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2017年9月4日 (月) 14:12時点における版

株式会社富士銀行(ふじぎんこう)


株式会社 富士銀行
The Fuji Bank, Limited
ロゴ
富士銀行本店
富士銀行本店(2009年に解体)
種類 株式会社
市場情報
東証1部 8317
1949年5月16日[1] - 2000年9月22日
大証1部(廃止) 8317
1949年5月16日 - 2000年9月22日
札証 8317
1950年4月1日 - 2000年9月22日
京証 8317
1949年8月 - 2000年9月22日
略称 富士銀、FBK
本社所在地 日本の旗 日本
100-0004
東京都千代田区大手町一丁目5番5号
設立 1923年7月11日[2]
(保善銀行)
創業は1880年1月[3]
(初代 安田銀行)
金融機関コード 0003
SWIFTコード FUJIJPJT
代表者 山本惠朗(頭取)
資本金 1兆395億円
売上高 9343億円
総資産 62兆5768億円
従業員数 12,940人
関係する人物 安田善次郎(創業者)
外部リンク みずほフィナンシャルグループ 富士銀行 公式サイト
インターネットアーカイブ
特記事項:すべて2001年3月時点の情報、経営指標は2001年3月期連結決算[3]
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株式会社 富士銀行(ふじぎんこう、英称The Fuji Bank, Limited)は、戦前から存続していた安田財閥系の安田銀行が、財閥解体等を経て1948年に商号変更した都市銀行。2000年から2002年までみずほフィナンシャルグループ(みずほFG)傘下に入っていた日本の都市銀行である。2002年、日本興業銀行と合併しみずほコーポレート銀行に商号を変更した後、2013年には2002年に第一勧業銀行が商号変更して誕生した(初代)みずほ銀行をみずほコーポレート銀行が吸収。それに合わせてみずほコーポレート銀行は現在のみずほ銀行へと商号を変更した。本店は東京都千代田区大手町に置いていた。英字略称は「FBK」。芙蓉グループの中核[注 1]

この項目では同行の前身である安田銀行についても説明する。

歴史

戦前 - 安田銀行

旧富士銀行(安田銀行)横浜支店1929年建築横浜市認定歴史的建造物

1864年安田財閥の創始者・安田善次郎は江戸日本橋乗物町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)に露天の乾物商兼両替商・安田屋を開業した。2年後の1866年には日本橋小舟町へ移り安田商店と改称。発足したばかりでまだ信用力のない明治新政府の不換紙幣公債を率先して引き受け、その流通に積極的に協力。1870年に正金金札等価通用布告がなされると、これらを額面引き換えし更なる巨万の利益を得ることになる。

1876年、この強固な資本を基盤に川崎八右衛門と共に日本橋小舟町に第三国立銀行を開業。また1880年には、本体の安田商店を合本安田銀行に改組した。こうして資本金20万円、従業員31人、店鋪数3をもって銀行としての歴史が始まった。明治の日本にあって、安田銀行は鉄道・築港などの大規模公共事業に資金を提供し、政府や自治体からの信頼を厚くする。そして、当時の東京府東京市や大阪府大阪市の二府もその中に含まれ、その後の富士銀行の本金庫業務(指定金融機関)としての地位、「公金の安田」の名声を築いていくこととなる。

時代が大正に移ると、第一次世界大戦関東大震災、それに続く不況によって社会情勢は不安定化。資金力・信用力が脆弱な中小の銀行は経営難に陥ったが、安田銀行はこれを援助し、時には吸収・合併を行い預金者の救済にあたった。こうして親密となった11行が1923年に大合同して新:安田銀行となる。資本金1億5000万円、預金5億4200万円、貸出金5億2100万円、店鋪数211、従業員数3,700人などいずれの分野においても国内首位となり、この座は1971年第一勧業銀行誕生まで不動であった。

