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「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」の版間の差分

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== 使用 ==
== 使用 ==
日本で「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」は[[フレンチ・ポップス|フレンチ・ポップ]]形式に編集されたものが[[スズキ・アルトラパン]]の宣伝に使用された<ref>{{YouTube|rDj-mutHTUI|ad of Suzuki Alto Lapin}}</ref><ref>[http://web.archive.org/web/20090226142925/http://www.suzuki.co.jp/car/lapin/gallery/index.html スズキ ラパン] ([[インターネットアーカイブ|Wayback Machine]])</ref>。
日本で「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」は[[フレンチ・ポップス|フレンチ・ポップ]]形式に編集されたものが[[スズキ・アルトラパン]]の宣伝に使用された<ref>{{YouTube|rDj-mutHTUI|ad of Suzuki Alto Lapin}}</ref><ref>[http://web.archive.org/web/20090226142925/http://www.suzuki.co.jp/car/lapin/gallery/index.html スズキ ラパン] ([[インターネットアーカイブ|Wayback Machine]])</ref>。
== 他のミュージシャンによるカバー ==
== 他のミュージシャンによるカバー ==

2017年9月5日 (火) 02:23時点における版

「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」
スモール・フェイセスシングル
初出アルバム『スモール・フェイセス
B面 グロウ・ユア・オウン
リリース
規格 7インチ・シングル
録音 1965年12月
ジャンル ロック
時間
レーベル デッカ・レコード (US Press Records)
作詞・作曲 ケニー・リンチ
モルト・シューマン
プロデュース ケニー・リンチ
チャート最高順位
第3位(全英シングルチャート
スモール・フェイセス シングル 年表
"アイヴ・ゴット・マイン"
(1965)
"シャ・ラ・ラ・ラ・リー"
(1966)
"ヘイ・ガール"
(1966)
楽曲を試聴する
Sha La La La Lee
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シャ・ラ・ラ・ラ・リー」(Sha-La-La-La-Lee)は、1966年1月28日にイギリスのR&Bに影響を受けたグループスモール・フェイセスにより3番目にリリースされた曲で、全英シングルチャート第3位に達した[1]。無名時代のビートルズトニー・シェリダンとのコラボレーションで「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」をカバーした。

「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」はまたキーボードでイアン・マクレガンを呼び物にしたスモール・フェイセスによる最初のシングルである。グループの前作マリオット/レーン作「アイヴ・ゴット・マイン」における全英チャートの失敗により、ドン・アーデンDon Arden)がグループの次のシングルが確実に成功するようによく知られた作曲家のケニー・リンチKenny Lynch)とモルト・シューマンを起用することにし、スモール・フェイセスが一発屋ではないということを決定づけた[2]

その非常に商業的な音の曲は大ヒットになり全英シングルチャートで第3位に到達した[3]。「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」の成功にもかかわらずバンドはこの曲を決して本気で好まず、またこの曲はもっとR&Bとソウルを指向する彼らの音楽とは違うようにも感じさせる[4]

この曲をスモール・フェイセスの終わりの始まりであるとみる者がいる。それによると、ザ・フーローリング・ストーンズといった同時代のグループのようには真剣に取り上げるべきではないティーニーボッパーバンド[* 1]程度のものとしてグループが音楽誌から見なされることしきりになったのは、この曲からである。彼らの以前のファンは音楽狂いのモッズであったものであるが、彼らのファンは最早彼らの音楽よりこの若い男性ミュージシャンのカッコいい外見に興味がある若い十代の少女を含んでいる。彼らのコンサートの殆どにおいて、多くの同時代バンドのように、このバンドはファンの女の子たちの大きく絶え間ない叫び声以上のものは聞こえなかった[5]。幻滅したマリオットが、まっとうなミュージシャンとして見なされようと最終的にスモール・フェイセスを離脱し、より重々しいロックとブルース音楽のハンブル・パイという彼の次のグループを結成することで遂にこの状況は終焉に向かった[6]

スモール・フェイセスは米国でディック・クラーク・ショウ(The Dick Clark Show)のために英国から録画で「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」のライブをした[7]

B面

バンドが作曲したB面「グロウ・ユア・オウン」(Grow Your Own)は、より一層スモール・フェイセスの音楽性を保っている。この曲はインストゥルメンタルであり、またグループ全員が大ファンのブッカー・T&ザ・MG'sの形式に強い影響を受けている。「グロウ・ユア・オウン」はハモンドオルガンイアン・マクレガンをしきりに目立たせている[8]

使用

日本で「シャ・ラ・ラ・ラ・リー」はフレンチ・ポップ形式に編集されたものがスズキ・アルトラパンの宣伝に使用された[9][10]

他のミュージシャンによるカバー

  • トニー・シェリダンと、無名時代のビートルズによるカバー。Tony & The Beat Brothers名義のアルバム『Memories Of Liverpool』(2009年)に収録。
  • ユーゴスラビアのロックバンドSilueteは1966年にこの曲を「Tvoj rođendan」の題でカバーした。
  • チェコの歌手Václav Neckářもこの曲のカバー・ヴァージョンを1966年にチェコでやった。
  • 1960年代のフランス人女性歌手Évelyne Courtoisは、彼女のステージネームPussy Cat名義で「Ce N'est Pas Une Vie」として1966年にこの曲をカバーした。
  • The Rattlesによるカバー。初期のものは1966年のライブ[11]。後期のものが2012年にYouTubeで公開されている[12]
  • イギリスの女性歌手Twinkleによるカバー。1966年『Beat-Club』おけるそれが知られる[13]。元の歌詞にある女性を表す言葉を男性のそれに入れ替えている(「she」を「he」に、など)。
  • The Spacemenによる女性ボーカルのカバーは、アルバム『Beat À Gogo』(1967年)に収録。このカバーも、元の歌詞にある女性を表す言葉を男性のそれに入れ替えている(1966年Twinkleカバーと完全に同一の変更ではない)。
  • Ted Mulry Gangによるカバーは1977年のアルバム『T.M.G.』に収録。
  • Plastic Bertrandもこの曲のカバー・ヴァージョンを1978年にフランス語でやった。

脚注

注釈

  1. ^ ティーニーボッパー(teenybopper)とは、「しきりに流行を追いロックに凝る9–14歳の女の子」の意(研究社 新英和中辞典)。

出典注

参考文献

  • Paolo Hewitt John Hellier (2004), Steve Marriott - All Too Beautiful..., Helter Skelter Publishing, ISBN 1-900924-44-7 
  • Paolo Hewitt/Kenney Jones (1995), small faces the young mods' forgotten story, Acid Jazz, ISBN 0-9523935-0-6 

外部リンク