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2016年10月17日 (月) 14:01時点における版
Bruce Springsteen ブルース・スプリングスティーン | |
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ブルース・スプリングスティーン(2012年) | |
基本情報 | |
別名 | ザ・ボス |
生誕 | 1949年9月23日(75歳) |
出身地 | アメリカ合衆国・ニュージャージー州フリーフォールド |
ジャンル | ロック、フォーク |
職業 | シンガーソングライター |
担当楽器 |
ボーカル ギター ピアノ ハーモニカ |
活動期間 | 1972年〜現在 |
レーベル | コロムビア |
共同作業者 | Eストリート・バンド |
公式サイト | brucespringsteen.net |
ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen, 1949年9月23日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ロングブランチで生まれ、フリーホールド育ちのシンガーソングライター。父はオランダ系とアイルランド系の混血のトラック運転手、母はイタリア系アメリカ人。敬虔なカトリック教徒。
アメリカを代表するロックン・ローラー。通称は「ボス(Boss)」。初期の作品においては、青春群像の描写に際立った才能を示したが、やがて社会的なテーマを作品に織り込むことによって、アメリカ民衆の声を代弁する存在へと成長した。ウッディ・ガスリーの後継的な立場にあるアーティストの一人である。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第36位[1]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第23位。
2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第96位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第62位[2]。
略歴
デビュー以前
エルヴィス・プレスリーに憧れてギターを始めた。10代半ばから、地元ニュージャージーで数々のアマチュア・バンドに参加。1969年に結成した、スティール・ミルというハードロック・バンドは、西海岸に演奏旅行に出かけた際に、ビル・グレアムからデモ・レコーディングの機会を与えられ、更にレコード契約を提示されるほどの評価を得た(結果的にレコード・デビューはしていない)。1971年の同バンド解散後は、リズム・アンド・ブルースの要素を取り入れたブルース・スプリングスティーン・バンドというグループを結成するも、仕事の不足からあえなく短期間で解散している。
1970年代
前述のバンド解散後はソロで活動をしていたが、1972年に若手音楽ビジネス家のマイク・アペルと出会い、才能を見込まれてマネージメント、レコード・プロデュース及び音楽出版契約を結ぶ。その後、大手レコード会社CBSの伝説的A&Rマン、ジョン・ハモンドのオーディションを受ける。ハモンドはその才能を絶賛、結果1973年1月5日に『アズベリーパークからの挨拶 (Greetings From Asbury Park, N.J.)』でレコード・デビューする運びとなった。
デビュー当初は、「第二のディラン」というキャッチ・フレーズで、シンガーソングライター的な扱いでのプロモーションを受けたが、あくまでロックン・ローラーとしての活動にこだわっていた本人は、そのギャップに苦しむことになった。しかもセールス的にはまったく振るわず、クラブ・サーキット中心のライヴ活動に活路を求めた。
1973年11月に、セカンド・アルバム『青春の叫び (The Wild, The Innocent & The E Street Shffule)』を発表、評論家からは高い評価を得た。一方で、地道なライヴ活動が実を結び、圧倒的なパフォーマンスが評判を呼ぶ。
1974年に、ライヴを観たロック評論家ジョン・ランドーは、リアルペーパー誌に「私はロックン・ロールの未来を観た。その名はブルース・スプリングスティーン」と絶賛のコラムを掲載する。そのランドーをプロデューサーに招いて製作された、翌1975年8月25日発売のサード・アルバム『明日なき暴走 (Born to Run)』は、Billboard 200の10位に入り、10月18日付けチャートでは3位に浮上する。シングルカットされたタイトル・トラックはビルボード・Hot 100の23位を記録した。また、タイム誌とニューズウィーク誌の表紙を同時に飾るという快挙も成し遂げる。
だが1976年、ジョン・ランドーのプロデュース参加や曲の著作権を巡って、マネージャーのマイク・アペルとトラブルになり、裁判となる。最終的には、翌1977年に法廷外での和解となり、アペルとの関係を解消したが、レコーディング活動は2年間休止した。なお、ランドーは後にスプリングスティーンのマネージャーとなっている。
