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2016年10月17日 (月) 12:51時点における版
デヴィッド・ボウイ | |
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2002年 Heathen Tour シカゴ公演 | |
基本情報 | |
出生名 | デヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズ |
別名 |
ジギー・スターダスト シン・ホワイト・デューク |
生誕 | 1947年1月8日 |
出身地 | イングランド ロンドン ブリクストン |
死没 |
2016年1月10日(69歳没) アメリカ合衆国ニューヨーク マンハッタン |
ジャンル |
ロック ポップ アート・ロック グラムロック プログレッシブ・ロック エクスペリメンタル・ロック クラウト・ロック ポストパンク 電子音楽 アンビエント ブルー・アイド・ソウル インダストリアル テクノ ジャズ ファンク ディスコ フォーク |
職業 | シンガーソングライター、俳優、レコード・プロデューサー、アレンジャー、作曲家 |
担当楽器 |
ボーカル ギター ピアノ キーボード サックス シンセサイザー ドラムス パーカッション ハーモニカ メロトロン マンドリン チェンバレン[要曖昧さ回避] 琴 マリンバ カリンバ ヴァイオリン チェロ オルガン サンプリング ヴィブラフォーン スタイロフォン |
活動期間 | 1964年 - 2016年 |
レーベル |
フィリップス デッカ RCA EMI アリスタ コロムビア ライコディスク(RCA時代の旧盤の米国でのリイシュー関連) |
共同作業者 |
ミック・ロンソン ブライアン・イーノ イギー・ポップ他 |
公式サイト | DavidBowie.com |
デヴィッド・ボウイ(David Bowie [ˈdeɪvɪd ˈboʊ.i], 本名 David Robert Haywood Jones, 1947年1月8日 - 2016年1月10日[1])は、イギリスのマルチ・ミュージシャンであり、俳優としても長いキャリアを持つ。2000年、雑誌『NME』がミュージシャンを対象に行ったアンケートでは、「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」に選ばれた。
映画監督のダンカン・ジョーンズは息子。
略歴
出自から初ヒットまで
1947年1月8日、イギリスのロンドン南部ブリクストンにケント出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリーと、ヨークシャー出身で子供のためのチャリティー団体Barnardo'sで広報活動をしていたヘイウッド・ステントン・ジョーンズの間に生まれた。本名はデヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズ。一家は、ロンドン南部のブリクストンとストックウェルの境界に近い、40 Stansfield Roadに住んでいおり、ボウイは6歳になるまでストックウェルの幼児学校に通っていたが、1953年に一家はブロムリーの郊外に引っ越す。
子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、プラターズ、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しむ。[2][3]
ボウイは、異父兄であるテリー・バーンズの影響でモダンジャズに関心を持つようになり、特にチャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーンにあこがれるようになった。ボウイが14歳になった1961年、母親はプラスチック製のアルト・サックスを彼に贈り、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受けるようになる。[4]
1962年、ボウイは重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッドが左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になった。[5]結果として医師は、ボウイの視力が完全には回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、また常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認した。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、先天性の虹彩異色症によるものである。なお、この一件にも関わらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作した。[6]
1962年ボウイが15歳の時に、プラスチック製のアルト・サックスを卒業して、本物の楽器を扱うようになり、また、彼にとっての最初のバンド「Konrads」を結成した。このバンドではギターかベースを担当し、主な演奏場所は若者の集まりか、あるいは結婚式であった。バンドのメンバーは概ね4人から8人の間で、その中にはボウイとガールフレンドを取り合ったアンダーウッドも居た。[7]
1964年6月5日に「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ」名義で最初のシングル「リザ・ジェーン」を発表。しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ」「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード」などと名を変えたが、同じ歌手のデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから、1966年4月のシングル「Do Anything You Say」から使い始めた「デヴィッド・ボウイ」でやっと芸名が定着することになる。このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイナイフから取られた。[8]
