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「三波石峡」の版間の差分

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{{Infobox valley
[[File:夏の三波石峡 - panoramio.jpg|thumb|夏の三波石峡]]
| name = 三波石峡
[[File:初冬の三波石峡 - panoramio.jpg|thumb|冬の三波石峡]]
| photo = 夏の三波石峡 - panoramio.jpg
'''三波石峡'''(さんばせききょう)<ref>[[文化庁]]国指定文化財等データベース [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp]では「さんばせっきょう」(2011年6月29日閲覧)</ref>は、[[神流川 (利根川水系)|神流川]]上流に位置し、[[群馬県]]から[[埼玉県]]に跨る景勝地である。行政上では埼玉県[[児玉郡]][[神川町]]、群馬県[[藤岡市]]に属する。
| photo_caption = 夏の三波石峡
| map = Japan#Japan Kanto
| length = 1.5 - 2.0km
| width = 25 - 50m
| depth =
| type =
| age =
| boundaries =[[埼玉県]]・[[群馬県]]
| topo =
| traversed =
| watercourses = [[神流川 (利根川水系)|神流川]]([[利根川]]水系)
}}
[[ファイル:三波石峡の位置図.jpg|thumb|right|神流川に位置する三波石峡と支流の三波川]]
[[File:初冬の三波石峡 - panoramio.jpg|thumb|right|冬の三波石峡]]


'''三波石峡'''(さんばせききょう<ref name="角川地名_三波石峡"/><ref name="平凡地名_三波石峡"/>、さんばせっきょう<ref name="文化OL"/>)は、[[神流川 (利根川水系)|神流川]]上流に位置し、[[群馬県]]と[[埼玉県]]に跨る景勝地である。国の[[史蹟名勝天然紀念物保存法|史蹟名勝天然記念物]]([[名勝]]・[[天然記念物]])に指定されている<ref name="文化OL"/><ref name="平凡地名_三波石峡"/>。
== 概要 ==
[[江戸時代]]から景勝地として知られ、旅人相手の案内を生業にしていた村人もいたといわれる。また、緑色の[[結晶片岩]]は[[石英]]が[[緑色]]の紋様を示し、非常に高価な[[庭石]]としても重宝されていた([[三波石]])。


==地理==
一帯は[[断崖|断崖絶壁]]が連続し、その間に結晶片岩の奇岩、巨岩が露出する。また、[[地質学|地質学上]]でも非常に貴重な場所であり、[[小藤文次郎]]がこの[[三波川]]一帯で発見した結晶片岩を三波川結晶片岩と命名、これは後に[[三波川変成帯]]の名の元になっている。このようなことから、非常に貴重な自然と地質学上の貴重さから、[[1957年]]([[昭和]]32年)には国指定の[[名勝]]、そして[[天然記念物]]の指定を受けている。
[[水系]]としては、[[一級河川]][[利根川]]に属する。利根川の支流[[烏川 (利根川水系)|烏川]]、その支流の[[神流川 (利根川水系)|神流川]]の上流部にあたる。この峡谷には昭和43年(1968年)に[[下久保ダム]]が建設されており、いまの三波石峡は、ダムからおよそ下流のおよそ1.5<ref name="角川地名_三波石峡"/><ref name="平凡地名_鬼石町"/>ないし2.0キロメートル<ref name="生いたち_三波石峡"/><ref name="新百科_三波石峡"/>ほどの区間を指す{{refnest|group="注"|『[[日本大百科全書]]』では譲原地区から上流側4キロメートルとし、下久保ダムとダム湖(神流湖)を含めている<ref name="ニッポニカ-三波石峡"/>。一方、地元の観光協会は「下久保ダムから[[埼玉県道・群馬県道331号吉田太田部譲原線|登仙橋]]までの約1.3キロメートル区間」としている<ref name="観光協会"/>。}}。


行政上は、神流川のこの区間は[[埼玉県]]と[[群馬県]]の県境になっている。右岸(南)の埼玉県側は[[児玉郡]][[神川町]]{{refnest|group="注"|[[神川町]]は2006年に合併しており、それ以前の当地は[[神泉村]]に属していた。}}、左岸(北)の群馬県側は[[藤岡市]]{{refnest|group="注"|[[藤岡市]]は2006年に合併しており、それ以前の当地は[[鬼石町]]大字譲原小字栢ヶ舞(かやかぶ)に属していた<ref name="平凡地名_三波石峡"/>。}}の管轄である。
しかし、その後神流川上流の[[下久保ダム]](神流湖)で川の水は堰き止められ、峡谷を流れる川の水が涸渇してしまった。風光明媚な景勝地は石には苔が生えて黒ずみ、川底にはアシなど雑草が繁茂し荒れ放題になるなど、見るも無惨な姿と変わってしまう。そのため、下久保ダムから[[配管]]工事を施し、川の水が河川に流れ出るようにした。大がかりな工事は[[2001年]]([[平成]]13年)に完成、河川には[[清流]]が戻り、風流な景勝地は過去の姿に戻りつつある。


==地形==
その脇には、新緑や紅葉の頃、渓谷沿いの道路は絶好のハイキングコースとなる。
一帯は[[関東山地]]の中ほどの東部に相当し、[[雨降山 (藤岡市)|雨降山]](1013メートル)など1000m級の山地から丘陵地へ遷移してゆく途中にあたる<ref name="平凡地名_鬼石町"/>。このあたりを[[多野山地]]ともいう<ref name="生いたち_多野山地"/>。


