コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「村下孝蔵」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:ポップ歌手のカテゴリ修正依頼: 性別付け - log
441行目: 441行目:
{{DEFAULTSORT:むらしたこうそう}}
{{DEFAULTSORT:むらしたこうそう}}


[[Category:日本のシンガーソングライター]]
[[Category:日本の男性シンガーソングライター]]
[[Category:日本のフォークシンガー]]
[[Category:日本のフォークシンガー]]
[[Category:日本のピアノ調律師]]
[[Category:日本のピアノ調律師]]

2016年11月11日 (金) 00:24時点における版

村下孝蔵
出生名 村下 孝蔵
生誕 1953年2月28日
出身地 日本の旗 日本熊本県水俣市浜町(仲之町通り)
死没 (1999-06-24) 1999年6月24日(46歳没)
学歴 鎮西高等学校卒業
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル
ギター
活動期間 1980年 - 1999年
共同作業者 須藤晃
公式サイト 村下孝蔵ホームページ
加山雄三
ザ・ベンチャーズ

村下 孝蔵(むらした こうぞう、1953年2月28日 - 1999年6月24日)は、日本シンガーソングライター。「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などのヒット曲がある。熊本県水俣市出身。水俣市立水俣第一小学校水俣市立水俣第一中学校鎮西高等学校日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科卒業。

人物

生い立ち

1953年2月28日熊本県水俣市浜町仲之町通りで、映画館(村下興業社)を営む夫婦の第3子として生まれる[1][2][3]。最盛期の村下家は、水俣市と周辺に7軒の映画館を経営した資産家だった[4]。生まれて間もない頃の村下は泣くことが少なく、近隣の住人に「生まれたと聞いたけれど泣き声がしない」と不思議がられたという [5]。村下は、そのまま無口な少年に育った。姉によると、幼少期の村下は実家が営む映画館で一番前の席に座って映画を観たり[6]、一緒にラジオで歌謡曲を聴いたりして過ごすことが多かった[7]

1959年、父が鹿児島県出水市本町商店街に新たな映画館(泉映)を建てると一家は転居し、1年ほどで水俣市仲之町通りに戻った(一年間出水市立出水小学校に通う)[8]。この頃、村下は姉とともにロカビリーに夢中になった。村下は日劇ウエスタンカーニバルの映像を映画館で観て、歌手への憧れを口にすることもあった[9]。映画館の事務所には休憩時間にかけるレコードが置かれていて、村下は姉とともに聴き漁った[10]。村下はエレクトリック・ギターの音に興味を抱くようになり、寺内タケシとブルージーンズを好んで聴いていたが、やがて「こっちのほうがすごい」とベンチャーズに夢中になった[11]。1965年、映画『エレキの若大将』で加山雄三の「夜空の星」を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキギターも持つ」と言うようになる[1][3][12]。村下はかねてから両親に、エレキギターをせがんでいたが、「不良になるからダメ」[注 1]、「弾けもしないうちから買ってどうする」といった理由で聞き入れられなかった。そこで村下は、加山のギターをモデルにラワン材を使ってギターを自作した[1][13]。ギターが完成すると三面鏡の前に立ち、加山の演奏スタイルを真似ていたという[14]。高校進学後の1969年、村下は憧れだったモズライト・ギターを父親から買い与えられた[15]。父親は1967年に収益の悪化していた映画館を廃業し[16]、新たな事業として温泉の採掘を行ったが失敗、その後は阿蘇市のホテルに就職し、母親とともに転居[17]。村下は、水泳部の特待生として鎮西高等学校に入学し[18]、寮生活を送った後、北九州市の短期大学に入学した姉と熊本市内で同居した[19]

