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中学校入学後、野球部に所属する傍らで週2回柔道の道場に通った。元々プロレスには興味があったがのめり込むほどではなく、当時プロレスラーという認識があったのはアントニオ猪木やジャイアント馬場くらいであった。だがバラエティ番組に頻繁に出演する大仁田厚を見て「いちばん知名度があるプロレスラー」という認識が強くなり、中学1年生の時にレンタルビデオ店で借りた大仁田vs天龍源一郎のノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチを見て「男の目指す最終地点はここだ!」と思うようになった。本人はこの時の様子を「大仁田さんの熱血ぶり、天龍さんの無敵のオーラに惹かれましたね。本当に2人ともカッコいいと思った。でもあとから気づいたんですけど、僕がビデオを借りた時にはすでに大仁田さんは引退したあとだったんです。それでますます伝説のプロレスラーだと思いました。でも大仁田さんは今でもたまに試合していますよね(苦笑)」と話している。中学校の進路希望アンケートに「全日、新日、FMW」と記載するようなるほどプロレスラー志望が強くなったが、流石に親の反対に遭い、普通に高校進学することにした<ref name="takagiraireki"/>。
中学校入学後、野球部に所属する傍らで週2回柔道の道場に通った。元々プロレスには興味があったがのめり込むほどではなく、当時プロレスラーという認識があったのはアントニオ猪木やジャイアント馬場くらいであった。だがバラエティ番組に頻繁に出演する大仁田厚を見て「いちばん知名度があるプロレスラー」という認識が強くなり、中学1年生の時にレンタルビデオ店で借りた大仁田vs天龍源一郎のノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチを見て「男の目指す最終地点はここだ!」と思うようになった。本人はこの時の様子を「大仁田さんの熱血ぶり、天龍さんの無敵のオーラに惹かれましたね。本当に2人ともカッコいいと思った。でもあとから気づいたんですけど、僕がビデオを借りた時にはすでに大仁田さんは引退したあとだったんです。それでますます伝説のプロレスラーだと思いました。でも大仁田さんは今でもたまに試合していますよね(苦笑)」と話している。中学校の進路希望アンケートに「全日、新日、FMW」と記載するようなるほどプロレスラー志望が強くなったが、流石に親の反対に遭い、普通に高校進学することにした<ref name="takagiraireki"/>。


[[山梨県立市川高等学校|山梨県立市川高校]]在学中は柔道部に所属。柔道の道場でもプロレス技を練習するなどプロレス好きは相変わらずであった。主将を務めて関東大会出場を果たした。しかし全国大会には出場していないので、高校2年生の時に父親から「柔道でインターハイも行けないのに、プロの世界はそんなに甘いもんじゃない」と忠告されたこともある。卒業後は[[アニマル浜口レスリング道場]]に通いながら、肉体作りを学ぶためトレーナー専門学校に進学し、肉体作りに必要なトレーニング理論を学んだ。専門学校に入学したのは「プロレスで挫折しても普通に働くことができるように学校へ行け」と父に勧められたためであり、浜口道場の存在は高校の担任に「どうやったらプロレスラーになれるか知りたければ図書館で調べてこい」と言われて実際に本を見つけて調べたことで知った。浜口道場時代は76kgの体重を過食により90kgを超えるほど増やし、その後体を絞るための目標としてボディビル大会に出場したが納得のいくような結果が得られなかったといった経験をした。ボディビル大会に関しては翌年にもう一度チャレンジして優勝を果たしており、またレスリングの大会でも結果を残している。浜口道場時代にはまた、内藤哲也やKAI,植田使徒などと共に過ごし、スパーリングも行ったことがある<ref name="takagiraireki/>。
[[山梨県立市川高等学校|山梨県立市川高校]]在学中は柔道部に所属。柔道の道場でもプロレス技を練習するなどプロレス好きは相変わらずであった。主将を務めて関東大会出場を果たした。しかし全国大会には出場していないので、高校2年生の時に父親から「柔道でインターハイも行けないのに、プロの世界はそんなに甘いもんじゃない」と忠告されたこともある。卒業後は[[アニマル浜口レスリング道場]]に通いながら、肉体作りを学ぶためトレーナー専門学校に進学し、肉体作りに必要なトレーニング理論を学んだ。専門学校に入学したのは「プロレスで挫折しても普通に働くことができるように学校へ行け」と父に勧められたためであり、浜口道場の存在は高校の担任に「どうやったらプロレスラーになれるか知りたければ図書館で調べてこい」と言われて実際に本を見つけて調べたことで知った。浜口道場時代は76kgの体重を過食により90kgを超えるほど増やし、その後体を絞るための目標としてボディビル大会に出場したが納得のいくような結果が得られなかったといった経験をした。ボディビル大会に関しては翌年にもう一度チャレンジして優勝を果たしており、またレスリングの大会でも結果を残している。浜口道場時代にはまた、内藤哲也やKAI,植田使徒などと共に過ごし、スパーリングも行ったことがある<ref name="takagiraireki" />。