三波石峡の両岸直上は神山(732メートル)などの標高700メートルほどの頂から峡谷までの急峻な斜面である。神流川の川幅は50メートルから25メートルほどに狭まっていて、両岸は落差10メートルほどの断崖になっている。峡谷の下流側の出口からは平野部が広がっている<ref name="角川地名_三波石峡"/>。
== 脚注・出典 ==

{{Reflist}}
特に左岸(北側)の崖上には、特徴的な地すべり地形がいくつも並んでいて、そこにできた平坦地に下久保、栢ヶ舞、今里といった集落地が形成されている。譲原地すべり資料館もここに設けられている<ref name="生いたち_三波石峡"/>。

==地質==
===三波川変成岩と三波川帯===
三波石峡とその北を流れる[[三波川]]は、'''[[三波川変成帯]]'''(三波川帯)と呼ばれる日本最大の[[広域変成作用|広域変成帯]]の模式地となっている<ref name="角川地名_三波石峡"/><ref name="生いたち_三波石峡"/><ref name="生いたち_御荷鉾山"/>。この変成岩帯でみられる[[変成岩]]を'''三波川変成岩'''といい、日本列島の代表的な変成岩の一つである<ref name="ブリタニカ-三波川変成岩"/>{{refnest|group="注"|古典的には[[長瀞渓谷]]を模式地として「長瀞変成岩」と呼んだが、現在はこの呼称はほとんど使用されず、もっぱら「三波川変成岩」とよぶ。}}。

三波川変成帯は[[中央構造線]]に沿うように、南北の幅およそ5キロメートルから30キロメートル、東西の長さおよそ800キロメートルの長さで帯状に連なっており、三波石峡や三波川、[[長瀞渓谷]]などの[[関東山地]]から、[[長野県]]南部、[[紀伊半島]]、[[四国]]を経て[[九州]]([[佐賀関半島]])にまで至る<ref name="生いたち_三波石峡"/><ref name="生いたち_御荷鉾山"/><ref name="ニッポニカ-三波川帯"/>{{refnest|group="注"|長さについては文献ごとに差異があり、700キロメートル<ref name="新百科_三波川帯"/>、800キロメートル<ref name="生いたち_三波石峡"/><ref name="平凡百科-三波川変成帯"/>。}}。

この名称は、明治21年(1888年)に[[東京大学|東京帝国大学]]の[[地質学者]][[小藤文次郎]]が[[三波川]]を調査し、一帯で発見した[[結晶片岩]]を'''三波川結晶片岩'''と命名したことに始まる。小藤文次郎の紹介により三波石は世界的に知られるようになった<ref name="角川地名_三波石峡"/><ref name="生いたち_三波石峡"/><ref name="生いたち_御荷鉾山"/>。

===低温高圧の環境下での変成===
一般に、海底で形成された[[玄武岩]]や[[火山灰]]などからなる岩石が地殻変動で地下深くに潜り、長い年月をかけて[[変成岩]]となるときに、その[[変成作用]]によって岩石内に[[変成鉱物]]が生じる。このとき[[緑泥石]]や[[緑簾石]]が生じることで、岩石は緑色を帯びる<ref name="生いたち_三波石峡"/>。白色の縞模様のもとになっている石英はおもに砂岩に由来する<ref name="新百科_三波川帯"/>{{refnest|group="注"|このほか、泥岩を原岩として三波川変成作用を受けたものは黒色片岩となる。三波川帯の場所によってはこうした黒色片岩が主体となっている場所もある<ref name="新百科_三波川帯"/>。}}。

一帯は、もともとは[[古生代]][[ペルム紀]]から[[中生代]][[ジュラ紀]]にかけて[[海底火山]]によってできた[[玄武岩]]質の[[溶岩]]・[[火山岩]]や[[火山灰]]を主体とする堆積層だったと推定されている<ref name="ニッポニカ-三波川帯"/>{{refnest|group="注"|三波川帯の変成岩は化石に乏しく、かつてはまったく化石をもたないとされていた。三波川結晶片岩の命名者[[小藤文次郎]]は、古生代よりもはるかに古い、25億前のから40億年前[[太古代]]の岩盤が変成したものと推定した。のちに微細な化石([[コノドント]])が発見され、古生代終わり頃から中生代の中頃の岩石と考えられるようになった<ref name="平凡百科-三波川変成帯"/>。}}。これが、今からおよそ6500万年前、[[中生代]][[白亜紀]]の末頃から、大規模な地殻変動によって、地中深くに沈み込んだ。そこで低温・高圧の[[変成作用]]を受けて[[変成岩]]となり、これにより緑泥石や緑簾石に富む緑色をした岩石となった。日本列島ではこの変成岩帯が800キロメートルほどの長さに連なっていて、までまたがっている。これがとくに三波川周辺で観察されることから、これを「'''三波川変成作用'''」による三波川変成帯と呼ぶ<ref name="角川地名_三波石峡"/><ref name="生いたち_三波石峡"/><ref name="生いたち_御荷鉾山"/>。