高校を卒業後、広島へ

1971年、高校を卒業した村下は得意の水泳で実業団・新日本製鐵八幡製鐵所入り[1] [2][20]。当時の部員によると、高校で実績を残した(1969年、中部九州大会平泳ぎ100メートル優勝[21])とはいえ実業団の中では平凡な選手[注 2]で、ギターが得意であったため宴会部長として活躍[2][23]。同年9月に同社を退職[2]。落合昇平は寮生活を送る中、ギターを弾く時間がほとんどないことに悩んだのだろうと推測している[24]。当時父親は東洋工業に転職して広島市に転居しており、音楽中心の生活を目指し村下も広島へ移った[1][3][25][26]。1972年、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科入学。広島に来て間が無い村下には友達がなく、平和公園で一人でギターを弾くことが多かった。『エレキの若大将』に憧れ、ベンチャーズに心酔していた村下が、広島でエレキ・ギターをフォークギターに持ち替え、曲作りを始めた理由は、当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォークギターを持たなければ仲間が作れなかったためであった[4]。同年夏、僅か300枚の自主制作シングル「ひとりぼっちの雨の中」を発表[3][27]。同校卒業後ヤマハ広島店[28]に就職し、二年間、ピアノ購入契約で実績を挙げ[20]1975年からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテル法華クラブ広島ラウンジ弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続した[3][25][29]。1979年、ヤマハを退社し自主制作レコード『それぞれの風』を発表[3]。レコーディングの様子はテレビ番組(『青春音楽列島「それぞれの風」』)として放映された[30]。この番組のディレクターを務めた人物は中国放送の那須和男だった[4][25][31]。那須は偶然観た村下の演奏に惹かれ、『たむたむたいむ』のパーソナリティーに村下を推薦するなど村下をバックアップしていた[4][25][32]。『たむたむたいむ』で、当時まだ大学生だった西田篤史とコンビを組む[4][25]。この頃の村下は第2期の広島フォーク村に参加するなど広島の音楽好きには知られた存在となっていた[3]。村下は『それぞれの風』でヤマハ主催のポピュラー音楽コンテストに応募したが、受賞はならなかった[3][33]

プロとしてのデビュー

1979年、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得[3]。しかしCBSソニーとしては、当時流行っていた山下達郎南佳孝などのシティポップス系のアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBSソニー社内でも意見が分かれた[3]。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。ただ楽曲や声のよさは誰もが認めるところで、中国放送がバックアップしていたこともあり何とかデビューが決定[34]1980年、27歳の時、シングル「月あかり」でプロデビューした[1][2]。同期合格者にはHOUND DOG堀江淳五十嵐浩晃らがいた。プロになると決意した村下は、最高のギターを持っていたいという思いから馴染みの楽器店でマーティンD-45を購入している[35][36]。プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島を拠点に地道にライブ活動を続ける[1][2][20][37]。このためプロの歌手になったからと言って、デビュー直後に劇的な変化はなかった[3]

1981年1月にリリースされた2枚目のシングル「春雨」は、地道なプロモーションを重ねて、チャート最高位58位を記録、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクイン[3]1982年発売の「ゆうこ」は、チャート最高位23位を記録、約7か月半にわたってチャートインした[3]。この「ゆうこ」のタイトルになっている女性は日本画家・船田玉樹の娘で、村下とこの時期に結婚しており、後にシンガー・ソングライターとなる娘を儲けている(1985年離婚、村下はこの後再婚)[38][39][40]。同年10月、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に初出演した[3]

1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなる[1][3]。「初恋」は村下がバラードとして作ったものを編曲家水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であった[41]。水谷はかねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた[42]。水谷は村下を、「でっかい人だった。人にゆだねる強さがあった」と評している[41]。村下の元マネージャー嶋田富士彦によると、村下の楽曲は有線で強く支持され、地方では演歌に似たチャート変動を示した[43]。嶋田によると、村下の楽曲はフォークテイストでありながらもベンチャーズに由来する「切れ味の良いロック感覚」も持ち合わせていたが、音楽業界の中でもレトロな印象を抱く者の方が多かったという[44]

「初恋」発売の前後に村下は肝炎を患い[45]、「初恋」がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった[46]。また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、1984年末に生活の拠点を東京に移した[47]。同年秋から全国ツアーを開始したが翌1985年に再び体調が悪化し[46]、入退院を繰り返した[48]。この時期に、広島から定年退職したばかりの父親も東京で暮らし始めた[49]。1987年に全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった[48]。1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えた[50]

1989年、アルバム『野菊よ 僕は…』を発売。須藤晃によるとこの頃アルバムの売れ行きが落ち込みを見せ、村下にも須藤自身にも焦りが生じたという[51]。1992年発売のシングル「ロマンスカー」は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し[51]、完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語った[52]渾身の作品であったが売れず、須藤は「時代が違ってきたんだ」と感じたという[51]。この時期の村下は試行錯誤の末、「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至った[52]

