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2016年11月11日 (金) 00:24時点における版
村下孝蔵 | |
---|---|
出生名 | 村下 孝蔵 |
生誕 | 1953年2月28日 |
出身地 | 日本・熊本県水俣市浜町(仲之町通り) |
死没 | 1999年6月24日(46歳没) |
学歴 | 鎮西高等学校卒業 |
職業 | シンガーソングライター |
担当楽器 |
ボーカル ギター |
活動期間 | 1980年 - 1999年 |
共同作業者 | 須藤晃 |
公式サイト | 村下孝蔵ホームページ |
村下 孝蔵(むらした こうぞう、1953年2月28日 - 1999年6月24日)は、日本のシンガーソングライター。「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などのヒット曲がある。熊本県水俣市出身。水俣市立水俣第一小学校、水俣市立水俣第一中学校、鎮西高等学校、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科卒業。
人物
生い立ち
1953年2月28日、熊本県水俣市浜町仲之町通りで、映画館(村下興業社)を営む夫婦の第3子として生まれる[1][2][3]。最盛期の村下家は、水俣市と周辺に7軒の映画館を経営した資産家だった[4]。生まれて間もない頃の村下は泣くことが少なく、近隣の住人に「生まれたと聞いたけれど泣き声がしない」と不思議がられたという [5]。村下は、そのまま無口な少年に育った。姉によると、幼少期の村下は実家が営む映画館で一番前の席に座って映画を観たり[6]、一緒にラジオで歌謡曲を聴いたりして過ごすことが多かった[7]。
1959年、父が鹿児島県出水市本町商店街に新たな映画館(泉映)を建てると一家は転居し、1年ほどで水俣市仲之町通りに戻った(一年間出水市立出水小学校に通う)[8]。この頃、村下は姉とともにロカビリーに夢中になった。村下は日劇ウエスタンカーニバルの映像を映画館で観て、歌手への憧れを口にすることもあった[9]。映画館の事務所には休憩時間にかけるレコードが置かれていて、村下は姉とともに聴き漁った[10]。村下はエレクトリック・ギターの音に興味を抱くようになり、寺内タケシとブルージーンズを好んで聴いていたが、やがて「こっちのほうがすごい」とベンチャーズに夢中になった[11]。1965年、映画『エレキの若大将』で加山雄三の「夜空の星」を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキギターも持つ」と言うようになる[1][3][12]。村下はかねてから両親に、エレキギターをせがんでいたが、「不良になるからダメ」[注 1]、「弾けもしないうちから買ってどうする」といった理由で聞き入れられなかった。そこで村下は、加山のギターをモデルにラワン材を使ってギターを自作した[1][13]。ギターが完成すると三面鏡の前に立ち、加山の演奏スタイルを真似ていたという[14]。高校進学後の1969年、村下は憧れだったモズライト・ギターを父親から買い与えられた[15]。父親は1967年に収益の悪化していた映画館を廃業し[16]、新たな事業として温泉の採掘を行ったが失敗、その後は阿蘇市のホテルに就職し、母親とともに転居[17]。村下は、水泳部の特待生として鎮西高等学校に入学し[18]、寮生活を送った後、北九州市の短期大学に入学した姉と熊本市内で同居した[19]。
高校を卒業後、広島へ
1971年、高校を卒業した村下は得意の水泳で実業団・新日本製鐵八幡製鐵所入り[1] [2][20]。当時の部員によると、高校で実績を残した(1969年、中部九州大会平泳ぎ100メートル優勝[21])とはいえ実業団の中では平凡な選手[注 2]で、ギターが得意であったため宴会部長として活躍[2][23]。同年9月に同社を退職[2]。落合昇平は寮生活を送る中、ギターを弾く時間がほとんどないことに悩んだのだろうと推測している[24]。当時父親は東洋工業に転職して広島市に転居しており、音楽中心の生活を目指し村下も広島へ移った[1][3][25][26]。1972年、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科入学。広島に来て間が無い村下には友達がなく、平和公園で一人でギターを弾くことが多かった。『エレキの若大将』に憧れ、ベンチャーズに心酔していた村下が、広島でエレキ・ギターをフォークギターに持ち替え、曲作りを始めた理由は、当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォークギターを持たなければ仲間が作れなかったためであった[4]。