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[[File:Tamahagane yao.jpg|thumb|300px|玉鋼1級品(日刀保たたら製)]]
{{出典の明記|date=2012年3月}}
'''玉鋼'''(たまはがね)とは日本の古式[[製鉄|製鉄法]]で作られる鋼の一種。[[たたら製鉄]]の一方法である「鉧押し(けらおし)」によって直接製錬された[[鋼]]<ref>{{Cite journal|和書|author=庄谷邦幸, 並川宏彦, 種田明 |title=奥出雲地方における産業遺産を訪ねて : 世界産業遺産候補の予備調査(1)(共同研究 : 近代産業の遺産の調査研究) |url=http://id.nii.ac.jp/1420/00008686/ |journal=総合研究所紀要 |ISSN=0918-7758 |year=1995 |month=12 |volume=21 |issue=2 |page=49<!--publisher の記載なし-->}}</ref>のうち特に炭素含有量の少ない良質のものを、[[日本刀]]の製作には欠かせない最上質のものとして、玉鋼としている<ref name="Tamahagane05">[[玉鋼#Kozuka 1966|小塚 1966]], p. 37.</ref>。時代によって定義や等級分けが異なり、「玉鋼」も[[明治期]]以降の呼び方である。
[[File:Tamahagane yao.jpg|thumb|right]]
'''玉鋼'''(たまはがね)とは、主に[[日本刀]]の材料として使われる、[[砂鉄]]を原料とし、[[たたら吹き]]により造られる[[和鋼]]で、通称として玉鋼と称される。


== 前史 ==
{{main|たたら製鉄#たたら製鉄の歴史}}
たたら製鉄において鉧押し法が発生したのは[[天文 (元号)|天文]]年間(1532 - 1554年)の[[播磨国|播磨]]における「千種鋼(ちぐさはがね)」からとされているが<ref>[[#Suzuki 2005|鈴木 2005]], pp. 98–99.</ref>、その[[直接製鋼法]]によって生み出された鋼から選別された、不純物の少ない白く輝く極上品のことを「白鋼(しらはがね)」と称しており、これは現代における玉鋼に相当する物だと考えられている<ref>[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], pp. 12–13.</ref>。[[慶長]]年間(1596 - 1615年)のころには千種鋼やそれに類する鋼が日本刀の製作に盛んに使われ始め、刀身の地鉄(じがね)がそれまでの時代のものと異なるために、慶長以降の刀を「新刀」と呼称するようになった<ref>川口陟編 『刀剣叢書第一編 水心子正秀全集』 南人社、1926年、160–161頁。</ref>。
千種における製鋼は[[江戸期]]に入ってからも続き、日本刀の材料としても引き続き使用された<ref>[[#Suzuki 2005|鈴木 2005]], p. 100.</ref>。


その後、江戸後期になると鉧押しは[[出雲国|出雲]]を中心に盛んに行われるようになり、[[近代]]初頭にかけて最盛期を迎える<ref>[[#Tachi 2005|舘 2005]], p. 9.</ref>。[[1750年代]]には、でき上がった不均質な鉄の塊である「[[けら|鉧]](けら)」を「大ドウ<ref group="注釈" name="th01">金偏に胴。</ref>」と呼ばれる装置で破砕し、質や大きさによって細かく選別する技術が出現していた<ref>[[#Katayama, Kitamura & Takahashi 2005|片山・北村・高橋 2005]], p. 124.</ref>。
[[日本刀]]専用の素材となっているが、かつてはほとんどの刃物に用いられた。現代でも高級な刃物道具等には用いられる事がある。最も等級の高い玉鋼は鉄-炭素合金(ハガネ)であるが、明治以来玉鋼の範囲にあり、一種の工具鋼(高級特殊鋼の一種)である。現在、鋼の精錬(操業)はYSSヤスキハガネで知られる[[日立金属]]が文部科学省文化庁の管轄下の日本美術刀剣保存協会との共同事業で行い、供給は[[日本美術刀剣保存協会]]が[[刀匠]]のみに行っている。下位の等級のものは採算性改善のため一部販売が計画されている。


選別された各種の鉄のうち、鋼は「造鋼(つくりはがね)」と総称され<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/%E7%8E%89%E9%8B%BC-94346|title = 玉鋼(たまはがね)とは - コトバンク|publisher = [[朝日新聞社]]|accessdate = 2017-12-17}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|「造鋼」を総称ではなく、最も上質な鋼の名称とする文献もある<ref name="Tamahagane08">[[#Amada 2004|天田 2004]], p. 83.</ref>。}}、さらにそれを良質な「頃鋼(ころはがね)」、頃鋼より小振りな「目白(めじろ)」、1.5[[センチメートル]] (cm) <ref>{{Cite journal|和書|author=俵國一 |title=鋼卸し鐵法及銑卸し鐵法に就て |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1915.6.6_566 |journal=鐵と鋼 |ISSN=0021-1575 |publisher=日本鉄鋼協会 |year=1920 |volume=6 |issue=6 |pages=566-579 |doi=10.2355/tetsutohagane1915.6.6_566}} p.34 より</ref>ほどの小片である「砂味(じゃみ)」、細かく粉砕された「造粉(つくりこ)」などに分類した<ref>窪田蔵朗 『鉄の考古学』 [[雄山閣]]、1973年、281頁。</ref>。いまだ玉鋼の名は見られないものの、[[宝暦]]年間(1751 - 1763年)ごろよりの日本刀の地鉄は現代の作とほぼ同じ無地風の特徴を有しており、当時すでに同質の鋼が使用され始めたことを示している<ref name="Tamahagane08" />。
たたら吹き1回の操業一代(「ひとよ」は3日3晩の事)で約2トンの[[けら|鉧(けら)]]を産出するが、その中から1級Aに当たる部分は約1割程度しか取れない。不純物が少ない和鋼の中でも特に炭素量と鍛錬時の介在物分散性が作刀に好適であるため、貴重な物である。現在は、[[島根県]][[安来市]]に隣接する、[[仁多郡]][[奥出雲町]]において国家の伝統技術継承事業として日立金属が受託して少量生産されている。


