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2017年9月4日 (月) 13:51時点における版
長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。
藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。
幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した[2][3]。
歴史
中世から江戸時代初期
藩主の毛利氏は大江広元の四男を祖とする一族[3][4]。鎌倉時代に、越後国佐橋荘を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国吉田庄を分与し分家を立てる[5]。時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが[6]、南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城にて領地を直接統治[7]するようになる。 戦国時代に毛利元就が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十か国と北部九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長した[4]。
元就の孫の毛利輝元は豊臣秀吉に仕え、天正19年(1591年)3月、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の112万石を安堵(石見銀山50万石相当、また以前の検地では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島に移す。
秀吉の晩年には五大老の一人に推され、関ヶ原の戦いでは西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後、家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2か国29万8480石2斗3合[8]を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の毛利秀元と重臣の福原広俊・益田元祥らが藩政を取り仕切った。
慶長12年(1607年)、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年(1610年)に検地を終えた。少しでも石高を上げるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現岩国市錦町・本郷町)では一揆も起きている。この検地では結果として53万9268石余を打ち出した。慶長18年(1613年)、この時江戸幕府に提出する御前帳が以後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は本多正信)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の広島藩主福島正則49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は寛永2年(1625年)には65万8299石3斗3升1合、貞享4年(1687年)には81万8487石余であった。宝暦13年(1763年)には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。
また、新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ日本海に面し、隣藩の津和野城の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。
長州藩士は毛利家が防長二州に転じた際に、一緒に山口に移った毛利家の家臣をルーツに持つ[9]。このため長州藩の始祖は毛利元就とする見方がある[4]。彼らは元来が広島県-安芸・備後を本拠としたために非常に結束が固かった。輝元はかつての膨大な人数を養う自信がなかったので「ついて来なくてもいい」と幾度もいったが、みな聞かなかった。戦国期までは山陽山陰十ヵ国にまたがる領地を持ち、表日本の瀬戸内海岸きっての覇府というべき広島から裏日本の萩へ続く街道は、家財道具を運ぶ人のむれで混雑し、絶望と徳川家への怨嗟の声でみちた[10]。家臣のうち、上級者は家禄を減らされて萩へ移ったが、知行も扶持も貰えない下級者は農民になり山野を開墾した。幕末、長州藩が階級・身分を越えて結束が強かったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためともいわれる[9]。
上述のような経緯もあり、長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。歴史学者の井野辺茂雄が毛利家の家史編纂者である中原邦平から聞いた話として著作に紹介したのが初出だが、原文では新年ではなく「毎月元日」となっている[11]。この俗話について、2000年当時の毛利家当主・毛利元敬は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている[12]。
江戸時代中期
江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。天保3年(1831年)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年(1836年)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得た。
村田の失脚後は坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助が安政の改革を主導する。
幕末
幕末になると長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局をリードする存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。