同年夏、僅か300枚の自主制作シングル「ひとりぼっちの雨の中」を発表[3][27]。同校卒業後ヤマハ広島店[28]に就職し、二年間、ピアノ購入契約で実績を挙げ[20]、1975年からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテル法華クラブ広島のラウンジで弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続した[3][25][29]。1979年、ヤマハを退社し自主制作レコード『それぞれの風』を発表[3]。レコーディングの様子はテレビ番組(『青春音楽列島「それぞれの風」』)として放映された[30]。この番組のディレクターを務めた人物は中国放送の那須和男だった[4][25][31]。那須は偶然観た村下の演奏に惹かれ、『たむたむたいむ』のパーソナリティーに村下を推薦するなど村下をバックアップしていた[4][25][32]。『たむたむたいむ』で、当時まだ大学生だった西田篤史とコンビを組む[4][25]。この頃の村下は第2期の広島フォーク村に参加するなど広島の音楽好きには知られた存在となっていた[3]。村下は『それぞれの風』でヤマハ主催のポピュラー音楽コンテストに応募したが、受賞はならなかった[3][33]。
プロとしてのデビュー
1979年、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得[3]。しかしCBSソニーとしては、当時流行っていた山下達郎や南佳孝などのシティポップス系のアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBSソニー社内でも意見が分かれた[3]。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。ただ楽曲や声のよさは誰もが認めるところで、中国放送がバックアップしていたこともあり何とかデビューが決定[34]、1980年、27歳の時、シングル「月あかり」でプロデビューした[1][2]。同期合格者にはHOUND DOG、堀江淳、五十嵐浩晃らがいた。プロになると決意した村下は、最高のギターを持っていたいという思いから馴染みの楽器店でマーティンD-45を購入している[35][36]。プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島を拠点に地道にライブ活動を続ける[1][2][20][37]。このためプロの歌手になったからと言って、デビュー直後に劇的な変化はなかった[3]。
1981年1月にリリースされた2枚目のシングル「春雨」は、地道なプロモーションを重ねて、チャート最高位58位を記録、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクイン[3]。1982年発売の「ゆうこ」は、チャート最高位23位を記録、約7か月半にわたってチャートインした[3]。この「ゆうこ」のタイトルになっている女性は日本画家・船田玉樹の娘で、村下とこの時期に結婚しており、後にシンガー・ソングライターとなる娘を儲けている(1985年離婚、村下はこの後再婚)[38][39][40]。同年10月、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に初出演した[3]。
1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなる[1][3]。「初恋」は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であった[41]。水谷はかねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた[42]。水谷は村下を、「でっかい人だった。人にゆだねる強さがあった」と評している[41]。村下の元マネージャー嶋田富士彦によると、村下の楽曲は有線で強く支持され、地方では演歌に似たチャート変動を示した[43]。嶋田によると、村下の楽曲はフォークテイストでありながらもベンチャーズに由来する「切れ味の良いロック感覚」も持ち合わせていたが、音楽業界の中でもレトロな印象を抱く者の方が多かったという[44]。