三波石峡の岩石はとくに[[緑閃石]]([[アクチノ閃石]])に富み、これが特徴的な青緑色のもとになっている<ref name="生いたち_三波石峡"/>。

==人文誌==
===地名の由来===
「三波」という地名の由来にはいくつかの説がある<ref name="角川地名_三波石峡"/><ref name="藤岡市-文化財"/>。江戸時代の史料では「三馬石」「三羽石」といった表記もみられる<ref name="藤岡市-文化財"/>。

峡谷には[[埼玉県道・群馬県道331号吉田太田部譲原線|県道331号線]]の「登仙橋」が架かっている。この橋に最も近いところにある3つの大岩(「一番岩」「二番岩」「三番岩」)が波の姿を思わせる<ref name="新百科_三波石峡"/>、波形に並んでいる<ref name="角川地名_三波石峡"/>、もしくは波模様を持っていることに由来するという説<ref name="新百科_三波石"/>。

岩の色が緑色([[緑泥石]])、黄色([[緑簾石]])、白色([[石英]])の三色であることに由来するという説<ref name="角川地名_三波石峡"/>。石英の岩脈が波模様を描いていることに由来するという説などがある<ref name="角川地名_三波石峡"/>。

===採石地として===
{{File clip | RIMG0026.JPG | align = right | width = 300 | 40 | 50 | 20 | 30 | w = 800 | h = 600 | 石英の細い岩脈が緑色の岩肌に映える。}}

三波石峡で顕著に見られる[[三波石]]は、美しい青緑色から緑色、黄緑色をとる岩石([[緑色片岩]])に白色の石英の細脈が走っていて、これが峡谷の強い水流によって磨かれて岩肌に紋様となって現れている。その美しさによって古くから銘石(名石)として知られてきた<ref name="生いたち_三波石峡"/><ref name="平凡地名_三波石峡"/>。

古いものでは[[寛永]]年間(1624年 - 1645年)の史料に三波石の採取に関する言及があり、少なくとも江戸時代初期には[[庭石]]用の銘石として知れ渡っていたものと推定されている<ref name="平凡地名_三波石峡"/>。三波石はその美しい緑色が色褪せせず、庭石に向いていることも特徴である<ref name="新百科_三波石峡"/>。[[安永 (元号)|安永]]3年(1774年)の『[[上野国志]]』でも「此川石美なり」として三波石が紹介されている<ref name="平凡地名_三波石峡"/>。その一方で、「些少なりとも取る事ならず、山荒れると云ひ伝ふ」との記述もあり、採石が禁じられていたとも推測される<ref name="平凡地名_三波石峡"/>。

峡谷は昭和32年(1957年)7月3日<ref name="文化OL"/>に国の名勝・天然記念物に指定され、指定区域内での石の採取は禁止された。しかし三波石は[[日本庭園]]に不可欠な庭石として人気が高く、旧鬼石町など周辺地には採石業者や庭石業者、販売業者、造園業者などが集まり、その数は550戸におよんだ<ref name="角川地名_三波石峡"/>。昭和43年(1968年)に[[下久保ダム]]の完成した後はこの付近での採石量は減ったものの、全国から緑石を集めるようになり、付近は東日本では最大の庭石の集散地となっている<ref name="角川地名_三波石峡"/><ref name="新百科_三波石"/><ref name="新百科_三波石峡"/><ref name="ブリタニカ-鬼石"/>。

===景勝地として===
一帯は[[断崖|断崖絶壁]]が連続し、その間に結晶片岩の奇岩、巨岩が露出する。青から緑色の岩肌と白色の模様、それに新緑や紅葉の木々が水面に映る渓谷美は江戸時代の史料にもよく知られたものとして登場する<ref name="平凡地名_三波石峡"/>。[[明治5年]](1872年)に[[太政官 (明治時代)|太政官]]の命で編纂された『上野国郡村誌』では「郡中の一奇観」と評されている<ref name="平凡地名_三波石峡"/>。

江戸時代中期の史料には観光客が訪れていたことも記録されている。地元の村々は観光客の案内や宿の提供によって得られる収入に助けられていて、その利権を巡って村同士の争論もたびたび起きている<ref name="平凡地名_三波石峡"/>。

江戸時代には、「三波石四八石」といって、48の名石の1つ1つに固有の名前がつけられていた<ref name="生いたち_三波石峡"/>。この石の名前などは時代や史料によって異なっており、[[寛保]]2年(1742年)には洪水が起きて名石が「浦島が釣船」「達磨石」など25しか確認できなくなっていることが記録されている<ref name="平凡地名_三波石峡"/>。その後、[[天保]]3年(1832年)の史料には新たに48の名石の名前が列記されている<ref name="平凡地名_三波石峡"/>。現代では、峡谷に架かる[[埼玉県道・群馬県道331号吉田太田部譲原線|県道33号]]登仙橋付近の「一番石」から、下久保ダム排水口ちかくにある「阿弥陀石」までを48石として、1つ1つに名前がつけられている<ref name="新百科_三波石峡"/><ref name="水資源48"/>。

===ダムの影響と土砂掃流===
[[File:RIMG0017.JPG|thumb|right|下久保ダム]]
[[File:神流湖 - panoramio.jpg|thumb|right|神流湖]]
ところが昭和43年(1968年)に[[下久保ダム]]が完成すると渓谷の様子は激変した。飲料水の確保や灌漑用水の確保のほか、発電も行う下久保ダムでは、川を堰き止めて貯めた水で発電した後、放流水を地下トンネルに排水する。このトンネルは三波石峡の下流側で神流川に注ぐため、三波石峡には全く水が流れないようになってしまった<ref name="生いたち_三波石峡"/><ref name="水資源-変遷2"/>。

