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==経歴==
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==受賞歴==
==受賞歴==

2016年11月15日 (火) 15:53時点における版

金時鐘
各種表記
ハングル 김시종
漢字 金時鐘
発音: キムシジョン
日本語読み: きむ しじょん
ラテン文字表記: Gim Sijong
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金 時鐘(きむ しじょん、1929年1月17日 - )は、在日朝鮮人詩人朝鮮文学者。

経歴

朝鮮元山市生まれ。光州師範学校卒業。左翼思想に共鳴し、南朝鮮労働党に入党。1948年済州島四・三事件では郵便局を襲撃するなど武装蜂起に加わり、事件の鎮定後は当局による逮捕を恐れて潜伏。翌1949年5月、両親の手配で密航船に乗り込み日本に逃亡。同年6月5日に神戸沖(須磨付近)に上陸したのち、大阪市生野区コリアンタウンに行き着いた[1][2]。1952年には吹田事件に参画。在留特別許可を得て在日朝鮮人の政治・文化活動に参加した。金嬉老事件では特別証人として出廷した[3]兵庫県立湊川高等学校教員となり、日本の公立学校で初めて正規科目として朝鮮語を教え、大阪文学学校理事長なども務めた。 先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人[4]を務める。

受賞歴

著書

共著

翻訳

翻訳

  • 空と風と星と詩 尹東柱 もず工房 2004.6

脚注

  1. ^ “在日詩人・金時鐘さんが回想録 : 本よみうり堂”. 読売新聞(YOMIURI ONLINE). (2015年4月10日). オリジナルの2015年4月10日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/5W5cN 
  2. ^ 「なぜ書き続けてきたか」pp287
  3. ^ 「わが生と誌」pp175
  4. ^ 先住民族アイヌの権利回復を求める団体・個人署名の要請

関連項目