「初恋」発売の前後に村下は肝炎を患い[45]、「初恋」がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった[46]。また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、1984年末に生活の拠点を東京に移した[47]。同年秋から全国ツアーを開始したが翌1985年に再び体調が悪化し[46]、入退院を繰り返した[48]。この時期に、広島から定年退職したばかりの父親も東京で暮らし始めた[49]。1987年に全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった[48]。1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えた[50]。
1989年、アルバム『野菊よ 僕は…』を発売。須藤晃によるとこの頃アルバムの売れ行きが落ち込みを見せ、村下にも須藤自身にも焦りが生じたという[51]。1992年発売のシングル「ロマンスカー」は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し[51]、完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語った[52]渾身の作品であったが売れず、須藤は「時代が違ってきたんだ」と感じたという[51]。この時期の村下は試行錯誤の末、「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至った[52]。
逝去
1999年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴え、当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪れていた。診察で「高血圧性脳内出血」と判明した直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に死去。46歳没。葬儀は6月26日に営まれた。夫人の希望により、出棺の際には村下が生前最も気に入っていた楽曲「ロマンスカー」[51]がかけられた[52]。7月3日には東京の渋谷公会堂でお別れ会が[53]、8月8日には広島市内の寺院において音楽葬が営まれた[54]。戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」、墓所は茨城県稲敷郡茎崎町(現・つくば市)の筑波茎崎霊園にある。
エピソード
- ギターの腕前は、音楽関係者の間でも評価が高かった[55][56]。編曲家の水谷公生は「アマチュア的だが天才」と評している[57]。レコーディングで演奏することはなかった[58]が、コンサートでは披露していた[59]。
- ザ・ベンチャーズのメンバーとの交友が深く、特にベーシストのボブ・ボーグルからは、自作のギターパーツ(ジャズマスター用のブリッジサドルで、ボブが真鍮を削りだして作った物)を贈られている。村下の他界を聞いたボブは、ツアー中でありながら通夜に参列した。
- 仕事がほとんどなかった1981年に中森明菜のデビュー曲の依頼が来て作成したが採用されなかった[60]。
- 「初恋」がヒットしたとき、広島市の中心部・並木通りに『小さな屋根の下』という喫茶店を開いていた[25]。この店は村下自身が1984年4月に、ファンたちが集まる店になれば、と夢見て作ったものだったが[25]、その頃、村下は肝炎でもう広島と東京の往復が出来なくなって東京に拠点を移したため、やむなくその年の末に閉店した[25][61]。同年に出したアルバム『花ざかり』に収録されている「北斗七星」に歌われた『赤い屋根』は、この店とは別の、生前村下がよく通った喫茶店の名で、現在も広島市北部の安佐南区毘沙門台にある[25][39][62]。村下は当時結婚してこの店の近く、上安、続いて八木の梅林小学校そばのアパートに住んでいた[38][39][63][64]。「初恋」の"校庭"という歌詞は、娘とよく遊んだ梅林小学校で思いついたといわれ[65]、「初恋」を始め多くの楽曲がこの地で着想された[66]。
- 命日である6月24日は、「初恋」のワンフレーズより、『五月雨忌』と呼ばれ10年以上経過した今でもメモリアルイベントが開催されている。
- 前述のように中国放送と縁があったため、現在でも6月の命日前後に村下孝蔵を偲ぶ特別番組が毎年のように放送されている(2007年は6月23日、2008年は6月28日、2009年は彼の命日である6月24日、2010年は6月21日、2012年は6月23日に放送)。その際の司会は、生前仲の良かった西田篤史である[67]。
- 村下の死去から14年を経た2013年、故郷水俣市の商店街『ふれあい一番街』に「初恋」の歌碑が建立され、商店街ストリートの名称もこれにちなみ『初恋通り』と改名された(2014年6月の商店街総会で正式に決定)[68][69]。
- 漫画家の吉崎観音は村下の従兄弟の息子である[70]。
ディスコグラフィ
シングル
# | 発売日 | タイトル | B面(カップリング) |
---|---|---|---|