=== 新人時代 ===
=== 新人時代 ===

2017年1月11日 (水) 01:51時点における版

鷹木 信悟
鷹木 信悟の画像
プロフィール
リングネーム 鷹木信悟
SHINGO
ニックネーム PUMPING HAWK
我道驀進
身長 178cm
体重 96kg
誕生日 (1982-11-21) 1982年11月21日(42歳)
出身地 山梨県中央市(出生当時は中巨摩郡
所属 DRAGON GATE
スポーツ歴 野球
柔道
レスリング
ボディビル[1]
トレーナー アニマル浜口[1]
デビュー 2004年10月3日
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鷹木 信悟(たかぎ しんご、1982年11月21日 - )は、日本男性プロレスラーDRAGON GATE所属。山梨県中央市出身(出生当時は中巨摩郡)。血液型はO型[1]

経歴

1982年11月21日、3人きょうだいの末っ子として山梨県中巨摩群に生まれる。少年期は友人に言わせると「ジャイアンとクレヨンしんちゃんを足して2で割った性格」という自由奔放な性格であり、機械が苦手でゲームを好まない一方で友達と野球やサッカーを行うなど外遊びが好きであった。子供の頃は夏でも冬でも1年中ずっと半袖半ズボンで過ごすというポリシーがあった。小学生時代の鷹木は朝早く登校すると始業までの間に相撲大会を開き自分が常に優勝をかっさらう、2年生から始めた少年野球では代打の切り札として活躍するなど、スポーツで後にプロレスラーとして発揮する能力の片鱗を見せた。何かと負けず嫌いであり、勉強が苦手で小学校のテストで10点から30点しか取れなかったので先生からたっぷり叱られ、それで負けん気に火が付いて勉強を頑張り、漢字テストで満点を連発してクラスで成績1位になり周囲を驚かせることもした。強くなりたいという願望は子供の頃から持っていたが、喧嘩好きというわけではなく、むしろ争い事は嫌いであった。しかし目立つ存在であったため上級生から目を付けられることがあり、父親からは「先に手を出すな」。その代わり、先にやられたら倍にしてやり返せ!ケンカには絶対負けるな!」と言われていた[2]

中学校入学後、野球部に所属する傍らで週2回柔道の道場に通った。元々プロレスには興味があったがのめり込むほどではなく、当時プロレスラーという認識があったのはアントニオ猪木やジャイアント馬場くらいであった。だがバラエティ番組に頻繁に出演する大仁田厚を見て「いちばん知名度があるプロレスラー」という認識が強くなり、中学1年生の時にレンタルビデオ店で借りた大仁田vs天龍源一郎のノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチを見て「男の目指す最終地点はここだ!」と思うようになった。本人はこの時の様子を「大仁田さんの熱血ぶり、天龍さんの無敵のオーラに惹かれましたね。本当に2人ともカッコいいと思った。でもあとから気づいたんですけど、僕がビデオを借りた時にはすでに大仁田さんは引退したあとだったんです。それでますます伝説のプロレスラーだと思いました。でも大仁田さんは今でもたまに試合していますよね(苦笑)」と話している。中学校の進路希望アンケートに「全日、新日、FMW」と記載するようなるほどプロレスラー志望が強くなったが、流石に親の反対に遭い、普通に高校進学することにした[2]

