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ビッグマウスと[[K-1]]との提携で、「[[HERO'S]]」([[総合格闘技]]イベント)発足時より「スーパーバイザー」として参加。同興行の看板役の他に、試合ルールの運用、選手発掘などを行う。しばしば記者会見等の公の場に姿を現した。 |
ビッグマウスと[[K-1]]との提携で、「[[HERO'S]]」([[総合格闘技]]イベント)発足時より「スーパーバイザー」として参加。同興行の看板役の他に、試合ルールの運用、選手発掘などを行う。しばしば記者会見等の公の場に姿を現した。 |
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[[2007年]]10月5日、「HERO'S KOREA 2007」の開催発表記者会見に出席。前日10月4日に[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]事務所が閉鎖され活動停止となったことに関し「天網恢々粗にして漏らさず」と発言。同日深夜、HERO'S公式サイトで[[谷川貞治]]が「不適切な発言」と謝罪文を掲載する事態となった<ref>[http://web.archive.org/web/20071011000154/http://www.hero-s.com/01herosnews/20071005_2/20071005_2.html HERO'S 前田日明氏の発言に対する謝罪] HERO'S公式サイト 2007年10月5日(2007年10月11日時点の[[インターネット |
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同年12月31日、「[[K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!]]」で田村潔司vs[[所英男]]の試合後のリング上にプレゼンターとして登場。勝利者賞のトロフィーを田村に放り投げるように押しつけるトラブルを起こした<ref>[http://web.archive.org/web/20080103163658/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/k1/live/2007/2007123103/7.html HERO'S 「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」第6試合] スポーツナビ(2008年1月3日時点の[[インターネット |
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[[2008年]]2月15日、「THE OUTSIDER」(後述)の記者会見を開き、HERO'Sの発展的解消に伴い同イベントのスーパーバイザーを降板したことが発表された。それまで確執が取り沙汰されていた旧PRIDEとHERO'Sとの連立イベント[[DREAM (格闘技イベント)|DREAM]]については「めでたいこと」と述べた<ref>[http://web.archive.org/web/20080221173413/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200802/at00016365.html 前田日明氏がSV降板、アマMMA大会「THE OUTSIDER」開催へ] スポーツナビ 2008年2月15日(2008年2月21日時点の[[インターネット |
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=== THE OUTSIDER === |
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[[2008年]]1月21日、RINGS公式サイトで、いわゆる「不良」を主な対象としたアマチュアの格闘技大会「[[THE OUTSIDER]]」の立ち上げを発表し<ref>[http://www.angle-j.com/archives/2008/02/15_1835.php 「ジョーがいたら俺が段平になる」前田が総合格闘技のアマチュアを確立する!] angle JAPAN 2008年1月15日</ref><ref>[http://web.archive.org/web/20080218171521/http://www.rings.co.jp/new/new_071226.php THE OUTSIDER 参加者募集] RINGS公式サイト 2008年1月21日(2008年2月18日時点の[[インターネット |
[[2008年]]1月21日、RINGS公式サイトで、いわゆる「不良」を主な対象としたアマチュアの格闘技大会「[[THE OUTSIDER]]」の立ち上げを発表し<ref>[http://www.angle-j.com/archives/2008/02/15_1835.php 「ジョーがいたら俺が段平になる」前田が総合格闘技のアマチュアを確立する!] angle JAPAN 2008年1月15日</ref><ref>[http://web.archive.org/web/20080218171521/http://www.rings.co.jp/new/new_071226.php THE OUTSIDER 参加者募集] RINGS公式サイト 2008年1月21日(2008年2月18日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、3月30日に[[ディファ有明]]において旗揚げ大会を開催した<ref>[http://www.angle-j.com/archives/2008/03/31_0000.php 第1回THE OUTSIDERを、前田CEOは「70点」「(乱闘の数は)想定以下」と評価] angle JAPAN 2008年3月31日</ref>。 |
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== 獲得タイトル == |
== 獲得タイトル == |
2017年9月4日 (月) 15:17時点における版
この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 (2006年7月) |
前田 日明 | |
---|---|
プロフィール | |
リングネーム |
前田 日明 前田 明 クイック・キック・リー |
本名 | 前田 日明 |
ニックネーム |
格闘王 壊し屋 黒髪のロベスピエール スパークリング・フラッシュ |
身長 | 192cm |
体重 | 115kg |
誕生日 | 1959年1月24日(65歳) |
出身地 | 大阪府大阪市 |
スポーツ歴 | 空手 |
トレーナー |
アントニオ猪木 山本小鉄 佐山聡 カール・ゴッチ 藤原喜明 シーザー武志 田中正悟 |
デビュー | 1977年8月25日 |
引退 | 1999年2月21日 |
前田 日明(まえだ あきら、1959年1月24日 - )は、新日本プロレス、UWF、リングスで活躍した元格闘家で実業家
元HERO'Sスーパーバイザー。総合格闘技大会THE OUTSIDERのプロデューサー。大阪府大阪市出身。韓国系日本人で民族名は高 日明(こう・にちめい、コ・イルミョン、고일명)(詳しくは人物にて後述)。血液型はA型。
来歴
プロレスへのきっかけ
少年時代は1966年に放送された特撮テレビ番組『ウルトラマン』に熱中。その中で1967年4月9日に放送された最終回「さらばウルトラマン」において初代ウルトラマンが宇宙恐竜ゼットンに倒されたのを見てショックを受け、ウルトラマンの仇を討つため打倒ゼットンを志し少林寺拳法を習い始めた(小学生で初段を取得)。北陽高校時代は空手、バイクに熱中した。空手は無想館拳心道館長岩崎孝二から学んだ(二段を取得)。極真空手の大山倍達の弟子達のようにアメリカで空手の道場を開きたいという夢を持っていた。大学受験に失敗し、アメリカに行く金を貯めるためアルバイトに暮れる[1]。
新日本プロレス
1977年、佐山聡にスカウトされ新日本プロレスへ入団。翌年8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。新日本プロレスの社長兼エースのアントニオ猪木に憧れて入団したのではなく、「モハメド・アリのジムと提携してるので一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる」と新間寿に言われたのが理由である。金を貯めなくてもアメリカに行け、ベニー・ユキーデと戦うこともできると考えていた[1]。実際は提携の事実はなく、新間が半ばだました形で入団をさせた(当時、ベニー・ユキーデは新日のリングに上がっていたが、前田とは対戦する機会はなかった)。
大型であることから将来のエース候補として期待され、1982年2月に海外修行でイギリスへ渡り、「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミックのもと、クイック・キック・リー(Kwik-Kik Lee)のリングネームで活躍[2]。1983年1月25日にはウェイン・ブリッジを破り、かつてビル・ロビンソンやホースト・ホフマンも戴冠したヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得[3]。同年春のIWGP決勝リーグ戦に「欧州代表」として凱旋出場し、それに先駆ける4月21日の凱旋帰国試合では、ポール・オーンドーフを相手にリバース・アームソルトにてピンフォール勝ちを収めた。同年暮れの第4回MSGタッグ・リーグ戦には 藤波辰巳との「フレッシュ・コンビ」で出場。長身を生かしたスープレックスや、相手をロープに飛ばしてのフライング・ニール・キックなど、ダイナミックな技で人気レスラーとなった。また、甘いマスクで女性ファンも多く、帰国した年のファンクラブの集まりでは女性が多かったことが週刊プロレスで報じられている。
第1次(旧)UWF