その後、ようやく「玉鋼」の名称が現れるのは明治時代の中期になってからである。
日本刀では主に1級品が[[刃金]][[皮鉄]]として使われる。玉鋼を幾度も[[鍛錬]]を繰り返すことにより、玉鋼の中にある不純物が外に出ていき、より硬くより曲がりにくい皮鉄ができる。ここ数年の年次操業回数は2回(平成5年頃は4回操業していた)しか行っておらず操業回数が減少傾向にある。その結果、1級Aについては1人当たり10キロ程度迄と購入制限が設けられており、刀匠であっても自由に1級Aを入手することができなくなっている。それに比べ2級Bや卸し鉄等の等級の低い鉄はt(トン)単位で在庫があり過剰在庫となっている。この過剰在庫が操業回数の減少に繋がっているとも思われる。平成20年度の操業回数は数年ぶりに3回となった。


== 各時代の玉鋼 ==
日本美術刀剣保存協会が供給する玉鋼の種類は大きく分けて1級A、1級B、2級A、2級B、銑鉄(せんてつ)、卸鉄(おろしてつ)の6種類に分けられている。戦中までは他にも靖国たたら等、供給していた所がありそこでは鶴、亀、松、竹、梅、包丁鉄、大割り下などと分類されていた。安来地方でおこなっていた靖国たたらの鋼は今では殆ど目にすることも無くなったが、古参の刀匠達の元に極少量が研究資料として残されている。
=== 明治中期から大正期 ===
明治期も半ばに入ると、より安価な外国製鋼材の流入によってたたら業者たちは徐々に経営が圧迫され始めていたが、粘性に乏しい輸入鉄がおもに建築材として用いられていた事に目をつけ、粘りのあるたたら鉄を[[日本軍|陸海軍]]に対して売り込むことを模索していた<ref>{{Cite journal|和書|author=永田和宏 |title=たたら製鉄の発展形態としての銑鉄製錬炉「角炉」の構造 |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1955.90.4_220 |journal=鉄と鋼 |ISSN=00211575 |publisher=日本鉄鋼協会 |year=2004 |volume=90 |issue=4 |pages=220-227 |doi=10.2355/tetsutohagane1955.90.4_220}} p.38 より</ref>。
一方で、創成期の日本陸海軍においては兵器用鋼材を輸入に頼る現状を打破しようと独自に製鋼を行うことを目標に掲げ、海外に技術者を派遣して製鋼技術の習得に努めた<ref>{{Cite journal|和書|author=千田武志 |date=2010-04 |url=https://hirokoku-u.repo.nii.ac.jp/records/1121 |title=海軍の兵器国産化に果たした新造兵廠(兵器製造所)の役割 |journal=呉市海事歴史科学館研究紀要 : 大和ミュージアム |publisher=呉市海事歴史科学館 |issue=4 |pages=24-50 |CRID=1050577309353527680}} p.26 より</ref>。

そのような中で[[大日本帝国海軍|海軍]]は明治15年([[1882年]])、[[東京]][[築地]]の海軍兵器局内に建設された製鋼所における[[るつぼ|坩堝鋼]]の製造に際し、試験的にたたら製の錬鉄と鋼を使用したが、その約1[[キログラム]] (kg) 程度の小塊に砕かれた鋼が「'''玉鋼'''」の名称で呼ばれた<ref>[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], pp. 109, 115.</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=向井哲吉 |title=我邦に於ける坩堝製鋼の發達 |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1915.1.2_137 |journal=鐵と鋼 |ISSN=0021-1575 |publisher=日本鉄鋼協会 |year=1915 |volume=1 |issue=2 |pages=137-142 |doi=10.2355/tetsutohagane1915.1.2_137}} p.3-4 より</ref>。その翌年には海軍関係者が[[島根県]]のたたら業者を現地視察し、改めてその製品や生産量について調査している<ref name="Tamahagane10">[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], p. 110.</ref>。たたら鉄の品質の良さを認識した[[海軍省]]は、明治10年代末から20年代にかけて度々たたら製品を入荷し、管轄の各製鋼施設において原材料として使用するようになる<ref name="Tamahagane10" />。一方でたたら業者たちは陸軍に対しても鉄材を納入しており、赤字経営が続く中、徐々に[[軍需産業]]との結び付きを強めていった<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0205.htm|title = たたらの話|publisher = [[日立金属]]|accessdate = 2017-11-29}}</ref>。ただし、この時期は陸海軍ともに坩堝製鋼や3[[トン]] (t) 級の小型[[平炉|酸性平炉]]による操業が主流であり、いまだ小規模操業の域を出ていなかった<ref name="Tamahagane10" />。

明治28年([[1895年]])に[[日清戦争]]が終結した後、それによって得た多額の賠償金をもとに大幅な軍備拡張予算が通過すると、海軍は鉄鋼材の大規模な生産に乗り出し始める<ref>[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], p. 109.</ref>。明治30年([[1897年]])、海軍は[[呉海軍工廠|呉兵器製造所]]内に12 tの大型酸性平炉を設置するが、たたら鉄の含有不純物、特に[[リン]]の少なさに注目し<ref group="注釈">リンは鋼を脆くする性質があるが、酸性炉では脱リンのために[[塩基|アルカリ性]]である[[石灰]]を用いる事が出来ないため、リンの含有量が極めて少ないたたら鉄は非常に適した材料だった。</ref>、本格的に兵器用[[特殊鋼]]の材料として購入を開始した<ref name="Tamahagane01">[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], p. 111.</ref>。その際、選別された[[炭素]]量0.8 - 1.8%の鋼の内で最上級の物を「頃鋼」、それよりやや炭素量の低い物を「玉鋼」と名付けた<ref>[[#Tawara 1910|俵 1910]], pp. 135–136.</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=飯高一郎 |title=鐵に關する最近の研究問題 |url=https://doi.org/10.1246/nikkashi1921.61.1070 |journal=日本化學會誌 |ISSN=0369-4208 |publisher=日本化学会 |year=1940 |volume=61 |issue=10 |pages=1070-1082 |doi=10.1246/nikkashi1921.61.1070}} p.1075 より</ref>{{Refnest|group="注釈"|直径15 - 18 cmほどの人間の頭大のものを「頃鋼」、6 - 9 cmほどの拳大のものを「玉鋼」というように、大きさの違いで区分していたとする説もある<ref name="Tamahagane01" /><ref>{{Cite journal|和書|author=山田賀一 |date=1918 |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1915.4.4_348 |title=中國に於ける砂鐵精錬 |journal=鐵と鋼 |ISSN=0021-1575 |publisher=日本鉄鋼協会 |volume=4 |issue=4 |pages=348-390 |doi=10.2355/tetsutohagane1915.4.4_348 |CRID=1390282680415608448}} p.77 より</ref>。}}。