1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画『イメージ』(1968年)への出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っている。
ボウイはロンドン・ダンスセンサーでのケンプのダンスクラスに習い、ケンプの下でコンメディア・デッラルテなどから学んだアバンギャルドとパントマイムによってドラマティックな表現を身につけ、そこから世界に対して見せつける自身のペルソナの制作に熱中した。
1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」をリリース。全英チャート5位、全米チャート15位まで上がり、人気ミュージシャンの仲間入りを果たした。
グラム・ロック時代
1970年、ミック・ロンソンをサウンド面での盟友に迎え『世界を売った男』をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が多分に含まれるようになり、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー』でその路線は更に深まり、サウンドにも哲学・美学の要素が浸透し、ボウイはカウンターカルチャーの旗手としての地位を確立することになった。
ミック・ロンソンが後に加入することになるグラムロックバンドのモット・ザ・フープルは1972年3月、解散危機に直面し、ボウイはモット・ザ・フープルに「すべての若き野郎ども」を提供、同バンドの楽曲として大ヒットした。
1972年6月、コンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組んだ。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していった。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン』は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を演じるボウイというよりは、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」そのもののアルバムになった。しかし、1973年7月3日のイギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を永遠に葬った。一連の「ジギー・スターダスト」としての活動で、ボウイはグラム・ロックの代表的ミュージシャンとしての地位を確立することになった。
「ジギー・スターダスト」を演じることをやめ、一息ついたボウイは、子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム『ピンナップス』を発表し、それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を解散させ、盟友のミック・ロンソンとも離れることになった。
アメリカ時代
1974年、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際にウィリアム・バロウズが一躍有名にした「カット・アップ」の手法を導入したコンセプト・アルバム『ダイアモンドの犬』を発表する。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに作られたアルバムだったが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、「『1984年』という言葉を大々的に使用してはならない、『1984年』の舞台化も許さない」という制約で縛られることになった。1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されたが、相次ぐ機材のトラブル、ボウイの体調不良などで、2ヶ月程度でツアーは中断することになった。その中断期間中にフィリー・ソウルに傾倒するようになり、6週間の中断を経て再開された北米ツアーは全く別のものになった。
1975年、カルロス・アロマーを盟友に迎え、『ヤング・アメリカンズ』を発表する。全米1位を獲得したジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」を含むこのアルバムは、フィリー・ソウルからさらに一歩踏み込み「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」というコンセプトで作られた。このアルバムの直後、初の主演映画『地球に落ちて来た男』がクランクインした。
1976年、自らの主演映画の内容に影響を受け、また長年の薬物使用/中毒で精神面での疲労が頂点に達していたボウイは、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされた。それは、前作と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向に変わり、コンセプト・アルバム『ステイション・トゥ・ステイション』として結実した。
ベルリン時代