前作より3年が経った1978年に、アルバム『闇に吠える街 (Darkness on the Edge of Town)』を発表する。前作のセールスには及ばなかったものの、その後のライヴでの主要レパートリーが多く収録されたアルバムとなった。当作を引っ提げた全米ツアーでのパフォーマンスの凄まじさは、伝説となっている。
1980年代
1980年10月17日、5枚目のアルバム『ザ・リバー (The River)』を発表。初めてアルバム・チャート1位を獲得し、リカット・シングル「ハングリー・ハート (Hungry Heart)」も初のBillboard Hot 100のトップ10入り。その後、約1年に渡るワールド・ツアーを敢行した。
1982年9月30日、6枚目のアルバム『ネブラスカ (Nebraska)』を発表。アコースティック・ギターとハーモニカだけで自宅にてレコーディングされた作品で、その内容も相まって大きな反響を呼んだ。
1984年6月4日、7枚目のアルバム『ボーン・イン・ザ・U.S.A. (Born in the U.S.A.)』を発表。アルバム・チャート(ビルボード)1984年6月23日付初登場9位、その後、1984年7月3日から4週連続で1位となり、間をあけて1985年1月19日に再度1位に返り咲くという大ヒット作となる。また、UKアルバム・チャートでも1984年6月16日付で初登場2位、1984年12月22日付では79位にまでダウンしたが、翌12月29日付以降再び順位を上げ、チャートイン36週目の1985年2月16日付で初の1位を記録。さらに6月1日付では14位までダウンするものの、7月6日付で再度1位に返り咲くという記録を達成している。アルバム中の1曲「ダンシン・イン・ザ・ダーク (Dancing In The Dark)」は、全米シングル・チャート(ビルボード)で4週連続第2位を記録した(1984年6月30日〜7月21日)。 また、この曲のミュージック・ビデオでは、有名な映画監督のブライアン・デ・パルマが、まだ女優としては無名だったコートニー・コックスをファン役に起用。彼女がライブの途中でスプリングスティーンにステージに呼び寄せられ、一緒にダンスを踊るという内容である。 ちなみに、この時の1位はデュラン・デュランの「ザ・リフレックス」(同年6月23日〜6月30日)とプリンスの「ビートに抱かれて」(同年7月7日〜8月4日)であった。特にプリンスに関しては、アルバム『グレイテスト・ヒッツ (Greatest Hits)』に収録された同曲のライナーノーツで、ユーモアたっぷりのコメントを残している。
アルバムは、全米で1,200万枚、全世界で2,000万枚の売上を記録し、発表と同時に行われたワールド・ツアーも大成功を収めた。
1985年4月、初来日公演を行う。同年5月、モデルのジュリアン・フィリップスと結婚(1988年に離婚)。同年、USA for AFRICAの「ウィ・アー・ザ・ワールド」に参加。ソロパートを2度も担当している。また、当時Eストリート・バンドを離れていたスティーヴ・ヴァン・ザント(後に復帰)を中心とした「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」の楽曲「サン・シティ」にも参加した。
1986年には、1975年から1985年までのライヴ録音からベストテイクを集めたライヴ・アルバム『THE LIVE (Live/1975-85)』を発表する。LP5枚組、またはCD3枚組というボリュームにも関わらず、アルバム・チャート初登場1位という、前代未聞の記録を残した。
1987年10月9日、8枚目のスタジオ・アルバム『トンネル・オブ・ラヴ (Tunnel Of Love)』を発表。アルバム発表後ワールド・ツアーを行うが、ツアー終了後の1988年、デビュー以来バックを勤めて来たEストリート・バンドを解散する。
1990年代
1992年、長い沈黙を破り、『ヒューマン・タッチ (Human Touch)』と『ラッキー・タウン (Lucky Town)』の二枚のアルバムを同時発表した。二枚組みにしなかったのは、『ヒューマン・タッチ』完成直前に新たなコンセプトが浮かびアルバム一枚分の曲を録音したが、同じアルバムに収録するには無理があると判断したため。
1993年には、ジョナサン・デミ監督の映画『フィラデルフィア (Philadelphia)』の主題歌として「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア (Streets Of Philadelphia)」を書き下ろしで提供。同曲で1994年にアカデミー歌曲賞を受賞している。日本で深夜に放送されていた音楽番組『BEAT UK』(フジテレビ)では、UKシングル・チャートNo.1を獲得した。
1995年に、初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ (Greatest Hits)』を発表。再結集したEストリート・バンドと録音した3曲を含む新曲4曲も収録された。同年には、ジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』にヒントを得たアルバム『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード (The Ghost of Tom Joad)』を発表。1997年まで、アコースティック・ソロでワールド・ツアーを行った。