当時の[[冶金学者]]である[[俵国一]]は著書の中で次のような分析結果を示している。

{| class="wikitable" style="width:30em"
|+ [[伯耆国]]砥波たたら生産鋼の分析結果<ref name="Tamahagane02">[[#Tawara 1910|俵 1910]], p. 137.</ref> {{fontsize|small|(単位:%)}}
! 品別 !! [[炭素]] !! [[ケイ素]] !! [[マンガン]] !! [[リン]] !! [[硫黄]] !! [[銅]]
|-
! 鋼(最上)
| 1.33 || rowspan="2" | 0.04 || rowspan="2" | 痕跡 || 0.014 || 0.006 || rowspan="2" | -
|-
! 玉鋼
| 0.89 || 0.008 || 痕跡
|}

{| class="wikitable" style="width:30em"
|+ 伯耆国近藤家生産鋼の分析結果<ref name="Tamahagane02" /> {{fontsize|small|(単位:%)}}
! 品別 !! 炭素 !! ケイ素 !! マンガン !! リン !! 硫黄 !! 銅
|-
! 白鋼
| 1.43 || 0.022 || rowspan="4" | 痕跡 || 0.011 || rowspan="2" | 痕跡 || rowspan="4" | 痕跡
|-
! 鋼
| 1.10 || 0.019 || 0.018
|-
! 頃鋼
| 1.84 || 0.021 || 0.021 || 0.006
|-
! 玉鋼
| 1.23 || 0.01 || 0.009 || 痕跡
|}

この当時は必ずしも玉鋼を最上級品と定義したわけではなく、また、各たたら業者間での規格、製品名の統一も完全ではなかった。

なお、「玉鋼」の語源については諸説あり、坩堝製鋼された物が[[大砲]]の[[砲弾|弾]](玉)の製造に使用されたため、という説<ref name="Tamahagane08" /><ref>{{Cite web|和書|url = http://tetsunomichi.gr.jp/katana/|title = 鉄の道文化圏|publisher = [[雲南市]]産業観光部観光振興課|accessdate = 2017-11-29}}</ref>が存在する一方、人間の拳大に割られた鋼を「玉」と呼称していたことから派生した、という説<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.co-unnan.jp/brand-rekishi.php?logid=710|title = つながる!雲南チャレンジ 2017|publisher = 雲南市政策企画部政策推進課|accessdate = 2017-11-29}}</ref>もある。

海軍ではその後も鋼の増産に努め、[[日露戦争]]が始まる明治37年([[1904年]])ころより生産量を大きく伸ばしたが、それにともないたたら業者との原料鉄の契約量も増加してゆく。ただし、当時の[[呉海軍工廠]]に納入された鉄材のうちの多くは輸入鉄であり、対するたたら鉄の割合は全体の2割程度に過ぎなかった。また、そのころには玉鋼の契約量はすでに減少しており、鋼の売買は頃鋼が中心となっていた<ref>[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], p. 112.</ref>。

日露戦争終結後の明治40年([[1907年]])、不況の到来とともにたたら業者の経営は徐々に厳しものへとなってゆく。海軍へのたたら製品の納入は経営難になりながらも続き、[[第一次世界大戦]]中には一時的に製造量が急増したが、大戦後の軍縮ムードの中で一転して急激な減少を記録し、さらに[[ワシントン海軍軍縮条約]]によって決定的打撃を受けた。<ref>[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], pp. 114–115.</ref>

=== 昭和期(戦前・戦中) ===
[[昭和]]6年([[1931年]])に[[満州事変]]が勃発するなど世間に[[軍国主義]]的、[[民族主義]]的な色彩が強まる中、[[軍刀]]用の鋼材生産のため[[大正]]12年([[1923年]])に一旦操業を終了<ref>[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], p. 123.</ref>したたたら製鉄の復活が望まれるようになる。

それを受ける形で昭和8年([[1933年]])、財団法人日本刀鍛錬会が事業主となり「'''靖国たたら'''」として操業が再開された<ref name="Tamahagane06">[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], p. 14.</ref>。刀の鍛錬所は[[靖国神社]]の境内に置かれ<ref>{{Cite journal|和書|author=蒔田宗次 |title=支那事變に於ける日本刀の威力 |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1915.24.12_1106 |journal=鐵と鋼 |ISSN=0021-1575 |publisher=日本鉄鋼協会 |year=1938 |volume=24 |issue=12 |pages=1106-1112 |doi=10.2355/tetsutohagane1915.24.12_1106}} p.33 より</ref>、島根県[[仁多郡]][[鳥上村]]<ref group="注釈">後の仁多郡[[横田町]](現:仁多郡[[奥出雲町]])</ref>大呂に再興されたたたらが鋼材を供給する事に決まった<ref name="Tamahagane06" />。製造された刀身は昭和刀とも呼ばれる工業刀のひとつで、靖国刀、九段刀とも呼ばれた。

その際、製品の中で最上質の鋼の名称として「玉鋼」が用いられ、さらに上から鶴、松、竹、梅の4段階に等級分けされた<ref>[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], p. 15.</ref>。

また、玉鋼よりも下位の生産品として「目白」、「造粉」、品質の一定しない「歩鉧(ぶげら)」、歩鉧が細かく砕けた「鉧細(けらこま)」などの他、大量の[[銑鉄]]ができる<ref>[[#Kiyonaga 1994|清永 1994]], p. 1455.</ref>。それらのうち、一部は鍛冶場での加熱、鍛錬により脱炭されて錬鉄(その形から「包丁鉄」と呼ばれた)に仕上げられた後、刀身の芯鉄などに用いられたが、多くは[[日立金属|安来製鋼所]]に払い下げられて製鋼材料として使用された<ref name="Tamahagane03">[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], p. 22.</ref>。

{| class="wikitable" style="width:30em"
|+ 靖国たたら生産品の分析結果<ref>[[#Kiyonaga 1994|清永 1994]], p. 1456.</ref> {{fontsize|small|(単位:%)}}
! 品別 !! 炭素 !! ケイ素 !! マンガン !! リン !! 硫黄 !! 銅
|-
! 玉鋼(鶴)
| 1.42 || 痕跡 || 痕跡 || 0.013 || 0.007 || 痕跡
|-
! 玉鋼(松)
| 1.17 || 0.02 || 0.02 || 0.032 || 0.008 || rowspan="2" | 0.01
|-
! 包丁鉄
| 0.26 || 0.03 || 不検出 || 0.022 || 0.004
|}

