「パウロ・ベント」の版間の差分
59行目: | 59行目: | ||
2008年夏、ポルトガルのディアリオ・デ・ノティシアス紙は、スペインの[[レアル・ベティス]]が[[エクトル・ラウル・クーペル|エクトル・クーペル]]監督の後任としてベントの招聘を検討していると報じた<ref>{{cite web| url=http://news.livedoor.com/article/detail/3362887/ |title=ベティス、来季はスポルティング・リスボンのパウロ・ベント監督を招聘か |publisher=livedoorスポーツ |date=2007-10-28 |accessdate=2011-08-11}}</ref>。2008年7月15日、イギリスの[[ザ・サン]]紙と[[デイリー・テレグラフ]]紙は、[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]監督に就任する[[カルロス・ケイロス]]アシスタントコーチの後任として、[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]がベントの登用を計画していると報じた<ref>{{cite news|url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/leagues/premierleague/manutd/2390964/Manchester-United-turn-to-Cristiano-Ronaldo-friend-in-search-for-new-assistant.html|title=Manchester United turn to Cristiano Ronaldo friend in search for new assistant|publisher=The Daily Telegraph|date=2008-07-15|accessdate=2008-08-18|location=London|first=Matt|last=Lawless}}</ref>。ベントはすぐに噂を否定し、スポルティングCPにとどまる意思を主張した<ref>{{cite web|url=http://www.skysports.com/story/0,19528,11661_3823049,00.html|title=Bento rejects Red Devils talk|publisher=Sky Sports|date=2008-07-15|accessdate=2008-08-18}}</ref>。2008年夏には新たに何人かの新戦力を獲得する資金を与えられ、FCポルトに[[エルデル・ポスティガ]]を放出して[[ファビオ・ロッケンバック]]とM・カネイラを獲得した。さらに、レンタルで加入していたイスマイロフと[[レアンドロ・グリミ]]を完全移籍で獲得し、他クラブから関心を示されていたモウティーニョとヴェローゾの引き留めに成功した。 |
2008年夏、ポルトガルのディアリオ・デ・ノティシアス紙は、スペインの[[レアル・ベティス]]が[[エクトル・ラウル・クーペル|エクトル・クーペル]]監督の後任としてベントの招聘を検討していると報じた<ref>{{cite web| url=http://news.livedoor.com/article/detail/3362887/ |title=ベティス、来季はスポルティング・リスボンのパウロ・ベント監督を招聘か |publisher=livedoorスポーツ |date=2007-10-28 |accessdate=2011-08-11}}</ref>。2008年7月15日、イギリスの[[ザ・サン]]紙と[[デイリー・テレグラフ]]紙は、[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]監督に就任する[[カルロス・ケイロス]]アシスタントコーチの後任として、[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]がベントの登用を計画していると報じた<ref>{{cite news|url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/leagues/premierleague/manutd/2390964/Manchester-United-turn-to-Cristiano-Ronaldo-friend-in-search-for-new-assistant.html|title=Manchester United turn to Cristiano Ronaldo friend in search for new assistant|publisher=The Daily Telegraph|date=2008-07-15|accessdate=2008-08-18|location=London|first=Matt|last=Lawless}}</ref>。ベントはすぐに噂を否定し、スポルティングCPにとどまる意思を主張した<ref>{{cite web|url=http://www.skysports.com/story/0,19528,11661_3823049,00.html|title=Bento rejects Red Devils talk|publisher=Sky Sports|date=2008-07-15|accessdate=2008-08-18}}</ref>。2008年夏には新たに何人かの新戦力を獲得する資金を与えられ、FCポルトに[[エルデル・ポスティガ]]を放出して[[ファビオ・ロッケンバック]]とM・カネイラを獲得した。さらに、レンタルで加入していたイスマイロフと[[レアンドロ・グリミ]]を完全移籍で獲得し、他クラブから関心を示されていたモウティーニョとヴェローゾの引き留めに成功した。 |
