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2017年1月11日 (水) 01:23時点における版
ロバート・ムガベ Robert Mugabe | |
任期 | 1987年12月31日 – |
---|---|
副大統領 | サイモン・ムゼンダ ジョシュア・ンコモ ジョゼフ・ムシカ ジョイス・ムジュル |
任期 | 1980年4月18日 – 1987年12月31日 |
元首 | カナーン・バナナ |
アフリカ統一機構
第35代 議長 | |
任期 | 1997年6月2日 – 1998年6月8日 |
アフリカ連合
第13代 総会議長 | |
任期 | 2015年1月30日 – 2016年1月30日 |
出生 | 1924年2月21日(100歳) 南ローデシア ジンバ地区 マティビリ村 |
政党 | ZANU-PF |
配偶者 | サリー・ハイフロン グレース・マルフ |
署名 |
ロバート・ガブリエル・ムガベ(Robert Gabriel Mugabe、1924年2月21日 - )は、ジンバブエの政治家。1980年ジンバブエ共和国首相に就任し、1987年から大統領、1997年にアフリカ統一機構議長。宗教はカトリックである。Mugabeという姓の発音はショナ語では「ムガベ」だが、英語では「ムガビ」のようにも発音する。
生い立ち
1924年2月21日、英領南ローデシアのソールズベリー(現在のハラレ)の北東に位置するジンバ地区クタマ伝道団で育つ。ムガベの父はマラウィ人と考えられる。ムガベはカトリック教徒として育てられ、マリスト会やイエズス会の学校で教育を受けた。17歳で教員資格を取得。その後、南アフリカのフォート・ヘア大学で英語と歴史学を学ぶ。この間にムガベと同世代で後にアフリカ諸国の指導者となったジュリウス・ニエレレ、ハーバート・チテポ、ロバート・ソボクウェ、ケネス・カウンダらと出会い、1951年に同大学で文学士(歴史学と英語専攻)を取得した。 1952年から南アフリカのドライフォンタイン、ソールズベリー、グウェロ、そしてタンザニアなどを経て南アフリカ大学で経済学士を取得した。また、その後も通信教育でさらに6つの学位(南アフリカ大学から教育学士と行政学士,ロンドン大学通信課程から理学士(経済学専攻),法学士,理学修士(経済学専攻),法学修士,2つの法学の学位は収監中に,理学修士はジンバブエ首相在任中に取得した)を取得している。また学位は取得していないがロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにも籍を置いていた。このような多数の学位取得のためアフリカでもっとも教育水準が高い指導者とも言われている。1958年ガーナのアクラで師範学校に勤務し、ここで後に最初の妻となるサリー・ハイフロンと出会う。
反植民地闘争
1960年南ローデシアに帰国したムガベは、マルクス主義に傾倒するようになった。ムガベはジョシュア・ンコモ率いる国民民主党(NDP)に参加する。同党は、ローデシアを支配していたイアン・スミス白人政権によって禁止され、後にジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)となる。1963年ジンバブエ・アフリカ人民同盟を離党し、同党と対立関係にあったジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)にンダバニンギ・シトレ師と法律家のハーバート・チテポとともに参加する。ZANU党首となったチテポは、ムガベを党書記長に任命した。
ZANUは、南アフリカのパン・アフリカニスト会議の強い影響を受けた。また、ZAPUがアフリカ民族会議の同盟者であった際には、毛沢東思想の影響も受けて、独立、解放闘争においては正統的なソビエト型社会主義、共産主義路線を支持していた。