1st | 1980年5月21日 | 月あかり | 松山行フェリー |
2nd | 1981年1月21日 | 春雨 | 歌人 |
3rd | 1981年6月21日 | 帰郷 | 未成年 |
4th | 1982年4月21日 | ゆうこ | 陽炎 |
5th | 1983年2月25日 | 初恋 | 丘の上から |
6th | 1983年8月25日 | 踊り子 | 冬物語 |
7th | 1984年4月1日 | 少女 | 花れん |
8th | 1984年9月21日 | 夢のつづき | 似顔絵 |
9th | 1986年4月21日 | かざぐるま | 幸せの時間 |
10th | 1986年11月21日 | ねがい | とまりぎ |
11th | 1987年5月21日 | 哀愁物語 -哀愁にさようなら-[注 3] | 美し過ぎるミステイク |
12th | 1987年9月21日 | 陽だまり | 白い花の咲く頃 |
- | 1988年7月1日 | 初恋ミニアルバム[注 4] | |
13th | 1988年11月21日 | 風のたより | ネコ |
- | 1989年3月21日 | 初恋/少女 | |
- | 1989年3月21日 | ゆうこ/踊り子 | |
14th | 1990年6月21日 | ソネット | 禁じられた遊び |
15th | 1991年3月21日 | アキナ | タカハシ |
16th | 1991年11月21日 | この国に生まれてよかった | 帰宅 |
17th | 1992年9月21日 | 一粒の砂 | ひとりごと |
18th | 1992年11月21日 | ロマンスカー | ピンボール |
- | 1993年10月1日 | 初恋/ゆうこ/アキナ | |
19th | 1994年7月1日 | つれてって | りんごでもいっしょに |
- | 1995年11月22日 | 初恋/踊り子 | |
20th | 1996年6月21日 | 16才 | あなた踊りませんか |
21st | 1998年10月31日 | 同窓会 | 素直 |
アルバム
# | 発売日 | タイトル |
---|---|---|
- | 1979年 | それぞれの風[注 5] |
1st | 1980年7月1日 | 汽笛がきこえる街 |
2nd | 1981年4月21日 | 何処へ |
3rd | 1982年4月21日 | 夢の跡 |
4th | 1983年8月25日 | 初恋〜浅き夢みし〜 |
5th | 1984年12月8日 | 花ざかり |
6th | 1986年7月2日 | かざぐるま |
7th | 1987年10月21日 | 陽だまり |
8th | 1988年10月21日 | 恋文 |
9th | 1989年11月1日 | 野菊よ 僕は… |
10th | 1990年7月21日 | 清涼愛聴盤 |
11th | 1991年4月25日 | 新日本紀行 |
12th | 1992年11月21日 | 名もない星 |
13th | 1994年7月1日 | 愛されるために |
14th | 1999年9月8日 | 同窓會 |
ベストアルバム
# | 発売日 | タイトル |
---|---|---|
1st | 1984年11月21日 | 歌人〜ソングコレクション〜 |
2nd | 1987年12月2日 | 歌人II |
3rd | 1995年6月21日 | 林檎と檸檬〜村下孝蔵ベストセレクション |
4th | 1999年12月18日 | しのびあるきのたそがれに |
5th | 2000年11月1日 | 夢の記録 |
6th | 2001年6月24日 | 純情可憐 |
7th | 2005年6月22日 | 七夕夜想曲〜村下孝蔵最高選曲集 其の壱 |
8th | 2011年6月22日 | この国に生まれてよかった 村下孝蔵 セレクションアルバム |
9th | 2012年7月25日 | 哀しい恋の歌 村下孝蔵セレクションアルバム |
10th | 2013年7月3日 | GOLDEN☆BEST 村下孝蔵ベスト・セレクト・ソングズ |
11th | 2013年7月3日 | GOLDEN☆BEST 村下孝蔵オリジナル・カラオケ集 |
12th | 2014年6月25日 | 歌人撰集 |
リミックスアルバム
# | 発売日 | タイトル |
---|---|---|
1st | 2000年6月21日 | ラムネとビーチサンダル |
ライブアルバム
# | 発売日 | タイトル |
---|---|---|
1st | 2005年9月21日 | 月待哀愁歌〜村下孝蔵最高選曲集 其の弐 |
2nd | 2006年5月24日 | 清聴感謝祭〜村下孝蔵最高選曲集 其の参 |
3rd | 2007年7月7日 | 村下孝蔵メモリアルコレクション[注 6] |
