「タイタニック号沈没事故」の版間の差分
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{{Infobox news event |
{{Infobox news event |
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| title = タイタニック号沈没'' |
| title = タイタニック号沈没事故'' |
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| image = [[File:Stöwer Titanic.jpg|350px|alt=Painting of a ship sinking by the bow, with people rowing a lifeboat in the foreground and other people in the water. Icebergs are visible in the background]] |
| image = [[File:Stöwer Titanic.jpg|350px|alt=Painting of a ship sinking by the bow, with people rowing a lifeboat in the foreground and other people in the water. Icebergs are visible in the background]] |
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| caption = ''Untergang der Titanic'' ("タイタニック号沈没")<br /> ウィリー・ストーワー, 1912 |
| caption = ''Untergang der Titanic'' ("タイタニック号沈没")<br /> ウィリー・ストーワー, 1912 |
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| title = 主要人物 |
| title = 主要人物 |
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* [[エドワード・スミス|エドワード・ジョン・スミス]] (船長) |
* [[エドワード・スミス|エドワード・ジョン・スミス]] (船長) |
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* [[ヘンリー・ティングル・ワイルド|ヘンリー・ワイルド]] (航海士長) |
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* ジャック・フィリップス (無線操作係) |
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* [[ウィリアム・マクマスター・マードック]] (一等航海士) |
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* フレデリック・フリート (氷山の見張り) |
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* [[チャールズ・ライトラー]] (二等航海士) |
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* [[ウィリアム・マクマスター・マードック]] (橋への衝突を防ぐ係) |
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* [[ジョセフ・ブルース・イズメイ]] ([[ホワイト・スター・ライン]]の経営者) |
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* チャールズ・ライトラー (救命ボート係) |
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* J. ブルース・イスメイ (ホワイトスター線の議長) |
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| outcome = |
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* 1,490 から 1,635 人死 |
* 1,490 から 1,635 人の死者 |
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* 航海の安全性の改善 |
* 航海の安全性の改善 |
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* 文化的な影響 |
* 文化的な影響 |
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| notes = |
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'''タイタニック号沈没事故'''は1912年 |
'''タイタニック号沈没事故'''(タイタニックごうちんぼつじこ)とは、[[1912年]][[4月14日]]の夜から[[4月15日]]の朝にかけて、[[イギリス]]・[[サウサンプトン]]発[[アメリカ合衆国]]・[[ニューヨーク]]行きの航海中の4日目に、[[北大西洋]]で起きた[[海難事故]]である。 |
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当時世界最大の客船であった[[タイタニック (客船)|タイタニック]]は、1912年4月14日の23時40分(事故現場時間)に[[氷山]]に衝突した時には2,224人を乗せていた。事故発生から2時間40分後の翌4月15日の2時20分に沈没し、1,514人が亡くなり、710人が生還した。これは1912年当時、海難事故の最大死者数であった<ref group="注">2017年時点では[[ドニャ・パス号]](異説あり)、[[ジョラ号]]、[[江亜 (客船)|江亜]](戦没艦を含めると[[ゴヤ (貨物船)|ゴヤ]]、[[ヴィルヘルム・グストロフ (客船)|ヴィルヘルム・グストロフ]])の事故の犠牲者数が上回っている。</ref>。 |
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4月14日探知機に6個の氷塊の警報があったが、船は最高に近いスピードで進んでいたため、船の見張りが気づいたときには避けることは不可能だった。十分に速く曲がることができず、船は右舵方向に斜めからの打撃を受け、16個ある区画のうち5個が海に向かって穴をあけてしまう間接的ダメージを受けた。タイタニックは前方の4つの区画が浸水してしまっても浮かぶように設計されていたがそれは十分でなく、クルーはすぐにこの船が沈没することに気がついた。クルーは乏しい照明器具と無線などを使い助けを呼ぶと同時に、乗客を[[救命ボート]]に乗せた。実際のところ、タイタニックの救命ボートシステムは近くの救助船まで乗客を運ぶために設計されており、同時に全員をのせるために設計されたものではなかった。船は早く沈み、救助は時間が間に合わず、乗客とクルーの多数は安全な場所に避難することができないという状態になった。これに加えて、ずさんな避難管理のせいで完全に船が満員になる前にたくさんのボートが出発してしまうこととなった。 |
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== 事故概要 == |
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タイタニック号は千人以上の乗客とクルーを乗せたまま沈んだ。海に飛び込んだり、落ちた人のほとんどが数分後に[[低体温症]]により溺死した。カルパシア号は4月15日の9時15分、沈没の1時間半後に到着して最後の生き残りを救助した。衝突してから約9時間半の出来事であった。この災害は救命ボートの不足、緩んだ規則、避難時の三階級の扱いの不平等さなどについて多くの人の憤慨を引き起こした。これにより救助のあり方が変わり、1914年に[[海上における人命の安全のための国際条約]](SOLAS)が作られた。これは今も海の安全を守っている。 |
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[[ニューヨーク港]]に向けて航行中に「海氷が存在する」という警告を4月14日中に7件受けていたにもかかわらず、タイタニック号の見張りが氷山に気付いたとき船は最高速に近いスピードで進んでいた。衝突を避けようとしたが、船は右舷側に斜方向からの打撃を受け、全16区画のうち5つの区画に穴が開いてしまった。 |
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タイタニックの船首部は4つの区画が浸水しても沈まないように設計されていたが、それでも十分ではなく、敏感な[[クルー]]はこの船が沈没することを察知した。クルーは遭難信号灯と無線で助けを求め、乗客を[[救命ボート]]に乗せた。しかし、それは近くの救助船までの移乗用として簡易的に設計されたもので、搭載数もすべての乗船者を載せるにはあまりに少ないものだった。 |
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== 1912年4月14日 == |
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船体沈没の進行は予想よりも早かった。やむなくボートには女性と幼い子供が優先的に乗せられ、多くの男性は強制的に排除されたが、クルーも救助活動に不慣れな者が多く、定員に満たないまま出発するボートもあった。結果的に多数の乗客乗員が船に取り残された。 |
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=== 氷山の警告 (09:00–23:39) === |
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[[File:Titanic iceberg.jpg|thumb|300px|プリンツ・アダルベルト号の乗組員が1912年4月15日に撮影した氷山。タイタニック号が衝突した塊だと考えられている。]] |
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タイタニックは1,000人以上を乗せたまま沈んだ。海に浸かった人のほとんどが数分後に[[低体温症]]により死亡した。救助にあたった客船「[[カルパチア (客船)|カルパチア]]」が4月15日の9時15分に最後の1人を救い上げた時は、既に船の沈没から7時間、衝突から実に約9時間半が経っていた。 |
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1912年4月14日、タイタニック号の無線オペレーターは他の船舶から漂流している氷について6件の警告の通信を受け取っており、タイタニック号に乗船している人々の中にも、この日の午後にそのことを知った者がいた。[[北アメリカ]]の海における氷の状態は、4月としては過去50年間で最悪であり、このため見張りの者は幅も長さも何マイルもあるような一連の氷山群に突き進んでいっていることに気付いていなかった{{sfn|Ballard|1987|p=199}}。こうした警告の通信については、無線オペレーターが全てを中継したわけではなかった。この当時、遠洋定期船の無線オペレーターは全員マルコーニ無線会社に雇われており、船舶のクルーメンバーではなかった。主要業務は乗船客のための通信であり、天気についての報告は二次的な業務であった。 |
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この災害は、救命ボートの数、緩い規則、旅客の等級によって異なる避難時の対応など、ずさんな危機管理体制が多くの人の義憤を引き起こした。この事故をきっかけとして救助のあり方が見直され、1914年に[[海上における人命の安全のための国際条約]](SOLAS)が作られた。これは今も海の安全を守っている。 |
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[[氷山]]と[[氷原]]に関する最初の警告は09:00にRMS[[カロニア (客船・初代)|カロニア]]号から届いた{{sfn|Ryan|1985|p=9}}。スミス船長はこのメッセージの受取承認を行っている。13:42にバルティック号がギリシャ船アテニア号から氷山と氷原を目撃したという報告を受け、タイタニック号あてに中継している{{sfn|Ryan|1985|p=9}}。このメッセージもスミスに受取承認され、スミスは[[ホワイト・スター・ライン]]のトップでタイタニックの初航海に同乗していたJ・ブルース・イズメイにもこれを見せた{{sfn|Ryan|1985|p=9}}。スミスは航路を変更させ、南寄りにした{{sfn|Barczewski|2006|p=191}}。 |
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== 1912年4月14日 == |
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13:45に、少し南側を航行していたドイツ船アメリカ号が「大きな氷山ふたつを通り過ぎた」という報告をした{{sfn|Ryan|1985|p=10}}。このメッセージはスミス船長にも、タイタニック号の[[船橋 (船)|船橋]]にいた他の乗組員にも伝わなかった。理由は定かではないが、無線オペレーターが機器の不具合を直さねばならなかったためこのメッセージの伝達を忘れたのではないかと言われている{{sfn|Ryan|1985|p=10}}。 |
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=== 氷山の警告 (9時00分–23時39分) === |
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[[File:Titanic iceberg.jpg|thumb|300px|プリンツ・アダルベルト号の乗組員が1912年4月15日に撮影した氷山。タイタニック号が衝突した氷山だと考えられている。]] |
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1912年4月14日、タイタニック(呼出符号: MGY)の無線オペレーターは他の船舶から漂流している氷について7件の警告の通信を受け取っており、タイタニックに乗船している人々の中にも、この日の午後にそのことを知った者がいた。[[北アメリカ]]の海における氷の規模は、4月としては過去50年間で最大であったが、見張りの者はタイタニックが幅も長さも何マイルもあるような氷山群に向かって突き進んでいることに気付いていなかった{{sfn|Ballard|1987|p=199}}。また、オペレーターもこうした通信を逐一中継していなかった。 |
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船舶での無線電信による公衆通信(電報サービス)は[[1900年]]に商用化されていたが、その後しばらくの間は、船舶無線局は海運会社のものではなく、無線会社の管轄下にあり、船に設置する[[無線機]]やアンテナは勿論、無線オペレーターも無線会社に所属していた。当時の大西洋定期航路を運航していた英国の大手海運会社のほとんどは、英国系のマルコーニ国際海洋通信会社に公衆通信の業務を委託しており、タイタニックの無線オペレーターも同社の社員だった。彼らは船舶のクルーではなく、乗船客の電報サービス業務を第一義に乗船しており、気象についての報告は副次的な業務であった。 |
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氷山と[[氷原]]に関する最初の報告は9時00分に[[カロニア (客船・初代)|カロニア]]号から届いた{{sfn|Ryan|1985|p=9}}。スミス船長はこのメッセージの受信確認を行っている。13時42分にはバルティック号がギリシャ船アテニア号から氷山と氷原の目撃情報を受け、タイタニックへ中継している{{sfn|Ryan|1985|p=9}}。このメッセージもスミスが受信確認し、[[ホワイト・スター・ライン]]のトップでタイタニックの処女航海に同乗していた[[ジョセフ・ブルース・イズメイ|J・ブルース・イズメイ]]に見せた{{sfn|Ryan|1985|p=9}}。その後スミスは航路を南寄りに変更した{{sfn|Barczewski|2006|p=191}}。 |
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13時45分には、少し南側を航行していたドイツ船アメリカが「大きな氷山ふたつを通り過ぎた」という報告をした{{sfn|Ryan|1985|p=10}}。このメッセージはスミス船長にも、タイタニックの[[船橋 (船)|船橋]]にいた他の上級船員にも伝わらなかった。理由は定かではないが、無線オペレーターが機器の不具合を直さねばならなかったため、このメッセージの伝達を忘れたのではないかと言われている{{sfn|Ryan|1985|p=10}}。 |
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カリフォルニアン号は19:39に「3つの大きな氷山」を報告、21:40に[[汽船]]メサバ号が叢氷、氷山、氷原の報告をした{{sfn|Ryan|1985|p=11}}。このメッセージもタイタニック号の無線室に留め置かれたままになった。無線オペレーターのジャック・フィリップスは[[ニューファンドランド島]]のケープ岬にある中継局を通して乗客のメッセージを送るのに気をとられていてこの報告の重要性に気付かなかった可能性がある。無線が前の晩に壊れていたので、ふたりのオペレーターはその間に溜まった未処理分のメッセージを片付けようとしていた{{sfn|Ryan|1985|p=10}}。最後の警告は22:30にカリフォルニアン号のオペレーターであるシリル・エヴァンズから受け取ったもので、この船は数マイル先の氷床で一晩足止めを喰らっていた。しかしながらフィリップスはこのメッセージを遮り、「しゃべるな!しゃべるな!ケープ岬と通信中だ!」と答えたという{{sfn|Ryan|1985|p=11}}。 |
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カリフォルニアンは19時39分に「3つの大きな氷山」の存在を報告、21時40分に汽船メサバ号が<ruby><rb>叢氷</rb><rp>(</rp><rt>そうひょう</rt><rp>)</rp></ruby>・氷山・氷原の報告をした{{sfn|Ryan|1985|p=11}}。このメッセージもタイタニックの無線室に留め置かれたままになった。無線オペレーターの[[ジャック・フィリップス (通信士)|ジャック・フィリップス]]は[[ニューファンドランド島]]のレース岬にある中継局を通して乗客のメッセージを送るのに気をとられて、この報告の重要性に気付かなかった可能性がある。2人のオペレーターも、前の晩に故障した[[無線機器]]のせいで溜まっていたメッセージの処理にかかっていた{{sfn|Ryan|1985|p=10}}。最後の報告は22時30分にカリフォルニアンのオペレーターであるシリル・エヴァンズから受信したもので、この船は数マイル先の氷床で一晩足止めを喰らっていた。しかしながらフィリップスはこのメッセージを遮り、「しゃべるな!しゃべるな!レース岬と通信中だ!」と答えたという{{sfn|Ryan|1985|p=11}}。 |
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クルーは近くに氷があることに気付いてはいたが、船は減速せず、最高速度である24ノット(時速44キロメートル、28mph)からたった2ノット(時速3.7キロメートル、2.3mph)遅いだけの22ノット(時速4キロメートル、25mph)で、{{convert|22|knots}}で航行していた{{sfn|Ryan|1985|p=10}}。氷の報告がある海域でタイタニックが高速で航行していたことはのちに無鉄砲だと批判されることとなったが、これは当時としては標準的な海洋航行の慣習を反映するものであった{{sfn|Mowbray|1912|p=278}}。 |
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クルーは近くに氷があることに気付いてはいたが、船は減速せず、最高速度である24ノット(時速44km、28mph)からたった2ノット(時速3.7km、2.3mph)遅いだけの22ノット(時速41km、25mph)で航行していた{{sfn|Ryan|1985|p=10}}。のちに、氷のある海域での高速航行は無謀だと批判されることとなったが、これは当時としては標準的な海洋航行の慣習を反映するものであった{{sfn|Mowbray|1912|p=278}}。 |
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[[北大西洋]]の定期便では何よりも時間を守ることが最優先事項であり、広告された時刻に必ず到着できるようスケジュールを厳しく守ることになっていた。危険に対する警告を、なんらかの行動をとるよう強く要請するものというよりは単なる注意程度のものとして扱っており、最高速度に近い速さで航行せざるを得ないこともあり、氷は大したリスクではないと広く信じられていた。危機一髪で逃れるのも普通で、正面衝突ですら今まで大事故にはなっていなかった。1907年にドイツの定期船SSクロンプリンツ・ヴィルヘルムが氷山に激突して船首が大破することとなったが、それでも航海を終了できた。同年、やがてタイタニック号の船長となるエドワード・スミスは「船の沈没を引き起こすような状況は想像できない。現代の[[造船]]はそういうレベルを超えている」とインタビューで宣言していた{{sfn|Barczewski|2006|p=13}}。 |
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北大西洋の定期便では何よりも定時航行を最優先事項として、公示された時刻に必ず到着できるようスケジュールを厳しく守ることになっていた。したがって、しばしば限界に近い速度で航行せざるを得ず、危険に対する警告も、行動を要請するものというよりは単なる注意程度のものとして扱っており、氷も大したリスクではないと広く信じられていた。船の衝突を危機一髪でかわすことも日常的であり、正面衝突ですら今まで大事故にはなっていなかった。1907年にドイツの定期船クロンプリンツ・ヴィルヘルム号が氷山に激突して船首が大破することとなったが、それでも航海を完遂できた。同年、のちにタイタニックの船長となる[[エドワード・スミス]]は「船の沈没を引き起こすような状況は想像できない。現代の[[造船]]はそういうレベルを超えている」とインタビューで宣言していた{{sfn|Barczewski|2006|p=13}}。 |
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=== 「前方に氷山!」 (23:39) === |
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=== 「前方に氷山!」 (23時38分46秒) === |
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==== 衝突 ==== |
==== 衝突 ==== |
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タイタニック |
タイタニックが致命的な事故に近づく時までに、ほとんどの乗客は眠りについており、船橋の指揮は二等航海士[[チャールズ・ライトラー]]から一等航海士[[ウィリアム・マクマスター・マードック]]に移管されていた。監視役の[[フレデリック・フリート]]とレジナルド・リーはデッキから29mの高さにある見張り台にいた。気温は[[氷点下]]近くまで下がっており、海面は完全に鎮まっていた。事故の生存者である[[アーチボルド・グレーシー4世|アーチボルド・グレイシー]]大佐は「海は鏡のようで、星がはっきり映るくらい水面がなめらかだった」と後に書いている{{sfn|Gracie|1913|p=247}}。現在では、このように極めて凪いだ海面は近くに叢氷があることを示すものと認識されている{{sfn|Halpern|2011|p=85}}。 |
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空気は澄んでいたが月は見えず、海が静か過ぎて、近くにある氷山の場所の手がかりになるようなものは何もなかった。海がもう少し荒れていたら、氷山にぶつかる波の |
空気は澄んでいたが[[月]]は見えず、海が静か過ぎて、近くにある氷山の場所の手がかりになるようなものは何もなかった。海がもう少し荒れていたら、氷山にぶつかる波の影響でもっと場所が見えやすくなったであろう{{sfn|Eaton|Haas|p=19|1987}}。[[サウサンプトン]]でごたごたがあったため監視役は[[双眼鏡]]を持っていなかった。しかしながら、星の光と船自体から出る光以外に光源がない全くの暗闇では双眼鏡は役に立たないとも言われている{{sfn|Brown|2000|p=47}}。それにもかかわらず、ライトラーが他のクルーに氷に対して注意するよう周知していたので、監視役は氷の危険性があることには気付いていた{{sfn|Barratt|2010|p=122}}。 |
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[[File:Titanic porting around English.svg|center|500px|thumb|タイタニック |
[[File:Titanic porting around English.svg|center|500px|thumb|タイタニックが氷山と衝突する際の航路を示した図。青が船首の経路、赤が船尾の経路である。]] |
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23 |
23時30分、フリートとリーは前方の水平線上にかすかな[[靄]]があることに気付いたが、これを特に重視しなかった。9分後の23時39分に、フリートはタイタニックの進行方向に氷山があるのを見つけた。フリートは監視鐘を3回鳴らし、船橋に電話をして六等航海士ジェームズ・ムーディに知らせた{{sfn|Lord|2005|p=2}}。 |
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* フリート「Is anyone there?(訳 |
* フリート「Is anyone there?(訳: 誰かいないのか?)」 |
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* ムーディ「Yes, what do you see? ( |
* ムーディ「Yes, what do you see? (何があったんだ?)」 |
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* フリート「Iceberg rightahead! (前方に氷山 |
* フリート「Iceberg rightahead! (前方に氷山がある!)」 |
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* ムーディ「Thank you. ( |
* ムーディ「Thank you. (わかった。)」 |
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フリートに感謝 |
フリートに感謝の意を伝えたあと、ムーディはメッセージをマードックに伝達し、マードックは操舵員の[[ロバート・ヒッチェンス]]に航路を変えるよう命じた{{sfn|Eaton|Haas|p=137|1994}}。マードックは船の進路を左方向に変えるべく「(舵輪を)右舷一杯 」("Hard a'starboard")、つまり取り舵一杯と命令したと信じられており、この結果、舵柄が右舷一杯に動かされた{{sfn|Brown|2000|p=47}}。マードックはエンジン命令[[電信]]で「全速後進」("Full Astern")をも告げた{{sfn|Barczewski|2006|p=191}}。 |
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四等航海士ジョセフ・ボックスホールによると、マードックはスミス船長に「左舷 |
四等航海士ジョセフ・ボックスホールによると、マードックはスミス船長に「左舷一杯に(氷山を)回る」("hard-a-port around [the iceberg]")ことを試みると述べていた。これは「左舷旋回」("port around")の操作を試みていたことを示唆する。つまり、船首を回転させて障害物を周り、その次に船尾を回して、船の両側が衝突を回避するように旋回させることである。命令が効力を発揮するまでには遅れがあった。蒸気で動いている操縦システムでは、船の舵柄を回転させるまで30秒かかった{{sfn|Barczewski|2006|p=191}}。エンジンを逆回転に設定する複雑な作業を行うにも時間がかかった{{sfn|Brown|2000|p=67}}。中央タービンを逆回転させることができなかったため、舵のすぐ前に置かれた中央タービンと中央スクリューは単に停止しただけになってしまった。このため舵の効きが悪くなり、したがって船が旋回する力が弱くなった(一般に、船は速力が高い方が舵効きが良い)。このことから、マードックがスピードを維持したまま前進しつつ船を旋回させていれば、タイタニックは氷山を避けられていた可能性も指摘される{{sfn|Barczewski|2006|p=194}}(とはいえ、それは結果から見た推論に過ぎない)。 |
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その結果、タイタニックの舳先は正面衝突を避けられたが、方向転換の影響で斜めに氷山にぶつかった。海面下にある氷山の下部が船の右舷を7秒間ほど擦り、氷山の上部から剥がれた氷片が前方デッキに落下してきた{{sfn|Halpern|Weeks|2011|p=100}}。数分後、タイタニックの全エンジンが停止し、船は北向きで[[ラブラドル海流]]に漂うことになった{{sfn|Halpern|2011|p=94}}。 |
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==== 衝突の結果 ==== |
==== 衝突の結果 ==== |
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[[File:Iceberg and titanic ( |
[[File:Iceberg and titanic (ja).svg|thumb|氷山に衝突した船体の模式図]] |