1984年2月29日の合同練習を最後に前田は新日本プロレスを離脱し、当時のWWF会長だった新間寿の仲介で3月よりWWFに遠征[4]。同月25日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカナダのピエール・ラファエルを破り、新設されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得[5]。ベルトには「UWF」の文字が中央に大きく施されており、その後、前田は第1次UWFへの移籍を表明した[4]。なお、このWWF遠征における前田はベビーフェイスのポジションで、アイアン・シーク、レネ・グレイ、ワイルド・サモアンズ、ジェリー・バリアント、タイガー・チャン・リー、ミスター・フジ、デビッド・シュルツ、ジョージ・スティールなどのヒール勢と対戦し、トニー・アトラスやS・D・ジョーンズ、トニー・ガレアらとタッグを組む一方、ロッキー・ジョンソンやブライアン・ブレアーなど同じベビーフェイス陣営との試合ではヒールの役割を担った[4][6]。また、新日本プロレスでの若手時代に世話になったロディ・パイパーや、前年の凱旋帰国時の対戦相手だったポール・オーンドーフとも再会し、旧交を温めたという[4]。
UWF参加は理想や夢のためではなく、母親が怪我で入院したため移籍金が必要だったと前田は証言している[7]。UWFでは若きエースとして迎えられ、4月11日に開幕したオープニング・シリーズでは、旗揚げ戦のメインイベントでダッチ・マンテルに勝利[8]。最終戦の蔵前国技館大会では、当時まだ新日本プロレスに所属していた藤原喜明と流血戦を演じた(裁定は両者KO)[9]。その後、UWFは佐山聡の影響によりキックと関節技を中心とした格闘技色の濃いプロレススタイル(後にUWFスタイルと呼ばれる)に移行するが、格闘技の試合は月に一度と言う“競技志向”の佐山と、会社が大変なんだから試合を増やそうという“興行志向”の前田が対立し、同団体は解散。ただし後の第2次UWF、リングスでは試合は月に一度という形を踏襲している。
1985年12月6日、藤原喜明、木戸修、高田伸彦(現:高田延彦)、山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本に復帰。前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。
1986年4月29日、三重県津市体育館において新日本サイドの不可解なマッチメイクで、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチだと言われているが、最後はアンドレが試合を放棄してしまい、26分35秒ノーコンテストに終わる。
同年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」で、ドン・中矢・ニールセンとの「異種格闘技戦」を、逆片エビ固めでギブアップさせ勝利、この試合を期に「新格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになった。この試合について、後年、ニールセンは「ここはこうやって、その次はこう、と流れを決めたわけではなかった。でも、ボクが言われたのは“試合を盛り上げてくれ”ということ。そして、1Rにいいパンチが入ったのに、セコンドに“アーリーノックアウトはダメだ”って言われた」と、プロレス雑誌『kamipro』で証言した。
1987年11月19日[10]、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、前田が木戸修にスコーピオン・デスロックをかけていた長州力の背後から正面へ回り込み、顔面をキック(敵の固め技から味方を救うこの様な攻撃はカットまたはセーブと呼ばれる)、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた(長州vs前田 顔面蹴撃事件)。(前田本人は「長州さんに蹴りを入れる前に肩を叩き”今から蹴りますよ”と合図を送ったが肩を叩かれた長州さんが横を向いてしまった」。「事件ではなく事故」。 と語っている)このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否したことにより1988年2月1日に新日本プロレスからプロレス道にもとる行為を理由に解雇される。後に前田は、プロレス雑誌「Gスピリッツ」[要ページ番号]におけるインタビューで、全日本プロレスでの天龍・輪島戦の衝撃に対抗するため顔面蹴りを試みたところ、長州が顔を反らしてしまったためにアクシデントに至ってしまったと証言している(和解済み)[要出典]。また当時マッチメイカーであり、またこの試合でレフェリーを務めていたミスター高橋によれば、セーブとしては激しい攻撃でありまた当たり所も悪く、「プロレスでやってはいけない攻撃」ではあり[10]、長州の怪我の状態が深刻であること、および長州がリング上での報復を意図していた事を鑑み予定を変えその場で試合終了とした[10]。高橋によればこのように、強力な攻撃が急所に入ってしまう事故は珍しいものではなく、通常は後に謝罪すれば収まるものであるのだが[10]、そこを猪木が(危険な攻撃は)「プロレス道にもとる」として追放処分にしてしまった判断は、「プロレスとは相手に怪我をさせないように執り行う物である」と言ったようなものだと疑問視し、むしろ遺恨試合というアングルに繋げるべきではなかったかと指摘している しかし、実際に前田を追放したのは長州派閥であり、猪木は前田を伴って座禅を組みに行く等離脱前に関係は修復されていた。[10][注釈 1]。
第2次(新生)UWF
第2次(新生)UWFは、1988年5月12日に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ戦を行った。当時、創刊されたばかりの格闘技通信は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢した。第2次UWFは格闘技であることを標榜した、競技色の強いプロレスであった。
その後、前田とUWFの社長・神新二との間で、神社長の会社の株式の無断の独占問題と不明朗な経理で問題が発生。1990年10月、前田は船木誠勝戦直後に、フロントを非難。これを受けたフロントは前田を出場停止処分とする。この一連の前田とフロントとの確執は前田と所属選手間にも波及。翌1991年初頭に、前田は自宅マンションでの選手集会で第2次UWFの解散を宣言した。
リングス
- リングス設立
第2次UWF解散後の1991年春、リングスを設立。同年5月11日に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。リングスの興行はWOWOWで生放送された。さらには、UWF時代の人脈からオランダのクリス・ドールマンの全面協力を得ることになった。正道会館からは、石井和義館長が佐竹雅昭ら空手家をリングスに派遣した。石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積しそれが後のK-1の飛躍へとつながった。
- 前十字靭帯の断裂、側副靭帯損傷
旗揚げ第2戦前の練習で、前田は前十字靭帯断裂、側副靭帯の重傷を負った。その後しばらくはニーブレスをつけて強行出場を続けるが、最終的には手術を行い長期欠場となった。エース不在の興行的な穴はディック・フライ、ヴォルク・ハン、高阪剛、田村潔司、山本宜久、長井満也、成瀬昌由らが埋めることになる。この頃、リングスは旗揚げ当初より続いた外国人頼りのカードから脱却する。
- KOKルールの採用
1993年から始まったUFCの影響を受けて、1999年からリングスもバーリトゥードに近いKOKルールを採用した。KOKルールは、グラウンド状態での顔面への打撃は禁止であったが、スタンド状態での顔面打撃を認めた画期的なルールであった。佐山は初期の修斗ルールと同じと言っていたが、グラウンドでの腹部・腰部・足部への打撃有無の違いがある。
- ヒクソン・グレイシーとの対戦宣言
1998年に開催されたPRIDE.1では、高田延彦がヒクソン・グレイシーに敗北。これを機に、前田はヒクソンとの対戦を宣言し交渉を進めるが、ヒクソン側が高田延彦との試合を決めたため、実現することはなかった。
- リングス活動停止
1999年2月21日、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。しかしながら、ロシアの英雄であるカレリンをレスリング以外の場に唯一立たせた意義は大きい。カレリンとの引退試合は民放のニュース番組で特集されるほど、世間から注目されていた。後に前田は、引退試合の相手にカレリンを選んだ理由について「本当に強い人間っていうのは、こういうことだよっていうのを証明したかった」と語っている[11]。
WOWOWによる次年度よりの放映打ち切り決定により、2002年にリングスは活動停止。しかし、リトアニア、オランダ、ロシアでは大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営し、リングスKOKルールを採用した格闘技イベントZSTが開催されている。
ビッグマウス(ビッグマウス・ラウド)
2005年、元新日本プロレスの上井文彦に請われ、上井が旗揚げした新プロレスイベントビッグマウスにスーパーバイザーとして参画。同時に、船木誠勝と和解。
2006年2月26日、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行で、前田は船木と共にビッグマウス・ラウドを脱退。上井による会社資金の横領の露見、それによる資金難による団体所属選手および社員の給与未払い、道場を用意しようとしなかった等、上井の資金の使い込みをめぐる確執が脱退理由であった。
HERO'S
ビッグマウスとK-1との提携で、「HERO'S」(総合格闘技イベント)発足時より「スーパーバイザー」として参加。同興行の看板役の他に、試合ルールの運用、選手発掘などを行う。しばしば記者会見等の公の場に姿を現した。
2007年10月5日、「HERO'S KOREA 2007」の開催発表記者会見に出席。前日10月4日にPRIDE事務所が閉鎖され活動停止となったことに関し「天網恢々粗にして漏らさず」と発言。同日深夜、HERO'S公式サイトで谷川貞治が「不適切な発言」と謝罪文を掲載する事態となった[12]。