1998年には、デビュー以来の未発表曲や既発曲の別テイクを集大成したCD4枚組ボックス・セット『トラックス(Tracks)』を発表。直後にEストリート・バンドの再結成ツアーを行い、全米とヨーロッパの各地で大歓迎された。
2000年代
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件は、スプリングスティーンの活動にも大きな影響を及ぼした。事件直後は、いくつかの追悼イベントに参加。翌2002年7月には新作アルバム『ザ・ライジング (The Rising)』を発表。テロの犠牲者や遺族、自爆テロリストにまで題材をとり、事件の傷跡を癒そうとする内容の作品であった。同時に全国、ヨーロッパを巡るツアーを開始。
当初、アメリカのアフガニスタン侵攻については賛同していたものの、イラク戦争については反対を表明した[3]。
2004年アメリカ合衆国大統領選挙に際しては、反ブッシュ的立場を鮮明にした。『Vote For Change』と銘打って、R.E.M.、パール・ジャム、ジャクソン・ブラウン、ジョン・フォガティ(元クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)ら多数のアーティストとツアーを行い、共和党支持の強い地域で民主党支持を訴えた。選挙直前の2004年10月28日には、オハイオ州でジョン・ケリー上院議員の応援演説も行った。結果的にブッシュは再選されたが、それについてのスプリングスティーンのコメントは発表されず、彼自身のアコースティック・ギター弾き語りによるアメリカ国歌がオフィシャルサイトにアップロードされた。
2005年4月に、通算20作目となるアルバム『デビルズ・アンド・ダスト (Devils & Dust)』が発表された。主に、個人の信条と政治や社会の間で苦悩する人々の姿が描かれている作品である。アルバム発表後、ソロ・ツアーをアメリカ、ヨーロッパで敢行。このツアーは、1995年 - 1997年にかけて行われた「ゴースト・オブ・トム・ジョード・ツアー」とは若干異なり、ギターとピアノ、オルガンを曲によって弾き分ける形式であった。
同年11月には、サード・アルバム『明日なき暴走 (Born to Run)』の発表30周年を記念したボックス・セットが発売された[4]。2007年には2年ぶりの新作『マジック (Magic)』を発表した。
2009年、「ザ・レスラー」が、第66回ゴールデン・グローブ賞の“主題歌賞”を受賞。この曲は、ミッキー・ローク主演映画、『レスラー』においてエンディングテーマとして使用されたが、友人でファンでもあるミッキー・ロークのために、書き下ろした曲である[5]。
2009年2月開催のNFLの第43回スーパーボウルのハーフタイムショーに出演。「凍てついた10番街」(アルバム明日なき暴走収録曲)、新作『ワーキング・オン・ア・ドリーム (Working On A Dream)』を熱唱した[6]。
2010年代
2010年11月、4thアルバム『闇に吠える街(Darkness on the Edge of Town)』のボックス・セットが発売された。また、このボックスにも収められている未発表曲を2枚組アルバム『ザ・プロミス』として同時発売した。
2012年3月、3年ぶりとなる久々の新作『レッキング・ボール (Wrecking Ball)』を発表、世界14カ国で初登場1位となった[7]。
2012年7月26日、自身が過去にうつ病に悩まされていたことを、米紙ニューヨーカーのインタビューで告白。それによると、1982年に心理療法士のカウンセリングを受け始めていたという。[8]。
2014年1月、通算18枚目のオリジナルアルバム『ハイ・ホープス (High Hopes)』を発表。世界20カ国で1位となったほか、日本でも約20年ぶりにオリコン週間洋楽アルバムランキング第1位を獲得した[9]。
Eストリート・バンド
Eストリート・バンド (The E Street Band) はスプリングスティーンのレコーディング、コンサートにおいてバック演奏を務めるグループ。アマチュア時代に結成したバンドが母体になっているが、メンバーの交代は数回行われている。1988年に発展的解散。1995年にベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ (Greatest Hits)』の新曲録音の際に一時的に再結成された。その後1999年、正式に再結成。
2011年6月18日にバンドの核とも言えるサックスのクラレンス・クレモンズが死去[10]。バンド存続も危ぶまれたが、クラレンスの甥であるジェイク・クレモンズがサポート・メンバーとして加わり、活動を継続している[11]。
2012年現メンバー
- ロイ・ビタン (Roy Bittan) :Piano, Synthesizer