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氷山の衝 |
氷山の衝突は船殻に大きな穴をあけたと長らく信じられていた{{sfn|Hoffman|Grimm|1982|p=20}}。事故後の英国による調査で、タイタニックを建造した[[ハーランド・アンド・ウルフ]]の船体建築責任者エドワード・ワイルディングは、衝突の40分後に前方コンパートメントに起こった浸水量から計算して船殻部分に「12平方フィートくらい」の穴が海に向かって開き、さらにその穴が複数箇所にわたっていた可能性を証言した<ref name=wilding>{{cite web|url=http://www.titanicinquiry.org/BOTInq/BOTInq19Wilding03.php|title=Testimony of Edward Wilding|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref>。調査による発見から損傷は300フィートに及ぶと推定され、これ以降多くの著述家がこの証言に従ってきた。現代の[[超音波]]を用いた残骸探査では、損傷は6個の狭い穴で、全部で船体の{{convert|12|to|13|sqft|m2|1}}くらいに過ぎなかったということがわかっている{{sfn|Broad|1997}}。 |
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裂け目は最大 |
裂け目は最大{{convert|39|ft}} ほどで、船殻プレートに沿っていたようである。このことから、プレートを留めていた鉄の[[リベット]]が外れるか飛んで開いてしまい、狭い裂け目を作ってそこから海水が入ってきたと想定される。事故後、ハーランド・アンド・ウルフのエンジニアがこの臆説を英国難破調査委員会に示唆したが、あまり顧みられなかったという{{sfn|Broad|1997}}。タイタニックを発見したロバート・バラードは、船が小さな裂け目のために沈没したという説について、「大きな船がちょっとした裂け目のために沈没したということは誰も信じられなかったのだろう」と述べている{{sfn|Ballard|1987|p=25}}。ただし、船殻プレートのずれによる裂け目は1つの遠因に過ぎないという可能性はある。回収されたタイタニックの船殻プレートの一部は、衝突の衝撃で湾曲することなく破断したものと見られている{{sfn|Zumdahl|Zumdahl|p=457|2008}}。 |
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船殻のうち中央部の60%のプレートは[[炭素鋼]]の |
船殻のうち中央部の60%のプレートは[[炭素鋼|軟鋼]]のリベットを3列に打ち込んで接合されていたが、船首と船尾のプレートには[[錬鉄]]のリベットが2列に打ち込まれていた。材料科学者であるティム・フッケ(Tim Foecke)とジェニファー・マッカーティ(Jennifer McCarty)によると、この2列のリベットは衝突の前ですら[[応力]]限界に近かった{{sfn|''Materials Today'', 2008}}{{sfn|McCarty|Foecke|p=83|2012}}。この「ベスト」と呼ばれる三号鉄リベットは多数の[[スラグ]]巻き込みを持つもので、このためもっとよく使われる「ベスト・ベスト」と呼ばれる四号鉄リベットよりも脆く、応力をかけられた時、極度の寒冷時には壊れやすくなる傾向がある{{sfn|Broad|2008}}{{sfn|Verhoeven|2007|p=49}}。しかしハーランド・アンド・ウルフを退職した[[アーキビスト]]であるトム・マクラスキーは、タイタニックの姉妹船である[[オリンピック (客船)|オリンピック]]は同じ鉄のリベットで打ちつけられていたにもかかわらず25年近く無事故で航行し、英国の[[巡洋艦]]との衝突を含めた大きな事故を生き延びていると指摘した{{sfn|Ewers|2008}}。オリンピックが[[Uボート]][[U103 (潜水艦)|U103]]と船首で激突してU103が沈没した時にも、船尾のねじれと右舷側の船殻プレートの湾曲が生じたものの、船殻は原型を留めていた{{sfn|Ewers|2008}}{{sfn|Mills|1993|p=46}}。 |
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喫水線より上では衝突の痕跡はほとんどなかった。一等船室の[[スチュワード]]は震動に気付いたが、 |
喫水線より上では衝突の痕跡はほとんどなかった。一等船室の[[スチュワード]]は震動に気付いたが、プロペラスクリューのブレードが折れたせいだと思った。乗客の多くも衝撃や震動を感じたが、その原因はわからなかった{{sfn|Butler|1998|pp=67–9}}。衝突部位に最も近い一番低いデッキにいた者は、衝撃をもっと直接的に感じた。操機手のウォルター・ハーストは衝撃で目を覚ましたが、「誰もそんなに危険なことだと思わなかった」と回想している{{sfn|Barratt|2010|p=151}}。機関助手<!--fireman=機関助手、stoker=火夫とした-->のジョージ・ケミシュも右舷側で衝突音を聞いたという{{sfn|Barratt|2010|p=156}}。 |
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船は |
船はまもなく浸水し始め、やがて汲出可能速度の15倍にあたる1秒あたり7[[ロングトン]]の速度で水が入り込んできた{{sfn|Aldridge|2008|p=86}}。二等機関士<!--engineer=機関士とした-->のJ・H・ヘスケスと[[火夫|主任火夫]]のフレデリック・バレットは第6ボイラー室に漏出してきた冷たい海水に打たれ、部屋の防水扉が閉まる直前に逃げた{{sfn|Ballard|1987|p=71}}。これは機関部門のクルーにとって極めて危険な状況であった。ボイラーには高温・高圧の蒸気が充満しており、そこに冷たい水が入り込めば爆発する危険性もあった。火夫と機関助手はボイラーの鎮火と排気を命じられ、大量の蒸気を排気煙突から送り出した。この作業が終わる頃には、火夫たちは腰まで冷たい水に浸かっていた{{sfn|Barczewski|2006|p=18}}。 |
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[[File:Titanic side plan annotated English.png|center|thumb|700px|解説つきのタイタニック |
[[File:Titanic side plan annotated English.png|center|thumb|700px|解説つきのタイタニックの図面。緑が損傷を受けた箇所、船底の機関エリアは青字で注釈がある。図上部記載の縮尺スケールの最小目盛は{{convert|10|ft|m}}、縮尺スケールの全長は{{convert|400|ft|m}}である。|alt=A line diagram showing Titanic from the side.]] |
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タイタニック |
タイタニックの下部デッキは16のコンパートメントに区画されており、それぞれ隣の区画から船の幅をカバーする15の隔壁で仕切られていた。隔壁は低いものでも水面の約3.4m上にあるEデッキの底面まで届いており、船首に最も近いふたつと船尾にもっとも近い6つの隔壁はさらにもうひとつ上のデッキまで達していた{{sfn|Mersey|1912}}。 |
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隔壁は防水扉で閉鎖することができ、タンクトップデッキのエンジン室とボイラー室にはブリッジから遠隔操作できるドアがあり、約30秒で垂直に閉めることができたが、クルーが閉じ込められることのないよう、警告ベルと別の避難ルートが設置されていた。タンクトップの上の階層のオーロップデッキ、Fデッキ、Eデッキのドアは手動で水平に動かすことができ、上のデッキから操作することもできた{{sfn|Mersey|1912}}。 |
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防水隔壁は水面より上まで伸びていたが、上部 |
防水隔壁は水面より上まで伸びていたが、上部までぴったり塞がれていなかったため、製氷皿に入れた水が仕切りを越えて移動するように多数の区画が次々と浸水し、船首層タンク、前方の船倉3室、6番ボイラー室の合わせて5つの区画に被害を受けた。タイタニックは2区画までが浸水しても問題ないように設計されており、最悪4区画までは穴が開いても組み合わせによっては沈没することはなかった。しかし、5区画となると、水は隔壁の上部に達し、浸水を防げなくなる{{sfn|Mersey|1912}}{{sfn|Ballard|1987|p=22}}。 |
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[[ファイル:Titanic sinking gif.gif|サムネイル|300x300ピクセル|沈没のアニメーション]] |
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スミス船長は自分の船室にいたときに衝 |
スミス船長は自分の船室にいたときに衝撃を感じ、すぐにブリッジに出てきた。状況を知らされた船長は、タイタニックを建造した[[トーマス・アンドリューズ (造船家)|トーマス・アンドリューズ]]を呼んだ。アンドリューズは船の最初の旅客航海を見守ることになっていたハーランド・アンド・ウルフのエンジニアの1人であった{{sfn|Barczewski|2006|p=147}}。船は衝突の数分後には右舷に5度傾き、船首は2度下がっていた{{sfn|Butler|1998|p=71}}。スミスとアンドリューズは階下に行き、前方の積み荷は持ちこたえているが、郵便室と[[スカッシュ (スポーツ)|スカッシュ]]コートに浸水しており、第6ボイラー室は既に{{convert|14|ft}}もの水に飲み込まれていることに気付いた。水は第5ボイラー室に溢れ出ており{{sfn|Butler|1998|p=71}}、ここにいたクルーたちは排水をしようと奮闘していた{{sfn|Butler|1998|p=72}}。 |
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衝突から45分で少なくとも{{convert|13500|LT|t}}の水が船に入ってきた。タイタニックの |
衝突から45分で、少なくとも{{convert|13500|LT|t}}の水が船に入ってきた。タイタニックの全ポンプの最大排水量は毎時{{convert|1700|LT|t}}であり{{sfn|Halpern|Weeks|p=112|2011}}[[バラスト]]や船底のポンプでは対応できない量であった。アンドリューズは「船長に5つの区画が浸水した」と伝え、それゆえ「'''タイタニックは沈む運命にある'''」と言った。彼の予想では、もはや船は2時間以上持ち堪えられないだろうということであった{{sfn|Barczewski|2006|p=148}}。 |
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衝突 |
衝突から沈没までの間に、少なくとも{{convert|35000|LT|t}}の水が入り込み、排水量が{{convert|48300|LT|t}}からほぼ2倍の{{convert|83000|LT|t}}以上になった{{sfn|Halpern|Weeks|p=106|2011}}。浸水の進行状況は区画の形状によって異なり、一定速度で進んだわけではなく、船全体で一気に進んだわけでもなかった。最初に右舷方向に傾いてしまったのは、船底の通路を通って水が溢れていって右舷側のみが浸水したためであった{{sfn|Halpern|Weeks|p=116|2011}}。通路が完全に水で塞がれると傾きは修正されていったが、のちに他方への浸水が進んだため船は左舷に10度近く傾いていくようになった{{sfn|Halpern|Weeks|p=118|2011}}。 |
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タイタニックは衝突後1時間で0 |
タイタニックは衝突後1時間で0°から4.5°まで前傾したが、次第に傾く速度が鈍くなり、5°程度になった{{sfn|Halpern|Weeks|p=109|2011}}。そのため、救出までこのまま船が浮いていられるのではないかという希望を抱いた乗船者も多数いた。しかし、1時30分頃には前部の沈む速度が増し、船体は10°も傾いていた{{sfn|Halpern|Weeks|p=118|2011}}。 |
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== 1912年4月15日 == |
== 1912年4月15日 == |
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=== 船を捨てる準備 |
=== 船を捨てる準備 (0時05分–0時45分) === |
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[[File:EJ Smith.jpg|thumb|upright|タイタニック |
[[File:EJ Smith.jpg|thumb|upright|タイタニックの船長エドワード・J・スミス(1911)|left|alt=Photograph of a bearded man wearing a white captain's uniform, standing on a ship with his arms crossed.]] |
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4月15日の |
4月15日の0時05分に、スミス船長は救命ボートをカバーから出すよう命じ、乗客が集合した{{sfn|Ballard|1987|p=22}}。船長は無線オペレーターに救難信号を送るよう命じたが、この信号により船が氷帯の西側にいると誤認され、救援にきた人々は13.5海里(15.5 mi / 25 km)ほど離れた場所に向かってしまった{{sfn|Ballard|1987|p=199}}{{sfn|Bartlett|2011|p=120}}。デッキの下では水が船の最下部の数層に流れ込んできていた。郵便室が浸水し、仕分け係はタイタニックで運搬中だった400,000もの郵便物を救おうとしたが、結果としては無駄な努力であった。他の場所では、流入する水で空気が押し出される音を聞くことができたという{{sfn|Bartlett|2011|pp=118–9}}。タイタニックには一斉呼びかけを行うシステムがなかったので、上の階では客室係が各室を回って眠っている乗客やクルーを起こし、ボートデッキに行くよう伝えた{{sfn|Barczewski|2006|p=20}}。 |
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集 |
非常召集の成果は乗客の等級に左右された。一等船室の客室係は数室のみを担当していたが、二等と三等船室の客室係は大勢の人々をさばかなければならなかった。一等の客室係は直接的な支援を行い、客が服を着るのを手伝い、デッキまで誘導した。しかし、二等と三等の客室係のほとんどはドアを開け放ち、[[救命胴衣]]をつけて上に来るよう乗客に伝えるのが精一杯だった。三等船室に至っては、おおむね乗客自身の判断で行動するほかなかった{{sfn|Bartlett|2011|p=121}}。 |
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乗客やクルーの多くは問題が発生したことを信じないか、あるいは冷え込みの厳しいデッキに出るよりも、室内で暖かくしているほうが良いと、命令に従うのを渋った。船が傾いているのに気付いた者も少しはいたが、船が沈みかけているとは知らされていなかった{{sfn|Barczewski|2006|p=20}}。0時15分頃、客室係は乗客に[[救命胴衣]]を着用するよう命じ始めた{{sfn|Bartlett|2011|p=126}}。しかしながら、多くの乗客はこの命令を馬鹿げたことだと受け取った{{sfn|Barczewski|2006|p=20}}。この頃、甲板に散らばっていた氷の塊で即席の[[サッカー]]を始める者までいた{{sfn|Bartlett|2011|p=116}}。 |
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ボートデッキではクルーが救命ボートを準備して |
ボートデッキではクルーが救命ボートを準備していたが、煙突から排出される高圧蒸気の騒音で会話が困難になったため{{sfn|Beesley|1960|pp=32–3}}、クルーは身ぶり手ぶりで意思疎通していた{{sfn|Bartlett|2011|p=124}}。 |
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タイタニック |
タイタニックには全部で20艘の救命ボートがあり、吊り柱に木製のボートが16艘(船の両側に8艘ずつ)、底が木で脇が[[キャンバス]]の折りたたみボートが4艘という内訳であった{{sfn|Barczewski|2006|p=20}}。折りたたみボートは脇を内側に折り込んだ状態で逆さまに収納されていて、進水のためには組み立てたのちに吊り柱に移動させるようになっており{{sfn|Lord|1987|p=90}}、2艘は木製ボートの下に、他の2艘は上級船員区域の上に縛り付けてあった{{sfn|Barczewski|2006|p=21}}。これらを使用するにはボートデッキまで人力で降ろす必要があったが、いずれも数トンの重量がある上、後者の2艘は収納場所の事情もあり、進水には大変な労力を必要とした{{sfn|Bartlett|2011|p=123}}。救命ボートは1艘あたり平均68人を乗せることができ、全部で1,178人が乗ることができたが、これはかろうじて乗船者の半分程度、船の最大積載人数の3分の1であった。 |
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救命ボートの不足は場所やコストのせいではなかった。タイタニックは68艘まで救命ボートを載せられるように設計されていた{{sfn|Hutchings|de Kerbrech|2011|p=112}}。これは乗客全員を乗せるのに充分な数であり、もう32艘救命ボートを買うには16,000ドルほどかかるだけで、タイタニックの船体に会社が払った7,500,000ドルに比べればほんのわずかな額であった。当時、緊急時における救命ボートは、乗客を遭難船から近くの船まで運ぶために使われており{{sfn|Hutchings|de Kerbrech|2011|p=116}}、クルー全員を乗せることは想定しておらず、当時イギリスで運行していた {{convert|10000|LT|t}}を超える39隻の定期船のうち33隻は、乗客全員を乗せるには乏しい数しか救命ボート置き場を作っていなかった{{sfn|Bartlett|2011|p=30}}。ホワイト・スター・ラインは、海を見るための広い遊歩デッキを計画しており、いくつもの救命ボートを置くと視界の妨げになる可能性があった{{sfn|Marshall|1912|p=141}}。 |
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スミス船長は40年を海で過ごし、そのうち27年は船員を指導する立場にあったという経験ある船乗りであった。もし全ての救命ボートがフルに人を乗せても、千人もの人々が沈没時に船にいる状態になることを理解していたに違いない{{sfn|Ballard|1987|p=22}}。これから起こることの重大さを把握しはじめるにつれて、スミスは優柔不断で動けなくなっていったようであった。 乗客とクルーには集合するよう命じたが、上級船員に乗客を救命ボートに乗せるよう指導することができなかった。適切にクルーを組織できず、部下たちに重要な情報を伝えることもできず、時として曖昧で実際的ではない命令を出し、船を捨てろという命令は全く出さなかった。ブリッジに詰めていた船員の中にすら、衝突後しばらくは船が沈みかけていると気付いていない者がいた。四等航海士ジョセフ・ボクソールは01:15、船が沈没する一時間ほどまえになるまでこのことを伝えられていなかった{{sfn|Butler|1998|pp=250–2}}。一方、操舵員のジョージ・ロウは緊急事態に全く気付いておらず、避難が始まった後にブリッジから自分の監視所まで電話してなぜ救命ボートが出されているのか聞いた{{sfn|Bartlett|2011|p=106}}。スミスは船員たちに船が全員を救うに足る救命ボートを積んでいないことを伝えていなかった。救命ボートの積み込みを監督せず、自分の命令が守られているか確認することもしていなかったようである{{sfn|Butler|1998|pp=250–2}}{{sfn|Cox|1999|pp=50–2}}。 |
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スミス船長は40年を海で過ごし、そのうち27年は船員を指導する立場にあったという経験ある船乗りであった。もし全ての救命ボートに定員ぎりぎりまで人を乗せたとしても、1,000人もの人々が沈没時に船に取り残されることを理解していたに違いない{{sfn|Ballard|1987|p=22}}。これから起こることの重大さを把握しはじめるにつれて、スミスは優柔不断で動けなくなっていったようであった。 乗客とクルーには集合するよう命じたが、救命ボートへの搭乗指示は出さなかった。適切にクルーを組織できず、部下たちに重要な情報を伝えることもできず、時として曖昧で実際的ではない命令を下し、船を捨てろという命令は全く出さなかった。ブリッジに詰めていた船員の中にも、船が沈みかけている事実に気付いていない者がいた。四等航海士ジョセフ・ボクソールは1時15分、船が沈む1時間ほど前までこのことを伝えられていなかった{{sfn|Butler|1998|pp=250–2}}。操舵員のジョージ・ロウは緊急事態に全く気付かず、避難が始まった後にブリッジから電話をかけ、自分の監視所に救命ボートが出されている理由を問い合わせた{{sfn|Bartlett|2011|p=106}}。スミスは船員たちに、船には全員を救うに足る数の救命ボートがないことを伝えていなかった。救命ボートへの搭乗を監督せず、命令が守られているか確認することもしていなかったようである{{sfn|Butler|1998|pp=250–2}}{{sfn|Cox|1999|pp=50–2}}。 |
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救命ボート訓練がほんの少ししか行われてなかったため、クルーも同様に緊急時に対する準備ができていなかった。[[サウサンプトン]]に停泊していた間に一度、救命ボート訓練を行っただけであった。通り一遍の訓練で、2隻の救命ボートを降ろし、それぞれに船員1人と男性4人を乗せて数分、埠頭を漕いでまわった後に船に戻るというものであった。ボートには緊急用物資が蓄えられているはずであったが、船のパン焼きチーフであったチャールズ・ジョーギンと部下の努力にもかかわらず部分的にしか物資が準備されていなかったことをタイタニック号の乗客が後で知った{{sfn|Mowbray|1912|p=279}}。救命ボート訓練や火災訓練はタイタニック号がサウサンプトンを出港して以来行われていなかった{{sfn|Mowbray|1912|p=279}}。救命ボート訓練は船が沈む前の日曜日の朝に予定されていたが、スミス船長により不明な理由で中止されていた{{sfn|Aldridge|2008|p=47}}。 |
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[[File:Titanic and Captain Smith.jpg|thumb|upright|タイタニックの救命ボート訓練。左端にスミス船長の姿が見える。(1912年4月10日)]] |
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クルーのメンバーを特定の救命ボートステーションに割り振るリストが掲示されたが、読んだものはほとんどおらず、何をすべきかわかっていた者はほぼいなかったようである。クルーのほとんどは船乗りではなく、ボートを漕いだ経験すら全く無かった者もいた。このような人々がこのとき、全部で1100人にのぼる可能性がある人々を乗せた20隻のボートを船の脇から21メートル協力して降ろすという複雑な業務に直面した{{sfn|Bartlett|2011|p=123}}。あまりにも避難の段取りが悪かったため、乗客全員分の救命ボートがあっても全員救命はできなかったかもしれないという指摘をする歴史家すらいる{{sfn|Cox|1999|p=52}}。 |
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クルーたちも緊急時への対応ができていなかった。救命ボート訓練は[[サウサンプトン]]碇泊時に行なわれたが、その内容は通り一遍のもので、2艘の救命ボートを降ろし、それぞれ船員1人と男性4人ずつを乗せて、数分間埠頭を漕ぎまわったのちに船に戻るというものだった。結局訓練はその1度きりで{{sfn|Mowbray|1912|p=279}}、船が沈む前の日曜日の朝にも予定されていたものの、スミス船長により不明な理由で中止された{{sfn|Aldridge|2008|p=47}}。ボートには緊急用物資が蓄えられているはずであったが、船のパン焼き係主任であった[[チャールズ・ジョーキン]]と部下の努力にもかかわらず、十分な物資がなかったことを乗客たちは後に知った{{sfn|Mowbray|1912|p=279}}。非常時にクルーのメンバーを救命ボートステーションに割り振るリストも掲示されていたが、読んだ者はほとんどおらず、何をすべきか分かっていた者はほぼいなかったようである。クルーのほとんどは船乗りではなく、ボートを漕いだ経験の無かった者もいた。このような人々がこの時、総員1,100人もの人々を乗せた20艘のボートを船の脇から協力して21mも降ろすという複雑な業務に直面した{{sfn|Bartlett|2011|p=123}}。あまりにも避難の段取りが悪かったため、たとえ乗客全員分の救命ボートがあったとしても全員救命することはできなかったかもしれないという指摘をする歴史家すらいる{{sfn|Cox|1999|p=52}}。 |
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衝突40分後の |
衝突から40分後の0時20分頃までには、救命ボートへの搭乗が開始されていた。二等航海士ライトラーは、スミスがトランス状態であるかのように呆然としてブリッジのそばに立ち、海を見やっていたと後に回想している。ライトラーが船長に「女性と子供をボートに乗せた方が良いのではないでしょうか。」 ("Hadn't we better get the women and children into the boats, sir?") と提案したところ、船長は「女性と子供を乗せて降下させよう。」 ("women and children in and lower away.") と答えた{{sfn|Lord|2005|p=37}}。ライトラーは左舷側のボートを担当し、マードックは右舷側のボートを担当した。一等航海士マードックと二等航海士ライトラーはそれぞれ「[[ウィメン・アンド・チルドレン・ファースト|女性と子供を優先する]]」ことについて異なる解釈をした。マードックは'''まず'''女性と子供から乗せると解釈したが、ライトラーは女性と子供'''だけ'''を乗せると解釈した(一説によると、ライトラーは救命ボートが足りないのを知っていて仲間である船員を助けるために意図的に命令を曲解した説もある)、そのため、ライトラーは女性と子供が全員乗り込んだのを確認すると、スペースに余裕があっても救命ボートを降ろしたが、マードックは女性と子供の他にわずかながら男性も乗せた{{sfn|Barczewski|2006|p=21}}。ほかのクルーも1艘あたりの定員を知らず、気を配るあまり上限まで乗せないという過ちを犯した。その日は天気も海の状態も非常に安定していたため、上限の68人を乗せても十分安全に降ろせたはずであった{{sfn|Barczewski|2006|p=21}}。もし定員まで乗せていたら、もう500人ほどの人命が救えたであろうと考えられている。結局、救命ボートは多くの空席を残したまま進水し、数百人の人々(大部分が男性)が船に取り残された {{sfn|Bartlett|2011|p=124}}{{sfn|Cox|1999|p=52}}。 |
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当初は救命ボートに乗ろうとする乗客がほとんどおらず、避難を仕切っていた船員は乗客をなかなか説得できなかった。百万長者である[[ジョン・ジェイコブ・アスター4世|ジョン・ジェイコブ・アスター]]は「あんな小さなボートよりもここにいたほうが安全だ」と言い張った{{sfn|Lord|1976|pp=73–4}}。ボートへの移乗をきっぱり断る客もいた。J・ブルース・イズメイは事態の重大さに気付いて右舷のボートデッキをまわり、乗客とクルーにボートに乗るよう促した。少数の女性・夫婦・独身男性が説得を受け入れて右舷7番救命ボートに乗り、これが最初に降ろされた救命ボートとなった{{sfn|Lord|1976|pp=73–4}}。 |
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=== 救命ボート乗船 |
=== 救命ボート乗船(0時45分–2時05分) === |
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[[File:The Sad Parting - no caption.jpg|thumb|upright|'' |
[[File:The Sad Parting - no caption.jpg|thumb|upright|''「悲しい別れ」''、1912年|alt=Illustration of a weeping woman being comforted by a man on the sloping deck of a ship. In the background men are loading other women into a lifeboat.]] |
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0時45分に7番ボートが28人の乗員(定員65人)を乗せ、手漕ぎでタイタニックから離れた。次いで左舷の6番ボートが0時55分に降ろされた。このボートに乗船していた28人には「不沈の女」[[マーガレット・ブラウン|マーガレット・"モリー"・ブラウン]]も含まれていた。ライトラーはこのボートに船乗りが1人(操舵員ロバート・ヒッチェンス)しか乗っていないことに気付いてボランティアを募り、王立カナダヨットクラブのアーサー・ゴドフリー・ピューチェン少佐が申し出てロープを伝い、救命ボートに乗った。少佐は左舷側でライトラーが避難させた唯一の男性乗客であった{{sfn|Lord|1976|p=87}}。このことは、避難時にボートに乗り込める船乗りがほとんどいなかったという、重大な問題を浮き彫りにしている。船内通路のドアを開けて乗客に避難を呼びかけるため、下に降りたまま、戻らなかった船員もいた。おそらくは下のデッキで揚がってきた水に捕らわれ、溺死したものと考えられる{{sfn|Bartlett|2011|p=150}}。 |
