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2016年6月13日 (月) 21:53時点における版
- ジョージア
(グルジア) - საქართველო(サカルトヴェロ)
-
(国旗) (国章) - 国の標語:ძალა ერთობაშია
(グルジア語: 団結は力なり) - 国歌:自由
-
公用語 グルジア語(カルトリ語) 首都 トビリシ 最大の都市 トビリシ 通貨 ラリ(GEL) 時間帯 UTC+4 (DST:なし) ISO 3166-1 GE / GEO ccTLD .ge 国際電話番号 995 - アブハジアと南オセチアを抜いた人口(2012年)は4,054,382人、面積57,200km²、人口密度70人/km²となる。
グルジア(ロシア語: Грузия, Gruziya)は、南コーカサスに位置する共和制国家である。公用語のグルジア語(カルトリ語)による国名はサカルトヴェロ(グルジア語: საქართველო, Sakartvelo)。日本国政府は2015年4月22日からジョージア(英語: Georgia)へ呼称を変更している(詳細は後述)[2]。首都はトビリシ。
- 本項では1991年のジョージア独立宣言以前の歴史については「グルジア」、1991年の独立宣言以降は「ジョージア」と表記する。また、言語の名称としては「グルジア語」、民族名は「グルジア人」をそれぞれ使用する。
アジアに含められることが多いが東ヨーロッパに含められることもある。ソビエト連邦の構成国であったが1991年に独立した。1991年12月から1993年12月までのジョージア内戦の結果、南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ジョージア政府は両地域の主権を認めていないが、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。
コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。
ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (CIS) を脱退した。
国名
旧ソ連からの独立直前であった1990年から1995年までは「グルジア共和国」(英語: Republic of Georgia)を正式な国名としていた。1995年に対外的な呼称から「共和国」を外し、英語名はジョージア ( Georgia [ˈdʒɔrdʒə] ジョージャ)、日本語ではグルジアと(稀にグルジヤとも)表記されていた。
グルジア語(カルトリ語)では、 საქართველო [sakʰartʰvɛlɔ] サカルトヴェロ (ラテン文字転写:Sakartvelo )という。サカルトヴェロとは「カルトリ人の国」という意味で、この「カルトリ (Kartli) 」とはグルジア最古の文学作品『聖シュシャニクの殉教』(5世紀)にもみられるグルジア中心地域の古くからの名称である[3][4]。
日本語名は1950年代初頭まで主に「ジョルジア」と呼ばれていたが[5][6]、1956年の日ソ共同宣言に前後してロシア語名( Грузия [ˈɡruzʲɪjə] グルージヤ)に基づく「グルジア」と呼ばれるようになった。これは英語名のGeorgiaと同じく、中世にペルシャ語で使われていた「グルジュ・グルジャーン」という呼称がアラビア語などを経由して十字軍時代にヨーロッパに紹介されたのが由来とされる[4]。スラヴ語圏でも13世紀ごろからこのグルジュに由来する呼称が見られるようになり、その後、キリスト教国であるグルジアの守護聖人・聖ゲオルギオスの名に結びつけられていった[4]。
なおグルジアを意味する英語やフランス語のGéorgieなどは、グルジアのほかにアメリカ合衆国(米国)のジョージア州と綴り字および発音も同一である。首都のトビリシは、米国・ジョージア州の州都であるアトランタと1987年に姉妹都市関係を締結している[7]。
2009年3月、グルジア政府は、日本語における同国の国名表記をロシア語表記から英語表記に基づく「ジョージア」への変更(2008年のグルジア紛争による反露感情の高まりが背景にあると報道されている[8][9])を要請した[注釈 1][10][11]。2014年10月24日に、安倍晋三総理大臣は、マルグヴェラシヴィリ大統領との共同記者会見の場において、日本政府としてこの要請に応じることを表明[12]。これに伴い在外公館名称を変更するための法改正案[13]が翌2015年の通常国会に提出され、衆参両院の全会一致で可決[14][15]・成立し、4月22日に官報で改正法が公布[16]・施行され、同日外務省ホームページに改名の告知がされた[2]。
漢字表記には、具琉耳(「グルジア」に由来)と喬治亜(「ジョージア」に由来)がある。
各国での呼称