初代安田銀行末期の店舗網は栃木県から東北方向に伸びていた。

統合参加10行の概要

  • 第三銀行
    同行は、大阪で国立銀行免許を安田が譲り受けて設立。安田系の大合同に参加したなかで、2番目の規模ではあったが、初代安田銀行との店舗の重複は東京(小舟町本店)と横浜の2店舗であり、その他は大阪、山陰地方などに店舗を有していた。
  • 明治商業銀行
    同行はもともと安田と加賀前田家によって設立。安田系銀行として安田、第三に次ぐ規模の銀行であった。本店は東京八重洲に置き東京府内を中心に群馬県数ヶ所と石川県金沢市、長野県松本市に計22店舗を有していた。
  • 根室銀行
    1898年に北海道根室町柳田藤吉が設立(設立時より安田善次郎が顧問就任)した。翌年の増資に際し安田が引き受けることになった。道内(道央・道南を除く)各地に全19店舗を置いていた。営業店として現存するのは、みずほ銀行釧路支店、帯広支店(当時の支店建物は十勝信用組合本店として利用されている)。
  • 神奈川銀行
    現在の横浜市神奈川区に本店を置き明治恐慌や大戦後不況などで不調となったのち全支店廃止し、本店内に第三銀行神奈川支店が設けられ有価証券も第三銀行に譲渡された。安田系となった銀行としては参加11行の中でもっとも遅い。営業店としては現在のみずほ銀行横浜駅前支店。現存する第二地銀の同名の銀行とは無関係である。
  • 信濃銀行
    小坂善之助ら8名により私立銀行として設立したが1905年末に生糸価格の暴落もあり苦境に陥り1908年に安田の手により救済された。店舗は長野県中心に18店舗有していた。営業店としては現在のみずほ銀行長野支店。1928年に設立された信濃銀行とは歴史的に別銀行。
  • 京都銀行
    1894年に開業するも7年後の1901年の恐慌により経営は悪化。安田の手により救済された。現存する同名の銀行とは無関係である。店舗は京都府福井県に6店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行京都支店。
  • 百三十銀行
    1878年松本重太郎大阪市東区(現在の中央区)高麗橋に資本金25万円で第百三十国立銀行として設立した。旧徳島藩士小室信夫と組んで、宮津福知山の旧藩士を説き、金禄公債を資本金として出資させるのに成功した。初代頭取には、小室の父佐喜蔵が、取締役には渋谷、稲田、松本誠直が就任し、重太郎は取締役兼支配人となった。1880年には重太郎が頭取に就任した。こうして1896年には、貸出額は住友銀行をしのぎ、在阪銀行のトップの座を占めた。1898年、国立銀行の満期解散にともない、同行は普通銀行に転換し、百三十銀行と改称。同行は百三十六銀行、大阪興業銀行、小西銀行、西陣銀行、福知山銀行、八十七銀行を合併し、1902年末には資本金325万円、大阪・京都・滋賀(末期には撤退)・福井・福岡に15店舗をもつ大銀行となったがその後の1904年に休業・破綻により安田が救済しそれ以降安田系の銀行となる。安田銀行への大合同直前には前記の地域に加え、朝鮮半島にも4店舗所を含む27店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行大阪支店ほか。
  • 日本商業銀行
    1895年に開業。翌年には福岡県門司町北海道小樽町に進出。さらには営業満期となった第百三国立銀行を吸収合併。現在の神戸市兵庫区に本店を置き店舗は兵庫県内はもとより、山口県、福岡県、長崎県長崎市、北海道小樽市に全13店舗を有していた。本店は営業店としては現在のみずほ銀行神戸支店。
  • 二十二銀行
    1876年の国立銀行条例改正と共の有志により第二十二国立銀行を設立。その後1897年に二十二銀行と改称。当時の地方銀行としては屈指の規模を誇るが1901年に苦境に陥り安田の手に委ねられた。岡山市に本店を置き、店舗網は岡山県を中心に香川、広島県内に全23店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行岡山支店ほか4店舗。
  • 肥後銀行
    前身は第六国立銀行。現在の同名の銀行とは異なる。1877年福島市で開業した後、1892年に本店を東京に移すものの最終的には熊本市に移転していた。そのなかで大阪支店の廃止や第九銀行の吸収合併などを行った。統合直前には熊本県を中心に全19店舗を有していた。営業店としては現在のみずほ銀行熊本支店。

