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[[1951年]]にブルガリア共産党の[[政治局]]員となり、[[1954年]]3月に党[[書記長]]に就任する。[[1962年]]にはブルガリア人民共和国閣僚評議会議長(首相)を兼任。[[1971年]][[7月7日]]からは、新設のブルガリア人民共和国国家評議会議長(国家元首)を務める。ジフコフはソ連と友好関係を保ち、ソ連の支援の下で農業国ブルガリアの工業化を推進した<ref>南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P163-168</ref>。 |
[[1951年]]にブルガリア共産党の[[政治局]]員となり、[[1954年]]3月に党[[書記長]]に就任する。[[1962年]]にはブルガリア人民共和国閣僚評議会議長(首相)を兼任。[[1971年]][[7月7日]]からは、新設のブルガリア人民共和国国家評議会議長(国家元首)を務める。ジフコフはソ連と友好関係を保ち、ソ連の支援の下で農業国ブルガリアの工業化を推進した<ref>南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P163-168</ref>。 |
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しかし、1980年代に入ると工業化による経済成長は頭打ちとなり、経済は停滞し始めた。1982年、ジフコフは企業の独立採算制の容認や西側の外資導入などの経済改革を図るが、その一方で1984年にはジフコフ政権の体制は強化され政治改革は進められなかった<ref>南塚、宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P168</ref>。同じ1984年には、ジフコフ政権はトルコ系住民へのスラヴ名強制などの民族同化政策を行い、トルコ系住民の反発を招いた。さらに1989年になるとジフコフはトルコ系住民をトルコへの事実上の追放を行ったため、それによる労働人口の減少などを招き、ブルガリア経済の悪化、国内の不安定化、国際社会の反発を生んだ。また、ジフコフはまだ30代だった息子を党の要職に就けるなどの[[縁故主義]]に走っていった。1989年は[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]、[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]などの[[東欧革命|東欧諸国の民主化]]が始まっており、10月には強権的だった[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[エーリッヒ・ホーネッカー]]も失脚していたが、ジフコフは1987年にソ連の[[ペレストロイカ]]に表向きは賛同したものの、実際には全く改革を行わなかったため、党内からもジフコフへの不満が渦巻き、[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]の[[ミハイル・ゴルバチョフ]][[ソ連共産党書記長|書記長]]もジフコフには冷淡な態度を取るようになっていた<ref> 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 |
しかし、1980年代に入ると工業化による経済成長は頭打ちとなり、経済は停滞し始めた。1982年、ジフコフは企業の独立採算制の容認や西側の外資導入などの経済改革を図るが、その一方で1984年にはジフコフ政権の体制は強化され政治改革は進められなかった<ref>南塚、宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P168</ref>。同じ1984年には、ジフコフ政権はトルコ系住民へのスラヴ名強制などの民族同化政策を行い、トルコ系住民の反発を招いた。さらに1989年になるとジフコフはトルコ系住民をトルコへの事実上の追放を行ったため、それによる労働人口の減少などを招き、ブルガリア経済の悪化、国内の不安定化、国際社会の反発を生んだ。また、ジフコフはまだ30代だった息子を党の要職に就けるなどの[[縁故主義]]に走っていった。1989年は[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]、[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]などの[[東欧革命|東欧諸国の民主化]]が始まっており、10月には強権的だった[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[エーリッヒ・ホーネッカー]]も失脚していたが、ジフコフは1987年にソ連の[[ペレストロイカ]]に表向きは賛同したものの、実際には全く改革を行わなかったため、党内からもジフコフへの不満が渦巻き、[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]の[[ミハイル・ゴルバチョフ]][[ソ連共産党書記長|書記長]]もジフコフには冷淡な態度を取るようになっていた<ref> 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P138-140</ref><ref>南塚、宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P172-174</ref>。