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=== 戦後 ===
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戦後はほとんど脇役に回り、[[1947年]](昭和22年)の山本監督映画『[[新馬鹿時代]]』前後篇などに出演した後フリーとなり、各映画社の作品に出演する<ref name="profile" />。[[1958年]](昭和33年)から[[新東宝]]と契約して数本の映画に出演した後、[[1959年]](昭和34年)半ばから再び東宝に復帰<ref name="profile" />。また映画だけでなく、[[テレビドラマ]]にも出演している。しかし[[1971年]](昭和46年)、[[石田勝心]]監督映画『[[昭和ひとけた社長対ふたけた社員 月月火水木金金]]』を最後に映画界から退くが、[[1975年]](昭和50年)まで東宝の専属俳優であった<ref>東宝株式会社総務部編「{{PDF|[http://web.archive.org/web/20140701193938/http://toho.co.jp/4less/cgi-bin/cs4view_obj.php/library_cinema/4/movie_actor_list.pdf 東宝映画俳優専属者リスト]}}(2014年7月1日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])」</ref>。
戦後はほとんど脇役に回り、[[1947年]](昭和22年)の山本監督映画『[[新馬鹿時代]]』前後篇などに出演した後フリーとなり、各映画社の作品に出演する<ref name="profile" />。[[1958年]](昭和33年)から[[新東宝]]と契約して数本の映画に出演した後、[[1959年]](昭和34年)半ばから再び東宝に復帰<ref name="profile" />。また映画だけでなく、[[テレビドラマ]]にも出演している。しかし[[1971年]](昭和46年)、[[石田勝心]]監督映画『[[昭和ひとけた社長対ふたけた社員 月月火水木金金]]』を最後に映画界から退くが、[[1975年]](昭和50年)まで東宝の専属俳優であった<ref>東宝株式会社総務部編「{{PDF|[http://web.archive.org/web/20140701193938/http://toho.co.jp/4less/cgi-bin/cs4view_obj.php/library_cinema/4/movie_actor_list.pdf 東宝映画俳優専属者リスト]}}(2014年7月1日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])」</ref>。


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2017年9月4日 (月) 17:29時点における版

たかだ みのる
高田 稔
高田 稔
本名 同じ
別名義 高田 昇(たかだ のぼる)
生年月日 (1899-12-20) 1899年12月20日
没年月日 (1977-12-27) 1977年12月27日(78歳没)
出生地 日本の旗 日本 秋田県雄勝郡東成瀬村
死没地 日本の旗 日本 東京都世田谷区成城2-5-7
職業 俳優映画プロデューサー
ジャンル 歌劇演劇劇映画現代劇時代劇特撮映画サイレント映画トーキー)、テレビ映画
活動期間 1918年 - 1975年
配偶者 光喜三子
主な作品
月よりの使者
良人の貞操
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高田 稔(たかだ みのる、1899年(明治32年)12月20日 - 1977年(昭和52年)12月27日)は、大正昭和期の俳優映画プロデューサーである[1][2][3]。本名同じ。旧芸名は高田 昇(たかだ のぼる)。妻は元女優光喜三子

無声映画・初期トーキー映画時代に松竹蒲田撮影所新興キネマなどで活躍した二枚目スターである。初期は浅草オペラの舞台で活躍。戦後は東宝テレビドラマなどで脇役として長く活躍した。

来歴

誕生・浅草オペラ時代

1899年(明治32年)12月20日秋田県雄勝郡東成瀬村に、旧藩の御殿医者の息子として生まれる[1][2]

1917年(大正6年)、獨逸学協会学校中学部(現在の獨協中学校・高等学校)を卒業後、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に入る。1918年(大正7年)、同学校を中退して同郷の先輩である石井漠の一座に入り、高田昇という芸名で浅草オペラの舞台に立つ[1][2]1919年(大正8年)、石井を中心とするオリエンタル協会が結成され、日本各地から朝鮮辺りまで巡業するが、この間、前年に日本はロシア革命干渉を目的とするシベリア出兵を開始しており、高田は1920年(大正9年)に騎兵第八聯隊に所属して従軍する[1]1922年(大正11年)10月、陸軍中尉で帰還し、除隊。1923年(大正12年)、博多現代劇社を創立し、再び舞台に立つ[1]

映画デビュー

1924年(大正13年)、帝国キネマ芦屋撮影所に入社[1][2]。芸名も本名の高田稔と改名し、同年、松本英一監督のサイレント映画大盗伝』で映画デビュー。以後、『七日恋して』『緑死病』などに端役として出演するが、主役は得られず、同年9月東亜キネマ甲陽撮影所に移籍する[1]。同年、山本嘉次郎監督の入社第一作『断雲』で鈴木澄子の恋人役に起用され、悪人の為に殺され、鈴木澄子扮する恋人は発狂し、夕陽が落ちて、この悲劇の上に断雲が流れるという何とも救いようの無いドラマの主人公ではあったが、高田はこれでようやく映画俳優としての将来に希望を持つ事が出来たという。以後、『諷刺小品集』『若者よさらば』など多数の作品で主演を務め大活躍する。また、1925年(大正14年)、日活松竹と共作になった坂田重則監督映画『大地は微笑む』前後篇で主役の大学生村田慶一に抜擢されるが、日活では当時新人だった中野英治、松竹では井上正夫が演じた。その後、竹村信夫とコンビを組んで『恋は死よりも強し』『爆弾児』など多数の作品で共演する。