これはダムの下流の神流川にさまざまな環境の変化をもたらした。とりわけ三波石峡はその影響が大きかった<ref name="水資源-相互理解"/>。まず、水が流れなくなった渓谷にはコケやツル、雑草などの植物が生い茂って川床が見えなくなった<ref name="水資源-変遷2"/>。さらにこうした植生が峡谷の底を流れる川床まで広がったことで、まるで「山が迫って」谷が狭くなったような印象をもたらした<ref name="水資源-相互理解"/>。そのうえ、美しさを誇った峡谷の名石は、藻や苔が生えたり、土埃や「ノロ」と呼ばれる[[シルト]]の付着によって汚れ、黒ずんでしまった<ref name="水資源-変遷2"/>。ほとんど水が失われたことで、わずかに残った水場でも、かつては生えていなかった藻が繁茂して淵が澱んだりした。こうして様々な「景観障害」が引き起こされた<ref name="水資源-2007"/>。

また、ダムによって水の流れが堰き止められたことで、上流からやってくる小石や砂といった土砂の供給も停まってしまった{{refnest|group="注"|下久保ダムでは、建設時の想定の2倍の早さでダム内に土砂が堆積している。事前の想定では、建設から100年間で貯まる土砂量は1000万立方メートルと見込んでいたが、実際には、建設から45年あまりの平成16年(2004年)時点で既に800万立方メートルを超えている<ref name="水資源-相互理解"/>。}}。このことが三波石峡の地形や景観を変えることになった。巨岩・大岩が散在し、ところどころに淵や瀬がある峡谷では、上流から流れてきた砂利や砂礫が、岩の陰や淵の周囲、あるいは川底に砂堆となって集まっていく。これらの砂礫は、絶えない川の流水によって下流へと運び去られるが、同時に上流から継続的に砂礫が供給されるので、河原や川床は維持される。ところがダムによりこうした砂礫の供給が遮断されると、大雨や洪水などの出水で砂礫が下流へ流れ去ったあと、河原や川床が回復しない。このため三波石峡では、かつては河原を散策しながら渓谷を鑑賞できたのに、その河原が消失してしまった。また、川床は従前よりも深くなった。その規模は、三波石峡谷内では場所によって2メートル、三波石峡よりも下流の神流川ではところによって5メートルにも達した。これは三波石峡谷の景観を変えただけでなく、神流川の生態系にも重大な変化をもたらし、漁業関係者にも影響を及ぼした<ref name="水資源-相互理解"/>。

こうして荒廃した三波石峡を昔の姿に戻すため、地元では様々な取り組みが行われた<ref name="生いたち_三波石峡"/>。ダム建設から30年余りを経て、流域住民の生活や財産を保全するためダムの洪水調節機能は絶対不可欠であるという意見がある一方で、洪水は「河川の健全な撹乱機会<ref name="水資源-2007"/>」であるとする見解も認められるようになった。また、想定以上の規模で進行するダム内の土砂の堆積への対応も迫られるようになった<ref name="水資源-2007"/>。

平成13年(2001年)から「水環境改善事業」として、峡谷に32年ぶりに水を流すことになった<ref name="水資源-変遷3"/>。ところが思ったほどには三波石峡の環境は改善しなかった。そこでダムに堆積する土砂対策も兼ねて、放水にあわせて土砂を流すことが検討された。ただし、三波石峡の景観を復活させるために川に土砂を流すことは、さらに下流で利水を行う様々な事業者にも影響を及ぼすことになり、利害の対立も生じる。たとえば農業関係者にとっては、取水堰に貯まる土砂対策のメンテナンス費用がかさむことになる。そこで、ダムの事業者、三波石峡の景観復活運動を行う団体や、農業・漁業関係者、さらには発電事業者や川でカヌーによる商売を営む事業者まで様々な利害関係者が一堂に会して、下久保ダムの土砂対策から三波石峡の景観障害対策、漁業・農業振興策を一体的に議論を行った<ref name="水資源-相互理解"/>。こうして平成15年(2003年)から'''土砂掃流'''(土石掃流)が始まった。これは川の流れにのった小石や砂のクレンジング効果によって峡谷の岩石が磨かれ、美しい緑色の岩肌を復活させる取り組みである。また同時に、深くなってしまった川床を回復する効果も期待された<ref name="水資源-相互理解"/><ref name="水資源-2007"/>。これにより三波石峡は往年の姿を取り戻しつつある<ref name="水資源-変遷4"/><ref name="生いたち_三波石峡"/>。

==ギャラリー==
<gallery>
File:RIMG0027.JPG
File:初冬の三波石峡 - panoramio (2).jpg
File:初冬の三波石峡 - panoramio (1).jpg
File:初冬の三波石峡-落葉 - panoramio.jpg
</gallery>

==脚注==
===注釈===
{{Reflist|group="注"}}
===出典===
{{Reflist|colwidth=30em |refs=
*<ref name="角川地名_三波石峡">『角川日本地名大辞典10 群馬県』p450「三波石峡」</ref>

*<ref name="平凡地名_三波石峡">『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p314-315「三波石峡」</ref>
*<ref name="平凡地名_鬼石町">『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p310「鬼石町」</ref>