国連加盟国のうち約170国[要検証 ]がラテン語で「聖ゲオルギオスの国」を意味する"Georgia"(ゲオルギア)が由来の表記を使用している。現在もロシア語由来の「グルジア」等を使用しているのは中華人民共和国(簡体字表記「格鲁吉亚」)のほか、旧ソ連・東欧諸国、ベトナムなど20国前後にとどまっていた[要検証 ][8][17][18]。中国語圏でも、中華民国では英語の「ジョージア」を音訳した「喬治亞」が使われている。
朝鮮語の場合、韓国では2010年以降「그루지야」(グルジア)から「조지아」(ジョージア)へと表記が変更されたが、旧東側諸国である北朝鮮では現在でも「그루지야」(グルジア)と表記されている。
ロシアの他に国境を接するトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンの3国からはそれぞれ「ギュルジスタン」(トルコ語: Gürcistan [gyɾdʒistan])、「ヴラスタン」(アルメニア語: Վրաստան [vrɑstɑn])、「ギュルジュスタン」(アゼルバイジャン語: Gürcüstan [gyrdʒystɑn])と呼ばれる。アラビア語では「ジュールジヤー」جورجيا、ペルシア語では「グルジスターン」گرجستانである。また、領土内における事実上の独立国であるアブハジアと南オセチアからも「サカルトヴェロ」「グルジア」「ジョージア」のいずれとも異なる名称(アブハズ語: Қырҭтәыла、オセット語: Гуырдзыстон)で呼ばれている。その他に、国土の北西部で話されるメグレル語では「サコルトゥオ」(საქორთუო, Sakortuo)、南西部で話されるラズ語では「オコルトゥエ」(ოქორთუე, Okortue)などと呼ばれる。
また、とりわけ反露感情が強いバルト三国やポーランドでは呼称は「グルジア」(エストニア語: Gruusia)、(リトアニア語: Gruzija)、(ラトビア語: Gruzija)、(ポーランド語: Gruzja)となっており、英語名の「ジョージア」は採用されていない。
エスペラントでは、現地のカルトリ語での呼称を基に「カルトヴェリーオ」(Kartvelio)または「カルトヴェルーヨ」(Kartvelujo)とされている。
歴史
古代
グルジアの歴史は古く、ホモ・ゲオルギクスの化石が発掘されたことからユーラシアの人類拡散に役割を担った地であると言われている。グルジアワインは世界最古のぶどうワインとされる。
紀元前6世紀にはオリエントを統一したアケメネス朝ペルシアの一部となった。ローマ時代以前は、主に西グルジアにある古代コルキス王国が栄えていた。紀元前1世紀にローマの支配に入ると、東グルジアにカフカスのイベリア王国、古代カルトリ王国が勃興し始め、グルジアは、西グルジアと東グルジアに分けられるようになり、グルジア史の主役をイベリア王国がしばらく務めることになる。イベリアでは4世紀にミリアン王がキリスト教を公式宗教に定めた。
中世
6世紀頃に、この頃ラジカ王国として知られていた古代コルキス王国(この間ずっとEgrisi王国が正式名)は東ローマ治下に、イベリア王国はペルシャ支配下となり、東西で対立関係になる 。
627年から629年にかけてサーサーン朝・イベリア王国連合軍と西突厥・東ローマ帝国・古代コルキス王国連合軍との間でトビリシ包囲戦が行われた。
ムスリムの征服によってトビリシ首長国(736年-1080年)が誕生した。グルジア全域はアラブ支配下(853年-1120年)に入る。ラジカ王国は、9世紀にアブハズ人を主体としてアブハジア王国(780年-1008年)として独立した。813年にイベリア王国も、アショト・バグラトゥニによってアラブより解放されタオ・クラルジェティ(813年-1008年)として独立した。
グルジア正教会は8世紀に自治教会の資格を獲得し、1057年のアンティオキア地方教会会議で確認された[19]。
1071年、マラズギルトの戦い。1072年から1080年にかけてセルジューク朝に攻められた。このとき、東隣のカヘティにも勢力が及び、Aghsartan Iがセルジューク朝に降伏し、属国となった。
1089年頃、アブハジア王国、タオ・クラルジェティ、en:Principate of Iberia、セルジューク朝アルメニアが統一されグルジア王国(978年-1466年)となる。とくに初期のグルジア王国は、グルジア正教会によって支えられた。「サカルトヴェロ」(グルジア語で「グルジア(ジョージア)」を指す自称)とは、「典礼をおこなう地域」という意味である[19]。グルジア正教はグルジアと東ヨーロッパの諸地域とを結ぶ政治的な紐帯となった[19]。グルジア王国はその後東ローマ帝国の属国となり、その強い文化的影響を受けた。10世紀から13世紀にかけてグルジアの王室は、同じ東方正教会に属する東ローマ(ビザンチン)、ルーシ(ロシア)、アラニアの王侯貴族と姻戚関係を築いた[19][注釈 2]。