操業は昭和14年([[1939年]])のピーク時で年15回、12年間の総計で118回行われたが、1回あたりの玉鋼の生産量は平均430 kgである。その結果、靖国たたらは[[第二次世界大戦]]終結までに約50 tの玉鋼を生産し、それによって約8,100振の日本刀が打ち上げられた<ref>[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], pp. 20–21.</ref>。軍刀としてより安価で実用性のある素材が求められたため、玉鋼を使わない工業刀も大量に生産された。

=== 戦後 ===
大戦終結後、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による武装解除によって軍刀の需要が見込めなくなった靖国たたらは操業を停止した<ref name="Tamahagane05" />。

[[連合国軍最高司令官総司令部]]は日本刀を武器とみなしたため、一時はその存在自体が危ぶまれたが、日本側の必死の努力が実を結び、美術刀剣として[[銃砲刀剣類登録|登録制]]による所持が認められることとなった<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317870.htm|title = 学制百年史 - 文化財保護の法的整備|publisher = [[文部科学省]]|accessdate = 2017-11-29}}</ref>。多くの[[刀工]]が廃業を余儀なくされる中、数少ない刀工は靖国たたらの在庫{{Refnest|group="注釈"|終戦時近くには5 - 6 tの在庫が存在した<ref name="Tamahagane03" />。}}などを使って作刀を続けたが、やがてそれらも乏しくなるとたたら製鉄の再開を望む声があがり始める<ref name="Tamahagane05" />。

昭和52年([[1977年]])、[[文化庁]]の支援と[[日立金属]]安来工場の技術協力のもと[[日本美術刀剣保存協会]]が事業主となり、島根県仁多郡[[横田町]](現:仁多郡[[奥出雲町]])の靖国たたらの遺構を補修する形で「'''日刀保たたら'''」として復活に成功する<ref name="Tamahagane04">[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], p. 98.</ref>。靖国たたらと同様、製品のうち最高品質の鋼に「玉鋼」の名称を付けたが、等級の区分は異なっており、1級品から3級品までの3段階に分けている。また、玉鋼よりも下位に「目白」や「ドウ<ref group="注釈" name="th01" />下(どうした)」、「卸鉄用(おろしがねよう)」、「銑(ずく)」といった製品が存在する。

{| class="wikitable"
|+ 日刀保たたらの生産品一覧<ref>[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], p. 175.</ref>
! 品別 !! 定義
|-
! 玉鋼1級品
| 炭素を1.0 - 1.5%含有し、破面が均質なもの。
|-
! 玉鋼2級品
| 炭素を0.5 - 1.2%含有し、破面がやや均質なもの。
|-
! 玉鋼3級品
| 炭素を0.2 - 1.0%含有し、破面が粗野なもの。
|-
! 目白
| 玉鋼1級と同品質だが、大きさが2 cm以下の小粒のもの。
|-
! ドウ下
| 炭素を0.2 - 1.5%含有し、破面が粗野で大きさが2 cm以下の小粒のもの。
|-
! 卸鉄用
| 炭素含有量が0.5%以下で、鋼や半還元鉄、[[スラグ|鉄滓]]、[[木炭]]などが混在する不均質なもの。「大鍛冶屋用(おおかじやよう)」とも呼ばれる。
|-
! 銑
| 炭素を1.7%以上含有し、溶解したもの。銑鉄。
|}

日刀保たたらは1回の操業で約2 tの鉧を産出するが、その中から玉鋼1級品に当たる部分は約2割程度しか取れない。また、靖国たたらまでの鉧押し法では各種の鋼の他にそれと同程度の銑鉄ができるが、日刀保たたらは銑鉄をあまり産出しない特徴をもつ<ref>[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], pp. 114.</ref>。

{| class="wikitable" style="width:30em; text-align:right"
|+ 日刀保たたら各製品の年次別平均生産量<ref>{{Cite journal|和書|author=永田和宏, 羽二生篤, 鈴木卓夫 |title=たたら製鉄炉地下構造における小舟の役割 |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1955.87.10_665 |journal=鉄と鋼 |ISSN=00211575 |publisher=日本鉄鋼協会 |date=2001 |volume=87 |issue=10 |pages=665-672 |doi=10.2355/tetsutohagane1955.87.10_665}} p.46 より</ref> {{fontsize|small|(単位:kg)}}
! 品別 !! 1997年 !! 1998年 !! 1999年 !! 2000年 !! 2001年
|-
! 玉鋼1級品
| 811 || 497 || 292 || 360 || 355
|-
! 玉鋼2級品
| 504 || 570 || 354 || 510 || 399
|-
! 玉鋼3級品
| 228 || 601 || 815 || 700 || 771
|-
! 目白
| 254 || 136 || 116 || 84 || 51
|-
! ドウ下
| 275 || 317 || 308 || 456 || 339
|-
! 卸鉄用
| 52 || 179 || 407 || 294 || 337
|-
! 銑
| 133 || 49 || 34 || 57 || 58
|-
! 総計
| 2,257 || 2,349 || 2,326 || 2,461 || 2,310
|-
! 使用砂鉄
| 10,375 || 10,325 || 10,233 || 9,433 || 9,867
|-
! 使用木炭
| 10,413 || 10,725 || 10,545 || 10,053 || 10,072
|}

{| class="wikitable" style="width:30em"
|+ 日刀保たたら製玉鋼の分析結果<ref>[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], p. 176.</ref><ref group="注釈">1級品および2級品は昭和53年([[1978年]])、3級品は平成元年([[1989年]])のデータ</ref> {{fontsize|small|(単位:%)}}
! 品別 !! 炭素 !! ケイ素 !! マンガン !! リン !! 硫黄 !! 銅
|-
! 玉鋼1級品
| 1.36 || 0.03 || rowspan="2" | 0.01 || 0.029 || 0.0026 || rowspan="2" | <0.01
|-
! 玉鋼2級品
| 0.85 || 0.013 || 0.025 || 0.0036
|-
! 玉鋼3級品
| 0.31 || 0.02 || 0.004 || 0.021 || 0.007 || 0.01
|}

創業から[[平成]]11年([[1999年]])までの23年間の操業回数は計102回であり<ref name="Tamahagane04" />、年平均で4、5回のペースであったが、その後は回数が減少傾向となり、平成20年代後半には年3回の操業に落ち着いている<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.touken.or.jp/about/overview/disclosure.html|title = 情報公開 事業報告及び決算報告|publisher = [[日本美術刀剣保存協会|公益財団法人日本美術刀剣保存協会]]|accessdate = 2017-11-29}}</ref>。