*<ref name="新百科_三波石峡">『群馬新百科事典』p357「三波石峡」</ref>
*<ref name="新百科_三波石">『群馬新百科事典』p357「三波石」</ref>
*<ref name="新百科_三波川帯">『群馬新百科事典』p357「三波川帯」</ref>

*<ref name="生いたち_多野山地">『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』p54「多野山地」</ref>
*<ref name="生いたち_三波石峡">『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』p56「三波石峡」</ref>
*<ref name="生いたち_御荷鉾山">『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』p58「御荷鉾山」</ref>

*<ref name="文化OL">[[文化庁]],文化遺産オンライン,[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/203256 三波石峡],2018年6月14日閲覧。</ref>

*<ref name="藤岡市-文化財">[[藤岡市]]公式HP,教育委員会 文化財保護課,[https://www.city.fujioka.gunma.jp/kakuka/f_bunkazai/sanbasekikyou.html 三波石峡],2018年6月12日閲覧。</ref>

*<ref name="観光協会">神川町観光協会,[http://www.kamikawa-kanko.com/miru/三波石峡/ 三波石峡],2018年6月12日閲覧。</ref>
*<ref name="ニッポニカ-三波石峡">『[[日本大百科全書]]』,小学館,コトバンク版,[https://kotobank.jp/word/三波石峡-71321 三波石峡],2018年6月12日閲覧。</ref>
*<ref name="ニッポニカ-三波川帯">『[[日本大百科全書]]』,小学館,コトバンク版,[https://kotobank.jp/word/三波川帯-1540598 三波川帯],2018年6月13日閲覧。</ref>

*<ref name="ブリタニカ-三波川変成岩">『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』,2014,コトバンク版,[https://kotobank.jp/word/三波川変成岩-71313 三波川変成岩],2018年6月13日閲覧。</ref>
*<ref name="ブリタニカ-鬼石">『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』,2014,コトバンク版,[https://kotobank.jp/word/鬼石-40856 鬼石],2018年6月12日閲覧。</ref>

*<ref name="平凡百科-三波川変成帯">『[[世界大百科事典|世界大百科事典 第2版]]』([[平凡社]]),コトバンク版,[https://kotobank.jp/word/三波川変成帯-71314 三波川変成帯],2018年6月13日閲覧。</ref>

*<ref name="水資源48">独立行政法人[[水資源機構]] [[下久保ダム]]管理所,「三波石四十八石の紹介」[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba48/index.html 1],[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba48/index2.html 2],[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba48/index3.html 3],[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba48/index4.html 4],2018年6月12日閲覧。</ref>

*<ref name="水資源-変遷2">独立行政法人[[水資源機構]] [[下久保ダム]]管理所,「[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba-hensen/index2.html 三波石峡の変遷2]」,2018年6月12日閲覧。</ref>
*<ref name="水資源-変遷3">独立行政法人[[水資源機構]] [[下久保ダム]]管理所,「[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba-hensen/index3.html 三波石峡の変遷3]」,2018年6月12日閲覧。</ref>
*<ref name="水資源-変遷4">独立行政法人[[水資源機構]] [[下久保ダム]]管理所,「[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba-hensen/index4.html 三波石峡の変遷4]」,2018年6月12日閲覧。</ref>

*<ref name="水資源-相互理解">独立行政法人[[水資源機構]],[[下久保ダム]]管理所,金山明広・中嶋 聡,「{{PDFlink|[https://www.water.go.jp/honsya/honsya/torikumi/gijyutu/kenkyuhappyou/pdf/h18_shimokubo.pdf 土砂掃流試験と関係者間の相互理解について]}}」,2018年6月12日閲覧。</ref>

*<ref name="水資源-2007">独立行政法人[[水資源機構]],[[下久保ダム]]管理所,2007,{{PDFlink|[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/news/press/pdf/bin070611181836005.pdf 下久保ダム土砂掃流レポート - 水資源機構]}},2018年6月12日閲覧。</ref>

}}

===書誌情報===
*『[[角川日本地名大辞典]]10 群馬県』,角川日本地名大辞典編纂委員会・[[竹内理三]]・編,[[角川書店]],1988,ISBN 4040011007
*『[[日本歴史地名大系|日本歴史地名大系10群馬県の地名]]』,[[平凡社]],1987
*『[[都道府県別百科事典|群馬新百科事典]]』,[[上毛新聞社]],2008年,ISBN 9784880589886
*『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』,「ぐんまの大地」編集委員会,[[上毛新聞社]],2009,2010(初版第2刷),ISBN 9784863520158


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
25行目: 150行目:
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=79 よみがえれ、三波石峡の清流(財団法人日本ダム協会)]
* [http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=79 よみがえれ、三波石峡の清流(財団法人日本ダム協会)]
* [https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba48/index.html 三波石四十八石の紹介(1)]、[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba48/index2.html (2)]、[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba48/index3.html (3)]、[https://www.water.go.jp/kanto/simokubo/sanba48/index4.html (4)]
* [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財 データベース](文化庁)
* {{文化遺産オンライン|203256}}
* {{国指定文化財等データベース|401|3090}}


{{Coord|36|07|42|N|139|01|47|E|display=title|region:JP_type:landmark}}
{{Coord|36|07|42|N|139|01|47|E|display=title|region:JP_type:landmark}}