同年12月31日、「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」で田村潔司vs所英男の試合後のリング上にプレゼンターとして登場。勝利者賞のトロフィーを田村に放り投げるように押しつけるトラブルを起こした[13]。
2008年2月15日、「THE OUTSIDER」(後述)の記者会見を開き、HERO'Sの発展的解消に伴い同イベントのスーパーバイザーを降板したことが発表された。それまで確執が取り沙汰されていた旧PRIDEとHERO'Sとの連立イベントDREAMについては「めでたいこと」と述べた[14]。
THE OUTSIDER
2008年1月21日、RINGS公式サイトで、いわゆる「不良」を主な対象としたアマチュアの格闘技大会「THE OUTSIDER」の立ち上げを発表し[15][16]、3月30日にディファ有明において旗揚げ大会を開催した[17]。
獲得タイトル
- ヨーロッパ・ヘビー級王座[3]
- UWFヘビー級王座(元々はWWFインターナショナル・ヘビー級王座だったが、旧UWFとWWFの関係が消滅したと同時に改称される)
- IWGPタッグ王座(パートナーは高田延彦、木戸修)
得意技
- キャプチュード(Captured:捕獲投げ)
- 前田が開発した変形のフロント・スープレックス。相手のキックをキャッチし、腕と片足をフックして後ろに反り投げる。投げた後そのままピンフォールが出来る。落とす角度によっては相手を脳天から落とす事も出来る。技の名は入場テーマ曲のタイトル(『CAPTURED』)に由来(それ以前は「アキラスペシャル」と称されていた)。
- 各種スープレックス
- 当時のプロレス雑誌で公開された名称によると、ジャーマン・スープレックス・ホールド、ドラゴン・スープレックス・ホールド、リバース・アームサルト、ダブルリスト・アームサルト、ウンターグルフ・サルト、リバース・サルト、スロイダー、ハーフハッチ、ダブルアームロック・サルト、クォーターネルソン・サルト、デアポート・スロイダーの12種類を使用していた。
- 各種関節技
- 各種キック
- 藤波辰爾は「橋本のキックや蹴りは、ある程度リーチが分かり距離が取れるけど、前田のキックや蹴りは、膝下が勢いよく伸びるため、距離が取れず避け難い」と語っている。
- フライング・ニールキック
- 前田独特の軌道を描くニールキック(スタン・ハンセンのラリアットを足でという発想から生まれたと言われている)。横にひねりを加えつつジャンプし、踵を相手の顔面や胸元に当てる。
- 大車輪キック
- 縦回転で放たれるニールキック。足の長い前田が使用するのが「大車輪」の由来。藤波辰爾を大流血に追い込んだこともある(藤波を流血に追い込んだ時はコーナーに追い詰めてから「直角蹴り」(膝への前蹴り)からのコンビネーション)。また、余談だが、藤波の額には前田の大車輪キックで負った傷が未だに残っている。
- ジャンピング・ニーバット
- 新日での凱旋帰国後、坂口征二とタッグの際に多用。これは、対戦相手として多く組まれた外人選手がニールキックを受けるのを嫌ったことに起因する。
- ニー・リフト(膝蹴り)
- 首相撲から相手の腹部や顔面に膝蹴りを叩きこむ。繋ぎで使うことが多い。新生UWF時代に田村潔司を長期欠場(眼底骨折)に追い込んだのもこの技。
戦績
第1次(旧)UWF
勝敗 | 対戦相手 | タッグパートナー | 試合結果 | 会場 | 開催年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
○ | ダッチ・マンテル | 8分33秒 ジャーマンスープレックス | 大宮スケートセンター | 1984年4月11日 | UWF旗揚げ戦 | |
○ | ボブ・イースタン | 11分14秒 片エビ固め | 熊谷市体育館 | 1984年4月12日 | ||
○ | ダッチ・マンテル | 6分48秒 体固め | 下関市体育館 | 1984年4月14日 | ||
○ | スコット・ケーシー | 11分41秒 体固め | 岐阜 萩原町あさぎり体育館 | 1984年4月16日 | ||
△ | 藤原喜明 | 10分37秒 両者フェンスアウト | 蔵前国技館 | 1984年4月17日 | ||
○ | 高田伸彦 ザ・タイガー |
藤原喜明 | 16分24秒 ○藤原(原爆固め)高田× |
後楽園ホール | 1984年7月23日 | |
○ | フレンチ・マーテル | 8分53秒 三角絞め | 後楽園ホール | 1984年7月24日 | ||
○ | ランバージャック ジェリー・オルスキー ジャック・スヌーカ |
藤原喜明 高田伸彦 |
22分11秒 ○高田(三角絞め)ランバージャック× |
高崎市中央体育館 | 1984年8月29日 | |
○ | ピエール・ラファエル フレンチ・マーテル |
高田伸彦 | 16分47秒 ○前田(三角絞め)ラファエル× |
岡谷市民会館 | 1984年8月30日 | |
○ | ジャック・スヌーカ | 14分35秒 体固め | 古河市体育館 | 1984年8月31日 | ||
○ | ジェリー・オルスキー ジャック・スヌーカ |
藤原喜明 | 20分17秒 ○前田(アバラ折り)スヌーカ× |
戸倉町体育館 | 1984年9月2日 | |
○ | フレンチ・マーテル | 10分29秒 体固め | 上田市民体育館 | 1984年9月4日 | ||
○ | ピエール・ラファエル フレンチ・マーテル |
高田伸彦 | 16分49秒 ○高田(逆十字固め)マーテル× |
館林市民会館 | 1984年9月5日 | |
○ | マーク・ルーイン | 14分01秒 卍固め | 後楽園ホール | 1984年9月7日 |
UWF 新日本プロレス業務提携時
勝敗 | 対戦相手 | タッグパートナー | 試合結果 | 会場 | 開催年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
○ | 高田伸彦 | 11分59秒 逆片エビ固め | 後楽園ホール | 1986年1月3日 | UWF代表者決定リーグ戦 | |
○ | 小杉俊二 越中詩郎 |
木戸修 | 11分07秒 ○前田(腕ひしぎ十字固め)小杉× |
本庄市民体育館 | 1986年1月8日 | |
× | 藤原喜明 | 15分58秒 脇固め | 船橋市運動公園体育館 | 1986年1月10日 | UWF代表者決定リーグ戦 | |
○ | 金秀洪 星野勘太郎 |
山崎一夫 | 11分07秒 ○前田(腕ひしぎ十字固め)金× |
豊岡市民体育館 | 1986年1月14日 | |
○ | 高田伸彦 | 8分46秒 リングアウト | 姫路市厚生会館 | 1986年1月15日 | UWF代表者決定リーグ戦 | |
○ | 山崎一夫 藤原喜明 |
木戸修 | 12分05秒 ○前田(ヒザ十字固め)山崎× |
鳥栖市民体育館 | 1986年1月16日 | |
○ | 木戸修 | 13分16秒 ヒザ十字固め | 博多スターレーン | 1986年1月18日 | UWF代表者決定リーグ戦 | |
○ | 後藤達俊 ドン荒川 |
木戸修 | 12分52秒 ○前田(体固め)後藤× |
飯塚市体育館 | 1986年1月20日 | |
○ | 橋本真也 力抜山 |
木戸修 | 11分04秒 ○前田(逆十字固め)橋本× |
徳山市体育館 | 1986年1月22日 | |
○ | 山崎一夫 | 10分59秒 ヒザ十字固め | 静岡産業館 | 1986年1月24日 | UWF代表者決定リーグ戦 | |
○ | 藤原喜明 | 11分31秒 羽根折り腕固め | 豊川市体育館 | 1986年1月26日 | UWF代表者決定リーグ戦 | |
× | 木戸修 | 11分58秒 反則負け | 古河市体育館 | 1986年1月31日 | UWF代表者決定リーグ戦 | |
○ | 山崎一夫 | 11分04秒 ヒザ十字固め | 本吉総合体育館 | 1986年2月2日 | UWF代表者決定リーグ戦 | |
○ | 山崎一夫 藤原喜明 |
木戸修 | 13分28秒 ○前田(脇固め)山崎× |
白石市体育館 | 1986年2月3日 | |
× | 藤原喜明 | 12分21秒 両者リングアウト 延長7分26秒 足固め |
大阪城国際文化ホール | 1986年2月5日 | UWF代表者決定リーグ戦 | |
○ | 力抜山 | 10分45秒 片エビ固め | 熊谷市民体育館 | 1986年2月28日 | ||
× | 越中詩郎 木村健吾 藤波辰巳 |
高田伸彦 藤原喜明 |
13分28秒 ○藤波(原爆固め)高田× |
後楽園ホール | 1986年3月1日 | |
○ | ザ・ジャッカル | 5分57秒 体固め | 黒磯公会堂 | 1986年3月3日 | ||
○ | 星野勘太郎 越中詩郎 木村健吾 |
木戸修 藤原喜明 |
14分51秒 ○前田(アキレス腱固め)星野× |
横浜文化体育館 | 1986年3月4日 | |
○ | ブラック・キャット 星野勘太郎 藤波辰巳 |
山崎一夫 木戸修 |
16分45秒 ○前田(アキレス腱固め)キャット× |
勝田市総合体育館 | 1986年3月5日 | |
× | 越中詩郎 木村健吾 藤波辰巳 |
高田伸彦 藤原喜明 |
20分19秒 ○藤波(反則勝ち)前田× |
上田市民体育館 | 1986年3月7日 | |
△ | 星野勘太郎 ザ・コブラ 木村健吾 |
高田伸彦 藤原喜明 |
10分52秒 △木戸(両者リングアウト)コブラ△ |
館山市民センター | 1986年3月8日 | |
○ | ブラック・キャット 星野勘太郎 藤波辰巳 |
山崎一夫 藤原喜明 |
14分35秒 ○前田(アキレス腱固め)キャット× |
徳島市立体育館 | 1986年3月10日 | |
○ | 後藤達俊 越中詩郎 木村健吾 |
高田伸彦 木戸修 |
18分31秒 ○前田(三角絞め)後藤× |
柳井市体育館 | 1986年3月12日 | |
○ | ニック・キニスキー | 7分44秒 体固め | 大野城市体育館 | 1986年3月13日 | ||
○ | 星野勘太郎 木村健吾 藤波辰巳 |
高田伸彦 藤原喜明 |
19分02秒 ○前田(アキレス腱固め)星野× |
鹿児島県立体育館 | 1986年3月14日 | |
○ | マット・ボーン | 5分40秒 体固め | 柳川市民体育館 | 1986年3月15日 | ||
○ | ニック・キニスキー | 6分00秒 体固め | 直方市体育館 | 1986年3月17日 | ||
× | 星野勘太郎 坂口征二 藤波辰巳 |
