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{{Infobox 人物
|氏名=ジョセフ・クラーク・グルー
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|画像説明=Joseph Clark Grew
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'''ジョセフ・クラーク・グルー'''(Joseph Clark Grew、[[1880年]][[5月27日]] - [[1965年]][[5月25日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[外交官]]。日米開戦時の[[駐日アメリカ合衆国大使]]で[[知日派]]として知られ、[[日本]]の政財界に強力なパイプを持ち、日本の[[本土決戦]]回避に尽力した。また、終戦後にグルーを中心としたジャパンロビーは圧力団体の[[アメリカ対日協議会]]を組織した<ref>出典は武田清子の『天皇観の相剋 1945年前後』</ref>。グルーは幕末期に日本に来航した[[マシュー・カルブレース・ペリー]]の兄である[[オリバー・ハザード・ペリー]]のひ孫アリスと結婚した。いわば第二の[[マシュー・ペリー|ペリー]]である。

== 略歴 ==
=== 生い立ち ===
[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]生まれ。生家は裕福で、ボストンの名士という家柄であったという。グロートン校を経て、[[1902年]]に[[ハーバード大学]]を卒業、同年外交官試験に合格する。

[[JPモルガン・チェース]]の経営者[[ジョン・モルガン|ジョン・ピアポント・モルガン]]の息子、[[w:J. P. Morgan, Jr.|ジャック・モルガン]](1867年 - 1943年)は、彼のいとこにあたるJane Norton Grew ジェーン・ノートン・グルーと結婚している。

=== 外交官 ===
その後は[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]に勤務し、1912-17年まで、ドイツ大使館に勤務(ベルリン)。その後は[[1920年]]に駐[[デンマーク]]公使を、[[1921年]]には駐[[スイス]]公使を務める。また、[[1922年]]には[[ローザンヌ条約|ローザンヌ講和会議]]にアメリカ代表として参加するなど要職を務めた。

[[1927年]]には駐[[トルコ]]大使としてトルコに赴任し、その後[[1932年]](昭和7年)からは駐日大使となり、日米開戦([[太平洋戦争]]・[[大東亜戦争]])の前年の[[1940年]](昭和15年)[[11月11日]]に、[[日本国政府|日本政府]]主催で挙行された「[[紀元二千六百年記念行事#紀元二千六百年式典|紀元二千六百年式典]]」の奉祝会で、奉祝詞奏上を行うなどの[[知日派]]ともされ、[[広田弘毅]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]と緊密な関係を築くことで[[日米関係]]の悪化を押しとどめるべく努力したが、[[親中]]派の[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領率いるアメリカの日本に対する姿勢は強硬の一途をたどり、「[[ハル・ノート]]」が[[日本国政府|日本政府]]に突き付けられた結果、[[1941年]](昭和16年)12月の[[真珠湾攻撃]]により日米開戦するに至った。翌年に戦時[[交換船]]で帰国した。帰国後は駐日大使時代の経験を『滞日十年』に著し、講演旅行では大変な人気を博した。1944年、国務省極東局長を経て国務次官となる。

=== 「三人委員会」 ===
グルーは陸軍長官[[ヘンリー・スティムソン]]と海軍長官[[ジェームズ・フォレスタル]]の2人とともに「三人委員会」のメンバーであった。「三人委員会」は、日本を[[原子爆弾]]を使うことなく降伏させようと建議し、それを受けて陸軍次官補{{仮リンク|ジョン・マクロイ|en|John J. McCloy}}は日本への降伏文書を立案し、[[ポツダム宣言]]の第12条に盛り込まれることとなった。ところが、それは日本政府の「天皇制のもとでの間接統治」を許容する可能性を広く残していたため、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領は[[ポツダム会談]]へ向かう船旅の間、対日強硬派の[[ジェームズ・F・バーンズ|ジェームズ・バーンズ]]国務長官の影響を受け、宣言内容の変更を余儀なくされた。