「玉鋼製造」は昭和52年(1977年)、国の[[文化財#選定保存技術|選定保存技術]]として選定され<ref name="Tamahagane07">{{Cite web|和書|url = https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/shuppanbutsu/bunkazai_pamphlet/pdf/pamphlet_ja_08.pdf|format=PDF||title = 文化財を支える伝統の名匠 選定保存技術「保持者・保存団体」|publisher = [[文化庁]]文化財部|accessdate = 2017-11-29}}</ref><ref group="注釈">選定保存技術保存団体は公益財団法人[[日本美術刀剣保存協会]]</ref>、同年、たたらを監督する「村下(むらげ)」として安部由蔵と久村歓治がそれぞれ選定保存技術の保持者に認定された<ref>美術研究所・[[東京文化財研究所|東京国立文化財研究所]] 『日本美術年鑑』昭和55年版、[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]、1982年、291頁。</ref> 。平成29年([[2017年]])現在の現役の村下としては昭和61年([[1986年]])に木原明が、平成14年([[2002年]])に渡部勝彦がそれぞれ選定保存技術の保持者に認定されている<ref name="Tamahagane07" /><ref group="注釈">選定保存技術名は「玉鋼製造(たたら吹き)」</ref>。

== 玉鋼と日本刀 ==
たたら製鉄で作られた鉄は元来は様々な用途に使われてきたが、靖国および日刀保たたら以降はほぼ日本刀製作専用の鋼材となった{{Refnest|group="注釈"|[[明珍火箸]]のような例外が存在する<ref>「いつの時代も変わらない“モノづくりの原点”」『NIPPON STEEL MONTHLY』2004年10月号、[[新日本製鐵]]、4–5頁。</ref>他、[[釘]]や[[鎹]]に加工し文化財の修復に使用された事例もある<ref>「東大寺・金剛力士像800年ぶり解体修理―陰に横田の『玉鋼』」『[[山陰中央新報]]』1991年11月8日、第19面。</ref>。}}。

玉鋼が日本刀の製作に不可欠であるという主張の根拠として、第一に鍛接が容易であることが挙げられる。玉鋼は現代鋼と比較して有害不純物、特にリンと硫黄の含有量が非常に少ないため割れにくく、作刀の際の激しい折返し鍛錬にも耐えられる高い鍛接性をもつ<ref>{{Cite journal|和書|author=鈴木卓夫 |title=日本刀の鍛錬性に及ぼす南蛮鉄のリン含有量の影響 |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1955.90.1_43 |journal=鉄と鋼 |ISSN=00211575 |publisher=日本鉄鋼協会 |year=2004 |volume=90 |issue=1 |pages=43-47 |doi=10.2355/tetsutohagane1955.90.1_43 |naid=110001457670}} p.44 より</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=谷村凞 |title=日本刀の冶金学的研究:日本刀は複合的金属材料の精粋である |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1955.67.3_497 |journal=鉄と鋼 |ISSN=0021-1575 |publisher=日本鉄鋼協会 |year=1981 |volume=67 |issue=3 |pages=497-507 |doi=10.2355/tetsutohagane1955.67.3_497}}</ref>。また、それによって炭素量の調整と均一化、介在物の小型化と分散化を実現でき、優れた地鉄を持つ日本刀の製作が可能だとされている<ref>[[#Katayama, Kitamura & Takahashi 2005|片山・北村・高橋 2005]], p. 125.</ref>。一般的に、鉄は熱して赤めると急速に酸化が進むため、表面に形成された酸化膜によって鍛接ができない状態となる。それを除くのに通常は[[融剤|フラックス]]が用いられるが、玉鋼の場合、鍛錬する際に搾り出される鉄滓が鍛接面を洗い流す作用をもつため、酸化膜が鍛打によって簡単に剥がれ落ちる利点もある<ref>{{Cite journal|和書|author=倉田七郎 |title=日本刀鍛錬法に就て |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1915.25.8_669 |journal=Tetsu-to-Hagane |ISSN=0021-1575 |publisher=日本鉄鋼協会 |year=1939 |volume=25 |issue=8 |pages=669-676 |doi=10.2355/tetsutohagane1915.25.8_669}} p.46 より</ref>。

一方で玉鋼を使用しない刀工も存在し、小規模たたらによる自家製鋼、古鉄を利用する例などがある。

自家製鋼は国の[[重要無形文化財]]の保持者(いわゆる[[人間国宝]])であった[[天田昭次]]<ref>[[#Amada 2004|天田 2004]], p. 12.</ref>を始め、真鍋純平<ref name="Tamahagane09">『世界が認めた日本刀の美 DVD BOOK』 [[宝島社]]〈宝島社DVD BOOKシリーズ〉、2016年、3分52秒–10分54秒。ISBN 9784800249630。</ref>、上田祐定<ref>{{Cite web|和書|date = 2017-10-20|url = https://www.oricon.co.jp/article/322279/|title = 刀剣王国・岡山長船の「備前長船刀剣博物館」と「備前長船日本刀傳習所」を訪ねよう!|publisher = [[オリコン|オリコンニュース]]|accessdate = 2017-12-25}}</ref>などが挙げられる。天田は玉鋼を「刀の地鉄が明るく冴え、刃の切れ味にも優れる」と評価しつつも、「地鉄に古刀のような変化が乏しく、深みに欠ける」として自家製鋼の可能性を模索した<ref>[[#Amada 2004|天田 2004]], pp. 192–193.</ref>。また、真鍋は「[[鎌倉期]]の相州伝のような変化のある地鉄を再現したいと追求した末、自家製鋼にたどり着いた」と語っている<ref name="Tamahagane09" />。