木戸修 藤原喜明 |
12分54秒 ○坂口(反則勝ち)木戸× |
倉敷市水島体育館 | 1986年3月19日 | |
○ | 後藤達俊 越中詩郎 木村健吾 |
高田伸彦 木戸修 |
14分56秒 ○前田(レフリーストップ)後藤× |
長浜市体育館 | 1986年3月20日 | |
× | 上田馬之助 アントニオ猪木 |
藤原喜明 | 14分56秒 ○猪木(反則勝ち)藤原× |
岐阜産業館 | 1986年3月21日 | |
○ | 力抜山 越中詩郎 上田馬之助 |
木戸修 藤原喜明 |
15分45秒 ○前田(片エビ固め)力抜山× |
尾鷲市体育文化会館 | 1986年3月22日 | |
△ | 星野勘太郎 坂口征二 木村健吾 |
木戸修 藤原喜明 |
12分49秒 △木戸(両者リングアウト)木村△ |
犬山市体育館 | 1986年3月23日 | |
○ | ニック・キニスキー | 6分18秒 片エビ固め | 戸田市スポーツセンター | 1986年3月24日 | ||
× | 星野勘太郎 上田馬之助 木村健吾 藤波辰巳 アントニオ猪木 |
山崎一夫 高田伸彦 木戸修 藤原喜明 |
○木村(逆さ押さえ込み)山崎× ○藤原(アキレス腱固め)星野× ○前田(リングアウト)木村× △藤波(両者リングアウト)藤原△ △上田(両者リングアウト)前田△ ○猪木(裸絞め)高田× ○猪木(体固め)木戸× 33分38秒 猪木が一人残りで新日本の勝利 |
東京体育館 | 1986年3月26日 | 新日本vsUWF 5対5時間無制限 イリミネーションマッチ (勝ち残りタッグ戦) |
○ | ケリー・ブラウン ゲシュタポ |
木戸修 | 11分07秒 ○前田(体固め)ブラウン× |
後楽園ホール | 1986年4月11日 | |
○ | 小杉俊二 越中詩郎 |
藤原喜明 | 13分11秒 ○藤原(脇固め)小杉× |
所沢青果市場 | 1986年4月13日 | |
○ | 後藤達俊 越中詩郎 上田馬之助 |
木戸修 藤原喜明 |
11分10秒 ○木戸(反則勝ち)上田× |
米沢市営体育館 | 1986年4月15日 | |
○ | 後藤達俊 小杉俊二 上田馬之助 |
木戸修 藤原喜明 |
12分24秒 ○前田(逆十字固め)後藤× |
鶴岡市体育館 | 1986年4月16日 | |
○ | ランディ・コーレイ | 4分29秒 体固め | 一関体育文化会館 | 1986年4月17日 | ||
○ | ゲシュタポ マスクド・スーパースター |
木戸修 | 12分13秒 ○前田(原爆固め)ゲシュタポ× |
伊勢崎市民体育館 | 1986年4月18日 | |
× | 越中詩郎 上田馬之助 |
山崎一夫 | 10分44秒 ○上田(体固め)山崎× |
富士市吉原体育館 | 1986年4月19日 | |
○ | ゲシュタポ | 7分21秒 体固め | 木更津市倉形スポーツ会館 | 1986年4月20日 | ||
○ | ケリー・ブラウン | 3分48秒 体固め | 山口県体育館 | 1986年4月21日 | ||
△ | マスクド・スーパースター | 9分10秒 両者リングアウト | 宇部市俵田翁記念体育館 | 1986年4月22日 | ||
○ | ランディ・コーレイ | 5分39秒 体固め | 西都市体育館 | 1986年4月24日 | ||
○ | ディック・マードック | 14分51秒 反則勝ち | 熊本市体育館 | 1986年4月25日 | ||
○ | B・キャット 星野勘太郎 |
木戸修 | 10分44秒 ○前田(体固め)キャット× |
下関市体育館 | 1986年4月26日 | |
○ | ランディ・コーレイ | 6分1秒 片エビ固め | 大阪府立臨海スポーツセンター | 1986年4月27日 | ||
- | アンドレ・ザ・ジャイアント | 26分35秒 無効試合 | 津市体育館 | 1986年4月29日 | ||
○ | ケリー・ブラウン | 4分34秒 体固め | 岡崎市体育館 | 1986年4月30日 | ||
○ | 先鋒:山田恵一 次鋒:坂口征二 中堅:越中詩郎 副将:木村健吾 大将:藤波辰巳 |
先鋒:高田伸彦 次鋒:山崎一夫 中堅:木戸修 副将:藤原喜明 大将:前田日明 |
1本目 ○高田(14分27秒 アキレス腱固め)山田× 2本目 ○坂口(4分40秒 カナダ式背骨折)高田× 3本目 ○坂口(5分22秒 逆エビ固め)山崎× 4本目 ○木戸(3分33秒 首固め)坂口× 5本目 ○木戸(8分13秒 反則勝ち)越中× 6本目 ○木村(4分41秒 逆片エビ固め)木戸× 7本目 ○藤原(6分56秒 脇固め)木村× 8本目 ○藤波(8分56秒 逆さ押さえ込み)藤原× 9本目 ○前田(6分30秒 レフリーストップ)藤波× 前田の一人残りでUWFの勝利 |
両国国技館 | 1986年5月1日 | 新日本vsUWF 5対5シングル 勝ち抜き戦 (20分1本勝負) |
× | M・スーパースター D・マードック |
木戸修 | 11分04秒 ○マードック(首固め)木戸× |
後楽園ホール | 1986年5月16日 | |
× | ディック・マードック | 18分57秒 反則負け | 川崎市体育館 | 1986年5月17日 | IWGP王座決定リーグ戦 | |
○ | 越中詩郎 上田馬之助 |
高田伸彦 | 12分04秒 ○高田(反則勝ち)越中× |
東金中学校体育館 | 1986年5月16日 | |
△ | ケリー・フォン・エリック | 7分55秒 両者リングアウト | 後楽園ホール | 1986年5月19日 | ||
× | ワイルド・サモアン M・スーパースター |
木戸修 | 8分32秒 ○スーパースター(首固め)木戸× |
池の川中央体育館 | 1986年5月21日 | |
○ | キューバン・アサシン ワイルド・サモアン |
藤原喜明 | 9分44秒 ○前田(片エビ固め)アサシン× |
福山市体育館 | 1986年5月22日 | |
○ | T・セントクレアー C・アサシン クラウス・ワラス |
木戸修 藤原喜明 |
10分32秒 ○前田(片エビ固め)セントクレアー× |
久留米県立体育館 | 1986年5月23日 | |
× | K・V・エリック ワイルド・サモアン |
木戸修 | 13分14秒 ○エリック(首固め)木戸× |
八代市総合体育館 | 1986年5月24日 | |
○ | 越中詩郎 ザ・コブラ 上田馬之助 |
高田伸彦 藤原喜明 |
15分11秒 ○高田(反則勝ち)越中× |
佐賀スポーツセンター | 1986年5月25日 | |
○ | 後藤達俊 星野勘太郎 上田馬之助 |
山崎一夫 木戸修 |
12分38秒 ○前田(片エビ固め)後藤× |
大分荷揚町体育館 | 1986年5月26日 | |
○ | 小杉俊二 星野勘太郎 |
木戸修 | 12分27秒 ○前田(片エビ固め)小杉× |
福岡国際スポーツセンター | 1986年5月27日 | |
○ | T・セントクレアー C・アサシン K・V・エリック |
山崎一夫 藤原喜明 |
13分56秒 ○前田(片エビ固め)アサシン× |
岡山武道館 | 1986年5月29日 | |
△ | ジミー・スヌーカ アンドレ・ザ・ジャイアント |
藤原喜明 | 10分40秒 △藤原(両者リングアウト)スヌーカ× |
広島県立体育館 | 1986年5月30日 | |
○ | ワイルド・サモアン | 8分50秒 片エビ固め | 兵庫県立文化体育館 | 1986年5月31日 | IWGP王座決定リーグ戦 | |
○ | 越中詩郎 上田馬之助 |
藤原喜明 | 7分23秒 ○藤原(反則勝ち)上田× |
福島県営白河市体育館 | 1986年6月1日 | |
○ | W・サモアン C・ワラス J・スヌーカ |
高田伸彦 木戸修 |
10分45秒 ○前田(片エビ固め)ワラス× |
青森市民体育館 | 1986年6月2日 | |
△ | 上田馬之助 木村健吾 |
木戸修 | 7分6秒 △前田(両者フェンスアウト)上田△ |
帯広市総合体育館 | 1986年6月3日 | |
△ | W・サモアン M・スーパースター |
木戸修 | 10分27秒 △前田(両者リングアウト)スーパースター△ |
室蘭市体育館 | 1986年6月4日 | |
○ | 上田馬之助 | 5分23秒 反則勝ち | 札幌中央体育センター | 1986年6月6日 | IWGP王座決定リーグ戦 | |
○ | ワイルド・サモアン | 10分33秒 片エビ固め | 小樽市総合体育館 | 1986年6月7日 | ||
○ | キューバン・アサシン | 6分39秒 片エビ固め | 八戸市体育館 | 1986年6月8日 | IWGP王座決定リーグ戦 | |
× | W・サモアン D・マードック |
木戸修 | 13分29秒 ○マードック(片エビ固め)木戸× |
弘前市体育館 | 1986年6月9日 | |
× | W・サモアン M・スーパースター |
山崎一夫 | 11分36秒 ○スーパースター(体固め)山崎× |
宮城県スポーツセンター | 1986年6月10日 | |
○ | 上田馬之助 木村健吾 |
藤原喜明 | 13分18秒 ○前田(反則勝ち)上田× |
南足柄市総合体育館 | 1986年6月11日 | |
△ | 藤波辰巳 | 22分05秒 両者KO | 大阪城国際文化ホール | 1986年6月12日 | IWGP王座決定リーグ戦 | |
○ | C・ワラス M・スーパースター |
藤原喜明 | 10分25秒 ○藤原(逆さ押さえ込み)ワラス× |
川越市民体育館 | 1986年6月13日 | |
○ | C・アサシン D・マードック |
木戸修 | 14分39秒 ○木戸(首固め)アサシン× |
浜松市体育館 | 1986年6月14日 | |
○ | ジミー・スヌーカ | 12分34秒 片エビ固め | 稲毛マリンピアスポーツアリーナ | 1986年6月15日 | IWGP王座決定リーグ戦 | |
○ | W・サモアン M・スーパースター D・マードック |
木戸修 藤原喜明 |
11分26秒 ○前田(片エビ固め)サモアン× |
愛知県体育館 | 1986年6月17日 | |
× | ディック・マードック | 16分22秒 リングアウト | 松戸市運動公園体育館 | 1986年6月18日 | IWGP王座決定リーグ戦 | |
○ | W・サモアン J・スヌーカ |
木戸修 | 11分55秒 ○前田(逆さ押さえ込み)サモアン× |
両国国技館 | 1986年6月19日 | |