- ニルス・ロフグレン (Nils Lofgren) :Guitars, Backing Vocals
- パティ・スキャルファ (Patti Scialfa) :Acoustic Guitar, Backing Vocals
- ギャリー・タレント (Garry Tallent) :Bass Guitar
- スティーヴ・ヴァン・ザント (Steve Van Zandt) :Guitars, Backing Vocals
- マックス・ワインバーグ (Max Weinberg) :Drums
- スージー・タイレル (Soozie Tyrell) :Violin, Backing Vocals
過去に参加していたメンバー
- クラレンス・クレモンズ (Clarence Clemons) :Saxophone, Percussion, Backing Vocals 2011年6月18日に死去
- ダニー・フェデリシ (Danny Federici) :Organ, Accordion, Synthesizer 2008年4月17日に死去
- アーネスト・”ブーム”・カーター (Ernest "Boom" Carter) :Drums
- ヴィニ・ロペス (Vini Lopez) :Drums
- スキ・ラハヴ (Suki Lahav) :Violin, Backing vocals
- デヴィット・サンシャス (David Sancious) :Keyboards
作品『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』について
1984年6月4日に発売したアルバム『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』のタイトル曲「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は、ベトナム帰還兵の苦悩を題材にしたものだが、同曲の大ヒットは作者の意図に反して、偏ったイメージを広めた。印象的なリフレインと豪快な演奏から、この曲は愛国歌であるという捉え方をされ、共和党の大統領候補レーガンの再選キャンペーンに利用されそうにまでなった。また民主党のモンデール候補も同曲を使用した。なお、スプリングスティーン本人は、熱心な民主党の支持者として有名である。
アルバムの大ヒットは、スプリングスティーンを一躍世界的スターダムに押し上げたが、同時に巨大な名声との格闘を強いることになった。作風は、1987年のアルバム『トンネル・オブ・ラヴ』以降は内省的な趣が強くなっていった。
しかし、1995年の『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード』は、アメリカの貧困層の現状を訴えた曲やアメリカの軍需産業について考察した曲などが収録されたアルバムとなり、再び政治的な色合いが強くなった。その後のソロ・アコースティック・ツアーでは、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」をアコースティック・ギターのボトルネック奏法でブルース風に演奏し、この曲が本来持っていたメッセージをストレートに提示した。このアレンジは、1982年のアルバム『ネブラスカ』制作の際に作られた原曲に近いものであった。
2002年の『ザ・ライジング』ツアーで、実に14年ぶりのフル・バンドスタイルで披露した。
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
- 1973年 『アズベリー・パークからの挨拶』 Greetings From Asbury Park, N.J. (全米60位、2xプラチナム、全英41位、シルバー)
- 1973年 『青春の叫び』 The Wild, The Innocent & The E Street Shuffle (全米59位、2xプラチナム・全英33位、シルバー)
- 1975年 『明日なき暴走』 Born to Run (全米3位、6xプラチナム・全英17位、プラチナム・加31位、2xプラチナム)
- 1978年 『闇に吠える街』 Darkness on the Edge of Town (全米5位、3xプラチナム・全英16位、ゴールド・加7位、プラチナム)
- 1980年 『ザ・リバー』 The River (全米1位、5xプラチナム・全英2位、プラチナム・加1位、2xプラチナム)
- 1982年 『ネブラスカ』 Nebraska (全米3位、プラチナム・全英3位、シルバー・加3位、ゴールド)
- 1984年 『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』 Born in the U.S.A. (全米1位、15xプラチナム・全英1位、3xプラチナム・加1位、10xプラチナム)
- 1987年 『トンネル・オブ・ラヴ』 Tunnel of Love (全米1位、3xプラチナム・全英1位、プラチナム・加1位、3xプラチナム)
- 1992年 『ヒューマン・タッチ』 Human Touch (全米2位、プラチナム・全英1位、ゴールド・加2位、2xプラチナム)