逝去

1999年6月20日駒込スタジオコンサートリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴え、当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪れていた。診察で「高血圧性脳内出血」と判明した直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に死去。46歳没。葬儀は6月26日に営まれた。夫人の希望により、出棺の際には村下が生前最も気に入っていた楽曲「ロマンスカー」[51]がかけられた[52]7月3日には東京の渋谷公会堂でお別れ会が[53]8月8日には広島市内の寺院において音楽葬が営まれた[54]。戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」、墓所は茨城県稲敷郡茎崎町(現・つくば市)の筑波茎崎霊園にある。

エピソード

  • ギターの腕前は、音楽関係者の間でも評価が高かった[55][56]。編曲家の水谷公生は「アマチュア的だが天才」と評している[57]。レコーディングで演奏することはなかった[58]が、コンサートでは披露していた[59]
  • ザ・ベンチャーズのメンバーとの交友が深く、特にベーシストのボブ・ボーグルからは、自作のギターパーツ(ジャズマスター用のブリッジサドルで、ボブが真鍮を削りだして作った物)を贈られている。村下の他界を聞いたボブは、ツアー中でありながら通夜に参列した。
  • 仕事がほとんどなかった1981年に中森明菜のデビュー曲の依頼が来て作成したが採用されなかった[60]
  • 「初恋」がヒットしたとき、広島市の中心部・並木通りに『小さな屋根の下』という喫茶店を開いていた[25]。この店は村下自身が1984年4月に、ファンたちが集まる店になれば、と夢見て作ったものだったが[25]、その頃、村下は肝炎でもう広島と東京の往復が出来なくなって東京に拠点を移したため、やむなくその年の末に閉店した[25][61]。同年に出したアルバム『花ざかり』に収録されている「北斗七星」に歌われた『赤い屋根』は、この店とは別の、生前村下がよく通った喫茶店の名で、現在も広島市北部の安佐南区毘沙門台にある[25][39][62]。村下は当時結婚してこの店の近く、上安、続いて八木梅林小学校そばのアパートに住んでいた[38][39][63][64]。「初恋」の"校庭"という歌詞は、娘とよく遊んだ梅林小学校で思いついたといわれ[65]、「初恋」を始め多くの楽曲がこの地で着想された[66]
  • 命日である6月24日は、「初恋」のワンフレーズより、『五月雨忌』と呼ばれ10年以上経過した今でもメモリアルイベントが開催されている。
  • 前述のように中国放送と縁があったため、現在でも6月の命日前後に村下孝蔵を偲ぶ特別番組が毎年のように放送されている(2007年6月23日2008年6月28日2009年は彼の命日である6月24日、2010年6月21日2012年6月23日に放送)。その際の司会は、生前仲の良かった西田篤史である[67]
  • 村下の死去から14年を経た2013年、故郷水俣市の商店街『ふれあい一番街』に「初恋」の歌碑が建立され、商店街ストリートの名称もこれにちなみ『初恋通り』と改名された(2014年6月の商店街総会で正式に決定)[68][69]
  • 漫画家の吉崎観音は村下の従兄弟の息子である[70]

ディスコグラフィ

シングル

# 発売日 タイトル B面(カップリング)
1st 1980年5月21日 月あかり 松山行フェリー
2nd 1981年1月21日 春雨 歌人
3rd 1981年6月21日 帰郷 未成年
4th 1982年4月21日 ゆうこ 陽炎
5th 1983年2月25日 初恋 丘の上から
6th 1983年8月25日 踊り子 冬物語
7th 1984年4月1日 少女 花れん
8th 1984年9月21日 夢のつづき 似顔絵
9th 1986年4月21日 かざぐるま 幸せの時間
10th 1986年11月21日 ねがい とまりぎ
11th 1987年5月21日 哀愁物語 -哀愁にさようなら-[注 3] 美し過ぎるミステイク
12th 1987年9月21日 陽だまり 白い花の咲く頃
- 1988年7月1日 初恋ミニアルバム[注 4]
13th 1988年11月21日 風のたより ネコ
- 1989年3月21日 初恋/少女
- 1989年3月21日 ゆうこ/踊り子
14th 1990年6月21日 ソネット 禁じられた遊び
15th 1991年3月21日 アキナ タカハシ
16th 1991年11月21日 この国に生まれてよかった 帰宅
17th 1992年9月21日 一粒の砂 ひとりごと
18th 1992年11月21日 ロマンスカー ピンボール
- 1993年10月1日 初恋/ゆうこ/アキナ
19th 1994年7月1日 つれてって りんごでもいっしょに
- 1995年11月22日 初恋/踊り子
20th 1996年6月21日 16才 あなた踊りませんか
21st 1998年10月31日 同窓会 素直