これに危機感を抱いた政治局員・外相の[[ペータル・ムラデノフ]]はジフコフ批判の書簡を発表して辞任した。これをきっかけに党内ではジフコフ下しの動きが強まり、政治局員の[[ヨルダン・ヨトフ]]・党書記でソ連とパイプを持っていた[[ディミタル・スタニシェフ]]・古参党員で政治局員の[[ドブリ・ジュロフ]][[ブルガリア国防省|国防相]]らがジフコフに退陣を迫った。[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁が崩壊]]した[[11月9日]]についにジフコフは辞任を表明。ムラデノフが政治局員の推薦を受けて後継の党書記長に就任した<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P150-154</ref>。ジフコフは続いて[[11月17日]]に国家評議会議長も辞任した。さらにジフコフは党を追放されて自宅軟禁された上で、公金横領罪で起訴され、1992年に[[懲役]]7年の判決を受けた<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P156、P169</ref>。1998年8月5日、86歳で死去した。 |
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=== 死後の評価 === |
=== 死後の評価 === |
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トドル・ジフコフ Тодор Живков | |
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トドル・ジフコフ(1979年) | |
生年月日 | 1911年9月7日 |
出生地 | ブルガリア プラヴェツ |
没年月日 | 1998年8月5日(86歳没) |
死没地 | ブルガリア、ソフィア |
所属政党 | ブルガリア共産党(1932-1990) |
称号 | ソビエト連邦英雄 |
配偶者 | マーラ・マレエヴァ |
在任期間 | 1971年7月7日 - 1989年11月17日 |
ブルガリア人民共和国 閣僚評議会議長 | |
在任期間 | 1962年11月19日 - 1971年7月7日 |
人民共和国議会幹部会議長 |
ディミトゥル・ブルバノフ ゲオルギ・トライコフ・ギロフスキ |
その他の職歴 | |
ブルガリア共産党中央委員会書記長 (1954年3月4日 - 1989年11月10日) |
トドル・フリストフ・ジフコフ(ブルガリア語: Тодор Христов Живков, ラテン文字転写: Todor Hristov Zhivkov、1911年9月7日 - 1998年8月5日)はブルガリアの政治家。ブルガリア共産党書記長(在任:1954年 - 1989年)、国家評議会議長(在任:1971年 - 1989年)、閣僚評議会議長(首相)(在任:1962年 - 1971年)を務め、同国の最高指導者として、35年の長きに渡り君臨した。
生涯
生い立ち
プラヴェツ近くの小さな村の貧しい家庭に生まれた。青年時代に職を求めてソフィアに移り住んだ。そこでマルクス主義者となり、1932年正式にブルガリア共産党に入党し、コムソモールの一員となった。
政歴
第二次世界大戦時は、ナチス・ドイツに対するレジスタンス運動に加わり、戦後はブルガリア人民軍司令官として帰国した。その後、ブルガリアは王制を廃してブルガリア人民共和国となり、事実上ソビエト連邦の衛星国となった。
1951年にブルガリア共産党の政治局員となり、1954年3月に党書記長に就任する。1962年にはブルガリア人民共和国閣僚評議会議長(首相)を兼任。1971年7月7日からは、新設のブルガリア人民共和国国家評議会議長(国家元首)を務める。ジフコフはソ連と友好関係を保ち、ソ連の支援の下で農業国ブルガリアの工業化を推進した[1]。
しかし、1980年代に入ると工業化による経済成長は頭打ちとなり、経済は停滞し始めた。1982年、ジフコフは企業の独立採算制の容認や西側の外資導入などの経済改革を図るが、その一方で1984年にはジフコフ政権の体制は強化され政治改革は進められなかった[2]。同じ1984年には、ジフコフ政権はトルコ系住民へのスラヴ名強制などの民族同化政策を行い、トルコ系住民の反発を招いた。さらに1989年になるとジフコフはトルコ系住民をトルコへの事実上の追放を行ったため、それによる労働人口の減少などを招き、ブルガリア経済の悪化、国内の不安定化、国際社会の反発を生んだ。また、ジフコフはまだ30代だった息子を党の要職に就けるなどの縁故主義に走っていった。1989年はハンガリー、ポーランドなどの東欧諸国の民主化が始まっており、10月には強権的だった東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカーも失脚していたが、ジフコフは1987年にソ連のペレストロイカに表向きは賛同したものの、実際には全く改革を行わなかったため、党内からもジフコフへの不満が渦巻き、ソ連共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長もジフコフには冷淡な態度を取るようになっていた[3][4]。これに危機感を抱いた政治局員・外相のペータル・ムラデノフはジフコフ批判の書簡を発表して辞任した。これをきっかけに党内ではジフコフ下しの動きが強まり、政治局員のヨルダン・ヨトフ・党書記でソ連とパイプを持っていたディミタル・スタニシェフ・古参党員で政治局員のドブリ・ジュロフ国防相らがジフコフに退陣を迫った。ベルリンの壁が崩壊した11月9日についにジフコフは辞任を表明。ムラデノフが政治局員の推薦を受けて後継の党書記長に就任した[5]。ジフコフは続いて11月17日に国家評議会議長も辞任した。さらにジフコフは党を追放されて自宅軟禁された上で、公金横領罪で起訴され、1992年に懲役7年の判決を受けた[6]。1998年8月5日、86歳で死去した。