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デッキ |
デッキ下に浸水が進む中、不可欠な作業を続けようとしていたクルーもいた。機関士や機関助士たちは、冷たい水との接触で爆発が起こらないようボイラーから蒸気を逃がす作業をしており、水流を減らすために余分にポンプを出そうとして防水扉を再び開けたが、これは無駄な試みであった。客室係のF・デント・レイは、自分の担当区域とEデッキの三等船室の間の木の壁が崩壊して流れ込んだ水が腰まで達し、あやうく押し流されそうになった{{sfn|Lord|1976|p=78}}。エンジニアのハーバート・ハーヴィとジョナサン・シェパード(少し前に左足を骨折していた)は、浸水していた第6ボイラー室のドアが崩れて流出した水に呑まれ、0時45分頃に第5ボイラー室で亡くなった{{sfn|Halpern|Weeks|2011|p=126}}。 |
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1時20分頃には第4ボイラー室でも下から浸水が始まったが、これは船の下部にも氷山の影響で穴が開いていたことを意味する。浸水量が忽ちポンプを圧倒し、機関助士や積み荷係は前側のボイラー室から退避せざるを得なくなった{{sfn|Lord|1976|p=76}}。さらに船尾側では、機関士長のウィリアム・ベルと同僚の機関士たち、志願した数人の機関助士や機関員が浸水していない第1・第2・第3ボイラー室やタービン、[[レシプロエンジン]]のある場所に残り、船の照明やポンプ、無線機器に電力を供給するため、ボイラーと発電機を動かし続けた{{sfn|Ballard|1987|p=25}}。彼らは最後まで持ち場に留まっていたため、タイタニックの電気系統は沈没するまで生きていたが、35人の機関士や電気工は1人も助からなかった{{sfn|Butler|1998|p=226}}。また、5人の郵便係も浸水した郵便室から避難させた郵便袋を守ろうとしているところを目撃されたのが最期となり、Dデッキのどこかで揚がってきた水に呑まれたと考えられる{{sfn|Butler|1998|p=225}}。また、三等船客の多くは自力でE、F、Gデッキに入ってくる水に立ち向かうこととなった{{sfn|Gleicher|2006|p=40}}。 |
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救命ボートは数分おきに |
救命ボートは船の左右から数分おきに降ろされていたが、そのほとんどが定員に満たない状態だった。5番ボートは41人しか乗っておらず、3番ボートは32人、8番ボートは39人しか乗らずに船から離れた{{sfn|Ballard|1987|p=24}}。1番ボートは定員40人に対し12人しか乗っていなかった{{sfn|Ballard|1987|p=24}}。避難は滞り、乗客は事態が進行するにつれて事故やケガに見舞われるようになった。ある女性は10番ボートと本船の間から落ちたが、かかとをつかまれて遊歩デッキに助け上げられ、再びボートに乗ることができた{{sfn|Gleicher|2006|p=40}}{{sfn|Lord|1976|p=90}}。一等船室の乗客アニー・ステンゲルは、5番ボートに飛び降りた太ったドイツ系アメリカ人医師とそのきょうだいの下敷きになり、意識不明に陥り、肋骨を数本折った{{sfn|Bartlett|2011|p=147}}{{sfn|Eaton|Haas|p=150|1994}}。救命ボートの降下にも危険が伴った。6番ボートは船の側面から排出された水で水浸しになったが、なんとか船から離れることができた{{sfn|Ballard|1987|p=24}}{{sfn|Bartlett|2011|p=145}}。3番ボートはあわや大惨事になりかけた。1本の吊り柱が絡まり、乗客がボートから投げ出されそうになったのである{{sfn|Bartlett|2011|p=152}}。 |
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{{listen |filename=RMS Titanic distress signal simulated as morse code.wav |title=遭難信号 |description=モールス信号で再現されたタイタニック |
{{listen |filename=RMS Titanic distress signal simulated as morse code.wav |title=遭難信号 |description=モールス信号で再現されたタイタニックの遭難信号}} |
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1時20分までには、デッキ上の客も事態の深刻さを感じ取り、夫たちは妻や子を救命ボートまで連れて行き、別れを告げ始めた。[[遭難信号]]用の[[発炎筒]]が数分おきに焚かれ、無線オペレーターは繰り返し遭難信号[[CQD]]を発信した。無線オペレーターのハロルド・ブライドは、同僚のジャック・フィリップスに「使う最後のチャンスになるかもしれないから」と、新しい[[SOS]]信号を使うよう伝えた。2人のオペレーターは他の船に救援を求めたが、応答した船のうち[[カルパチア (客船)|カルパチア]]は({{convert|58|mi}}離れたところにいた{{sfn|Butler|1998|p=98}})タイタニックより船足が鈍く、最高速度でも {{convert|17|kn|mph km/h|lk=in|abbr=on}}しか出ず、沈みつつある船に到着するまで4時間かかるということであった{{sfn|Butler|1998|p=113}}。他に応答した船としては[[マウント・テンプル (客船)|マウント・テンプル]]があり、進路を変えてタイタニックがいる方角に向かったが途中で叢氷に阻まれてしまった<ref>http://www.titanicinquiry.org/USInq/AmInq09Moore01.php</ref>。 |
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[[カリフォルニアン (貨物船)|カリフォルニアン |
[[カリフォルニアン (貨物船)|カリフォルニアン]]はもっとずっと近くにおり、数時間前にタイタニックに氷山の通告をしていた。拡がった[[流氷]]に自分の船が阻まれていたため、船長のスタンリー・ロードは22時00分頃、氷原を出る経路を見つけるため、明け方まで一晩碇泊することにした{{sfn|Butler|1998|p=159}}。タイタニックが氷山に衝突する10分前の23時30分に、カリフォルニアンのただ1人の無線オペレーターであったシリル・エヴァンズは、無線機器をシャットダウンして就寝していた{{sfn|Butler|1998|p=161}}。ブリッジでは三等航海士チャールズ・グローヴズが右舷方向に{{convert|10|to|12|mi|abbr=on}}離れたあたりで大きな船を目撃していた。この船は突然左舷に旋回して止まった。もしカリフォルニアンの無線オペレーターがもう15分長く持ち場にいれば、数百名の命が救えた可能性もある{{sfn|Butler|1998|p=160}}。1時間あまりのち、カリフォルニアンの二等航海士、ハーバート・ストーンは停まった自船の上に5回、ロケット信号弾が白く炸裂するのを見た。しかし信号の意味がよくわからず、ロード船長を呼んだ。船長は海図室での休息中に信号の目撃報告を受けた{{sfn|Butler|1998|p=162}}が、何も対処しなかった。ストーンは不安になって同僚に相談した{{sfn|Butler|1998|p=163}}。後日、ロード船長は事故後の査問委員会にて、同船はタイタニック沈没地点から同船の最大船速13.5ノットにて2時間程度の場所に碇泊していたが、0時から2時頃にかけ船長や他の船員が3mi先に発光信号を使用する船影を確認し、流氷注意のために発光信号を数回送ったが、返答なくそのまま航行していった。明らかに貨物船でタイタニックではなかったと証言している。尚、同査問員会の結論としては同信号はタイタニックによるものであったと結論付けられている<ref>{{Cite web|title=U.S. Senate: Titanic Disaster Hearings: The Official Transcripts of the 1912 Senate Investigation|url=https://www.senate.gov/reference/reference_item/titanic.htm|website=www.senate.gov|accessdate=2020-10-10}}</ref>。 |
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この頃までにタイタニックに乗っている人々には、船が沈みつつあり、全員が乗れるだけの救命ボートがないことは明らかになっていた。しかし、最悪の事態は起こらないだろうという希望にしがみついている者もいた{{sfn|Lord|1976|p=84}}。自分は後から行くと嘘をついて、妻だけを救命ボートに乗せ、永遠の別れを遂げた夫もいた{{sfn|Lord|1976|p=84}}。 |
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[[File:Titanic signal.jpg|thumb|300px|left|01:40頃にタイタニック号の無線オペレータ、ジャック・フィリップスから[[ロシア]]の船であるブリマ号に送信された遭難信号。これはタイタニック号から送られた最後の解読可能な無線メッセ-ジのひとつである。|alt=Image of a distress signal reading: "SOS SOS CQD CQD. MGY [Titanic]. We are sinking fast passengers being put into boats. MGY"]] |
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別れるのを拒んだ夫婦もいた。[[メイシーズ]]百貨店の共同経営者であった[[イジドー・ストラウス]]はすでに67歳の高齢だったため、救命ボートに乗れるのは女性と子供が優先という状況にあっても特別に救命ボートに乗り込むことを認められたが、彼はあくまでも男性の自分が女性と子供を差し置いてボートに乗るわけにはいかないと主張し、彼の妻[[アイダ・ストラウス]]も夫と別れて自分だけがボートに乗ることはできないと主張し、夫妻ともに救命ボートに乗ることを拒否した{{sfn|Lord|1976|p=84}}。夫妻は一対のデッキチェアに座って、世の終わりを待った{{sfn|Lord|1976|p=85}}。企業家の[[ベンジャミン・グッゲンハイム]]は、[[救命胴衣]]とセーターといういでたちから[[トップハット]]と[[礼服|イブニング]]に着替え、紳士らしく船と運命を共にしたいと述べた{{sfn|Ballard|1987|p=25}}。 |
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この頃までにはタイタニック号に乗っている人々にとって、船が沈みつつあり、全員が乗れるだけの救命ボートが無いことは明らかになっていた。最悪の事態は起こらないだろうという希望にまだしがみついている者もいた{{sfn|Lord|1976|p=84}}。後で行くからと言って妻を先に救命ボートに乗せた夫もいた{{sfn|Lord|1976|p=84}}。 |
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この時点で、救命ボートに乗った乗客のほとんどは一等船室及び二等船室の乗客で占められていた。船尾の三等船室にいた乗客はほとんどデッキまでたどり着けず、通路で迷い、三等船室を一等や二等の区域と隔離する壁や仕切りに阻まれて動けなかった{{sfn|Barczewski|2006|p=284}}。この隔離は単なる社会的理由だけではなく、アメリカ合衆国移民法の条件によるものでもあった。この法は、移民をコントロールし、感染症の広がりを防ぐため三等船客を隔離するよう定めていた。大西洋航路の定期船に乗る一等と二等の船客は[[マンハッタン島]]の主桟橋で降りるが、三等船室の乗客は、[[エリス島]]で健康診断と手続きを経なければ降りることはできなかった{{sfn|Howells|1999|p=96}}。少なくともいくつかの場所では、タイタニックのクルーは三等船客の避難を積極的に妨害した。錠をかけてクルーが見張っていた壁もあり、明らかに三等船客が救命ボートに殺到することを阻んでいた{{sfn|Barczewski|2006|p=284}}。 |
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別れるのを拒んだ夫婦もいた。[[メイシーズ]]百貨店の共同経営者[[イジドー・ストラウス]]の妻アイダ・ストラウスは夫と一緒にいたいと誓った{{sfn|Lord|1976|p=84}}。2人は一対のデッキチェアに座って終わりを待った{{sfn|Lord|1976|p=85}}。企業家の[[ベンジャミン・グッゲンハイム]]は[[救命胴衣]]と[[セーター]]から[[トップハット]]と[[礼服|イブニング]]に着替え、[[紳士]]らしく船と運命をともにしたいと述べた{{sfn|Ballard|1987|p=25}}。 |
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CからGまでのデッキにある三等船室はいずれもデッキの末尾部分にあったため、乾舷までたどり着くには曲がりくねった長い通路を通る必要があり、救命ボートまで最も遠かった。反対に一等船室は上甲板にあり、最短距離だった。したがって、救命ボートまでの距離はボートに乗ることができた者を定める重要な要因となった。さらなる困難として、多くの三等船客は外国人で、英語が理解できなかった。助かった三等船客の中に、英語を話す[[アイルランド]]系の移民が多くを占めていたのは偶然ではない{{sfn|Howells|1999|p=95}}。また、生き残った三等船客の多くは同船室の客室係エドワード・ハートのおかげで命拾いしている。ハートは船内で三等船客のグループをボートデッキまで連れて行くことを3度も行った。開いている壁を抜けたり、緊急用の[[梯子]]を昇って逃げた者もいた{{sfn|Lord|1976|pp=91–5}}。 |
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この時点で、救命ボートに乗った乗客のほとんどは一等船室及び二等船室の乗客であった。船尾の三等船室にいた乗客はほとんどデッキにたどり着けず、通路でうろうろと迷い、三等船室を一等や二等の区域と分けている壁や仕切りに阻まれて動けなかった{{sfn|Barczewski|2006|p=284}}。この隔離は単なる社会的理由だけではなく、[[アメリカ合衆国]]移民法の条件によるものでもあり、この法は移民をコントロールし、[[感染症]]の広がりを防ぐため三等船客を隔離するよう定めていた。大西洋航路の定期船に乗る一等と二等の船客は[[マンハッタン島]]の主桟橋で降りるが、三等船室の乗客は[[エリス島]]で[[健康診断]]と手続きを経ねばならなかった{{sfn|Howells|1999|p=96}}。少なくともいくつかの場所では、タイタニック号のクルーは三等船客の避難を積極的に妨害した。ロックされてクルーにより見張られた壁もあり、これは明らかに三等船客が救命ボートに殺到するのを防ぐためであった{{sfn|Barczewski|2006|p=284}}。 |
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おそらくは状況に圧倒されてしまい、逃げる試みを全くせずに船室にとどまっていたり、三等船室の食堂に集まって祈っていた人々もいた{{sfn|Lord|1976|p=97}}。機関助手長のチャールズ・ヘンドリクソンは、まるで誰かに導かれるのを待つかのようにデッキ下に三等船客たちが[[スーツケース|トランク]]や持ち物を手に集まっているのを目撃した{{sfn|Bartlett|2011|p=131}}。[[心理学者]]のウィン・クレイグ・ウェイドは、何世代にもわたって自分がすべきことを社会的地位が上の者に命じられてきたために培われた「禁欲的受動性」によるものではないかと述べている{{sfn|Butler|1998|p=225}}。 |
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長く曲がりくねった通路を通って乾舷までたどり着く必要があった。CからGまでのデッキにある三等船室はデッキの終端部分であったため、救命ボートまで最も遠かった。対照的に一等船室は上甲板にあり、最短であった。このため、救命ボートまでの近さは誰が乗れたかを決める重要要因となった。さらなる困難として、多くの三等船客は英語がわからなかったり、話せなかったりした。英語を話す[[アイルランド]]系の移民が生存した三等船客のなかで特に多くをしめているのは偶然ではない{{sfn|Howells|1999|p=95}}。生き残った三等船客の多くは三等船室客室係のエドワード・ハートのおかげで命を助けられている。ハートは船内で三等船客のグループをボートデッキまで連れて行くことを3回も行った。開いている壁を抜けたり、緊急用の[[梯子]]をのぼって逃げた者もいた{{sfn|Lord|1976|pp=91–5}}。 |
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おそらくは状況に圧倒されてしまい、逃げる試みを全くせずにキャビンにとどまり、三等船室の[[食堂]]に集まって祈っていた人々もいた{{sfn|Lord|1976|p=97}}。機関助手長のチャールズ・ヘンドリクソンは、まるで誰かに導かれるのを待っているかのようにデッキの下で三等船客たちが[[スーツケース|トランク]]や持ち物を手に集まっているのを目撃した{{sfn|Bartlett|2011|p=131}}。[[心理学者]]のウィン・クレイグ・ウェイドはこれを、何世代にもわたり社会的地位が上の者にすべきことを命じられてきたため培われた「禁欲的受動性」によるものではないかと述べている{{sfn|Butler|1998|p=225}}。 |
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==== 最後の救命ボート ==== |
==== 最後の救命ボート ==== |
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[[File:Leaving the sinking liner.jpg|thumb|upright|15番 |
[[File:Leaving the sinking liner.jpg|thumb|upright|15番ボートはあやうく13番ボートの上に降ろされるところだった。(チャールズ・ディクソンによる絵).|alt=Painting of lifeboats being lowered down the side of Titanic, with one lifeboat about to be lowered on top of another one in the water. A third lifeboat is visible in the background.]] |
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[[File:Titanic signal.jpg|thumb|300px|left|1時40分頃にタイタニックの無線オペレーター、ジャック・フィリップスから[[ロシア]]の船である「ブリマ」に送信された遭難信号。これはタイタニックから送られた最後の解読可能な無線メッセージのひとつである。|alt=Image of a distress signal reading: "SOS SOS CQD CQD. MGY [Titanic]. We are sinking fast passengers being put into boats. MGY"]] |
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01:30までにタイタニックは水に向かって下に落ち、左舷にもう少し(最大5度を越えない程度)傾きつつあった。状況悪化は船から送られたメッセージにも反映された。01:25には「女性をボートにのせておろしている」、01:35には「エンジンルーム浸水」、01:45には「エンジンルームはボイラーまで満水」であった{{sfn|Ballard|1987|p=26}}。これはタイタニックから出た最後の解読できる信号で、船の電気系統がだめになりつつある時に送られた。続くメッセージはごちゃごちゃとして不完全であった。2人の無線オペレータはそれにもかかわらず遭難信号をほぼ最後の最後まで送り続けた{{sfn|Regal|2005|p=34}}。 |
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1時30分までに、タイタニックは前傾の角度を増して船首を沈めつつあり、左舷側にもそれよりわずかに大きく(5度を越えない程度)傾いていた。状況の悪化は船から送られたメッセージにも反映されている。1時25分には「女性をボートに乗せて降ろしている」、1時35分には「エンジンルーム浸水」、1時45分には「エンジンルームはボイラーまで満水」であった{{sfn|Ballard|1987|p=26}}。これはタイタニックが発信した、解読できる最後の信号で、船の電気系統が故障しつつある頃に送られた。続くメッセージはごちゃごちゃとして不完全であった。2人の無線オペレーターはそれにもかかわらず、遭難信号をほぼ最後の最後まで送り続けた{{sfn|Regal|2005|p=34}}。 |
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残っているボートは満員に近くまで人が乗り、だんだんと人々が殺到するようになった。11番ボートは指定積載人数より5人多い状態だった。おろす時に船から排出された水でほとんど水浸しになった。13番はかろうじて浸水を逃れたが、乗員が船をおろすためのロープからボートを離すことができなかった。13番は後ろに押し流され、そこは15番ボートが降りてくる真下であった。間に合うようロープが切られ、ボートは2隻とも無事に船から離れた{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=153}}。 |
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残ったボートには定員近くまで人が乗り、だんだんと人々が殺到するようになった。11番ボートは定員よりも5人超過しており、降ろす時に船から排出された水をかぶった。13番はかろうじて浸水を免れたが、乗員が船を降ろすためのロープから適切にボートを離すことができずに後ろに押し流され、そこに15番ボートが降りてきた。すんでのところでロープが切られ、ボートは2艘とも何とか無事に船から離れた{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=153}}。 |
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40名が乗っておろされていた左舷側の救命ボート14番に乗客の一団が殺到しようとした時がパニックの最初の兆候であった。ボートを担当していた五等航海士ハロルド・ロウが群衆をコントロールするために3回、空中で警告射撃をし、ケガ人が出なかった{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=154}}。16番ボートが5分後におろされた。客室係の[[ヴァイオレット・ジェソップ]]が乗っていたが、ジェソップは4年後、[[第一次世界大戦]]中にタイタニックの姉妹船である[[ブリタニック (客船・2代)|ブリタニック号]]の沈没を生き延びた際、同じ経験をすることとなった{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=155}}。デッキのほとんどの人々が船尾に移動していたため、折りたたみボートCは01:40に既にほぼ人がいなくなったデッキのエリアからおろされた。 ホワイト・スターの取締役であったJ・ブルース・イズメイがこのボートに乗って船から逃げており、のちにイズメイはタイタニックの最も物議をかもした生存者となり、その行動は卑怯だと断罪された{{sfn|Ballard|1987|p=26}}。 |
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40人が乗った左舷側の14番ボートに乗客の一団が殺到しようとした時がパニックの最初の兆候であった。ボートを担当していた五等航海士[[ハロルド・ロウ]]が群衆をコントロールするために3度、空に向けて警告射撃を行ったため、ケガ人は出なかった{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=154}}。5分後に降ろされた16番ボートに乗っていた客室係の[[ヴァイオレット・ジェソップ]]は4年後、[[第一次世界大戦]]中にタイタニックの姉妹船である[[ブリタニック (客船・2代)|ブリタニック]]の沈没から生き延びた際、同じ経験をすることとなった{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=155}}。1時40分には折りたたみボートCが降ろされた。このボートを降ろしたデッキは、ほとんどの乗客が船尾に移動していたためほぼ無人となっていた。ホワイト・スター・ラインの取締役であったJ・ブルース・イズメイはこのボートに乗って船から逃げ出し、のちにタイタニックの最も物議を醸した生存者として糾弾されている{{sfn|Ballard|1987|p=26}}。 |
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01:45に2番救命ボートが降ろされた{{sfn|Ballard|1987|p=222}}。ライトラーはこのボートにたくさんの男性が乗っているのを見て、「英語をしゃべる人々ではなかった{{sfn|Winocour|1960|p=296}} 」と述べている。[[リボルバー]]で脅してこの男性たちを立ち退かせた後、ライトラーはこのボートいっぱいに乗せるだけの女性と子どもを見つけることができなかった{{sfn|Winocour|1960|p=296}}。ライトラーは40人乗せられるボートに25人だけ乗せて降ろした{{sfn|Ballard|1987|p=222}}。ジョン・ジェイコブ・アスターは01:55に4番ボートで妻が安全に避難するのを見送ったが、60席中20席があいていたにもかかわらず、ライトラーは男性のアスターをボートに乗せなかった{{sfn|Ballard|1987|p=222}}。 |
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1時45分に2番ボートが降ろされた{{sfn|Ballard|1987|p=222}}。ライトラーはこのボートにたくさんの男性が乗っているのを見て、「英語を喋る人々ではなかった{{sfn|Winocour|1960|p=296}} 」と述べている。[[リボルバー]]で脅してこの男性たちを立ち退かせたが、ライトラーはこのボートを満たすだけの女性と子供を見付けることができなかった{{sfn|Winocour|1960|p=296}}。ライトラーは定員40人のボートに25人を乗せて降ろした{{sfn|Ballard|1987|p=222}}。ジョン・ジェイコブ・アスターは1時55分に4番ボートで妻が安全に避難するのを見送ったが、60席中20席が空いていたにもかかわらず、ライトラーは男性のアスターをボートに乗せなかった{{sfn|Ballard|1987|p=222}}。 |
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最後に進水したボートは折りたたみDで、25人を乗せて02:05に船を離れた<ref name="bright">{{cite web|url=http://www.titanicinquiry.org/USInq/AmInq09Bright01.php|title=Testimony of Arthur Bright|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref>。ボートがおろされる時にもう2人の男性が飛び乗った<ref>{{cite web|url=http://www.titanicinquiry.org/USInq/AmInq10Woolner01.php|title=Testimony of Hugh Woolner|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref>。海水がボートデッキにまで達しており、船首楼は水に深くつかっていた。一等船客イーディス・エヴァンズはボートに乗るのを諦めて結局亡くなったが、一等船室の女性で沈没により死亡したのは彼女を含め4名のみであった。スミス船長は最後にデッキをまわり、無線オペレータと他のクルーメンバーに「今や自分の身を守る時だ」と告げた{{sfn|Butler|1998|p=130}}。 |
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2時05分、最後に進水した折りたたみボートDは、25人を乗せて船を離れた<ref name="bright">{{cite web|url=http://www.titanicinquiry.org/USInq/AmInq09Bright01.php|title=Testimony of Arthur Bright|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref>。ボートが降ろされる時に2人の男性が飛び乗った<ref>{{cite web|url=http://www.titanicinquiry.org/USInq/AmInq10Woolner01.php|title=Testimony of Hugh Woolner|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref>。水がボートデッキにまで達しており、船首は深く水に浸かっていた。一等船客[[エディス・C・エヴァンズ|イーディス・エヴァンズ]]はボートに乗るのを諦めて結局亡くなったが、一等船客で沈没により死亡した女性は彼女を含め4名のみであった。スミス船長は最後にデッキをまわり、無線オペレーターと他のクルーに「今や自分の身を守る時だ」と告げた{{sfn|Butler|1998|p=130}}。 |