1964年ムガベは、ジョシュア・ンコモ、エドソン・ズヴォブゴらとともに逮捕、拘留された。10年間を獄中で過ごす中、法律を学ぶ。1974年釈放されたムガベはモザンビークに出国した。ムガベは、中国の軍事支援を受けジンバブエ・アフリカ民族解放軍(ZANLA)を結成し、イアン・スミス率いるローデシア政府軍と武装闘争に突入した。
1975年3月18日、チテポはザンビア滞在中に乗っていた車に仕掛けられた爆弾によって暗殺された。事件をめぐり、ZANLA司令官のジョサイア・トンゴガラは、ザンビアのケネス・カウンダ政権によって非難された。ムガベは、モザンビークによってZANUがコントロールを受けていると一方的に仮定した。ンダバニンギ・シトレとの論争後、ムガベは、ZANU内でシトレら穏健派と袂を分かち、武闘派の分派を組織した。
首相、大統領として
南アフリカのバルタザール・フォルスター大統領の説得でスミス政権は、少数派である白人による、圧倒的多数派の黒人を支配する「アパルトヘイト」ことが限界に来たことを受け入れざるを得なかった。1978年3月3日スミス政権と、アベル・ムゾレワ司教、シトレら黒人穏健派指導者は、ソールズベリーの総督官邸で停戦協定に調印した。協定の結果、暫定政権樹立を準備すべくローデシア総督ソームズ卿の下、議会選挙を実施することになった。暫定国家ジンバブエ・ローデシアの新議会選挙は、暴力を放棄した唯一の黒人政党でムゾレワ司教、カナーン・バナナに率いられた統一アフリカ民族会議(統一アフリカ国民会議, UANC)が勝利した。しかし、選挙後もイギリスおよびアメリカは、ローデシアに対する制裁を継続した。1979年9月イギリス政府は、ジンバブエ・ローデシアの全政党に呼びかけランカスター・ハウスにおいて会議を開催した。この会議には、イアン・スミス、ムガベ、ンコモ、エドガー・テケレ、チェンジェライ・フンズヴィ、エドソン・ゾヴォブゴらが参加し、1980年2月に選挙を実施することが決定した(ランカスター・ハウス協定)。
選挙は、不正や疑惑にみちたものであったが、ムガベ率いるZANUは、ランカスター・ハウス協定であらかじめ白人勢力に割り振られた20議席を除く、80議席中、57議席を獲得した。選挙後、ショナ人の圧倒的な支持を背景にムガベは1980年3月4日初代首相に就任した。政権獲得直後のムガベはスミス元首相ら白人旧政権指導者に対し努めて寛容な態度で臨んだ。白人社会との融和政策は「アフリカでの黒人による国家建設のモデル」と称賛され、1988年には第2回アフリカ賞を授与された。当初は白人の協力も得て順調に経済運営を行い、教育や医療に資金を充てたことで低い乳児死亡率とアフリカ最高の識字率を達成し、「ジンバブエの奇跡」として絶賛された。1987年12月31日には大統領に就任。1994年にはイギリスのジョン・メージャー政権下でGCBを授与された。これらの功績により、2015年に中華人民共和国から孔子平和賞が贈られた(後に受賞を固辞)。
しかし2000年代に入ると白人に対する不寛容な政策に転じた。白人農場の強制収用など自身の政策の失敗から、それまで比較的安定していた国内の経済はたちまち崩壊し、貧富の格差が拡大した。極度のインフレを招き、インフレ率は16万5000%、失業率は80%にも上がり、犯罪の増加やコレラ・エイズの蔓延なども重なり社会不安が広がった。
1980年に首相に就任し、当初は7年後に白人が所有する土地を接収し農地改革すると言っていたが、実際には2000年まで実行されずにいた。この時期に欧米が反ムガベに態度を変更したのが経済混乱の大きな原因の一つである。2000年からの農地改革が失敗だったという説はイギリス人研究者によっても「情況は失敗ばかりという単純なものではなく、成功も含まれている」という報告が2011年になされている。
インフレ率は上がり続けており、2008年6月時点では220万%のハイパーインフレーションを記録している。さらに批判勢力を強権的な手法をもって封じる政策を行う事によって、国内は極めて混乱した状態となっている。2002年には、事態を重く見た英連邦が、ジンバブエを同連邦からの1年間の資格停止処分を決定。その際に、ジンバブエ糾弾の急先鋒だったのが、豪州のジョン・ハワード首相(当時)である。翌2003年12月7日、ジンバブエは英連邦を正式に脱退する。2005年8月には、憲法を改正させ、白人農場の強制収用明記や、一時廃止していた上院(定数:93、民選議席:60、任命議席:33)を強引に復活させる。同年11月の選挙で圧勝し支配体制を強化した。