山梨県立市川高校在学中は柔道部に所属。柔道の道場でもプロレス技を練習するなどプロレス好きは相変わらずであった。主将を務めて関東大会出場を果たした。しかし全国大会には出場していないので、高校2年生の時に父親から「柔道でインターハイも行けないのに、プロの世界はそんなに甘いもんじゃない」と忠告されたこともある。卒業後はアニマル浜口レスリング道場に通いながら、肉体作りを学ぶためトレーナー専門学校に進学し、肉体作りに必要なトレーニング理論を学んだ。専門学校に入学したのは「プロレスで挫折しても普通に働くことができるように学校へ行け」と父に勧められたためであり、浜口道場の存在は高校の担任に「どうやったらプロレスラーになれるか知りたければ図書館で調べてこい」と言われて実際に本を見つけて調べたことで知った。浜口道場時代は76kgの体重を過食により90kgを超えるほど増やし、その後体を絞るための目標としてボディビル大会に出場したが納得のいくような結果が得られなかったといった経験をした。ボディビル大会に関しては翌年にもう一度チャレンジして優勝を果たしており、またレスリングの大会でも結果を残している。浜口道場時代にはまた、内藤哲也やKAI,植田使徒などと共に過ごし、スパーリングも行ったことがある[2]

新人時代

浜口道場で3年間を過ごしたのちに、DRAGON GATE(当時は闘龍門)に入門。21歳の時に闘龍門の試合を見るまで闘龍門の存在は知らず、闘龍門との出会いについては後年「正直、興味はありませんでした。初めて観てなんだこれは?と。今まで観てきたプロレスとはまったく違う空間が広がっていたんですよね。衝撃だったというか、見るものを惹きつけるものがリング上に広がっていました。会場の雰囲気も良かったというか。それで思ったんです。自分もこの空間の中に入りたいな」と本人は述懐している。同期にB×Bハルク戸澤陽カツオ(大野勇樹)がいる。闘龍門に入門した当初練習生はウエイトレーニングを禁止されていたが、合同練習が終わった後などで隠れてジムに通い行っていた。すると偶々そのジムでドン・フジイと遭ってそこで訳を説明し、以来ウエイトトレーニングを許され、CIMAに頼み込んでミッドブレスに通わせてもらうなどした。入門から半年後の2004年10月3日、博多スターレーン興行における対近藤修司"brother"YASSHI菅原拓也戦でプロレスデビューした。パートナーはCIMATARU。デビュー戦について本人は後に「あの時はボコボコにされましたね。こんな試合を年間200試合も続けるのかと気が遠くなった。でもこんなところで挫けてはいられない。”ちくしょう、やってやる!”って思いはありましたよ」と振り返っている。旧闘龍門JAPAN勢中心の同団体から初の新人レスラーであったが、鍛え上げられた体躯は新人離れしており、デビュー1年後には団体のトップレスラーに駆け上がった[2]

試合後のインタビューの最中に「では、トレーニングに行きましょう!」(チームメイトのCIMA・土井「これからかいな…」)と言い出す程の筋肉バカキャラで、入場時には曲に合わせてマスキュラーポーズなどを披露している。

2006年5月からはDRAGON GATEから離れ無期限の単身アメリカ修行をし、7月の神戸ワールド記念ホール大会に一時帰国し吉江豊と対戦した。遠征先での怪我でしばらく休んでいたが、9月半ばよりアメリカでのリングネームを鷹木信悟からSHINGOと改名し復帰。

2007年4月17日の後楽園大会に突如現れ、B×Bハルクサイバー・コングYAMATOとの新ユニットNEW HAZARD結成と5月からの日本マット完全復帰を宣言。4月28日に森嶋猛が持っていたROH世界ヘビー級王座に挑むも敗北。同年7月の神戸ワールド記念ホールではB×Bハルクサイバー・コングと共にオープン・ザ・トライアングルゲートを奪取した。同年11月にGammaを下してCIMAの持つオープン・ザ・ドリームゲートへの挑戦権を獲得。大阪府立体育会館でCIMAと激闘を繰り広げるが、最後はCIMAのホルヘ・コンプリートの前に敗れた。

2008年4月17日の後楽園ホールで、5月の愛知県体育館大会で行われるマスカラ・コントラ・カベジェラ金網エスケープマッチでハルクが坊主にならないことを条件にハルクダンスを踊ることをサイバー・コングと共に公約。5月14日の後楽園ホール大会では公約通りダンスを踊ったが、ダンスの途中でハルクに攻撃。衣装を脱ぐと下にはNEW HAZARDカラーの赤ではなく、マッスルカラーの青のコスチュームを身に着けていた。この試合でサイバー・コングと共にマッスルアウトローズと結託し、REAL HAZARDとしてヒールターンした。