||
2008年8月16日、スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラでFCポルトに2-0で勝利し、幸先の良いスタートを切った<ref>{{cite web|url=http://www.portugoal.net/Home0809/200808171-Supercup-Sporting-20-FCPorto.htm|title=Djalo fires Sporting to Supercup win|publisher=PortuGOAL|date=2008-08-18|accessdate=2008-08-18}} {{リンク切れ|date=October 2010|bot=H3llBot}}</ref>。厳しい批判にもかかわらずチームに残した選手のひとりである[[ルイ・パトリシオ]]は、この試合のキープレーヤーのひとりとなり、後半には[[ルイス・ゴンサレス]]のPKをセーブするなどの活躍を見せた<ref>{{cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=563730&sec=europe&&cc=5901|title=Sporting beat Porto in Portuguese Super Cup|publisher=ESPNsoccernet|date=2008-08-17|accessdate=2008-08-17}}</ref>。この勝利はFCポルトの[[ジェズアウド・フェレイラ]]監督が2007年と2008年のスーペルタッサ、2008年のタッサ・デ・ポルトガルで記録した勝利とよく似ており、ベントの株を上げた<ref>{{cite web|url=http://www.record.pt/noticia.asp?id=800337&idCanal=24|title=Paulo Bento imparável|trans_title=Paulo Bento unstoppable|publisher=Record|language=Portuguese|date=2008-08-17|accessdate=2008-08-17}}</ref>。さらに、スーペルタッサ2連覇はクラブ史上初めての出来事であった。獲得したトロフィーの数ではクラブのレジェンドであるJosef Szabo監督に次ぐクラブ歴代2位となり、彼の指揮下で4つもの銀杯をスポルティングCPのトロフィールームに加えたため、Papa-Taças(カップ戦コレクターの意味)の愛称を得た<ref>{{cite web|url=http://diario.iol.pt/desporto/sporting-paulo-bento-supertaca-fc-porto/982048-4062.html|title=Paulo Bento aceita a alcunha «papa-taças»: «É bom sinal»|publisher=Diário IOL|language=Portuguese|date=2008-08-16|accessdate=2008-08-16}}</ref>。2008-09シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ4節で4勝2敗で首位の[[FCバルセロナ]]に勝ち点1差に迫り、クラブ史上初めて決勝トーナメント進出を決めた<ref>{{cite web| url=http://www.UEFA.com/competitions/ucl/fixturesresults/round=15276/match=302749/report=rw.html|title=Bento basks in Sporting success|publisher=UEFA.com|accessdate=2008-11-04}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/competitions/ucl/fixturesresults/round=15276/match=302749/report=rp.html|title=Derlei sparks Sporting celebrations|publisher=UEFA.com|accessdate=2008-11-04}}</ref>。決勝トーナメント1回戦では[[バイエルン・ミュンヘン]]と対戦したが、ファーストレグはあ0-5、セカンドレグは1-7で敗れ、同大会決勝トーナメントの最大得点差記録を更新する2試合合計1-12で大敗した。