ボウイは再び架空のキャラクター「シン・ホワイト・デューク」(痩せた青白き公爵)を名乗り、それを演じた。ドイツでのライブはナチズムを強く意識したステージ構成になった。インタビューではヒトラー擁護とも取られかねない際どい発言を行ない、ファンの前ではジークハイルをやったやらないなどの騒動が起き、メディアからは激しいバッシングを受け、「ジギー・スターダスト」以上の危険人物とみなされることになった。ツアーの終了後、薬物からの更生という目的も兼ねてベルリンに移住し、ひそやかに音楽作りを始めた。
1977年から1979年にかけてブライアン・イーノとのコラボレーションで制作されたアルバム『ロウ』、『英雄夢語り』、『ロジャー』は、のちに「ベルリン三部作」と呼ばれることになる。ロンドンパンク/ニューウェーブ全盛期の中で、あえてプロトパンク/オールド・ウェーブを前面に出した。
カルト・スターとの決別
1980年、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『スケアリー・モンスターズ』を発表した。初ヒット曲の「Space Oddity」の登場人物・トム少佐を再び登場させ、「Ashes to ashes」で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、ボウイはカルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別することになった。
一転して1980年代はナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したアルバム『レッツ・ダンス』はキャリア最大のメガヒットアルバムとなり、ファン層を広げた。1983年の『シリアス・ムーンライトツアー』では新しいファンをも取り込んでの大規模なワールドツアーを大成功させ、カルトヒーローからメジャーロックスターの座につくことになった。ただこのころから以前のようなカルトなアーティスティックな作風からポップロック路線へと作風が変化するが、迷走と模索の時期ともなった。この頃のボウイは俳優としても出演が多い。
ティン・マシーン時代
1989年、ボウイはゴージャスなサウンドとステージからイメージチェンジをはかり、シンプルなロックバンド「ティン・マシーン」を結成。スタジオ・アルバムを2枚、ライヴ・アルバムを1枚リリースする。その後、過去のベストヒットメドレー的なコンサートとしては最後と銘打って『サウンドアンドヴィジョン』ワールドツアーを行い、過去の総決算を果たそうとした。
ソロ活動再開
1991年に『ティン・マシーンII』を発表。この後、現在までティン・マシーンのアルバムはリリースされなく正式な解散発表はないものの、事実上の解散状態となる。
1993年にはモデルのイマン・アブドゥルマジドと再婚。そして、ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』を発表、『トゥナイト』以来9年ぶりに全英1位を獲得する。1995年には今度はブライアン・イーノと再び組んで『アウトサイド』をリリース。その後、1997年に『アースリング』、1999年には『アワーズ…』をリリースする。
メジャーなロックスターには珍しく、1990年代のボウイはコンスタントに新しい作品の発表とツアー活動を行い、時代の実験的なアプローチを導入し、復調の兆しをみせる。
病気療養と引退報道
2000年代に入っても創作意欲は衰えず、2002年に『ヒーザン』、2003年に『リアリティ』と立て続けにアルバムを発表し、大規模なワールドツアーを開始する。その中で8年ぶりの来日公演も果たした。しかし、このツアー中にハンブルクにて動脈瘤による前胸部の痛みを訴え緊急入院、残りの14公演を急遽中止した。
この一件以来、ボウイは創作活動には消極的となり、2004年の「ネヴァー・ゲット・オールド」(『リアリティ』からのシングル・カット)以降は2013年までリリースされていない。公の場に姿を現したのも、2006年にデヴィッド・ギルモアやアリシア・キーズのライブにゲスト出演した程度で、表立った活動はほとんど行われていない。
親交の深いブライアン・イーノは2010年初頭のインタビューで「ここ数年のボウイはすっかり創作活動への意欲を削がれてしまったようで、この調子だと新作は当分ないだろう」と語っている。
同年秋、妻のイマンのインタビューによると、近年のボウイは自宅でアート作品の制作や執筆に勤しんでおり、その生活に満足していると語っている。現在は自身が蒐集した100個以上のオブジェを撮影し、それに自身のテキストを添えた書籍『Bowie: Object』を執筆中とのことであるが、刊行期日などはまだ明らかにされていない。ボウイが第一線に復帰することについては「本人次第」としている。
2011年にはボウイの伝記を手掛けた作家、ポール・トリンカによると「よほど劇的な作品を届けることがない限り、もう一線には戻らないだろう」と、ボウイは実質的にほぼ引退したという見解を述べている。同年3月には、2001年にリリースを予定していたという幻のアルバム『Toy』がインターネット上に流出するという事件が起こった。
突然の音楽シーンへの復帰、そして死
2013年1月8日、ボウイの66歳となる誕生日に突如、新曲「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」と10年ぶりとなる新作『ザ・ネクスト・デイ』を3月に発売すると発表。先行シングルの「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」は全世界119か国のiTunes Storeにて一斉配信開始され、リリースから24時間で27か国のiTunesチャート1位になった[9]。
余談だが、ボウイ重病説を信じたエコー&ザ・バニーメンのフロントマン、イアン・マッカロクは、彼は亡くなるものだと思い込み、トリビュート・ソングを作っていたため、突然のカムバックに驚かされたらしい[10]。
2015年、自身が1976年に主演した映画『地球に落ちて来た男』が舞台化され、自身もプロデュースを担当することが発表される。舞台化作品のために、新曲の書きおろしと、過去の楽曲がアレンジされて提供される[11]。