12世紀から13世紀にかけてタマル女王のもとセルジューク勢力を駆逐しザカフカス全域に膨張、最大領域となった。モンゴル帝国、ティムール朝、黒羊朝の支配を経る。1259年、イメレティ王国(1260年-1810年)が誕生した。
近世
1466年にグルジア王国が滅亡し、無政府状態となった。1465年、カヘティ王国(1465年-1762年)が誕生。1484年、カルトリ王国(1484年-1762年)が誕生した。1540年から1553年にかけて、サファヴィー朝のタフマースブ1世が侵攻、占領され、サファヴィー朝の支配を経る。1578年、オスマン帝国の支配 (en:Eyalet of Childir) を経る。1762年、カルトリ王国とカヘティ王国が統一されカルトリ・カヘティ王国(1762年–1798年)となった。露土戦争(1768年-1774年)ではカルトリ・カヘティ王国とイメレティ王国がロシア帝国側で参戦した。
ロシア帝国時代
1783年のギオルギエフスク条約が締結され、グルジア東部はロシア帝国の保護領となった。1795年、ガージャール朝のアーガー・モハンマド・シャーがトビリシに侵攻して町を焼き払った (en:Persian Expedition of 1796)。Erekle IIの死後、グルジアで内戦が起こり、ロシアの調停が求められた。1801年1月8日、パーヴェル1世が保護領カルトリ・カヘティのロシアへの併合に調印し、9月12日にアレクサンドル1世が実施した。併合後も王族、貴族はロシア帝国の貴族として遇された。 1825年のデカブリストの乱や、1830年の11月蜂起に影響を受け、1832年12月10日にグルジアの貴族がロシア高官の粛正を謀ったが、発覚して失敗に終わった。1841年、en:1841 rebellion in Guria。
コーカサス戦争ではトビリシを拠点に、ロシア帝国が北カフカスを攻略した。
ロシア帝国からの独立とソ連への加盟、ソ連時代
ロシア革命後の1918年5月26日にグルジア民主共和国はロシアからの独立を宣言するが、1921年に赤軍のグルジア侵攻によって首都を制圧され崩壊した。1922年、グルジア問題では、フィリップ・マハラゼとブドゥ・ムディヴァニらグルジアの穏健派共産主義政権が失脚し、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の構成国となり、ソビエト連邦に加盟した。1936年には直接のソ連邦構成共和国(グルジア・ソビエト社会主義共和国)に昇格した。冷戦下に耐えられるソ連を目指すため、民族問題が取り上げられることはなかった。またヨシフ・スターリンの故郷という側面もあり、かつては共産党員の割合が最も高かった。
ソ連崩壊後
1989年、東西冷戦が終結しソ連のペレストロイカ路線が行き詰まりを見せると、ソ連地上軍が反ソ運動を弾圧したトビリシ事件を大きな転機として、ソ連後期からは抑えられていた民族的な問題が表面化した。1990年11月、グルジア・ソビエト社会主義共和国はグルジア共和国に改名され、1991年4月9日に独立宣言を行い、5月にはズヴィアド・ガムサフルディアが大統領に選出された。これは同年末のソ連邦の解体により実効性を持つに至った。独立後も多くの閣僚はソ連旧共産党員であったことや強権的な統治が行われたために、政局不安は改善されず治安も悪化し内戦状態に至った。アブハジア(アブハジア紛争、アブハジア戦争)や南オセチア(南オセチア紛争 (2008年))やアジャリア自治共和国 (en:2004 Adjara crisis) では分離独立運動が起き、事実上、独立した状態となっている。
シェワルナゼ政権
ガムサフルディアは1992年1月にクーデターにより追放され、1992年から2003年まで、エドゥアルド・シェワルナゼが最高権力者であった。1992年7月31日に国連に加盟した。
バラ革命
2003年11月2日の議会選挙の開票には出口調査などによって不正の疑惑が指摘され、アメリカが非難を表明していたが、11月22日になって、選挙に基く新しい議会が召集された。これに対し、反対派の議員はボイコットした。議会前には25000人の反対派市民が集結していたが、開会の辞を読み上げられる最中、これらの市民は議場に乱入した。シェワルナゼ大統領は議会から逃亡し、11月23日には大統領を辞任した。代って、野党「ブルジャナゼ・民主主義者」の党首であるニノ・ブルジャナゼが暫定大統領に就任した。ブルジャナゼ暫定大統領は、従来の閣僚(ナルチェマシュヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシュヴィリ財務相、メナガリシュヴィリ外相など)を一掃した。
サアカシュヴィリ政権
旧野党勢力は、2004年1月4日に行われた大統領選挙では、野党国民運動のミヘイル・サアカシュヴィリ党首を統一候補として擁立した。しかし、労働党のナテラシュヴィリ党首が議会選挙のやり直しに反対し、伝統主義者連盟が離脱を表明するなどの動きもあった。ロシアを後盾にアジャリア自治共和国を事実上中央政府から独立して支配してきたアスラン・アバシゼ最高会議議長が非常事態宣言を発令し、暫定政権に反対するなどの動きを見せた。結局、大統領選挙の結果はサアカシュヴィリの圧勝に終わった。これに反対する野党勢力も一転して選挙結果を受容れ、アバシゼ議長は反対し続けたが、5月には最終的にロシアへ亡命し一連の混乱も収拾した。