△ | 木村健吾 | 6分58秒 両者フェンスアウト | 京都府立体育館 | 1986年6月20日 | 佐川急便杯トーナメント | |
△ | 上田馬之助 木村健吾 |
藤原喜明 | 10分20秒 △前田(両者フェンスアウト)木村△ |
後楽園ホール | 1986年7月4日 | |
○ | ジョニー・マンテル | 8分33秒 片エビ固め | 草加市健康都市記念体育館 | 1986年7月5日 | ||
○ | 後藤達俊 星野勘太郎 越中詩郎 |
高田伸彦 藤原喜明 |
12分25秒 ○前田(体固め)後藤× |
萩原町あさぎり体育館 | 1986年7月8日 | |
○ | ジョニー・マンテル | 8分41秒 片エビ固め | 長野スケートセンター | 1986年7月9日 | ||
○ | B・キャット 越中詩郎 木村健吾 |
山崎一夫 藤原喜明 |
13分22秒 ○前田(膝十字固め)キャット× |
恵那市体育館 | 1986年7月10日 | |
○ | ジョージ高野 木村健吾 |
木戸修 | 17分32秒 ○前田(反則勝ち)高野× |
春日井市総合体育館 | 1986年7月11日 | |
△ | 上田馬之助 木村健吾 |
木戸修 | 11分31秒 △前田(両者フェンスアウト)上田△ |
秩父市民体育館 | 1986年7月14日 | |
○ | ミスター・ポーゴ ケンドー・ナガサキ |
木戸修 | 11分02秒 ○木戸(反則勝ち)ポーゴ× |
富山市体育館 | 1986年7月15日 | |
○ | バッドニュース・アレン ハクソー・ヒギンズ |
藤原喜明 | 7分23秒 ○前田(体固め)ヒギンズ× |
高崎市体育館 | 1986年7月16日 | |
- | ミスター・ポーゴ ケンドー・ナガサキ |
藤原喜明 | 12分16秒 無効試合 |
松本市総合体育館 | 1986年7月18日 | |
○ | 越中詩郎 木村健吾 藤波辰巳 |
木戸修 藤原喜明 |
12分04秒 ○前田(片エビ固め)越中× |
後楽園ホール | 1986年7月19日 | |
△ | 木村健吾 | 8分52秒 両者フェンスアウト | 東急建設甲府駐車場特設リング | 1986年7月20日 | ||
× | アレックス・スミルノフ スティーブ・ウィリアムス |
木戸修 | 8分01秒 ×木戸(体固め)ウィリアムス |
新潟市体育館 | 1986年7月22日 | |
△ | ミスター・ポーゴ ケンドー・ナガサキ |
藤原喜明 | 10分48秒 △藤原(両者フェンスアウト)ポーゴ△ |
会津市体育館 | 1986年7月23日 | |
○ | J・マンテル B・アレン A・スミルノフ |
山崎一夫 木戸修 |
11分56秒 ○前田(体固め)マンテル× |
大船渡市体育館 | 1986年7月24日 | |
△ | スティーブ・ウィリアムス バッドニュース・アレン |
藤原喜明 | 14分58秒 △藤原(両者リングアウト)アレン△ |
秋田県立体育館 | 1986年7月25日 | |
△ | バッドニュース・アレン H・ヒギンズ |
木戸修 | 9分04秒 △前田(両者リングアウト)アレン△ |
大館市体育館 | 1986年7月26日 | |
○ | ジョニー・マンテル | 10分10秒 片エビ固め | 十和田市民体育館 | 1986年7月27日 | ||
○ | B・キャット 星野勘太郎 |
木戸修 | 9分49秒 ○前田(体固め)キャット× |
西明石弁財天町広場特設リング | 1986年7月29日 | |
△ | ハクソー・ヒギンズ | 6分49秒 両者リングアウト | 三田市ニチイ駐車場特設リング | 1986年7月27日 | ||
× | ミスター・ポーゴ ケンドー・ナガサキ |
木戸修 | 11分35秒 ○ナガサキ(首固め)木戸× |
福井市営体育館 | 1986年7月31日 | |
○ | ミスター・ポーゴ ケンドー・ナガサキ |
木戸修 | 12分00秒 ○木戸(エビ固め)ポーゴ× |
姫路市厚生会館 | 1986年8月1日 | |
○ | ジョニー・マンテル バッドニュース・アレン |
高田伸彦 | 11分36秒 ○前田(片エビ固め)マンテル× |
堺大浜相撲場特設リング | 1986年8月2日 | |
○ | 上田馬之助 | 7分1秒 反則勝ち | 大田原市城山公園特設リング | 1986年8月3日 | ||
× | 上田馬之助 木村健吾 |
木戸修 | 10分53秒 ○木村(反則負け)前田× |
諏訪湖スポーツセンター | 1986年8月4日 | |
○ | 木村健吾 藤波辰巳 |
木戸修 | 13分52秒 ○木戸(首固め)木村× |
両国国技館 | 1986年8月5日 | IWGPタッグ選手権 |
○ | J・マンテル H・ヒギンズ |
木戸修 | 9分50秒 ○前田(片エビ固め)マンテル× |
露橋スポーツセンター | 1986年8月7日 |
第2次(新生)UWF
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 会場 | 開催年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
○ | 山崎一夫 | 24分56秒 片羽締め | 後楽園ホール | 1988年5月12日 | 第2次UWF旗揚げ戦 |
○ | 高田延彦 | 25分18秒 片羽締め | 札幌中島体育センター | 1988年6月11日 | |
○ | ジェラルド・ゴルドー | 4R1分10秒 裏アキレス腱固め | 有明コロシアム | 1988年8月13日 | 異種格闘技戦 |
○ | 山崎一夫 | 10分50秒 KO | 博多スターレーン | 1988年9月24日 | |
× | 高田延彦 | 20分4秒 TKO | 露橋スポーツセンター | 1988年11月10日 | |
○ | ノーマン・スマイリー | 8分42秒 片羽締め | 大阪府立体育館 | 1988年12月22日 | |
○ | 高田延彦 | 28分58秒 逆エビ固め | 日本武道館 | 1989年1月10日 | |
○ | バート・ベイル | 10分44秒 腕十字固め | 徳島市体育館 | 1989年2月27日 | |
○ | 山崎一夫 | 12分43秒 ドクターストップ | 後楽園ホール | 1989年4月14日 | |
○ | クリス・ドールマン | 4R30秒 膝十字固め | 大阪球場 | 1989年5月4日 | 異種格闘技戦 |
○ | 山崎一夫 | 13分36秒 横三角絞め | 東京ベイNKホール | 1989年5月21日 | |
○ | 高田延彦 | 20分5秒 足首固め | 愛知県体育館 | 1989年6月14日 | |
○ | 安生洋二 | 10分42秒 逆片エビ固め | 博多スターレーン | 1989年7月24日 | |
○ | 藤原喜明 | 18分15秒 TKO | 横浜アリーナ | 1989年8月13日 | |
○ | ジョニー・バレット | 6分49秒 チキンウイングフェースロック | 長野市運動公園総合体育館 | 1989年9月7日 | |
○ | 宮戸成夫 | 6分15秒 腕ひしぎ逆十字固め | 後楽園ホール | 1989年10月1日 | |
○ | 田村潔司 | 2分19秒 レフリーストップ | 札幌中島体育センター | 1989年10月25日 | |
○ | ウィリー・ウィリヘルム | 2R1分28秒 膝十字固め | 東京ドーム | 1989年11月29日 | 異種格闘技戦 |
× | 高田延彦 | 23分4秒 裏アキレス腱固め | 日本武道館 | 1990年1月16日 | |
○ | 藤原喜明 | 14分14秒 裸絞め | 大阪府立体育館 | 1990年2月9日 | |
○ | 山崎一夫 | 9分52秒 裏アキレス腱固め | 南足柄市体育センター | 1990年2月27日 | |
○ | 中野龍雄 | 7分42秒 膝十字固め | 博多スターレーン | 1990年4月15日 | |
○ | 船木誠勝 | 18分2秒 片羽締め | 日本武道館 | 1990年5月4日 | |
○ | 鈴木みのる | 13分11秒 裸絞め | 宮城県スポーツセンター | 1990年5月28日 | |
○ | 高田延彦 | 18分2秒 膝十字固め | 大阪府立体育館 | 1990年6月21日 | |
× | 藤原喜明 | 12分47秒 脇固め | 札幌中島体育センター | 1990年7月20日 | |
○ | 安生洋二 | 13分52秒 裏アキレス腱固め | 横浜アリーナ | 1990年8月13日 | |
○ | 高田延彦 | 10分35秒 飛びつき逆十字固め | 愛知県体育館 | 1990年9月13日 | |
○ | 船木誠勝 | 16分56秒 裸絞め | 大阪城ホール | 1990年10月25日 |
リングス
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 会場 | 開催年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
○ | ディック・フライ | 11分5秒 逆片エビ固め | 横浜アリーナ | 1991年5月11日 | リングス旗揚げ戦 |
× | ディック・フライ | 8分1秒 TKO | 大阪府立体育館 | 1991年8月1日 | |
○ | ウィリー・ウィリヘルム | 10分00秒 膝十字固め | 札幌中島体育センター | 1991年9月14日 | |
○ | ヴォルク・ハン | 12分14秒 足首固め | 有明コロシアム | 1991年12月7日 | |
○ | ディック・フライ | 9分19秒 足首固め | 東京ベイNKホール | 1992年1月25日 | |
○ | ブザリアシビリ・ラマジ | 11分18秒 逆片エビ固め | 尼崎市記念公園総合体育館 | 1992年3月5日 | |
- | 木村浩一郎 | 5分00秒 エキシビジョンマッチ | 東京体育館 | 1992年3月26日 | 格闘技オリンピック |
× | ヴォルク・ハン | 17分28秒 ヒザ固め | 広島サンプラザホール | 1992年4月3日 | |
○ | ハンク・ニューマン | 5分25秒 KO | 有明コロシアム | 1992年5月16日 | |
○ | ハンス・ナイマン | 6分35秒 足首固め | 宮城県スポーツセンター | 1992年6月25日 | |
○ | ウィリー・ウィリアムス | 3R2分3秒 足掛け腕ひしぎ固め | 大阪府立体育館 | 1992年7月16日 | |