グルーは、個人的意見として、友人に、十分に発達した[[民主主義]]体制を日本に期待するのはばかげていると述懐していた<ref>ハワード・ショーンバーガー、占領1945〜1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人、時事通信社、1994年、32ページ</ref><ref>Ian Buruma,[[イアン・ブルマ]],Foreword to the Mariner Books Edition of Ruth Benedict's,[[ルース・ベネディクト]], "The Chrysanthemum and the Sword,2005,page viii</ref>。1945年5月、グルーはトルーマンに対して、天皇制はまさしく[[封建主義]]の名残りであり、「長期的な観点にたてば、日本においてわれわれが望みうる最善の道は、[[立憲君主制]]の発展である。」と語った<ref>[[ジョン・ダワー]]、敗北を抱きしめて、岩波書店、2001年、上巻284ページ</ref>。グルーは[[天皇]]が日本人にどれほど重要か理解していたため、原子爆弾を使うことなく日本の降伏に貢献できたと考えており、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]が降伏した[[1945年]]5月末から、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事を再三トルーマンに進言していたが、結果としては[[広島市への原子爆弾投下|広島]]・[[長崎市への原子爆弾投下|長崎]]への原爆投下を避けることができなかった。「降伏が1945年5月、または[[ソ連対日参戦|ソ連の参戦]]や原子爆弾使用前の6月か7月に行われたら、世界を救うことができたのだが」と述懐している。

=== 国務長官代理 ===
[[エドワード・ステティニアス]]国務長官が、[[サンフランシスコ]]における[[国際連合]]設立のための会議で不在であったため、グルーは1945年1月から8月までの大部分の期間、国務長官代理を務めた。グルーはトルーマン政権の高官の中でも、当代随一の日本の専門家であった。終戦後、国務次官を辞任。

1965年5月25日死去(満84歳没)。

== 年表 ==
* [[1920年]] 駐[[デンマーク]]公使
* [[1921年]] 駐[[スイス]]公使
* [[1922年]] - [[1923年]] [[ローザンヌ条約|ローザンヌ講和会議]]にアメリカ代表として参加
* [[1924年]] 国務次官「[[:en:Foreign Service]]」の設立を監督した
* [[1927年]] 駐[[トルコ]]大使
* [[1932年]](昭和7年) 駐日大使
* [[1941年]](昭和16年)12月 [[真珠湾攻撃]]により日米が開戦したため、日本政府に短期間抑留された
* [[1942年]](昭和17年)6月 駐米大使[[野村吉三郎]]や駐米特命全権大使[[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]]らとの[[交換船|戦時交換船]]により帰国
* [[1944年]]
** 5月 国務省極東局長<ref>{{Cite book|author=United States Department of State|title=Foreign relations of the United States diplomatic papers, The Conferences at Cairo and Tehran, 1943|url=http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=turn&entity=FRUS.FRUS1943CairoTehran.p0036&id=FRUS.FRUS1943CairoTehran|year=1961|pages=p.XXXII|language=英語}}</ref>
** 12月 [[アメリカ合衆国国務次官|国務次官]]
* [[1945年]] 国務次官辞任
*[[1960年]] 勲一等旭日大綬章を受章(日米修好百年を記念して渡米した皇太子夫妻が勲章を持参した)<ref>読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 p.345 2012年</ref>
* [[1965年]] 死去

== 著書 ==
* 『Ten Years In Japan』
**邦訳『滞日十年 (上・下)』 [[石川欣一 (ジャーナリスト)|石川欣一]]訳、[[毎日新聞社]]、1948年/[[ちくま学芸文庫]](改訂版)、2011年9-10月
* 『Report from Tokyo』
**邦訳『東京報告』 [[細入藤太郎]]訳、日本橋書店、1945年

