「マルク・ファン・ボメル」の版間の差分
m編集の要約なし |
|||
45行目: | 45行目: | ||
[[2006 FIFAワールドカップ|ドイツW杯]]以降は監督の[[マルコ・ファン・バステン]]との確執から「今のスタッフが総退陣しない限り代表ではプレーしない」と[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]からの招集を拒否していたが、[[UEFA EURO 2008|EURO2008]]後に義父である[[ベルト・ファン・マルワイク]]が代表監督に就任したことで代表に復帰した。 |
[[2006 FIFAワールドカップ|ドイツW杯]]以降は監督の[[マルコ・ファン・バステン]]との確執から「今のスタッフが総退陣しない限り代表ではプレーしない」と[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]からの招集を拒否していたが、[[UEFA EURO 2008|EURO2008]]後に義父である[[ベルト・ファン・マルワイク]]が代表監督に就任したことで代表に復帰した。 |
||
2009年、資金難でリーグライセンス発行に苦心している古巣[[フォルトゥナ・シッタート]]のために[[バイエルン・ミュンヘン]]とのチャリティーマッチを企画した。7500人の観客が来場し、売り上げが20万ユーロに達するなどイベントとしては成功したが、当のファン・ボメルは左太腿を負傷していたために出場できなかった<ref>{{Cite news |
2009年、資金難でリーグライセンス発行に苦心している古巣[[フォルトゥナ・シッタート]]のために[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]とのチャリティーマッチを企画した。7500人の観客が来場し、売り上げが20万ユーロに達するなどイベントとしては成功したが、当のファン・ボメルは左太腿を負傷していたために出場できなかった<ref>{{Cite news |
||
|publisher=スポーツナビ |
|publisher=スポーツナビ |
||
|date=2009-05-20 |
|date=2009-05-20 |
2017年8月29日 (火) 09:43時点における版
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 |
マルク・ペーター・ヘルトルダ・アンドレアス・ファン・ボメル Mark Peter Gertruda Andreas van Bommel | |||||
ラテン文字 | Mark Van Bommel | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | オランダ | |||||
生年月日 | 1977年4月22日(47歳) | |||||
出身地 | マースブラフト | |||||
身長 | 187cm | |||||
体重 | 85kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF (DH) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1992-1999 | フォルトゥナ・シッタート | 153 | (13) | |||
1999-2005 | PSV | 169 | (46) | |||
2005-2006 | バルセロナ | 24 | (2) | |||
2006-2011 | バイエルン・ミュンヘン | 123 | (11) | |||
2011-2012 | ミラン | 39 | (0) | |||
2012-2013 | PSV | 13 | (2) | |||
代表歴2 | ||||||
2000-2012[1] | オランダ | 79 | (10) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2013年2月5日 (火) 01:44 (UTC)現在。 2. 2012年6月17日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マルク・ファン・ボメル(Mark van Bommel, 1977年4月22日 - )は、オランダ、マースブラフト出身の元サッカー選手。同国代表でもあった。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
妻は元オランダ代表監督ベルト・ファン・マルワイクの娘。
略歴
1992年、後に義父となるベルト・ファン・マルワイクが監督を務めるフォルトゥナ・シッタートへ入団。翌シーズンにはデビューを果たして頭角を表すと、中盤の中心選手として出場機会を増やし、当時2部だったチームの1部昇格へ貢献。1999年にPSVへ移籍。リーグ優勝に貢献する活躍を見せるとともに、2000年10月7日のキプロス戦でオランダ代表デビューを果たした。
2000-01シーズンにはPSVのキャプテンとして攻守にわたって活躍し、リーグ連覇に貢献。一方で2002年の日韓W杯はオランダ代表が出場権を逃し、EURO2004では自身の故障で出場を辞退するなど不運に見舞われている。2004-05シーズンには自身最多となる14得点を挙げてリーグ優勝を果たすと共にUEFAチャンピオンズリーグではベスト4入りを果たした。
2005年7月1日、FCバルセロナへ移籍。しかし、シャビ、デコ、ラファエル・マルケスがおもに起用されたためレギュラーに定着には至らなかった。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでは12年ぶりに決勝に進出。決勝のアーセナル戦ではスタメン出場を果たし、14年ぶりの優勝を経験した。
2006-07シーズンはシーズン前のチームのアメリカ遠征にも参加したが、監督であるフランク・ライカールトに起用法を聞いたところ、「昨シーズンと同じくらいの出場時間かもしれないし、減るかもしれない」と言われた為、2006年8月27日にドイツのバイエルン・ミュンヘンに移籍。移籍金は770万ユーロ。9月23日の対アーヘン戦でブンデスリーガ初ゴールを決めると、30試合に出場し6ゴールを記録するなど期待に応える活躍を見せる。2008-09シーズンよりオリバー・カーンの引退により、ドイツ人以外ではチーム初となるキャプテンに就任した。
ドイツW杯以降は監督のマルコ・ファン・バステンとの確執から「今のスタッフが総退陣しない限り代表ではプレーしない」とオランダ代表からの招集を拒否していたが、EURO2008後に義父であるベルト・ファン・マルワイクが代表監督に就任したことで代表に復帰した。
2009年、資金難でリーグライセンス発行に苦心している古巣フォルトゥナ・シッタートのためにバイエルン・ミュンヘンとのチャリティーマッチを企画した。7500人の観客が来場し、売り上げが20万ユーロに達するなどイベントとしては成功したが、当のファン・ボメルは左太腿を負傷していたために出場できなかった[2]。
2011年1月25日、ACミランへ移籍した。契約期間は5か月、また契約解除のため、移籍金は発生していない。ミランでは4-3-1-2の中盤の底を務め、堅実なプレーを披露してチームの7年ぶりの優勝に貢献した。シーズン終了後、契約を1年延長した。
2012年5月14日、2011-12シーズン限りでの退団を明言。古巣PSVへの7季ぶりの復帰が決定した[3]。
EURO2012ではまさかの3戦全敗に終わり、6月19日にオランダ代表を引退した [4]。
2013年5月12日のシーズン最終節FCトゥウェンテ戦では2枚目のイエローカードを受けて退場処分、試合後に引退を表明した[5]。
所属クラブ
- フォルトゥナ・シッタート 1992-1999
- PSVアイントホーフェン 1999-2005
- FCバルセロナ 2005-2006
- FCバイエルン・ミュンヘン 2006-2011.1
- ACミラン 2011.1-2012
- PSVアイントホーフェン 2012-2013
獲得タイトル
- PSVアイントホーフェン
- エールディヴィジ: 2000, 2001, 2003, 2005
- KNVBカップ: 2005
- ヨハン・クライフ・シャール: 2000, 2001, 2003, 2005
- FCバルセロナ
- UEFAチャンピオンズリーグ: 2006
- リーガ・エスパニョーラ: 2006
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ: 2005, 2006
- バイエルン・ミュンヘン
- ブンデスリーガ: 2008, 2010
- DFBリーガポカール: 2007
- DFBポカール: 2008, 2010
- ACミラン
- セリエA: 2011
- 個人
- オランダ年間最優秀選手: 2001, 2005
脚注
- ^ “Mark van Bommel - International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ “フォルトゥナ・シタルトのプロライセンスをはく奪”. スポーツナビ. (2009年5月20日) 2009年7月25日閲覧。
- ^ PSVがファン・ボメルの復帰を正式発表Goal.com 2012年5月15日
- ^ “ファン・ボメルがオランダ代表から引退”. UEFA.com (2012年6月20日). 2012年7月17日閲覧。
- ^ ファン・ボメルが現役引退 最後の試合で退場Goal.com 2013年5月13日