戦後 - 富士銀行

旧:富士銀行鳥取支店(1951年~1968年撤退・完全廃止まで使用 建物としては島根銀行鳥取支店)

終戦後の財閥解体によって安田銀行は安田家と決別する意思のもとに、1948年富士銀行と改称。「富士」という新商号は、日本最高峰である富士山にちなんでおり、「国民[注 2]」「共立」「日本商業[注 3]」「富士[注 4]」などの中から京浜地区の行員によるアンケートの結果選ばれたものである。戦前からの強みであった公金取り扱いに加えて、芙蓉グループの結成により一大企業系列の中核となった。

個人向け業務の分野でも「みなさまの富士銀行」をキャッチコピーに掲げ、創業80周年を迎える1960年には「カラコロ富士へ」(=下駄履きで気軽に入れる銀行)を新たに採用。法人・個人の双方に強い名門都銀として、また東京都及び特別区との強いつながりから「東京の地銀」として長らく歩んだ。

こうして紛れもない上位行として君臨するが、1970年代以降は第一勧業銀行が発足して長年君臨していた預金量業界トップの座を奪われるなど、その地位は徐々に低下していた。このため、1970年代後半には同じく都銀上位行であった三和銀行との合併を画策し、業界トップの座の奪回を狙っていた。東京本店の富士銀行と大阪本店の三和銀行は店舗網のバランスでも補完性が非常に高く、経営状態、総資産も両行ほぼ同じで事実上の非財閥銀行同士であり、吸収されるリスクも皆無であったため互いに合併のメリットが大きかった。更に三和銀行系の多くの企業が富士銀行を準主力行、もしくは三和銀行と並ぶ主力行にしていた[注 5]ため、合併交渉も順調に進み三和とは合意寸前にまで達したが、金融業界全体が護送船団方式にどっぷりつかっていた当時では「巨大銀行の誕生は預金の寡占につながり、銀行業界にとって好ましくない」という理由で大蔵省からの認可が下りなかったため、この合併はご破算となってしまった。

1980年代に入ると、住友銀行が積極的な営業を展開する中、平和相互銀行を吸収合併。首都圏攻勢の足場を築き、バブル期に突入するとより一層営業に力を入れた。焦る富士は対抗して営業部隊を投入、白兵戦を繰り広げ「FS戦争」(両社の頭文字から。「富士住友戦争」とも言う)と呼ばれる熾烈な貸出競争を繰り広げ、1988年10月、住宅を担保にどんな使途でも自由に使えるカードローンである「住活ローン」の取り扱いを拡大し、翌年9月には「絵画担保ローン」も導入[4]。バブル景気に踊った。また富士は、元々は三和銀行と繋がりの深かった大阪に本店を置く有力な信用組合であった大阪府民信用組合の経営に深く関与するようになり、富士から府民信組に対する紹介預金の過半がイトマン事件逮捕された許永中伊藤寿永光の関連企業に流れていたことが発覚した[5]。さらに当時の府民信組理事長が画策していた大阪南部を基盤としていた河内信用組合と府民信組の合併が実現した際には、府民信組理事長は余剰となった店舗を富士に譲り渡すとの内諾を富士の関西駐在役員と交わしていた[6]

バブル崩壊 - 統合

1990年代、不良債権問題・金融システム不安の拡大と並行して、富士銀行の経営は悪化の一途を辿る。金融ビッグバンの流れに乗って1994年に富士証券(現:みずほ証券)・1996年に富士信託銀行(現:みずほ信託銀行)を設立するなど業績改善を図ったが、いずれも収益の柱となるには至らなかった。また、前年に日本興業銀行に合併の打診をしたが、破談になった。しかし、これが第一勧銀・興銀との統合へとつながったことは否めない。