○ | アンドレイ・コピィロフ | 18分18秒 腕ひしぎ十字固め | 横浜アリーナ | 1992年8月21日 | |
○ | ヴォルク・ハン | 23分27秒 TKO | 名古屋レインボーホール | 1992年10月29日 | メガバトルトーナメント1回戦 |
○ | ディミータ・ペトコフ | 8分11秒 膝固め | 大阪府立体育館 | 1992年11月13日 | メガバトルトーナメント2回戦 |
× | クリス・ドールマン | 10分41秒 膝固め | 有明コロシアム | 1992年12月19日 | メガバトルトーナメント準決勝 |
○ | ヘルマン・レンティング | 8分58秒 膝十字固め | 東京ベイNKホール | 1993年1月23日 | メガバトルトーナメント3位決定戦 |
○ | ソテル・ゴチェフ | 6分16秒 逆片エビ固め | 福岡国際センター | 1993年10月23日 | バトルディメンションT1回戦 |
○ | ヘルマン・レンティング | 5分54秒 肩固め | 両国国技館 | 1993年11月18日 | バトルディメンションT2回戦 |
○ | クリス・ドールマン | 7分00秒 腕ひしぎ十字固め | 大阪府立体育館 | 1993年12月8日 | バトルディメンションT準決勝 |
○ | 長井満也 | 5分02秒 膝十字靱帯固め | 新潟市体育館 | 1993年12月25日 | |
○ | ビターゼ・タリエル | 8分57秒 変形足首固め | 日本武道館 | 1994年1月21日 | バトルディメンションT決勝 |
○ | アンドレイ・コピィロフ | 8分51秒 KO | 横浜アリーナ | 1994年3月19日 | |
○ | ピーター・ウラ | 7分12秒 腕ひしぎ十字固め | 広島サンプラザホール | 1994年4月23日 | |
○ | ウィリー・ウィリアムス | 2分38秒 腕ひしぎ十字固め | 仙台市体育館 | 1994年5月17日 | |
○ | ヴォルク・ハン | 18分06秒 変形足首固め | 有明コロシアム | 1994年6月16日 | |
○ | ディック・フライ | 2分54秒 足首固め | 大阪府立体育館 | 1994年7月14日 | |
○ | ツタハゼ・ザオール | 4分16秒 交差式足首固め | 横浜文化体育館 | 1994年8月20日 | |
× | ディック・フライ | 2分54秒 TKO | 大阪府立体育館 | 1994年9月21日 | |
○ | トニー・ホーム | 6分21秒 逆片エビ固め | 有明コロシアム | 1994年11月19日 | メガバトルT1994 3回戦 |
○ | 山本宜久 | 9分47秒 アキレス腱固め | 愛知県体育館 | 1994年12月16日 | メガバトルT1994 準決勝 |
○ | 山本宜久 | 11分44秒 アキレス腱固め | 新潟市体育館 | 1994年12月24日 | |
× | ヴォルク・ハン | 14分19秒 踵固め | 日本武道館 | 1995年1月25日 | メガバトルT1994 決勝 |
× | クリス・ドールマン | 3R 51秒 腕ひしぎ十字固め | アムステルダム | 1995年2月19日 | サンボジャケットマッチ |
○ | ディック・フライ | 5分38秒 踵固め | 有明コロシアム | 1995年3月18日 | |
○ | クリス・ドールマン | 5分26秒 踵固め | 東京ドーム | 1995年4月2日 | 週刊プロレス主催興行 |
○ | ビターゼ・タリエル | 6分25秒 裸絞め | 大阪府立体育館 | 1995年4月28日 | |
○ | ニコライ・ズーエフ | 10分10秒 裸絞め | 鹿児島アリーナ | 1995年5月20日 | |
○ | バロージャ・クレメンチェフ | 3分36秒 裸絞め | 有明コロシアム | 1995年6月17日 | |
○ | ダヴィド・ハハレイシヴィリ | 3分30秒 裸絞め | 大阪府立体育館 | 1995年6月17日 | |
× | アンドレイ・コピィロフ | 9分29秒 膝靱帯固め | 東京ベイNKホール | 1995年8月27日 | |
○ | ヴォルク・ハン | 9分41秒 腕ひしぎ十字固め | 札幌中島体育センター | 1995年9月22日 | |
○ | ディック・フライ | 4分58秒 アキレス腱固め | 福岡国際センター | 1995年10月21日 | メガバトルT1995 1回戦 |
○ | ビターゼ・タリエル | 5分12秒 裸絞め | 愛知県立体育館 | 1995年11月16日 | メガバトルT1995 2回戦 |
○ | ハンス・ナイマン | 3分48秒 膝十字固め | 大阪府立体育館 | 1995年12月19日 | メガバトルT1995 準決勝 |
○ | 山本宜久 | 17分59秒 踵固め | 日本武道館 | 1996年1月24日 | メガバトルT1995 決勝 |
○ | アンドレイ・コピィロフ | 4分59秒 腕ひしぎ十字固め | 愛知県立体育館 | 1996年10月25日 | |
○ | 藤原喜明 | 10分55秒 裸絞め | 大阪城ホール | 1996年11月22日 | |
○ | バロージャ・クレメンチェフ | 3分17秒 裸絞め | 福岡国際センター | 1996年12月21日 | |
○ | モーリス・スミス | 5分35秒 前方首折り固め | 日本武道館 | 1997年1月22日 | |
○ | 田村潔司 | 7分54秒 裸絞め | 東京ベイNKホール | 1997年3月28日 | |
× | ヴォルク・ハン | 8分47秒 膝固め | 大阪府立体育館 | 1997年4月22日 | |
○ | ビターゼ・タリエル | 7分18秒 裸絞め | 宮城県スポーツセンター | 1997年5月23日 | |
○ | ハンス・ナイマン | 9分4秒 首決め固め | 大阪府立体育館 | 1997年7月22日 | |
○ | 高阪剛 | 9分14秒 首決め固め | 鹿児島アリーナ | 1997年8月13日 | |
○ | アンドレイ・コピィロフ | 8分32秒 裸絞め | 札幌中島体育センター | 1997年9月26日 | |
○ | ニコライ・ズーエフ | 5分17秒 顔面絞め | 東京ベイNKホール | 1997年10月25日 | ワールドメガバトルT1997 1回戦 |
○ | 長井満也 | 17分00秒 首決め固め | 大阪府立体育館 | 1997年11月20日 | ワールドメガバトルT1997 2回戦 |
× | 田村潔司 | 14分14秒 腕ひしぎ十字固め | 福岡国際センター | 1997年12月23日 | ワールドメガバトルT1997 準決勝 |
○ | ヴォルク・ハン | 4分24秒 膝十字固め | 日本武道館 | 1998年1月21日 | ワールドメガバトルT1997 3位決定戦 |
× | ヴォルク・ハン | 5分43秒 腕ひしぎ十字固め | 大阪府立体育館 | 1998年4月16日 | |
△ | 山本宜久 | 20分00秒 引き分け | 横浜アリーナ | 1998年7月20日 | |
× | アレキサンダー・カレリン | 2R終了10分00秒 判定負け | 横浜アリーナ | 1999年2月21日 | 引退試合 |
人物
- 2006年12月、15年来の親友であったフリーカメラマンの女性と入籍した(2007年3月3日に自身のブログで発表)[18]。2007年5月には長男が誕生。2009年1月17日に結婚披露宴を行った。
- 現役引退後に自身が在日韓国人三世(韓国名:高 日明 コ イルミョン)であることを公にした。後に韓国訪問での体験などを経て帰化を決意。1983年に日本に帰化申請を行い、翌年受理された[19]。
- 中学生の時に両親が離婚。父親について行き兵庫から大阪に引っ越したが、父親は二ヶ月に一度くらいしか家に帰らず、前田は貧困と孤独と一階の町工場からの騒音と煙に苦しめられた。そんな精神状態の唯一の心の安らぎは旧日本軍の戦記物を読む事で、中学卒業後に自衛隊入隊かタンカーの船員になろうと考えたが、自衛隊も高等専門学校も日本国籍を有する事が応募資格であり、先述の事情からかなわなかった[1]。
- 自身をストリートファイトで1万戦無敗と称している[20]。
- 新日本デビュー当時のリングネームは「前田明」であったが、旧UWF旗揚げ時にリングネームを本名の「日明」に改名した。祖父への思いから「前田日明」に改名したと、後に「週刊プレイボーイ」で語っている。また、リングネームを本名に改名した当時の週刊プロレスの巻末クイズには、「Q.前田日明の日はどういう意味? A.日本という意味」と記載されている。
- 同じく新日の若手時代、寮でジョージ高野に鍛え抜かれた肉体を、同期の平田淳嗣やヒロ斉藤らとともに毎晩見せ付けられていた。
- 少年時代に『ウルトラマン』のゴモラが大阪城を破壊した翌日[21]、友達と自転車でその様子を確認に行ったが特に変化が見られなかった。そのため、近くで掃除をしていた男性に尋ねたところ「皆が徹夜で修理した」と聞かされた[22]。
- その『ウルトラマン』がゼットンに倒された事が格闘技を始めるきっかけとなったが、2014年1月29日のニコニコ生放送で行われた「ウルトラマン Blu-ray BOX III」発売記念番組にてゼットンとの対決が実現している[23]。
- 前述の少年時代にケンカに明け暮れていた頃、下位の力士に喧嘩を売ろうとしてたら当時横綱だった輪島大士に遭遇した、遠目で見ていてもあまりにも凄い威圧感を受けたためたじろいでしまった、後に輪島がプロレス転向した際は複雑な心境だったとのこと(その当時すでに前田はトップレスラーだったため)[24]。
- 1976年のデビュー以来幅広い団体・世代のレスラーと対戦してきた天龍源一郎と前田には直接の対戦経験は無いが、前田は第一次UWFから新日本にUターンしていた1980年代後半に、元横綱・輪島大士に硬いリングシューズで容赦ない蹴りを見舞う天龍を見て「あんな激しい戦いをされたら自分たちの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いたという。2011年にVersusにおいて天龍との対談が実現すると、前田は「ご意見番となる人がもういない。天龍さんにはプロレス界全体ににらみをきかせてもらいたい。こうじゃなきゃダメだって」、「リング上でものわかりの良すぎる今の若いレスラーをガツンと痛い思いをさせて欲しい」と、還暦を過ぎてもなおリングに立つ天龍にエールを送った。
