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2016年6月8日 (水) 05:27時点における版
武者小路 実篤 (むしゃのこうじ さねあつ) | |
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ファイル:Saneatsu Mushanokoji 1 cropped.jpg 1956年 | |
誕生 |
1885年5月12日 日本 東京府東京市麹町区 (現・東京都千代田区) |
死没 |
1976年4月9日(90歳没) 日本 東京都調布市 |
職業 | 小説家・詩人・劇作家・画家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京帝国大学社会学中退 |
ジャンル | 小説・詩・戯曲 |
主題 | 理想主義 |
文学活動 | 白樺派 |
代表作 |
『お目出たき人』(1911年) 『幸福者』(1919年) 『友情』(1920年) 『愛と死』(1939年) 『真理先生』(1951年) |
主な受賞歴 | 文化勲章(1951年) |
ウィキポータル 文学 |
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、1885年(明治18年)5月12日 - 1976年(昭和51年)4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。
姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、のちに「むしゃこうじ」に読み方を変更した[1]。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。
仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。文化勲章受章。名誉都民。日本芸術院会員。贈従三位(没時叙位)。
来歴
東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家に武者小路実世子爵の第8子として生まれた。2歳の時に父が死去。子供時代は作文が苦手だった。
学習院初等科、同中等学科、同高等学科を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らと「十四日会」を組織する。同年、東大を中退。1908年(明治41年)、回覧雑誌『望野』を創刊。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれた。実篤はトルストイに傾倒したが、その彼はまた白樺派の思想的な支柱だった。1916年(大正5年)には、柳宗悦や志賀直哉が移り住んでいた現在の千葉県我孫子市に移住した。
理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設した。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。但し実篤は1924年(大正13年)に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。
この両村は今日でも現存する[2]。同村のウェブサイトでは、実篤が村外会員になって文筆活動に専念した事を好意的に受け止めている。実際に実篤が村民だったころの活動は離村後の彼の執筆に多大な影響を及ぼしたといわれており、また同村にとっても実篤が事実上その象徴的役割を果たしたことは否めず、両者は今日に至るまで言わば持ちつ持たれつの関係にあると見ることもできる。
1936年、ヨーロッパ旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく[3]。1941年の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、戦争協力を行った[4]。
1946年(昭和21年)には貴族院議員に勅選されるが、4ヶ月後には太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された。1948年(昭和23年)には主幹として『心』を創刊し死去する直前まで関った。1951年(昭和26年)には文化勲章を受章している。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」「君は君 我は我なり されど仲良き」などの文を添えた色紙を揮毫したことでも有名だった。
1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある慈恵医科大学付属病院で尿毒症により死去。満90歳だった。晩年の20年間居住した調布市の自宅敷地および建物が、没後に「実篤公園」「調布市武者小路実篤記念館」として公開されている[5]。
評価
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実篤は白樺派の思想代名詞的存在で、理想郷の建設に代表される理想主義的・空想社会主義的行動には現実離れしているという批判もつきまとった。また、気紛れで始めたことを簡単に投げ出すという無責任とも取れる言動を批判されることもあった。
ただしその作品は必ずしも彼の思想的背景に依るものではなく、それゆえ現代に至るまで広く一般に読まれている。これが一般には『友情』『愛と死』などの代表作を生んだ、近代日本を代表する作家の一人としての知名度の方が遥かに高い所以である。
親族
- 父・武者小路実世(1851-1887) - 武者小路家8代当主・実建(1810-1863)の子だが8代当主となった兄・公香(1828-1876)の養子となり9代当主となる。1871年に岩倉使節団の留学生とししてベルリンに7年間滞在し、1884年に子爵となるも37歳で肺病により没[6]。
- 母・勘解由小路秋子(1853-1928) - 勘解由小路資生の娘
- 孫娘・河村有紀子 - 歌舞伎役者四代目中村梅玉の妻。父は実篤の婿養子・穣、母は実篤の娘・辰子。
- 甥・武者小路公秀 - 国際政治学者。父は実篤の兄・武者小路家10代目当主公共、母は伊東義五郎の娘で公共の後妻・不二子。
- 従兄・甘露寺受長 - 元東宮侍従、侍従次長。
- その他の親族 - 下に掲載されている系図を参照。
毛利元徳 | 万子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路実光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路公共 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路公秀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