1997年11月には山一證券が自主廃業、親密だった富士は「山一を支援するだけの余力がなかった」と市場からみなされ、株価が暴落する事態になった。同年6月に1,860円だった富士銀行株は、翌1998年10月には252円まで値下がりしている。国内50拠点を統廃合、海外拠点をほぼ半減し、1998年から2000年にかけて行員1,700名のリストラを余儀なくされた。金融早期健全化法に基づく公的資金注入は、都銀の中でも最大規模の1兆円に達した[7]

1999年には系列の安田信託銀行(現:みずほ信託銀行)が経営危機に陥り、第三者割当増資を引き受け救済子会社化するが、もはや富士独力での再建は不可能だった。ここで浮上したのが第一勧業銀行との連携であった。2行の傘下にあった富士信託銀行と第一勧業信託銀行を合併し、第一勧業富士信託銀行とした上で、安田信託の中でも比較的高収益だった法人・年金部門を分割譲渡。こうした経緯から第一勧銀との関係が生まれ、みずほFG発足へとつながっていった。この連携の素地には1969年クレジットカード業務を行うために設立した合弁会社であるユニオンクレジットの成功による両行の信頼関係が存在していた。また、1960年代後半に地方店舗整理の際日本勧業銀行と一部店舗を交換(相手行店舗と統合)した。

ニューヨーク事業所の罹災

合併統合を目前にした2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件で、ハイジャックされたユナイテッド航空175便が世界貿易センタービル南棟78-84階に衝突した。ニューヨーク支店および現地法人等は南棟79-82階に入居し、現地採用を含め約700人ほどが勤務に従事していた。このうち支店長のほか、米州営業部長、米州営業管理部長、みずほキャピタルマーケッツ社長など12名が犠牲となった[8][9]。事件の翌年12月に犠牲となった1行員の妻がこれについて綴ったエッセイを上梓し[10]2004年9月11日には2時間ドラマ「9・11 NYテロ真実の物語」としてフジテレビ系のプレミアムステージ枠にて実写化・放映された。

2005年9月11日、みずほFG本部前(事件発生当時の富士銀行本店)に追悼の慰霊碑が設置された。ニューヨーク市消防局から寄贈されたもので、犠牲者の名が刻まれている。みずほFGが本社を置く大手町タワーが完成後には慰霊碑もタワーと同区画内に設けられた緑地である「大手町の森」の中に移設され、毎年9月11日には献花台が設置される。

みずほ銀行発足へ

2002年4月1日に、第一勧業銀行に「カスタマー・コンシューマー銀行業務に関する諸営業」を承継させ、また同行から「コーポレート銀行業務に関する諸営業」を承継し、並びに日本興業銀行を合併。みずほコーポレート銀行と改称した。2002年から2013年までの富士銀行の法定手続上の承継会社はみずほコーポレート銀行であった[注 6]2013年7月1日にみずほコーポレート銀行がみずほ銀行を吸収合併。行名をみずほ銀行に改めた。

