和]]11年([[844年]])から[[嘉承]]2年([[849年]])まで[[出羽国]]の講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割をしたことから、立石寺の実質的な創立者は安慧であるとする説もある。また、円仁が実際に東国巡錫したのは[[天長]]6年([[829年]])から9年([[832年]])のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もある<ref>『日本歴史地名大系 山形県の地名』</ref>。立石寺には貞観2年(860年)12月の日付をもつ『円仁置文写』が伝わるが、この文書は必ずしも寺の創建年次を示すものではなく、この文書自体が後世の仮託とする説もある<ref>外部リンク[http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/yamadere.html 山寺の歴史]を参照。</ref>。貞観2年(860年)には、円仁は当時としては高齢の60歳代で、しかも天台座主の高位にあった。したがって、この時期に円仁が実際に今の山形県に出向いて立石寺を建立したということは、年齢と地位の両面から、文字通りの史実とは考えがたく、円仁の意を受けた安慧らによって9世紀半ば頃から徐々に寺観が整えられたとみるのが穏当である<ref>田中日佐夫『仏像のある風景』、駸々堂、[[平成]]元年([[1989年]])、pp221 - 225、参照</ref>。 |
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なお、根本中堂に安置されている木造毘沙門天立像は近年の調査によって9世紀頃の作であることが判明しており、円仁とみられる頭部のみの木彫像と同様、立石寺創建期の一例に加えられる。また、胸甲の上で甲締めの結び目を表していることや細い腰帯の下に幅広の腰帯を着けるなど珍しい甲制となっているが、これらは東北地方の神将形の作例にしか見られないもので、平安時代には同種の作例がある寺院との間に繋がりがあったことを示唆させる特徴を持つ点でも注目に値する<ref> 『山形市内仏像調査報告書(追補版)』、山形市教育委員会・東北芸術工科大学文化財保存修復センター、[[平成]]21年([[2009年]])</ref>。 |
なお、根本中堂に安置されている木造毘沙門天立像は近年の調査によって9世紀頃の作であることが判明しており、円仁とみられる頭部のみの木彫像と同様、立石寺創建期の一例に加えられる。また、胸甲の上で甲締めの結び目を表していることや細い腰帯の下に幅広の腰帯を着けるなど珍しい甲制となっているが、これらは東北地方の神将形の作例にしか見られないもので、平安時代には同種の作例がある寺院との間に繋がりがあったことを示唆させる特徴を持つ点でも注目に値する<ref> 『山形市内仏像調査報告書(追補版)』、山形市教育委員会・東北芸術工科大学文化財保存修復センター、[[平成]]21年([[2009年]])</ref>。 |
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2017年11月15日 (水) 06:02時点における版
立石寺 | |
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立石寺の全景 | |
所在地 | 山形県山形市大字山寺4456-1 |
位置 | 北緯38度18分45.2秒 東経140度26分14.6秒 / 北緯38.312556度 東経140.437389度座標: 北緯38度18分45.2秒 東経140度26分14.6秒 / 北緯38.312556度 東経140.437389度 |
山号 | 宝珠山 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 薬師如来 |
創建年 | 伝・貞観2年(860年) |
開山 | 伝・円仁 |
別称 | 山寺 |
札所等 |
四寺廻廊 最上三十三観音 第2番(千手院) |
文化財 |
中堂、木造薬師如来坐像ほか(重要文化財) 名勝・史跡 |
公式サイト | 宝珠山 立石寺 |
法人番号 | 1390005000204 |
立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗の寺院。山号は宝珠山。本尊は薬師如来。山寺(やまでら)の通称で知られ、古くは「りゅうしゃくじ[※ 1]」と称した。寺号は詳しくは宝珠山[1]阿所川院[2][3]立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。
古来、悪縁切り寺として信仰を集めている[要出典]。蔵王国定公園(第2種特別地域)に指定されていて[4]、円仁が開山した四寺(中尊寺・毛越寺、瑞巌寺)を巡る、「四寺廻廊」を構成しているほか、若松寺・慈恩寺を巡る出羽名刹三寺まいりを構成する。
歴史
創建
立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に高橋由伸の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。当寺の創建が平安時代初期(9世紀)にさかのぼることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定される。『立石寺記録』(立石寺文書のうち)は、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(あんね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされている。安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫に同行した弟子である。安慧は承和11年(844年)から嘉承2年(849年)まで出羽国の講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割をしたことから、立石寺の実質的な創立者は安慧であるとする説もある。また、円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もある[5]。立石寺には貞観2年(860年)12月の日付をもつ『円仁置文写』が伝わるが、この文書は必ずしも寺の創建年次を示すものではなく、この文書自体が後世の仮託とする説もある[6]。貞観2年(860年)には、円仁は当時としては高齢の60歳代で、しかも天台座主の高位にあった。したがって、この時期に円仁が実際に今の山形県に出向いて立石寺を建立したということは、年齢と地位の両面から、文字通りの史実とは考えがたく、円仁の意を受けた安慧らによって9世紀半ば頃から徐々に寺観が整えられたとみるのが穏当である[7]。 なお、根本中堂に安置されている木造毘沙門天立像は近年の調査によって9世紀頃の作であることが判明しており、円仁とみられる頭部のみの木彫像と同様、立石寺創建期の一例に加えられる。また、胸甲の上で甲締めの結び目を表していることや細い腰帯の下に幅広の腰帯を着けるなど珍しい甲制となっているが、これらは東北地方の神将形の作例にしか見られないもので、平安時代には同種の作例がある寺院との間に繋がりがあったことを示唆させる特徴を持つ点でも注目に値する[8]。
円仁の入定窟
