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*3 Sat テレビの長時間インタビュー・ドイツ語。
*3 Sat テレビの長時間インタビュー・ドイツ語。
*アラ・グゼリミアン編(中野真紀子 訳)『バレンボイム/サイード 音楽と社会』(みすず書房 ISBN4-622-07094-4 C1036)
*アラ・グゼリミアン編(中野真紀子 訳)『バレンボイム/サイード 音楽と社会』(みすず書房 ISBN 4-622-07094-4 C1036)
:[http://www.msz.co.jp/titles/06000_07999/ISBN4-622-07094-4.html 同書の批評サイト]
:[http://www.msz.co.jp/titles/06000_07999/ISBN 4-622-07094-4.html 同書の批評サイト]


== 外部リンク==
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2016年11月15日 (火) 16:43時点における版

ダニエル・バレンボイム
ダニエル・バレンボイム(2008年 ウィーン楽友協会大ホール)
基本情報
出生名 Daniel Barenboim
生誕 (1942-11-15) 1942年11月15日(82歳)
出身地 アルゼンチンの旗 アルゼンチン ブエノスアイレス
学歴 ザルツブルク・モーツァルテウム大学キジアーナ音楽院サンタ・チェチーリア国立アカデミア
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者ピアニスト
担当楽器 指揮・ピアノ
活動期間 1950年 -
公式サイト http://www.danielbarenboim.com/

ダニエル・バレンボイムDaniel Barenboim, 1942年11月15日 ブエノスアイレス - )はアルゼンチン出身のユダヤ人ピアニスト指揮者。現在の国籍はイスラエル

経歴

ロシア出身のユダヤ系移民を両親として生まれる。5歳のとき母親にピアノの手ほどきを受け、その後は父エンリケに師事。両親のほかにピアノの指導を受けてはいない。少年時代から音楽の才能を表し、1950年8月まだ7歳のうちにブエノスアイレスで最初の公開演奏会を開いてピアニストとしてデビュー。

1952年に家族を挙げてイスラエルに移住。2年後の1954年夏、両親に連れられ、ザルツブルクイーゴリ・マルケヴィチ指揮法のマスタークラスに出席。同年夏、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを訪ねる。(フルトヴェングラーが「これは天才だ!」と紹介している映画のワン・シーンがある。)その他イタリアで当時無名で友人のクラウディオ・アバドと一緒に、フランコ・フェラーラの指揮クラスにも出席している。1955年パリ和声作曲ナディア・ブーランジェに師事。

1952年ウィーンローマにおいて、ピアニストとしてのヨーロッパ・デビューを果たす。1955年にはパリ1956年にはロンドンにデビューしており、1957年にはレオポルド・ストコフスキーの指揮で、ニューヨークにおいてオーケストラ・デビューを果たす。その後は、欧州米国南米豪州極東の各地で定期的に演奏会を行う。彼は既に21歳でベートーヴェンピアノソナタ全32曲を公開演奏している。

ピアニストとしての名声を確固たるものとした後、1966年からイギリス室内管弦楽団モーツァルトの交響曲録音を開始し指揮者デビューを果たす。1970年代からは、欧米各地の交響楽団から指揮者として招かれる。1975年から1989年までパリ管弦楽団音楽監督に就任しドイツ・オーストリア音楽や現代音楽を積極的にとり上げるが、同楽団の低迷を招いたとマスコミから攻撃されるなど、評価は必ずしも芳しくなかった。しかし、フランス物に偏らないプログラムを演奏したり、団員と積極的に室内楽を演奏するなど、良くも悪くもフランスのオーケストラだった同楽団をよりインターナショナルな団体へと脱皮させたのはバレンボイムの功績といえる。

1991年よりゲオルク・ショルティからシカゴ交響楽団音楽監督の座を受け継いでからは、卓越した音楽能力を発揮し、現在は世界で最も有名な辣腕指揮者のひとりとして知られている。ヘルベルト・フォン・カラヤンレナード・バーンスタインから近年のギュンター・ヴァントカルロ・マリア・ジュリーニガリー・ベルティーニに至るまで、第二次大戦後に活躍してきた指揮界の巨星が相次いで他界した後の、次世代のカリスマ系指揮者のひとりとして世界的に注目と期待が集まっている。なお2005-2006年のシーズン終了後のシカゴ交響楽団音楽監督を退任。2009年および2014年の元日にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサートを指揮した。

