「非核三原則」の版間の差分
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[[ウクライナ]]は、[[1990年]](平成2年)[[7月16日]]に[[ヴェルホーヴナ・ラーダ|最高議会]]が採決した「[[ウクライナ主権宣言]]」の中で「核兵器を受け入れない、作らない、手に入れないという非核三原則 ({{lang-uk|трьох неядерних принципів: не приймати, не виробляти і не набувати ядерної зброї}}, {{lang-en|three nuclear free principles: to accept, to produce and to purchase no nuclear weapons}})」を謳っている<ref>[http://web.archive.org/web/20070521041819/http://gska2.rada.gov.ua:7777/site/postanova/declr.htm ウクライナ最高議会「ウクライナ主権宣言」ウクライナ語](2007年5月21日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])・[http://web.archive.org/web/20060325032956/http://gska2.rada.gov.ua:7777/site/postanova_eng/Declaration_of_State_Sovereignty_of_Ukraine_rev1.htm 英語](2006年3月25日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>(ただし、駐ウクライナ大使館では「核兵器を使用せず、生産せず、保有しないという非核三原則」としている<ref>[http://web.archive.org/web/20100527022141/http://www.ua.emb-japan.go.jp/J/About.Ukr/gaikan/6defence.html 在ウクライナ日本国大使館「ウクライナ概観(2010年5月更新)」](2010年5月27日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>)。 |
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当時、ウクライナ国内には[[ソ連]]の核兵器が大量に配備されていたが、[[1991年]](平成3年)[[10月24日]]の「非核化に関する最高議会声明」、[[1992年]](平成4年)[[5月23日]]の[[第一次戦略兵器削減条約|STARTI]]附属議定書([[リスボン議定書]])を経て、[[1996年]](平成8年)までにはそれらを全て[[ロシア]]に移送し非核を実現した。 |
当時、ウクライナ国内には[[ソ連]]の核兵器が大量に配備されていたが、[[1991年]](平成3年)[[10月24日]]の「非核化に関する最高議会声明」、[[1992年]](平成4年)[[5月23日]]の[[第一次戦略兵器削減条約|STARTI]]附属議定書([[リスボン議定書]])を経て、[[1996年]](平成8年)までにはそれらを全て[[ロシア]]に移送し非核を実現した。 |
2017年9月4日 (月) 15:23時点における版
非核三原則(ひかくさんげんそく)とは、「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」という三つの原則からなる、日本の国是[1]。3項目の表現は「持ち込まさず」と「持ち込ませず」の2通りがある。佐藤栄作が打ち出したものである。
経緯
日米安保条約の改定を1960年(昭和35年)に控えた岸内閣の頃から、日本の核政策が議論されるようになった。背景には米ソの冷戦と冷戦時代の核競争による核攻撃の危惧がある。当時も現在も核保有国では、核攻撃に対しては核による反撃能力つまり核抑止力を持つことが国際的に最も有効な回避手段とされており、核武装または核の傘による抑止力を持つことが一般的である。ただし核の傘は、核の傘を提供する国家(日本の場合、アメリカ合衆国)を自由に核攻撃可能な能力を持つ国家(中華人民共和国・ソビエト社会主義共和国連邦)には効果がないと、アメリカ合衆国連邦政府の元高官たちも証言している。また日米安全保障条約では、アメリカ合衆国の核報復の義務についての条項は存在しない。
1954年(昭和29年)、八木秀次議員ほか26名の議員から参議院に提出された原子力国際管理並びに原子兵器禁止に関する決議案は、同年4月5日、全会一致で可決された[2]。次いで、1955年(昭和30年)12月15日参議院商工委員会での原子力基本法の審議で、中曽根康弘議員が「原子力燃料を人間を殺傷するための武器としては使わない」と答弁して、「核兵器を作らず」の原則について、与野党の合意が形成された[3]。
