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2016年10月18日 (火) 09:19時点における版

ビリー・フューリー
Billy Fury
出生名 Ronald Wycherly
生誕 (1940-04-17) 1940年4月17日(84歳)
イングランドの旗 イングランドマージーサイド州リヴァプール
死没 ????????
ジャンル ブリティッシュ・インヴェイジョン
ロックンロール
ロカビリー
ポップ
職業 シンガー・ソングライター
俳優
活動期間 1958年 - 1983年
レーベル デッカ・レコード
パーロフォン
ポリドール・レコード
共同作業者 トルネイドース
ザ・ビートルズ
ザ・ブルー・フレイムス
マーティー・ワイルド
公式サイト www.billyfury.com

ビリー・フューリー(Billy Fury、1940年4月17日 - 1983年1月28日)は、イギリスの歌手。

エルヴィス・プレスリーの様な声、容姿、ステージアクトで人気を博す。主に、1950年代後半から1960年代前半にかけてヒットを連発し、クリフ・リチャードマーティー・ワイルドと共に、イギリスロック御三家の一人としても有名である。

来歴

生い立ち

リヴァプールに生まれる。10歳頃からピアノのレッスンを受ける。14歳でギターをもらった。

幼い頃にリウマチ熱を患い、子供時代は病院で大半を過ごした。リウマチ熱が元で心臓疾患を患う事になる。医者から「30年も生きられないだろう」と診断された。

1955年に初めてバンドを結成するも、タグボート荷役でアルバイトをする日々が続いた。

1958年、アマチュアの演奏コンテストで優勝し、自分で曲を作るようになる。やがて、後にウィッチャーリー[1]のマネージャーになるラリー・パーンズが主催のコンサートに出演。

そして、パーンズと契約を結び、芸名をビリー・フューリーとする。

デビューへ

1959年デッカ・レコードより「メイビー・トゥモロー」でシングル・デビューする。チャートの18位を記録する。5枚目の「コレット」は9位とヒットを飛ばす。そして1960年にはザ・フォー・ジェイズ[2]がバック・ボーカルを務めたファースト・アルバム、『サウンド・オブ・フューリー』を発表。チャートの18位を記録する。

しばらくは、ザ・ブルー・フレイムス[3]をバックに従えていたが、彼らを辞めさせた後、パーンズは新たなバックバンドの発掘を始める[4]。その結果、トルネイドースがバックバンドに就任する。1962年1月から1963年8月まで務める。

スタイルの変更

デビューからロック歌手として活動していたが、ワイルドなステージアクトが元で心臓に負担をかける事になり、路線を変更せざるを得なくなった。

バラード歌手になったフューリーは、まず「ハーフウェイ・トゥ・パラダイス」を3位に、続いて「ジェラシー」を2位にチャートインさせる。

そして、1962年、映画「プレイ・イット・クール」で役者デビューを果たす。劇中で歌われた「ワンス・アポン・ア・ドリーム」が7位を記録する。

その後も、「アイ・ウィル」、「思わせぶり」といったヒットを連発するも、「イン・ソーツ・オブ・ユー」を境に、トップ10入りしなくなる。1966年、デッカ・レコードを離れ、パーロフォンに移籍するも、ヒットが出ない。

1960年代後半、イギリスの音楽シーンが急激に変わり、また長年悩まされ続けてきた心臓疾患の療養も兼ねて、フューリーは、同じくイギリスロック御三家の一人、マーティー・ワイルドと共に半引退状態になっていた。

後年

1972年1976年に、フューリーは心臓の手術を受けた。

1973年、半引退状態だったフューリーは、初期のザ・ビートルズを描いた『ザットル・ビー・ザ・デイ』に出演していた。リンゴ・スターキース・ムーンも出演していた。

歌手としては半引退状態であったが、フューリーは、野生動物の保護に務めていた。

1980年代になると、フューリーはカムバックを果たす。また、アルバム『ザ・ワン・アンド・ザ・オンリー』を録音[5]する。

死去

ロンドンでのレコーディングを済ませた後、フューリーは自宅で意識を失った。フューリーのマネージャー、トニー・リードが発見し、パディントンのセント・マリー病院に運び込まれたが、1983年1月28日、午後2時10分に死亡した。42歳だった。