2016年1月10日、18か月の闘病の末、肝癌により死去したことが公式Facebookにて公表された[12]。2日前の69歳の誕生日にアルバム『ブラックスター』をリリースしたばかりであった。その収録曲「Lazarus」は、自らの死期を悟っていたボウイがプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと共に、ファンへの最後のメッセージを盛り込んだ内容となっている[13][14]。アルバムは、自身初の全米チャート(Billboard 200)1位を獲得した[15]。
人物
音楽家としてのボウイ
大抵、名声を得たミュージシャンは、その時点までに確立した己のスタイルを貫こうとし、ファンもまたそれを望んでいるものだが、ボウイの場合はスタイルを変化させることによってファンを失う危険をものともせず、様々なジャンルにわたる大胆な音楽性の変化を繰り返し、それぞれのジャンルにおいてエポックメイキングな作品をリリースしている。そのためか、1970年代・1980年代以降のミュージック・シーンは、なにかしらボウイの音楽的影響を受けているミュージシャンも多い。ジャパンやデヴィッド・バーン、カルチャー・クラブ、ヴィサージ、スパンダー・バレエ、デュラン・デュラン、トレント・レズナー、ビリー・コーガンなど、多方面に亘る。
また、「メジャーなカルトヒーロー」と言われ、時代時代の音楽に対する明敏さを生かし、それまでとは打って変わった音楽性という実験を繰り返しながら、様々な意味での自己刷新を計ることが多いため、安定した商業面での成功をおさめるには不利といえるが、セールス的には成功している部類に入り、アーティステックな面と商業面をうまく両立させている、数少ないミュージシャンのうちの一人である。
1973年には初の日本公演を果たしている。ボウイは飛行機恐怖症であったことから、来日に際してはアメリカ合衆国から船で来日し、イギリスへの帰国の時も横浜港からナホトカ航路を経由してウラジオストクからシベリア鉄道に乗車したという逸話もある[16]。
2000年に大英帝国勲章コマンダーを、2003年には大英帝国騎士号をそれぞれ叙勲辞退している[16][17]が、1999年にフランス政府より授与された芸術文化勲章コマンドールは受章している[16]。
役者としてのボウイ
ボウイの初めてのメジャーな映画出演は『地球に落ちて来た男』であり、それは演劇『エレファント・マン』同様の賞賛をもたらした。この作品での演技が評価されて、第4回サターン賞の主演男優賞を受賞した。それ以前の映画出演としては、1969年の前衛映画にパントマイムとして出演している。以降の役者としての経歴は散発的なものであった。1983年には大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』に英軍将校ジャック・セリアズ役で出演した。また1984年には『眠れぬ夜のために』で殺し屋の端役を、マーティン・スコセッシ監督の『最後の誘惑』ではピラトを演じた。
『戦場のメリークリスマス』は一部の批評家に感銘を与えた。しかし次作のロック・ミュージカル『ビギナーズ』(1986年)は失望と非難の的となった。同年彼はジム・ヘンソン監督の『ラビリンス/魔王の迷宮』でゴブリンの王ジャレスを演じた。
彼はまた『ハンガー』でカトリーヌ・ドヌーヴ、スーザン・サランドンと共演し、『バスキア』ではアンディ・ウォーホル役を演じた。『ツイン・ピークス-ローラ・パーマー最期の7日間』ではミステリアスなFBI捜査官フィリップ・ジェフリーズ役で出演した。
ボウイは2002年の「100人の偉大な英国人」の中にデビッド・ベッカム、ウィンストン・チャーチル、ジョン・レノンといった人物と並んで選出された。
親日家
デヴィッド・ボウイが大の日本好きであったことはよく知られており[18][19]、彼のステージパフォーマンスには日本文化の要素がいくつも取り入れられていた[18][20]。このことを示す事例は、異星人という設定の「ジギー・スターダスト」や「ジェローム・ニュートン」のコスチュームなど、枚挙にいとまがない[20]。ボウイは特に、歌舞伎の様式美や女形という要素に大きな影響を受けた[18][20]。五代坂東玉三郎に女形の化粧のやり方を教わることすらしたが、女形の化粧をそのまま真似することはせず、むしろ女形に両性具有的魅力を見出し、ステージへの応用ができるかを模索した[18]。また、服飾史研究者 Helene Thian によると、ボウイは歌舞伎の「早替わり」の要素をステージパフォーマンスに取り入れた最初の欧米人であるという[18]。ボウイは「スペース・サムライ」と名付けた日本の袴にインスパイアされた衣装や、着物にインスパイアされた衣装を好んで羽織り、曲の合間などに早替わりするパフォーマンスで観客を魅了した[18]。
ボウイが日本文化に興味を持ち始めたのはロンドンで、1960年代に舞踊家リンゼイ・ケンプのダンス・スクールに通っていた時であった[20]。衣笠貞之助の無声映画に影響を受けたことを自認するケンプは、生徒のボウイに武満徹を聴かせ、共に日本の伝統芸能、能や歌舞伎を研究した[20]。1967年にはチベット仏教の僧侶になろうと本気で考えていたボウイであったが、ケンプのレッスンをきっかけとして、黙想に生きる僧侶とは正反対の、ロックスターという派手やかな歌舞音曲の世界へと、人生の進路が決まった[20]。ボウイが北米市場で成功しようともがいていた1970年代に大きな助けとなったのが服飾デザイナー、山本寛斎との出会いであった[18][20]。山本は1973年のジギーや1976年のアラジン・セインの衣装をデザインした[20]。
今日では、ボウイのような立場は、異文化から要素をただ盗んできただけと糾弾されがちであるが、前述の服飾史研究者 Thian によると、日本からボウイに対してこのような苦情が申し立てられることは、まずないという[18]。彼女によるとその理由は、ボウイは自身の創造性を、東西文明を融合させ戦後世界を癒すために捧げたが、これはボウイの日本への敬意の表れであり、日本人も彼の敬意を愛しているからだ、という[18]。
