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カルトリ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カルトリ王国
ქართლის სამეფო (ジョージア語)
グルジア王国 1466年 - 1762年 カルトリ・カヘティ王国
グルジアの国旗 グルジアの国章
国旗国章
グルジアの位置
1490年のグルジアの地図
公用語 グルジア語
宗教 グルジア正教会
首都 トビリシ
国王
1466年 - 1478年 バグラト6世英語版
1578年 - 1599年シモン1世
1716年 - 1724年ヴァフタング6世
1724年 - 1727年イェッセ
1744年 - 1762年テイムラズ2世英語版
変遷
建国 1462年
サファヴィー朝の封土1555年-1578年、1612年-1723年、1736年-1747年
オスマン帝国の封土1578年-1612年、1723年-1736年
カヘティ王国英語版と統一1762年
現在ジョージア (国)の旗 ジョージア
アルメニアの旗 アルメニア
ロシアの旗 ロシア

カルトリ王国グルジア語: ქართლის სამეფოカルトリス・サメポ )は、1466年から1762年までグルジア中部に存在したトビリシを首都とする王国である。存在した期間の大半はサファヴィー朝封臣だったが、末期の1747年にその支配を脱した[1]

歴史

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テイムラズ2世英語版、1732年から1744年までカヘティ王、1744年から1762年までカルトリ王

長い経済的、政治的な衰退を経て、グルジア王国は15世紀には西に攻撃的な隣国オスマン帝国を抱え、さらに16世紀には東のサファヴィー朝が追加された。両国の影響で王国は存在した300年間、長年戦争状態にあるか、ペルシアに統治されている状態にある。

グルジアは社会の不安、封臣たちの分離主義、そして内戦に悩まされた。1463年、王族バグラト6世英語版イメルティ王英語版を称して反乱、チホリの戦い英語版で迎撃したグルジア王ギオルギ8世が大敗したことでグルジア王国は解体しはじめた。1465年、ギオルギ8世は捕らえられて廃位され、バグラト6世は権力の空白に乗じてカルトリ王を名乗り、1466年にカルトリを制圧した。バグラト6世の権力が大きすぎることを嫌った貴族たちはギオルギ8世を解放したが、彼は王位を取り戻せずカヘティ王英語版しか名乗れなかったことで王国の分裂はさらに進行した[1]

バグラト6世はそのままカルトリを統治したが、1478年に王族のコンスタンティネ2世に反乱をおこされ廃位された[2]:187, 215。コンスタンティネ2世も貴族反乱に悩まされ、1483年にアラデティの戦いで貴族に敗北したことでバグラト6世の子アレクサンドレ2世英語版イメルティ王英語版を名乗った。コンスタンティネ2世は1489年にイメレティ王国に侵攻しようとしたが失敗し、1490年にグルジア王国の分裂を追認せざるをえなかった。この時点でグルジアにはイメレティ王国英語版カヘティ王国英語版、カルトリ王国と3つの王国が並立した[2]:219

この3王国間の平和は長続きしなかった。カヘティ王ギオルギ2世英語版が1511年に即位するとすぐにカルトリに遠征した。彼はカルトリ王ダヴィド10世英語版を追放してカルトリを併合しようとしたが、ダヴィド10世の弟バグラト1世英語版に防がれ、逆に捕虜にされて獄死した。ダヴィド10世は機に乗じてカヘティ全土に侵攻、占領した[3][4]。カヘティ王国は1520年、ギオルギ2世の子レヴァン英語版(レヴァニ)を支持した貴族たちにより王に推されたことで復活した[5]。カルトリ王国の西もイメレティ王アレクサンドレ2世英語版の攻撃に悩まされたが、イメレティがオスマン帝国の略奪を受けたことで彼は引き返し、まもなく死去した。

16世紀中期から1747年まで、カルトリ王国はペルシア統治をうけ、毎年軍馬や酒などの貢物を献上した[6]。しかし、1747年にアフシャール朝ナーディル・シャーが暗殺されると、精力的な王エレクレ2世英語版がペルシア人を撃退し、父のカルトリ王テイムラズ2世死去後はその領域をも継承して、1762年、トビリシに都を置くカルトリ・カヘティ王国を建てた。その後、王国は1783年のギオルギエフスク条約英語版ロシア帝国保護国となったが、1795年にガージャール朝の創始者アーガー・モハンマド・シャーの侵攻を受けたときはロシアが条約を無視して援助せず、グルジアは敗北。ロシアはそのまま衰退したグルジアを1802年に併合し、1813年のゴレスターン条約でガージャール朝にも認めさせた[7]

脚注

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  1. ^ a b Khazanov, Anatoly M. (1996-01-01). Department of Anthropology, University of Michigan. ed. Post-Soviet Eurasia: Anthropological Perspectives on a World in Transition. ISBN 9781889480008. https://books.google.com/books?id=UCYYAQAAMAAJ 
  2. ^ a b Toumanoff, Cyril (1949–1951). “The fifteenth-century Bagratids and the institution of collegial sovereignty in Georgia”. Traditio 7: 169–221. JSTOR 27830207. 
  3. ^ Guchua, V.; Oniani, Sh. (1977). "ბაგრატ მუხრანბატონი" [Bagrat Mukhranbatoni]. ქართული საბჭოთა ენციკლოპედია Georgian Soviet Encyclopedia (Georgian). Vol. 2. Tbilisi. p. 132.
  4. ^ Rayfield, Donald (2012). Edge of Empires: A History of Georgia. London: Reaktion Books. p. 165. ISBN 1780230303 
  5. ^ Georgian Soviet Encyclopedia, Vol. 10, pg. 466–469, Tb., 1986
  6. ^ Berdzenishvili, ed., 1973, pp. 252–254
  7. ^ Timothy C. Dowling Russia at War: From the Mongol Conquest to Afghanistan, Chechnya, and Beyond p 728 ABC-CLIO, 2 dec. 2014 ISBN 1598849484

関連項目

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