岸信介による答弁
1957年(昭和32年)2月5日の衆議院本会議で、アメリカ軍の原子力部隊構想への政府の対応を問う質問があり、岸信介内閣総理大臣臨時代理・外務大臣は、
原子部隊の問題につきましては、これは新聞の誤まった報道がいたく国民の気持ちを刺激したと思いますが、責任ある国務省及び国防省は、これは事実ではないということを言明いたしております。また、そういう場合におきましては、すべて日本政府と話し合いをすることになっております。私どもは、あくまでも、日本国民の考えや、各種の日本の自主的な立場から、この問題に対する日本の態度をきめたいと考えております。
と答弁した[4]が、事前協議にどのように対応するかを明確にしてほしいという質問に、2月8日の衆議院予算委員会で、
なお和田君の御質問のごとく、日本の国民の感情からいい、また防衛の態勢からいって、日本に原子爆弾を持ち込むというような事柄はいかなる意味においてもこれは適当でないというお考えに対しましては、私は全然同感でありまして、また先日来質問がありましたアメリカの原子部隊と称せられるものの日本への進駐の問題については、私はしばしば答弁をいたしましたように、事実は新聞で伝えられているような事実でない、責任ある国防省及び国務省もこれを否定しているし、従ってこの際日本がすぐ抗議を申し込むとかなんとかいう時代ではない、相談がいずれあるから、相談された場合においてわれわれは自主的な立場でこれを考えたいと申しておりますが、しかしお話のごとく、私はこの原子部隊を日本に進駐せしめるというような申し出がありました場合においても、政府としてこれに承諾を与える意思はもっておりませんから、そのことは明瞭に申し上げます。
と答弁して[5]、「核兵器を持ち込まさず」の原則について初めて明確にした。
1957年(昭和32年)5月7日の参議院予算委員会で、内閣総理大臣岸信介は、
自衛権を裏づけるに必要な最小限度の実力であれば、私はたとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈としては持っております。しかし今私の政策としては、核兵器と名前のつくものは今持つというような、もしくはそれで装備するという考えは絶対にとらぬということで一貫して参りたい。
と答弁し[6]、「自衛権の範囲内であれば核保有も可能である」という憲法解釈を示しつつ、政策的には「核兵器を持たず」の原則を答弁した。
1957年(昭和32年)5月15日に政府の統一見解として「原水爆を中心とする核兵器は自衛権の範囲に入らないが、将来開発されるものなどをことごとく憲法違反とするのはいきすぎである」と表明。なお、同日、イギリスがクリスマス島で初の水爆実験に成功している。
1958年(昭和33年)8月23日、中国人民解放軍は台湾の金門守備隊に対し砲撃を開始(金門砲戦)し、第二次台湾海峡危機が勃発する。中共軍は、44日間に50万発もの砲撃を加えた。中華民国側は9月11日に中国との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。この武力衝突でアメリカは台湾を支持するが、10月6日には中国共産党が「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言し、アメリカとの全面戦争を避け、アメリカもダレス国務長官を通じて台湾に対して金門・馬祖島まで撤収のを条件に、援助すると伝えたところ、蒋介石は10月21日からの三日間の会談で、アメリカの提案を受け入れるが、中国大陸反撃を放棄しない旨もアメリカへ伝えた。この中共による台湾攻撃は、原子力潜水艦関連の技術をソ連から供与してもらうことが目的だったとされる[7]。
こうした緊迫する東アジア情勢をうけて、岸は1959年(昭和34年)3月2日の参議院予算委員会でも「防衛用小型核兵器は合憲である」との判断を明らかにした。翌1960年(昭和35年)には、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新安保条約)が締結されている。
部分的核実験禁止条約批准
国際情勢は1962年(昭和37年)のキューバ危機を経て、池田内閣の1963年(昭和38年)8月14日に部分的核実験禁止条約に調印、翌1964年(昭和39年)6月15日に批准した。
中国の核兵器装備と日本の核武装構想
しかし、中華人民共和国は1964年(昭和39年)6月29日、東風2号Aの発射試験が成功。続いて7月19日、観測ロケットT-7A (S1)の打ち上げと回収に成功[8]。そして1964年10月16日、初の中国核兵器(コードネーム596)が核爆発に成功し、中国の最初の原爆実験となった(596参照)。同10月27日には、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルが酒泉より発射され、20キロトンの核弾頭がロプノールの標的上空569mで爆発した。