オペラ指揮者としては、1973年エディンバラ音楽祭において、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を指揮してデビュー。1981年にはバイロイト音楽祭に初めて招かれた。その後も1999年まで('84、'85年を除き)毎年バイロイトで指揮を続け、「指環」全曲、「マイスタージンガー」、及び二度の「トリスタン」の各々の新演出を任された。この間ジェームズ・レヴァインジュゼッペ・シノーポリらとともに音楽祭の中心的な指揮者として活躍した。1990年より、新設されたパリ・オペラ・バスティーユの音楽監督に就任予定だったが、直前に解任されスキャンダルとなった。1992年からはベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任し、現在まで継続している。更に2007年よりミラノ・スカラ座の「スカラ座のマエストロ」という、音楽監督不在の中の事実上の首席客演指揮者に就任。2007年の開幕で指揮を執った。2012年からは、スカラ座の音楽監督に就任する予定。

バレンボイムは2度結婚している。最初の相手はイギリスチェリストジャクリーヌ・デュ・プレであった。デュ・プレは才能に恵まれながらも、多発性硬化症の発病により、悲劇的にも突然に音楽家生命を断たれている。二度目の相手は、ギドン・クレーメルの前妻で、ユダヤ系ロシア人ピアニストのエレーナ・バシュキロワである(エレーナの父親は高名なピアノ教授ドミトリー・バシキーロフで、フリードリヒ・グルダの息子リコが門人にいる)。二人はデュ・プレの最晩年にはパリで同棲生活に入っており、二人の子をもうけていた。バレンボイムとエレーナ夫人の正式な結婚は1988年に行われた。

レパートリー

その国籍にもかかわらず、リヒャルト・ワーグナーリヒャルト・シュトラウスのようにイスラエル政府から「ナチス寄り」と認定された作曲家の解釈に本領を発揮しているが、これはバレンボイムがフルトヴェングラーに私淑し、その後継者たらんとしてきた姿勢によるだけでなく、ヤッシャ・ハイフェッツロリン・マゼール、レヴァインなどのアメリカのユダヤ系音楽家、あるいは同じくユダヤ人のショルティが、一般に新ドイツ楽派を得意のレパートリーとしている風潮とも合致している。(当時オーストリア支配下にあり、新ドイツ楽派の創始者リストの生地でもあるハンガリーに生まれ、初老期までドイツ国籍だったショルティは少し事情が異なる。)一方で民族的出自であるロシア物のレパートリーは、同じく他国で生まれたユダヤ系ロシア人であるバーンスタインやアンドレ・プレヴィンに比べても、さほど比重が大きくない。ベートーヴェンやブラームスブルックナーの交響曲を得意とする。

短期間に膨大な演奏や録音をこなすことでも知られる。常時暗譜でピアノ演奏できる曲目は300曲を超えるといわれている。日ごろの日程を追いかけてみると、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」や「ドン・ジョヴァンニ」を練習番号を含む完全暗譜で指揮した翌日にはすぐ、ベートーヴェンのソナタ全曲演奏やピアノ協奏曲全曲演奏などに入っていて、それが終わるや否や直ちに「ニーベルングの指環」全曲を暗譜で指揮するような超過密スケジュールである。ベルリン芸術週間において、シュターツカペレ・ベルリンとブルックナーの交響曲を連日演奏したこともある。

レコーディング

大量の録音を行い、市場が縮小した今日においても、定期的に新譜を出せる数少ない指揮者である。最初の録音は1954年に行われた。その後、モーツァルトのピアノ・ソナタピアノ協奏曲のいずれも全曲録音を完成させたほか、オットー・クレンペラー指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲(全曲)、ジョン・バルビローリ指揮によるブラームスのピアノ協奏曲(全曲)、ピエール・ブーレーズ指揮によるバルトークのピアノ協奏曲(第1番第3番のみ)を録音した。ベートーヴェンのピアノソナタ全集だけでも現在までに5回の録音や映像がある。