3月28日に議会再選挙が行われた。結果は、国民運動が得票率75%で大多数の議席を獲得し最大与党に躍進した。一方、その他に議席獲得に必要な7%の得票率を超えられたのは新右派と産業党が連合して結成された右派野党だけであった。今回の選挙は独立後のグルジアで最も自由な選挙のうちの1つだったと考えられる。
2007年11月に与党サアカシュヴィリ政権に対する野党デモの鎮圧を期にグルジア全土で非常事態宣言が発令されるなど政情不安は続き、これに対するサアカシュヴィリ政権の強硬政策はグルジアにおける民主主義の後退を位置付けるものとなった。
ロシア-グルジア戦争
2008年8月、南オセチア州を巡りグルジアとロシアの間において紛争が勃発。
この紛争によってサアカシュヴィリの権力は強まると思われたが、逆に多くの戦死者を出して批判され後に紛争を「グルジアから仕掛けた」と発言するに及び、彼の求心力は弱まっている。
2009年4月9日、首都トビリシで、サアカシュヴィリ大統領に辞任を要求して、大規模な反政府集会が議会前広場で主要野党(民主運動・統一グルジアなど)によって開かれた。その集会には、6万人に上る市民が集結した。要求の背景は、大統領の権力集中への批判とロシアとの軍事衝突を回避できなかった責任の追及などがあげられている。なお、グルジアが求めていた北大西洋条約機構 (NATO) 加盟は現在棚上げされている。
2009年5月5日に軍部によるクーデター未遂事件が発生し、グルジア軍の高級将校ら数人が拘束された。グルジアはクーデター勢力がロシアの支援を受けていたと非難している。
サアカシュヴィリ政権の終焉
2012年10月の選挙の結果、ロシアとの関係改善を目指す野党連合「グルジアの夢–民主主義グルジア」が勝利し、同連合代表で実業家のビジナ・イヴァニシヴィリが首相に指名された。そして、2013年10月27日に行われた大統領選挙で、「グルジアの夢」が推薦したギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補が圧勝し、サアカシュヴィリ大統領の後継者のダビット・バクラゼ候補は惨敗した[20]。
これにより、強固な反露・親欧米政策を推し進めてきたサアカシュヴィリ体制は終焉を迎えたが、現在でもEU加盟を目指す方向性は変わっていない。
地理
地理概況・地勢
東経40~47度、北緯41~44度に位置するグルジアは、コーカサス山脈を中心に国土の大部分が山岳地帯である。最高峰はシュハラ山(標高5201m)。200km離れたカズベギ山(標高5074m)が第2の高山で、唯一の火山である。この間に2,100もの氷河がある。コーカサス山脈に沿ってロシア連邦と723kmの国境を接し、クラスノダル地方、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国、北オセチア共和国、イングーシ共和国、チェチェン共和国などロシアの民族共和国と接する。そのためグルジアは古くから紛争の影響を受けやすく、アブハジア自治共和国、南オセチア自治州、パンキシ渓谷など中央政府の支配権の及ばない地域がある(下表参照)。特にチェチェン共和国と接するパンキシ渓谷は、チェチェン人ゲリラの巣窟となり中央政府の統治が行き届かない時期も存在した[21]。
グルジアは中部のリヒ山脈によって東西に分けられ、東部は歴史的にイベリアと呼ばれた一方、西部はコルキスと呼ばれていた。また山脈は、北部地域のスヴァネティを分けている。またこれらの山脈を源としてリオニ川やクラ川(ムトゥクヴァリ)などの主要な河川がある。クラ川の源流域やチョロフ川の流れる一帯が歴史的な西南グルジア(メスヘティ)であり、統一王朝発祥の地として知られる。クラ河岸に古都ムツヘタ、現首都トビリシなど、東グルジアの諸都市が発展した。
アブハジアにあるボロニア洞窟は世界で最も深く、深度2140メートルに達する。
気候
山岳地帯が多いため、国土面積の割りに気候は多様である。標高5000mを超えるカフカス山脈がロシアからの寒気団を遮断する役割を担っているため、国土の大半は比較的温暖で、ケッペンの気候区分の温暖湿潤気候に属する(かつてのソ連邦構成国の中では唯一、柑橘類を収穫出来た)。黒海沿岸部は最も温暖で、その気候を生かしたグルジアワインの生産地として有名である。山岳地帯は多雨地帯で、降水量は4000mm以上、冬場の積雪は2mに達する。首都トビリシなどが位置する東部はより大陸性気候に近くなり、年間降水量は400–1,600 mm程度と、西部に比べると比較的乾燥していて、冬の寒さはより厳しくなる。
各州・各共和国の概況