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乗客とクルーは船尾に向かったが、そこではトマス・バイルズ[[神父]]が[[懺悔]]を聴いて罪の赦しを与えていた。タイタニック号の楽団は体育室の外で演奏していた{{sfn|Butler|1998|p=135}}。タイタニック号は2つの別の楽団を抱えていた。ひとつはウォレス・ハートリー率いる五重奏団で、夕食後や宗教的な礼拝の際に演奏しており、一方もうひとつは三重奏団でレセプションエリアや[[カフェ]]、[[レストラン]]の外で演奏していた。2つの楽団はレパートリーもアレンジも異なっており、沈没の前には一緒に演奏したことがなかった。氷山との衝突後30分ほどしてから、2つの楽団はスミス船長の命で一等船室のラウンジで演奏をした。そこにいた乗客の記憶によると、楽団は「[[アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド]]」のような明るい曲を演奏していた。2人の[[ピアニスト]]がこの時楽団と一緒にいたかどうかはわかっていない。正確な時間は不明だが、音楽家たちは後でボートデッキのある階に移動し、そこで演奏した後デッキじたいに出ていった<ref name=Steph>{{cite book|last1=Barczewski|first1=Stephanie|title=Titanic: A Night Remembered|date=2006|publisher=[[A&C Black]]|isbn=9781852855000|pages=132–133}}</ref>。 |
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乗客とクルーは船尾に向かったが、そこでは[[トーマス・バイルズ]][[神父]]が[[懺悔]]を聴いて罪の赦しを与えていた。タイタニックの楽団は体育室の外で演奏していた{{sfn|Butler|1998|p=135}}。タイタニックは2つの楽団を抱えていた。一つはウォレス・ハートリー率いる五重奏団で、夕食後や宗教的な礼拝の際に演奏しており、もう一つは三重奏団でレセプションエリアやカフェ、レストランの外で演奏していた。2つの楽団はそれぞれレパートリーもアレンジも異なっており、沈没の前には一緒に演奏したことがなかった。氷山との衝突後30分ほどしてから、2つの楽団はスミス船長の命で一等船室のラウンジで演奏をした。そこにいた乗客の記憶によると、楽団は『[[アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド]]』のような明るい曲を演奏していた。2人のピアニストがこの時楽団と一緒にいたかどうかはわかっていない。正確な時刻は不明だが、音楽家たちは後にボートデッキのある階に移動し、そこで演奏した後、デッキに出ていった<ref name=Steph>{{cite book|last1=Barczewski|first1=Stephanie|title=Titanic: A Night Remembered|date=2006|publisher=[[A&C Black]]|isbn=9781852855000|pages=132–133}}</ref>。 |
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タイタニック号沈没にまつわる根強い伝説として、音楽家たちは船が沈む時に[[賛美歌]]「[[主よ御許に近づかん]]」を演奏していたというものがあるが、これは疑わしい{{sfn|Howells|1999|p=128}}。この主張は沈没の最初期の報告にも見うけられる{{sfn|Howells|1999|p=129}}。この賛美歌はタイタニック号事故にあまりにも密接に結びつけられているため、この最初の小節がタイタニック号の楽団長で亡くなった犠牲者のひとりであるウォレス・ハートリーの墓碑にも刻まれた{{sfn|Richards|2001|p=395}}。1934年にヴァイオレット・ジェソップは事故の回想でこの賛美歌が演奏されているのを聞いたと述べている{{sfn|Howells|1999|p=128}}。対照的に、アーチボルド・グレイシーは沈没直後にこれを強く否定する説明をしており、無線オペレータのハロルド・ブライドは[[ラグタイム]]の後で「秋」が演奏されているのを聞いたと述べた{{sfn|Richards|2001|p=396}}。これはアーチボルド・ジョイスによる当時人気のあった[[ワルツ]]「秋の夢」だったのかもしれない。救助にきたカルパチア号の楽団長で生存者とも話したジョージ・オレルは「主よ御許に近づかん」が演奏されていたと聞いたと述べている{{sfn|Turner|2011|p=194}}。グレイシーはデッキが沈む頃まで楽団の近くにいて、「明るい」曲を楽団が演奏していたがどれも聞き覚えのない曲であり、新聞に出てくるように「主よ御許に近づかん」が演奏されていればすぐ気付いたはずだと主張している {{sfn|Gracie|1913|p=20}}。船を最後に離れた者のうち、複数の生存者が楽団はデッキの傾斜が急になりすぎて立てなくなるまで演奏を続けたと述べているが、グレイシーは船が沈む遅くとも30分前には演奏をやめたと主張している。一等船客A・H・バックワースなどの乗客がこれを裏付ける証言をしている<ref name="Steph"/>。 |
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タイタニックの沈没にまつわる根強い伝説として、船が沈む時に、音楽家たちが賛美歌『[[主よ御許に近づかん]]』を演奏していたというものがあるが、これは疑わしい{{sfn|Howells|1999|p=128}}。この主張は沈没直後の報告にも見受けられる{{sfn|Howells|1999|p=129}}。この賛美歌はタイタニックの事故にあまりにも密接に結びつけられているため、この最初の小節が、タイタニックの楽団長で亡くなった犠牲者の1人であるハートリーの墓碑にも刻まれた{{sfn|Richards|2001|p=395}}。1934年にヴァイオレット・ジェソップは事故の回想で、この賛美歌が演奏されているのを聞いたと述べている{{sfn|Howells|1999|p=128}}。 |
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ブライドは無線キャビンを離れる時に楽団が演奏するのを聞いていたが、その頃までにはそのあたりは水につかっていた。もうひとりの無線オペレータ、ジャック・フィリップスも一緒にいた。ブライドによると、フィリップスの安全ベルトを盗もうとしていた男と一悶着があったという{{sfn|Winocour|1960|p=317}}。2人お無線オペレータは反対の方向に行き、フィリップスは船尾へ、ブライドは船首のほうにあった折りたたみ救命ボートBに向かった{{sfn|Winocour|1960|p=317}}。 |
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対照的に、アーチボルド・グレイシーは沈没直後にこれを強く否定する説明をしており、無線オペレーターのハロルド・ブライドは「ラグタイム」の後で『秋』が演奏されているのを聞いたと述べた{{sfn|Richards|2001|p=396}}。これは[[アーチボルド・ジョイス]]による当時人気のあった[[ワルツ]]の『秋の夢』だったのかもしれない。救助にきたカルパチアの楽団長で生存者とも話したジョージ・オレルは、『主よ御許に近づかん』が演奏されていたと聞いた、と述べている{{sfn|Turner|2011|p=194}}。グレイシーはデッキが沈むまで楽団の近くにいて、「明るい曲」を楽団が演奏していたが、どれも聞き覚えのない曲であり、新聞に出てくるように『主よ御許に近づかん』が演奏されていればすぐ気付いたはずだと主張している {{sfn|Gracie|1913|p=20}}。船を最後に離れた者のうち、複数の生存者が楽団はデッキの傾斜により立てなくなるまで演奏を続けたと述べているが、グレイシーは船が沈む遅くとも30分前には演奏をやめたと主張している。一等船客A・H・バックワースなどの乗客がこれを裏付ける証言をしている<ref name="Steph"/>。 |
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アーチボルド・グレイシーも船尾に向かったが、人の群れに阻まれた{{sfn|Winocour|1960|pp=138–9}}。数百人もの三等船客が、最後の救命ボートが出発する瞬間にデッキにとうとうたどり着いたのだ。グレイシーは船尾に向かうという考えをあきらめ、群衆から離れるため水に飛び込んだ{{sfn|Winocour|1960|pp=138–9}}。全く逃げようとしなかった者もいた。船の設計者であるトマス・アンドリューズは、報告によると一等船室の喫煙室で最後に目撃されており、安全ベルトは外して[[暖炉]]の上の絵を見つめていたという{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=155}}{{sfn|Chirnside|2004|p=177}}。スミス船長の運命については矛盾する死の報告があり、よくわかっていない。ブリッジの操舵室に入ってそこが水にのみこまれた時に亡くなったという証言と、ブリッジが沈む直前に水に飛び込み、その後おそらく折りたたみボートBの側で亡くなったという証言がある{{sfn|Bartlett|2011|p=224}}{{sfn|Ballard|1987|pp=40–41}}<ref>{{cite web|url=http://www.titanicinquiry.org/USInq/AmInq14Bride01.php|title=Testimony of Harold Bride at the US Inquiry|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.williammurdoch.net/mystery02_witness_18_widener.html|title=Mrs. Eleanor Widener, first class passenger|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://wormstedt.com/Titanic/shots/secondno.html|title=Shots in the dark|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.titanicresource.8m.com/cries.htm|title=Cries in the Night|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.titanic-lore.info/Capt-Smith.htm|title=Captain Edward John Smith|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref><ref name=ANTR>{{cite book|url=http://books.google.it/books?id=67R5gy-fZhEC&pg=PT87&lpg=PT87&dq=All+right+boys.+Good+luck+and+God+bless+you.+smith+collapsible+b&source=bl&ots=75VhmKWjyv&sig=_qgi4IC9UL-BKepA-lyaUdXsyf8&hl=it&sa=X&ei=quixUObGKo3V4QTl8IHwCA&ved=0CGoQ6AEwCA|title=A Night to Remember|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref>。 |
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=== 沈没の最後の瞬間(02:15–02:20) === |
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[[File:Nearer My God To Thee Titanic - no caption.png|thumb|「[[主よ御許に近づかん]]」(1912年のイラスト)|alt=Cartoon depicting a man standing with a woman, who is hiding her head on his shoulder, on the deck of a ship awash with water. A beam of light is shown coming down from heaven to illuminate the couple. Behind them is an empty davit.]] |
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02:15頃、デッキのハッチから船の浸水していなかった部分に水が入ってきたのにつれて、タイタニックの水に対する傾き角度は急速に増していった{{sfn|Barratt|2010|p=131}}。急に船が傾いていったため、生存者が「巨大波」と呼ぶものが生じ、ボートデッキの船首方向から船を水が覆って多くの人が海にのまれた{{sfn|Lynch|1998|p=117}}。首席航海士ヘンリー・ワイルド、一等航海士マードック、二等航海士ライトラー、アーチボルド・グレイシーを含む折りたたみボートAとBをおろそうとしていた人々は2隻のボートとともに水にのまれ、ボートBはハロルド・ブライドが下に押し込められたままの状態で逆さまに浮かび、ボートAは脇のキャンバスが立っていない状態で部分的に浸水してしまった。ブライド、グレイシー、ライトラーはボートBまでたどり着いたが、マードックとワイルドは海で亡くなった{{sfn|Gracie|1913|p=61}}{{sfn|Winocour|1960|p=316}}。 |
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ブライドは無線室を離れる時に楽団が演奏するのを聞いていたが、その頃までにはその付近は水に浸かっていた。もう1人の無線オペレーター、ジャック・フィリップスも一緒にいた。ブライドによると、フィリップスは自分の救命胴衣を奪おうとした男を打ち倒したところだったという{{sfn|Winocour|1960|p=317}}。2人の無線オペレーターはそれぞれ反対の方角に行き、フィリップスは船尾へ、ブライドは船首の方にあった折りたたみボートBに向かった{{sfn|Winocour|1960|p=317}}。 |
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ライトラーは増える群衆から逃げるため持ち場を離れることを選び、高級水夫区域の屋根から水に飛び込んだ。通風シャフトの入り口に吸い込まれたが「恐ろしい熱い爆風」ですっかり吹き飛ばされ、ひっくりかえった救命ボートの脇に浮かび上がった{{sfn|Winocour|1960|p=299}}。前方の煙突は自重で崩れ、水に落ちる時に数人をつぶしたが、ギリギリで救命ボートにはあたらなかった{{sfn|Barczewski|2006|p=28}}。 煙突はライトラーをかすめ、波が起こってボートが{{convert|50|yd}}ほど沈没船から遠くへ流された{{sfn|Winocour|1960|p=299}}。タイタニック号にまだ乗っていた人々は、強い圧力がかかって船が震えるのを感じた{{sfn|Lord|2005|p=166}}{{sfn|Gleicher|2006|p=229}}。 |
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グレイシーも船尾に向かったが、群衆に阻まれてしまった{{sfn|Winocour|1960|pp=138–9}}。数百人もの三等船客が、最後の救命ボートが出発する間際にデッキにたどり着いていた。グレイシーは船尾に向かうことをやめ、群衆から離れるため海に飛び込んだ{{sfn|Winocour|1960|pp=138–9}}。全く逃げようとしなかった者もいた。船の設計者であるアンドリューズは、報告によると一等船室の喫煙室で最後に目撃されており、救命胴衣は外してマントルピース上の絵を見つめていたという{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=155}}{{sfn|Chirnside|2004|p=177}}。スミス船長の最期については矛盾する報告があり、よくわかっていない。ブリッジの操舵室に入ってそこが水に呑みこまれた時に亡くなったという証言と、ブリッジが沈む直前に水に飛び込み、その後おそらく折りたたみボートBの側で亡くなったとする証言がある{{sfn|Bartlett|2011|p=224}}{{sfn|Ballard|1987|pp=40–41}}<ref>{{cite web|url=http://www.titanicinquiry.org/USInq/AmInq14Bride01.php|title=Testimony of Harold Bride at the US Inquiry|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.williammurdoch.net/mystery02_witness_18_widener.html|title=Mrs. Eleanor Widener, first class passenger|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://wormstedt.com/Titanic/shots/secondno.html|title=Shots in the dark|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.titanicresource.8m.com/cries.htm|title=Cries in the Night|publisher=|accessdate=6 October 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000919193532/http://www.titanicresource.8m.com/cries.htm|archivedate=2000-09-19}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.titanic-lore.info/Capt-Smith.htm|title=Captain Edward John Smith|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref><ref name=ANTR>{{cite book|url=https://books.google.it/books?id=67R5gy-fZhEC&pg=PT87&lpg=PT87&dq=All+right+boys.+Good+luck+and+God+bless+you.+smith+collapsible+b&source=bl&ots=75VhmKWjyv&sig=_qgi4IC9UL-BKepA-lyaUdXsyf8&hl=it&sa=X&ei=quixUObGKo3V4QTl8IHwCA&ved=0CGoQ6AEwCA|title=A Night to Remember|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref>。 |
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目撃者によると、船が水に落ちて傾くにつれてタイタニック号の船尾は空中に高くあがった。角度は30-45度ほどに達していたという{{sfn|Ballard|1987|p=202}}{{sfn|Beesley|1960|p=47}}。多くの生存者が大きな音を聞いており、これはボイラーの爆発によると考える者もいた{{sfn|Mowbray|1912|p=70}}{{sfn|Beesley|1960|p=47}}。少したってから船の灯りが一度点滅し、それを最後に切れてしまい、タイタニック号は完全に真っ暗になった。 |
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=== 沈没の最後の瞬間(2時15分–2時20分) === |
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[[File:Nearer My God To Thee Titanic - no caption.png|thumb|「[[主よ御許に近づかん]]」(1912年のイラスト)|alt=Cartoon depicting a man standing with a woman, who is hiding her head on his shoulder, on the deck of a ship awash with water. A beam of light is shown coming down from heaven to illuminate the couple. Behind them is an empty davit.]] |
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2時15分頃、デッキのハッチから、今まで浸水していなかった部分に水が入ってきたことで、タイタニックの水に対する傾き角度は急速に増していった{{sfn|Barratt|2010|p=131}}。急に船が傾いていったため、生存者が「巨大な波」と呼ぶ現象が生じ、ボートデッキの船首方向から船を水が覆っていき、多くの人が水に呑まれた{{sfn|Lynch|1998|p=117}}。首席航海士[[ヘンリー・ティングル・ワイルド|ヘンリー・ワイルド]]、一等航海士マードック、二等航海士ライトラー、グレイシーなど、折りたたみボートA・Bを降ろそうとしていた人々は、2艘のボートと共に水に呑まれ、ボートBはハロルド・ブライドが下に押し込められたままの状態で逆さまに浮かび、ボートAは脇のキャンバスが立っていない状態で部分的に浸水してしまった。ブライド、グレイシー、ライトラーはボートBまでたどり着いたが、マードックとワイルドは海で亡くなった{{sfn|Gracie|1913|p=61}}{{sfn|Winocour|1960|p=316}}。 |
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ライトラーは増える群衆から逃げるために持ち場を離れ、上級船員区域の屋根から水に飛び込んだ。通風シャフトの入り口に吸い込まれたが、「恐ろしい熱い爆風」ですっかり吹き飛ばされ、ひっくりかえった救命ボートの脇に浮かび上がった{{sfn|Winocour|1960|p=299}}。前方の煙突は自重で崩れ、水に落ちる時に数人をつぶしたが、救命ボートには当たらなかった{{sfn|Barczewski|2006|p=28}}。 煙突はライトラーをかすめ、立った波でボートが{{convert|50|yd}}ほど沈没船から遠くへ流された{{sfn|Winocour|1960|p=299}}。まだタイタニックに残っていた人々は、強い圧力がかかって船が震えるのを感じた{{sfn|Lord|2005|p=166}}{{sfn|Gleicher|2006|p=229}}。 |
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目撃者によると、船首が水に沈むにつれてタイタニックの船尾は空中に高く上がった。角度は30-45度ほどに達していたという{{sfn|Ballard|1987|p=202}}{{sfn|Beesley|1960|p=47}}。多くの生存者が大きな音を聞いており、これはボイラーの爆発によるものと考える者もいた{{sfn|Mowbray|1912|p=70}}{{sfn|Beesley|1960|p=47}}。少し経ってから船の灯りが一度明滅したのを最後にタイタニックは完全に真っ暗闇になった。 |
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[[File:Reuterdahl - Sinking of the Titanic.jpg|thumb|left|250px|ヘンリー・ロイテルダール「タイタニックの沈没」|alt=Painting of a sinking ship with a lifeboat being rowed away from it in the foreground.]] |
[[File:Reuterdahl - Sinking of the Titanic.jpg|thumb|left|250px|ヘンリー・ロイテルダール「タイタニックの沈没」|alt=Painting of a sinking ship with a lifeboat being rowed away from it in the foreground.]] |
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タイタニック |
タイタニックは反対の2方向から極端な力をかけられていた。浸水した船首は船を下に引っ張り、一方で空中に上がった船尾は船を海面に保とうとしていた。この2つの力が船の構造上最も弱い場所であるエンジン室ハッチのあたりに集中した。灯りが消えた直後、船体が折れた。浸水した船首は短期間、[[竜骨 (船)|竜骨]]で船尾に繋がっていたかもしれず、船尾を高角度で引っ張った後に離れて、船尾は数分長く浮いていた。船尾の前方はすぐさま浸水し、傾いた後に短い間止まったが、沈んだ{{sfn|Halpern|Weeks|2011|p=119}}{{sfn|Barczewski|2006|p=29}}<ref>{{cite web|url=http://channel.nationalgeographic.com/titanic-100-years/videos/titanic-sinking-cgi/|title=Titanic Sinking CGI|publisher=National Geographic Channel|accessdate=17 February 2016}}</ref>。船は2時20分、氷山衝突の2時間40分後に見えなくなった{{sfn|Ballard|1987|p=29}}。 |
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タイタニック |
タイタニックの事故から生還した航海士や多くの著名な生存者は、船はそのままのひとつながりの状態で沈んでいったと証言した。これは英米の災害調査でも裏付けられている{{sfn|Gracie|1913|p=58}}。しかしながらロバート・バラードによると、沈む時は既に2つに分かれていたという証言も多数ある{{sfn|Ballard|1987|p=201}}。今では、エンジンはボイラーの大部分と共にそのままの場所にあったことがわかっており、目撃者が聞いた「大きな音」と船尾の一瞬の落ち着きは、おそらく船の建材の緩みやボイラーの爆発によるものではなく、船が折れたために生じた{{sfn|Kuntz|1998|p=xiii}}。 |
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水に |
水面下に潜ってからたった数分のうちに船首と船尾は{{convert|3795|m|ft}}沈降し、吐き出された重機{{訳語疑問点|date=2023年7月}}、何トンもの[[石炭]]、内部から生じた大量の瓦礫がその後を追った。船の2つの部分は{{convert|600|m|ft}}離れてゆるやかに起伏している[[海底]]に落ちた{{sfn|Uchupi|Ballard|Lange|1986}}。流線型の船首部分は海面にあった時と同じような角度で沈下し続けて、推定{{convert|25|–|30|mph|km/h|abbr=on}}ほどの速さで舳先から浅い角度で海底に衝突した{{sfn|Ballard|1987|p=206}}。はずみで海底に深い穴ができ、堆積物の中に{{convert|20|m|ft}}ほど埋まった後急停止した。突然の減速のため、船首部分はブリッジのすぐ前あたりで多少曲がった。船首部分最後尾のデッキは折れた際に既に弱くなっており、次々と崩れた{{sfn|Ballard|1987|p=205}}。 |
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船尾部分はほぼ垂直に |
船尾部分はほぼ垂直に、おそらく回転しながら沈んでいった{{sfn|Ballard|1987|p=206}}。空のタンクとコファダム(タンク間にある、水や油の混ざりを防止するための空間)は降下につれて内側に破裂し、船に穴があいて[[船尾楼甲板]]が裂けた{{sfn|Butler|1998|p=140}}。船尾部分は強い力で海底に衝突し、[[舵]]の部分が{{convert|15|m}}ほど埋まった。デッキは互いに重なった状態で潰されて落ち、船殻の外壁は両側に広がった。沈没後も瓦礫が数時間海底に降り続けた{{sfn|Ballard|1987|p=205}}。 |
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=== 水中の乗客とクルー (2時20分–4時10分) === |
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== 1912年4月15日 == |
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[[File:Titanic watch.jpg|thumb|2時28分を指して止まっている、所有者不明の懐中時計|alt=Photograph of a brass pocket watch on a stand, with a silver chain curled around the base. The watch's hands read 2:28.]] |
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=== 水中の乗客とクルー (02:20–04:10) === |
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[[File:Titanic watch.jpg|thumb|2:28を指して止まっている、誰かは分からない事故犠牲者の懐中時計|alt=Photograph of a brass pocket watch on a stand, with a silver chain curled around the base. The watch's hands read 2:28.]] |
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沈没の結果として、数百名の乗客とクルーはすぐさま船の瓦礫に囲まれて冷たい海で死を待つだけの状態に置かれた。タイタニック |