フューリーの葬式には、ラリー・パーンズ、マーティー・ワイルド、イーデン・ケイン等が参列した。

ディスコグラフィー

シングル・ディスコグラフィー

発売年 レーベル タイトル 全英シングルチャート[6]
1959年 デッカ・レコード Maybe Tomorrow 18位
1959年 デッカ・レコード Margo 28位
1959年 デッカ・レコード Angel Face -
1959年 デッカ・レコード My Christmas Prayer -
1959年 デッカ・レコード Colette 9位
1960年 デッカ・レコード That's Love 19位
1960年 デッカ・レコード Wondrous Place 25位
1960年 デッカ・レコード A Thousand Stars 14位
1961年 デッカ・レコード Don't Worry 40位
1961年 デッカ・レコード Halfway To Paradise 3位
1961年 デッカ・レコード Jealousy 2位
1961年 デッカ・レコード I'd Never Find Another You 5位
1962年 デッカ・レコード Letter Full of Tears 32位
1962年 デッカ・レコード Last Night Was Made For Love 4位
1962年 デッカ・レコード Once Upon A Dream 7位
1962年 デッカ・レコード Because Of Love 18位
1963年 デッカ・レコード Like I've Never Been Gone 3位
1963年 デッカ・レコード When Will You Say I Love You? 3位
1963年 デッカ・レコード In Summer 5位
1963年 デッカ・レコード Somebody Else's Girl 18位
1963年 デッカ・レコード Do You Really Love Me Too? (Fools Errand) 13位
1964年 デッカ・レコード I Will 14位
1964年 デッカ・レコード It's Only Make Believe 10位
1965年 デッカ・レコード I'm Lost Without You 16位
1965年 デッカ・レコード In Thoughts Of You 9位
1965年 デッカ・レコード Run To My Lovin' Arms 25位
1966年 デッカ・レコード I'll Never Quite Get Over You 35位
1966年 デッカ・レコード Don't Let A Little Pride Stand In Your Way -
1966年 デッカ・レコード Give Me Your Word 35位
1967年 パーロフォン Hurtin' Is Loving -
1967年 パーロフォン Loving You -
1967年 パーロフォン Suzanne In The Mirror -
1968年 パーロフォン Beyond The Shadow Of A Doubt -
1968年 パーロフォン Silly Boy Blue -
1968年 パーロフォン Phone Box -
1968年 パーロフォン Lady -
1969年 パーロフォン I Call For My Rose -
1969年 パーロフォン All The Way To The USA -
1970年 パーロフォン Why Are You Leaving? -
1970年 パーロフォン Paradise Alley -
1972年 フューリー・レコーズ Will The Real Man Stand Up? -
1974年 ワーナー・ブラザーズ・レコード I'll Be Your Sweetheart -
1981年 ポリドール・レコード Be Mine Tonight -
1982年 ポリドール・レコード Love Or Money 57位
1982年 ポリドール・レコード Devil Or Angel 58位
1983年 ポリドール・レコード Let Me Go, Lover! -
1983年 ポリドール・レコード Forget Him 59位

アルバム・ディスコグラフィー

脚注

  1. ^ この時はまだビリー・フューリーの名前は名乗っていない。
  2. ^ 後のザ・フォーモスト
  3. ^ 後に、ジョージー・フェイムのバックバンドになり、大きな成功を収める。
  4. ^ ザ・ビートルズもオーディションを受けた。受かるための条件は、その当時ベーシストをしていたスチュアート・サトクリフを辞めさせる事だった。理由は、サトクリフのベースの腕が未熟であったためである。サトクリフとの友情を優先したビートルズは、オーディションを辞退した。後に大成功を収める事になるが、これがきっかけで、フューリーは、「ビートルズを見出せなかった男」としてレッテルを貼られてしまう。
  5. ^ 発売されたのは、フューリーが死去した2ヶ月後の1983年3月の事だった。
  6. ^ http://www.45-rpm.org.uk/dirb/billyf.htm

参考文献

関連項目