この大敗はファンの間にベントに対する不満を呼び起こし、とりわけ退屈な試合内容に不満が続出した<ref>{{cite web|url=http://www.sportingapoio.com/noticias/crise-no-sporting-todos-admitem-poucos-assumem-e-ninguem-reage/|title=Crise no Sporting: todos admitem, poucos assumem e ninguem reage|trans_title=Sporting crisis: all admit, few acknowledge, none react|publisher=SportingApoio|language=Portuguese|accessdate=2009-11-04|archiveurl=http://web.archive.org/web/20091009093451/http://www.sportingapoio.com/noticias/crise-no-sporting-todos-admitem-poucos-assumem-e-ninguem-reage/|archivedate=2009年10月9日}}</ref>。リーグ戦では序盤戦は調子が上がらなかったが、しり上がりに調子を挙げ、最終的には優勝したFCポルトに勝ち点4差の2位でシーズンを終えた。タッサ・デ・ポルトガルでは決勝でSLベンフィカと対戦し、PK戦の末に敗れて準優勝に終わった<ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/memberassociations/news/newsid=812715.html|title=Quim the hero of Benfica triumph|publisher=UEFA.com|accessdate=2009-11-06}}</ref>。解任を求める声は会長選挙が行われたシーズン終了まで続いたが、会長選挙に勝利した[[ジョゼ・エドゥアルド・ベッテンコート]]会長はベントを支持し、2年の契約延長で合意した。 |
2008年8月16日、スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラでFCポルトに2-0で勝利し、幸先の良いスタートを切った<ref>{{cite web|url=http://www.portugoal.net/Home0809/200808171-Supercup-Sporting-20-FCPorto.htm|title=Djalo fires Sporting to Supercup win|publisher=PortuGOAL|date=2008-08-18|accessdate=2008-08-18}} {{リンク切れ|date=October 2010|bot=H3llBot}}</ref>。厳しい批判にもかかわらずチームに残した選手のひとりである[[ルイ・パトリシオ]]は、この試合のキープレーヤーのひとりとなり、後半には[[ルイス・ゴンサレス]]のPKをセーブするなどの活躍を見せた<ref>{{cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=563730&sec=europe&&cc=5901|title=Sporting beat Porto in Portuguese Super Cup|publisher=ESPNsoccernet|date=2008-08-17|accessdate=2008-08-17}}</ref>。この勝利はFCポルトの[[ジェズアウド・フェレイラ]]監督が2007年と2008年のスーペルタッサ、2008年のタッサ・デ・ポルトガルで記録した勝利とよく似ており、ベントの株を上げた<ref>{{cite web|url=http://www.record.pt/noticia.asp?id=800337&idCanal=24|title=Paulo Bento imparável|trans_title=Paulo Bento unstoppable|publisher=Record|language=Portuguese|date=2008-08-17|accessdate=2008-08-17}}</ref>。さらに、スーペルタッサ2連覇はクラブ史上初めての出来事であった。獲得したトロフィーの数ではクラブのレジェンドであるJosef Szabo監督に次ぐクラブ歴代2位となり、彼の指揮下で4つもの銀杯をスポルティングCPのトロフィールームに加えたため、Papa-Taças(カップ戦コレクターの意味)の愛称を得た<ref>{{cite web|url=http://diario.iol.pt/desporto/sporting-paulo-bento-supertaca-fc-porto/982048-4062.html|title=Paulo Bento aceita a alcunha «papa-taças»: «É bom sinal»|publisher=Diário IOL|language=Portuguese|date=2008-08-16|accessdate=2008-08-16}}</ref>。