アブハジアと南オセチアについては、内戦の結果、事実上ジョージアより独立しており、2015年10月現在、4か国(ロシア連邦、ベネズエラ、ニカラグア、ナウル)によってそれぞれ、主権国家「アブハジア共和国」「南オセチア共和国」として承認されている[22]。
政府名 | 首都 | 面積 | 人口 | 民族 | 宗教 | 2016年現況 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ジョージア |
トビリシ | 7.0万km2 | 430.5万人 | グルジア人83.8%、アゼルバイジャン人6.5%、アルメニア人5.7%、ロシア人1.5%、オセット人、クルド人 | キリスト教(グルジア正教83.9%、アルメニア正教3.9%、カトリック教会0.8%)、イスラーム9.9% | - | |||
アジャリア自治共和国 |
バトゥーミ | 2,900km2 | 39.3万人 | グルジア人93.4%(大部分がイスラームを信仰するアジャール人)、ロシア人2.4%、アルメニア人2.3% | イスラーム | ジョージアの直轄統治 | |||
アブハジア自治共和国 |
スフミ | 8,665km2 | 24.0万人 | アブハズ人50.7%、アルメニア人19.2%、グルジア人17.4%、ロシア人9.1% | キリスト教、スンナ派イスラーム | 事実上ジョージアより独立(4カ国が国家承認) | |||
南オセチア自治州 |
ツヒンヴァリ | 3,900km2 | 5.1万人 | オセット人64.3%、グルジア人25.0%、ロシア人2.8%、アルメニア人1.2% | オセット人はキリスト教(正教)主体 | 事実上ジョージアより独立(4カ国が国家承認) |
政治
グルジアは共和制で、国家元首は大統領である。1995年12月8日から2004年2月17日までの間、首相の規定は無く大統領が政府を組織していた。ただし、首相に相当するものとして国務大臣が設置されていた。大統領は首相その他の大臣の任命・指名に関して議会の同意を得る必要がある。2010年に憲法改正が行われ、2013年10月より大統領ではなく首相が権限を握る議院内閣制に移行した。
議会は一院制で、任期4年(定数235名)。その内、150議席が比例代表制で、85議席が小選挙区制である。なお、議会は行政官庁が集中する首都トビリシではなく、西部の古都クタイシに置かれている。
州知事と大都市の市長は、大統領による任命制である。
国際関係
サアカシビリ体制では強硬的な反露、親米、親イスラエル路線を一貫してとり続けてきた。
ロシアとの対立
ソ連崩壊以降、グルジアは一貫して隣国ロシアと距離を置き、欧米との関係強化を打ち出してきた。この路線は2004年に成立したサアカシュヴィリ政権下で一層に高まり、軍事的には2008年のNATOとEUへの加盟推進、ロシア語からグルジア語への移行推進と英語教育の義務化、ソ連時代のみならずロシア帝国時代にまで遡っての「抗露運動の歴史」を教える記念館の建設、同じ路線をとるウクライナ、ポーランド、バルト三国との連携など、露骨な反露路線・民族主義路線を歩んで来ている。また対露強硬派で知られるアメリカのネオコンとの協力も深めているとされる。実際、ネオコンに近いとされるアメリカ人ランディ・シェーネマン (Randy Scheunemann) がサアカシュヴィリの外交顧問を務めている。またサアカシュヴィリ政権は、ロシア軍に対抗するべくロシア製兵器から、グルジア軍のNATO側兵器による近代化やアメリカ軍やイスラエル国防軍などとの共同軍事訓練を行うなど大幅な軍拡を進めていたが、軍事評論家の江畑謙介は予算に無理のある計画だと評している[23]。
一方、ロシアにとってグルジアはカスピ海産原油パイプラインの存在等、中央アジアの原油を確保する上で密接な関わりがあり、南の玄関口である黒海へ連なる要衝に位置する重要な国家と位置づけている。またチェチェンとの対立を抱えるロシアにとって、チェチェンの周辺国の一角を成すグルジアと手を結ぶことは、ロシア南部における安全保障の観点からも非常に有効と見ている。しかしグルジアの反ロシア路線は当然ながら両国間の緊張関係を生むことになり、両国関係は急速に悪化している。ソ連時代以降、ロシアとグルジアは密接な関係にあり、多くのグルジア国民もロシアに在住しているが、両国の関係が悪化したため、ロシアから強制退去になったり、親族間で引き裂かれるなど様々な問題が起きている[要出典]。
民族問題