- 1987年7月には極真会館の空手道選手・松井章圭と巻頭対談が『ゴング格闘技』八月号誌上で行われ、彼らは極真会館の空手家でキックボクサーの山崎照朝から直接指導受けたときの体験を語り合い、前田は山崎の人柄や指導内容を尊敬していると語っていた[25]。
- 1995年5月20日、リングス興行で鶴巻伸洋戦を終えた弟子・坂田亘に対し、試合内容の不甲斐無さなどを理由にバックステージでその場にあったイスで殴る、蹴るなどの鉄拳制裁を加えた。「やりすぎ」との一部の批判に対し、「俺が新日の若手時代で、しょっぱい試合でふんぞり返ったら、あんなもんじゃ済まない。もっと酷く先輩にボコボコに殴られた。」と答えている。
- 1997年初頭に発した「現役生活も残り少なくなった」との引退示唆発言は業界に戦慄を与え、特に長州力には衝撃的であったため、前田との一般雑誌での対談の際に何度も真意を問うた(過去の顔面蹴撃事件の遺恨はここで清算)。そして、自らの引退(一度目)と猪木のカウントダウンファイナルを前田の引退試合より先に組んだことを、後にオフレコ扱いで、ある雑誌のインタビューで語っていた。
- 近年の若手レスラーに対しては批判的なスタンスをとることが多いが、KENTAだけはその反骨的なスタイルが気に入ったのか、高い評価を与えている(月刊Gスピリッツ Vol.3より)。
- 六本木で前田より大柄の在日米軍5人組が、前田の愛車のベンツのボンネットに腰掛けて日本人を侮辱する態度を取ったのでハイキックなどで4人を倒した。最後の一人は「I like you」と言って対戦を拒んだ。前田は最後に「Don't be fun of Japanese」(日本人をなめんなよ)とセリフを残した(週刊プロレスのインタビューにて)。同じエピソードは新日の先輩の木村健吾にもある。
- 大の巨乳好きでも有名であり、かつて『リングの魂』が「最強の巨乳は前田日明が決める!」と題してリングスのイメージガールオーディションを企画したことがあるほど。その企画に審査員として呼ばれた前田は、オーディションに参加した女性(当然巨乳の女性ばかり集まった)の胸を手にしていたペンの先でつつくなど、その巨乳好きを披露した。また、「リングの魂」出演時には、当時グラビアアイドルとして売り出し中だった井上晴美自身から、写真集を直接プレゼントされ、思わず顔をほころばせる場面もあった。C.C.ガールズのファンでもあり、初代メンバーでは藤原理恵推しで、2代目メンバーでは山田誉子でリングの魂にてデート企画も組まれ放送されている。
- 2005年11月23日放送のテレビ朝日『ワイド!スクランブル』において、優秀な人物を見ると「あれは在日コリアン」と主張する在日認定行為が在日社会で行われていると証言し、「ウチらの(在日の)年寄りは何でも韓国人にしたがるんですよね」「優秀な人を見たら在日だって」「知り合いのおばあちゃんはカール・ルイスは在日だと言っていた」「山本晋也監督は在日だってウワサが結構ありますよ」と証言した[26]。また、朴慶南・金守珍との鼎談で、金守珍が「在日に違いない。半分は疑いながらも、そう信じていた。僕ら小学校時代から高校まで、強い人はみんなコリアンにしてきたんですよ。今でも朝鮮学校に行ってる子供はそうですよ」「そうあってほしいという願望があるんです。在日はよくスポーツ選手や芸能人のことを、『あの人もコリアンらしい』などと言いますよね。」と発言し、それに対して、前田は「親父たちの世代の言うこと聞いていると、ゴジラもウルトラマンも、全部コリアンということになる」と応じた[27]。(在日認定参照)
- 日本で最初のアイコラ職人だと称している(浅草キッドの海賊男に出演したときに発言)。
- 現役時代、一番迫力があったのはスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットだと語っている(新日本の若手時代、セコンドで止めに入る際、決まって受けていた)。
- 同い年に赤井英和(正確には前田の方が早生まれで同学年ではない)が居り、「あいつと会わすな。あいつと会わすと大阪が壊れる」と二人を引き合わせないように周りが苦労したようである[28]。この二人の逸話については、『喧嘩の花道』として二宮清純が書籍化し、三池崇史が映画化している。
- 山本小鉄から特にかわいがられており、遺族からは弔辞を頼まれるほどの関係にあったが、山本の一人娘と結婚したい、と申し出ると一蹴された。[29]
政治
2009年12月28日に2010年夏の参議院比例代表に民主党公認で出馬予定だったが[30]、2010年3月3日には第1次公認候補が見送られ[31]、同年3月21日には出馬辞退の意向が伝えられている[32]。理由としては、外国人参政権について本人は反対しており民主党との意見の違いがあったほか、党の出馬時の金銭的支援についての食い違いがあったという。また前田側は党の姿勢と石井一選対委員長に対し激怒した場面もあったとされる[33]。
その後、民主党と連立与党を組む国民新党が前田と接触を持ち、参議院東京都選挙区に同党公認候補として擁立する方針を打ち出す[34]。しかし、東京都選挙区からの立候補を望む同党と、比例区からの出馬を希望する前田との意思は合致せず、結果、同党からの出馬もなかった[35]。
趣味
- 釣り - 釣りのために小型船舶も所有している。
- 読書 - ポルノから哲学、戦記物まで読むというほど読書好き。特に太宰治や、孔子の論語に傾倒し、第二次UWFを旗揚げした際に「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」という、太宰治が「葉」(『晩年』所収)で引用したポール・ヴェルレーヌの「叡智(Sagesse)」の言葉を、孫引きした挨拶を行っている。また、作家の山田詠美とも交流がある。
- 日本刀の収集・研究。日本刀は50振以上所有している。また、日本刀に限らず、骨董品を見て回るのが好き(『オーラの泉』に出演したときに発言)。
- 航空機が好きで、結婚した際「子供はパイロットにしたい」とコメントしている[18]。夢は零式艦上戦闘機で太平洋を横断することと語っている。テレビ番組「所萬遊記」で、所ジョージに「一緒にムスタングに乗りましょう」と誘っている。また、元帝国海軍中尉でエースパイロットの坂井三郎を慕っており、対談もおこなった。また富士通AirWarriorからフライトシミュレーターも続けている。2010年まではFighter Aceプレイヤーだったがサービスが終了してしまった。
- 熱烈なMacintosh信者(エバンジェリスト)。数十MBが主流の時代に1,000MBを超えるメモリーを搭載したMacを使っており、Mac専門誌で取材されたことも有る。
- サバイバルゲーム - M4カービンのカスタム等、複数の銃を所有し装備や銃等、本気モード全開で楽しんでいる模様。銃や装備は、本人がショップまで出向き、米軍放出品等こだわりを持って購入している。ゲームフィールドが開催する定例会等にも、THE OUTSIDERの選手や複数の関係者らと参加していることがあり、一緒にゲームを楽しめたりすることもある。
トラブル
- 2000年5月、パンクラス社長だった尾崎允実(尾崎正実)が、リングスに出場していた外国人選手とホテルロビーの喫茶スペースで談話していたのを発見し、これを引き抜き工作と判断。尾崎の胸倉を掴み、その際に尾崎がかすり傷を負ったとして傷害罪で起訴された。前田は暴行の事実を否定し無罪を主張していたが、東京地方裁判所の山室恵裁判長は「粗暴で悪質な犯行だが衝動的なものだった」として、2003年4月22日に25万円の罰金刑を言い渡した[36]。その後、この事件とそれに絡む発言で民事提訴され、2002年6月7日に東京地方裁判所は前田に約155万円の支払いを命じた[37]。2003年1月22日に東京高等裁判所は前田の控訴を棄却[38]。ただし、この事件の際に尾崎と談話していたジェレミー・ホーンは「リングスに招聘されている時に、尾崎が連絡をよこしパンクラスへの参戦に興味はないかと聞いてきた。でもそれは日本の文化ではずるいやり方なんだ。前田は怒っていたよ。でも、彼は尾崎の肩を掴んで揺すっていたけど、弟の襟首を掴んでるような感じで暴力はふるっていなかった。だから前田が提訴されたという話を聞いて、僕は日本に飛んで彼の為に法廷で証言したんだ」と語っている[39]。
- 1994年に開催された極真空手トーナメント大会に前田が来賓として出席。そこに居合わせた『フルコンタクトKARATE』編集長・山田英司を会場の女子便所内の個室に連れ込んだ[40]。当時、山田はリングスを真剣勝負と八百長混在のプロレス、また前田と友好関係にあった正道会館を八百長と批判していた[41]。事件後、山田は「掌底をスウェーでよけた」「ヒザ蹴りをヒジで受けた」と格闘技経験が功を奏した旨を語ったが[42][43]、それに対し前田は「スウェーでかわした? なんなら、裁判官立会いで再現したろか」とコメントした。
- 1994年にリングスとUWFインターナショナルとの対抗戦の交渉が不調に終り、元弟子でもある安生洋二との舌戦に発展する。その際、前田は安生を家族の前で制裁してやると発言するが、これが安生の自宅襲撃を示唆したものとして、UWFインターは名誉毀損と脅迫で前田を告訴。前田は謝罪会見を開いて事態を収拾した[44]。また、1996年6月にはFIGHTING TV サムライ開局のパーティーで前田が安生と言葉を交わし裏拳で小突いた[45][46](レスラーやマスコミ等が周囲にいる中での出来事で、アントニオ猪木が仲裁)。その3年後の1999年11月14日、UFC-J会場において、安生はマスコミと談話中の前田の背後に忍び寄り、後ろからの不意打ちでアゴを殴打。前田は失神し、この姿は衝撃的な事件としてプロレス誌の表紙を飾った。安生は襲撃直後にパンクラスの高橋和生(高橋義生)とガッチリ握手をかわす姿をプロレス誌に掲載されたが、安生、高橋ともに事件との関連性を否定している。その後、前田は安生を訴え、安生は略式起訴で20万円の罰金刑を受ける[47]。安生としては、殴った後に「文句があったらリング上でやろう」という話にするつもりだったという[48]。
- 2001年5月30日付の東京スポーツに「有罪判決 リングス前田 暴行女性は元妻」という記事が1面に掲載されたことに対し、500万円の損害賠償を求めた訴訟を起こす。東京地裁(菅野博之裁判長)は、『米国で有罪判決を受けた』事実、および前田が『暴行,結婚していた』ことは「真実と認められない」と判断し、東スポに200万円の支払いと謝罪広告掲載を命じた(2002年9月13日判決)。