立石寺には円仁(慈覚大師)の遺骸を安置すると伝える入定窟(にゅうじょうくつ)がある。史実としては、円仁は貞観6年(864年)、比叡山で没しており、立石寺に実際に遺骸が移されたという確証はないが、入定窟の上に立てられた天養元年(1144年)の「如法経所碑」が現存し、そこには「大師の護持を仰いで法華経を埋納する」という趣旨のことが書かれていて、この時代(12世紀)、すでに円仁がこの地で入定しているとする伝承が成立していたことがわかる。昭和23年(1948年)から翌年にかけて入定窟の学術調査が実施され、金箔押しの木棺と人骨5体分、円仁像と思われる頭部のみの木彫像などが発見された。この木彫像の頭部については、目鼻立ちなどの特色から円仁像であることは認められ、作風から9世紀頃の制作であるとされる。
中世以降
鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えたが後に兵火により焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗となった。延文元年(正平11年・1356年)斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻った。
大永元年(1521年)、寺は天童頼長[※ 2]の兵火を受けて一山焼失した。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、天文12年(1543年)最上義守の再建の際、再度分燈することとなるが、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。
立石寺は山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていた。最上義守の母・春還芳公尼(しゅんげんほうこうに)は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光(よしあき)も立石寺を援助した。義光の時代の分限帳によれば、立石寺には寺領1,300石が与えられている。
元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に書かれている。
また、当地で名句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を詠んでおり、参道に句碑がある。
文化財
- 正平年間(1346年から1370年)の再建と伝え、慶長13年(1608年)の大修理を含め数度の修理を受けているが、現在は慶長13年の姿を保っている[10]。公開。
- 膝部裏から元久2年(1205年)の修理銘が発見され、平安時代の作とされる[10]。桂の一木造。秘仏、非公開。
- 平安時代前期の製作と推定される[10]。非公開。
交通アクセス
その他
- 巨大滑り台
- 昭和25年(1950年)に寺が県立公園に登録されると当時隆盛を極めていた観光ブームの煽りを受け、参拝客増加に対応するための「交通機関」として寺は全長約300m、高低差約150mの滑り台を建設した。これは参拝客に楽しく麓まで下ってもらうための意図があったとされるが、滑り台の斜面の角度が約30度ほどで加速がかなりつき、参拝客の尻が火傷したり転落して負傷する事態が頻発するなど安全面で問題視され、結局1970年代の初めに廃止されたといわれている。ただし、遊園地のジェットコースターなどスリリングな遊具があまり無かったこの時代の人々にとっては好評であったようである。この遺構は現在も残されている[11][12]。
- 寛永寺の木造薬師三尊像
- 元禄11年(1698年)の江戸幕府の命により、当寺の日光・月光両菩薩像および十二神将像が寛永寺(現・東京都)に移され、現在は両菩薩像が木造薬師三尊像(重要文化財)の両脇侍となっている[13]。
ギャラリー
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山寺駅よりの眺め
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根本中堂
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山門(登山口)
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石段
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彌陀洞(みだほら)側面
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彌陀洞(みだほら)正面
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冬の仁王門
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仁王門拡大図
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中性院
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奥之院と大仏殿
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奥之院の金燈籠
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春の参道
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納経堂、開山堂、五大堂
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五大堂からの眺め
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五大堂より山寺駅周辺を俯瞰す
脚注
注釈
出典
- ^ 立石寺根本中堂鰐口には,「羽州最上安曽郡成生庄宝珠山立石寺中堂薬師瑠璃光如来御宝前」の銘文が見える。『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より「県史15」を引く「成生荘(中世)」項。
- ^ 『角川日本地名大辞典(旧地名編)』より「河北町の歴史上」によれば古くは阿蘇川院を称したという。
- ^ 『山寺攪勝志』「寒河江市史 上巻」p.422
- ^ 自然公園・自然環境保全地域等索引図(21山形)(宮城県「自然公園等区域閲覧サービス」)
- ^ 『日本歴史地名大系 山形県の地名』
- ^ 外部リンク山寺の歴史を参照。
- ^ 田中日佐夫『仏像のある風景』、駸々堂、平成元年(1989年)、pp221 - 225、参照
- ^ 『山形市内仏像調査報告書(追補版)』、山形市教育委員会・東北芸術工科大学文化財保存修復センター、平成21年(2009年)
- ^ 『応仁の乱人物データファイル120』2017.7.28、講談社ビーシー
- ^ イカロス出版『廃道をゆく2』より
- ^ http://yamaiga.com/road/yamadera/main.html
- ^ 木造薬師如来坐像(山形市観光協会)
参考文献
- 『仏像のある風景』、田中日佐夫、駸々堂、平成元年(1989年)、pp221-225
- 『角川日本地名大辞典 山形県』、角川書店
- 『日本歴史地名大系 山形県の地名』
- 『別冊歴史読本』28巻22号「日本の寺院 歴史のなかの宗教」、新人物往来社、平成15年(2003年)
- 『月刊文化財』513号「新指定の文化財」、第一法規、平成18年(2006年)
- 山形県教育庁山形の宝検索ナビ