その後、B×Bハルクとドリームゲート王座次期挑戦権をかけてシングルマッチを行うも、死闘の末、DRAGON GATE史上初の60分時間切れ引き分けという結果に終わる。さらにドリームゲート王者であるCIMAが怪我の悪化のためベルトを返上することになり、2008年7月27日の神戸ワールド記念ホール大会でドリームゲート王座をかけて再戦が決定した。

ドリームゲート王者へ

年間最大大会である神戸ワールド記念ホール大会のメインを、闘龍門時代を経験していない新世代同士が戦うという異例のシチュエーションの中、35分を越える激戦を繰り広げ、ついにドリームゲート王座を戴冠した[3]。しかし試合後、REAL HAZARDのメンバー達と言い争いになりユニットから追放されるが、ドラゴン・キッド斎藤了Typhoonに共闘を呼びかけられる。難色を示したが、アンソニー・W・森の張り手と罵倒により渋々共闘していくことになった。この試合で右肩を負傷し、本来ならば欠場してもおかしくない状況であったが、負傷を公表することなく無理を押して試合に出場し続けた。そのためドリーム王者時代が一番苦しい時期であったと本人は後に振り返る[2]

2008年8月31日の博多スターレーン興行で、サイバー・コングを相手にドリームゲート王座防衛に成功。これは初防衛となった。試合後、WORLD-1入りを谷嵜なおきに打診されるが、改めてタッグリーグで組んだドラゴン・キッドの所属するTyphoon入りを宣言。しかし、CIMA横須賀享はこのことを帰国するまで知らされておらず、鷹木自身も我関せず的な態度を示したため、Typhoon内での亀裂を生んだ。

9月28日の福井大会で、新人時代に挑んで敗北したTAKAみちのくとドリームゲート王座を賭けて対戦し、王座防衛に成功。11月16日の大阪大会では同じTyphoonに所属する横須賀享とドリームゲート王座のタイトルマッチを行い勝利するが、行き過ぎた自己中心的な発言の数々が原因で斎藤了にTyphoon追放を言い渡された。

KING OF GATE2008は「高みの見物」として不参加。12月28日の福岡大会において、同大会で優勝した土井成樹を相手にドリームゲート防衛戦を行うも、マスキュラーボムの前に敗れ、王座陥落。

KAMIKAZE結成

2008年12月19日に岩佐拓戸澤陽と新ユニットを結成すると発表。2009年1月11日にキッドが加入し、新ユニット『KAMIKAZE』を立ち上げた。2010年5月の両国国技館大会で復帰したサイバー・コングと組み、CIMAGammaの持つオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦し、見事に奪取。一時期のスランプから完全に抜け出すことに成功した[4]

7月のワールド記念ホール大会でB×Bハルクとカベジェラ戦を行い勝利したが、右肩を負傷。12月26日の福岡国際センターでオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座次期挑戦者チーム決定3WAYタッグマッチをサイバー・コングと挑むが敗戦。さらに右肩の負傷を原因に一時戦線離脱。

2011年3月1日の後楽園ホール大会で行われたKAMIKAZEBlood WARRIORSの敗者復活サバイバルイリミネーションマッチ3対4でYAMATOに4人目として呼び込まれ電撃復帰。KING OF GATE2011は初戦で望月成晃に敗れるが望月軍(仮)に入ることを決める。しかし因縁のあるB×Bハルクとタッグを無理矢理組まされるなど、タッグとしても成立しない場合が多く、結果ハルクはヒールターン。

ユニット解散後はどこにも属さずにYAMATOと2人で試合を行い、敗戦が続くなどスランプに陥っていたが、後輩である富永千浩に「勝ち急いでいる」と目覚めさせられ、2012年4月にYAMATO、冨永、三代目超神龍と新ユニット「暁 〜AKATSUKI〜」を結成した。7月にYAMATOとのタッグでオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座を奪取[4]。12月23日福岡国際センターで王者CIMA・挑戦者鷹木・B×Bハルクというオープン・ザ・ドリームゲート3wayマッチに挑戦。ドリームゲートでは初の3wayマッチだった。敗れはしたものの新世代の意地を見せた[3][5]