こうした流れに加えて、グルジア国内の民族問題も両国の対立に拍車を掛けている。コーカサス地方は古くから無数の民族が入り乱れる不安定な地域であり、近代に成立したに過ぎないグルジア人という民族意識は未だ不安定で、グルジア国民の間でも地方対立が絶えない状況下にある。現時点でアブハズ人(アブハジア)、オセット人(南オセチア)、イスラム教徒のグルジア人(アジャリア)、アルメニア人(ジャワヘティア)、ミングレリア人(ミングレリア)、アゼルバイジャン人、チェチェン人など多数の非グルジア民族を国内に抱えている[24]。グルジア政府の反露政策はグルジア民族主義と密接に結びついており[25]、これらの地方民族への弾圧が強まっている[26]。これらの国の中には言語の保護など多民族共生の向きが強いロシアの庇護を受ける事で自民族の文化を守ろうとする動きがあり、ロシアもグルジアへの牽制から積極的に支援する立場にある。とりわけ南オセチアでは、北オセチアを統治するロシアへの併合を求める運動が活発化している(ただしロシア政府は南オセチアの併合は望まないとしている)。対するグルジアは自民族中心主義(エスノセントリズム)・反ロシア路線の双方から一連の動きに激しく反発している。
2006年9月27日・28日には、グルジア国内に駐在していたロシア軍将校6名をグルジア軍がスパイ容疑で拘束する事態が発生、ロシア政府が抗議としてグルジアに対するビザ発給停止や国境線の封鎖等の報復を取る事態が発生している。更に2008年にはグルジア軍が南オセチアに展開するロシア軍主体の停戦監視部隊に攻撃を仕掛け、兵器を強奪する行為を起こした。グルジア政府は「ロシア軍の停戦部隊は独立派を支援しており公平ではなく、EU部隊との交代を行うべき」と発言しているが、ロシア軍駐留に関しては当のEU側も賛同する意向を示している。
2008年の南オセチア紛争(ロシア-グルジア戦争)
2008年8月7日、グルジア政府は南オセチア自治政府に対して自治権を剥奪すると共に軍部隊を侵攻させた。しかし南オセチア側に立って参戦したロシア軍の前に、軍拡を進めていたグルジア軍は一方的な敗北を喫して敗退し、8月15日に停戦が決定した。ロシア政府は戦いに従軍した兵士の内、5名に英雄勲章を授与した。
停戦後、ロシアはグルジア国内に駐屯しつつ、議会でアブハジアと南オセチアの独立を承認する決議案を採択、メドベージェフ大統領がこれを正式に了承した。グルジア側はこれに抗議する形で2008年8月28日、議会にてロシアとの外交関係を断絶するよう求める決議を全会一致で採択した。8月29日、バシャゼ外務次官はロシアのアブハジア自治共和国と南オセチア自治州の独立承認に対しロシアとの外交関係を断絶すると発表した。
日本との関係
軍事
地方行政区分と主要都市
行政区画は、2つの自治共和国(アブハジア、アチャラ)を含む11の地方(レギオニ)からなり、さらに66の地域(ライオニ)に分かれる[27]。国内には、北西部にアブハジア(首都:スフミ)、南西部にアジャリア(首都:バトゥミ)の2つの自治共和国があるが、アブハジアはグルジア政府の統制は及んでおらず、事実上、独立した状態となっている。また、シダカルトリ地区とその周辺は歴史的に南オセチアといわれるオセット人多住地域で、ソビエト連邦に属したグルジア・ソビエト社会主義共和国時代にはシダカルトリ地区北半とその周辺を領域とする「南オセチア自治州」が置かれていたがソ連邦解体による独立後は消滅。1992年のオセチア紛争以降、オセット人が自治権を要求して中央政府非公認で再び「南オセチア自治州」を樹立した。同自治州が独立の意向を明確にした後は「南オセチア共和国」(首都:ツヒンヴァリ)と名乗っており、アブハジアと同様に一部の地域を除いてグルジア政府の統制は及んでいない。
経済
IMFの統計によると、2013年のグルジアのGDPは161億ドルである。一人当たりのGDPは3,597ドルで、世界平均の約40%未満の水準にある[1]。
グルジア経済は伝統的に、黒海観光、柑橘類、茶やブドウの生産を中心としてきた。ソビエト連邦時代には黒海沿岸は有数の保養地になり、観光業が盛んだった。また、ブドウなどを利用してワインやコニャック製造などの食品加工業。マンガンや銅の採鉱と、これに付随して金属、機械類、化学薬品や織物を生産する工業部門も発達していた。
独立前後からの内戦などの混乱により経済は壊滅的な打撃を受け、国内総生産 (GDP) は1994年には1991年の34.9%にまで低下したが、IMFと世界銀行の支援の元で市場経済の導入が進められ、1995年以来GDPは増加に転じ、一方でインフレを抑制し本質的な経済収益を得た。しかしグルジア経済は、徴税の失敗により大幅な財政赤字を経験し続けた。さらにエネルギー不足に苦しんだため、1998年に配電事業を民営化し、これによりエネルギー事情は確実な改善が見られた。政府は長期的な経済回復に対する望みを、ポチとバトゥミなどの重要な港湾を通る国際的な輸送回廊の開発にかけている。膨らむ貿易赤字、腐敗の問題や不安定な政治状況は、経済情勢を短期的に不透明にさせている。しかしながら、復活した投資は、2000年に、経済成長に恐らく6%以内の拍車をかけたと思われる。サーカシビリ政権誕生後は、新自由主義政策を政策の柱に掲げる。2008年以降のロシアとの軍事衝突以降、ロシアという巨大な市場を失った影響で経済的には停滞したままである[要出典]。
自国内で供給できるエネルギーは殆どが水力発電のみで、天然ガスや石油を含むエネルギーの大部分はアゼルバイジャンから輸入する。