== 注釈 ==
<references group="注釈" />

== 出典 ==
{{reflist|2}}

== 参照文献 ==
*{{Anchors|Amada 2004}}天田昭次、2004年 『鉄と日本刀』 慶友社。
*{{Anchors|Katayama, Kitamura & Takahashi 2005}}片山裕之・北村寿宏・高橋一郎、2005年 「[https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1955.91.1_122 江戸時代における奥出雲たたら製鉄の経営の展開]」『鉄と鋼』Vol. 91 No. 1、[[日本鉄鋼協会]]、 {{doi|10.2355/tetsutohagane1955.91.1_122}}、{{CRID|1390001205182109440}}。
*{{Anchors|Kiyonaga 1994}} {{Cite journal|和書|author=清水欣吾 |title=たたら製鉄とその金属学 |url=https://doi.org/10.24484/sitereports.116395-27963 |journal=たゝら研究 |publisher=たたら研究会 |year=1995 |month=12 |volume=35 |pages=37-46 |doi=10.24484/sitereports.116395-27963}}
*{{Anchors|Kozuka 1966}}{{Cite journal|和書|author=小塚寿吉 |year=1966 |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1955.52.12_1763 |title=日本古来の製鉄法 “たたら” について |journal=鉄と鋼 |ISSN=00211575 |publisher=日本鉄鋼協会 |volume=52 |issue=12 |pages=1763-1778 |doi=10.2355/tetsutohagane1955.52.12_1763 |CRID=1390282680127536640}}
*{{Anchors|Suzuki 2001}}{{Cite thesis|和書|author=鈴木卓夫 |title=たたら製鉄の復元と「日刀保たたら」の操業技術の解明 |volume=東京工業大学 |series=博士 (学術) 乙第3543号 |year=2001 |naid=500000256728 |url=http://t2r2.star.titech.ac.jp/cgi-bin/publicationinfo.cgi?q_publication_content_issue=CTT100725882}}
*{{Anchors|Suzuki 2005}}{{Cite journal|和書|author=鈴木卓夫 |year=2005 |title=鉄仏の製作年代と古伝書「古今鍛冶備考」からみた銑押し法と鉧〔ケラ〕押し法の成立期の検討 |journal=鉄と鋼 |ISSN=00211575 |publisher=日本鉄鋼協会 |volume=91 |issue=1 |pages=97-102 |doi=10.2355/tetsutohagane1955.91.1_97 |CRID=1390282680193607040}}
*{{Anchors|Tachi 2005}} {{Cite journal|和書|author=舘充 |title=わが国における製鉄技術の歴史 |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1955.91.1_2 |journal=鉄と鋼 |ISSN=00211575 |publisher=日本鉄鋼協会 |year=2005 |volume=91 |issue=1 |pages=2-10 |doi=10.2355/tetsutohagane1955.91.1_2 |naid=110001457794}}
*{{Anchors|Tawara 1910}}俵国一、1910年 『鐵と鋼―製造法及性質』 丸善。
*{{Anchors|Watanabe 2005}}{{Cite journal|和書|author=渡辺ともみ |title=明治期の海軍工廠における特殊鋼製造とたたら鉄 |url=https://doi.org/10.2355/tetsutohagane1955.91.1_108 |journal=鉄と鋼 |ISSN=00211575 |publisher=日本鉄鋼協会 |year=2005 |volume=91 |issue=1 |pages=108-115 |doi=10.2355/tetsutohagane1955.91.1_108 |naid=110001457810}}


<!--出羽鋼、千草鉄は玉鋼には該当しません。たたら吹きで得られた和鋼の最高級品を指し、日本刀の原料として使用される。
(参考HP:日立金属「たたらの話」)
-->


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[たたら吹き]]
* [[たたら製鉄]]
* [[日本刀]]
* [[安来鋼]]
* [[安来鋼]]
* [[火箸]]
* [[オリハルコン]]
* [[ヒヒイロカネ]]
* [[ミスリル]]
* [[大河平才蔵]] - 明治15年の東京築地海軍兵器局における玉鋼を使った坩堝製鋼を指揮。


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玉鋼1級品(日刀保たたら製)

玉鋼(たまはがね)とは日本の古式製鉄法で作られる鋼の一種。たたら製鉄の一方法である「鉧押し(けらおし)」によって直接製錬された[1]のうち特に炭素含有量の少ない良質のものを、日本刀の製作には欠かせない最上質のものとして、玉鋼としている[2]。時代によって定義や等級分けが異なり、「玉鋼」も明治期以降の呼び方である。

前史

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たたら製鉄において鉧押し法が発生したのは天文年間(1532 - 1554年)の播磨における「千種鋼(ちぐさはがね)」からとされているが[3]、その直接製鋼法によって生み出された鋼から選別された、不純物の少ない白く輝く極上品のことを「白鋼(しらはがね)」と称しており、これは現代における玉鋼に相当する物だと考えられている[4]慶長年間(1596 - 1615年)のころには千種鋼やそれに類する鋼が日本刀の製作に盛んに使われ始め、刀身の地鉄(じがね)がそれまでの時代のものと異なるために、慶長以降の刀を「新刀」と呼称するようになった[5]。 千種における製鋼は江戸期に入ってからも続き、日本刀の材料としても引き続き使用された[6]

その後、江戸後期になると鉧押しは出雲を中心に盛んに行われるようになり、近代初頭にかけて最盛期を迎える[7]1750年代には、でき上がった不均質な鉄の塊である「(けら)」を「大ドウ[注釈 1]」と呼ばれる装置で破砕し、質や大きさによって細かく選別する技術が出現していた[8]

選別された各種の鉄のうち、鋼は「造鋼(つくりはがね)」と総称され[9][注釈 2]、さらにそれを良質な「頃鋼(ころはがね)」、頃鋼より小振りな「目白(めじろ)」、1.5センチメートル (cm) [11]ほどの小片である「砂味(じゃみ)」、細かく粉砕された「造粉(つくりこ)」などに分類した[12]。いまだ玉鋼の名は見られないものの、宝暦年間(1751 - 1763年)ごろよりの日本刀の地鉄は現代の作とほぼ同じ無地風の特徴を有しており、当時すでに同質の鋼が使用され始めたことを示している[10]

その後、ようやく「玉鋼」の名称が現れるのは明治時代の中期になってからである。

各時代の玉鋼

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明治中期から大正期

[編集]

明治期も半ばに入ると、より安価な外国製鋼材の流入によってたたら業者たちは徐々に経営が圧迫され始めていたが、粘性に乏しい輸入鉄がおもに建築材として用いられていた事に目をつけ、粘りのあるたたら鉄を陸海軍に対して売り込むことを模索していた[13]。 一方で、創成期の日本陸海軍においては兵器用鋼材を輸入に頼る現状を打破しようと独自に製鋼を行うことを目標に掲げ、海外に技術者を派遣して製鋼技術の習得に努めた[14]