2013年5月には再びツインゲートを獲得したが、この頃からYAMATOと衝突を繰り返すようになり、6月の戸澤・ハルクとのタイトルマッチで遂にYAMATOに裏切られ、王座を失う[4][5]。しかし7月にはオープン・ザ・ドリームゲートに挑戦し、CIMAを破って2度目のドリームゲート戴冠を果たした。15度の防衛で長期政権を築いていたCIMAを破ったこの試合は「新時代の扉を開いた」と評された[3][5]

浮沈、そして反撃へ

しかし直後の8月1日に、因縁のYAMATOが加入したMAD BLANKEYと鷹木が率いる暁との間でユニット解散マッチが行われ、敗退した暁は解散に追い込まれた。さらに8月23日にはYAMATOに敗北し、防衛0でドリームゲート王座も失ってしまった。鷹木自身「天国から地獄」と述べている[3][5]

その中でMAD BLANKEYを追放された戸澤陽と共闘を始め、さらに戸澤と行動を共にしたウーハー・ネイション、WORLD-1 INTERNATIONALの解散により吉野正人しゃちほこBOYリコシェも加わり、10月に6人で新ユニット「MONSTER EXPRESS」を結成した[5]。12月には戸澤と組んでYAMATO・土井成樹からツインゲート王座を奪取し、因縁のMAD BLANKEY勢に漸く一矢報いた。その後2014年に入ってもツインゲート防衛を重ねている[4]

狙われた鷹木信悟

2014年7月には試合に敗北しパンチパーマになった富永千浩をおちょくった所、富永が逆上し「パンチ富永」となってMAD BLANKEY入り。新たな因縁が勃発した[6]

ハルクとの死闘

11月23日、ハルクと富永の試合後、乱入。勝手に襲いかかってきた富永を一蹴し、ハルクの持つドリームゲートに挑戦表明する。

そして12月28日、福岡国際センターでハルクと死闘を繰り広げるが、ハルクのファースト・フラッシュで敗北。ちなみにハルクとのシングル戦では四度目の敗北になった。(一度目はハルクがデビューしたての頃、二度目は他国でのオープン・ザ・フリーダムゲート選手権試合、三度目はハルクがヒールになったばかりの頃である。)

MONSTERとの決別、そして新ユニット結成

2015年8月16日にオープン・ザ・ドリームゲート王座の3度目の戴冠に成功。それと同時に不協和音の続いていたMONSTER EXPRESSから孤立。

8月30日、解散したMAD BLANKEYの残党と結託(K-ness.とパンチ富永は除く。更にKotokaやEitaとも結託)。9月23日に新ユニット「VerserK」として本格始動(ちなみに吉野と戸澤はモンスターを裏切ったと言っているが本人は「正義に基づいた革命。」と言い否定している)。

ドリームゲート四度目の戴冠、そして金網へ

2016年2月14日、博多でススムにドリームゲートを奪われるが、3月6日にススムからドリームゲートを奪い返し、VerserK強制離脱を免れた。しかし、2月14日の対ジミー・ススム戦でYAMATOの塩攻撃が誤爆して以来、YAMATOと仲間割れする。

3月6日にドリームゲートのベルトを奪い返した後にVerserKメンバー全員と握手を交わすが、それでもYAMATOとは仲直りができなかった。

そして、3月21日に斎藤"ジミー"了との初防衛戦に勝利した後は、完全にVerserKは鷹木派とYAMATO派に分かれてしまった。(この時点で鷹木派は鷹木とKotoka、YAMATO派はYAMATOと土井と谷嵜になった。サイバーはこの時点では不明。問題龍は中立。)