パリ管音楽監督時代、ドイツ・グラモフォンに録音したラヴェルドビュッシーは評価が高い。シュターツカペレ・ベルリンとベートーヴェンの交響曲全集を、シカゴ交響楽団とブラームスの交響曲全集を、シカゴ交響楽団及びベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とブルックナーの交響曲全集(2種)を、それぞれ完成させている。ブルックナーに関しては、シュターツカペレ・ベルリンとの3度目の全集(分売)が進行中である。

モーツァルトのダ・ポンテ三部作(「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ・ファン・トゥッテ」)を過去2回(イギリス室内管弦楽団ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)録音し、特に後者のテルデックへの録音は、後の一連のワーグナー作品集録音へとつながる。バイロイト祝祭管弦楽団と「ニーベルングの指環」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と「トリスタンとイゾルデ」、シュターツカペレ・ベルリンと「ローエングリン」「タンホイザー」「さまよえるオランダ人」を、テルデックへほぼ1年ごとに録音を行っている。

イスラエルの文化人として・パレスチナ問題

バレンボイムは、イスラエルによるヨルダン川西岸地区ガザ地区の占領に批判の声を上げ続け(つまり、アラブ諸国パレスチナの主張する、西岸とガザでの主権を放棄し「パレスチナ国家」を樹立するという主張に沿う発言をしている)、今やイスラエルが「ある民族のアイデンティティと戦うことによって、倫理的な柱を失いつつある」と述べた。2003年には、イギリスの音楽評論家ノーマン・レブレクトによる取材に応じて、イスラエル政府の動向を、「倫理的におぞましく、戦略的に誤っていて」、「イスラエル国家のまさに存在を危機に陥れる」姿勢であると糾弾した[1]。バレンボイムは、パレスチナ人アラブ人)との連帯の意思表示として、イスラエル人の入植地区、とりわけヨルダン川西岸地区において演奏活動を行なってきた。

1999年には、親しい友人でパレスチナ系アメリカ人学者のエドワード・サイードに共鳴し、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団の創設に加わった。これは毎年、イスラエルとアラブ諸国の才能あるクラシック音楽の演奏家を集めて結成されるオーケストラである。同管弦楽団が結成された際、指揮者選びをめぐって楽団員が糾合した時、アラブ側を納得させるために担ぎ出されたのが、ほかならぬバレンボイムであった。これはバレンボイムが、たびたびイギリスやアメリカにおいてパレスチナ寄りの発言をしてきた過去や、歯に衣着せないイスラエル政治批判、エドワード・サイードとの交友関係、イスラエル本土での演奏よりもイスラエル占領地区での積極的な慰問演奏がアラブ側に評価されてのことであった。バレンボイムとサイードの2人は、この活動に対して、「諸国民の相互理解の向上」に寄与したとして、2002年スペイン王室より「アストゥリアス公褒章 Premios Príncipe de Asturias 」を授与された。バレンボイムとサイードの共著 Parallels and Paradoxes は、ニューヨークカーネギー・ホールで催された連続公開討論に基づいている。

2001年7月7日、バレンボイムはエルサレムにおいて、イスラエル音楽祭の一環として、ベルリン国立歌劇場を指揮して、ワーグナーのオペラトリスタンとイゾルデ』の一部を上演した。場内は騒然となり、バレンボイムは数名のイスラエル人から「ファシスト」のレッテルを貼られた。バレンボイムは最初、プラシド・ドミンゴを含む3名の歌手と、ワーグナーのオペラ『ワルキューレ』の第1幕を上演する予定であったが、ホロコースト生存者とイスラエル政府からの強硬な抗議を容れて、プログラムの変更を余儀なくされた。バレンボイムは、シューマンストラヴィンスキーらの曲目で差し替えることに同意していたが、その決定に対して遺憾の意を洩らしていた。しかしながらコンサートの終わりになって、アンコールとしてワーグナーを演奏すると告げたのである。多くの聴衆は高らかな拍手で応えたが、一部は声を上げて反対と叫んだ。バレンボイムは30分かけて、聴衆にヘブライ語でワーグナーをとり上げる理由を述べ、反対派にはとにかく音楽を聴いてくれるように説いた。「私は先週、携帯電話の呼び出し音によって打ち合わせを中断させられたのです。その呼び出し音がワーグナーの『ワルキューレの騎行』でした。携帯電話に使えるなら、どうしてコンサートホールでワーグナーを聴いてはならないのですか?」と言ったという[要出典]