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2024年12月8日 (日) 13:11時点における最新版

三波石峡
夏の三波石峡
三波石峡の位置(日本内)
三波石峡
三波石峡
三波石峡の位置(関東地方内)
三波石峡
三波石峡
長軸全長1.5 - 2.0km
25 - 50m
地理
境界埼玉県群馬県
河川神流川利根川水系)
神流川に位置する三波石峡と支流の三波川
冬の三波石峡

三波石峡(さんばせききょう[1][2]、さんばせっきょう[3])は、神流川上流に位置し、群馬県埼玉県に跨る景勝地である。国の史蹟名勝天然記念物名勝天然記念物)に指定されている[3][2]

地理

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水系としては、一級河川利根川に属する。利根川の支流烏川、その支流の神流川の上流部にあたる。この峡谷には昭和43年(1968年)に下久保ダムが建設されており、いまの三波石峡は、ダムからおよそ下流のおよそ1.5[1][4]ないし2.0キロメートル[5][6]ほどの区間を指す[注 1]

行政上は、神流川のこの区間は埼玉県群馬県の県境になっている。右岸(南)の埼玉県側は児玉郡神川町[注 2]、左岸(北)の群馬県側は藤岡市[注 3]の管轄である。

地形

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一帯は関東山地の中ほどの東部に相当し、雨降山(1013メートル)など1000m級の山地から丘陵地へ遷移してゆく途中にあたる[4]。このあたりを多野山地ともいう[9]

三波石峡の両岸直上は神山(732メートル)などの標高700メートルほどの頂から峡谷までの急峻な斜面である。神流川の川幅は50メートルから25メートルほどに狭まっていて、両岸は落差10メートルほどの断崖になっている。峡谷の下流側の出口からは平野部が広がっている[1]

特に左岸(北側)の崖上には、特徴的な地すべり地形がいくつも並んでいて、そこにできた平坦地に下久保、栢ヶ舞、今里といった集落地が形成されている。譲原地すべり資料館もここに設けられている[5]

地質

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三波川変成岩と三波川帯

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三波石峡とその北を流れる三波川は、三波川変成帯(三波川帯)と呼ばれる日本最大の広域変成帯の模式地となっている[1][5][10]。この変成岩帯でみられる変成岩三波川変成岩といい、日本列島の代表的な変成岩の一つである[11][注 4]

三波川変成帯は中央構造線に沿うように、南北の幅およそ5キロメートルから30キロメートル、東西の長さおよそ800キロメートルの長さで帯状に連なっており、三波石峡や三波川、長瀞渓谷などの関東山地から、長野県南部、紀伊半島四国を経て九州佐賀関半島)にまで至る[5][10][12][注 5]

この名称は、明治21年(1888年)に東京帝国大学地質学者小藤文次郎三波川を調査し、一帯で発見した結晶片岩三波川結晶片岩と命名したことに始まる。小藤文次郎の紹介により三波石は世界的に知られるようになった[1][5][10]

低温高圧の環境下での変成

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一般に、海底で形成された玄武岩火山灰などからなる岩石が地殻変動で地下深くに潜り、長い年月をかけて変成岩となるときに、その変成作用によって岩石内に変成鉱物が生じる。このとき緑泥石緑簾石が生じることで、岩石は緑色を帯びる[5]。白色の縞模様のもとになっている石英はおもに砂岩に由来する[13][注 6]

一帯は、もともとは古生代ペルム紀から中生代ジュラ紀にかけて海底火山によってできた玄武岩質の溶岩火山岩火山灰を主体とする堆積層だったと推定されている[12][注 7]。これが、今からおよそ6500万年前、中生代白亜紀の末頃から、大規模な地殻変動によって、地中深くに沈み込んだ。そこで低温・高圧の変成作用を受けて変成岩となり、これにより緑泥石や緑簾石に富む緑色をした岩石となった。日本列島ではこの変成岩帯が800キロメートルほどの長さに連なっていて、までまたがっている。これがとくに三波川周辺で観察されることから、これを「三波川変成作用」による三波川変成帯と呼ぶ[1][5][10]

三波石峡の岩石はとくに緑閃石アクチノ閃石)に富み、これが特徴的な青緑色のもとになっている[5]

人文誌

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地名の由来

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「三波」という地名の由来にはいくつかの説がある[1][15]。江戸時代の史料では「三馬石」「三羽石」といった表記もみられる[15]

峡谷には県道331号線の「登仙橋」が架かっている。この橋に最も近いところにある3つの大岩(「一番岩」「二番岩」「三番岩」)が波の姿を思わせる[6]、波形に並んでいる[1]、もしくは波模様を持っていることに由来するという説[16]

岩の色が緑色(緑泥石)、黄色(緑簾石)、白色(石英)の三色であることに由来するという説[1]。石英の岩脈が波模様を描いていることに由来するという説などがある[1]

採石地として

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石英の細い岩脈が緑色の岩肌に映える。
拡大
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Clip
石英の細い岩脈が緑色の岩肌に映える。

三波石峡で顕著に見られる三波石は、美しい青緑色から緑色、黄緑色をとる岩石(緑色片岩)に白色の石英の細脈が走っていて、これが峡谷の強い水流によって磨かれて岩肌に紋様となって現れている。その美しさによって古くから銘石(名石)として知られてきた[5][2]