== 評伝ほか関連文献 ==
* [[武田清子]] 『天皇観の相剋 1945年前後』 [[岩波書店]] 1978年、岩波同時代ライブラリー 1993年、[[岩波現代文庫]] 2001年
* [[中村政則]] 『象徴天皇制への道 米国大使グルーとその周辺』 岩波書店〈岩波新書〉、1989年
* 廣部泉 『グルー 真の日本の友』 [[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]〉、2011年
* ウォルドー・ハインリックス 『日米外交とグルー』([[麻田貞雄]]訳、原書房、1969年)
** 増補改題『グルー大使と日米外交』(グルー基金、2000年)
* [[太田尚樹]] 『駐日米国大使 ジョセフ・グルーの昭和史』 PHP研究所、2013年
* [[福井雄三]] 『日米開戦の悲劇 ジョセフ・グルーと軍国日本』 PHP研究所、2012年
* 船山喜久彌 『白頭鷲と桜の木 日本を愛したジョセフ・グルー大使』 亜紀書房、1996年

== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[キャンプ・ドレイク]]
* [[ジェイムズ・グラハム・パーソンズ]]
* [[斎藤実]]

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[[Category:在スイスアメリカ合衆国大使]]

2017年5月7日 (日) 09:42時点における版

グルーの項目を大幅に書き換えたいので、現在の内容を直接編集して、改訂させて頂きます。 --岡本祐幸会話2017年4月29日 (土) 14:57 (UTC) 以下に改定前の原稿を転載させて頂きます。原稿を戻される場合のためにです。[返信]

ジョセフ・クラーク・グルー
Joseph Clark Grew
生誕 (1880-05-27) 1880年5月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
死没 (1965-05-25) 1965年5月25日(84歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 在日本アメリカ合衆国大使
国務長官代理
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ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日 - 1965年5月25日)は、アメリカ合衆国外交官。日米開戦時の駐日アメリカ合衆国大使知日派として知られ、日本の政財界に強力なパイプを持ち、日本の本土決戦回避に尽力した。また、終戦後にグルーを中心としたジャパンロビーは圧力団体のアメリカ対日協議会を組織した[1]。グルーは幕末期に日本に来航したマシュー・カルブレース・ペリーの兄であるオリバー・ハザード・ペリーのひ孫アリスと結婚した。いわば第二のペリーである。

略歴

生い立ち

マサチューセッツ州ボストン生まれ。生家は裕福で、ボストンの名士という家柄であったという。グロートン校を経て、1902年ハーバード大学を卒業、同年外交官試験に合格する。

JPモルガン・チェースの経営者ジョン・ピアポント・モルガンの息子、ジャック・モルガン(1867年 - 1943年)は、彼のいとこにあたるJane Norton Grew ジェーン・ノートン・グルーと結婚している。

外交官

その後は国務省に勤務し、1912-17年まで、ドイツ大使館に勤務(ベルリン)。その後は1920年に駐デンマーク公使を、1921年には駐スイス公使を務める。また、1922年にはローザンヌ講和会議にアメリカ代表として参加するなど要職を務めた。

1927年には駐トルコ大使としてトルコに赴任し、その後1932年(昭和7年)からは駐日大使となり、日米開戦(太平洋戦争大東亜戦争)の前年の1940年(昭和15年)11月11日に、日本政府主催で挙行された「紀元二千六百年式典」の奉祝会で、奉祝詞奏上を行うなどの知日派ともされ、広田弘毅外務大臣と緊密な関係を築くことで日米関係の悪化を押しとどめるべく努力したが、親中派のフランクリン・ルーズベルト大統領率いるアメリカの日本に対する姿勢は強硬の一途をたどり、「ハル・ノート」が日本政府に突き付けられた結果、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃により日米開戦するに至った。翌年に戦時交換船で帰国した。帰国後は駐日大使時代の経験を『滞日十年』に著し、講演旅行では大変な人気を博した。1944年、国務省極東局長を経て国務次官となる。