グルジアはアゼルバイジャンにとって原油と天然ガスの重要な輸出ルートである。バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)および並走する南コーカサスパイプラインを通って大量の原油がトルコ地中海沿岸に達し欧州へ輸出される。また、グルジアへの原油供給パイプラインには他にバクー・スプサ パイプラインがあり、スプサにはアゼルバイジャンが黒海から輸出する基地がある。
国民・言語
住民の多くはカルトヴェリ人(グルジア人、正教徒)(83.8%) である。その他アルメニア人、ロシア人、アゼルバイジャン人、オセチア人、アブハジア人、ギリシャ人、ユダヤ人などがいる多民族国家である。ギリシャ人には、元々アナトリアの黒海沿岸地域に居住し、20世紀初頭のトルコ革命に伴う混乱時に隣国グルジアへ避難してきたポントス人などが含まれる。また、アジャリア自治共和国のアジャール人など、イスラムを信仰しているグルジア人も存在する。グルジームと言われる世界最古のユダヤ人は1970年代には10万人を数えたが、大半がイスラエルに移住し、現在では1~2万人程度まで減少している。
言語は公用語はカルトヴェリ語族のグルジア語 (71%) で、次いでロシア語 (9%)、アルメニア語 (7%)、アゼルバイジャン語 (6%) となっている。その他、アブハズ語、オセット語、グルジン語なども使われている。また、統計上では同じカルトヴェリ語族としてグルジア語話者に含まれることも多いスヴァン語、メグレル語、ラズ語も使われているなど、多言語国家となっている。
反露感情が強い国民とされるが、実際にはソ連時代に普及したロシア語は広範囲に使われており、独立以降のグルジア語統制への反発等から一部地域では異民族間の共通語として機能している。
宗教は、グルジア正教会に所属する正教徒が75%、イスラム教徒が11%。
文化
メディア
テレビ、雑誌、新聞は全て国営と広告・講読料収入などの収入によって成り立つ私営企業の両方によって展開されている。サカルトヴェロ憲法は言論の自由を保障している。グルジアのメディアは市場経済国への移行に伴う変化が進行している。
長期にわたる政治問題と対立があるにも関わらず、グルジアのメディアには自由が残されており、南コーカサスの中で最も多様性がある[28]。国営放送への支配からの自由を求める闘争が継続的に行われている[29]。
グルジアの世帯の大部分はテレビを所有しており、多くは最低一つはラジオを持っている。多くのグルジアのメディア企業は首都トビリシに本社を置いている。
ワイン
葡萄の産地で、ワイン発祥の地である[30]。セミスイートの赤ワイン、フヴァンチカラ (Khvanchkara) は「甘口ワインの真珠」として著名なワインで、楊貴妃やクレオパトラといった古代文明の王族、歴代ロシア皇帝や、ソビエト連邦共産党の幹部たちが愛飲していた。スパークリングワインは、ツクリアラ (Cqriala) と呼ばれる。フヴァンチカラ(セミスイート赤ワイン)のツクリアラ(スパークリングワイン)もあり、希少性が高い。キャビアと合わせることで知られるフランスのシャンパーニュのなかでも著名な、ルイ・ロデレール社のクリスタルは、ロシア皇帝アレクサンドル2世のために造られたが、ボトルの形状がよく似たゴールデンというツクリアラ(スパークリングワイン)がグルジアに存在する。グルジアワインはクレオパトラやチャーチル首相にも愛された。2006年以来、ロシア連邦はグルジアとモルドバへの経済制裁の一環としてグルジアワインを輸入を禁止していた(en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines)が、2013年にイヴァニシヴィリ政権の成立に伴い解除された。
世界遺産
グルジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月7日 | クリスマス | グルジア正教会(正教会)のクリスマス、ユリウス暦の12月25日。 | |
3月3日 | 母性の日 | ||
3月8日 | 国際女性デー | ||
4月9日 | 国民団結の日 | 1989年トビリシで反ソ暴動が発生した日 | |
5月9日 | 戦勝記念日 | ||
5月12日 | 聖アンドレイの日 | 伝承によれば使徒聖アンデレがキリスト教を最初にグルジアに伝えたとされる。 | |
5月26日 | 独立記念日 | 1918年に独立宣言をした日 | |
8月28日 | 生神女就寝祭 | ユリウス暦8月15日 | |
10月14日 | スヴェティツホヴェリ教会の日 | ||
11月23日 | 聖ゲオルギオスの日 | 「啓蒙者」ゲオルギオスはグルジアの守護聖人。 |
著名な出身者
脚注
注釈
- ^ 日本政府には「日本における各国公館の名称変更はクーデターなどによる国名変更時など特別な場合以外認められない」という原則があり、過去にローマ法王庁が「教皇庁」への表記変更を申請するも認められなかった。教皇#日本語および各国語での呼称 を参照