この中国の核実験の成功を受けて、佐藤栄作は日本の核武装の必要性を認識し、1964年12月29日のライシャワー駐日大使との会談で、日本の核武装論について言及した[9]。翌年の日米首脳会談で、リンドン・ジョンソン大統領は日本の核武装に反対しながらも会談後に発表された日米共同声明では「米国が外部からのいかなる武力攻撃に対しても日本を防衛するという安保条約に基づく誓約を遵守する決意であることを再確認する」と公約された[9]。こうした佐藤総理の交渉について春名幹男は、日本核武装論でアメリカ側を驚かせ、核の傘を得る戦略で成功した、と指摘している[9]。ただし米国は日本が中国・ロシアから核攻撃を受けたら核で反撃すると表明したことはこれまでに一度もない。
非核三原則の表明
こうしたなか1967年(昭和42年)12月8日の衆議院本会議で、公明党の竹入義勝議員が「(アメリカ合衆国からの)小笠原の返還にあたって、製造せず、装備せず、持ち込まずの非核三原則を明確にし得るかいなか、見通しを伺いたい」と質問したのが、国会議事録に非核三原則という言葉が載った最初である[10]。
1967年(昭和42年)12月11日の衆議院予算委員会において日本社会党委員長の成田知巳が、アメリカ合衆国から返還の決まった小笠原諸島へ核兵器を再び持ち込むことへの可能性について政府に対して質問した際、佐藤栄作内閣総理大臣が、日本は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を主張するということを示した[11]。
佐藤栄作総理による施政方針演説
1968年(昭和43年)1月30日の施政方針演説においても佐藤総理は、この三原則を含めた核政策の4本柱を表明(非核三原則、核廃絶・核軍縮、米への核抑止力依存、核エネルギーの平和利用)[12]した。その後、返還後の沖縄においても非核三原則が適用されるのかという問題に関して三木武夫外務大臣は当然適用されると主張したのに対し、返還交渉がこじれる事を危惧した佐藤栄作が三木発言を非難するなどの紆余曲折があった。
なお、当時の世論調査では非核三原則に賛成する意見はほとんど見受けられなかった[13]。
1960年代末から1970年代にかけて米ソデタント(緊張緩和)となる。
沖縄返還協定の付帯決議
1971年(昭和46年)11月24日、佐藤栄作は最終的に非核三原則を沖縄にも適用させるべきと決断し、衆議院で沖縄返還協定の付帯決議として「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」を議決した。非核三原則を国是とすることにあたり、核の脅威に対してはアメリカの核抑止力に依存すると1972年(昭和47年)10月9日に閣議決定した。
非核三原則を示したことによって1974年(昭和49年)に、佐藤栄作はノーベル平和賞を受賞した。受賞理由と佐藤の実態との乖離から、ノーベル平和賞委員会が発行した記念誌の執筆者の一人であるオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」とのちに見解を述べた。
2009年(平成21年)になって沖縄に核兵器が持ち込まれていた事実が明らかになった。
核拡散防止条約批准の際の付帯決議
1976年(昭和51年)4月27日に衆議院外務委員会で核拡散防止条約 (NPT) 採決後に、
(1) 政府は、核兵器(核燃料、核廃棄物)を持たず、作らず、持ち込まさずとの非核三原則が国是として確立されていることにかんがみ、いかなる場合においても、これを忠実に履行すること。
という項目を含む付帯決議をした[1]。参議院外務委員会においても5月21日に、
(1) 核兵器を持たず、作らず、持ち込ませずとの非核三原則が国是として確立されていることにかんがみ、いかなる場合においても、これを忠実に遵守すること。
という項目を含む付帯決議を同様に決議した[1]。「持ち込まさず」と「持ち込ませず」の2通りの表現が使われている。
国是決議
1978年(昭和53年)5月23日に衆議院で、第1回国際連合軍縮特別総会に関して、「非核三原則を国是として堅持する我が国」という表現を含む決議を採択した。また、同様の表現を含む国会の決議は、核軍縮に関する衆議院外務委員会決議(1981年6月5日)、第2回国際連合軍縮特別総会に関する衆議院本会議決議(1982年5月27日)及び参議院本会議決議(1982年5月28日)でされている[1]。
法的位置づけ
「核兵器を持たず、作らず」の日本独自の核兵器の保有・製造に関する2項目については、1955年(昭和30年)に締結された日米原子力協力協定や、それを受けた国内法の原子力基本法および、国際原子力機関(IAEA)、核拡散防止条約(NPT)等の批准で法的に禁止されている。
非核三原則は国会決議ではあるが法律や条約ではないため、非核三原則の一つである「核兵器を持ち込ませず」には法的な拘束力はないとされている[14]。反核団体からは「核兵器を持ち込ませず」についても法制化をすべきと主張されている[15]。
非核四原則