2008-09シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ4節で4勝2敗で首位の[[FCバルセロナ]]に勝ち点1差に迫り、クラブ史上初めて決勝トーナメント進出を決めた<ref>{{cite web| url=http://www.UEFA.com/competitions/ucl/fixturesresults/round=15276/match=302749/report=rw.html|title=Bento basks in Sporting success|publisher=UEFA.com|accessdate=2008-11-04}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/competitions/ucl/fixturesresults/round=15276/match=302749/report=rp.html|title=Derlei sparks Sporting celebrations|publisher=UEFA.com|accessdate=2008-11-04}}</ref>。決勝トーナメント1回戦では[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]と対戦したが、ファーストレグはあ0-5、セカンドレグは1-7で敗れ、同大会決勝トーナメントの最大得点差記録を更新する2試合合計1-12で大敗した。この大敗はファンの間にベントに対する不満を呼び起こし、とりわけ退屈な試合内容に不満が続出した<ref>{{cite web|url=http://www.sportingapoio.com/noticias/crise-no-sporting-todos-admitem-poucos-assumem-e-ninguem-reage/|title=Crise no Sporting: todos admitem, poucos assumem e ninguem reage|trans_title=Sporting crisis: all admit, few acknowledge, none react|publisher=SportingApoio|language=Portuguese|accessdate=2009-11-04|archiveurl=http://web.archive.org/web/20091009093451/http://www.sportingapoio.com/noticias/crise-no-sporting-todos-admitem-poucos-assumem-e-ninguem-reage/|archivedate=2009年10月9日}}</ref>。リーグ戦では序盤戦は調子が上がらなかったが、しり上がりに調子を挙げ、最終的には優勝したFCポルトに勝ち点4差の2位でシーズンを終えた。タッサ・デ・ポルトガルでは決勝でSLベンフィカと対戦し、PK戦の末に敗れて準優勝に終わった<ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/memberassociations/news/newsid=812715.html|title=Quim the hero of Benfica triumph|publisher=UEFA.com|accessdate=2009-11-06}}</ref>。解任を求める声は会長選挙が行われたシーズン終了まで続いたが、会長選挙に勝利した[[ジョゼ・エドゥアルド・ベッテンコート]]会長はベントを支持し、2年の契約延長で合意した。 |
||
==== 2009-10シーズン ==== |
==== 2009-10シーズン ==== |
2017年8月29日 (火) 10:10時点における版
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 |
パウロ・ジョルジュ・ゴメス・ベント Paulo Jorge Gomes Bento | |||||
ラテン文字 | PAULO BENTO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ポルトガル | |||||
生年月日 | 1969年6月20日(55歳) | |||||
出身地 | リスボン | |||||
身長 | 175cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF(DMF) | |||||
ユース | ||||||
1982-1987 | Alvalade | |||||
1987-1988 | Palmense | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1987-1988 | オリエンタル | 13 | (0) | |||
1988-1989 | フチボウ・ベンフィカ | 20 | (2) | |||
1989-1991 | エストレラ・アマドーラ | 37 | (0) | |||
1991-1994 | ヴィトーリア・ギマランイス | 95 | (13) | |||
1994-1996 | ベンフィカ | 49 | (2) | |||
1996-2000 | オビエド | 136 | (4) | |||
2000-2004 | スポルティングCP | 92 | (2) | |||
代表歴 | ||||||
1992-2002 | ポルトガル | 35 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2004-2005 | スポルティングCP (下部組織) | |||||
2005-2009 | スポルティングCP | |||||
2010-2014 | ポルトガル | |||||