- ^ 聖ゲオルギオスの竜退治伝説の成立も、11世紀から12世紀にかけてのグルジア王国時代のことと考えられている。
出典
- ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年11月6日閲覧。
- ^ a b 日本国外務省 「国名呼称の変更(グルジア)」
- ^ 前田弘毅 (2014年10月23日). “グルジアを英語読みのジョージアにする不可思議 ロシア語由来でもなく、脱ロシアは理由にならない”. JBPress. p. 1. 2014年11月7日閲覧。
- ^ a b c 前田弘毅 (2014年10月23日). “グルジアを英語読みのジョージアにする不可思議 ロシア語由来でもなく、脱ロシアは理由にならない”. JBPress. p. 2. 2014年11月7日閲覧。
- ^ 「百万弗を支出してジョルジアの油田復活に腐心する労農政府」(大阪毎日新聞、1922年6月22日付)
- ^ 外務省条約局『条約彙纂』第1巻(1925年) NDLJP:1340700 "「ジヨルジア」國"。
- ^ 駐日グルジア大使館「グルジア5都市による姉妹都市提携の希望」(外務省)
- ^ a b 「グルジア」改め「ジョージア」 政府、表記変更へ 朝日新聞 2014年10月24日
- ^ “嫌露のグルジア 「ジョージア」と呼んで”. MSN産経ニュース. (2013年12月12日) 2013年12月12日閲覧。
- ^ “「国名変えてください」グルジア要請に政府苦慮”. 47NEWS. 共同通信. (2009年3月21日) 2009年3月21日閲覧。
- ^ グルジア、国名を英語読み「ジョージア」と呼ぶよう世界に要請 ロシアの声 2014年10月8日
- ^ “「グルジアからジョージアへの国名表記変更を検討」 首相がグルジア大統領との会談で明言”. 産経ニュース (産経新聞). (2014年10月24日) 2014-10-30閲覧。
- ^ “グルジア「ジョージア」に政府、変更へ…首脳会談で要望”. 毎日新聞. (2014年10月24日) 2014-10-30閲覧。
- ^ 閣法 第189回国会 11 在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の一部を改正する法律案 衆議院
- ^ 在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の一部を改正する法律案 参議院
- ^ 平成27年4月22日付(官報号外 第92号)
- ^ 「グルジア」→「ジョージア」に 国名呼称変更の法案成立産経新聞
- ^ グルジア:ジョージアに変更 日本も法施行「露離れ支援」毎日新聞
- ^ a b c d 北川(2006)p.22
- ^ グルジア大統領にロシア融和派 現内閣の副首相 朝日新聞 2013年10月28日
- ^ 北川誠一「グルジア・パンキスィ渓谷問題の種族・信仰的背景」(PDF)『国際政治』第138号、日本国際政治学会、2004年9月、146頁、ISSN 04542215、NAID 40006605547。
- ^ 「ジョージア」『データブック2016』(2016)pp.194-195
- ^ 軍事研究 2008年12月
- ^ 南コーカサス地方への政治経済的影響に関する一考察
- ^ 佐藤優 (2008年8月13日). “グルジア問題の背景(上)”. フジサンケイビジネスアイ. 2011年4月8日閲覧。
- ^ 『世界飛び地領土研究会』グルジア民族主義の台頭に、「南北統一」を訴えて独立
- ^ 前田弘毅「ユーラシア最古の人類の里」/ 北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之編著『コーカサスを知るための60章』明石書店 2006年 36-37ページ
- ^ Georgia-tops-list,-Ukraine-improves-position
- ^ フリーダム・ハウス, Georgia 2015 Press Freedom report
- ^ 大木俊治 「『百万本のバラ』の故郷へ」 『毎日新聞』 2009年11月24日、13版、10面。
参考文献
- 北川誠一 著「グルジア正教会」、山内昌之・木村俊一・杉山正明監修 編『週刊朝日百科21 カフカス(グルジア、アルメニア)』朝日新聞社、2006年3月。
- 二宮書店編集部 編「ジョージア」『データブック・オブ・ザ・ワールド2016年版』二宮書店、2016年1月。ISBN 978-4-8176-0399-9。
関連項目
- 国際連合グルジア監視団
- ジョージ・ソロス(バラ革命)
- ダヴィッド・バグラチオン・ムフラニ(グルジア王室当主)
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- “ジョージア”. 外務省. 20160512閲覧。
- 観光