2016年3月31日、アントニオ猪木は参議院外交防衛委員会の質疑で、2015年の安保法見直し議論の中で中谷元防衛大臣が「自衛隊による核兵器の輸送も法文上排除していない」との発言を「日本の非核三原則が軽んじられている」と批判したうえで、非核三原則に核兵器を「運ばず」の条文を加えた「非核四原則」の法整備を政府に求めた。水嶋光一外務大臣官房審議官は、「核兵器を輸送しないとの考えは、非核三原則の趣旨、精神に沿ったもの」との認識を示したが、法整備をしてこなかった理由を以下のように述べ、非核四原則の法整備の考えが安倍内閣に無いとの認識を示した[16]。
大量破壊兵器の拡散防止にも積極的に取り組んでいる我が国が核兵器を輸送することはあり得ないということでございます。また、その高度の秘匿性や安全確保の必要性から、外国が核兵器の輸送を我が国に要請することなどあり得ないことだというふうに承知しております。非核三原則を堅持する我が国としましても、核兵器を輸送するために必要な知見等を有しておらず、輸送することはあり得ないという認識であります。このような我が国は核兵器を輸送しないとの考えは、非核三原則の趣旨、精神に沿ったものであります。なお、非核三原則は内外に十分周知徹底されていることから、改めて法制化する必要はないと考えております。そして、今後の外務省の見解についてでございますけれども、非核三原則については歴代内閣はこれを堅持してきております。政府として、国会等の場を通じてこの方針を累次表明してきておりまして、内外に十分周知徹底されることから、改めて法制化することもないと考えております。 — 水嶋光一外務大臣官房審議官、2016年3月31日 第190回国会参議院外交防衛委員会会議録第10号
歴代内閣
佐藤内閣以降の歴代の内閣総理大臣は施政方針演説等において、この三原則を遵守することを表明している[17]。これは非自民首相であった細川護熙、羽田孜、村山富市も三原則の遵守を表明していた。
2002年(平成14年)5月30日、福田康夫内閣官房長官がオフレコとして「非核三原則は、国際情勢が変化したり、国民世論が変化したり、国民世論が核をもつべきだとなれば、変わることがあるかもしれない」「核兵器は理屈から言って持てる」「政策判断として持つのはやめるというのが非核三原則」という日本国防衛上正当とされるが、歴代内閣の流れを覆すかの様な発言をして物議を醸した。このとき石原慎太郎が激励の電話を入れた上で『諸君!』1970年10月号に載せた論評「非核の神話は消えた」の全文コピーを送っている。
2009年(平成21年)9月に鳩山由紀夫内閣は過去の核の持ち込みに関する調査をし、2010年(平成22年)3月に公表した(日米核持ち込み問題)。
安倍内閣施政下の2016年、非核三原則に対する認識を質した民進党の横路孝弘衆議院議員の質問に、大臣就任前に「日本独自の核保有を国家戦略として検討すべきである」との核保有論を主張していた稲田朋美は以下のように答弁した[18]。
私は今、安倍内閣の防衛大臣として答弁をいたしております。安倍内閣の一員として、防衛大臣として、さらには唯一の被爆国として、今るる委員がおっしゃったことなどを踏まえ、さらには、非核三原則を守り、核なき世界の実現を目指してまいる所存でございます。 — 稲田朋美国務大臣、2016年11月25日 第192回国会衆議院安全保障委員会会議録第4号
特定海域
領海を12海里とする主張が世界的に優位になったことを受け、日本は1977年(昭和52年)に領海法を制定し、これまでの3海里の幅の領海を12海里に拡張した。この立法趣旨に従えば5海峡(宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡東水道、同西水道、大隅海峡)は領海が12海里になるはずだが、この5海峡にかぎって3海里に留められている。その理由は非核三原則にあるといわれている[19]。
仮に、この5海峡の領海幅を3海里から12海里にしてしまうと、5海峡は完全に日本の領海になる。一方、国際法(海洋法条約38条2)では、国際海峡における外国の船舶及び航空機の無害通航権が認められている(それは核兵器を搭載した外国の軍艦あるいは軍用機であっても同じである)。とすると、核兵器を搭載した外国の軍艦が当該海峡を通過する場合、日本は国際法上、軍艦の通過は拒否できず、結果として領海内に核兵器が持ち込まれたこととなり、非核三原則の「持ち込ませず」の原則を堅持できなくなるのである[19]。
そこで、海峡上に領海に含まれない海域を残し、核兵器を搭載した軍艦をこの海域上を通航させることによって、こういった事態に対処しようとしたのである[19]。
その他
- 非核三原則を表明した佐藤栄作は1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で「非核三原則はナンセンスだ」と発言したことが、アメリカの公文書から明らかになっている。
- 「核の持たず、つくらず」は堅持した上で「核の持ち込み」については日本の領土に配置を認めないが、日本の領海において寄港や通航を認めることを「非核二・五原則」と表現させることがある[20]。