2016 | クルゼイロ | |||||
2016-2017 | オリンピアコス | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
パウロ・ベント(Paulo Jorge Gomes Bento, 1969年6月20日 - )は、ポルトガル・リスボン県リスボン出身の元サッカー選手であり、現サッカー指導者。2010年から2014年までポルトガル代表監督を務めた。現役時代のポジションは守備的ミッドフィールダーであり、タックル能力や運動量に優れていた[1]。
選手経歴
クラブ
ポルトガルの首都リスボンに生まれ、CFエストレラ・アマドーラ、ヴィトーリアSC、SLベンフィカなどポルトガル国内のクラブでプレーした後、スペイン・リーガ・エスパニョーラのレアル・オビエドでも4年間プレーし、プリメーラ・ディビシオン(1部)残留に貢献した。2000年に母国のスポルティングCPに移籍し、そこで選手生活を終えた[2]。ジョアン・ヴィエイラ・ピントやマリオ・ジャルデウなどスター選手揃いのスポルティングCPでは2001-02シーズンにスーペル・リーガとタッサ・デ・ポルトガルの2冠を達成した。まだ駆け出しの選手だったリカルド・クアレスマやクリスティアーノ・ロナウドの面倒を熱心に見ており、ロナウドには特に慕われた。
パウロのサッカー選手としての態度がとても気に入ったんだ。多くのことを彼から学んだよ。とにかく僕らを引きつけるような気持ちのこもった教え方をするんだ[3]。 — クリスティアーノ・ロナウド
代表
1992年1月15日のスペイン戦 (0-0) でポルトガル代表デビューした。2000年のUEFA EURO 2000ではアベル・シャヴィエルやヌーノ・ゴメスなどとともにプレーし、最終的にフランスに敗れたが準決勝に進出した[4]。2002年には2002 FIFAワールドカップに出場し、韓国戦 (0-1) が代表でのラストゲームとなった。
指導者経歴
スポルティングCP
2006-07シーズンまで
2004年に35歳で現役引退した後、スポルティングCPの下部組織のチームの監督に就任すると、初年度の2004-05シーズンにはジュニア世代で全国優勝を成し遂げた。2005-06シーズン途中にトップチームのジョゼ・ペセイロ監督が解任されたため、指導者歴1年のベントがトップチームの監督に昇格するという決断が下され、18歳だったナニを就任直後の試合でトップチームデビューさせるなど[3]、チームに新しい風を吹き込んだ。シーズン終了後に知名度のある監督を呼び寄せるまでの繋ぎの役目にすぎないと揶揄する声も聞かれ[要出典]、就任直後は低調な成績だったが、シーズン後半戦には10連勝という成績を収め、優勝したFCポルトに迫った。2006-07シーズンはユースチームの監督時代の教え子を次々とトップチームに昇格させ、ナニ、ジョアン・モウティーニョ、ミゲル・ヴェローゾなどが期待の若手として注目を浴びた。最終節までリーグ優勝を争ったが、FCポルトに勝ち点1差で優勝を逃した。タッサ・デ・ポルトガルでは決勝でCFベレネンセスを1-0で破って優勝し、トップリーグの指導者として初めてのタイトルを獲得した。
2007-08シーズン
2007年6月、クラブとの契約を2年延長した[5]。2007年夏の移籍期間にはロドリゴ・テージョ、マルコ・カネイラなど守備陣の主力がチームを離れ、守護神のリカルド・ペレイラもレアル・ベティスへと旅立った。シモン・ヴクチェヴィッチ、マラト・イズマイロフ、ヴラディミル・ストイコヴィッチなど、東欧の選手を中心に補強してシーズン開幕を迎えたが、スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラではリーグ王者のFCポルトに1-0で勝利し、幸先の良いスタートを切った。2007-08シーズンはFCポルトがスポルティングCPに勝ち点14差を付けて独走優勝したが、ベントはチームをUEFAチャンピオンズリーグ出場圏を獲得できる2位に導いた。シーズンのほとんどを3位以下で過ごしていたが、シーズン終盤でSLベンフィカとヴィトーリアSCを振り切り、3シーズン連続で2位フィニッシュした。UEFAチャンピオンズリーグ本選出場権を3シーズン連続で獲得するのはクラブにとって前例のないことだった。このシーズン、ベントは国内リーグよりも国内カップであるタッサ・デ・ポルトガルのタイトル獲得に力を入れ、決勝でFCポルトに2-0で勝利して優勝した。リーグ戦ではホームの15試合で12勝3分という成績を挙げ、1986-87シーズン以来となるホーム無敗の記録を樹立した。タッサ・デ・ポルトガルで2連覇したのは1974年(1972-73・1973-74シーズン)以来であり、3シーズン連続して2位以内でシーズンを終えたのは1962年以来であった。タッサ・デ・ポルトガルを2シーズン連続で獲得した監督は過去に3人(ジャノス・ビリ、ジョン・モルティモア、ホセ・マリア・ペドロート)しかおらず、38歳にしてポルトガルサッカーの歴史に名を刻むことになった。
2008-09シーズン
