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1870年12月13日、[[亀岡藩|亀岡藩士]]であった[[加藤定穀]]の長男として<ref>「加藤咄堂」,『美術人名図鑑』,思文閣 2016年2月1日[http://www.weblio.jp/content/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%92%84%E5%A0%82?dictCode=BJTJ Weblio辞書]にて閲覧</ref>[[京都]]に生まれる。[[平井金三]]の[[オリエンタルホール]]で[[英語]]を学び、[[京都法律学校]]に通った<ref name="S13117">佐藤(2013) p117</ref>。学校の[[代用教員]]を経て、20歳で上京し[[英吉利法律学校]](後の[[中央大学]])で聴講する<ref name="NN">[[櫻井秀雄]]「加藤咄堂」,『日本大百科全書』,小学館,2015年12月15日ジャパンナレッジLibにて閲覧</ref>。[[岩野泡鳴]]らとともに文芸活動を行った。1881年には処女作『大聖釈迦』を自費出版したのを皮切りに『仏教概論』『日本仏教史』などを立て続けに出版した<ref>佐藤(2013) p115</ref>。 |
1870年12月13日、[[亀岡藩|亀岡藩士]]であった[[加藤定穀]]の長男として<ref>「加藤咄堂」,『美術人名図鑑』,思文閣 2016年2月1日[http://www.weblio.jp/content/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%92%84%E5%A0%82?dictCode=BJTJ Weblio辞書]にて閲覧</ref>[[京都]]に生まれる。[[平井金三]]の[[オリエンタルホール]]で[[英語]]を学び、[[京都法律学校]]に通った<ref name="S13117">佐藤(2013) p117</ref>。学校の[[代用教員]]を経て、20歳で上京し[[英吉利法律学校]](後の[[中央大学]])で聴講する<ref name="NN">[[櫻井秀雄]]「加藤咄堂」,『日本大百科全書』,小学館,2015年12月15日ジャパンナレッジLibにて閲覧</ref>。[[岩野泡鳴]]らとともに文芸活動を行った。1881年には処女作『大聖釈迦』を自費出版したのを皮切りに『仏教概論』『日本仏教史』などを立て続けに出版した<ref>佐藤(2013) p115</ref>。 |
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[[築地本願寺]]の積徳教校(しゃくとくきょうこう)の教師となったことから[[仏教]]を学びはじめる。[[大内青巒]]と交わり、1895年から1897年にかけて仏教紙『[[明教新誌]]』の主筆を務めた。また、麻布の曹洞宗中学林の教師も務めた。明治30年代には[[島田蕃根]]に師事して太子信仰の上宮教会の[[講師]]となり、講演活動・執筆活動を行った<ref name="JM">「加藤咄堂」,『日本人名大辞典』,講談社,2015年12月15日ジャパンナレッジLibにて閲覧</ref>。雑誌「新修養」(のちに「精神」と改題)、「こころ」を主宰。昭和3年、[[斎藤実]]らによる[[中央教化団体連合会]]に位階のない人物としては唯一の中心的人物となり、理事<ref>1933年11月12日[[読売新聞]]朝刊 2015年12月15日ヨミダス歴史館にて閲覧</ref>として講演・著述による仏教教化に努めた<ref name="JM" />。また、[[斉藤内閣]]の「[[国民更生運動]]」の際には首相と共に全国を[[演説]]してまわった<ref>佐藤(2013) p116</ref>。 |
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2016年11月15日 (火) 14:39時点における版
かとう とつどう 加藤 咄堂 | |
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生誕 |
加藤 熊一郎 1870年12月13日 山城国京都 |
死没 |
1949年4月2日(78歳没) 東京都渋谷区代々木山谷 |
死因 | 老衰 |
墓地 | 静勝寺 |
出身校 |
京都法律学校 英吉利法律学校(聴講) |
職業 |
布教使 教化運動家 大学教員 |
宗教 | 仏教徒(無宗派) |