2008年3月29日に行われた大統領・議会選挙において、野党勢力に敗北したと見られているが、選挙終了後も長期にわたって選挙結果を公表せず、それを批判した野党勢力や支持者に徹底した弾圧を加えており、国内外から強い批判を受けているが、引き続き、政権に固執する姿勢を見せている。対立候補であるモーガン・ツァンギライが政権側からの弾圧を理由に撤退を決めたことから、同年6月27日に行われる決選投票での不戦勝が確定した(2007年9月に改正された憲法で、任期が6年から5年に短縮されている)。また、ムガベ自身は一時退任を模索していたものの、不満を持つ軍部や治安機関に押し立てられ政権に固執しているとの説もある。同年9月15日、ツァンギライと連立政権作りの合意文書に署名し初めて権力の一部を敵対勢力に委ねた。2008年6月、一連の政治的混乱などを理由にGCBを剥奪された。ナイトの称号が剥奪されたのは、昭和天皇[1]、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスク以来3人目であった。
2009年1月26~27日に南アフリカにおいて南部アフリカ開発共同体緊急首脳会議が開催され、ツァンギライを首相に任命するよう勧告が行われた。ムガベはこの勧告を受け入れ、包括的政府が成立した。また大統領選挙についても憲法改正後に行うことで与野党が合意した[2]。2013年3月に新憲法が国民投票によって承認され、2013年7月31日に大統領選挙が行われた。ムガベはこの選挙で61%の票を獲得し、ツァンギライを下し6度目の勝利を収めた。ツァンギライは不正選挙があったとして選挙無効を訴えたが、アフリカ連合(AU)や南部アフリカ開発共同体(SADC)は選挙結果を支持している[3][4]。
ムガベは現在、世界最高齢の国家元首とされている[5]。2016年12月17日、与党ZANUは2018年に予定される大統領選挙の候補者としてムガベを指名、南西部の都市マスビンゴにて開催された同党の年次党大会において承認された [6][7]。当選すれば7期目となる。ムガベはこれまで後継者の指名や、自身の退任に関して言及することを避けており、「100歳になるまで統治する」と冗談として発言したこともあるというが、7選後無事任期満了に至れば実際に100歳近くまで在職することになる。
人物
白人政権との闘争を繰り返したムガベは、非常に強い反白人および反英の思想を持っていると言われている。[独自研究?]大統領就任当初は、ランカスターハウス協定に従い希望者の農地のみが高値で売却されるなど、白人に対する抑圧はさほどではなかったがグクラフンディなどを通じ強硬化していき、第二次コンゴ戦争派兵などで経済が疲弊すると白人が所有していた農地を強引に国有化し独立の闘士に分け与えるようになった。この結果、経済を牽引していた白人が流出し、またジンバブエは経済制裁を受けることとなった。
同じ黒人であっても、ジンバブエを「圧制国家」と非難したアメリカ合衆国国務長官コンドリーザ・ライスを「あのアンクル・トムの娘は、白人が黒人の真の友にはなり得ないと知るべきだ」「彼女は白人のご主人さまの声を反復しなければならない奴隷」「黒人奴隷の先祖を持つあの少女は、奴隷の歴史や、米国内で今、黒人が置かれている状況を知るべきだ。あの白人(ブッシュ大統領)は(黒人の)友達ではない」「(自分は)RICE(ライス)を LICE(シラミや寄生虫)と呼ぶのをようやく自制した」などと酷評している。「アメリカと西欧諸国は能なしの馬鹿」「コレラは旧宗主国のイギリスによってもたらされた生物兵器」「経済問題や人権問題なども米英の責任」などといった発言を残してもいる。