沈没の結果として、数百名の乗客とクルーはすぐさま船の瓦礫に囲まれて冷たい海で死を待つだけの状態に置かれた。タイタニックが海底に降下しながら分解したため、木の梁、ドア、家具、パネルや隔壁に使われていたコルクなど瓦礫の塊が浮いて海面に急速に上がってきた。この瓦礫によって泳いでいた人々がケガをしたり、おそらく亡くなったりした。浮いているために瓦礫につかまった者もいた{{sfn|Butler|1998|p=139}}。 |
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海水はマイナス2℃という温度で、命に危険を及ぼす冷たさであった。二等航海士ライトラーは、海に入ると体に「1,000本ものナイフに突き刺されたように感じた」と述べている{{sfn|Butler|1998|p=140}}。[[循環器|循環器官]]への急激なストレスのため、[[心臓発作]]を起こしてほぼすぐに亡くなった人もいたと考えられる{{sfn|Aldridge|2008|p=56}}。最初はひどい震えがきて、体温が低下するとともに[[脈拍数|脈拍]]が遅く弱くなり、意識を失って死亡するという典型的な[[低体温症]]が進行していった人もいた{{sfn|Aldridge|2008|p=56}}。救命ボートに乗っていた人々は、海に落ちた人々の苦しみの声にひどく脅え、大きなショックを受けた{{sfn|Barratt|2010|pp=199–200}}{{sfn|Barratt|2010|p=177}}。 |
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[[File:Gracie.jpg|thumb|left|upright|アーチボルド・グレイシーは折りたたみ |
[[File:Archibald Gracie IV.jpg|thumb|left|upright|[[アーチボルド・グレーシー4世|アーチボルド・グレイシー]]は折りたたみボートBにたどり着いた生存者の1名であった。しかしながらこの災難から回復することはできず、沈没の8か月後に亡くなった。|alt=Photograph of a moustached middle-aged man in a dark suit and waistcoat, sitting in a chair while looking at the camera]] |
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水中にいた人の中で助かったのはごくわずかであった。アーチボルド・グレイシー、ジャック・セイヤー、チャールズ・ライトラー |
水中にいた人の中で助かったのはごくわずかであった。そのうち、アーチボルド・グレイシー、ジャック・セイヤー、チャールズ・ライトラーの3名は、ひっくり返った折りたたみボートBにたどり着いた。折りたたみボートBには12人ほどのクルーが上り、出来る限り救出を行ったが、35人の男性がひっくり返った船殻に不安定にしがみついた。周りで多数の人が泳いでいたためにボートが浸水する危険があることに気付き、ボート上の人々は、乗せてくれと言いながら泳ぐ何十人もの人々の願いを無視してゆっくり漕いでその場を離れた{{sfn|Gracie|1913|p=89}}。おそらく20人以上の人々が泳いで折りたたみボートAにたどり着いたが、側面がきちんと立てられていなかったため部分的に浸水していた。このボートに乗った人々は、浸水した極めて冷たい水の中に足を突っ込んだまま何時間も座って待たねばならず、その夜のうちに多くの人が低体温症で死亡した{{sfn|Bartlett|2011|p=224}}。 |
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さらに遠いところでは、他の18艘の救命ボートがいた(そのほとんどには空席があった)が、泳いでいる人々を救助するために何をすべきか乗船者同士で議論しながら漂い続けていた。4番ボートは沈没現場から50メートルほど離れた場所に留まっており、沈没箇所の最もそばにいた。このため、船が沈む前に2人がボートに飛び降り、さらにもう1人を海から拾うことができた<ref>{{cite web|url=http://www.titanicinquiry.org/BOTInq/BOTInq05Ranger01.php|title=Testimony of Thomas Ranger|publisher=|accessdate=6 October 2014}}</ref>。 |
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20分ほどたって、泳いでいる者たちは意識を失って死んでいったため、叫びは消え始めた{{sfn|Bartlett|2011|p=228}}。14番救命ボートに乗っていた五等航海士ロウは叫びがおさまってから水中の人々の救出に向かった{{sfn|Bartlett|2011|p=230}}。5隻の救命ボートを集め、乗船者を移して14番に空きを作った。ロウは7人のクルーと助けを申し出たボランティアの男性客ひとりを集めて沈没した場所に漕ぎ戻った。これには45分ほどかかった。14番救命ボートが沈没箇所に戻った頃には、水中の者はほぼ皆亡くなり、声はわずかしか聞こえなかった{{sfn|Butler|1998|pp=144–5}}。ロウのクルーは4人の男性がまだ生きているのを見つけたが、そのうち1人は直後に亡くなった。 |
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沈没後に7人を海から引き上げたが、2人は後に死んでしまった。折りたたみボートDは降ろされた直後、海に飛び込んでボートまで泳いだ男性乗客を救助した。残りのボートは転覆を恐れ、戻らないことに決めた。もっとぶっきらぼうに反対した者もいた。6番ボートを指揮していた操舵員[[ロバート・ヒッチェンス|ヒッチェンス]]は自分のボートに乗っている女性たちに、「あそこにはたくさんの死体があるだけ」だから戻っても無駄だと言った{{sfn|Bartlett|2011|pp=226–7}}。 |
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他のボートでは、救助船が来るのを待つ以外、生存者は何もできなかった。刺すような寒さで、水をかぶったボートもあった。生存者はボートにまったく食べものや飲み水がないと知り、また灯りもほとんどなかった{{sfn|Bartlett|2011|p=232}}。折りたたみボートBでは状況がとくに悪く、この船はひっくりかえった船殻にあいたエアポケットを埋めることでようやく浮いているというような様子であった。夜明けが地が付くと風が起こり、海がどんどん荒れるようになり、折りたたみボートの人々はバランスのため立たねばならなくなった。災難に疲れ果て、海に落ちて溺れた者もいた{{sfn|Bartlett|2011|p=231}}。残った者たちにも、打ち寄せる波のせいで船殻でバランスをとるのがどんどん難しくなっていった{{sfn|Bartlett|2011|p=238}}{{sfn|Gracie|1913|p=161}}。泳いで折りたたみボートAにたどり着いた者の中には乗るだけの体力が残っていなかった者もおり、ボートの脇につかまるしかなかった。夜の間に亡くなった人々の死体の多くは、生存者の場所をあけるため海に落とされた。 |
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20分ほどたって、泳いでいる者たちは意識を失っていったため、叫びは消え始めた{{sfn|Bartlett|2011|p=228}}。14番ボートに乗っていた五等航海士ロウは叫びが収まってから水中の人々の救出に向かった{{sfn|Bartlett|2011|p=230}}。5艘の救命ボートを集め、乗船者を移して14番に空きを作った。ロウは7人のクルーとボランティアの男性客1人を集めて、沈没した場所に漕ぎ戻った。これには45分ほどかかった。14番ボートが沈没箇所に戻った頃には、水中の者はほぼ皆亡くなり、声はわずかしか聞こえなかった{{sfn|Butler|1998|pp=144–5}}。ロウのクルーは4人の男性がまだ生きているのを見つけたが、そのうちの1人は直後に亡くなった。 |
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=== '''救助と出発 (04:10–09:15)''' === |
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[[File:Titanic lifeboat.jpg|thumb|1912年4月15日の朝にカルパチア号から撮影された折りたたみボートD|alt=Photograph of a lifeboat, filled with people wearing life jackets, being rowed towards the camera.]] |
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他のボートでは、救助船が来るのを待つ以外、生存者は何もできなかった。刺すような寒さで、浸水したボートもあった。生存者はボートにまったく食べものや飲み水がないと知り、また灯りもほとんどなかった{{sfn|Bartlett|2011|p=232}}。折りたたみボートBは状況が特に悪く、ひっくり返った船体の裏で少しずつ小さくなっていくエアポケットのおかげで浮いているというような有様であった。夜明けが近づくと風が起こり、海がどんどん荒れるようになったため、折りたたみボートの人々はバランスを保つために立たねばならなくなった。苦難に疲れ果て、海に落ちて溺れた者もいた{{sfn|Bartlett|2011|p=231}}。残った者たちにとっても、波をかぶりながら船殻でバランスを取ることが困難になっていった{{sfn|Bartlett|2011|p=238}}{{sfn|Gracie|1913|p=161}}。泳いで折りたたみボートAにたどり着いた者の中には、ボートの上に登るだけの体力が残っていなかった者もおり、ボートの脇につかまるしかなかった。夜の間に亡くなった人々の遺体の多くは、生存者の場所を空けるため海に落とされた。 |
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タイタニック号の生存者は4月15日の04:00頃にカルパチア号によって救助された。蒸気船カルパチアは途中で多数の氷山をよけなければならない中、最高速でかなりの危険を冒してやってきた{{sfn|Bartlett|2011|p=238}}。カルパチア号の灯りは03:30頃にはじめて目撃され、このせいで生存者の士気が非常に上がったが、全員がこれに乗り込むまでにはさらに何時間もかかった{{sfn|Bartlett|2011|p=238}}。折りたたみボートBに乗っていた30人超の人々は結局他の2つの救命ボートに乗り込むことができたが、移動がすむ直前に生存者がひとり亡くなった{{sfn|Bartlett|2011|pp=240–1}}。折りたたみボートAでも問題が起こっており、ほとんど波に洗われたも同前の状態であり、かなり多く、おそらくは半分以上の乗船者がその夜のうちに亡くなった{{sfn|Butler|1998|p=140}}。残った生存者の数は不明で、10-11人から20人以上の間くらいの数の男性とひとりの女性と考えられているが、折りたたみボートAから他の救命ボートに移動した。折りたたみボートAには3名の死体が残り、浮かんで漂うままに残された。一ヶ月後、死体がまだ乗っている状態でホワイト・スター・ラインの船オーシャニック号に発見された{{sfn|Bartlett|2011|pp=240–1}}。 |
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=== 救助と出発 (4時10分–9時15分) === |
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カルパチア号に乗っていた人々は、日の出とともに目撃した氷だらけの海の光景に大変驚いた{{sfn|Bartlett|2011|p=242}}。カルパチア号のアーサー・ロストロン船長は、{{convert|200|ft|m}}以上ある20もの大きな氷山に多数の小さな氷山、浮氷、タイタニックの瓦礫からなる氷だらけの海を目撃した{{sfn|Bartlett|2011|p=242}}。カルパチアの乗客には、自分たちの船が大きな白い氷原のど真ん中にいて、遠くから丘のように見える氷山が点在しているように見えたという{{sfn|Bartlett|2011|p=245}}。 |
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[[File:Titanic lifeboat.jpg|thumb|1912年4月15日の朝にカルパチアから撮影された折りたたみボートD。|alt=Photograph of a lifeboat, filled with people wearing life jackets, being rowed towards the camera.]] |
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タイタニックの生存者は、4月15日の4時00分頃にカルパチアによって救助された。カルパチアは多数の氷山を避けつつ、最高速でかなりの危険を冒してやってきた{{sfn|Bartlett|2011|p=238}}。3時30分頃、カルパチアの船灯がはじめて目撃されてからは生存者の士気が非常に上がったが、全員がカルパチアに乗り込むまでにはさらに何時間もかかった{{sfn|Bartlett|2011|p=238}}。 |
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救命ボートがカルパチア号のそばに動き、生存者はさまざまなやり方でカルパチア号に乗った。ロープばしごをのぼれる体力がある者もいたが、他の者は吊り索で持ち上げられ、子どもは郵便袋で持ち上げた{{sfn|Butler|1998|p=154}}。最後に船にたどり着いた救命ボートはライトラーの12番救命ボートで、設計では65人乗れるところ74名乗っていた。9:00までには全員カルパチア号に乗った{{sfn|Butler|1998|p=156}}。家族や友人が再会して喜ぶ場面もあったが、ほとんどの場合は親しい者が見つからずに希望が潰えることとなった{{sfn|Butler|1998|p=155}}。 |
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折りたたみボートBに乗っていた30人以上の人々は結局他の2つの救命ボートに乗り込むことができたが、移乗が済む直前に1人が亡くなった{{sfn|Bartlett|2011|pp=240–1}}。折りたたみボートAでも問題が起こっていた。ほとんど波に洗われたも同然の状態であったため、かなり多く、おそらくは半分以上の乗船者がその夜のうちに亡くなった{{sfn|Butler|1998|p=140}}。残った生存者の数は不明で、10~11人から20人以上の間くらいの数の男性と、1人の女性と考えられているが、折りたたみボートAから他の救命ボートに移動した。折りたたみボートAには3人の遺体が残り、海に浮かんで漂うままに残された。1か月後、遺体がまだ乗っている状態でホワイト・スター・ラインの船「オーシャニック」に発見された{{sfn|Bartlett|2011|pp=240–1}}。 |
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09:15にもう2隻、マウント・テンプル号とカリフォルニアン号が到着した。カリフォルニアン号は無線オペレータが仕事に戻った時にやっと事故を知っていた。しかしながらこの頃までには既に救助が必要な生存者はいなくなっていた。カルパチア号は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[フィウメ]](現在の[[クロアチア]]の[[リエカ]])に行く予定であったが、生存者に提供する備蓄も医療設備もなかったため、ロストロンは生存者が適切な保護を受けられそうな場所であるニューヨークへ戻る航路を計算するよう命じた{{sfn|Butler|1998|p=156}}。カルパチア号は現場を出て、他の船は最後に2時間捜索を行ったが成果はなかった{{sfn|Butler|1998|p=157}}{{sfn|Bartlett|2011|p=255}}。 |
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カルパチアに乗っていた人々は、日の出とともに目撃した氷だらけの海の光景に大変驚いた{{sfn|Bartlett|2011|p=242}}。カルパチアのアーサー・ロストロン船長は、{{convert|200|ft|m}}以上ある20もの大きな氷山と多数の小さな氷山、浮氷、タイタニックの瓦礫からなる氷だらけの海を目撃した{{sfn|Bartlett|2011|p=242}}。カルパチアの乗客には、自分たちの船は大きな白い氷原のど真ん中にいて、遠くには丘のような氷山が点在しているように見えたという{{sfn|Bartlett|2011|p=245}}。 |
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==その後== |
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[[File:Carpathia rescue survivor (postcard).jpg|200px|right|thumb|カルパチアの救助(絵葉書)]] |
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救命ボートがカルパチアのそばに寄り、生存者はさまざまな方法でカルパチアに乗った。ロープばしごを登る体力がある者もいたが、そうでない者は吊り索で、子供は郵便袋で引き上げられた{{sfn|Butler|1998|p=154}}。最後に船にたどり着いたのはライトラーの12番ボートで、定員65人に対し74人も乗っていた。この最後の生存者たちも9時00分までには全員カルパチアに移った{{sfn|Butler|1998|p=156}}。助かった者たちには家族や友人と再会を果たす場面もあったが、ほとんどの場合は親しい者を見つけられずに、希望が潰えることとなった{{sfn|Butler|1998|p=155}}。 |
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9時15分にもう2隻、マウント・テンプルとカリフォルニアンが到着した。カリフォルニアンは無線オペレーターが仕事に戻った時にやっと事故を知った。しかしながらこの頃までには既に救助が必要な生存者はいなくなっていた。カルパチアは[[オーストリア=ハンガリー帝国]]のフィウメ(現在の[[クロアチア]]の[[リエカ]])に行く予定であったが、生存者に提供する備蓄も医療設備もなかったため、ロストロン船長は、生存者が適切な保護を受けられそうな場所であるニューヨークへ戻る航路を検討するよう命じた{{sfn|Butler|1998|p=156}}。カルパチア号は現場を出て、他の船は最後に2時間捜索を行ったが、成果はなかった{{sfn|Butler|1998|p=157}}{{sfn|Bartlett|2011|p=255}}。 |
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== その後 == |
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=== 嘆きと怒り === |
=== 嘆きと怒り === |
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[[File:Arrival of the ship of sorrow.jpg|thumb|left|目撃者の報告によると、タイタニック |
[[File:Arrival of the ship of sorrow.jpg|thumb|left|目撃者の報告によると、タイタニックの生存者がニューヨークで下船した際に「多くの悲しい場面」が見受けられた。|alt=A man wearing a bowler hat and a woman in a shawl embrace among a crowd of people standing in a wooden building]] |
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カルパチア |
沈没事故から3日後、4月18日の夕方にタイタニックの乗客乗員を収容した[[カルパチア (客船)|カルパチア]]が叢氷、[[霧]]、[[雷雨]]、[[時化]]などに見舞われる多難な航海を経て、ニューヨークの54番埠頭に到着した{{sfn|Bartlett|2011|p=266}}{{sfn|Lord|1976|pp=196–7}}。波止場には各船舶からの無線報告で沈没事故を知らされていた40,000人もの群衆が集まっていた。事故の全貌が一般にも知られるようになったのはこの後であった{{sfn|Lord|1976|pp=196–7}}。 |
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カルパチアがニューヨークに着く前から、遺体を回収するための努力が続けられていた。ホワイト・スター・ラインにチャーターされた4隻の船が328体の遺体を発見し、119体は[[水葬]]され、残る209体は[[カナダ]]、[[ノバスコシア州]][[ハリファックス]]の港に持ち帰られた{{sfn|Bartlett|2011|p=266}}。150体はここに埋葬された{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=235}}。ニューヨーク、ワシントン、サウサンプトン、[[リヴァプール]]、ベルファスト、リッチフィールドなど、さまざまな場所に記念碑が建てられた{{sfn|Eaton|Haas|1994|pp=296–300}}。大西洋の両岸で死者を追悼し、生存者を支援するための資金を募るセレモニーが行われた{{sfn|Eaton|Haas|1994|pp=293–5}}。タイタニックの犠牲者の遺体のほとんどは発見できず、73年後に海底の瓦礫の中から死の証拠とされるものが見つかっただけであった。靴が1足揃えて置いてあるのが海底で見つかり、遺体が分解されるまでそこにあったことが推測される{{sfn|Ballard|1987|p=25}}。 |
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世間の事故への反応はショックと憤りであり、それらは多くの事柄や人物に向けられた。なぜ乗客・乗員数に見合う数の救命ボートを載せていなかったのか、なぜ他の人々が多数亡くなったのにイズメイは自分の命を救ったのか、なぜタイタニックは氷原を最高速度で進んでいたのか、といったものである{{sfn|Björkfors|2004|p=59}}。生還者も少なからず義憤を感じていた。カルパチアでニューヨークへ向かう道すがら、ローレンス・ビーズリーやその他の者たちは海上保安のための啓発活動をすると心に決めており、「[[タイムズ]]」宛てに海事安全法規の改正を訴える公開書簡を書いた{{sfn|Beesley|1960|p=81}}。 |
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カルパチア号がニューヨークに着く前も、死体を取り戻すための努力が続けられていた。ホワイト・スター・ラインにチャーターされた4隻の船が328体の死体を発見し、119体は[[水葬]]され、残る209体は[[カナダ]]、[[ノヴァスコシア州]][[ハリファックス]]の港に持ち帰られた{{sfn|Bartlett|2011|p=266}}。150体はここに埋葬された{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=235}}。ニューヨーク、ワシントン、サウサンプトン、[[リヴァプール]]、ベルファスト、リッチフィールドなどいろいろな場所に記念碑が建てられた{{sfn|Eaton|Haas|1994|pp=296–300}}。大西洋の両側で死者を追悼し、生存者を助ける資金を募るセレモニーが行われた{{sfn|Eaton|Haas|1994|pp=293–5}}。タイタニック号の犠牲者の死体のほとんどは発見されず、73年後に海底の瓦礫の中から死の証拠となるものが見つかっただけであった。靴が一足そろえて置いてあるのが見つかり、死体が分解してしまうまではそこにあったことなどが推測される{{sfn|Ballard|1987|p=25}} |
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タイタニックに縁のあった場所でも大変嘆きが深かった。サウサンプトンは699名のクルーの母港であり、多数の乗客の故郷でもあった{{sfn|Barczewski|2006|p=266}}。愛する人々の死の知らせを聞いたクルーの親族などからなる女性たちは、泣いてサウサンプトンのホワイト・スター・ライン事業所の外に押しかけた{{sfn|Butler|1998|p=173}}{{sfn|Bartlett|2011|p=264}}。ベルファストの教会は人で溢れ、造船所の職員たちが通りに出て泣いていたという。タイタニックはベルファストの工業発展の象徴であり、造船に携わった人たちは自分たちにも事故について何かしらの責任があるのではないかと感じていたため、嘆きだけではなく罪の意識もあった{{sfn|Barczewski|2006|pp=221–2}}。 |
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一般に広く見られた事故への反応はショックと怒りであり、多くのことがらや人物に向けられた。なぜこんなに少ない救命ボートしか乗せていなかったのか、なぜ他の人々が多数亡くなったのにイズメイは自分の命を救ったのか、なぜタイタニック号は氷原を最高速度で進んでいたのか、などといったものである{{sfn|Björkfors|2004|p=59}}。生存者自身も少なからず怒りにかられていた。カルパチア号でニューヨークに変える途中ですら、ローレンス・ビーズリーその他の生存者たちは海の安全のための啓発活動をすると決めており、『[[タイムズ]]』あてに海事安全法規の改正を訴える公開書簡を書いた{{sfn|Beesley|1960|p=81}}。 |
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[[アーネスト・ベルフォート・バックス|アーネスト・バックス]]は『フェミニズムの詐欺』(1913)で[[ウィメン・アンド・チルドレン・ファースト|騎士道]]を「男性を犠牲にして女性に特権を与えるために、最も基本的な個人的権利を男性から奪い取ること」だと述べ、沈没事故時に行われた[[レディーファースト]]と男性を救助しなかったことを批判した<ref>{{cite book | last = Bax | first = E. Belfort | title = The fraud of feminism | url = https://archive.org/details/fraudoffeminism00baxerich | publisher = Grant Richards Ltd | location = London | year = 1913 | oclc = 271179371 }}</ref>。 |
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タイタニック号と強い結びつきのあった場所では大変嘆きが深かった。サウサンプトンは699名のクルーの母港であり、多数の乗客の故郷でもあった{{sfn|Barczewski|2006|p=266}}。愛する人々の死の知らせをきいたクルーの妻、姉妹、母などからなる女性たちは、泣いてサウサンプトンのホワイト・スター・ライン事業所の外に押しかけた{{sfn|Butler|1998|p=173}}{{sfn|Bartlett|2011|p=264}}。ベルファストでは教会がいっぱいになり、造船所の職員たちが通りに出て泣いていたという。船はベルファストの工業発展の象徴であり、タイタニック号を建造した人々は自分たちにも事故についてなにがしかの責任があるのではないかと感じていたため、嘆きだけではなく罪の意識もあった{{sfn|Barczewski|2006|pp=221–2}}。 |
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=== 調査と法的措置 === |
=== 調査と法的措置 === |
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[[File:Time To Get Busy - no caption.png|thumb|"Fisher"による''"Time to get busy"'' 、1912年。事故に対する一般の人々の怒り |
[[File:Time To Get Busy - no caption.png|thumb|"Fisher"による''"Time to get busy"'' 、1912年。事故に対する一般の人々の怒りを受け、政治家たちは船舶業界に新しい法規制を敷くことにした。|alt=Cartoon of Uncle Sam taking hold of a ship's wheel marked "Navigation Laws" and saying, "By ginger, I'll take a firmer grip on this business hereafter." At his feet is a paper reading "Ragged marine regulations". A worried-looking man in a top hat marked "Steamship Magnate" looks on. In the distant background a ship can be seen sinking.]] |
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沈没の後、イギリスとアメリカ合衆国で公的調査が行われた。アメリカ |
沈没の後、イギリスとアメリカ合衆国で公的調査が行われた。アメリカの調査は、ウィリアム・オールデン・スミス上院議員を議長として4月19日に始まった{{sfn|Butler|1998|p=181}}。イギリスのロンドンでも1912年5月2日に初代[[マージー子爵]]{{仮リンク|ジョン・ビンガム_(初代マージ―子爵)|label=ジョン・ビンガム|en|John_Bigham,_1st_Viscount_Mersey}}のもとで調査が始まった{{sfn|Butler|1998|p=192}}。どちらの調査も大方同じような結論に至ったが、それは以下のようなものであった |
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* 船が積まねばならない救命ボートの数についての規制は時代遅れで不適切だと見なされた{{sfn|Butler|1998|p=195}}。 |
|||
* スミス船長は氷山の警告に適切な注意を払っていなかったと考えられる{{sfn|Butler|1998|p=189}}。 |
|||
* 救命ボートへの適切な乗船と人員配置が行われていなかった。 |
|||