アルバム

# 発売日 タイトル
- 1979年 それぞれの風[注 5]
1st 1980年7月1日 汽笛がきこえる街
2nd 1981年4月21日 何処へ
3rd 1982年4月21日 夢の跡
4th 1983年8月25日 初恋〜浅き夢みし〜
5th 1984年12月8日 花ざかり
6th 1986年7月2日 かざぐるま
7th 1987年10月21日 陽だまり
8th 1988年10月21日 恋文
9th 1989年11月1日 野菊よ 僕は…
10th 1990年7月21日 清涼愛聴盤
11th 1991年4月25日 新日本紀行
12th 1992年11月21日 名もない星
13th 1994年7月1日 愛されるために
14th 1999年9月8日 同窓會

ベストアルバム

# 発売日 タイトル
1st 1984年11月21日 歌人〜ソングコレクション〜
2nd 1987年12月2日 歌人II
3rd 1995年6月21日 林檎と檸檬〜村下孝蔵ベストセレクション
4th 1999年12月18日 しのびあるきのたそがれに
5th 2000年11月1日 夢の記録
6th 2001年6月24日 純情可憐
7th 2005年6月22日 七夕夜想曲〜村下孝蔵最高選曲集 其の壱
8th 2011年6月22日 この国に生まれてよかった 村下孝蔵 セレクションアルバム
9th 2012年7月25日 哀しい恋の歌 村下孝蔵セレクションアルバム
10th 2013年7月3日 GOLDEN☆BEST 村下孝蔵ベスト・セレクト・ソングズ
11th 2013年7月3日 GOLDEN☆BEST 村下孝蔵オリジナル・カラオケ集
12th 2014年6月25日 歌人撰集

リミックスアルバム

# 発売日 タイトル
1st 2000年6月21日 ラムネとビーチサンダル

ライブアルバム

# 発売日 タイトル
1st 2005年9月21日 月待哀愁歌〜村下孝蔵最高選曲集 其の弐
2nd 2006年5月24日 清聴感謝祭〜村下孝蔵最高選曲集 其の参
3rd 2007年7月7日 村下孝蔵メモリアルコレクション[注 6]
4th 2009年7月1日 GUITAR KOZO
5th 2015年7月1日 きっといつかは

コンピレーション・トリビュートアルバム

# 発売日 タイトル
1st 2006年5月24日 昭和春夏秋冬〜村下孝蔵作品集〜
2nd 2006年7月21日 絵日記と紙芝居〜村下孝蔵トリビュートアルバム〜

CD BOX

# 発売日 タイトル
1st 2008年7月2日 哀愁浪漫[注 7]
2nd 2012年10月31日 銀河天空〜村下孝蔵ベスト・セレクト・ボックス

VHS/DVD

# 発売日 タイトル
1st 2001年6月24日 純情
2nd 2011年6月22日 歌人'95

詩集

発売日 タイトル 出版社
1991年5月1日 村下孝蔵詩集 初恋〜浅き夢みし〜 PHP研究所

主なタイアップ曲

楽曲 タイアップ 時期
ねがい 明星食品「チャルメラ」CMソング 1986年
陽だまり フジテレビ系アニメ『めぞん一刻』オープニングテーマ 1987年
風のたより '88赤い羽根共同募金」イメージソング 1988年
この国に生まれてよかった ハウス食品「特選生わさび」CMソング 1991年
一粒の砂 広島アジア競技大会協賛・中国新聞社中国放送共同企画「アジア・ピースロード」テーマ曲 1992年
同窓会 TBSドラマ30命賭けて〜あなたは我が子を守れるか!?〜」主題歌 1998年

主な提供曲、被カバー曲

ギター

メモリアル・コンサートの演目

  • 2004年9月18日/19日(ソミドホール)
  1. ロマンスカー
  2. 北斗七星
  3. 教訓
  4. ひとり暮らし
  5. とまりぎ
  6. 夢の跡
  7. 月あかり
  8. 春雨
  9. 踊り子
  10. 松山行きフェリー
  11. 同窓会
  12. この国に生まれてよかった
  13. EN1 初恋
  14. EN2 青春の日々に
  • 2007年8月5日(札幌市教育文化会館)…ゲスト/天満敦子、みのや雅彦
  1. 北斗七星
  2. つれてって
  3. ロマンスカー
  4. 踊り子
  5. かざぐるま
  6. ネコ
  7. 午前零時
  8. タイスの瞑想曲
  9. 愛のあいさつ
  10. 純情可憐
  11. ブラック・サンド・ビーチ
  12. RAIUN(雷雲)
  13. 陽だまり
  14. 挽歌
  15. 空(作詞/作曲 みのや雅彦
  16. 松山行きフェリー
  17. 同窓会
  18. この国に生まれてよかった
  19. 帰宅
  20. EN1 教訓
  21. EN2 初恋
  22. EN3 青春の日々に