私生活でも大変な独裁者で、国民の700万人が飢餓状態であっても、常に極めて豪華な生活をしている。例えば、120万ドルの豪華誕生パーティーを計画し[8]、ムガベ夫妻は香港の住宅街にある400万ポンド(580万ドル)の豪華な邸宅を、幽霊会社を通じて買い受けている。
同性愛に対する激しい憎悪・嫌悪者としても有名で、世界中の人権擁護団体や同性愛者権利擁護団体から非難されている。1995年に「ジンバブエ国際ブックフェア」でのあいさつで同性愛について「同性愛は人間の品位を損なうものであり、同性愛者どもがブタやイヌより汚らわしいものとして拒絶されることに疑問の余地は無い」と発言している。ジンバブエでは反同性愛キャンペーンが展開され、ムガベは自分の前任者であるカナーン・バナナ前大統領さえも「同性愛行為を行なった罪」に問い、裁判に掛け、南アフリカ共和国に亡命に追い込んだ。その後ムガベは、バナナ前大統領の引渡しを南アフリカに強く求め、南アフリカはこれを拒絶。その際、「同性愛は西洋からアフリカに持ち込まれたものだ」とも発言している。[要出典]
家族
最初の妻サリー夫人とは死別。二番目の妻グレース夫人との間に長女ボナを儲けている。グレース夫人は大統領より41歳年下で、大統領府のタイピスト及び大統領の秘書を務めていた。グレース夫人の最初の夫はジンバブエ空軍パイロットだったが、ムガベ大統領がサリー夫人に先立たれた後、1996年に大統領と結婚。一方の元夫はその後出世し、現在中華人民共和国駐在大使になっている。グレース夫人も外交活動をしており、2008年6月にイタリア・ローマで開かれた国連食糧農業機関主催の「食糧サミット」に出席した大統領に随行。同年7月にはエジプトで開催されたエイズに関する国際会議に出席した。しかし夫人は大統領同様にジンバブエ国内において独裁と人権侵害に関与しているとされ、現在は大統領や側近ともども欧米・豪州等への入国が禁止されている。ただし、それ以外の国には引き続き入国できる。コンゴ民主共和国に夫人名義でダイヤモンド鉱山を所有しているほか、マレーシアの別荘を拠点にシンガポールや香港などを買い物旅行している。2009年1月、香港に滞在中、宿泊先の5つ星の九龍シャングリラホテル前で写真を撮ろうとした英国人カメラマンのリチャード・ジョーンズにダイヤモンドの指輪などをはめた手で殴り掛かり、ボディーガードとともに同カメラマンに暴行を加えるという事件を起こした[9]。同容疑で香港の警察当局が捜査しているが、夫人はジンバブエに帰国している。夫人は買い物と香港大学に偽名で留学しているボナを訪ねるため香港に来ていた。
ムガベの後継を巡ってムガベ与党ZANU内にはグレース夫人を推す勢力があり、2014年、同夫人はZANUの女性会派の代表に就任している。また同年、同夫人はジンバブエ大学博士課程に入学したが、わずか数か月後に博士号が授与されている。博士号授与はZANUの女性会派代表就任直後であるという。会派代表の地位や博士号授与については同夫人の政界進出への道を開き、ムガベの後継者に名乗りを上げるための資格として与えられたものではないかと見られている[10]。一方、ZANU内にはムナンガグワ第1副大統領を支持する勢力もあり、2016年に入り両勢力間の派閥抗争が激化しているという[11][12]。
日本との関係
首相時代の1981年にサリー夫人とともに初めて日本を訪れている。大統領としては4回来日している。1989年には国賓として夫妻で来日し、天皇・皇后と会見。2013年6月と2015年3月には国際会議出席のため来日している。更に2016年3月には安倍晋三首相の招待で来日した[13][14]。
脚註
- ^ 後に復位
- ^ ジンバブエ:大統領選、7月にも ムガベ政権、是非問う 政治緊張、解消なるか -毎日新聞 2013年04月01日 東京朝刊
- ^ “ジンバブエ大統領選、アフリカ連合が「有効」との見解”. AFPBB News (フランス通信社). (2013年8月2日) 2013年8月18日閲覧。
- ^ “南部アフリカの首脳会議、ムガベ大統領の再選を支持”. AFPBB News (フランス通信社). (2013年8月18日) 2013年8月18日閲覧。