沿革

  • 1864年3月 - 安田善次郎江戸日本橋乗物町(現:中央区堀留)に露天の乾物商兼両替商・安田屋を開業。
  • 1866年4月 - 安田屋、店舗を持ち江戸日本橋小舟町に移転。両替商専業の安田商店と改称。
  • 1876年12月 - 安田善次郎、川崎八右衛門と共に第三国立銀行(のちの初代第三銀行[11])を設立。
  • 1880年1月 - 安田商店を合本安田銀行へ改組する。このときにのちの富士銀行が創業する。資本金は20万円、従業員は31名、店舗数は3だった。
  • 1893年7月 - 合資会社に改組。
  • 1900年10月 - 合名会社に改組。
  • 1912年1月 - 株式会社に改組[注 7]する。資本金は1000万円で店舗数は22(うち出張所8)。
  • 1923年7月 - 株式会社保善銀行[注 8]設立。
  • 1923年11月 - 株式会社保善銀行を存続銀行として(旧)安田、第三[11]、明治商業(以上東京)、日本商業(兵庫)、京都[11]、百三十(大阪)、二十二(岡山)、根室(北海道)、肥後[11](熊本)、信濃(長野)、神奈川[11]の11行が合併し、株式会社安田銀行と商号変更。資本金1億5000万円と巨額なものとなった。店舗数は211(うち出張所52)。預貸金ともに、当時の日本国最大の銀行となった。そして、このときに本店を現在地に移転。
  • 1924年12月 - 株式会社浜松商業銀行を浜松委托(現:浜松委托倉庫)より買収。
  • 1928年6月 - 合名会社毛利銀行を買収。
  • 1943年
    • 3月 - 株式会社京都大内銀行を株式会社丹和銀行と分割買収。
    • 4月 - 株式会社日本昼夜銀行を合併。
  • 1943年12月 - 株式会社日本信託銀行(現:大和証券グループ本社)から普通銀行業務を譲受。
  • 1944年5月 - 埼玉県と多摩地方の大部分の店舗を埼玉銀行に営業譲渡[注 9]
  • 1944年8月 - 株式会社安田銀行が株式会社昭和銀行ならびに株式会社第三銀行[11][注 10](二代目、旧帝国商業銀行)を合併。
  • 1946年 - 財閥解体により、安田保善社との関係がなくなる。
  • 1948年10月 - 株式会社安田銀行が株式会社富士銀行と商号変更[注 11]。新資本金13億5000万円で第1位となる。従業員数は7,899名。店舗数は189(うち出張所4)。
  • 1949年 - 外国為替銀行に指定。
  • 1952年 - 大正12年からの本店に隣接して新館が完成。以来、昭和41年まで本店として利用。
  • 1966年 - 1996年時点での新本店が完成する。また、このときに普通預金オンラインシステムの試行に成功。
  • 1978年2月20日 - 第2次総合オンライン完成。
  • 1980年11月1日 - 創業100周年を迎える。
  • 1984年1月26日 - 米国大手金融会社ウォルター・イー・ヘラー・アンド・カンパニーおよびウォルター・イー・ヘラー・オーバーシーズ・コーポレーション(現社名・ヘラー・フィナンシャル・インクおよびヘラー・インターナショナル・グループ・インク)を買収。
  • 1987年9月18日 - 日本の銀行として初めてロンドン証券取引所へ上場。
  • 1988年10月1日 - 富士総合研究所を設立。
  • 1989年7月1日 - 米国有力投資銀行ウルフェンソーン社との合併企業富士ウルフェンソーン・インターナショナルを設立。
  • 1991年
    • 3月 - 「欧州アドバイザリーボード」が設置。
    • 9月 - 富士銀行不正融資事件発覚。赤坂支店などの幹部行員が逮捕。
  • 1992年8月 - 「経営懇話会」が発足。
  • 1994年10月19日 - 富士証券を設立。
  • 1995年11月1日 - 富士銀投資顧問と富士投信が合併。また、富士投信投資顧問が発足。
  • 1996年6月11日 - 富士信託銀行を設立。
  • 2000年9月29日 - 株式会社富士銀行、株式会社第一勧業銀行及び株式会社日本興業銀行が株式移転により株式会社みずほホールディングスを設立し、3行はその完全子会社となり、事実上の傘下に入った。
  • 2002年4月1日 - 株式会社富士銀行を存続銀行として株式会社日本興業銀行と合併し、併せて株式会社第一勧業銀行よりコーポレートバンキング業務を分割承継して、株式会社みずほコーポレート銀行と商号変更[注 12]
  • 2013年7月1日 - みずほコーポレート銀行がみずほ銀行を吸収合併。行名をみずほ銀行に改称。

融資系列

未出店地域

統合直前

●(新)安田銀行に時代に店舗が存在した地域

■富士銀行になってから撤退した地域

新安田銀行発足時点

#統合直前のノーマークの県を除く)