- 1992年 『ラッキー・タウン』 Lucky Town (全米3位、プラチナム・全英2位、ゴールド・加3位、2xプラチナム)
- 1995年 『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード』 The Ghost of Tom Joad (全米11位、ゴールド・全英16位、ゴールド・加15位、ゴールド)
- 2002年 『ザ・ライジング』 The Rising (全米1位、2xプラチナム・全英1位、ゴールド・加1位)
- 2005年 『デビルズ・アンド・ダスト』 Devils & Dust (全米1位、ゴールド・全英1位、ゴールド・加2位、ゴールド)
- 2006年 『ウィ・シャル・オーヴァーカム: ザ・シーガー・セッションズ』 We Shall Overcome:The Seeger Sessions (全米3位、ゴールド・加3位、ゴールド)
- 2007年 『マジック』 Magic (全米1位、プラチナム・全英1位・加1位)
- 2009年 『ワーキング・オン・ア・ドリーム』 Working on a Dream (全米1位、ゴールド・全英1位・加1位、プラチナム)
- 2012年 『レッキング・ボール』 Wrecking Ball (全米1位・全英1位)
- 2014年 『ハイ・ホープス』 High Hopes (全米1位・全英1位)
ライヴ・アルバム、コンピレーション・アルバム
- 1986年 『The "Live" 1975-1985』 Live/1975-85 (全米1位・全英4位)
- 1997年 『MTV PLUGGED〜プラグド』 In Concert/MTV Plugged (全米189位・全英4位)
- 2001年 『ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ』 Live In New York City (全米5位・全英12位)
- 2006年 『ライヴ・アット・ハマースミス・オデオン,1975』 Hammersmith Odeon, London '75
- 2007年 『ライヴ・イン・タブリン』
コンピレーション・アルバム
- 1995年 『グレイテスト・ヒッツ』 Greatest Hits (全米・全英1位)
- 1998年 『トラックス』 Tracks (全米27位)
- 1999年 『18トラックス〜ザ・ベスト・オブ・トラックス』 18 Tracks (全米64位・全英23位)
- 2003年 『エッセンシャル・ブルース・スプリングスティーン』 The Essential Bruce Springsteen (全米14位・全英28位)
- 2010年 『ザ・プロミス』
映画
- 『インディアン・ランナー』 - 1991年のショーン・ペン監督作品。アルバム『ネブラスカ』収録の「ハイウェイ・パトロールマン」を基にしている。
日本公演
- 1985年 Born in the U.S.A Tour
- 1988年 A Concert Human Right Now
- 9月27日 東京ドーム
- 1997年 The Ghost of Tom Joad Tour
- 1月27日, 29日~31日 東京国際フォーラムホールA
関連項目
脚注
- ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Bruce Springsteen”. 2013年5月26日閲覧。
- ^ “Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
- ^ “ブルース・スプリングスティーン、イラクとの戦争回避を望む”. BARKSニュース. 2012年3月29日閲覧。
- ^ “B・スプリングスティーン『明日なき暴走』のBOXセット発売”. CDジャーナル (2005年9月28日). 2012年3月29日閲覧。
- ^ “ミッキー・ローク、ブルース・スプリングスティーンとの泣けるドラマを語る”. シネマトゥデイ (2009年6月16日). 2012年3月29日閲覧。
- ^ “ブルース・スプリングスティーン、ハーフタイムショーで熱唱”. NFL JAPAN (2009年2月2日). 2012年3月29日閲覧。
- ^ “ブルース・スプリングスティーン、『レッキング・ボール』世界14カ国で初登場No.1”. BARKSニュース (2012年3月16日). 2012年3月29日閲覧。
- ^ “B・スプリングスティーン、うつ病の過去を告白”. AFPBB News (2012年7月26日). 2012年7月26日閲覧。
- ^ “ブルース・スプリングスティーン、日本で約20年ぶり洋楽1位&世界20カ国で1位の快挙”. Musicman-NET (2014年2月5日). 2014年2月5日閲覧。
- ^ “米サックス奏者C・クレモンズ死去、Eストリート・バンドで活躍”. ロイター (2011年6月20日). 2012年3月29日閲覧。
- ^ “Eストリート・バンドのサックスにクラレンス・クレモンズの甥っ子ジェイクが参加”. ro69.jp (2012年2月10日). 2012年3月29日閲覧。