1863年(文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した(山口移鎮)。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。同年、会津藩と薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。
長州藩は攘夷も決行した。下関海峡を通る外国船を次々と砲撃した結果、長州藩は欧米諸国から敵と見做され、1863年(文久三年)5月と1864年(元治元年)7月に、英 仏 蘭 米の列強四国と下関戦争が起こった。長州藩はこの戦争に負け、賠償金を支払うこととなった。
1864年(元治元年)の池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田親施らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。
恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士高杉晋作は、伊藤俊輔(博文)らと共に、民兵組織である力士隊と遊撃隊を率いてクーデター(元治の内戦)を決行した。初めは功山寺で僅か80人にて挙兵した決起隊に、民兵組織最強の奇兵隊が呼応するなど、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。高杉と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。長州藩に敗北した幕府の威信は急速に弱まった。
1865年には、英国のジャーディン・マセソンの代理店であるグラバー商会から、薩摩藩の名義で軍艦ユニオン号を50,000両で購入し、1866年(慶応2年)には、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において土佐藩の坂本龍馬を仲介として議論された末、京都薩摩藩邸(京都市上京区)で薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である薩長同盟を結んだ。又、旧5月に敬親が山口に戻った事で(周防)山口藩が再び成立する。
薩長による討幕運動の推進によって、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。そして、王政復古が行われると、薩摩藩と共に長州藩は明治政府の中核となっていく。戊辰戦争では、藩士の大村益次郎が上野戦争などで活躍した。
だが1869年(明治2年)旧11月、山口藩の藩兵による反乱(脱隊騒動)が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともある。
明治4年(1871年)旧6月、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となった。毛利家当主元徳は藩知事を免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。
なお、戊辰戦争の戦後処理と明治期における山縣有朋に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った会津藩(会津若松市)と長州藩(萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われる。実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また占領統治を指揮する立場でもなかった。
現代の観光都市化の流れの中で現れた戦後会津の観光史学により、事実が歪められているという議論も行われている。
支藩・家臣団
藩邸
江戸藩邸は日比谷御門外に上屋敷、中屋敷は青山に、下屋敷は鰻沢と渋谷にあった。その後外桜田に中屋敷、麻布に下屋敷を移す。また京都藩邸は河原町、大阪藩邸は田部屋橋に、伏見藩邸は京橋、長崎藩邸は新丁にあった。後に江戸幕府に没収される。
菩提寺
藩祖・毛利輝元と同夫人は死後その隠居宅だった萩の四本松邸跡地に建立された菩提寺・天樹院に葬られた。天樹院は明治維新後廃寺となったが墓石は残り、同地は旧天樹院墓所として国の史跡になっている。初代秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広とその夫人は大照院に、3代吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元とその夫人は東光寺に葬られている。江戸での菩提寺は愛宕の青松寺で、ここは支藩の徳山藩も菩提寺としていた。そのほか支藩の長府藩と清末藩は芝の泉岳寺を江戸の菩提寺としていた。
歴代藩主一覧
歴代藩主の肖像は全て現存しており、毛利報公会が所蔵している。「萩市史・第一巻」に掲載されている。
代(毛利) | 代(藩主) | 氏名(よみ) | 官位・官職 | 就封 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
54 | 0 | 毛利輝元 もうり てるもと |
従三位・権中納言 | 遺領相続 | 慶長5 - 元和9 | 毛利隆元 正室の子 |
55 | 1 | 毛利秀就 — ひでなり |
従四位下・長門守 右近衛権少将 |
家督相続 | 元和9 - 慶安4 | 毛利輝元 側室の子 |
56 | 2 | 毛利綱広 — つなひろ |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 遺領相続 | 慶安4 - 天和2 | 毛利秀就 正室の子 |
57 | 3 | 毛利吉就 — よしなり |
従四位下・長門守、侍従 | 家督相続 | 天和2 - 元禄7 | 毛利綱広 正室の子 |
58 | 4 | 毛利吉広 — よしひろ |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 遺領相続 | 元禄7 - 宝永4 | 養子、毛利綱広 側室の子・吉就弟 |
59 | 5 | 毛利吉元 — よしもと |
従四位下・長門守、侍従 | 遺領相続 | 宝永4 - 享保16 | 養子、長府藩主 毛利綱元 長男 |
60 | 6 | 毛利宗広 — むねひろ |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 遺領相続 | 享保16 - 宝暦元 | 毛利吉元 正室の子 |