○大正期に初出店した地域

□富士銀行になってから出店した地域

広報・広告関連

ビジュアルアイデンティティ

1980年、従来の行章に代えて正方形の中に富士を台形で表した宣伝用ロゴマークを制定した。さらに1988年10月1日の行称変更40周年を機にコーポレートアイデンティティ(CI)の一要素であるビジュアル・アイデンティティ(VI)を導入した。VI導入は、「中期計画 109 - RCT作戦」の柱であるリテールバンキングを推進していくうえで、イメージ戦略を積極的に活用し、他行への優位性確保を図ろうとする理念のもとで実施され、製品・企業ブランディングを手掛ける企業としては世界最大規模であるランドーアソシエイツによる選定と、富士銀に関するイメージ調査をもとに、青・緑のグラデーションを地に先進的でダイナミックな銀行をイメージさせたいとの願いを込めた新ロゴ[12]を決定した。このロゴの愛称は行内で募集され、2万点の応募から「ダイナミック フジ」と決定された[13]

ストア・アイデンティティ

店舗についても視覚的な統一性を持たせるため什器、備品などの形状、素材までフルコーディネートするストア・アイデンティティ(SI)を1989年8月以降、順次導入。店舗新設の際には最初からフルコーディネートを施し、既存店に関しては店舗改築・改装時に実施することとして、二重投資や大幅な経費増を回避するとの方針を定めた[14]

イメージキャラクター

1987年6月、宣伝用ポスターにポール・ニューマンを起用[15]1989年には指揮者の大友直人とピアニストの仲道郁代を起用、2人が共演する冠イベントコンサートをサントリーホールで開催するなどした[16]1991年1月からの銀行のTVCM解禁時には、インド人の女性シンガーであるナジマ・アフタール、カナダのエンターテイナーであるディアーヌ・デュフレーヌ、ドイツのバリトン歌手であるオラフ・ベーア、オペラ歌手のチェチーリア・バルトリ、イギリスのパーカッション奏者であるエヴェリン・グレニーらを起用。1992年夏のボーナス支給時には、先述の世界の新進気鋭の音楽家らが出演するシリーズに加え、新たに南果歩田中律子が共演の上で商品やサービスを伝えるCMも出稿した[17]1993年、女性タレントをイメージキャラクターに起用する金融機関が多い中、異色ではあるが本木雅弘あえて起用。これには当初行内から異論も出たが、若い女性顧客を中心に好評を博し[18]、みずほ銀に再編される直前の2002年3月まで実に9年もの間、彼がイメージキャラクターを務め続けた。ほかにとんねるずらが起用された。

マスコットキャラクター

1962年冬のボーナス支給による預金獲得キャンペーンを実施する際、ディズニーキャラクターを使用した販促品の頒布を企画した。しかし、ディズニー社から使用許諾を得ることが出来なかっため、富士銀は「ボクちゃん」というオリジナルキャラクターを生み出した[注 13]

その他

出身者

脚注

注釈

  1. ^ 山梨県富士急行を中核とする富士急グループとは関係ない。
  2. ^ 国民相互銀行の後身行とは無関係であり英称が当時存在した庶民金庫と同じとなるため見送られた。
  3. ^ 1923年の(新)安田銀行発足に参加した銀行と名称が同じになるためこれも見送られた。
  4. ^ 住友銀行も新行名の候補としていたが同行は大阪銀行と改称した。
  5. ^ 一例を挙げると、シャープ高島屋日立製作所ピップなどがある。ちなみに日立製作所は芙蓉グループ(芙蓉懇親会)と三和銀行の融資集団であるみどり会の両方に加盟している。
  6. ^ ただし、同行の業態は旧日本興業銀行に近く、一般には「富士銀行は(事実上)第一勧業銀行と合併してみずほ銀行となった。」といった方が分かりやすい。
  7. ^ 手続上、新会社設立とともに合名会社安田銀行を吸収した。
  8. ^ 合併の準備会社であるため現在の会社法では銀行を冠してはならない。
  9. ^ 同地内での2002年現在に存在した店舗(埼玉県の4店舗と多摩地方の5店舗を除く)は高度成長期以降に設置した店舗である。
  10. ^ 富士銀行80年史によると業務譲受と表記されていた。
  11. ^ 当初、行名変更は、同年4月の予定だった。
  12. ^ なお、コンシュマーバンキング業務は、第一勧業銀行に分割承継させ、第一勧銀は、みずほ銀行に行名変更。
  13. ^ ちなみに、ディズニーキャラクターは三菱銀行が同時期にイメージキャラクターに採用し、三菱東京UFJ銀行となった現在も使用している。