* 衝突は蒸気船が危険区域をあまりにも高速で航行したことが直接の原因であった{{sfn|Butler|1998|p=195}}。 |
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* カリフォルニアンのロード船長は、タイタニックを支援しなかったことで、調査において強く批判された{{sfn|Butler|1998|pp=191, 196}}。 |
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英米どちらの調査においても、国際海運商事(親会社)やホワイト・スター・ライン(タイタニックの所有者)による[[過失]]は原因と認められなかった。アメリカの調査では、関係者は通常の慣行に従っており、事故は「不可抗力」としか言えないものであろうと述べた{{sfn|Barczewski|2006|p=67}} 。イギリスの調査では、スミスは今までは危険と見なされていなかった長きにわたる慣行に従い、他の人々でも行うようなことをしていただけだと述べた{{sfn|Lynch|1998|p=189}}。この調査では、イギリスの船舶は過去10年で73人の命しか失わずに350万人もの乗客を輸送してきたことについて着目していた{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=265}}。イギリスの調査では、タイタニック号で起こった「誤り」が将来も繰り返されたなら、「過失」として扱われることになるであろうという警告も行った{{sfn|Lynch|1998|p=189}}。 |
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この大事故により、海事法規について新しい安全対策を施行するよう大きな改正が行われた。もっと多くの救命ボートを確実に搭載すること、救命ボート訓練が適切に行われること、乗客のいる船の無線機には24時間スタッフをつけることなどである{{sfn|Eaton|Haas|1987|p=109}}。国際海氷パトロールが北大西洋の氷山の有無をモニターするために組織され、海事安全規則は[[海上における人命の安全のための国際条約]]によって国際的に統一された。双方ともに今日でも実施されている方策である{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=310}}。 |
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どちらの調査においても、国際海運商事(親会社)やホワイト・スター・ライン(タイタニックの所有者)による[[過失]]は原因と認められなかった。アメリカの調査は、関係者は通常の慣行に従っており、事故は「不可抗力」としか言えないものであろうと述べた{{sfn|Barczewski|2006|p=67}} 。イギリスの調査は、スミスは今までは危険と見なされていなかった長きにわたる慣行に従い、他の人々でも行うようなことをしていただけだと述べた{{sfn|Lynch|1998|p=189}}。この調査は、イギリスの船舶は過去十年で73人の命しか失わずに350万人の乗客を輸送してきたことに着目していた{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=265}}。イギリスの調査は、タイタニック号で起こった「誤り」は将来、「過失」として扱われることになるであろうという警告も行った{{sfn|Lynch|1998|p=189}}。 |
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=== 文化的影響と沈没船の残骸 === |
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この大事故のせいで海事法規について、新しい安全対策を施行するよう大きな改正が行われた。もっと多くの救命ボートを確実に搭載すること、救命ボート訓練が適切に行われること、乗客のいる船の無線機には24時間スタッフをつけることなどである{{sfn|Eaton|Haas|1987|p=109}}。国際海氷パトロールが北大西洋の氷山の有無をモニターするために設立され、海事安全規則は[[海上における人命の安全のための国際条約]]によって国際的に統一された。双方ともに今日でも実施されている方策である{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=310}}。 |
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[[File:Titanic wreck bow.jpg|2004年6月に撮影された海底に沈んでいるタイタニック号の船首部分。腐食しているのが見て取れる。|thumb]] |
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タイタニックの沈没は文化現象となり、沈没直後から現在まで、芸術家、映画作家、作家、作曲家、音楽家、ダンサーによりこれを記念する作品が作られてきた{{sfn|Foster|1997|p=14}}。[[1985年]][[9月1日]]には、ロバート・バラード率いるアメリカと[[フランス]]の合同遠征隊が、海底でタイタニックの残骸を発見した{{sfn|Ballard|1987|p=82}}。 |
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船の再発見により、タイタニックの物語に対する関心が爆発した{{sfn|Bartlett|2011|p=332}}。残骸の撮影や遺物のサルベージなども論議を生んだ{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=310}}。再発見された遺物の最初の大きな展示会は、ロンドンの[[国立海事博物館 (イギリス)|国立海事博物館]]で、[[1994年]]から[[1995年]]にかけて行われた{{sfn|Portman 12 November 1994}}。 |
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=== 文化的影響と難破の残骸 === |
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[[File:Titanic wreck bow.jpg|難破したタイタニックの姿|thumb]] |
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[[1997年]]に[[ジェームズ・キャメロン]]監督の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』が、史上初めて興行収入10億[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]を超えた映画となり、映画のサウンドトラックも、史上最も売れたサウンドトラックとなった{{sfn|Parisi|1998|p=223}}。 |
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残骸は腐食を続けている{{sfn|McCarty|Foecke|2012|pp=196–199}}。最 |
残骸は、現在も腐食を続けている{{sfn|McCarty|Foecke|2012|pp=196–199}}。最終的にはタイタニック号の船体は崩れて、海底にサビの断片が散らばるだけになり、残った船殻のスクラップは、もっと長持ちするプロペラスクリュー、ブロンズの車地、コンパス、テレモーターなどのような備品類と混ざってしまうと考えられる{{sfn|Butler|1998|p=235}}。 |
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== |
== 犠牲者と生存者 == |
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=== 内訳 === |
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最終的にキャンセルした人や、様々な理由により偽名を使っている人は被害者リストに重複して数えられているため、乗客リストが混乱している。沈没の被害者数は不透明である。死者数は1490人から1635人と見積もられている。以下の数字はこの災害についてイギリス商務省が報告したものである。 |
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出航直前の乗船キャンセルによって乗客リストが混乱していることや、様々な理由により偽名を使って乗船した人が犠牲者リストに重複して数えられていることなど、いくつかの要因のため沈没による被害者数は正確にはわかっていない。死者数は1,490人から1,635人と見積もられている。下表の数字は、この災害についてイギリス商務省が報告したものである。 |
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{| class="wikitable plainrowheaders sortable" style="margin: 1em auto; text-align: right;" |
{| class="wikitable plainrowheaders sortable" style="margin: 1em auto; text-align: right;" |
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|- |
|- |
||
! scope="col" |割合 |
|||
! scope="col" |分類 |
! scope="col" |分類 |
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! scope="col" |乗 |
! scope="col" |搭乗者種別 |
||
! scope="col" | |
! scope="col" |搭乗者数 |
||
! scope="col" | |
! scope="col" |搭乗者比率 |
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! scope="col" | |
! scope="col" |生存者数 |
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! scope="col" | |
! scope="col" |犠牲者数 |
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! scope="col" | |
! scope="col" |生存割合(分類別) |
||
! scope="col" | |
! scope="col" |死亡割合(分類別) |
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! scope="col" | |
! scope="col" |生存割合(全搭乗者) |
||
! scope="col" |死亡割合(全搭乗者) |
|||
|- |
|- |
||
! scope="row" | 子供 |
! scope="row" rowspan="4" | 子供 |
||
|一等船 |
|一等船客 |
||
| 6 |
| 6 |
||
| 0.3% |
| 0.3% |
||
290行目: | 318行目: | ||
| 0.04% |
| 0.04% |
||
|- |
|- |
||
|二等船客 |
|||
! scope="row" |子供 |
|||
|二等船室 |
|||
| 24 |
| 24 |
||
| 1.1% |
| 1.1% |
||
301行目: | 328行目: | ||
| 0% |
| 0% |
||
|- |
|- |
||
|三等船客 |
|||
! scope="row" |子供 |
|||
|三等船室 |
|||
| 79 |
| 79 |
||
| 3.6% |
| 3.6% |
||
312行目: | 338行目: | ||
| 2.4% |
| 2.4% |
||
|- |
|- |
||
|計 |
|||
! scope="row" |子供 |
|||
|合計 |
|||
| 109 |
| 109 |
||
| 4.9% |
| 4.9% |
||
323行目: | 348行目: | ||
| 2.4% |
| 2.4% |
||
|- |
|- |
||
! scope="row" |女性 |
! scope="row" rowspan="5" |女性 |
||
|一等船 |
|一等船客 |
||
| 144 |
| 144 |
||
| 6.5% |
| 6.5% |
||
334行目: | 359行目: | ||
| 0.2% |
| 0.2% |
||
|- |
|- |
||
|二等船客 |
|||
! scope="row" |女性 |
|||
|二等船室 |
|||
| 93 |
| 93 |
||
| 4.2% |
| 4.2% |
||
345行目: | 369行目: | ||
| 0.6% |
| 0.6% |
||
|- |
|- |
||
|三等船客 |
|||
! scope="row" |女性 |
|||
|三等船室 |
|||
| 165 |
| 165 |
||
| 7.4% |
| 7.4% |
||
356行目: | 379行目: | ||
| 4.0% |
| 4.0% |
||
|- |
|- |
||
! scope="row" |女性 |
|||
|クルー |
|クルー |
||
| 23 |
| 23 |
||
367行目: | 389行目: | ||
| 0.1% |
| 0.1% |
||
|- |
|- |
||
|計 |
|||
! scope="row" |女性 |
|||
|合計 |
|||
| 425 |
| 425 |
||
| 19.1% |
| 19.1% |
||
378行目: | 399行目: | ||
| 4.9% |
| 4.9% |
||
|- |
|- |
||
! scope="row" |男性 |
! scope="row" rowspan="5" |男性 |
||
|一等船 |
|一等船客 |
||
| 175 |
| 175 |
||
| 7.9% |
| 7.9% |
||
389行目: | 410行目: | ||
| 5.3% |
| 5.3% |
||
|- |
|- |
||
|二等船客 |
|||
! scope="row" |男性 |
|||
|二等船室 |
|||
| 168 |
| 168 |
||
| 7.6% |
| 7.6% |
||
400行目: | 420行目: | ||
| 6.9% |
| 6.9% |
||
|- |
|- |
||
|三等船客 |
|||
! scope="row" |男性 |
|||
|三等船室 |
|||
| 462 |
| 462 |
||
| 20.8% |
| 20.8% |
||
411行目: | 430行目: | ||
| 17.4% |
| 17.4% |
||
|- |
|- |
||
! scope="row" |男性 |
|||
|クルー |
|クルー |
||
| 885 |
| 885 |
||
422行目: | 440行目: | ||
| 31.2% |
| 31.2% |
||
|- |
|- |
||
|計 |
|||
! scope="row" |男性 |
|||
|合計 |
|||
| 1,690 |
| 1,690 |
||
| 75.9% |
| 75.9% |
||
433行目: | 450行目: | ||
| 60.8% |
| 60.8% |
||
|- class="sortbottom" style="font-weight: bold; border-top: medium solid silver;" |
|- class="sortbottom" style="font-weight: bold; border-top: medium solid silver;" |
||
! scope="row" |合計 |
! colspan="2" scope="row" |合計 |
||
| |
| 2,224 |
||
| 2224 |
|||
| 100% |
| 100% |
||
| 710 |
| 710 |
||
| |
| 1,514 |
||
| |
| |
||
| |
| |
||
| 31.9% |
| 31.9% |
||
| 68.1% |
| 68.1% |
||
|} |
|} |
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[[ファイル:Titanic passengers.png|サムネイル|船室ごとの乗客と乗務員の数、男性、女性、子供。また、救われたか失われたかを示す{{仮リンク|ツリーマップ|en|Treemapping}}。]] |
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三等船室で生き残った人は半数以下だった。沈没を生きのびた人の中にも、事故後にすぐに亡くなった人もいる。怪我や寒さなどにさらされたことでカルパチア号に乗った後に亡くなった人々もいた{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=179}} 。表に示されたグループのうち、49%の子供と26%の女性乗客、82%の男性乗客、78%のクルーが亡くなった。統計では、タイタニック号の乗客の生存率には階級によってはっきりとした差があり、特に女性と子供の乗客では顕著であった。一等船室と二等船室の女性は行方不明者は10%以下であったが、三等船室で亡くなった人は54%である。似たように、6人中5人の一等船室の子供と二等船室の子供全員は生き残った。だが、三等船室の79人中52人の子どもは亡くなった{{sfn|Howells|1999|p=94}}。唯一亡くなった一等船室の子どもは、2歳のローレン・アリソンである<ref>{{cite news|last=Copping|first=Jasper|title=Lost child of the Titanic and the fraud that haunted her family|url=http://www.telegraph.co.uk/history/10581757/Lost-child-of-the-Titanic-and-the-fraud-that-haunted-her-family.html|accessdate=20 January 2014|newspaper=The Telegraph|date=19 January 2014}}</ref>。最も死亡率が高かったのは二等船室の乗客の男性で、92%の人が亡くなった。また、乗せられたペットのうち3匹だけが沈没から生き残った。 |
|||
三等船客で生き残った人は半数以下だった。沈没から生き延びた人の中にも、事故後すぐに亡くなった人もいる。怪我や寒さなどに晒されたことで、カルパチア号に乗った後に亡くなった人々もいた{{sfn|Eaton|Haas|1994|p=179}} 。表に示されたグループのうち、49%の子供と26%の女性乗客、82%の男性乗客、78%のクルーが亡くなった。統計では、タイタニック号の乗客の生存率には船客等級によってはっきりとした差があり、特に女性と子供の乗客では顕著であった。一等船客と二等船客の女性の行方不明者は10%以下であったが、三等船客で亡くなった人は54%である。 |
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同様に、一等船客の子供6人のうちの5人と、二等船客の子供全員は生き残った。だが、三等船客の子供は79人中52人が亡くなった{{sfn|Howells|1999|p=94}}。唯一亡くなった一等船室の子供は、2歳のローレン・アリソンである<ref>{{cite news|last=Copping|first=Jasper|title=Lost child of the Titanic and the fraud that haunted her family|url=http://www.telegraph.co.uk/history/10581757/Lost-child-of-the-Titanic-and-the-fraud-that-haunted-her-family.html|accessdate=20 January 2014|newspaper=The Telegraph|date=19 January 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140119102838/http://www.telegraph.co.uk/history/10581757/Lost-child-of-the-Titanic-and-the-fraud-that-haunted-her-family.html|archivedate=2014-01-19}}</ref>。 |
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最も死亡率が高かったのは二等船客の男性で、92%の人が亡くなった。また、乗せられたペットのうち3匹だけが沈没から生き残った。 |
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=== 生存者の特定 === |
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保護者のいない状態で救助された[[ミシェル・ナヴラティル]]と弟エドモンの兄弟は幼く、また英語を話せなかったため「タイタニックの孤児」(Titanic Orphans)と大きく報じられた。その後、報道を見た母親と再会を果たし、身元が特定された。 |
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=== 犠牲者の特定 === |
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事故後、マッケイ=ベネット号([[:en:CS Mackay-Bennett]])による遺体収容が行われ、[[カナダ]]の[[ハリファックス]]に多数の身元不明の遺体が回収、埋葬されている。身元の特定は21世紀を迎えて以降も継続されている。 |
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近年では身元不明の遺体の「NO.4」が[[エイノ・パヌラ]]と特定されたものの、後の再鑑定で[[シドニー・レスリー・グッドウィン]]と訂正された。 |
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=== 最後の生存者たち === |
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[[2009年]][[5月31日]]、[[ミルヴィナ・ディーン]](事故当時:生後9週間)が97歳で死去したため、事故の生存者全員が故人となった。事故の記憶のある最後の生存者は[[リリアン・アスプランド]](事故当時:5歳)で、2006年に死去している。 |
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なお、中国人乗船客も8名乗船していた事が後に判明し、2名が死亡し、残り6名が助かっているが、2名が途中までしか足取りが掴めず、さらに残りの4名の子孫が現在判明している。 |
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== 事故原因 == |
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{{Main|タイタニック (客船)#事故原因}} |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献== |
== 参考文献== |
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== 関連項目 == |
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* [[細野正文]] - 唯一の日本人乗客で生還した。[[細野晴臣]]の祖父。 |
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* [[ナショナル ジオグラフィック (テレビチャンネル)|ナショナルジオグラフィックチャンネル]] - [[衝撃の瞬間]]第4シーズン「タイタニック沈没事故」で本事故を扱った。 |
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* [[SOLAS条約]] - 事故を契機として、船舶の安全の装備等を定めた国際条約。1914年 |
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* [[潜水艇タイタン沈没事故]] - [[2023年]][[6月18日]]頃に起きた潜水艇の沈没事故。海底に眠るタイタニック号の残骸を潜水艇で見物しようとして起きた。 |
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* {{仮リンク|タイタニック号に関する陰謀論|en|Titanic conspiracy theories}} - タイタニック号が沈没前に姉妹艦の[[オリンピック (客船)|オリンピック号]]とすり替えられていたという説などが存在する。 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Commons category|Sinking of the RMS Titanic}} |
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{{Wikisource|Portal:RMS Titanic|RMS Titanic}} |
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*[ |
* [https://www.encyclopedia-titanica.org/ Encyclopedia Titanica]{{en icon}} |
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* |
* {{Wayback|url=http://www.historyofthetitanic.org/titanic-sinking.html |title=Sinking of the Titanic |date=20120420062051}} |
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*[ |
* [https://www.titanicology.com/FloodingByCompartment.html Flooding by Compartment (Samuel W. Halpern)]{{en icon}} - Titanicology |
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*[http://timesmachine.nytimes.com/browser/1912/04/16/ TimesMachine browser] — ''[[The New York Times]]'', <small>{{smallcaps|Tuesday, April 16, 1912}}</small> |
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[[Category:1912年4月]] |
2024年12月21日 (土) 11:49時点における最新版
座標: 北緯41度43分55秒 西経49度56分45秒 / 北緯41.73194度 西経49.94583度
Untergang der Titanic ("タイタニック号沈没") ウィリー・ストーワー, 1912 | |
日付 | 1912年4月15日 |
---|---|
時刻 | 23:40 – 02:20 |
場所 | 北大西洋 |
原因 | 氷山との衝突 1912年4月14日 |
関係者 | 主要人物
|
結果 |
|
タイタニック号沈没事故(タイタニックごうちんぼつじこ)とは、1912年4月14日の夜から4月15日の朝にかけて、イギリス・サウサンプトン発アメリカ合衆国・ニューヨーク行きの航海中の4日目に、北大西洋で起きた海難事故である。
当時世界最大の客船であったタイタニックは、1912年4月14日の23時40分(事故現場時間)に氷山に衝突した時には2,224人を乗せていた。事故発生から2時間40分後の翌4月15日の2時20分に沈没し、1,514人が亡くなり、710人が生還した。これは1912年当時、海難事故の最大死者数であった[注 1]。
事故概要
[編集]ニューヨーク港に向けて航行中に「海氷が存在する」という警告を4月14日中に7件受けていたにもかかわらず、タイタニック号の見張りが氷山に気付いたとき船は最高速に近いスピードで進んでいた。衝突を避けようとしたが、船は右舷側に斜方向からの打撃を受け、全16区画のうち5つの区画に穴が開いてしまった。
タイタニックの船首部は4つの区画が浸水しても沈まないように設計されていたが、それでも十分ではなく、敏感なクルーはこの船が沈没することを察知した。クルーは遭難信号灯と無線で助けを求め、乗客を救命ボートに乗せた。しかし、それは近くの救助船までの移乗用として簡易的に設計されたもので、搭載数もすべての乗船者を載せるにはあまりに少ないものだった。
船体沈没の進行は予想よりも早かった。やむなくボートには女性と幼い子供が優先的に乗せられ、多くの男性は強制的に排除されたが、クルーも救助活動に不慣れな者が多く、定員に満たないまま出発するボートもあった。結果的に多数の乗客乗員が船に取り残された。
タイタニックは1,000人以上を乗せたまま沈んだ。海に浸かった人のほとんどが数分後に低体温症により死亡した。救助にあたった客船「カルパチア」が4月15日の9時15分に最後の1人を救い上げた時は、既に船の沈没から7時間、衝突から実に約9時間半が経っていた。
この災害は、救命ボートの数、緩い規則、旅客の等級によって異なる避難時の対応など、ずさんな危機管理体制が多くの人の義憤を引き起こした。この事故をきっかけとして救助のあり方が見直され、1914年に海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS)が作られた。これは今も海の安全を守っている。
1912年4月14日
[編集]氷山の警告 (9時00分–23時39分)
[編集]1912年4月14日、タイタニック(呼出符号: MGY)の無線オペレーターは他の船舶から漂流している氷について7件の警告の通信を受け取っており、タイタニックに乗船している人々の中にも、この日の午後にそのことを知った者がいた。北アメリカの海における氷の規模は、4月としては過去50年間で最大であったが、見張りの者はタイタニックが幅も長さも何マイルもあるような氷山群に向かって突き進んでいることに気付いていなかった[1]。また、オペレーターもこうした通信を逐一中継していなかった。