61 | 7 | 毛利重就 — しげたか |
従四位下・式部大輔、侍従 | 遺領相続 | 宝暦元 - 天明2 | 養子、長府藩主・毛利匡広の十男 |
62 | 8 | 毛利治親 — はるちか |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 家督相続 | 天明2 - 寛政3 | 毛利重就 正室の子 |
63 | 9 | 毛利斉房 — なりふさ |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 遺領相続 | 寛政3 - 文化6 | 毛利治親 正室の子 |
64 | 10 | 毛利斉熙 — なりひろ |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 遺領相続 | 文化6 - 文政7 | 毛利治親 正室の子・斉房弟 |
65 | 11 | 毛利斉元 — なりもと |
従四位上・大膳大夫 左近衛権少将 |
家督相続 | 文政7 - 天保7 | 養子、毛利斉元は毛利親著の六男で、 毛利斉熙の婿養子。 毛利親著は毛利重就の側室の子。毛利匡芳の同母弟。 |
66 | 12 | 毛利斉広 — なりとう |
従四位下・大膳大夫 | 天保7年12月 - 12月29日 |
養子、毛利斉熙 正室の子・次男 | |
67 | 13 | 毛利敬親 — たかちか |
従四位下・大膳大夫 | 遺領相続 | 天保8年4月 - 明治2年1月 |
養子、毛利斉元 側室の子(長男) 毛利斉広の娘婿 明治2年1月 版籍奉還 |
68 | 14 | 毛利元徳 — もとのり |
従三位・参議 | 明治2年1月 - 明治4 |
養子、徳山藩主・毛利広鎮の十男 |
藩の職制
以下は「萩市史」や「図録古文書入門事典」(柏書房)で『防長回天録』や『もりのしげり』をもとに作成された組織表をもとに記載。
藩主直轄
手廻頭配下
- 記録所役
- 他藩の用人相当。
- 奥番頭
- 記録所役担当以外の藩主側近業務の一切を統括。江戸武鑑では側用人の項目に掲載されている就任者もいる。また、「萩市史」では別名を側用人ともある。
- 小姓役
- 『萩の古幹』によれば人員20人。
記録所役配下
加判役配下
- 国元留守居家老
- 配下に手元役。
- 当職
- 地方職座とも
- 江戸留守居家老
- 配下に手元役。
- 当役
- 江戸職座とも
- 大組頭
- 八組ある大組の長。寄組より就任。
- 無給通総頭
- 無給通士を統括
- 徒士総頭
- 徒士を統括。
- 大頭
- 御手廻物頭
- 手廻足軽を統括
- 船手組頭
- 船手組士を統括
- 旗奉行
- 鎗奉行
- 使番役
- 明倫館総奉行
当職配下
- 裏判役
- 手元役
- 右筆役
- 蔵元両人役
- 所帯方
- 上勘奉行
- 撫育方
- 毛利重就の代に創設
- 産物方
- 越荷方
- 遠近方
- 作事奉行
- 大坂頭人
- 京都留守居
- 郡奉行
- 町奉行
- 萩、山口、三田尻の三箇所に設置。
- 寺社奉行
- 目付役
郡奉行配下
- 郡代官
- 大組士より任命。勘定役、算用役、寺社役、山方、普請方、記録方、番所方を統括。
大組頭支配
- 表番頭
- 大組頭不在時に、その代行を勤める。
- 大組番頭
- 大組士を統括。
当役配下
- 当役副使
- 用談役
- 手元役
- 右筆役
- 用所役
- 矢倉頭
- 江戸大検使
幕末の領地
上記のほか、明治維新後に石狩国樺戸郡、雨竜郡、天塩国増毛郡、留萌郡を管轄した。
脚注
- ^ 中西立太「日本の軍装」、2006年。
- ^ 萩城:幕末時は多くの志士を生み討幕への起爆剤となった長州藩 萩城(指月城)(2014年8月5日時点のアーカイブ)
- ^ a b “長州藩”. 日本大百科全書. コトバンク. 2015年12月6日閲覧。
- ^ a b c 「中国地方に覇を唱えた名 長州藩の始祖・毛利元就の偉業」『男の隠れ家特別編集 時空旅人 Vol.23 「長州藩 成立から倒幕まで」』三栄書房、2015年1月、16-17頁。JANコード 4910052650152。
- ^ 越後国佐橋荘は嫡男の基親が相続した。
- ^ 毛利貞親・親衡は越後の毛利領を拠点に南朝に味方し活動。
- ^ 吉田郡山城の築城者といわれる時親が曾孫の元春を後見した。
- ^ 慶長5年の検地による石高。慶長10年(1605年)の毛利家御前帳にも同様の石高が記載。
- ^ a b 司馬遼太郎『街道をゆく21 神戸・横浜散歩、芸備の道』朝日新聞社、2005年、32-33頁。ISBN 4-02-250121-9。司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ:第21巻 神戸・横浜散歩、芸備の道
- ^ 司馬遼太郎『歴史を紀行する』文藝春秋、1969年、213-215頁。
- ^ 『幕末史の研究』、雄山閣、283頁
- ^ 『文藝春秋』2000年10月号「関ヶ原四〇〇年の恩讐を越えて」(毛利家71代当主毛利元敬、島津家32代当主島津修久、黒田家16代当主黒田長久、山内家18代当主山内豊秋、司会半藤一利)※毛利家では慣習上、天穂日命を初代として数えるため現当主は71代と公称している。
参考文献
- 末松謙澄著・編纂『防長回天史』1911年(明治44年) 1991年復刻
- 時山弥八『もりのしげり』1916年(大正5年)
- 『萩市史 第一巻』 萩市史編纂委員会
- 橋本博『大武鑑・中巻』名著刊行会 1965年
- 児玉幸多・北島正元監修『藩史総覧』新人物往来社 1977年
- 『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1977年
- 中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書 2003年
関連項目
- 長州藩の家臣団
- 萩城下町
- 豊榮神社・野田神社 - 前者は毛利元就を祭った神社、後者は毛利敬親、元徳を祭った神社。
- 志都岐山神社 - 毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を五柱として、その他に歴代藩主を祭った神社。
- 片山伯耆流
- 神道無念流
- 専当一心流
- 疋田陰流
- 三田尻
先代 (長門国・周防国) |
行政区の変遷 1600年 - 1871年 (萩藩→山口藩→山口県) |
次代 山口県 |