そのような中で海軍は明治15年(1882年)、東京築地の海軍兵器局内に建設された製鋼所における坩堝鋼の製造に際し、試験的にたたら製の錬鉄と鋼を使用したが、その約1キログラム (kg) 程度の小塊に砕かれた鋼が「玉鋼」の名称で呼ばれた[15][16]。その翌年には海軍関係者が島根県のたたら業者を現地視察し、改めてその製品や生産量について調査している[17]。たたら鉄の品質の良さを認識した海軍省は、明治10年代末から20年代にかけて度々たたら製品を入荷し、管轄の各製鋼施設において原材料として使用するようになる[17]。一方でたたら業者たちは陸軍に対しても鉄材を納入しており、赤字経営が続く中、徐々に軍需産業との結び付きを強めていった[18]。ただし、この時期は陸海軍ともに坩堝製鋼や3トン (t) 級の小型酸性平炉による操業が主流であり、いまだ小規模操業の域を出ていなかった[17]

明治28年(1895年)に日清戦争が終結した後、それによって得た多額の賠償金をもとに大幅な軍備拡張予算が通過すると、海軍は鉄鋼材の大規模な生産に乗り出し始める[19]。明治30年(1897年)、海軍は呉兵器製造所内に12 tの大型酸性平炉を設置するが、たたら鉄の含有不純物、特にリンの少なさに注目し[注釈 3]、本格的に兵器用特殊鋼の材料として購入を開始した[20]。その際、選別された炭素量0.8 - 1.8%の鋼の内で最上級の物を「頃鋼」、それよりやや炭素量の低い物を「玉鋼」と名付けた[21][22][注釈 4]

当時の冶金学者である俵国一は著書の中で次のような分析結果を示している。

伯耆国砥波たたら生産鋼の分析結果[24] (単位:%)
品別 炭素 ケイ素 マンガン リン 硫黄
鋼(最上) 1.33 0.04 痕跡 0.014 0.006 -
玉鋼 0.89 0.008 痕跡
伯耆国近藤家生産鋼の分析結果[24] (単位:%)
品別 炭素 ケイ素 マンガン リン 硫黄
白鋼 1.43 0.022 痕跡 0.011 痕跡 痕跡
1.10 0.019 0.018
頃鋼 1.84 0.021 0.021 0.006
玉鋼 1.23 0.01 0.009 痕跡

この当時は必ずしも玉鋼を最上級品と定義したわけではなく、また、各たたら業者間での規格、製品名の統一も完全ではなかった。

なお、「玉鋼」の語源については諸説あり、坩堝製鋼された物が大砲(玉)の製造に使用されたため、という説[10][25]が存在する一方、人間の拳大に割られた鋼を「玉」と呼称していたことから派生した、という説[26]もある。

海軍ではその後も鋼の増産に努め、日露戦争が始まる明治37年(1904年)ころより生産量を大きく伸ばしたが、それにともないたたら業者との原料鉄の契約量も増加してゆく。ただし、当時の呉海軍工廠に納入された鉄材のうちの多くは輸入鉄であり、対するたたら鉄の割合は全体の2割程度に過ぎなかった。また、そのころには玉鋼の契約量はすでに減少しており、鋼の売買は頃鋼が中心となっていた[27]

日露戦争終結後の明治40年(1907年)、不況の到来とともにたたら業者の経営は徐々に厳しものへとなってゆく。海軍へのたたら製品の納入は経営難になりながらも続き、第一次世界大戦中には一時的に製造量が急増したが、大戦後の軍縮ムードの中で一転して急激な減少を記録し、さらにワシントン海軍軍縮条約によって決定的打撃を受けた。[28]

昭和期(戦前・戦中)

[編集]

昭和6年(1931年)に満州事変が勃発するなど世間に軍国主義的、民族主義的な色彩が強まる中、軍刀用の鋼材生産のため大正12年(1923年)に一旦操業を終了[29]したたたら製鉄の復活が望まれるようになる。

それを受ける形で昭和8年(1933年)、財団法人日本刀鍛錬会が事業主となり「靖国たたら」として操業が再開された[30]。刀の鍛錬所は靖国神社の境内に置かれ[31]、島根県仁多郡鳥上村[注釈 5]大呂に再興されたたたらが鋼材を供給する事に決まった[30]。製造された刀身は昭和刀とも呼ばれる工業刀のひとつで、靖国刀、九段刀とも呼ばれた。

その際、製品の中で最上質の鋼の名称として「玉鋼」が用いられ、さらに上から鶴、松、竹、梅の4段階に等級分けされた[32]

また、玉鋼よりも下位の生産品として「目白」、「造粉」、品質の一定しない「歩鉧(ぶげら)」、歩鉧が細かく砕けた「鉧細(けらこま)」などの他、大量の銑鉄ができる[33]。それらのうち、一部は鍛冶場での加熱、鍛錬により脱炭されて錬鉄(その形から「包丁鉄」と呼ばれた)に仕上げられた後、刀身の芯鉄などに用いられたが、多くは安来製鋼所に払い下げられて製鋼材料として使用された[34]

靖国たたら生産品の分析結果[35] (単位:%)
品別 炭素 ケイ素 マンガン リン 硫黄
玉鋼(鶴) 1.42 痕跡 痕跡 0.013 0.007 痕跡
玉鋼(松) 1.17 0.02 0.02 0.032 0.008 0.01
包丁鉄 0.26 0.03 不検出 0.022 0.004

操業は昭和14年(1939年)のピーク時で年15回、12年間の総計で118回行われたが、1回あたりの玉鋼の生産量は平均430 kgである。その結果、靖国たたらは第二次世界大戦終結までに約50 tの玉鋼を生産し、それによって約8,100振の日本刀が打ち上げられた[36]。軍刀としてより安価で実用性のある素材が求められたため、玉鋼を使わない工業刀も大量に生産された。

戦後

[編集]

大戦終結後、連合国による武装解除によって軍刀の需要が見込めなくなった靖国たたらは操業を停止した[2]

連合国軍最高司令官総司令部は日本刀を武器とみなしたため、一時はその存在自体が危ぶまれたが、日本側の必死の努力が実を結び、美術刀剣として登録制による所持が認められることとなった[37]。多くの刀工が廃業を余儀なくされる中、数少ない刀工は靖国たたらの在庫[注釈 6]などを使って作刀を続けたが、やがてそれらも乏しくなるとたたら製鉄の再開を望む声があがり始める[2]

昭和52年(1977年)、文化庁の支援と日立金属安来工場の技術協力のもと日本美術刀剣保存協会が事業主となり、島根県仁多郡横田町(現:仁多郡奥出雲町)の靖国たたらの遺構を補修する形で「日刀保たたら」として復活に成功する[38]。靖国たたらと同様、製品のうち最高品質の鋼に「玉鋼」の名称を付けたが、等級の区分は異なっており、1級品から3級品までの3段階に分けている。また、玉鋼よりも下位に「目白」や「ドウ[注釈 1]下(どうした)」、「卸鉄用(おろしがねよう)」、「銑(ずく)」といった製品が存在する。