2008年夏、ポルトガルのディアリオ・デ・ノティシアス紙は、スペインのレアル・ベティスがエクトル・クーペル監督の後任としてベントの招聘を検討していると報じた[6]。2008年7月15日、イギリスのザ・サン紙とデイリー・テレグラフ紙は、ポルトガル代表監督に就任するカルロス・ケイロスアシスタントコーチの後任として、マンチェスター・ユナイテッドFCがベントの登用を計画していると報じた[7]。ベントはすぐに噂を否定し、スポルティングCPにとどまる意思を主張した[8]。2008年夏には新たに何人かの新戦力を獲得する資金を与えられ、FCポルトにエルデル・ポスティガを放出してファビオ・ロッケンバックとM・カネイラを獲得した。さらに、レンタルで加入していたイスマイロフとレアンドロ・グリミを完全移籍で獲得し、他クラブから関心を示されていたモウティーニョとヴェローゾの引き留めに成功した。
2008年8月16日、スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラでFCポルトに2-0で勝利し、幸先の良いスタートを切った[9]。厳しい批判にもかかわらずチームに残した選手のひとりであるルイ・パトリシオは、この試合のキープレーヤーのひとりとなり、後半にはルイス・ゴンサレスのPKをセーブするなどの活躍を見せた[10]。この勝利はFCポルトのジェズアウド・フェレイラ監督が2007年と2008年のスーペルタッサ、2008年のタッサ・デ・ポルトガルで記録した勝利とよく似ており、ベントの株を上げた[11]。さらに、スーペルタッサ2連覇はクラブ史上初めての出来事であった。獲得したトロフィーの数ではクラブのレジェンドであるJosef Szabo監督に次ぐクラブ歴代2位となり、彼の指揮下で4つもの銀杯をスポルティングCPのトロフィールームに加えたため、Papa-Taças(カップ戦コレクターの意味)の愛称を得た[12]。2008-09シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ4節で4勝2敗で首位のFCバルセロナに勝ち点1差に迫り、クラブ史上初めて決勝トーナメント進出を決めた[13][14]。決勝トーナメント1回戦ではバイエルン・ミュンヘンと対戦したが、ファーストレグはあ0-5、セカンドレグは1-7で敗れ、同大会決勝トーナメントの最大得点差記録を更新する2試合合計1-12で大敗した。この大敗はファンの間にベントに対する不満を呼び起こし、とりわけ退屈な試合内容に不満が続出した[15]。リーグ戦では序盤戦は調子が上がらなかったが、しり上がりに調子を挙げ、最終的には優勝したFCポルトに勝ち点4差の2位でシーズンを終えた。タッサ・デ・ポルトガルでは決勝でSLベンフィカと対戦し、PK戦の末に敗れて準優勝に終わった[16]。解任を求める声は会長選挙が行われたシーズン終了まで続いたが、会長選挙に勝利したジョゼ・エドゥアルド・ベッテンコート会長はベントを支持し、2年の契約延長で合意した。
2009-10シーズン
2009年夏の新加入選手はマティアス・フェルナンデスやフェリペ・カイセドなど数人にとどめ、チームの基盤維持に努めた。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでは本選出場プレーオフでACFフィオレンティーナにアウェーゴール差で敗れ[17]、リーグ戦では9節を終えて3勝4分2敗の7位と失望を残した。11月5日、UEFAヨーロッパリーグのFKヴェンツピルスとの試合を1-1の引き分けで終えた後、低調な成績を理由に辞任を求める声が高まり、引責辞任した[18][19]。彼の在職期間はクラブ史上2番目の長さであった。
ポルトガル代表
2010-2014
2010年9月20日、UEFA EURO 2012予選の低調な滑り出しを理由に解任されたカルロス・ケイロス監督の後釜として、2012年までの契約でポルトガル代表監督に就任した[20][21]。契約は2012年7月までとなる[22]。初采配となった10月8日のデンマーク戦には3-1で勝利した。11月17日には2010 FIFAワールドカップ王者のスペインを4-0で粉砕した。
2014年のFIFAワールドカップブラジル大会では、初戦のドイツ戦で0-4の大敗を喫したのがたたり、1勝1敗1分でグループリーグ敗退となった[23]。ワールドカップの後も監督に留まったが、2016ヨーロッパサッカー選手権フランス大会予選となった9月7日のアルバニア戦で0-1と敗れ、2014年9月11日に監督を解任された[24]。解任となったが、カリスマ性もあり、また言葉に裏打ちされた経験と分析力は、クリスティアーノ・ロナウドをはじめ代表選手の多くから慕われていた。当時のポルトガル代表をマネジメントしその後のポルトガル代表の礎を築いた。
クルゼイロ
2016シーズン
2016年5月11日、クルゼイロECの監督に就任した[25]。だが、成績不振を受けて同年7月に解任された。
オリンピアコス
2016-17シーズン
2016年8月11日、ギリシャ・スーパーリーグのオリンピアコスの監督に就任することが発表された。契約期間は2年となっている。しかし当時チームは国内カップ準決勝進出、ヨーロッパリーグベスト16の成績、リーグで首位だったが、2017年3月5日にPAOKに敗れ、解任された。
タイトル
選手
- CFエストレラ・アマドーラ
- タッサ・デ・ポルトガル : 1989-90
- SLベンフィカ
- タッサ・デ・ポルトガル : 1995-96
- スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル
- スーペル・リーガ : 2001-02
- タッサ・デ・ポルトガル : 2001-02
- スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラ : 2002