ウクライナの非核三原則
ウクライナは、1990年(平成2年)7月16日に最高議会が採決した「ウクライナ主権宣言」の中で「核兵器を受け入れない、作らない、手に入れないという非核三原則 (ウクライナ語: трьох неядерних принципів: не приймати, не виробляти і не набувати ядерної зброї, 英語: three nuclear free principles: to accept, to produce and to purchase no nuclear weapons)」を謳っている[21](ただし、駐ウクライナ大使館では「核兵器を使用せず、生産せず、保有しないという非核三原則」としている[22])。
当時、ウクライナ国内にはソ連の核兵器が大量に配備されていたが、1991年(平成3年)10月24日の「非核化に関する最高議会声明」、1992年(平成4年)5月23日のSTARTI附属議定書(リスボン議定書)を経て、1996年(平成8年)までにはそれらを全てロシアに移送し非核を実現した。
脚注
- ^ a b c d 外務省「非核三原則に関する国会決議」
- ^ 第19回国会本会議第29号議事録、1954年4月5日 - 参議院議事録情報
- ^ 野崎哲「非核三原則の形成過程について(メモ)」
- ^ 1957年(昭和32年)2月5日衆議院本会議 11国務大臣(岸信介君)
- ^ 1957年(昭和32年)2月8日衆議院予算委員会 5国務大臣(岸信介君)
- ^ 1957年(昭和32年)5月7日参議院予算委員会 161国務大臣(岸信介君)
- ^ チアン & ハリデイ, p. 148
- ^ “回收生物返回舱”. 雷霆万钧 (September 19, 2005). July 24, 2008閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c 春名幹男「『偽りの平和主義者』佐藤栄作」『月刊現代』2008年9月号,講談社。
- ^ 国会議事録検索システム
- ^ 1967年(昭和42年)12月11日衆議院予算委員会 議事録
- ^ 1968年1月30日衆議院本会議議事録
- ^ 1968年2月10日 朝日新聞
- ^ “【政治部遊軍・高橋昌之のとっておき】佐藤元首相の密約文書(上)当時はやむをえない決断 (3/4ページ)”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2009年12月26日). オリジナルの2009年12月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ 長崎新聞 2010年3月10日
- ^ 参議院事務局 (31 March 2016). 第190回国会参議院外交防衛委員会会議録第10号 (PDF). 外交防衛委員会. 参議院. p. 14. 2017年5月15日閲覧。
- ^ 参議院議員立木洋君提出核兵器廃絶に関する質問に対する答弁書 - 参議院
- ^ 衆議院事務局 (25 November 2016). 第192回国会衆議院安全保障委員会会議録第4号 (PDF). 安全保障委員会. 衆議院. p. 12. 2017年5月15日閲覧。
- ^ a b c “核通過優先で5海峡の領海制限 元外務次官証言”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2009年6月21日) 2010年3月15日閲覧。
- ^ “外務省が二・五原則化を模索 非核三原則堅持の内閣に重い課題 密約参考人質疑”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2010年3月19日) 2010年3月20日閲覧。[リンク切れ]
- ^ ウクライナ最高議会「ウクライナ主権宣言」ウクライナ語(2007年5月21日時点のアーカイブ)・英語(2006年3月25日時点のアーカイブ)
- ^ 在ウクライナ日本国大使館「ウクライナ概観(2010年5月更新)」(2010年5月27日時点のアーカイブ)
参考文献
- 中馬清福「密約外交」文春新書.2002年.
- 若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』文藝春秋社、新装版2011年。
- ユン・チアン; ジョン・ハリデイ (2005). マオ 誰も知らなかった毛沢東. 下巻. 講談社. ISBN 978-4062132015
関連項目
外部リンク
- “次官経験者の証言要旨 核持ち込み日米密約”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2009年5月31日) 2013年7月3日閲覧。
- “核密約/キーワード”. しんぶん赤旗 (日本共産党) 2013年7月3日閲覧。