出典

  1. ^ 有価証券報告書』株式会社富士銀行、2001年
  2. ^ 2001年度版ディスクロージャー誌』株式会社みずほホールディングス、2001年7月
  3. ^ a b 2001年度版ディスクロージャー誌』株式会社富士銀行、2001年7月
  4. ^ 『検証バブル 犯意なき過ち』P 62 - 63
  5. ^ 『ドキュメント イトマン・住銀事件』P 201
  6. ^ 『イトマン事件の深層』P 165 - 168
  7. ^ 「公的資金、15行が正式申請」『朝日新聞』1999年3月5日
  8. ^ 『富士銀行史 1981-2000』P 481 - 482
  9. ^ 「富士銀行700人の明暗分けた「三つの選択」米同時多発テロ」『週刊朝日』2001年09月28日号
  10. ^ 『天に昇った命、地に舞い降りた命』
  11. ^ a b c d e f 現存する同名の銀行とは無関係。
  12. ^ Fuji Bank logo | Best Brands Of The Worldを参照
  13. ^ 『富士銀行史 1981-2000』 P 120 - 121
  14. ^ 『富士銀行史 1981-2000』 P 122
  15. ^ 「三和銀行では ざん新に仕掛ける 広告戦略」『日経産業新聞』1987年9月22日
  16. ^ 「銀行もPR時代 (上)タレント起用 とにかく、目を引け」『読売新聞』1990年2月14日
  17. ^ 「金融機関のCM(2)富士銀行 タレント・アーチスト2本で」『日経金融新聞』1992年8月13日
  18. ^ 「金融各社イメージ戦略(4)都銀のアイドル信仰 高額なギヤラに難点も」『日経金融新聞』1995年8月25日
  19. ^ Amazon.co.jp:Young Team(ASIN B000023XD7
  20. ^ Amazon.co.jp: モグワイ・ヤング・ティームASIN B000B52D9K
  21. ^ 中間期ディスクロージャー誌(2001年9月中間期)みずほフィナンシャルグループのトピックス”. みずほフィナンシャルグループ. 2013年5月閲覧。

参考文献

  • 富士銀行調査部百年史編さん室 『富士銀行の百年』 株式会社富士銀行、1980年。
  • 『開かれた銀行 富士銀行 ― リーディングバンクの素顔』 弘済出版社、1980年。
  • 日本経済新聞社編『ドキュメント イトマン・住銀事件』日本経済新聞社、1991年。ISBN 4532160189
  • 朝日新聞大阪社会部編『イトマン事件の深層』朝日新聞社、1992年。ISBN 4-02-256411-3
  • 溝上幸伸 『富士銀行・危機の真相 ― 名門銀行に今、何が起きているのか』 あっぷる出版社、1998年。ISBN 4871771660
  • 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社、2000年。ISBN 4532163617
  • 2001年度版ディスクロージャー誌』 株式会社富士銀行、2001年。
  • 杉山晴美 『天に昇った命、地に舞い降りた命』 マガジンハウス、 2002年。ISBN 978-4838714162
  • 富士銀行企画部120年史編纂室編『富士銀行史 1981-2000』 富士銀行、2002年。

関連項目