5月5日の金網マッチで土井と谷嵜がYAMATOを裏切り、追放する。

7月24日、YAMATOとドリームゲート戦を行い、ドリームゲート王座を失う。

得意技

どんな相手も強引に持ち上げたり投げたりする荒技が多いが、上半身も下半身も強いため安定感やバランスがある。

MADE IN JAPAN
B×BハルクのF.T.Xのように、相手の片腕をハーフネルソン気味にして首の後ろを捉え、もう片方の腕を相手の股下でリストクラッチした後、持ち上げつつその場で相手の体を前方回転させて、最後はラストファルコンリーのような形で叩きつける。普段使うフィニッシュ技の一つである(もう一つはパンピング・ボンバー)。
ラスト・ファルコンリー
オリジナル・ファルコンリー(元ラスト・ファルコニー)の改良版。相手の腕を股下でロックして担ぎ上げた後、相手の体を前方回転させて叩きつける技。かけた方は開脚尻餅状態になる。叩きつけたあと、左足で相手の首をロックし、簡単にフォールを返せないようになっている。最上級のフィニッシュ・ホールド。
パンピング・ボンバー
鷹木の放つラリアット。普段使うフィニッシュ技の一つである(もう一つはMADE IN JAPAN)。
オリジナル・ファルコンリー
旧名ラスト・ファルコニー。相手の腕を相手の股下でロックした状態で飛行機投げのよう担ぎ上げ、エアプレーンスピンのように横回転を加えてからデスバレーボムのように倒れる技。
STAY DREAM
雪崩式で放つオリジナル・ファルコンリー。
ブラッド・フォール
腕をロックした状態でアルゼンチン・バックブリーカーのように担ぎ、相手の頭を自分の前に投げ出すように90度回転させてマットに叩きつける技。かけられた方はフェイスバスターのようになり、かけた方は開脚尻餅状態になる。回転の仕方が違うDOI555(土井成樹)のような形である。カレーマンとの試合で負けた時の技スパイシードロップにヒントを得て、その直後から使うようになった。現在では安定性を優先しているため、腕をロックしないバージョンを主に使用している。アルゼンチン・バックブリーカーで充分に締め上げてから放つ時もある。
パワーボム
場外でも放ち、コーナーポストに向けて放つ時もある。
デスバレーボム
向かってきた相手をショルダースルーで上空に投げてから行う場合もある。
DDT
バックドロップ
スライディング・パンピング
相手が座った状態でスライディングして放つパンピング・ボンバー。
ダブル・ニー・ドロップ
要所要所のタイミングで、相手の首または頭部を狙って放つダブル・ニー・ドロップ。時折コーナーからのダイビングニー・ドロップも見せる。
モンゴリアンチョップ
リズムのあるナックルパートを2, 3発見舞った後に放つ。反撃の際に用いられることが多い。
MANRIKI
大外刈りで相手を叩きつけ、そのまま相手の片腕を足で挟み込みつつ、もう片方の腕を相手の頭の後ろに回して自分の両腕でロックし、袈裟固めに移行する一連の動きのこと。
ガロンスロー
ジャンボ堀のジャンボスープレックスと同型の技。パワーボムの形で相手を抱え上げ、そのまま後方に放り投げる。相手は顔面から落ちることになる。
ヨーソロー
サイド・スープレックス(レスリングでいう「俵返し」)の要領で相手を抱え、カナディアン・バックブリーカーのように肩に担ぎ上げながら自身も回転しつつ、相手を放り投げる。相手は仰向けのまま真横に回転して地面に落ちる。かつて全日本プロレスを中心に活動していたジム・スティールの必殺技ターボドロップ2と同型。
鷹の爪
いわゆる隠し技である丸め込み。体落としのような形で相手を倒し、そこから横十字に固めてフォールを奪う技。
トペ・コン・ヒーロ
滅多にやらないが、6人タッグ3WAYなどでトペの競演が行われた際に披露する時がある。トップロープを飛び越える時に、それを掴んで鉄棒の大車輪の様な感じで回転するが、姿勢が綺麗である。ドラゴンゲートでは比較的体格の大きい鷹木が繰り出すだけにインパクトは大きい。
鷹木式ギャラリア
デスバレーボムの要領で担いでから放つ変形のギャラリア。YAMATOとのドリームゲート戦で繰り出した掟破り技。

タイトル歴

DRAGON GATE
パートナーは順にYAMATO、サイバー・コング、YAMATO、YAMATO、戸澤陽
  • オープン・ザ・トライアングルゲート王座 : 4回(第14、17、18、22代)
(パートナーは1、2度目:B×Bハルクサイバー・コング/3度目:GammaYAMATO/4度目:ドラゴン・キッド岩佐拓)
その他
(パートナーはB×Bハルク
(パートナーは土井成樹
  • プロレス大賞
2008年 プロレス大賞技能賞