入場テーマ曲
- 「KATANA」
- 「THE ROOM (BRAINWASH) PART ONE」 - リック・ウェイクマンのアルバム「1984」の4曲目。英国より凱旋帰国した時の入場テーマとして使用していたが、前年から既に小林邦昭の入場テーマ曲として定着しており、なぜ使用に至ったかは不明。
- 「ダンバインとぶ」(歌詞は入れずブリッジで繫いで編集したものを使用)
- 「キャプチュード」 - 前田の代表的な入場テーマ。「キャプチュード」が日本では呼称となってしまっているが、英語の実際の発音は「キャプチュード」とは程遠く、「キャプチャード」に近い。オリジナル音源はイギリスのプログレッシブ・ロック・バンドであるCamelの、1981年にリリースしたアルバム・ヌードの物語 〜Mr.Oの帰還〜(現地名:Nude)の11曲目として収録されている(アルバムについてはen:Nude (Camel album)を参照)。
- 「JUST A HERO」 - リングス旗揚げ時に使用された新田一郎作曲のオリジナル曲だったが、すぐにキャプチュードに戻している。ただしWOWOWのリングス中継でのBGMとしては長期間に渡って使用された。
その他
テレビ・ラジオ
- ライオンのごきげんよう(1996年3月15・18・19日)
- くりいむクイズ ミラクル9(2014年、11月12日)
映画
ウェブ番組
- ぶらり路上プロレス(2017年4月配信開始 、#16、Amazonプライム・ビデオ) - 伊橋剛太5番勝負対戦相手
CM
- 西武百貨店
- サントリー 缶コーヒー「サントリーウエスト」
- 任天堂 NINTENDO64『ゼルダの伝説 時のオカリナ』[49]
- リコー 「解決!リコーマン」(本木雅弘・小倉久寛・渡辺満里奈と共演)
著書
- 『格闘王への挑戦』講談社、1988年、ISBN 4-06-204081-6
- 『パワー・オブ・ドリーム』角川書店、1988年、ISBN 4-04-173701-X
- 『誰のために生きるか』PHP研究所、1992年、ISBN 4-569-53635-2
- 『最強の自分をつくる』PHP研究所、1994年、ISBN 4-569-54202-6
- 『真格闘技伝説 RINGS』ピンポイント、1994年、ISBN 4-87031-189-5
- 佐々木徹『無冠 前田日明 』集英社、1998年、ISBN 408780285X
- 山本小鉄・前田日明『日本魂』講談社、2009年、ISBN
4062154024
連載
参考文献
- 流血の魔術・第2幕 プロレスは誇るべきエンターテインメント, 講談社, (2010), ISBN 978-4-06-216516-7
脚注
- 注釈
- ^ 高橋によればほとんどの選手が「あれを言ってはおしまいだ」などと同様の指摘を行っていたという。なお高橋によれば、長州は網膜剥離を起こし長期欠場。引退も危惧される状態であったという。また、猪木は前田を危険分子として見ていたのではないかとも指摘している。
- 出典
- ^ a b c 佐々木徹『無冠 前田日明』集英社
- ^ 『THE WRESTLER BEST 1000』P143(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b “European Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年8月27日閲覧。
- ^ a b c d 『Gスピリッツ Vol.32』P34-38(2014年、辰巳出版、ISBN 4777813304)
- ^ “WWF International Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年8月25日閲覧。
- ^ “The WWE matches fought by Akira Maeda in 1984”. Wrestlingdata.com. 2015年8月25日閲覧。
- ^ 山本小鉄・前田日明『日本魂』講談社
- ^ “UWF Opening Series - Tag 1”. Cagematch.net. 2015年8月27日閲覧。
- ^ “UWF Opening Series - Tag 5”. Cagematch.net. 2015年8月27日閲覧。
- ^ a b c d e ミスター高橋 2010, p. pp.48-52.
- ^ 週刊プロレス 2010年11月10日号
- ^ HERO'S 前田日明氏の発言に対する謝罪 HERO'S公式サイト 2007年10月5日(2007年10月11日時点のアーカイブ)
- ^ HERO'S 「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」第6試合 スポーツナビ(2008年1月3日時点のアーカイブ)
- ^ 前田日明氏がSV降板、アマMMA大会「THE OUTSIDER」開催へ スポーツナビ 2008年2月15日(2008年2月21日時点のアーカイブ)
- ^ 「ジョーがいたら俺が段平になる」前田が総合格闘技のアマチュアを確立する! angle JAPAN 2008年1月15日
- ^ THE OUTSIDER 参加者募集 RINGS公式サイト 2008年1月21日(2008年2月18日時点のアーカイブ)
- ^ 第1回THE OUTSIDERを、前田CEOは「70点」「(乱闘の数は)想定以下」と評価 angle JAPAN 2008年3月31日
- ^ a b 【HERO'S】新婚の前田日明SV「息子にはパイロットになって欲しい」 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年3月8日
- ^ 前田日明、在日コリアンの叫び【週刊 前田日明】 カクトウログ 2005年11月28日
- ^ 『週刊ゴング』1999年11月25日号
- ^ 1967年1月15日放送「怪獣殿下(後編)」の放送日。
- ^ 浅草キッドの海賊男に出演したときに発言。
- ^ 前田日明、ウルトラマンの敵討ち!宿敵ゼットンを打ちのめす! シネマトゥデイ 2014年1月29日
- ^ 自叙伝『パワー・オブ・ドリーム』より。
- ^ 北之口太「大山の告白」『一撃の拳 松井章圭』(第一刷)講談社(原著2005-4-20)、214頁。ISBN 4062127423。
- ^ [1](2010年7月22日時点のウェブ魚拓)
- ^ 演劇界の風雲児、金守珍氏。コリアンの格闘家、前田日明氏。(2010年7月22日時点のウェブ魚拓)
- ^ アメトーーク!「俺達のゴールデンプロレス」でケンドーコバヤシが発言。
- ^ 真夜中のハーリー&レイス、2012年2月7日での前田の発言
- ^ “前田日明氏、民主から参院選に出馬へ 女優・岡崎友紀氏も”. MSN産経ニュース. (2009年12月29日). オリジナルの2009年12月31日時点におけるアーカイブ。
- ^ “前田日明氏、参院選1次公認見送り”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2010年3月4日)
- ^ “前田日明氏、民主からの参院選出馬辞退へ”. SANSPO.COM (産経デジタル). (2010年3月22日). オリジナルの2010年3月25日時点におけるアーカイブ。
- ^ “小沢に嫌われた!? 前田日明、民主候補ハズシのワケは”. ZAKZAK (産経デジタル). (2010年3月4日). オリジナルの2010年3月7日時点におけるアーカイブ。
- ^ “前田日明氏、国民新が東京で擁立 民主比例出馬は破談”. asahi.com (朝日新聞社). (2010年3月26日). オリジナルの2010年3月28日時点におけるアーカイブ。
- ^ “前田日明氏、民主の次は国民新で出馬断念”. MSN産経ニュース. (2010年4月27日). オリジナルの2010年4月30日時点におけるアーカイブ。
- ^ リングスの前田日明社長に傷害罪で25万円の罰金刑判決 asahi.com 2003年4月22日
- ^ 前田日明さんに賠償命令/暴行と名誉棄損で150万 四国新聞社 2002年6月7日
- ^ 前田日明の控訴棄却、155万円支払い命令 日刊スポーツ 2003年1月22日
- ^ http://www.bloodyelbow.com/2010/9/23/1705880/be-exclusive-jeremy-horn-on-japan-bellator-and-the-ufc
- ^ 『kamipro』No.146。山田英司インタビュー
- ^ 山田英司「前田日明を全否定せよ」『別冊宝島EX 格闘技死闘読本 「最強」を求めた愚か者たちの、荒ぶる魂の伝説!』宝島社、1994年、p.179
- ^ 『U.W.F.変態新書』エンターブレイン、2008年、p.171
- ^ 吉田豪『吉田豪のセメント!!スーパースター列伝』エンターブレイン、2006年、p.318
- ^ 鈴木健『最強のプロレス団体 UWFインターの真実』エンターブレイン、2002年、pp.20-22
- ^ 谷川貞治「疑惑の男FILE1 前田日明」『別冊宝島274 プロレス謎読本 リングのタブーを解き明かせ!』宝島社、1996年、p.97
- ^ 大谷泰顕監修『トリプルクロス 電撃プロレス=格闘技読本』メディアワークス、2000年、p.182
- ^ 「<略式命令>元プロレスラーー殴り負傷させたプロレスラーに罰金」『毎日新聞』2000年1月5日
- ^ 大谷泰顕監修『トリプルクロス 電撃プロレス=格闘技読本』メディアワークス、2000年、p.182
- ^ 前田本人が『スーパーマリオ64』などを好んでプレイしていたことから起用されたという。『64DREAM』1998年12月号
関連項目
外部リンク
- RINGS.CO.JP(RINGS公式サイト)
- 格闘王/前田日明のちょっと来い!!(前田日明公式ホームページ)
- JAPANDREAM(前田日明マネージメント会社・業務提携)
- グレーテストレスラーズ 前田日明(新日本プロレス公式サイト)
- 前田日明の戦績 - SHERDOG
- プロレス最強王者列伝 第6回 前田日明
- Cagematch Profile