指導者
- スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル
- タッサ・デ・ポルトガル : 2006-07, 2007-08
- スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラ : 2007, 2008
個人
- CNIDアワード ブレイクスルーコーチ : 2005-06
脚注
- ^ Euro 2000 profile BBC Sport
- ^ Bento to join Sporting Lisbon BBC Sport、2000年5月30日
- ^ a b “世界一幸せなスポルティング育ちの選手たち”. スポーツナビ (2007年9月21日). 2011年8月11日閲覧。
- ^ UEFA suspends Portuguese trio BBC Sport、2000年7月2日
- ^ Bento refreshes Sporting ties UEFA.com、2007年6月12日
- ^ “ベティス、来季はスポルティング・リスボンのパウロ・ベント監督を招聘か”. livedoorスポーツ (2007年10月28日). 2011年8月11日閲覧。
- ^ Lawless, Matt (2008年7月15日). “Manchester United turn to Cristiano Ronaldo friend in search for new assistant”. London: The Daily Telegraph 2008年8月18日閲覧。
- ^ “Bento rejects Red Devils talk”. Sky Sports (2008年7月15日). 2008年8月18日閲覧。
- ^ “Djalo fires Sporting to Supercup win”. PortuGOAL (2008年8月18日). 2008年8月18日閲覧。 [リンク切れ]
- ^ “Sporting beat Porto in Portuguese Super Cup”. ESPNsoccernet (2008年8月17日). 2008年8月17日閲覧。
- ^ “Paulo Bento imparável” (Portuguese). Record (2008年8月17日). 2008年8月17日閲覧。
- ^ “Paulo Bento aceita a alcunha «papa-taças»: «É bom sinal»” (Portuguese). Diário IOL (2008年8月16日). 2008年8月16日閲覧。
- ^ “Bento basks in Sporting success”. UEFA.com. 2008年11月4日閲覧。
- ^ “Derlei sparks Sporting celebrations”. UEFA.com. 2008年11月4日閲覧。
- ^ “Crise no Sporting: todos admitem, poucos assumem e ninguem reage” (Portuguese). SportingApoio. 2009年10月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年11月4日閲覧。
- ^ “Quim the hero of Benfica triumph”. UEFA.com. 2009年11月6日閲覧。
- ^ “Viola find edge to go through”. UEFA.com. 2009年11月4日閲覧。
- ^ “Paulo Bento demitiu-se (Paulo Bento resigned)” (Portuguese). Record (2009年11月6日). 2009年11月6日閲覧。
- ^ “Bento calls time on Sporting tenure”. UEFA.com (2009年11月6日). 2009年11月6日閲覧。
- ^ “Portugal confirm appointment of Paulo Bento”. ESPNsoccernet (2010年9月21日). 2011年2月10日閲覧。
- ^ “パウロ・ベント氏がポルトガル代表監督就任へ”. スポニチ (2010年9月21日). 2011年8月11日閲覧。
- ^ “ポルトガル代表新監督にベント氏”. UEFA.com (2010年9月21日). 2011年8月11日閲覧。
- ^ 歓喜なき勝利、ポルトガル散る ロナルド、遅すぎた得点 朝日新聞 2014年6月24日閲覧
- ^ ポルトガル代表 ベント監督が解任…欧州選手権予選で黒星発進 スポーツニッポン 2014年9月12日閲覧
- ^ “Paulo Bento é anunciado como o novo técnico do Maior de Minas”. Cruzeiro Esporte Clube (2016年5月12日). 2016年6月25日閲覧。
外部リンク
- Player and coach profile at Zerozero
- Stats at ForaDeJogo
- Stats at Liga de Fútbol Profesional
- BDFutbol profile
- パウロ・ベント - National-Football-Teams.com