入場曲

その他

  • モットーである「我道驀進」は入場コスチュームの背中に記されており、現在のブログ名にもなっている。しかしその性格は衝突を招きやすく、B×BハルクYAMATOパンチ富永など多くの因縁を抱える[5][6]
  • 後ろ髪がトレードマークであり、デビューしてから一度も切っていなかった。この独特のヘアースタイルを自らパンピング・ヘアーと名付けており、側頭部の模様もタイトルマッチなど、何らかのイベントに合わせて変更していた。しかし2009年に起こった動物虐待騒動のけじめとして自ら頭を丸めた。
  • なぜかKAIENTAI-DOJO火野裕士KAZMAからライバル視されている。火野とは「どっちの背筋が凄いか」で争っていた。
  • アメリカ遠征中にヒゲを蓄えたのは、相手に新人と思われるのが嫌でワザと老け顔にしたらしい。
  • 出身は山梨だが、Blood Generationに所属したとき鷹木以外のメンバーが全員関西出身で加入条件のひとつが「関西人」であったため、住民票を神戸に移した。しかし2010年末の肩の負傷による長期欠場を機に、リハビリ等の兼ね合いから東京へ住居を移している。DRAGON GATEでは他に望月成晃、新井健一郎らが同様に東京を拠点としている。
  • 2014年2月に関東地方を襲った大雪では、交通機関の麻痺で故郷の山梨県に足止めされ試合を欠場してしまった。滞在中は体力を生かして雪掻きをこなした[8]。その後の興行では罰ゲームでヨースケ♡サンタマリアとのシングルと言う罰ゲームマッチを行った。
  • 長渕剛の大ファンである。
  • 幼稚園時にドアのガラスに頭から突込み、小学校時はコンセントにキーホルダーを差込んで感電する等、幼少の頃より負けん気の強いトンパチな性格であったと語っている。
  • 好きなレスラーは大仁田厚、座右の銘は「孤高」「下克上」である。2014年5月のデビュー10周年記念の山梨大会では、吉野正人・戸澤陽とタッグを組み、大仁田厚・田中将斗ドラゴン・キッドの元FMWタッグとの6人タッグマッチを戦った[9]
  • デビュー当初は筋肉バカのイメージが強く、吉野正人(当時:YOSSINO)をBlood Generationに加入させるかどうかをCIMAに問われたときも「とにかく、これだよ! これ!」と言って、なぜかマスキュラーポーズをするという不可解なことをしていた。
  • 某テレビ局[要出典]の大食い番組に出てチャンピオンに勝ったことがある。
  • KAMIKAZE結成以降、ブログ等では国粋主義的なコメントを繰り返している。
  • 高校時代に柔道部主将の時、関東大会出場を果たした。これは柔道部に対する部費が小額だったため、部費の値上げを求めたところ、生徒会を指導する教師が関東大会出場を条件にした影響が多いからである。なお高校時代、部活中プロレス技を練習したり、学園祭にて柔道部全員参加のプロレスの余興を行うほど当時からプロレス好きだった。

脚注

  1. ^ a b c 「2014プロレスラー カラー写真名鑑」p.12、週刊プロレスNo.1714、2013年12月5日増刊、ベースボール・マガジン社
  2. ^ a b c d e ベースボールマガジン社『レスラーヒューマンストーリーII プロレスラー男の履歴書』p88-95
  3. ^ a b c d DRAGON GATE データベース> オープン・ザ・ドリーム・ゲート2014.7.17閲覧
  4. ^ a b c d DRAGON GATE データベース> オープン・ザ・ツイン・ゲート2014.7.17閲覧
  5. ^ a b c d e f 週刊プロレスEXTRA vol.9「ドラゴンゲート大百科」2013年11月5日、ベースボール・マガジン社
  6. ^ a b result2014 RAINBOW GATE 2014.7.03 東京・後楽園ホール 観衆:1,850人(超満員札止め)
  7. ^ http://www.gaora.co.jp/dragongate/record/musicdata.html
  8. ^ お詫び 2014.7.17閲覧
  9. ^ result2014 鷹木信悟デビュー10周年記念大会“風林火山其ノ参" 2014.5.11 アイメッセ山梨 観衆:2,000人(超満員札止め)

外部リンク