署名 | |
加藤 咄堂(かとう とつどう、1870年12月13日(明治3年11月2日)- 1949年(昭和24年)4月2日)は、日本の仏教学者、作家、教化運動家。第一次弁論ブームの終焉期から第二次世界大戦中にかけて雄弁学(弁論)に関する著作を多く残した。本名は加藤熊一郎。僧籍は持たなかった。主著に『大乗起信論講話』[1]がある。
生涯
1870年12月13日、亀岡藩士であった加藤定穀の長男として[2]京都に生まれる。平井金三のオリエンタルホールで英語を学び、京都法律学校に通った[3]。学校の代用教員を経て、20歳で上京し英吉利法律学校(後の中央大学)で聴講する[4]。岩野泡鳴らとともに文芸活動を行った。1881年には処女作『大聖釈迦』を自費出版したのを皮切りに『仏教概論』『日本仏教史』などを立て続けに出版した[5]。
築地本願寺の積徳教校(しゃくとくきょうこう)の教師となったことから仏教を学びはじめる。大内青巒と交わり、1895年から1897年にかけて仏教紙『明教新誌』の主筆を務めた。また、麻布の曹洞宗中学林の教師も務めた。明治30年代には島田蕃根に師事して太子信仰の上宮教会の講師となり、講演活動・執筆活動を行った[6]。雑誌「新修養」(のちに「精神」と改題)、「こころ」を主宰。昭和3年、斎藤実らによる中央教化団体連合会に位階のない人物としては唯一の中心的人物となり、理事[7]として講演・著述による仏教教化に努めた[6]。また、斉藤内閣の「国民更生運動」の際には首相と共に全国を演説してまわった[8]。
曹洞宗大学(後の駒澤大学、布教法[3])、東洋大学(民族史[3]及び雄弁学[9])、日本大学(宣伝論[3])にて教鞭を振るった。また、仏教関係の著述・講演活動の功績から宮内省より社会教化功労者として表彰を受けた[1]。
1949年4月2日、代々木の自宅で死去[10]。墓所は赤羽の静勝寺[4]。
雄弁学完成の立役者
加藤は教化の方法としての弁論・演説について研究・著述活動を精力的に行った。佐藤拓司は、加藤は単著として雄弁学関連書を最も多く刊行した人物であるとしている[11]。 1908年に刊行した『雄弁法』は、それまでの雄弁学の雄弁美辞法の系譜を継ぎつつも、初めて雄弁学を体系的に書き出したものであった。また、1912年から雑誌『雄弁』に連載した「雄弁の新研究」において思想内容の充実と聴衆心理把握の研究に目を向けた雄弁学の改革を唱え、雄弁学の完成への下地を準備した[12]。
しかし1930年代、時局の悪化に伴い、弁論団体の解散や弁論大会の中止が余儀なくされるなど雄弁学を取り巻く状況は息苦しくなっていた。雄弁学界隈では雄弁学の学校教科化・競技化を模索するも、学生弁論の極左化(ヤジをかわすためにを極端に過激な弁論内容にするようになった)の状況から頓挫していた[13]。そのような中、加藤は新体制に時局に阿り翼賛するための「雄弁道」を唱えた。1941年1月には「新体制と雄弁界の方向」において、独白・討論の雄弁学から複白・談話の雄弁道に移行して時局に対応するときだと述べた[14]。同年2月には論考「時局下の青年雄弁」において自由な青年雄弁は自粛すべきであるとした[15]。
脚注
- ^ a b 「加藤咄堂」,『世界宗教用語大事典』,中経出版 2016年2月1日Weblio辞書にて閲覧
- ^ 「加藤咄堂」,『美術人名図鑑』,思文閣 2016年2月1日Weblio辞書にて閲覧
- ^ a b c d 佐藤(2013) p117
- ^ a b 櫻井秀雄「加藤咄堂」,『日本大百科全書』,小学館,2015年12月15日ジャパンナレッジLibにて閲覧
- ^ 佐藤(2013) p115
- ^ a b 「加藤咄堂」,『日本人名大辞典』,講談社,2015年12月15日ジャパンナレッジLibにて閲覧
- ^ 1933年11月12日読売新聞朝刊 2015年12月15日ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ 佐藤(2013) p116
- ^ 1914年4月30日朝日新聞朝刊 2015年12月15日聞蔵Ⅱビジュアルにて閲覧
- ^ 1949年4月5日読売新聞朝刊 2015年12月15日ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ 佐藤(2013)p111
- ^ 佐藤(2013) p119-120
- ^ 佐藤(2013) p169
- ^ 佐藤(2013) p139
- ^ 佐藤(2013) p165
参考文献
- 佐藤拓司『「雄弁学」を学ぶ』,2013年,DTP出版