日刀保たたらの生産品一覧[39]
品別 定義
玉鋼1級品 炭素を1.0 - 1.5%含有し、破面が均質なもの。
玉鋼2級品 炭素を0.5 - 1.2%含有し、破面がやや均質なもの。
玉鋼3級品 炭素を0.2 - 1.0%含有し、破面が粗野なもの。
目白 玉鋼1級と同品質だが、大きさが2 cm以下の小粒のもの。
ドウ下 炭素を0.2 - 1.5%含有し、破面が粗野で大きさが2 cm以下の小粒のもの。
卸鉄用 炭素含有量が0.5%以下で、鋼や半還元鉄、鉄滓木炭などが混在する不均質なもの。「大鍛冶屋用(おおかじやよう)」とも呼ばれる。
炭素を1.7%以上含有し、溶解したもの。銑鉄。

日刀保たたらは1回の操業で約2 tの鉧を産出するが、その中から玉鋼1級品に当たる部分は約2割程度しか取れない。また、靖国たたらまでの鉧押し法では各種の鋼の他にそれと同程度の銑鉄ができるが、日刀保たたらは銑鉄をあまり産出しない特徴をもつ[40]

日刀保たたら各製品の年次別平均生産量[41] (単位:kg)
品別 1997年 1998年 1999年 2000年 2001年
玉鋼1級品 811 497 292 360 355
玉鋼2級品 504 570 354 510 399
玉鋼3級品 228 601 815 700 771
目白 254 136 116 84 51
ドウ下 275 317 308 456 339
卸鉄用 52 179 407 294 337
133 49 34 57 58
総計 2,257 2,349 2,326 2,461 2,310
使用砂鉄 10,375 10,325 10,233 9,433 9,867
使用木炭 10,413 10,725 10,545 10,053 10,072
日刀保たたら製玉鋼の分析結果[42][注釈 7] (単位:%)
品別 炭素 ケイ素 マンガン リン 硫黄
玉鋼1級品 1.36 0.03 0.01 0.029 0.0026 <0.01
玉鋼2級品 0.85 0.013 0.025 0.0036
玉鋼3級品 0.31 0.02 0.004 0.021 0.007 0.01

創業から平成11年(1999年)までの23年間の操業回数は計102回であり[38]、年平均で4、5回のペースであったが、その後は回数が減少傾向となり、平成20年代後半には年3回の操業に落ち着いている[43]

「玉鋼製造」は昭和52年(1977年)、国の選定保存技術として選定され[44][注釈 8]、同年、たたらを監督する「村下(むらげ)」として安部由蔵と久村歓治がそれぞれ選定保存技術の保持者に認定された[45] 。平成29年(2017年)現在の現役の村下としては昭和61年(1986年)に木原明が、平成14年(2002年)に渡部勝彦がそれぞれ選定保存技術の保持者に認定されている[44][注釈 9]

玉鋼と日本刀

[編集]

たたら製鉄で作られた鉄は元来は様々な用途に使われてきたが、靖国および日刀保たたら以降はほぼ日本刀製作専用の鋼材となった[注釈 10]

玉鋼が日本刀の製作に不可欠であるという主張の根拠として、第一に鍛接が容易であることが挙げられる。玉鋼は現代鋼と比較して有害不純物、特にリンと硫黄の含有量が非常に少ないため割れにくく、作刀の際の激しい折返し鍛錬にも耐えられる高い鍛接性をもつ[48][49]。また、それによって炭素量の調整と均一化、介在物の小型化と分散化を実現でき、優れた地鉄を持つ日本刀の製作が可能だとされている[50]。一般的に、鉄は熱して赤めると急速に酸化が進むため、表面に形成された酸化膜によって鍛接ができない状態となる。それを除くのに通常はフラックスが用いられるが、玉鋼の場合、鍛錬する際に搾り出される鉄滓が鍛接面を洗い流す作用をもつため、酸化膜が鍛打によって簡単に剥がれ落ちる利点もある[51]

一方で玉鋼を使用しない刀工も存在し、小規模たたらによる自家製鋼、古鉄を利用する例などがある。

自家製鋼は国の重要無形文化財の保持者(いわゆる人間国宝)であった天田昭次[52]を始め、真鍋純平[53]、上田祐定[54]などが挙げられる。天田は玉鋼を「刀の地鉄が明るく冴え、刃の切れ味にも優れる」と評価しつつも、「地鉄に古刀のような変化が乏しく、深みに欠ける」として自家製鋼の可能性を模索した[55]。また、真鍋は「鎌倉期の相州伝のような変化のある地鉄を再現したいと追求した末、自家製鋼にたどり着いた」と語っている[53]

注釈

[編集]
  1. ^ a b 金偏に胴。
  2. ^ 「造鋼」を総称ではなく、最も上質な鋼の名称とする文献もある[10]
  3. ^ リンは鋼を脆くする性質があるが、酸性炉では脱リンのためにアルカリ性である石灰を用いる事が出来ないため、リンの含有量が極めて少ないたたら鉄は非常に適した材料だった。
  4. ^ 直径15 - 18 cmほどの人間の頭大のものを「頃鋼」、6 - 9 cmほどの拳大のものを「玉鋼」というように、大きさの違いで区分していたとする説もある[20][23]
  5. ^ 後の仁多郡横田町(現:仁多郡奥出雲町
  6. ^ 終戦時近くには5 - 6 tの在庫が存在した[34]
  7. ^ 1級品および2級品は昭和53年(1978年)、3級品は平成元年(1989年)のデータ
  8. ^ 選定保存技術保存団体は公益財団法人日本美術刀剣保存協会
  9. ^ 選定保存技術名は「玉鋼製造(たたら吹き)」
  10. ^ 明珍火箸のような例外が存在する[46]他、に加工し文化財の修復に使用された事例もある[47]

出典

[編集]
  1. ^ 庄谷邦幸, 並川宏彦, 種田明「奥出雲地方における産業遺産を訪ねて : 世界産業遺産候補の予備調査(1)(共同研究 : 近代産業の遺産の調査研究)」『総合研究所紀要』第21巻第2号、1995年12月、49頁、ISSN 0918-7758 
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参照文献

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関連項目

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