古いものでは寛永年間(1624年 - 1645年)の史料に三波石の採取に関する言及があり、少なくとも江戸時代初期には庭石用の銘石として知れ渡っていたものと推定されている[2]。三波石はその美しい緑色が色褪せせず、庭石に向いていることも特徴である[6]安永3年(1774年)の『上野国志』でも「此川石美なり」として三波石が紹介されている[2]。その一方で、「些少なりとも取る事ならず、山荒れると云ひ伝ふ」との記述もあり、採石が禁じられていたとも推測される[2]

峡谷は昭和32年(1957年)7月3日[3]に国の名勝・天然記念物に指定され、指定区域内での石の採取は禁止された。しかし三波石は日本庭園に不可欠な庭石として人気が高く、旧鬼石町など周辺地には採石業者や庭石業者、販売業者、造園業者などが集まり、その数は550戸におよんだ[1]。昭和43年(1968年)に下久保ダムの完成した後はこの付近での採石量は減ったものの、全国から緑石を集めるようになり、付近は東日本では最大の庭石の集散地となっている[1][16][6][17]

景勝地として

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一帯は断崖絶壁が連続し、その間に結晶片岩の奇岩、巨岩が露出する。青から緑色の岩肌と白色の模様、それに新緑や紅葉の木々が水面に映る渓谷美は江戸時代の史料にもよく知られたものとして登場する[2]明治5年(1872年)に太政官の命で編纂された『上野国郡村誌』では「郡中の一奇観」と評されている[2]

江戸時代中期の史料には観光客が訪れていたことも記録されている。地元の村々は観光客の案内や宿の提供によって得られる収入に助けられていて、その利権を巡って村同士の争論もたびたび起きている[2]

江戸時代には、「三波石四八石」といって、48の名石の1つ1つに固有の名前がつけられていた[5]。この石の名前などは時代や史料によって異なっており、寛保2年(1742年)には洪水が起きて名石が「浦島が釣船」「達磨石」など25しか確認できなくなっていることが記録されている[2]。その後、天保3年(1832年)の史料には新たに48の名石の名前が列記されている[2]。現代では、峡谷に架かる県道33号登仙橋付近の「一番石」から、下久保ダム排水口ちかくにある「阿弥陀石」までを48石として、1つ1つに名前がつけられている[6][18]

ダムの影響と土砂掃流

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下久保ダム
神流湖

ところが昭和43年(1968年)に下久保ダムが完成すると渓谷の様子は激変した。飲料水の確保や灌漑用水の確保のほか、発電も行う下久保ダムでは、川を堰き止めて貯めた水で発電した後、放流水を地下トンネルに排水する。このトンネルは三波石峡の下流側で神流川に注ぐため、三波石峡には全く水が流れないようになってしまった[5][19]

これはダムの下流の神流川にさまざまな環境の変化をもたらした。とりわけ三波石峡はその影響が大きかった[20]。まず、水が流れなくなった渓谷にはコケやツル、雑草などの植物が生い茂って川床が見えなくなった[19]。さらにこうした植生が峡谷の底を流れる川床まで広がったことで、まるで「山が迫って」谷が狭くなったような印象をもたらした[20]。そのうえ、美しさを誇った峡谷の名石は、藻や苔が生えたり、土埃や「ノロ」と呼ばれるシルトの付着によって汚れ、黒ずんでしまった[19]。ほとんど水が失われたことで、わずかに残った水場でも、かつては生えていなかった藻が繁茂して淵が澱んだりした。こうして様々な「景観障害」が引き起こされた[21]

また、ダムによって水の流れが堰き止められたことで、上流からやってくる小石や砂といった土砂の供給も停まってしまった[注 8]。このことが三波石峡の地形や景観を変えることになった。巨岩・大岩が散在し、ところどころに淵や瀬がある峡谷では、上流から流れてきた砂利や砂礫が、岩の陰や淵の周囲、あるいは川底に砂堆となって集まっていく。これらの砂礫は、絶えない川の流水によって下流へと運び去られるが、同時に上流から継続的に砂礫が供給されるので、河原や川床は維持される。ところがダムによりこうした砂礫の供給が遮断されると、大雨や洪水などの出水で砂礫が下流へ流れ去ったあと、河原や川床が回復しない。このため三波石峡では、かつては河原を散策しながら渓谷を鑑賞できたのに、その河原が消失してしまった。また、川床は従前よりも深くなった。その規模は、三波石峡谷内では場所によって2メートル、三波石峡よりも下流の神流川ではところによって5メートルにも達した。これは三波石峡谷の景観を変えただけでなく、神流川の生態系にも重大な変化をもたらし、漁業関係者にも影響を及ぼした[20]

こうして荒廃した三波石峡を昔の姿に戻すため、地元では様々な取り組みが行われた[5]。ダム建設から30年余りを経て、流域住民の生活や財産を保全するためダムの洪水調節機能は絶対不可欠であるという意見がある一方で、洪水は「河川の健全な撹乱機会[21]」であるとする見解も認められるようになった。また、想定以上の規模で進行するダム内の土砂の堆積への対応も迫られるようになった[21]