1980年頃京都市東山区に住んでいて、商店街に写真が残っている。
栄典および受賞等
フランス
1999年 フランス芸術文化勲章コマンドール[21][22]
米国
献名
- Devid Bowie Spider(Heteropoda davidbowie):アシダカグモ科のクモの一種。キャメロンハイランドからマレー半島、タイ、シンガポールに生息する。2008年にドイツの生物学者ペーター・イェーガーが発見。種小名のdavidbowieはデヴィッド・ボウイの『The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders From Mars』にちなんで献名された[24][25]。
音楽作品
※詳細な作品に関しては、デヴィッド・ボウイの作品を参照のこと。
スタジオアルバム
- デヴィッド・ボウイ David Bowie (1967年)
- スペイス・オディティ Space Oddity (1969年)
- 世界を売った男 The Man Who Sold The World (1971年)
- ハンキー・ドリー Hunky Dory (1971年)
- ジギー・スターダスト The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars (1972年)
- アラジン・セイン Aladdin Sane (1973年)
- ピンナップス Pin Ups (1973年)
- ダイアモンドの犬 Diamond Dogs (1974年)
- ヤング・アメリカン Young Americans (1975年)
- ステイション・トゥ・ステイション Station to Station (1976年)
- ロウ Low (1977年)
- 英雄夢語り "Heroes" (1977年)
- ロジャー Lodger (1979年)
- スケアリー・モンスターズ Scary Monsters (1980年)
- レッツ・ダンス Let's Dance (1983年)
- トゥナイト Tonight (1984年)
- ネヴァー・レット・ミー・ダウン Never Let Me Down (1987年)
- ティン・マシーン tin machine (1989年) ※
- ティン・マシーンII tin machine II (1991年) ※
- ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ Black Tie White Noise (1993年)
- 郊外のブッダ The Buddha Of Suburbia (1993年)
- アウトサイド 1.Outside (1995年)
- アースリング Earthling (1997年)
- アワーズ… 'hours...' (1999年)
- ヒーザン heathen (2002年)
- リアリティ Reality (2003年)
- ザ・ネクスト・デイ The Next Day (2013年)
- ブラックスター Blackstar (2016年)
ライヴアルバム
- デヴィッド・ボウイ・ライヴ David Live (1974年)
- ステージ Stage (1978年)
- ジギー・スターダスト・ザ・モーション・ピクチャー ZIGGY STARDUST THE MOTION PICTURES (1983年)
- ティン・マシーン・ライヴ Oy Vey, Baby Tin Machine Live Oy Vey, Baby (1992年)※
- デヴィッド・ボウイ・ライヴ 1972 Santa Monica '72 (1994年)
サウンドトラック
- クリスチーネF Christiane F. (1981年)
- バール David Bowie In Bertolt Brecht's Baal (1982年)
- キャット・ピープル Cat People (1982年)
- ビギナーズ Absolute Beginners (1986年)
- ラビリンス 魔王の迷宮 Labyrinth (1986年)
コンピレーション
- Bowie Rare (1983年)
- 愛は火曜日まで Love You Till Tuesday (1984年)
- Sound + Vision (1989年)
- チェンジスボウイ Changesbowie (1990年)
- Early On(1964-1966) (1991年)
- ザ・シングルス・コレクション The Singles Collection (1993年)
- The Singles 1969 To 1993 Featuring His Greatest Hits (1993年)
- レアレストワンボウイ Rarestonebowie (1995年)
- BBC SESSIONS 1969-1972 (1996年)
- デラム・アンソロジー 1966-68 The Deram Anthology 1966-1968 (1997年)
- ザ・ベスト・オブ・デヴィッド・ボウイ The Best Of David Bowie 1969-1974 (1997年)
- LIVEANDWELL.COM (2000年)*インターネット上のファンクラブ“Bowienet”の有料会員に送られた2枚組CD
- デヴィッド・ボウイ BBCセッションズ Bowie At The Beeb The Best Of The BBC Radio Sessions 68-72 (2000年)
- オール・セインツ~インストュルメンタルズ 1977-1999 All Saints: Collected Instrumentals 1977-1999 (2001年)
- デヴィッド・ボウイ・ベスト Best Of Bowie (2002年)