- ^ “ジンバブエ、大統領の91歳祝う豪華式典 野党は批判”. 日本経済新聞. (2015年3月1日) 2016年1月9日閲覧。
- ^ “ジンバブエ大統領選 92歳のムガベ氏が7選出馬へ”. 産経新聞. (2016年12月18日) 2016年12月18日閲覧。
- ^ “92歳のムガベ大統領、2018年の大統領選出馬へ ジンバブエ”. AFPBB News (フランス通信社). (2016年12月18日) 2016年12月18日閲覧。
- ^ 祝賀会は「120万ドルあれば飢餓に苦しむマタベレランドの人々320万人に3ヶ月分の食糧を提供することが可能」などと批判されている。
- ^ “ムガベ大統領の娘、香港大学に偽名で留学中”. AFPBB News (フランス通信社). (2009年1月25日) 2015年12月30日閲覧。
- ^ “ジンバブエ大学、大統領夫人に「不当な」博士号授与か”. AFPBB News (フランス通信社). (2014年9月29日) 2016年12月18日閲覧。
- ^ “ジンバブエ大統領選 92歳のムガベ氏が7選出馬へ”. 産経新聞. (2016年12月18日) 2016年12月18日閲覧。
- ^ “92歳のムガベ大統領、2018年の大統領選出馬へ ジンバブエ”. AFPBB News (フランス通信社). (2016年12月18日) 2016年12月18日閲覧。
- ^ ジンバブエ共和国(Republic of Zimbabwe)基礎データ二国間関係 6 要人往来 平成28年3月18日更新 日本国外務省
- ^ あのムガベ大統領、官邸に来たる! “世界一の独裁者”と日本の関係は… 産経新聞2016年3月28日閲覧。
外部リンク
- "Mugging Mugabe" (a commentary in defence of Mugabe)
- "Zimbabwe election – a defeat for imperialism"
- "Zimbabwe's silent selective starvation"
- "Robert Mugabe's War to Crush Press Freedom in Zimbabwe"
- Reporters Without Borders profile on Mugabe
- Freedom House report on Zimbabwe
- IFEX - Media Coverage Favours Mugabe
- Campaign to Strip Mugabe of Honorary Degrees
- Indict Zimbabwe's demagogue before the International Criminal Court
- "Zimbabwe and the Politics of Torture"
公職 | ||
---|---|---|
先代 カナーン・バナナ |
ジンバブエ共和国大統領 第2代:1987 - |
次代 (現職) |
先代 Abel Muzorewa (en) (ローデシア共和国首相) |
ジンバブエ共和国首相 初代:1980 - 1987 |
次代 モーガン・ツァンギライ 1987年~2009年はポスト廃止 |
外交職 | ||
先代 ムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズ |
アフリカ連合議長 第13代:2015 - 2016 |
次代 イドリス・デビ |
先代 ポール・ビヤ |
アフリカ統一機構議長 第35代:1997 - 1998 |
次代 ブレーズ・コンパオレ |
先代 Zail Singh (en) |
非同盟諸国首脳会議事務総長 1986 - 1989 |
次代 ヤネス・ドルノウシェク |
党職 | ||
先代 ハーバート・チテポ |
ジンバブエ・アフリカ民族同盟代表 1975 - 1987 |
次代 (ZAPUに統合) |
先代 (ZANUとZAPU統合) |
ジンバブエ・アフリカ民族同盟 愛国戦線代表 初代:1987 - |
次代 (現職) |