平成13年(2001年)から「水環境改善事業」として、峡谷に32年ぶりに水を流すことになった[22]。ところが思ったほどには三波石峡の環境は改善しなかった。そこでダムに堆積する土砂対策も兼ねて、放水にあわせて土砂を流すことが検討された。ただし、三波石峡の景観を復活させるために川に土砂を流すことは、さらに下流で利水を行う様々な事業者にも影響を及ぼすことになり、利害の対立も生じる。たとえば農業関係者にとっては、取水堰に貯まる土砂対策のメンテナンス費用がかさむことになる。そこで、ダムの事業者、三波石峡の景観復活運動を行う団体や、農業・漁業関係者、さらには発電事業者や川でカヌーによる商売を営む事業者まで様々な利害関係者が一堂に会して、下久保ダムの土砂対策から三波石峡の景観障害対策、漁業・農業振興策を一体的に議論を行った[20]。こうして平成15年(2003年)から土砂掃流(土石掃流)が始まった。これは川の流れにのった小石や砂のクレンジング効果によって峡谷の岩石が磨かれ、美しい緑色の岩肌を復活させる取り組みである。また同時に、深くなってしまった川床を回復する効果も期待された[20][21]。これにより三波石峡は往年の姿を取り戻しつつある[23][5]

ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ^ 日本大百科全書』では譲原地区から上流側4キロメートルとし、下久保ダムとダム湖(神流湖)を含めている[7]。一方、地元の観光協会は「下久保ダムから登仙橋までの約1.3キロメートル区間」としている[8]
  2. ^ 神川町は2006年に合併しており、それ以前の当地は神泉村に属していた。
  3. ^ 藤岡市は2006年に合併しており、それ以前の当地は鬼石町大字譲原小字栢ヶ舞(かやかぶ)に属していた[2]
  4. ^ 古典的には長瀞渓谷を模式地として「長瀞変成岩」と呼んだが、現在はこの呼称はほとんど使用されず、もっぱら「三波川変成岩」とよぶ。
  5. ^ 長さについては文献ごとに差異があり、700キロメートル[13]、800キロメートル[5][14]
  6. ^ このほか、泥岩を原岩として三波川変成作用を受けたものは黒色片岩となる。三波川帯の場所によってはこうした黒色片岩が主体となっている場所もある[13]
  7. ^ 三波川帯の変成岩は化石に乏しく、かつてはまったく化石をもたないとされていた。三波川結晶片岩の命名者小藤文次郎は、古生代よりもはるかに古い、25億前のから40億年前太古代の岩盤が変成したものと推定した。のちに微細な化石(コノドント)が発見され、古生代終わり頃から中生代の中頃の岩石と考えられるようになった[14]
  8. ^ 下久保ダムでは、建設時の想定の2倍の早さでダム内に土砂が堆積している。事前の想定では、建設から100年間で貯まる土砂量は1000万立方メートルと見込んでいたが、実際には、建設から45年あまりの平成16年(2004年)時点で既に800万立方メートルを超えている[20]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『角川日本地名大辞典10 群馬県』p450「三波石峡」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p314-315「三波石峡」
  3. ^ a b c 文化庁,文化遺産オンライン,三波石峡,2018年6月14日閲覧。
  4. ^ a b 『日本歴史地名大系10群馬県の地名』p310「鬼石町」
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』p56「三波石峡」
  6. ^ a b c d e 『群馬新百科事典』p357「三波石峡」
  7. ^ 日本大百科全書』,小学館,コトバンク版,三波石峡,2018年6月12日閲覧。
  8. ^ 神川町観光協会,三波石峡,2018年6月12日閲覧。
  9. ^ 『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』p54「多野山地」
  10. ^ a b c d 『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』p58「御荷鉾山」
  11. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』,2014,コトバンク版,三波川変成岩,2018年6月13日閲覧。
  12. ^ a b 日本大百科全書』,小学館,コトバンク版,三波川帯,2018年6月13日閲覧。
  13. ^ a b c 『群馬新百科事典』p357「三波川帯」
  14. ^ a b 世界大百科事典 第2版』(平凡社),コトバンク版,三波川変成帯,2018年6月13日閲覧。
  15. ^ a b 藤岡市公式HP,教育委員会 文化財保護課,三波石峡,2018年6月12日閲覧。
  16. ^ a b 『群馬新百科事典』p357「三波石」
  17. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』,2014,コトバンク版,鬼石,2018年6月12日閲覧。
  18. ^ 独立行政法人水資源機構 下久保ダム管理所,「三波石四十八石の紹介」1,2,3,4,2018年6月12日閲覧。
  19. ^ a b c 独立行政法人水資源機構 下久保ダム管理所,「三波石峡の変遷2」,2018年6月12日閲覧。
  20. ^ a b c d e f 独立行政法人水資源機構,下久保ダム管理所,金山明広・中嶋 聡,「土砂掃流試験と関係者間の相互理解について (PDF) 」,2018年6月12日閲覧。
  21. ^ a b c d 独立行政法人水資源機構,下久保ダム管理所,2007,下久保ダム土砂掃流レポート - 水資源機構 (PDF) ,2018年6月12日閲覧。
  22. ^ 独立行政法人水資源機構 下久保ダム管理所,「三波石峡の変遷3」,2018年6月12日閲覧。
  23. ^ 独立行政法人水資源機構 下久保ダム管理所,「三波石峡の変遷4」,2018年6月12日閲覧。

書誌情報

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関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯36度07分42秒 東経139度01分47秒 / 北緯36.12833度 東経139.02972度 / 36.12833; 139.02972