- Sound + Vision Boxset (2003年)
- Club Bowie Rare And Unreleased 12" Mixes (2003年)
- Best Of Bowie Limited-Edition (2003年)
- ナッシング・ハズ・チェンジド〜オールタイム・グレイテスト・ヒッツ Nothing Has Changed (2014年)
※はティン・マシーンの活動時にリリースしたもの
楽曲提供
- オール・ザ・ヤング・デューズ(すべての若き野郎ども) - モット・ザ・フープル (1972年)
アルバム・プロデュース
出演
映画
公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1966 | イメージ The Image |
少年 | サイレント映画・20分の短編映画 |
1968 | The Virgin Soldiers | 戦士 | |
1973 | Ziggy Stardust and the Spiders from Mars | 本人 | ドキュメンタリー作品 |
1976 | 地球に落ちて来た男 The Man Who Fell to Earth |
トーマス・ジェローム・ニュートン | 2015年に舞台化[11] |
1978 | ジャスト・ア・ジゴロ Just a Gigolo |
ポール | |
1981 | クリスチーネ・F Christiane F. |
本人 | カメオ出演 |
1983 | ハンガー The Hunger |
ジョン | |
戦場のメリークリスマス Merry Christmas, Mr. Lawrence |
ジャック・セリアズ英軍少佐 | ||
チーチ&チョン イエローパイレーツ Yellowbeard |
カメオ出演 | ||
スノーマン The Snowman |
アニメ(声の出演:ナレーター) | ||
1985 | ブレックファスト・クラブ Breakfast Club |
ボウイの曲の歌詞が引用された | |
眠れぬ夜のために Into the Night |
コリン・モリス | ||
1986 | ビギナーズ Absolute Beginners |
ヴェンディス・パートナーズ | |
ラビリンス/魔王の迷宮 Labyrinth |
魔王ジャレス | ||
1988 | 最後の誘惑 The Last Temptation of Christ | ピラト総督 | |
イマジン〜ジョン・レノン Imagine: John Lennon |
本人 | ||
1991 | ニューヨーク恋泥棒 The Linguini Incident |
モンティ | |
1992 | ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間(劇場版) Twin Peaks: Fire Walk with Me |
フィリップ・ジェフリーズ | |
1996 | バスキア Basquiat |
アンディ・ウォーホル | |
1998 | エヴリバディ・ラブズ・サンシャイン Everybody Loves Sunshine |
バーニー | |
Il Mio West | ジャック | イタリア映画・西部劇 | |
1999 | 天使といた夏 Mr. Rices Secret |
ウィリアム・ライス | |
ボーイズ・ドント・クライ Boys don't cry |
|||
2000 | ズーランダー Zoolander |
本人 | カメオ出演 |
2003 | ノミ・ソング The Nomi Song |
本人 | クレジットなし |
2006 | プレステージ The Prestige |
ニコラ・テスラ | |
アーサーとミニモイの不思議な国 Arthur et les Minimoys |
魔王マルタザール | アニメ(声の出演) | |
スコット・ウォーカー 30世紀の男 Scott Walker 30 Century Man |
本人 | 兼製作総指揮 | |
2007 | スポンジ・ボブ SpongeBob SquarePants |
L.R.H | アニメ(声の出演) |
2008 | ライフ・ドア 黄昏のウォール街 August |
オーグルビー | |
2009 | Bandslam | 本人 | カメオ出演 |
テレビドラマ
公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1968 | The Pistol Shot | 英BBC放映のドラマ | |
1970 | The Looking Glass Murders | スコットランドのTVドラマ | |
1982 | Baal | バール | 英BBC放映のドラマ |
1993 | Full Stretch | 本人 | イギリスのTVドラマ |
1999 | ザ・ハンガー プレミアム The Hunger Premium |
英Syfy放映のホラー エピソード22 | |
2006 | エキストラ:スターに近づけ! Extras |
ゲスト出演 | 英BBC放映のコメディ 第2シーズン・エピソード2 |
舞台
公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1980 | The Elephant Man | ジョン | NYのブロードウェイ |
1997 | Pierrot in Turquoise |
日本のテレビ番組
- 1983年10月の来日公演時に、テレビ朝日の60分の『戦メリ』ボウイ特番『独占!!デヴィッド・ボウイ』に、 大島渚、ビートたけし、YMOの3人、と共に出演した。司会は、山本コウタローとジュディ・オングが務めた。
- 1992年1月29日から2月17日までの3週間、ティン・マシーンで来日公演を行った際、テレビ東京の『タモリの音楽は世界だ』、日本テレビの『鶴ちゃんのプッツン5』に出演し、両番組内ともに、口パクで「Baby Universal」を披露した。