船舶での無線電信による公衆通信(電報サービス)は1900年に商用化されていたが、その後しばらくの間は、船舶無線局は海運会社のものではなく、無線会社の管轄下にあり、船に設置する無線機やアンテナは勿論、無線オペレーターも無線会社に所属していた。当時の大西洋定期航路を運航していた英国の大手海運会社のほとんどは、英国系のマルコーニ国際海洋通信会社に公衆通信の業務を委託しており、タイタニックの無線オペレーターも同社の社員だった。彼らは船舶のクルーではなく、乗船客の電報サービス業務を第一義に乗船しており、気象についての報告は副次的な業務であった。
氷山と氷原に関する最初の報告は9時00分にカロニア号から届いた[2]。スミス船長はこのメッセージの受信確認を行っている。13時42分にはバルティック号がギリシャ船アテニア号から氷山と氷原の目撃情報を受け、タイタニックへ中継している[2]。このメッセージもスミスが受信確認し、ホワイト・スター・ラインのトップでタイタニックの処女航海に同乗していたJ・ブルース・イズメイに見せた[2]。その後スミスは航路を南寄りに変更した[3]。
13時45分には、少し南側を航行していたドイツ船アメリカが「大きな氷山ふたつを通り過ぎた」という報告をした[4]。このメッセージはスミス船長にも、タイタニックの船橋にいた他の上級船員にも伝わらなかった。理由は定かではないが、無線オペレーターが機器の不具合を直さねばならなかったため、このメッセージの伝達を忘れたのではないかと言われている[4]。
カリフォルニアンは19時39分に「3つの大きな氷山」の存在を報告、21時40分に汽船メサバ号が
クルーは近くに氷があることに気付いてはいたが、船は減速せず、最高速度である24ノット(時速44km、28mph)からたった2ノット(時速3.7km、2.3mph)遅いだけの22ノット(時速41km、25mph)で航行していた[4]。のちに、氷のある海域での高速航行は無謀だと批判されることとなったが、これは当時としては標準的な海洋航行の慣習を反映するものであった[6]。
北大西洋の定期便では何よりも定時航行を最優先事項として、公示された時刻に必ず到着できるようスケジュールを厳しく守ることになっていた。したがって、しばしば限界に近い速度で航行せざるを得ず、危険に対する警告も、行動を要請するものというよりは単なる注意程度のものとして扱っており、氷も大したリスクではないと広く信じられていた。船の衝突を危機一髪でかわすことも日常的であり、正面衝突ですら今まで大事故にはなっていなかった。1907年にドイツの定期船クロンプリンツ・ヴィルヘルム号が氷山に激突して船首が大破することとなったが、それでも航海を完遂できた。同年、のちにタイタニックの船長となるエドワード・スミスは「船の沈没を引き起こすような状況は想像できない。現代の造船はそういうレベルを超えている」とインタビューで宣言していた[7]。
「前方に氷山!」 (23時38分46秒)
[編集]衝突
[編集]タイタニックが致命的な事故に近づく時までに、ほとんどの乗客は眠りについており、船橋の指揮は二等航海士チャールズ・ライトラーから一等航海士ウィリアム・マクマスター・マードックに移管されていた。監視役のフレデリック・フリートとレジナルド・リーはデッキから29mの高さにある見張り台にいた。気温は氷点下近くまで下がっており、海面は完全に鎮まっていた。事故の生存者であるアーチボルド・グレイシー大佐は「海は鏡のようで、星がはっきり映るくらい水面がなめらかだった」と後に書いている[8]。現在では、このように極めて凪いだ海面は近くに叢氷があることを示すものと認識されている[9]。
空気は澄んでいたが月は見えず、海が静か過ぎて、近くにある氷山の場所の手がかりになるようなものは何もなかった。海がもう少し荒れていたら、氷山にぶつかる波の影響でもっと場所が見えやすくなったであろう[10]。サウサンプトンでごたごたがあったため監視役は双眼鏡を持っていなかった。しかしながら、星の光と船自体から出る光以外に光源がない全くの暗闇では双眼鏡は役に立たないとも言われている[11]。それにもかかわらず、ライトラーが他のクルーに氷に対して注意するよう周知していたので、監視役は氷の危険性があることには気付いていた[12]。
23時30分、フリートとリーは前方の水平線上にかすかな靄があることに気付いたが、これを特に重視しなかった。9分後の23時39分に、フリートはタイタニックの進行方向に氷山があるのを見つけた。フリートは監視鐘を3回鳴らし、船橋に電話をして六等航海士ジェームズ・ムーディに知らせた[13]。
- フリート「Is anyone there?(訳: 誰かいないのか?)」
- ムーディ「Yes, what do you see? (何があったんだ?)」
- フリート「Iceberg rightahead! (前方に氷山がある!)」
- ムーディ「Thank you. (わかった。)」
フリートに感謝の意を伝えたあと、ムーディはメッセージをマードックに伝達し、マードックは操舵員のロバート・ヒッチェンスに航路を変えるよう命じた[14]。マードックは船の進路を左方向に変えるべく「(舵輪を)右舷一杯 」("Hard a'starboard")、つまり取り舵一杯と命令したと信じられており、この結果、舵柄が右舷一杯に動かされた[11]。マードックはエンジン命令電信で「全速後進」("Full Astern")をも告げた[3]。
四等航海士ジョセフ・ボックスホールによると、マードックはスミス船長に「左舷一杯に(氷山を)回る」("hard-a-port around [the iceberg]")ことを試みると述べていた。これは「左舷旋回」("port around")の操作を試みていたことを示唆する。つまり、船首を回転させて障害物を周り、その次に船尾を回して、船の両側が衝突を回避するように旋回させることである。命令が効力を発揮するまでには遅れがあった。蒸気で動いている操縦システムでは、船の舵柄を回転させるまで30秒かかった[3]。エンジンを逆回転に設定する複雑な作業を行うにも時間がかかった[15]。中央タービンを逆回転させることができなかったため、舵のすぐ前に置かれた中央タービンと中央スクリューは単に停止しただけになってしまった。このため舵の効きが悪くなり、したがって船が旋回する力が弱くなった(一般に、船は速力が高い方が舵効きが良い)。このことから、マードックがスピードを維持したまま前進しつつ船を旋回させていれば、タイタニックは氷山を避けられていた可能性も指摘される[16](とはいえ、それは結果から見た推論に過ぎない)。
その結果、タイタニックの舳先は正面衝突を避けられたが、方向転換の影響で斜めに氷山にぶつかった。海面下にある氷山の下部が船の右舷を7秒間ほど擦り、氷山の上部から剥がれた氷片が前方デッキに落下してきた[17]。数分後、タイタニックの全エンジンが停止し、船は北向きでラブラドル海流に漂うことになった[18]。
衝突の結果
[編集]氷山の衝突は船殻に大きな穴をあけたと長らく信じられていた[19]。事故後の英国による調査で、タイタニックを建造したハーランド・アンド・ウルフの船体建築責任者エドワード・ワイルディングは、衝突の40分後に前方コンパートメントに起こった浸水量から計算して船殻部分に「12平方フィートくらい」の穴が海に向かって開き、さらにその穴が複数箇所にわたっていた可能性を証言した[20]。調査による発見から損傷は300フィートに及ぶと推定され、これ以降多くの著述家がこの証言に従ってきた。現代の超音波を用いた残骸探査では、損傷は6個の狭い穴で、全部で船体の12 - 13平方フィート (1.1 - 1.2 m2)くらいに過ぎなかったということがわかっている[21]。
裂け目は最大39フィート (12 m) ほどで、船殻プレートに沿っていたようである。このことから、プレートを留めていた鉄のリベットが外れるか飛んで開いてしまい、狭い裂け目を作ってそこから海水が入ってきたと想定される。事故後、ハーランド・アンド・ウルフのエンジニアがこの臆説を英国難破調査委員会に示唆したが、あまり顧みられなかったという[21]。タイタニックを発見したロバート・バラードは、船が小さな裂け目のために沈没したという説について、「大きな船がちょっとした裂け目のために沈没したということは誰も信じられなかったのだろう」と述べている[22]。ただし、船殻プレートのずれによる裂け目は1つの遠因に過ぎないという可能性はある。回収されたタイタニックの船殻プレートの一部は、衝突の衝撃で湾曲することなく破断したものと見られている[23]。
船殻のうち中央部の60%のプレートは軟鋼のリベットを3列に打ち込んで接合されていたが、船首と船尾のプレートには錬鉄のリベットが2列に打ち込まれていた。材料科学者であるティム・フッケ(Tim Foecke)とジェニファー・マッカーティ(Jennifer McCarty)によると、この2列のリベットは衝突の前ですら応力限界に近かった[24][25]。この「ベスト」と呼ばれる三号鉄リベットは多数のスラグ巻き込みを持つもので、このためもっとよく使われる「ベスト・ベスト」と呼ばれる四号鉄リベットよりも脆く、応力をかけられた時、極度の寒冷時には壊れやすくなる傾向がある[26][27]。しかしハーランド・アンド・ウルフを退職したアーキビストであるトム・マクラスキーは、タイタニックの姉妹船であるオリンピックは同じ鉄のリベットで打ちつけられていたにもかかわらず25年近く無事故で航行し、英国の巡洋艦との衝突を含めた大きな事故を生き延びていると指摘した[28]。オリンピックがUボートU103と船首で激突してU103が沈没した時にも、船尾のねじれと右舷側の船殻プレートの湾曲が生じたものの、船殻は原型を留めていた[28][29]。
喫水線より上では衝突の痕跡はほとんどなかった。一等船室のスチュワードは震動に気付いたが、プロペラスクリューのブレードが折れたせいだと思った。乗客の多くも衝撃や震動を感じたが、その原因はわからなかった[30]。衝突部位に最も近い一番低いデッキにいた者は、衝撃をもっと直接的に感じた。操機手のウォルター・ハーストは衝撃で目を覚ましたが、「誰もそんなに危険なことだと思わなかった」と回想している[31]。機関助手のジョージ・ケミシュも右舷側で衝突音を聞いたという[32]。
船はまもなく浸水し始め、やがて汲出可能速度の15倍にあたる1秒あたり7ロングトンの速度で水が入り込んできた[33]。二等機関士のJ・H・ヘスケスと主任火夫のフレデリック・バレットは第6ボイラー室に漏出してきた冷たい海水に打たれ、部屋の防水扉が閉まる直前に逃げた[34]。これは機関部門のクルーにとって極めて危険な状況であった。ボイラーには高温・高圧の蒸気が充満しており、そこに冷たい水が入り込めば爆発する危険性もあった。火夫と機関助手はボイラーの鎮火と排気を命じられ、大量の蒸気を排気煙突から送り出した。この作業が終わる頃には、火夫たちは腰まで冷たい水に浸かっていた[35]。
タイタニックの下部デッキは16のコンパートメントに区画されており、それぞれ隣の区画から船の幅をカバーする15の隔壁で仕切られていた。隔壁は低いものでも水面の約3.4m上にあるEデッキの底面まで届いており、船首に最も近いふたつと船尾にもっとも近い6つの隔壁はさらにもうひとつ上のデッキまで達していた[36]。
隔壁は防水扉で閉鎖することができ、タンクトップデッキのエンジン室とボイラー室にはブリッジから遠隔操作できるドアがあり、約30秒で垂直に閉めることができたが、クルーが閉じ込められることのないよう、警告ベルと別の避難ルートが設置されていた。タンクトップの上の階層のオーロップデッキ、Fデッキ、Eデッキのドアは手動で水平に動かすことができ、上のデッキから操作することもできた[36]。
防水隔壁は水面より上まで伸びていたが、上部までぴったり塞がれていなかったため、製氷皿に入れた水が仕切りを越えて移動するように多数の区画が次々と浸水し、船首層タンク、前方の船倉3室、6番ボイラー室の合わせて5つの区画に被害を受けた。タイタニックは2区画までが浸水しても問題ないように設計されており、最悪4区画までは穴が開いても組み合わせによっては沈没することはなかった。しかし、5区画となると、水は隔壁の上部に達し、浸水を防げなくなる[36][37]。
スミス船長は自分の船室にいたときに衝撃を感じ、すぐにブリッジに出てきた。状況を知らされた船長は、タイタニックを建造したトーマス・アンドリューズを呼んだ。アンドリューズは船の最初の旅客航海を見守ることになっていたハーランド・アンド・ウルフのエンジニアの1人であった[38]。船は衝突の数分後には右舷に5度傾き、船首は2度下がっていた[39]。スミスとアンドリューズは階下に行き、前方の積み荷は持ちこたえているが、郵便室とスカッシュコートに浸水しており、第6ボイラー室は既に14フィート (4.3 m)もの水に飲み込まれていることに気付いた。水は第5ボイラー室に溢れ出ており[39]、ここにいたクルーたちは排水をしようと奮闘していた[40]。
衝突から45分で、少なくとも13,500ロングトン (13,700 t)の水が船に入ってきた。タイタニックの全ポンプの最大排水量は毎時1,700ロングトン (1,700 t)であり[41]バラストや船底のポンプでは対応できない量であった。アンドリューズは「船長に5つの区画が浸水した」と伝え、それゆえ「タイタニックは沈む運命にある」と言った。彼の予想では、もはや船は2時間以上持ち堪えられないだろうということであった[42]。
衝突から沈没までの間に、少なくとも35,000ロングトン (36,000 t)の水が入り込み、排水量が48,300ロングトン (49,100 t)からほぼ2倍の83,000ロングトン (84,000 t)以上になった[43]。浸水の進行状況は区画の形状によって異なり、一定速度で進んだわけではなく、船全体で一気に進んだわけでもなかった。最初に右舷方向に傾いてしまったのは、船底の通路を通って水が溢れていって右舷側のみが浸水したためであった[44]。通路が完全に水で塞がれると傾きは修正されていったが、のちに他方への浸水が進んだため船は左舷に10度近く傾いていくようになった[45]。
タイタニックは衝突後1時間で0°から4.5°まで前傾したが、次第に傾く速度が鈍くなり、5°程度になった[46]。そのため、救出までこのまま船が浮いていられるのではないかという希望を抱いた乗船者も多数いた。しかし、1時30分頃には前部の沈む速度が増し、船体は10°も傾いていた[45]。
1912年4月15日
[編集]船を捨てる準備 (0時05分–0時45分)
[編集]4月15日の0時05分に、スミス船長は救命ボートをカバーから出すよう命じ、乗客が集合した[37]。船長は無線オペレーターに救難信号を送るよう命じたが、この信号により船が氷帯の西側にいると誤認され、救援にきた人々は13.5海里(15.5 mi / 25 km)ほど離れた場所に向かってしまった[1][47]。デッキの下では水が船の最下部の数層に流れ込んできていた。郵便室が浸水し、仕分け係はタイタニックで運搬中だった400,000もの郵便物を救おうとしたが、結果としては無駄な努力であった。他の場所では、流入する水で空気が押し出される音を聞くことができたという[48]。タイタニックには一斉呼びかけを行うシステムがなかったので、上の階では客室係が各室を回って眠っている乗客やクルーを起こし、ボートデッキに行くよう伝えた[49]。
非常召集の成果は乗客の等級に左右された。一等船室の客室係は数室のみを担当していたが、二等と三等船室の客室係は大勢の人々をさばかなければならなかった。一等の客室係は直接的な支援を行い、客が服を着るのを手伝い、デッキまで誘導した。しかし、二等と三等の客室係のほとんどはドアを開け放ち、救命胴衣をつけて上に来るよう乗客に伝えるのが精一杯だった。三等船室に至っては、おおむね乗客自身の判断で行動するほかなかった[50]。
乗客やクルーの多くは問題が発生したことを信じないか、あるいは冷え込みの厳しいデッキに出るよりも、室内で暖かくしているほうが良いと、命令に従うのを渋った。船が傾いているのに気付いた者も少しはいたが、船が沈みかけているとは知らされていなかった[49]。0時15分頃、客室係は乗客に救命胴衣を着用するよう命じ始めた[51]。しかしながら、多くの乗客はこの命令を馬鹿げたことだと受け取った[49]。この頃、甲板に散らばっていた氷の塊で即席のサッカーを始める者までいた[52]。
ボートデッキではクルーが救命ボートを準備していたが、煙突から排出される高圧蒸気の騒音で会話が困難になったため[53]、クルーは身ぶり手ぶりで意思疎通していた[54]。
タイタニックには全部で20艘の救命ボートがあり、吊り柱に木製のボートが16艘(船の両側に8艘ずつ)、底が木で脇がキャンバスの折りたたみボートが4艘という内訳であった[49]。折りたたみボートは脇を内側に折り込んだ状態で逆さまに収納されていて、進水のためには組み立てたのちに吊り柱に移動させるようになっており[55]、2艘は木製ボートの下に、他の2艘は上級船員区域の上に縛り付けてあった[56]。これらを使用するにはボートデッキまで人力で降ろす必要があったが、いずれも数トンの重量がある上、後者の2艘は収納場所の事情もあり、進水には大変な労力を必要とした[57]。救命ボートは1艘あたり平均68人を乗せることができ、全部で1,178人が乗ることができたが、これはかろうじて乗船者の半分程度、船の最大積載人数の3分の1であった。
救命ボートの不足は場所やコストのせいではなかった。タイタニックは68艘まで救命ボートを載せられるように設計されていた[58]。これは乗客全員を乗せるのに充分な数であり、もう32艘救命ボートを買うには16,000ドルほどかかるだけで、タイタニックの船体に会社が払った7,500,000ドルに比べればほんのわずかな額であった。当時、緊急時における救命ボートは、乗客を遭難船から近くの船まで運ぶために使われており[59]、クルー全員を乗せることは想定しておらず、当時イギリスで運行していた 10,000ロングトン (10,000 t)を超える39隻の定期船のうち33隻は、乗客全員を乗せるには乏しい数しか救命ボート置き場を作っていなかった[60]。ホワイト・スター・ラインは、海を見るための広い遊歩デッキを計画しており、いくつもの救命ボートを置くと視界の妨げになる可能性があった[61]。
スミス船長は40年を海で過ごし、そのうち27年は船員を指導する立場にあったという経験ある船乗りであった。もし全ての救命ボートに定員ぎりぎりまで人を乗せたとしても、1,000人もの人々が沈没時に船に取り残されることを理解していたに違いない[37]。これから起こることの重大さを把握しはじめるにつれて、スミスは優柔不断で動けなくなっていったようであった。 乗客とクルーには集合するよう命じたが、救命ボートへの搭乗指示は出さなかった。適切にクルーを組織できず、部下たちに重要な情報を伝えることもできず、時として曖昧で実際的ではない命令を下し、船を捨てろという命令は全く出さなかった。ブリッジに詰めていた船員の中にも、船が沈みかけている事実に気付いていない者がいた。四等航海士ジョセフ・ボクソールは1時15分、船が沈む1時間ほど前までこのことを伝えられていなかった[62]。操舵員のジョージ・ロウは緊急事態に全く気付かず、避難が始まった後にブリッジから電話をかけ、自分の監視所に救命ボートが出されている理由を問い合わせた[63]。スミスは船員たちに、船には全員を救うに足る数の救命ボートがないことを伝えていなかった。救命ボートへの搭乗を監督せず、命令が守られているか確認することもしていなかったようである[62][64]。
クルーたちも緊急時への対応ができていなかった。救命ボート訓練はサウサンプトン碇泊時に行なわれたが、その内容は通り一遍のもので、2艘の救命ボートを降ろし、それぞれ船員1人と男性4人ずつを乗せて、数分間埠頭を漕ぎまわったのちに船に戻るというものだった。結局訓練はその1度きりで[65]、船が沈む前の日曜日の朝にも予定されていたものの、スミス船長により不明な理由で中止された[66]。ボートには緊急用物資が蓄えられているはずであったが、船のパン焼き係主任であったチャールズ・ジョーキンと部下の努力にもかかわらず、十分な物資がなかったことを乗客たちは後に知った[65]。非常時にクルーのメンバーを救命ボートステーションに割り振るリストも掲示されていたが、読んだ者はほとんどおらず、何をすべきか分かっていた者はほぼいなかったようである。クルーのほとんどは船乗りではなく、ボートを漕いだ経験の無かった者もいた。このような人々がこの時、総員1,100人もの人々を乗せた20艘のボートを船の脇から協力して21mも降ろすという複雑な業務に直面した[57]。あまりにも避難の段取りが悪かったため、たとえ乗客全員分の救命ボートがあったとしても全員救命することはできなかったかもしれないという指摘をする歴史家すらいる[67]。
衝突から40分後の0時20分頃までには、救命ボートへの搭乗が開始されていた。二等航海士ライトラーは、スミスがトランス状態であるかのように呆然としてブリッジのそばに立ち、海を見やっていたと後に回想している。ライトラーが船長に「女性と子供をボートに乗せた方が良いのではないでしょうか。」 ("Hadn't we better get the women and children into the boats, sir?") と提案したところ、船長は「女性と子供を乗せて降下させよう。」 ("women and children in and lower away.") と答えた[68]。ライトラーは左舷側のボートを担当し、マードックは右舷側のボートを担当した。一等航海士マードックと二等航海士ライトラーはそれぞれ「女性と子供を優先する」ことについて異なる解釈をした。マードックはまず女性と子供から乗せると解釈したが、ライトラーは女性と子供だけを乗せると解釈した(一説によると、ライトラーは救命ボートが足りないのを知っていて仲間である船員を助けるために意図的に命令を曲解した説もある)、そのため、ライトラーは女性と子供が全員乗り込んだのを確認すると、スペースに余裕があっても救命ボートを降ろしたが、マードックは女性と子供の他にわずかながら男性も乗せた[56]。ほかのクルーも1艘あたりの定員を知らず、気を配るあまり上限まで乗せないという過ちを犯した。その日は天気も海の状態も非常に安定していたため、上限の68人を乗せても十分安全に降ろせたはずであった[56]。もし定員まで乗せていたら、もう500人ほどの人命が救えたであろうと考えられている。結局、救命ボートは多くの空席を残したまま進水し、数百人の人々(大部分が男性)が船に取り残された [54][67]。
当初は救命ボートに乗ろうとする乗客がほとんどおらず、避難を仕切っていた船員は乗客をなかなか説得できなかった。百万長者であるジョン・ジェイコブ・アスターは「あんな小さなボートよりもここにいたほうが安全だ」と言い張った[69]。ボートへの移乗をきっぱり断る客もいた。J・ブルース・イズメイは事態の重大さに気付いて右舷のボートデッキをまわり、乗客とクルーにボートに乗るよう促した。少数の女性・夫婦・独身男性が説得を受け入れて右舷7番救命ボートに乗り、これが最初に降ろされた救命ボートとなった[69]。
救命ボート乗船(0時45分–2時05分)
[編集]0時45分に7番ボートが28人の乗員(定員65人)を乗せ、手漕ぎでタイタニックから離れた。次いで左舷の6番ボートが0時55分に降ろされた。このボートに乗船していた28人には「不沈の女」マーガレット・"モリー"・ブラウンも含まれていた。ライトラーはこのボートに船乗りが1人(操舵員ロバート・ヒッチェンス)しか乗っていないことに気付いてボランティアを募り、王立カナダヨットクラブのアーサー・ゴドフリー・ピューチェン少佐が申し出てロープを伝い、救命ボートに乗った。少佐は左舷側でライトラーが避難させた唯一の男性乗客であった[70]。このことは、避難時にボートに乗り込める船乗りがほとんどいなかったという、重大な問題を浮き彫りにしている。船内通路のドアを開けて乗客に避難を呼びかけるため、下に降りたまま、戻らなかった船員もいた。おそらくは下のデッキで揚がってきた水に捕らわれ、溺死したものと考えられる[71]。
デッキ下に浸水が進む中、不可欠な作業を続けようとしていたクルーもいた。機関士や機関助士たちは、冷たい水との接触で爆発が起こらないようボイラーから蒸気を逃がす作業をしており、水流を減らすために余分にポンプを出そうとして防水扉を再び開けたが、これは無駄な試みであった。客室係のF・デント・レイは、自分の担当区域とEデッキの三等船室の間の木の壁が崩壊して流れ込んだ水が腰まで達し、あやうく押し流されそうになった[72]。エンジニアのハーバート・ハーヴィとジョナサン・シェパード(少し前に左足を骨折していた)は、浸水していた第6ボイラー室のドアが崩れて流出した水に呑まれ、0時45分頃に第5ボイラー室で亡くなった[73]。
1時20分頃には第4ボイラー室でも下から浸水が始まったが、これは船の下部にも氷山の影響で穴が開いていたことを意味する。浸水量が忽ちポンプを圧倒し、機関助士や積み荷係は前側のボイラー室から退避せざるを得なくなった[74]。さらに船尾側では、機関士長のウィリアム・ベルと同僚の機関士たち、志願した数人の機関助士や機関員が浸水していない第1・第2・第3ボイラー室やタービン、レシプロエンジンのある場所に残り、船の照明やポンプ、無線機器に電力を供給するため、ボイラーと発電機を動かし続けた[22]。彼らは最後まで持ち場に留まっていたため、タイタニックの電気系統は沈没するまで生きていたが、35人の機関士や電気工は1人も助からなかった[75]。また、5人の郵便係も浸水した郵便室から避難させた郵便袋を守ろうとしているところを目撃されたのが最期となり、Dデッキのどこかで揚がってきた水に呑まれたと考えられる[76]。また、三等船客の多くは自力でE、F、Gデッキに入ってくる水に立ち向かうこととなった[77]。
救命ボートは船の左右から数分おきに降ろされていたが、そのほとんどが定員に満たない状態だった。5番ボートは41人しか乗っておらず、3番ボートは32人、8番ボートは39人しか乗らずに船から離れた[78]。1番ボートは定員40人に対し12人しか乗っていなかった[78]。避難は滞り、乗客は事態が進行するにつれて事故やケガに見舞われるようになった。ある女性は10番ボートと本船の間から落ちたが、かかとをつかまれて遊歩デッキに助け上げられ、再びボートに乗ることができた[77][79]。一等船室の乗客アニー・ステンゲルは、5番ボートに飛び降りた太ったドイツ系アメリカ人医師とそのきょうだいの下敷きになり、意識不明に陥り、肋骨を数本折った[80][81]。救命ボートの降下にも危険が伴った。6番ボートは船の側面から排出された水で水浸しになったが、なんとか船から離れることができた[78][82]。3番ボートはあわや大惨事になりかけた。1本の吊り柱が絡まり、乗客がボートから投げ出されそうになったのである[83]。
1時20分までには、デッキ上の客も事態の深刻さを感じ取り、夫たちは妻や子を救命ボートまで連れて行き、別れを告げ始めた。遭難信号用の発炎筒が数分おきに焚かれ、無線オペレーターは繰り返し遭難信号CQDを発信した。無線オペレーターのハロルド・ブライドは、同僚のジャック・フィリップスに「使う最後のチャンスになるかもしれないから」と、新しいSOS信号を使うよう伝えた。2人のオペレーターは他の船に救援を求めたが、応答した船のうちカルパチアは(58マイル (93 km)離れたところにいた[84])タイタニックより船足が鈍く、最高速度でも 17 kn (20 mph; 31 km/h)しか出ず、沈みつつある船に到着するまで4時間かかるということであった[85]。他に応答した船としてはマウント・テンプルがあり、進路を変えてタイタニックがいる方角に向かったが途中で叢氷に阻まれてしまった[86]。
カリフォルニアンはもっとずっと近くにおり、数時間前にタイタニックに氷山の通告をしていた。拡がった流氷に自分の船が阻まれていたため、船長のスタンリー・ロードは22時00分頃、氷原を出る経路を見つけるため、明け方まで一晩碇泊することにした[87]。タイタニックが氷山に衝突する10分前の23時30分に、カリフォルニアンのただ1人の無線オペレーターであったシリル・エヴァンズは、無線機器をシャットダウンして就寝していた[88]。ブリッジでは三等航海士チャールズ・グローヴズが右舷方向に10 - 12 mi (16 - 19 km)離れたあたりで大きな船を目撃していた。この船は突然左舷に旋回して止まった。もしカリフォルニアンの無線オペレーターがもう15分長く持ち場にいれば、数百名の命が救えた可能性もある[89]。1時間あまりのち、カリフォルニアンの二等航海士、ハーバート・ストーンは停まった自船の上に5回、ロケット信号弾が白く炸裂するのを見た。しかし信号の意味がよくわからず、ロード船長を呼んだ。船長は海図室での休息中に信号の目撃報告を受けた[90]が、何も対処しなかった。ストーンは不安になって同僚に相談した[91]。後日、ロード船長は事故後の査問委員会にて、同船はタイタニック沈没地点から同船の最大船速13.5ノットにて2時間程度の場所に碇泊していたが、0時から2時頃にかけ船長や他の船員が3mi先に発光信号を使用する船影を確認し、流氷注意のために発光信号を数回送ったが、返答なくそのまま航行していった。明らかに貨物船でタイタニックではなかったと証言している。尚、同査問員会の結論としては同信号はタイタニックによるものであったと結論付けられている[92]。
この頃までにタイタニックに乗っている人々には、船が沈みつつあり、全員が乗れるだけの救命ボートがないことは明らかになっていた。しかし、最悪の事態は起こらないだろうという希望にしがみついている者もいた[93]。自分は後から行くと嘘をついて、妻だけを救命ボートに乗せ、永遠の別れを遂げた夫もいた[93]。
別れるのを拒んだ夫婦もいた。メイシーズ百貨店の共同経営者であったイジドー・ストラウスはすでに67歳の高齢だったため、救命ボートに乗れるのは女性と子供が優先という状況にあっても特別に救命ボートに乗り込むことを認められたが、彼はあくまでも男性の自分が女性と子供を差し置いてボートに乗るわけにはいかないと主張し、彼の妻アイダ・ストラウスも夫と別れて自分だけがボートに乗ることはできないと主張し、夫妻ともに救命ボートに乗ることを拒否した[93]。夫妻は一対のデッキチェアに座って、世の終わりを待った[94]。企業家のベンジャミン・グッゲンハイムは、救命胴衣とセーターといういでたちからトップハットとイブニングに着替え、紳士らしく船と運命を共にしたいと述べた[22]。
この時点で、救命ボートに乗った乗客のほとんどは一等船室及び二等船室の乗客で占められていた。船尾の三等船室にいた乗客はほとんどデッキまでたどり着けず、通路で迷い、三等船室を一等や二等の区域と隔離する壁や仕切りに阻まれて動けなかった[95]。この隔離は単なる社会的理由だけではなく、アメリカ合衆国移民法の条件によるものでもあった。この法は、移民をコントロールし、感染症の広がりを防ぐため三等船客を隔離するよう定めていた。大西洋航路の定期船に乗る一等と二等の船客はマンハッタン島の主桟橋で降りるが、三等船室の乗客は、エリス島で健康診断と手続きを経なければ降りることはできなかった[96]。少なくともいくつかの場所では、タイタニックのクルーは三等船客の避難を積極的に妨害した。錠をかけてクルーが見張っていた壁もあり、明らかに三等船客が救命ボートに殺到することを阻んでいた[95]。
CからGまでのデッキにある三等船室はいずれもデッキの末尾部分にあったため、乾舷までたどり着くには曲がりくねった長い通路を通る必要があり、救命ボートまで最も遠かった。反対に一等船室は上甲板にあり、最短距離だった。したがって、救命ボートまでの距離はボートに乗ることができた者を定める重要な要因となった。さらなる困難として、多くの三等船客は外国人で、英語が理解できなかった。助かった三等船客の中に、英語を話すアイルランド系の移民が多くを占めていたのは偶然ではない[97]。また、生き残った三等船客の多くは同船室の客室係エドワード・ハートのおかげで命拾いしている。ハートは船内で三等船客のグループをボートデッキまで連れて行くことを3度も行った。開いている壁を抜けたり、緊急用の梯子を昇って逃げた者もいた[98]。