不二子 | 木村龍蔵 | 木村雅世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路実世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新子 | 錦子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秋子 | 武者小路侃三郎 | 武者小路篤信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路信和 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
烏丸光亨 | 武者小路実篤 | 妙子 | 小絵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路穣 | 武者小路知行 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
操子 | 四代目中村梅玉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
辰子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
甘露寺義長 | 甘露寺受長 | 績子 | 有紀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
勘解由小路資生 | 立子 | 甘露寺方房 | 近藤荒樹 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
近藤荒一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎久弥 | 澄子 | 伊久子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎彦弥太 | 直子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寧子 | 岩崎隆弥 | 池田行彦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎恒弥 | 池田勇人 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紀子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
満枝 | 石橋慶一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
勘解由小路資承 | 柳宗悦 | 柳宗玄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
康子 | 祥子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊子 | 万亀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
銀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志賀直吉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
副島種臣 | 志賀直哉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志賀直道 | 志賀直温 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志賀直三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
副島道正 | 順子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
作品
代表作
- 『荒野』 1908年
- 『お目出たき人』 1911年
- 『罪なき罪』 1912年
- 『わしも知らない』 1914年
- 『世間知らず』
- 『その妹』 1915年
- 『不幸な男』 1917年
- 『幸福者』 1919年
- 『友情』 1919–1920年
- 『人間万歳』 1922年
- 『或る男』 1921–1923年
- 『愛慾』 1926年
- 『母と子』 1927年
- 『棘まで美し』 1930年
- 『愛と死』 1939年
- 『大東亜戦争私観』 1942年
- 『真理先生』 1949–1951年
- 『馬鹿一』
著作集
- 武者小路実篤全集 全12巻、芸術社、1923–1928年
- 武者小路実篤著作集 全7巻、調和社、1950–1951年
- 武者小路実篤作品集 全6巻、創元社、1952年
- 武者小路実篤全集 全25巻、新潮社、1954–1957年
- 定本武者小路実篤選集 全12巻、日本書房、1961–1962年
- 武者小路実篤選集 全12巻、青銅社、1964–1965年
- 武者小路実篤作品集 全6巻、芳賀書店、1965–1966年
- 武者小路実篤選集 全8巻、筑摩書房、1967年
- 武者小路実篤全集 全18巻、小学館、1988–1991年
関連人物
博士論文書誌データベースより
- 1 寺澤浩樹 武者小路実篤の研究 : : 美と宗教の様式
- 2 楊[シュウ]媚 武者小路実篤研究 : その思想と作品の関連性を中心に
- 3 楊英華 武者小路実篤と魯迅の比較研究 : 文学姿勢とその人間像
- 4 王泰雄 武者小路実篤研究 : 実篤の初期文学と「新しき村」
- 5 董炳月 新しき村から「大東亜戦争」へ : 周作人と武者小路実篤との比較研究
注釈
- ^ 調布市武者小路実篤記念館 よくある質問とその答え
- ^ 村民になるには原則40歳以下の年齢制限がある。
- ^ 董炳月『新しき村から「大東亜戦争」へ −周作人と武者小路実篤との比較研究−』
- ^ 「太平洋戦争期においても、武者小路の天皇に対する愛と尊敬は一度も変わったことがなかった。戦争中、武者小路は転向し、戦争に賛成し、協力したのである。これは小さい時から彼の心に滲みこんだ愛国思想と強い国家意識にかかわる」(夏艷文『武者小路實篤自我思想的形成』)
- ^ 実篤公園 - 調布市ウェブサイト
- ^ 〈裸体をもつてほこる〉詩人 : 武者小路実篤こおける〈詩〉の成立亀井志乃、北海道教育大学 国語論集 11, 19-54, 2014-03
関連項目
外部リンク
- 武者小路実篤記念館
- 新しき村HP
- 武者小路実篤 とは - コトバンク
- 武者小路実篤の系族(下)大津山 国夫、語文論叢 17, 1989