CM
- 宝酒造、焼酎「純」(1980年、日本、楽曲「クリスタル・ジャパン」使用、本人も出演)
- MTV、"I want my MTV"・キャンペーン(1983-1985年、アメリカ、楽曲「モダン・ラヴ」使用、本人も出演)
- ノエビア化粧品(1984年、日本、楽曲「ウィズアウト・ユー」、「ブルー・ジーン」使用)
- ペプシ(1987年、アメリカ、楽曲「モダン・ラヴ」使用、ティナ・ターナーと共演)
- NTTドコモ(1997-1999年、日本、楽曲「レディ・スターダスト」使用)
- ヴィッテル(2003年、フランス、楽曲「ネヴァー・ゲット・オールド」使用、本人も出演)
- 本田技研工業、ステップワゴン・スパーダ(2004年、日本、楽曲「レッツ・ダンス」使用)
- 三洋電機、eneloop(2005年、日本、楽曲「チェンジズ」使用)
- ルイ・ヴィトン(2013年、フランス、楽曲「アイド・ラザー・ビー・ハイ」使用、本人も出演)
日本公演
- 1973年
- 1978年 Low And Heroes Tour
- 1983年 Serious Moonlight Tour
- 1990年 Sound + Vision Tour
- 5月15・16日:東京ドーム
- 1992年 Tin Machine It's My Life Tour
- 1996年 The Outside Tour
- 2004年 A Reality Tour
脚注
- ^ “David Bowie - January 10 2016 - David Bowie died peacefully today...”. David Bowie Official (2016年1月10日). 2016年1月11日閲覧。
- ^ Buckley (2000): p. 21.
- ^ Sandford (1997): pp. 19–20
- ^ Sandford (1997): p. 25
- ^ Evans, Mike (2006). Rock 'n' Roll's Strangest Moments: Extraordinary Tales from Over Fifty Years. Anova Books. p. 57. ISBN 978-1-86105-923-9.
- ^ Buckley (2005): p.19
- ^ Sandford (1997): p. 28
- ^ David Buckley (2000) (英語). Strange Fascination: David Bowie: The Definitive Story. London: Virgin. p. 33. ISBN 075350457X
- ^ それにしてもデヴィッド・ボウイの最新ビジュアル・コンセプトがぐもも&続報あれこれ - ro69.jp 「宮嵜広司の「明るい洋楽」・2013年1月9日閲覧。
- ^ エコー&ザ・バニーメンのイアン、デヴィッド・ボウイ重病説を信じトリビュート・ソングを作っていた、BARKS 「BARKSニュース」・2013年4月17日閲覧。
- ^ a b “デビッド・ボウイ、「地球に落ちてきた男」をオフブロードウェイで舞台化”. 映画.com (2015年4月11日). 2015年4月13日閲覧。
- ^ デヴィッド・ボウイが死去 - amass
- ^ http://www.dailymail.co.uk/news/article-3393599/Look-m-heaven-David-Bowie-s-haunting-lyrics-song-Lazarus-appear-farewell-thoughts-man-knew-dying.html
- ^ https://www.youtube.com/watch?v=y-JqH1M4Ya8
- ^ デヴィッド・ボウイ、全米初のNo.1獲得 - BARKS
- ^ a b c 飛行機嫌いだったデビッド・ボウイさん 初来日公演は船で日本入り スポーツニッポン 2015年1月12日閲覧
- ^ Thompson, Jody (8 January 2007). “Sixty things about David Bowie”. (No. 35): BBC News 4 July 2010閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Tessa Wong (2016年1月12日). “David Bowie's love affair with Japanese style”. 2016年1月14日閲覧。
- ^ “日経新聞コラム春秋 2016/1/13付”. 日本経済新聞社 (2016年1月13日). 2016年1月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Helene M. Thian (2013年6月11日). “For David Bowie, Japanese style was more than just fashion”. 2016年1月14日閲覧。
- ^ “Encyclopedia>Ordre des Arts et des Lettres”. SiteMaster.com. 5 April 2010閲覧。
- ^ PAYTRESS, MARK (1 April 2003). BOWIE STYLE. TOKYO FM Publishing
- ^ “Honorary Degree Recipients”. Berklee College of Music. 5 April 2010閲覧。
- ^ “David Bowie spider videos, photos and facts - Heteropoda davidbowie”. w:ARKive. 11 January 2016閲覧。
- ^ 」と命名された『クモ』に賛否両論!