4th | 2009年7月1日 | GUITAR KOZO |
5th | 2015年7月1日 | きっといつかは |
コンピレーション・トリビュートアルバム
# | 発売日 | タイトル |
---|---|---|
1st | 2006年5月24日 | 昭和春夏秋冬〜村下孝蔵作品集〜 |
2nd | 2006年7月21日 | 絵日記と紙芝居〜村下孝蔵トリビュートアルバム〜 |
CD BOX
# | 発売日 | タイトル |
---|---|---|
1st | 2008年7月2日 | 哀愁浪漫[注 7] |
2nd | 2012年10月31日 | 銀河天空〜村下孝蔵ベスト・セレクト・ボックス |
VHS/DVD
# | 発売日 | タイトル |
---|---|---|
1st | 2001年6月24日 | 純情 |
2nd | 2011年6月22日 | 歌人'95 |
詩集
発売日 | タイトル | 出版社 |
---|---|---|
1991年5月1日 | 村下孝蔵詩集 初恋〜浅き夢みし〜 | PHP研究所 |
主なタイアップ曲
楽曲 | タイアップ | 時期 |
---|---|---|
ねがい | 明星食品「チャルメラ」CMソング | 1986年 |
陽だまり | フジテレビ系アニメ『めぞん一刻』オープニングテーマ | 1987年 |
風のたより | 「'88赤い羽根共同募金」イメージソング | 1988年 |
この国に生まれてよかった | ハウス食品「特選生わさび」CMソング | 1991年 |
一粒の砂 | 広島アジア競技大会協賛・中国新聞社・中国放送共同企画「アジア・ピースロード」テーマ曲 | 1992年 |
同窓会 | TBS系ドラマ30「命賭けて〜あなたは我が子を守れるか!?〜」主題歌 | 1998年 |
主な提供曲、被カバー曲
- 三田寛子 「初恋」「野菊いちりん」「夢路」「恋ごころ」
- 高田みづえ 「かげふみ」「似顔絵」
- 香西かおり 「あなたへ」※遺作
- 香田晋「ゆうやけ」
- 伍代夏子「旅一夜」
- 裕木奈江 「りんごでもいっしょに」「たなばた」「この空が味方なら」
- 柳葉敏郎 「あなた踊りませんか?」
- 寺内タケシ 「雷雲(RAIUN)」
- 梅沢富美男 「落情」
- 藤崎詩織(ゲーム『ときめきメモリアル』のキャラクター、声は金月真美) 「リンゴの樹の下で」
- おかあさんといっしょ 「こどもがいっぱいわらってる」「パパはいつもおきている」(歌のおねえさん・歌のお兄さんに提供)
- 中原理恵 「さみしさ裏返し」
- 叶和貴子 「今夜がよければ」
- 大石真理恵「すみれ白書」「秋海棠」
- 島田奈美「ハッピーエンドの後で」
- 中山忍「花は何処にあるの?」
- 村越裕子 「春雨」
- 島谷ひとみ 「カバーアルバム・男唄」「初恋」
- GOING UNDER GROUND 「初恋」(サントリー「白いなっちゃん」CMソング)
- Acid Black Cherry 「初恋」(2nd single「Black Cherry」c/w曲、カバーアルバム「Recreation」)
- 中森明菜「踊り子」
- 平川地一丁目「松山行きフェリー」「初恋」
- 柏原芳恵「ソネット」
- 前川清「酔いしれて」「最後の手紙」
- 水森かおり「恋路海岸」
- 早見沙織&高垣彩陽(テレビアニメ『そらのおとしもの』第9話EDテーマ「初恋」
- 早見沙織&高垣彩陽(テレビアニメ『そらのおとしものf(フォルテ)』第8話EDテーマ)「踊り子」
- 蔡楓華(香港)「讓你自由」(84年に提供された後、87年に「白い花の咲く頃」として村下がセルフカバー)
- ジュディ・オング「花たちの扉」(ひろしまフラワーフェスティバル公式テーマ曲。作詞:来生えつこ。その後「かすみ草」として村下の作詞でセルフカバー)
ギター
メモリアル・コンサートの演目
- 2004年9月18日/19日(ソミドホール)
- ロマンスカー
- 北斗七星
- 教訓
- ひとり暮らし
- とまりぎ
- 夢の跡
- 月あかり
- 春雨
- 踊り子
- 松山行きフェリー
- 同窓会
- この国に生まれてよかった
- EN1 初恋
- EN2 青春の日々に
- 2007年8月5日(札幌市教育文化会館)…ゲスト/天満敦子、みのや雅彦
- 北斗七星
- つれてって
- ロマンスカー
- 踊り子
- かざぐるま
- ネコ
- 午前零時
- タイスの瞑想曲
- 愛のあいさつ
- 純情可憐
- ブラック・サンド・ビーチ
- RAIUN(雷雲)
- 陽だまり
- 挽歌
- 空(作詞/作曲 みのや雅彦)
- 松山行きフェリー
- 同窓会
- この国に生まれてよかった
- 帰宅
- EN1 教訓
- EN2 初恋
- EN3 青春の日々に