脚注

注釈

  1. ^ 当時の日本にはエレクトリック・ギターの所持が少年不良化につながるという風潮があった(落合2008、93頁)。
  2. ^ 同年代の平泳ぎ100メートル種目には、ミュンヘン五輪で金メダルとなった田口信教がいた[22]
  3. ^ 中林由香とのデュエット
  4. ^ 初恋/踊り子/ゆうこ/少女/春雨を収録
  5. ^ 自主製作盤。「ひとり暮らし」など一部の曲はプロデビュー後、発表された。没後、アルバム『純情可憐』において一部収録された。
  6. ^ コンサート会場と通販のみの販売。
  7. ^ 全曲最新リマスタリングの再編集CD10枚とライブ映像DVD1枚の11枚組BOX。完全生産限定盤。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 365日 あの頃ヒット曲ランキング 【1983年6月】初恋/村下孝蔵
  2. ^ a b c d e f “村下孝蔵さんの「初恋」は歌詞通りだった”. 日刊スポーツ: p. 22. (2008年7月16日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20080716-384306.html 2015年10月14日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o “『初恋/村下孝蔵』 食卓ON楽、2015-09-27”. 広島エフエム放送. (2008年6月20日). オリジナルの2015年10月14日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20151014123829/http://www.hfmweb.jp/blog/shokutaku/2008/06/post_31.html 2015年10月14日閲覧。 
  4. ^ a b c d e 朝日新聞be』「うたの旅人」2009年2月14日
  5. ^ 落合2008、14-15頁。
  6. ^ 落合2008、17-18頁。
  7. ^ 落合2008、39頁。
  8. ^ 落合2008、50・62頁。
  9. ^ 落合2008、63-65頁。
  10. ^ 落合2008、92-93頁。
  11. ^ 落合2008、93-95頁。
  12. ^ 落合2008、122-123頁。
  13. ^ 落合2008、123-125頁。
  14. ^ 落合2008、125-126頁。
  15. ^ 落合2008、162-163頁。
  16. ^ 落合2008、134-135頁。
  17. ^ 落合2008、164頁。
  18. ^ 落合2008、148頁。
  19. ^ 落合2008、164-165頁。
  20. ^ a b c 千葉紘子『千葉紘子のコーヒーブレイク』毎日新聞社、1984年、267-269頁。
  21. ^ 落合2008、164頁。
  22. ^ 『熱討スタジアム』第157回 村下孝蔵『初恋』を語ろう 今週のディープ・ピープル 経田康×嶋田富士彦×沢田聖子週刊現代 2015/07/04日号
  23. ^ 落合2008、172-174頁。
  24. ^ 落合2008、176-177頁。
  25. ^ a b c d e f g h i “村下孝蔵 今も降る君の歌声-マイタウン広島”. 朝日新聞広島版: p. 33. (2010年1月4日) 
  26. ^ 落合2008、177頁。
  27. ^ 落合2008、19-23頁。
  28. ^ ヤマハ 広島店
  29. ^ 「八木経由 あのねのねまで支離滅裂テーマ」 雪待月2016-06-22
  30. ^ 落合2008、44-45頁。
  31. ^ 落合2008、45頁。
  32. ^ 落合2008、83-86頁。
  33. ^ 落合2008、34頁。
  34. ^ 落合2008、45-46、113-115頁。
  35. ^ 落合2008、32-33頁。
  36. ^ Picker's Friendship KISADA 木定楽器店 - 木定楽器店・音楽教室
  37. ^ Ommo's: バンバンで、村下孝蔵さんと話す
  38. ^ a b “思い出の八木復興エール 故村下孝蔵さん元妻と娘が演奏会”. 中国新聞 (中国新聞(ヒロシマ平和メディアセンター)). (2016年6月18日). オリジナルの2016年6月28日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20160628092206/http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=257175&comment_sub_id=0&category_id=112 2016年6月28日閲覧。 