参考資料
- 『デヴィッド・ボウイ詩集 - スピード・オヴ・ライフ』(シンコーミュージック、2002年)
- 『BOWIE STYLE』(TOKYO FM 出版、2003年)
- 『アーカイヴ・シリーズ No.12 デヴィッド・ボウイ』(シンコーミュージック、2004年)
- 『デヴィッド・ボウイ・ファイル』(シンコーミュージック、2006年)
- 『全曲解説シリーズ デヴィッド・ボウイ』(シンコーミュージック、2006年)
関連項目
- リック・ウェイクマン - 「ジギー・スターダスト」、「ハンキー・ドリー」に参加。後にイエスに加入。
- ミック・ロンソン - 「ジギー・スターダスト」時代の右腕。
- マーク・ボラン(T・レックス) - グラム・ロックの二大巨頭。
- ミック・ロック - グラム期の写真を多数撮影。
- ジョン・レノン - 「Fame」で共演。
- ミック・ジャガー - 長年の友人、チャリティ・シングル「Dancing In The Street」で共演。
- トニー・ヴィスコンティ - グラム、ベルリン三部作時代&近年のプロデューサー。
- モット・ザ・フープル - 「すべての若き野郎ども」提供。
- ナイル・ロジャース - 『レッツ・ダンス』『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』のプロデューサー。
- ボウイ債
- シド・バレット(ピンク・フロイド)- 憧れの存在、ボウイは彼のファンを公言。
- デヴィッド・ギルモア(ピンク・フロイド) - 盟友。上記シド・バレットの追悼シングル「アーノルド・レーン」で共演。
- ルー・リード - 盟友。ボウイとミック・ロンソンがプロデュースした『トランスフォーマー』を発表 (1972年)。2013年10月27日のリード死去に際して「彼は師だった(He was a master.)」と弔辞を述べた[1]。
- フレディ・マーキュリー-クイーンのヴォーカルで盟友。ボウイがRCAを辞めた後、80年代にEMIと契約したが、それはフレディの進言によるものだった。そのフレディが死去した際、彼の追悼コンサートにボウイも駆けつけた。
- イギー・ポップ - プロデュース、盟友、『ロウ』『トゥナイト』参加。
- ブライアン・イーノ - ベルリン三部作に参加、後年『アウトサイド』をプロデュース。
- ロバート・フリップ(キング・クリムゾン) -『ヒーローズ』『スケアリー・モンスターズ』参加。
- エイドリアン・ブリュー(キング・クリムゾン) -「ロウ&ヒーローズ」ツアー、『ロジャー』参加。
- クイーン -「アンダー・プレッシャー Under Pressure」共作し、後年は1992年に行われたフレディ・マーキュリー追悼コンサートにも出演。またドラムのロジャー・テイラーは、尊敬するミュージシャンの一人にボウイの名を挙げている。
- クラウス・ノミ - 一時期ボウイのバックダンサーを務めていた。
- フィリップ・グラス - Heroesの弦楽アルバムを制作。
- ナイン・インチ・ネイルズ - トレント・レズナーが大ファン。「アイム・アフレイド・オブ・アメリカンズ」に参加(アースリング収録)。
- リーブス・ガブレルス - 1990年代のボウイの右腕。
- リンゼイ・ケンプ - 売れない時代に彼の劇団に入りパントマイムを習っていた。
- モービー - ニューヨークの自宅の隣人で家族ぐるみの付き合い。
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- デヴィッド・ボウイ - allcinema
- デヴィッド・ボウイ - KINENOTE
- David Bowie - IMDb
- David Bowie - Discogs
- David Bowie (davidbowie) - Facebook
- David Bowie - Myspace