1926年(大正15年)、次第に竹村との活劇に嫌気がさした高田は東亜キネマを退社し、独立製作発声映画所を創立するも失敗に終わり、1927年(昭和2年)、東亜キネマに復帰する[1]。等持院撮影所で長尾史録監督映画『王政復古』などに出演したが、映画監督小沢得二1928年(昭和3年)6月に創立した小沢映画聯盟に誘われて入社[1]。『掏摸の家』『南方の秘密』に主演を務めたが、間も無く解散。同年10月、再び東亜キネマへ戻り[1]、再び多数の作品で主演を務めた。

松竹・不二映画・新興時代

映画デビューから5年間の間に頻々に所を変える迷走ぶりを発揮した高田たが、1929年(昭和4年)7月、今度は松竹蒲田撮影所に移籍[1][2]岩田祐吉らに代わる二枚目俳優として起用される。同撮影所の初主演作品は同年の小津安二郎監督映画『大学は出たけれど』であり、大学は出たけれど不景気時代で就職口の無い青年を演じ、田舎から田中絹代扮する婚約者を連れて上京して来た母親との間に悲喜劇を巻き起こすという内容である。小品ではあったが、小津一流のユーモアとペシミズムを盛った佳作と言われ、高田は先の良い第二のスタートを切る。以後、八雲恵美子及川道子栗島すみ子田中絹代らと共演し、鈴木傳明岡田時彦と並んで「松竹三羽烏」と称されるようになる[1]1930年(昭和5年)1月、岡田と共に幹部に昇格し、多数の作品に主演した[1]

1931年(昭和6年)9月、鈴木が不二映画社を創立するに及び、岡田と共に同撮影所を脱退して参加する[1][2]1932年(昭和7年)3月、同撮影所を豊島園に設置[要出典]。この間に数本の映画に出演した後、解散目前の同年末に岡田と共に新興キネマ太秦撮影所に移籍する[1][2]1933年(昭和8年)、木村恵吾監督映画『街の青空』が入社第一作。しかし1934年(昭和9年)1月、岡田が急死。同年3月久米正雄の人気小説を田坂具隆監督が映画化した『月よりの使者』で、当時人気絶頂だった入江たか子と共演。入江扮する高原療養所の看護婦と恋を囁く胸を病む青年を演じ、この映画の大ヒットと共に絶大な人気を得た。

高田稔プロダクション設立

1934年9月豊島園富士スタジオ(旧不二映画撮影所)を拠点[要出典]高田稔プロダクションを設立[1][2]。新興キネマと提携して自らトーキー映画製作を行い、主演を務めた。サイレント映画時代には人気スターの独立プロが流行していたが、お金のかかるトーキーの時代になってからの独立プロは異例の事であった。

しかし1936年(昭和11年)11月、提携先の新興キネマの経営悪化により首脳陣が松竹系に一新されると同時にスター・プロダクションは解約され、同プロも阪東妻三郎プロダクション市川右太衛門プロダクション嵐寛寿郎プロダクションと共に、同年12月牛原虚彦監督映画『暴風』で主演したのを最後に解散を余儀なくされた[1]

新興キネマから東宝へ

1937年(昭和12年)2月東宝の前身であるP.C.L.映画製作所に入社[1][2]毎日新聞東京日日新聞連載の吉屋信子の人気小説を山本監督が映画化した『良人の貞操』が高田入社第一作であり、一人の夫を巡って入江、千葉早智子扮する二人の妻をめぐる慈悲メロドラマである。この作品も大ヒットし、高田の人気はピークに達する。

同年9月、東宝に完全吸収された後も1943年(昭和18年)の今井正監督映画『望楼の決死隊』を始め、多数の作品に主演を務め、入江だけでなく、原節子山田五十鈴とも共演している。しかし、戦争末期になると戦争映画の出演が多くなり、『決戦の大空へ』『加藤隼戦闘隊』などに出演。1945年(昭和20年)、今井監督映画『愛と誓ひ』に主演して間も無く終戦を迎える。

戦後

戦後はほとんど脇役に回り、1947年(昭和22年)の山本監督映画『新馬鹿時代』前後篇などに出演した後フリーとなり、各映画社の作品に出演する[1]1958年(昭和33年)から新東宝と契約して数本の映画に出演した後、1959年(昭和34年)半ばから再び東宝に復帰[1]。また映画だけでなく、テレビドラマにも出演している。しかし1971年(昭和46年)、石田勝心監督映画『昭和ひとけた社長対ふたけた社員 月月火水木金金』を最後に映画界から退くが、1975年(昭和50年)まで東宝の専属俳優であった[4]

1977年(昭和52年)12月27日午後14時42分、肝臓癌のため、東京都世田谷区成城2-5-7の自宅で死去した[1][2]。満78歳没。

おもな出演作品

映画

テレビ

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『日本映画人名事典 男優篇 下巻』キネマ旬報社、1996年、43-46頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、325頁。
  3. ^ 『日本映画美男俳優 戦前編』 ワイズ出版、2014年。
  4. ^ 東宝株式会社総務部編「東宝映画俳優専属者リスト (PDF) (2014年7月1日時点のアーカイブ)」

外部リンク