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2016年11月18日 (金) 07:10時点における版
トミー・ボーリン Tommy Bolin | |
---|---|
基本情報 | |
出生名 | Thomas Richard Bolin |
生誕 | 1951年8月1日 |
出身地 |
アメリカ合衆国 アイオワ州スーシティ |
死没 | 1976年12月4日(25歳没)、 アメリカ合衆国 フロリダ州マイアミ |
ジャンル |
ハードロック ブルースロック ファンクロック ジャズ フュージョン |
職業 | ミュージシャン、作曲家 |
担当楽器 | ギター、ピアノ、ドラムス、ベース、オルガン |
活動期間 | 1968年 - 1976年 |
共同作業者 |
ゼファー エナジー ジェイムス・ギャング ディープ・パープル |
トミー・ボーリン(Tommy Bolin, 1951年8月1日 - 1976年12月4日)はアメリカ人のロック・ギタリスト。
ハードロック・バンド「ディープ・パープル」の元メンバーとして知られる[1]。
略歴
本名トーマス・リチャード・ボーリン。アメリカ合衆国アイオワ州で生まれる。
12歳からドラムを始め、その後ギターを弾き始める。オルガンも経験していたとされている。
- 黎明期
- いくつかのアマチュア・バンドを経て、1968年、ハードロック・バンドのゼファー(Zephyr)のギタリストとしてプロ・デビューを果たす。3年間在籍した後、エナジーというバンドに移籍。さらにエナジー脱退後の1973年、フルート奏者のジェレミー・スタイグの紹介により、ビリー・コブハムのアルバム「スペクトラム (Spectrum) 」に参加し高い評価を得る[2]。
- メインストリーム
- その後、商業的に成功していたアメリカのバンドジェイムス・ギャング (James Gang) に、ドミニク・トロイアーノの後任として参加。ジェイムス・ギャングの初代ギタリスト、ジョー・ウォルシュの推薦によるものだった。
- 1974年7月にジェイムス・ギャングを脱退した後、セッション活動の傍ら、自身初のソロ・アルバムである「炎のギタリスト(Teaser)」の製作を開始する(同アルバムの参加ミュージシャンにはボビー・バーグ、スタンリー・シェルダン、デイヴィッド・フォスター、ジェフ・ポーカロ、フィル・コリンズ、ヤン・ハマー、グレン・ヒューズ、デイヴィッド・サンボーン、ナラダ・マイケル・ウォルデン等、後年音楽シーンで活躍するメンバーが名を連ねている)。
- ディープ・パープルに加入
- 1975年6月、イギリスのハードロックバンド、ディープ・パープルに、リッチー・ブラックモアの後任ギタリストとして加入。
- その経緯は、ドラムのイアン・ペイスの自宅にジョン・ロードが赴いた際に聞いていたビリー・コブハムのアルバム"スペクトラム"収録の、"Quadrant4"でトミーが演奏していた猛烈なギターソロに衝撃を受け、加入を打診したという有名なエピソードがある。また、当時のメンバーだったグレン・ヒューズは、デヴィッド・ボウイの協力があったとも述べている[3]。
- アルバム「カム・テイスト・ザ・バンド」(Come Taste the Band)を発表した後ワールド・ツアーにも参加するが、1976年7月にディープ・パープルは解散。
- 晩年
- その後は自らのバンドを結成し、2枚目のソロ・アルバム「魔性の目(Private Eyes)」を発表する。
- 死因は、麻薬の過剰摂取 (オーバードース) であると発表された。麻薬常習者であった彼の身体異常は、ディープ・パープルのツアーの時点で既に表面化しており、ラスト・コンサート・イン・ジャパン (Last Concert in Japan) では(後に東南アジアでの粗悪なヘロインの摂取が原因だと判明する)手と指の麻痺によってボトルネックギターしか演奏する事が出来なかったと言われている。近年ではアルバムの再発などによって再評価する声があるが、当時はこれらの件のために、「ディープ・パープルを解散に追いやった下手くそギタリスト」の烙印を押されてしまう他、ソロアルバムでのジャズとロックの融合もベックが美味しい所を持って行ってしまう等、最近では「悲運のギタリスト」と呼ばれることもある。
使用楽器
ディープ・パープル時代の使用楽器はフェンダー社のストラトキャスターが3本、ギブソン社のレスポール・スタンダードが1本、ディープ・パープルでの来日時にヤマハから提供された特注SX-125が1本である[4]。ストラトキャスターは3本とも1954年製のスモールヘッドモデルで内1本がテレキャスターのネックを取り付けていた。またもう一本はボディの塗装を剥がし、ニスと思われる塗料で塗り直されていた。 使用アンプはハイワット社のカスタムハイワット100のアンプヘッドを3台、スピーカーはサウンドシティ社の12インチスピーカーが4個マウントされたキャビネットを6台並べていた。 エフェクター類についてはマエストロ社のエコー・プレックスやMXR社のフェイザーなどを主に使用していた。
脚注
- ^ ディープ・パープル、ロックの殿堂で過去メンバーが集まったら無視し合うことになると語る - NME JAPAN
- ^ 『YOUNG GUITAR』プレゼンツ新刊、トミー・ボーリン特集が発売! - CDjournal
- ^ グレン・ヒューズ「デヴィッド・ボウイのおかげでディープ・パープルに留まった」 - BARKS
- ^ 後にヤマハに返却され、長らく保管されていたが、現在は大のトミー・ボーリンのファンである山本恭司が所有している。本人曰く「エンドース契約したギタリストから返還されたギターは税制上の問題から廃棄処分しなくてはならないらしくて、それではあまりに勿体無いから引き取った」とのことである。