死後の評価
ジフコフは良くも悪くもブルガリアを発展させた人物であることは間違いない。元々、典型的な農業国であり、ヨーロッパの最貧国の一つでもあったブルガリアをソ連の支援のもと、ある程度の工業化を果たした。その結果、高失業率に悩み、他国に出稼ぎに行かなければ生きていけなかったブルガリア人は、共産主義政権のもと、国民全員が最低限の生活を保障されることとなった。
しかし、ブルガリア経済は共産党の崩壊後、1989年から劇的に縮小。特にソビエト連邦を中心とした東欧の市場を喪失したことは大きな打撃となり、生活水準は1989年以前の約40%にまで落ち込んだ。さらに、ユーゴスラビアに対する国連の経済制裁はブルガリア経済に更なる打撃を与えた。
1994年には、国内総生産の成長と共にインフレーションを抑制するなど、回復の兆しを見せたが、1996年には貧弱な経済改革や不安定な銀行システムにより再び悪化し、金融危機に陥った。そこに追い打ちをかけるようにロシア財政危機が発生し、ブルガリアへも波及したことから、国内では失業者が増大し、生活水準も低下した。その一方で、小オリガルヒともいうべき財閥や大地主が誕生し、貧富の差が急速に拡大した。また、治安の面でも社会主義時代とは比較にならないほど悪化した。ロシアン・マフィアがブルガリアにも勢力を伸ばし、組織犯罪のネットワークが張り巡らされ、麻薬などの禁制品の密売や女性の人身売買が行われている。過去10年間で、マフィア関連の殺人事件や政治的暗殺の犠牲者は100人以上にも上り、首都ソフィアでは白昼堂々と殺人が行われたケースもある。
このような現状からブルガリア国内で近年、ジフコフの再評価や社会主義時代を懐かしむ声が急速に高まっている。
マルコフ暗殺事件
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
1969年にジフコフ率いる共産政権に反対してイギリスへ亡命し、以降、BBCワールドサービスなどでアナウンサーとして働き、ブルガリアの政権を非難していたゲオルギー・マルコフが、1978年にロンドンでリシンを仕込んだ弾丸を打ち込まれて毒殺された。この事件はジフコフがソ連のユーリ・アンドロポフ書記長に依頼しKGBの支援を取り付け、ブルガリア内務省のエージェントが行った犯行だと考えられている。[要出典]
日本との関係
共産主義国の指導者でありながら、資本主義国でありアメリカの同盟国でもあった日本に親近感を抱いていた。(親日家)1970年の大阪万博出席のため初訪日して以降、日本の経済発展に強い感銘を受け、その後も2度(合計3度)訪日したほか、有力者を次々に訪日させ「日本ロビー」を形成した[7]。
叙勲
- 1971年:ソ連邦英雄称号
参考文献
- ^ 南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P163-168
- ^ 南塚、宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P168
- ^ 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P138-140
- ^ 南塚、宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P172-174
- ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P150-154
- ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P156、P169
- ^ 外務省:ブルガリア共和国 二国間関係 1.政治関係 (1)
関連項目
- 一党独裁
- ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇) - 1981年の暗殺未遂事件でKGBと共に関与していたといわれる。
- 明治ブルガリアヨーグルト - ジフコフが来訪した大阪万博のブルガリア館がきっかけ。
公職 | ||
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先代 ゲオルギ・ギロフスキ (議会幹部会議長) |
ブルガリア人民共和国 国家評議会議長 初代:1971 - 1989 |
次代 ペトゥル・ムラデノフ |
先代 アントン・ユーゴフ |
ブルガリア人民共和国 閣僚評議会議長 第5代:1962 - 1971 |
次代 スタンコ・トドロフ |
党職 | ||
先代 ヴァルコ・チェルベンコフ |
ブルガリア共産党書記長 1954 - 1989 |
次代 ペトゥル・ムラデノフ |