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h 365日 あの頃ヒット曲ランキング 【1983年6月】初恋/村下孝蔵
- ^ a b c d e f “村下孝蔵さんの「初恋」は歌詞通りだった”. 日刊スポーツ: p. 22. (2008年7月16日) 2015年10月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “『初恋/村下孝蔵』 食卓ON楽、2015-09-27”. 広島エフエム放送. (2008年6月20日). オリジナルの2015年10月14日時点におけるアーカイブ。 2015年10月14日閲覧。
- ^ a b c d e 『朝日新聞be』「うたの旅人」2009年2月14日
- ^ 落合2008、14-15頁。
- ^ 落合2008、17-18頁。
- ^ 落合2008、39頁。
- ^ 落合2008、50・62頁。
- ^ 落合2008、63-65頁。
- ^ 落合2008、92-93頁。
- ^ 落合2008、93-95頁。
- ^ 落合2008、122-123頁。
- ^ 落合2008、123-125頁。
- ^ 落合2008、125-126頁。
- ^ 落合2008、162-163頁。
- ^ 落合2008、134-135頁。
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- ^ a b c 千葉紘子『千葉紘子のコーヒーブレイク』毎日新聞社、1984年、267-269頁。
- ^ 落合2008、164頁。
- ^ 『熱討スタジアム』第157回 村下孝蔵『初恋』を語ろう 今週のディープ・ピープル 経田康×嶋田富士彦×沢田聖子 – 週刊現代 2015/07/04日号
- ^ 落合2008、172-174頁。
- ^ 落合2008、176-177頁。
- ^ a b c d e f g h i “村下孝蔵 今も降る君の歌声-マイタウン広島”. 朝日新聞広島版: p. 33. (2010年1月4日)
- ^ 落合2008、177頁。
- ^ 落合2008、19-23頁。
- ^ ヤマハ 広島店
- ^ 「八木経由 あのねのねまで支離滅裂テーマ」 雪待月2016-06-22
- ^ 落合2008、44-45頁。
- ^ 落合2008、45頁。
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- ^ 落合2008、34頁。
- ^ 落合2008、45-46、113-115頁。
- ^ 落合2008、32-33頁。
- ^ Picker's Friendship KISADA 木定楽器店 - 木定楽器店・音楽教室
- ^ Ommo's: バンバンで、村下孝蔵さんと話す
- ^ a b “思い出の八木復興エール 故村下孝蔵さん元妻と娘が演奏会”. 中国新聞 (中国新聞(ヒロシマ平和メディアセンター)). (2016年6月18日). オリジナルの2016年6月28日時点におけるアーカイブ。 2016年6月28日閲覧。
- ^ a b c “十七回忌にささげる『初恋』 村下孝蔵さん長女らがカバーCD”. 神戸新聞. (2015年2月25日). オリジナルの2015年10月14日時点におけるアーカイブ。 2015年10月14日閲覧。
- ^ 村下孝蔵さんの元妻と娘、アコーディオニストゆうこ、「父と村下孝蔵」 雪待月2015-08-01、「亡き祖父の励ましと父の墓所についてのお願い」 雪待月2014-08-20
- ^ a b 落合2008、168頁。
- ^ 落合2008、167頁。
- ^ 落合2008、128-129頁。
- ^ 落合2008、129頁。
- ^ 落合2008、143-144頁。
- ^ a b 落合2008、131頁。
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参考文献
- 落合昇平『村下孝蔵 STORY 深き夢歌、淡き恋歌』ソニーマガジンズ〈ソニー・マガジンズ新書 M003〉、2008年。ISBN 4-7897-3306-8。
関連項目
- 須藤晃 - 村下を見いだしたプロデューサー。
- 町支寛二 - 数多くの作品のコーラスパートに参加した。
- 水谷公生 - 数多くの作品の編曲を手がけるが、サウンドプロデュースの役割も果たした。
- 村上保 - 彫刻家、切り絵作家。「初恋」のジャケットを手掛けたのを皮切りに、村下孝蔵の主要作品に参加している。
- 西田篤史 - 広島の親友
- 経田康 - 村下孝蔵と長年相棒を務めたリードギタリスト。音楽・プライベート両面で村下の信頼が篤かった。アコーステックアルバム「GUITAR KOZO」の制作者。没後「メモリアルコンサート」「同窓会コンサート」をコンサートマスターとして主導。