「三人委員会」

グルーは陸軍長官ヘンリー・スティムソンと海軍長官ジェームズ・フォレスタルの2人とともに「三人委員会」のメンバーであった。「三人委員会」は、日本を原子爆弾を使うことなく降伏させようと建議し、それを受けて陸軍次官補ジョン・マクロイは日本への降伏文書を立案し、ポツダム宣言の第12条に盛り込まれることとなった。ところが、それは日本政府の「天皇制のもとでの間接統治」を許容する可能性を広く残していたため、トルーマン大統領はポツダム会談へ向かう船旅の間、対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官の影響を受け、宣言内容の変更を余儀なくされた。

グルーは、個人的意見として、友人に、十分に発達した民主主義体制を日本に期待するのはばかげていると述懐していた[2][3]。1945年5月、グルーはトルーマンに対して、天皇制はまさしく封建主義の名残りであり、「長期的な観点にたてば、日本においてわれわれが望みうる最善の道は、立憲君主制の発展である。」と語った[4]。グルーは天皇が日本人にどれほど重要か理解していたため、原子爆弾を使うことなく日本の降伏に貢献できたと考えており、ドイツが降伏した1945年5月末から、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事を再三トルーマンに進言していたが、結果としては広島長崎への原爆投下を避けることができなかった。「降伏が1945年5月、またはソ連の参戦や原子爆弾使用前の6月か7月に行われたら、世界を救うことができたのだが」と述懐している。

国務長官代理

エドワード・ステティニアス国務長官が、サンフランシスコにおける国際連合設立のための会議で不在であったため、グルーは1945年1月から8月までの大部分の期間、国務長官代理を務めた。グルーはトルーマン政権の高官の中でも、当代随一の日本の専門家であった。終戦後、国務次官を辞任。

1965年5月25日死去(満84歳没)。

年表

著書

評伝ほか関連文献

  • 武田清子 『天皇観の相剋 1945年前後』 岩波書店 1978年、岩波同時代ライブラリー 1993年、岩波現代文庫 2001年
  • 中村政則 『象徴天皇制への道 米国大使グルーとその周辺』 岩波書店〈岩波新書〉、1989年
  • 廣部泉 『グルー 真の日本の友』 ミネルヴァ書房日本評伝選〉、2011年
  • ウォルドー・ハインリックス 『日米外交とグルー』(麻田貞雄訳、原書房、1969年)
    • 増補改題『グルー大使と日米外交』(グルー基金、2000年)
  • 太田尚樹 『駐日米国大使 ジョセフ・グルーの昭和史』 PHP研究所、2013年
  • 福井雄三 『日米開戦の悲劇 ジョセフ・グルーと軍国日本』 PHP研究所、2012年
  • 船山喜久彌 『白頭鷲と桜の木 日本を愛したジョセフ・グルー大使』 亜紀書房、1996年

脚注

  1. ^ 出典は武田清子の『天皇観の相剋 1945年前後』
  2. ^ ハワード・ショーンバーガー、占領1945〜1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人、時事通信社、1994年、32ページ
  3. ^ Ian Buruma,イアン・ブルマ,Foreword to the Mariner Books Edition of Ruth Benedict's,ルース・ベネディクト, "The Chrysanthemum and the Sword,2005,page viii
  4. ^ ジョン・ダワー、敗北を抱きしめて、岩波書店、2001年、上巻284ページ
  5. ^ United States Department of State (1961) (英語). Foreign relations of the United States diplomatic papers, The Conferences at Cairo and Tehran, 1943. pp. p.XXXII. http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=turn&entity=FRUS.FRUS1943CairoTehran.p0036&id=FRUS.FRUS1943CairoTehran 
  6. ^ 読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 p.345 2012年

関連項目

公職
先代
スタンリー・クール・ホーンベック
アメリカ合衆国国務省極東局長
1944年5月 - 12月
次代
ジョセフ・ウィリアム・バランタイン
先代
エドワード・ステティニアス
アメリカ合衆国国務次官
1944年12月20日 - 1945年8月15日
次代
ディーン・アチソン