  39. ^ a b c “十七回忌にささげる『初恋』 村下孝蔵さん長女らがカバーCD”. 神戸新聞. (2015年2月25日). オリジナルの2015年10月14日時点におけるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2015-1014-2046-38/www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201502/0007769202.shtml 2015年10月14日閲覧。 
  40. ^ 村下孝蔵さんの元妻と娘アコーディオニストゆうこ「父と村下孝蔵」 雪待月2015-08-01「亡き祖父の励ましと父の墓所についてのお願い」 雪待月2014-08-20
  41. ^ a b 落合2008、168頁。
  42. ^ 落合2008、167頁。
  43. ^ 落合2008、128-129頁。
  44. ^ 落合2008、129頁。
  45. ^ 落合2008、143-144頁。
  46. ^ a b 落合2008、131頁。
  47. ^ 落合2008、71頁。
  48. ^ a b 落合2008、156頁。
  49. ^ 落合2008、156-157頁。
  50. ^ 落合2008、73頁。
  51. ^ a b c d 落合2008、118頁。
  52. ^ a b c 落合2008、159頁。
  53. ^ 落合2008、195頁。
  54. ^ 落合2008、24-25頁。
  55. ^ 落合2008、114頁。
  56. ^ 落合2008、180頁。
  57. ^ 落合2008、168頁。
  58. ^ 落合2008、116-117頁。
  59. ^ 落合2008、73頁。
  60. ^ 「中森明菜さん」 雪待月2015-07-15
  61. ^ 落合2008、71頁。
  62. ^ カフェ「赤い屋根」 雪待月2014-06-27「赤い屋根」 雪待月2016-06-19
  63. ^ 「ボイストレーニング」 雪待月2015-07-20「何気ない日々でした」 雪待月2015-07-31「安佐南区八木と村下孝蔵」 雪待月2016-06-16「6月19日」 雪待月2016-06-18「ありがとうございました(続) 」 雪待月2016-06-20「ありがとうございました(続) 」 雪待月2016-06-21
  64. ^ 「雨の命日」雪待月2016-06-24“小山田浩子(芥川賞)×和田竜(本屋大賞) 広島ゆかり作家 新春対談”. 中国新聞 (中国新聞(ヒロシマ平和メディアセンター)). (2015年1月5日). オリジナルの2015年10月14日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20151014135928/http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=39505 2015年10月14日閲覧。 
  65. ^ 「皆様へ」 雪待月2016-06-13
  66. ^ 「広島市安佐南区八木」 雪待月2014-08-24「村下孝蔵カバーアルバムについて」 雪待月2014-11-28
  67. ^ RCCラジオ特別番組 村下孝蔵メモリアル
  68. ^ 村下孝蔵さんにちなみ、初恋通り 水俣市に歌碑 熊本日日新聞archive) 2013年11月17日閲覧
  69. ^ “村下孝蔵氏の故郷、熊本・水俣に「初恋通り」誕生”. 産経新聞 (産経新聞ニュース). (2013年12月13日). オリジナルの2015年10月14日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20151014143427/http://www.sankei.com/life/news/131213/lif1312130003-n1.html 2015年10月14日閲覧。 
  70. ^ https://www.facebook.com/permalink.php?id=1547088012197610&story_fbid=1627569974149413

参考文献

  • 落合昇平『村下孝蔵 STORY 深き夢歌、淡き恋歌』ソニーマガジンズ〈ソニー・マガジンズ新書 M003〉、2008年。ISBN 4-7897-3306-8 

関連項目

  • 須藤晃 - 村下を見いだしたプロデューサー。
  • 町支寛二 - 数多くの作品のコーラスパートに参加した。
  • 水谷公生 - 数多くの作品の編曲を手がけるが、サウンドプロデュースの役割も果たした。
  • 村上保 - 彫刻家、切り絵作家。「初恋」のジャケットを手掛けたのを皮切りに、村下孝蔵の主要作品に参加している。
  • 西田篤史 - 広島の親友
  • 経田康 - 村下孝蔵と長年相棒を務めたリードギタリスト。音楽・プライベート両面で村下の信頼が篤かった。アコーステックアルバム「GUITAR KOZO」の制作者。没後「メモリアルコンサート」「同窓会コンサート」をコンサートマスターとして主導。

外部リンク