おそらくは状況に圧倒されてしまい、逃げる試みを全くせずに船室にとどまっていたり、三等船室の食堂に集まって祈っていた人々もいた[99]。機関助手長のチャールズ・ヘンドリクソンは、まるで誰かに導かれるのを待つかのようにデッキ下に三等船客たちがトランクや持ち物を手に集まっているのを目撃した[100]。心理学者のウィン・クレイグ・ウェイドは、何世代にもわたって自分がすべきことを社会的地位が上の者に命じられてきたために培われた「禁欲的受動性」によるものではないかと述べている[76]。
最後の救命ボート
[編集]1時30分までに、タイタニックは前傾の角度を増して船首を沈めつつあり、左舷側にもそれよりわずかに大きく(5度を越えない程度)傾いていた。状況の悪化は船から送られたメッセージにも反映されている。1時25分には「女性をボートに乗せて降ろしている」、1時35分には「エンジンルーム浸水」、1時45分には「エンジンルームはボイラーまで満水」であった[101]。これはタイタニックが発信した、解読できる最後の信号で、船の電気系統が故障しつつある頃に送られた。続くメッセージはごちゃごちゃとして不完全であった。2人の無線オペレーターはそれにもかかわらず、遭難信号をほぼ最後の最後まで送り続けた[102]。
残ったボートには定員近くまで人が乗り、だんだんと人々が殺到するようになった。11番ボートは定員よりも5人超過しており、降ろす時に船から排出された水をかぶった。13番はかろうじて浸水を免れたが、乗員が船を降ろすためのロープから適切にボートを離すことができずに後ろに押し流され、そこに15番ボートが降りてきた。すんでのところでロープが切られ、ボートは2艘とも何とか無事に船から離れた[103]。
40人が乗った左舷側の14番ボートに乗客の一団が殺到しようとした時がパニックの最初の兆候であった。ボートを担当していた五等航海士ハロルド・ロウが群衆をコントロールするために3度、空に向けて警告射撃を行ったため、ケガ人は出なかった[104]。5分後に降ろされた16番ボートに乗っていた客室係のヴァイオレット・ジェソップは4年後、第一次世界大戦中にタイタニックの姉妹船であるブリタニックの沈没から生き延びた際、同じ経験をすることとなった[105]。1時40分には折りたたみボートCが降ろされた。このボートを降ろしたデッキは、ほとんどの乗客が船尾に移動していたためほぼ無人となっていた。ホワイト・スター・ラインの取締役であったJ・ブルース・イズメイはこのボートに乗って船から逃げ出し、のちにタイタニックの最も物議を醸した生存者として糾弾されている[101]。
1時45分に2番ボートが降ろされた[106]。ライトラーはこのボートにたくさんの男性が乗っているのを見て、「英語を喋る人々ではなかった[107] 」と述べている。リボルバーで脅してこの男性たちを立ち退かせたが、ライトラーはこのボートを満たすだけの女性と子供を見付けることができなかった[107]。ライトラーは定員40人のボートに25人を乗せて降ろした[106]。ジョン・ジェイコブ・アスターは1時55分に4番ボートで妻が安全に避難するのを見送ったが、60席中20席が空いていたにもかかわらず、ライトラーは男性のアスターをボートに乗せなかった[106]。
2時05分、最後に進水した折りたたみボートDは、25人を乗せて船を離れた[108]。ボートが降ろされる時に2人の男性が飛び乗った[109]。水がボートデッキにまで達しており、船首は深く水に浸かっていた。一等船客イーディス・エヴァンズはボートに乗るのを諦めて結局亡くなったが、一等船客で沈没により死亡した女性は彼女を含め4名のみであった。スミス船長は最後にデッキをまわり、無線オペレーターと他のクルーに「今や自分の身を守る時だ」と告げた[110]。
乗客とクルーは船尾に向かったが、そこではトーマス・バイルズ神父が懺悔を聴いて罪の赦しを与えていた。タイタニックの楽団は体育室の外で演奏していた[111]。タイタニックは2つの楽団を抱えていた。一つはウォレス・ハートリー率いる五重奏団で、夕食後や宗教的な礼拝の際に演奏しており、もう一つは三重奏団でレセプションエリアやカフェ、レストランの外で演奏していた。2つの楽団はそれぞれレパートリーもアレンジも異なっており、沈没の前には一緒に演奏したことがなかった。氷山との衝突後30分ほどしてから、2つの楽団はスミス船長の命で一等船室のラウンジで演奏をした。そこにいた乗客の記憶によると、楽団は『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』のような明るい曲を演奏していた。2人のピアニストがこの時楽団と一緒にいたかどうかはわかっていない。正確な時刻は不明だが、音楽家たちは後にボートデッキのある階に移動し、そこで演奏した後、デッキに出ていった[112]。
タイタニックの沈没にまつわる根強い伝説として、船が沈む時に、音楽家たちが賛美歌『主よ御許に近づかん』を演奏していたというものがあるが、これは疑わしい[113]。この主張は沈没直後の報告にも見受けられる[114]。この賛美歌はタイタニックの事故にあまりにも密接に結びつけられているため、この最初の小節が、タイタニックの楽団長で亡くなった犠牲者の1人であるハートリーの墓碑にも刻まれた[115]。1934年にヴァイオレット・ジェソップは事故の回想で、この賛美歌が演奏されているのを聞いたと述べている[113]。
対照的に、アーチボルド・グレイシーは沈没直後にこれを強く否定する説明をしており、無線オペレーターのハロルド・ブライドは「ラグタイム」の後で『秋』が演奏されているのを聞いたと述べた[116]。これはアーチボルド・ジョイスによる当時人気のあったワルツの『秋の夢』だったのかもしれない。救助にきたカルパチアの楽団長で生存者とも話したジョージ・オレルは、『主よ御許に近づかん』が演奏されていたと聞いた、と述べている[117]。グレイシーはデッキが沈むまで楽団の近くにいて、「明るい曲」を楽団が演奏していたが、どれも聞き覚えのない曲であり、新聞に出てくるように『主よ御許に近づかん』が演奏されていればすぐ気付いたはずだと主張している [118]。船を最後に離れた者のうち、複数の生存者が楽団はデッキの傾斜により立てなくなるまで演奏を続けたと述べているが、グレイシーは船が沈む遅くとも30分前には演奏をやめたと主張している。一等船客A・H・バックワースなどの乗客がこれを裏付ける証言をしている[112]。
ブライドは無線室を離れる時に楽団が演奏するのを聞いていたが、その頃までにはその付近は水に浸かっていた。もう1人の無線オペレーター、ジャック・フィリップスも一緒にいた。ブライドによると、フィリップスは自分の救命胴衣を奪おうとした男を打ち倒したところだったという[119]。2人の無線オペレーターはそれぞれ反対の方角に行き、フィリップスは船尾へ、ブライドは船首の方にあった折りたたみボートBに向かった[119]。
グレイシーも船尾に向かったが、群衆に阻まれてしまった[120]。数百人もの三等船客が、最後の救命ボートが出発する間際にデッキにたどり着いていた。グレイシーは船尾に向かうことをやめ、群衆から離れるため海に飛び込んだ[120]。全く逃げようとしなかった者もいた。船の設計者であるアンドリューズは、報告によると一等船室の喫煙室で最後に目撃されており、救命胴衣は外してマントルピース上の絵を見つめていたという[105][121]。スミス船長の最期については矛盾する報告があり、よくわかっていない。ブリッジの操舵室に入ってそこが水に呑みこまれた時に亡くなったという証言と、ブリッジが沈む直前に水に飛び込み、その後おそらく折りたたみボートBの側で亡くなったとする証言がある[122][123][124][125][126][127][128][129]。
沈没の最後の瞬間(2時15分–2時20分)
[編集]2時15分頃、デッキのハッチから、今まで浸水していなかった部分に水が入ってきたことで、タイタニックの水に対する傾き角度は急速に増していった[130]。急に船が傾いていったため、生存者が「巨大な波」と呼ぶ現象が生じ、ボートデッキの船首方向から船を水が覆っていき、多くの人が水に呑まれた[131]。首席航海士ヘンリー・ワイルド、一等航海士マードック、二等航海士ライトラー、グレイシーなど、折りたたみボートA・Bを降ろそうとしていた人々は、2艘のボートと共に水に呑まれ、ボートBはハロルド・ブライドが下に押し込められたままの状態で逆さまに浮かび、ボートAは脇のキャンバスが立っていない状態で部分的に浸水してしまった。ブライド、グレイシー、ライトラーはボートBまでたどり着いたが、マードックとワイルドは海で亡くなった[132][133]。
ライトラーは増える群衆から逃げるために持ち場を離れ、上級船員区域の屋根から水に飛び込んだ。通風シャフトの入り口に吸い込まれたが、「恐ろしい熱い爆風」ですっかり吹き飛ばされ、ひっくりかえった救命ボートの脇に浮かび上がった[134]。前方の煙突は自重で崩れ、水に落ちる時に数人をつぶしたが、救命ボートには当たらなかった[135]。 煙突はライトラーをかすめ、立った波でボートが50ヤード (46 m)ほど沈没船から遠くへ流された[134]。まだタイタニックに残っていた人々は、強い圧力がかかって船が震えるのを感じた[136][137]。
目撃者によると、船首が水に沈むにつれてタイタニックの船尾は空中に高く上がった。角度は30-45度ほどに達していたという[138][139]。多くの生存者が大きな音を聞いており、これはボイラーの爆発によるものと考える者もいた[140][139]。少し経ってから船の灯りが一度明滅したのを最後にタイタニックは完全に真っ暗闇になった。
タイタニックは反対の2方向から極端な力をかけられていた。浸水した船首は船を下に引っ張り、一方で空中に上がった船尾は船を海面に保とうとしていた。この2つの力が船の構造上最も弱い場所であるエンジン室ハッチのあたりに集中した。灯りが消えた直後、船体が折れた。浸水した船首は短期間、竜骨で船尾に繋がっていたかもしれず、船尾を高角度で引っ張った後に離れて、船尾は数分長く浮いていた。船尾の前方はすぐさま浸水し、傾いた後に短い間止まったが、沈んだ[141][142][143]。船は2時20分、氷山衝突の2時間40分後に見えなくなった[144]。
タイタニックの事故から生還した航海士や多くの著名な生存者は、船はそのままのひとつながりの状態で沈んでいったと証言した。これは英米の災害調査でも裏付けられている[145]。しかしながらロバート・バラードによると、沈む時は既に2つに分かれていたという証言も多数ある[146]。今では、エンジンはボイラーの大部分と共にそのままの場所にあったことがわかっており、目撃者が聞いた「大きな音」と船尾の一瞬の落ち着きは、おそらく船の建材の緩みやボイラーの爆発によるものではなく、船が折れたために生じた[147]。
水面下に潜ってからたった数分のうちに船首と船尾は3,795メートル (12,451 ft)沈降し、吐き出された重機[訳語疑問点]、何トンもの石炭、内部から生じた大量の瓦礫がその後を追った。船の2つの部分は600メートル (2,000 ft)離れてゆるやかに起伏している海底に落ちた[148]。流線型の船首部分は海面にあった時と同じような角度で沈下し続けて、推定25–30 mph (40–48 km/h)ほどの速さで舳先から浅い角度で海底に衝突した[149]。はずみで海底に深い穴ができ、堆積物の中に20メートル (66 ft)ほど埋まった後急停止した。突然の減速のため、船首部分はブリッジのすぐ前あたりで多少曲がった。船首部分最後尾のデッキは折れた際に既に弱くなっており、次々と崩れた[150]。
船尾部分はほぼ垂直に、おそらく回転しながら沈んでいった[149]。空のタンクとコファダム(タンク間にある、水や油の混ざりを防止するための空間)は降下につれて内側に破裂し、船に穴があいて船尾楼甲板が裂けた[151]。船尾部分は強い力で海底に衝突し、舵の部分が15メートル (49 ft)ほど埋まった。デッキは互いに重なった状態で潰されて落ち、船殻の外壁は両側に広がった。沈没後も瓦礫が数時間海底に降り続けた[150]。
水中の乗客とクルー (2時20分–4時10分)
[編集]沈没の結果として、数百名の乗客とクルーはすぐさま船の瓦礫に囲まれて冷たい海で死を待つだけの状態に置かれた。タイタニックが海底に降下しながら分解したため、木の梁、ドア、家具、パネルや隔壁に使われていたコルクなど瓦礫の塊が浮いて海面に急速に上がってきた。この瓦礫によって泳いでいた人々がケガをしたり、おそらく亡くなったりした。浮いているために瓦礫につかまった者もいた[152]。
海水はマイナス2℃という温度で、命に危険を及ぼす冷たさであった。二等航海士ライトラーは、海に入ると体に「1,000本ものナイフに突き刺されたように感じた」と述べている[151]。循環器官への急激なストレスのため、心臓発作を起こしてほぼすぐに亡くなった人もいたと考えられる[153]。最初はひどい震えがきて、体温が低下するとともに脈拍が遅く弱くなり、意識を失って死亡するという典型的な低体温症が進行していった人もいた[153]。救命ボートに乗っていた人々は、海に落ちた人々の苦しみの声にひどく脅え、大きなショックを受けた[154][155]。
水中にいた人の中で助かったのはごくわずかであった。そのうち、アーチボルド・グレイシー、ジャック・セイヤー、チャールズ・ライトラーの3名は、ひっくり返った折りたたみボートBにたどり着いた。折りたたみボートBには12人ほどのクルーが上り、出来る限り救出を行ったが、35人の男性がひっくり返った船殻に不安定にしがみついた。周りで多数の人が泳いでいたためにボートが浸水する危険があることに気付き、ボート上の人々は、乗せてくれと言いながら泳ぐ何十人もの人々の願いを無視してゆっくり漕いでその場を離れた[156]。おそらく20人以上の人々が泳いで折りたたみボートAにたどり着いたが、側面がきちんと立てられていなかったため部分的に浸水していた。このボートに乗った人々は、浸水した極めて冷たい水の中に足を突っ込んだまま何時間も座って待たねばならず、その夜のうちに多くの人が低体温症で死亡した[122]。
さらに遠いところでは、他の18艘の救命ボートがいた(そのほとんどには空席があった)が、泳いでいる人々を救助するために何をすべきか乗船者同士で議論しながら漂い続けていた。4番ボートは沈没現場から50メートルほど離れた場所に留まっており、沈没箇所の最もそばにいた。このため、船が沈む前に2人がボートに飛び降り、さらにもう1人を海から拾うことができた[157]。
沈没後に7人を海から引き上げたが、2人は後に死んでしまった。折りたたみボートDは降ろされた直後、海に飛び込んでボートまで泳いだ男性乗客を救助した。残りのボートは転覆を恐れ、戻らないことに決めた。もっとぶっきらぼうに反対した者もいた。6番ボートを指揮していた操舵員ヒッチェンスは自分のボートに乗っている女性たちに、「あそこにはたくさんの死体があるだけ」だから戻っても無駄だと言った[158]。
20分ほどたって、泳いでいる者たちは意識を失っていったため、叫びは消え始めた[159]。14番ボートに乗っていた五等航海士ロウは叫びが収まってから水中の人々の救出に向かった[160]。5艘の救命ボートを集め、乗船者を移して14番に空きを作った。ロウは7人のクルーとボランティアの男性客1人を集めて、沈没した場所に漕ぎ戻った。これには45分ほどかかった。14番ボートが沈没箇所に戻った頃には、水中の者はほぼ皆亡くなり、声はわずかしか聞こえなかった[161]。ロウのクルーは4人の男性がまだ生きているのを見つけたが、そのうちの1人は直後に亡くなった。
他のボートでは、救助船が来るのを待つ以外、生存者は何もできなかった。刺すような寒さで、浸水したボートもあった。生存者はボートにまったく食べものや飲み水がないと知り、また灯りもほとんどなかった[162]。折りたたみボートBは状況が特に悪く、ひっくり返った船体の裏で少しずつ小さくなっていくエアポケットのおかげで浮いているというような有様であった。夜明けが近づくと風が起こり、海がどんどん荒れるようになったため、折りたたみボートの人々はバランスを保つために立たねばならなくなった。苦難に疲れ果て、海に落ちて溺れた者もいた[163]。残った者たちにとっても、波をかぶりながら船殻でバランスを取ることが困難になっていった[164][165]。泳いで折りたたみボートAにたどり着いた者の中には、ボートの上に登るだけの体力が残っていなかった者もおり、ボートの脇につかまるしかなかった。夜の間に亡くなった人々の遺体の多くは、生存者の場所を空けるため海に落とされた。
救助と出発 (4時10分–9時15分)
[編集]タイタニックの生存者は、4月15日の4時00分頃にカルパチアによって救助された。カルパチアは多数の氷山を避けつつ、最高速でかなりの危険を冒してやってきた[164]。3時30分頃、カルパチアの船灯がはじめて目撃されてからは生存者の士気が非常に上がったが、全員がカルパチアに乗り込むまでにはさらに何時間もかかった[164]。
折りたたみボートBに乗っていた30人以上の人々は結局他の2つの救命ボートに乗り込むことができたが、移乗が済む直前に1人が亡くなった[166]。折りたたみボートAでも問題が起こっていた。ほとんど波に洗われたも同然の状態であったため、かなり多く、おそらくは半分以上の乗船者がその夜のうちに亡くなった[151]。残った生存者の数は不明で、10~11人から20人以上の間くらいの数の男性と、1人の女性と考えられているが、折りたたみボートAから他の救命ボートに移動した。折りたたみボートAには3人の遺体が残り、海に浮かんで漂うままに残された。1か月後、遺体がまだ乗っている状態でホワイト・スター・ラインの船「オーシャニック」に発見された[166]。
カルパチアに乗っていた人々は、日の出とともに目撃した氷だらけの海の光景に大変驚いた[167]。カルパチアのアーサー・ロストロン船長は、200フィート (61 m)以上ある20もの大きな氷山と多数の小さな氷山、浮氷、タイタニックの瓦礫からなる氷だらけの海を目撃した[167]。カルパチアの乗客には、自分たちの船は大きな白い氷原のど真ん中にいて、遠くには丘のような氷山が点在しているように見えたという[168]。
救命ボートがカルパチアのそばに寄り、生存者はさまざまな方法でカルパチアに乗った。ロープばしごを登る体力がある者もいたが、そうでない者は吊り索で、子供は郵便袋で引き上げられた[169]。最後に船にたどり着いたのはライトラーの12番ボートで、定員65人に対し74人も乗っていた。この最後の生存者たちも9時00分までには全員カルパチアに移った[170]。助かった者たちには家族や友人と再会を果たす場面もあったが、ほとんどの場合は親しい者を見つけられずに、希望が潰えることとなった[171]。
9時15分にもう2隻、マウント・テンプルとカリフォルニアンが到着した。カリフォルニアンは無線オペレーターが仕事に戻った時にやっと事故を知った。しかしながらこの頃までには既に救助が必要な生存者はいなくなっていた。カルパチアはオーストリア=ハンガリー帝国のフィウメ(現在のクロアチアのリエカ)に行く予定であったが、生存者に提供する備蓄も医療設備もなかったため、ロストロン船長は、生存者が適切な保護を受けられそうな場所であるニューヨークへ戻る航路を検討するよう命じた[170]。カルパチア号は現場を出て、他の船は最後に2時間捜索を行ったが、成果はなかった[172][173]。
その後
[編集]嘆きと怒り
[編集]沈没事故から3日後、4月18日の夕方にタイタニックの乗客乗員を収容したカルパチアが叢氷、霧、雷雨、時化などに見舞われる多難な航海を経て、ニューヨークの54番埠頭に到着した[174][175]。波止場には各船舶からの無線報告で沈没事故を知らされていた40,000人もの群衆が集まっていた。事故の全貌が一般にも知られるようになったのはこの後であった[175]。
カルパチアがニューヨークに着く前から、遺体を回収するための努力が続けられていた。ホワイト・スター・ラインにチャーターされた4隻の船が328体の遺体を発見し、119体は水葬され、残る209体はカナダ、ノバスコシア州ハリファックスの港に持ち帰られた[174]。150体はここに埋葬された[176]。ニューヨーク、ワシントン、サウサンプトン、リヴァプール、ベルファスト、リッチフィールドなど、さまざまな場所に記念碑が建てられた[177]。大西洋の両岸で死者を追悼し、生存者を支援するための資金を募るセレモニーが行われた[178]。タイタニックの犠牲者の遺体のほとんどは発見できず、73年後に海底の瓦礫の中から死の証拠とされるものが見つかっただけであった。靴が1足揃えて置いてあるのが海底で見つかり、遺体が分解されるまでそこにあったことが推測される[22]。
世間の事故への反応はショックと憤りであり、それらは多くの事柄や人物に向けられた。なぜ乗客・乗員数に見合う数の救命ボートを載せていなかったのか、なぜ他の人々が多数亡くなったのにイズメイは自分の命を救ったのか、なぜタイタニックは氷原を最高速度で進んでいたのか、といったものである[179]。生還者も少なからず義憤を感じていた。カルパチアでニューヨークへ向かう道すがら、ローレンス・ビーズリーやその他の者たちは海上保安のための啓発活動をすると心に決めており、「タイムズ」宛てに海事安全法規の改正を訴える公開書簡を書いた[180]。
タイタニックに縁のあった場所でも大変嘆きが深かった。サウサンプトンは699名のクルーの母港であり、多数の乗客の故郷でもあった[181]。愛する人々の死の知らせを聞いたクルーの親族などからなる女性たちは、泣いてサウサンプトンのホワイト・スター・ライン事業所の外に押しかけた[182][183]。ベルファストの教会は人で溢れ、造船所の職員たちが通りに出て泣いていたという。タイタニックはベルファストの工業発展の象徴であり、造船に携わった人たちは自分たちにも事故について何かしらの責任があるのではないかと感じていたため、嘆きだけではなく罪の意識もあった[184]。
アーネスト・バックスは『フェミニズムの詐欺』(1913)で騎士道を「男性を犠牲にして女性に特権を与えるために、最も基本的な個人的権利を男性から奪い取ること」だと述べ、沈没事故時に行われたレディーファーストと男性を救助しなかったことを批判した[185]。
調査と法的措置
[編集]沈没の後、イギリスとアメリカ合衆国で公的調査が行われた。アメリカの調査は、ウィリアム・オールデン・スミス上院議員を議長として4月19日に始まった[186]。イギリスのロンドンでも1912年5月2日に初代マージー子爵ジョン・ビンガムのもとで調査が始まった[187]。どちらの調査も大方同じような結論に至ったが、それは以下のようなものであった
- 船が積まねばならない救命ボートの数についての規制は時代遅れで不適切だと見なされた[188]。
- スミス船長は氷山の警告に適切な注意を払っていなかったと考えられる[189]。
- 救命ボートへの適切な乗船と人員配置が行われていなかった。
- 衝突は蒸気船が危険区域をあまりにも高速で航行したことが直接の原因であった[188]。
- カリフォルニアンのロード船長は、タイタニックを支援しなかったことで、調査において強く批判された[190]。
英米どちらの調査においても、国際海運商事(親会社)やホワイト・スター・ライン(タイタニックの所有者)による過失は原因と認められなかった。アメリカの調査では、関係者は通常の慣行に従っており、事故は「不可抗力」としか言えないものであろうと述べた[191] 。イギリスの調査では、スミスは今までは危険と見なされていなかった長きにわたる慣行に従い、他の人々でも行うようなことをしていただけだと述べた[192]。この調査では、イギリスの船舶は過去10年で73人の命しか失わずに350万人もの乗客を輸送してきたことについて着目していた[193]。イギリスの調査では、タイタニック号で起こった「誤り」が将来も繰り返されたなら、「過失」として扱われることになるであろうという警告も行った[192]。
この大事故により、海事法規について新しい安全対策を施行するよう大きな改正が行われた。もっと多くの救命ボートを確実に搭載すること、救命ボート訓練が適切に行われること、乗客のいる船の無線機には24時間スタッフをつけることなどである[194]。国際海氷パトロールが北大西洋の氷山の有無をモニターするために組織され、海事安全規則は海上における人命の安全のための国際条約によって国際的に統一された。双方ともに今日でも実施されている方策である[195]。
文化的影響と沈没船の残骸
[編集]タイタニックの沈没は文化現象となり、沈没直後から現在まで、芸術家、映画作家、作家、作曲家、音楽家、ダンサーによりこれを記念する作品が作られてきた[196]。1985年9月1日には、ロバート・バラード率いるアメリカとフランスの合同遠征隊が、海底でタイタニックの残骸を発見した[197]。
船の再発見により、タイタニックの物語に対する関心が爆発した[198]。残骸の撮影や遺物のサルベージなども論議を生んだ[195]。再発見された遺物の最初の大きな展示会は、ロンドンの国立海事博物館で、1994年から1995年にかけて行われた[199]。
1997年にジェームズ・キャメロン監督のアメリカ映画『タイタニック』が、史上初めて興行収入10億米ドルを超えた映画となり、映画のサウンドトラックも、史上最も売れたサウンドトラックとなった[200]。
残骸は、現在も腐食を続けている[201]。最終的にはタイタニック号の船体は崩れて、海底にサビの断片が散らばるだけになり、残った船殻のスクラップは、もっと長持ちするプロペラスクリュー、ブロンズの車地、コンパス、テレモーターなどのような備品類と混ざってしまうと考えられる[202]。
犠牲者と生存者
[編集]内訳
[編集]出航直前の乗船キャンセルによって乗客リストが混乱していることや、様々な理由により偽名を使って乗船した人が犠牲者リストに重複して数えられていることなど、いくつかの要因のため沈没による被害者数は正確にはわかっていない。死者数は1,490人から1,635人と見積もられている。下表の数字は、この災害についてイギリス商務省が報告したものである。
分類 | 搭乗者種別 | 搭乗者数 | 搭乗者比率 | 生存者数 | 犠牲者数 | 生存割合(分類別) | 死亡割合(分類別) | 生存割合(全搭乗者) | 死亡割合(全搭乗者) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
子供 | 一等船客 | 6 | 0.3% | 5 | 1 | 83% | 17% | 0.2% | 0.04% |
二等船客 | 24 | 1.1% | 24 | 0 | 100% | 0% | 1.1% | 0% | |
三等船客 | 79 | 3.6% | 27 | 52 | 34% | 66% | 1.2% | 2.4% | |
計 | 109 | 4.9% | 56 | 53 | 51% | 49% | 2.5% | 2.4% | |
女性 | 一等船客 | 144 | 6.5% | 140 | 4 | 97% | 3% | 6.3% | 0.2% |
二等船客 | 93 | 4.2% | 80 | 13 | 86% | 14% | 3.6% | 0.6% | |
三等船客 | 165 | 7.4% | 76 | 89 | 46% | 54% | 3.4% | 4.0% | |
クルー | 23 | 1.0% | 20 | 3 | 87% | 13% | 0.9% | 0.1% | |
計 | 425 | 19.1% | 316 | 109 | 74% | 26% | 14.2% | 4.9% | |
男性 | 一等船客 | 175 | 7.9% | 57 | 118 | 33% | 67% | 2.6% | 5.3% |
二等船客 | 168 | 7.6% | 14 | 154 | 8% | 92% | 0.6% | 6.9% | |
三等船客 | 462 | 20.8% | 75 | 387 | 16% | 84% | 3.3% | 17.4% | |
クルー | 885 | 39.8% | 192 | 693 | 22% | 78% | 8.6% | 31.2% | |
計 | 1,690 | 75.9% | 338 | 1,352 | 20% | 80% | 15.2% | 60.8% | |
合計 | 2,224 | 100% | 710 | 1,514 | 31.9% | 68.1% |
三等船客で生き残った人は半数以下だった。沈没から生き延びた人の中にも、事故後すぐに亡くなった人もいる。怪我や寒さなどに晒されたことで、カルパチア号に乗った後に亡くなった人々もいた[203] 。表に示されたグループのうち、49%の子供と26%の女性乗客、82%の男性乗客、78%のクルーが亡くなった。統計では、タイタニック号の乗客の生存率には船客等級によってはっきりとした差があり、特に女性と子供の乗客では顕著であった。一等船客と二等船客の女性の行方不明者は10%以下であったが、三等船客で亡くなった人は54%である。
同様に、一等船客の子供6人のうちの5人と、二等船客の子供全員は生き残った。だが、三等船客の子供は79人中52人が亡くなった[204]。唯一亡くなった一等船室の子供は、2歳のローレン・アリソンである[205]。
最も死亡率が高かったのは二等船客の男性で、92%の人が亡くなった。また、乗せられたペットのうち3匹だけが沈没から生き残った。
生存者の特定
[編集]保護者のいない状態で救助されたミシェル・ナヴラティルと弟エドモンの兄弟は幼く、また英語を話せなかったため「タイタニックの孤児」(Titanic Orphans)と大きく報じられた。その後、報道を見た母親と再会を果たし、身元が特定された。
犠牲者の特定
[編集]事故後、マッケイ=ベネット号(en:CS Mackay-Bennett)による遺体収容が行われ、カナダのハリファックスに多数の身元不明の遺体が回収、埋葬されている。身元の特定は21世紀を迎えて以降も継続されている。
近年では身元不明の遺体の「NO.4」がエイノ・パヌラと特定されたものの、後の再鑑定でシドニー・レスリー・グッドウィンと訂正された。
最後の生存者たち
[編集]2009年5月31日、ミルヴィナ・ディーン(事故当時:生後9週間)が97歳で死去したため、事故の生存者全員が故人となった。事故の記憶のある最後の生存者はリリアン・アスプランド(事故当時:5歳)で、2006年に死去している。 なお、中国人乗船客も8名乗船していた事が後に判明し、2名が死亡し、残り6名が助かっているが、2名が途中までしか足取りが掴めず、さらに残りの4名の子孫が現在判明している。
事故原因
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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関連項目
[編集]- 細野正文 - 唯一の日本人乗客で生還した。細野晴臣の祖父。
- ナショナルジオグラフィックチャンネル - 衝撃の瞬間第4シーズン「タイタニック沈没事故」で本事故を扱った。
- SOLAS条約 - 事故を契機として、船舶の安全の装備等を定めた国際条約。1914年
- 潜水艇タイタン沈没事故 - 2023年6月18日頃に起きた潜水艇の沈没事故。海底に眠るタイタニック号の残骸を潜水艇で見物しようとして起きた。
- タイタニック号に関する陰謀論 - タイタニック号が沈没前に姉妹艦のオリンピック号とすり替えられていたという説などが存在する。
外部リンク
[編集]- Encyclopedia Titanica
- Sinking of the Titanic - ウェイバックマシン(2012年4月20日アーカイブ分)
- Flooding by Compartment (Samuel W. Halpern) - Titanicology
- TimesMachine browser — The New York Times, Tuesday, April 16, 1912