イスラエルにおいてワーグナーの音楽はタブー視されている。理由としては、かつてユダヤ人殲滅を主張していたヒトラーワグネリアンであり、バイロイト音楽祭に足を運ぶなどアーリア人の文化的優越を宣伝するためにワーグナーを利用したこと、またワーグナー自身も「K・フライゲダンク」というペンネームで著した「音楽におけるユダヤ性」において、メンデルスゾーンなどのユダヤ人音楽家らに対する差別的中傷をしていたことなどが挙げられる。しかし、ワーグナーは多くのユダヤ人と親交を結んでいた。

なお、トスカニーニも、イスラエルでワーグナーを指揮している。トスカニーニは1938年(≒ナチ全盛期)4月24日4月25日に、テルアビブとイェルサレムでパレスティナ交響楽団を指揮。「ローエングリン」の第1幕前奏曲と第3幕前奏曲を演奏した。演奏中に雨が降り、トスカニーニが「神が雨を降らせたのだ」と言ったとされる。

2005年9月、イスラエル陸軍ラジオの記者に対し、軍服を着た者とは話したくないとインタビューを拒否したところ、イスラエルの教育大臣はバレンボイムを「本物の反ユダヤ主義者」だと非難した。([1])。2008年1月、パレスチナ自治政府から名誉市民権を与えられた。

2009年1月、まさにイスラエルの2008年~2009年ガザ侵攻のさなかに行われた、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートにおいて、指揮者バレンボイムは「2009年が世界平和の年になるように、中東で人間の正義が行われるように、私たちは期待します」と英語でスピーチした。これに先立ってバレンボイムは声明を発表し「私たちユダヤ人は、無辜の民の虐殺がどれほど非道で許せないものかを、他の誰よりも痛感しているはずだ」とし、イスラエルに対して「より賢明な行動を」と、パレスチナとの共存を訴えた。イギリスのガーディアン誌は「勝利の幻想」と題してその声明の全文を掲載した。

受賞歴

グラミー賞オペラ部門
グラミー賞室内楽部門
  • バレンボイム(ピアノ)ほか
    • モーツァルト/ベートーヴェン『ピアノと木管のための五重奏曲』(1995年
  • バレンボイム(ピアノ) パールマン
    • ブラームス 3つのヴァイオリン・ソナタ (1991年
グラミー賞管弦楽曲部門
グラミー賞ソリスト部門
グラミー賞ベスト・クラシック部門
  • バレンボイム指揮 ルービンシュタイン、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
    • ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(1977年
高松宮殿下記念世界文化賞音楽部門

2004年5月、バレンボイムは、クネセト(イスラエル国会)のセレモニーにおいて、ウルフ賞芸術部門を授与された。この機をとらえて、バレンボイムは政治状況について、次のような持論を唱えた。これによって、イスラエルの元首と数名の国会議員から名指しで非難された。

心に痛みを感じながら、私は今日お尋ねしたいのです。征服と支配の立場が、はたしてイスラエルの独立宣言にかなっているでしょうか、と。他民族の原則的な権利を打ちのめすことが代償なら、一つの民族の独立に理屈というものがあるでしょうか。ユダヤ人民は、その歴史は苦難と迫害に満ちていますが、隣国の民族の権利と苦難に無関心であってよいものでしょうか。イスラエル国家は、社会正義に基づいて実践的・人道主義的な解決法を得ようとするのではなしに、揉め事にイデオロギー的な解決を図ろうとたくらむがごときの、非現実的な夢うつつにふけっていてもよいものでしょうか。

出典

参考文献

  • 3 Sat テレビの長時間インタビュー・ドイツ語。
  • アラ・グゼリミアン編(中野真紀子 訳)『バレンボイム/サイード 音楽と社会』(みすず書房 ISBN 4-622-07094-4 C1036)
4-622-07094-4.html 同書の批評サイト

外部リンク

先代
ローター・ツァグロセク
パリ国立オペラ
音楽監督(着任せず)
1990(当初予定) -
次代
チョン・ミョンフン
先代
ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団
創設者・指揮者
1999
次代
-