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2016年6月7日 (火) 23:39時点における版
おいかわ みちこ 及川 道子 | |
---|---|
1933年頃 | |
生年月日 | 1911年10月20日 |
没年月日 | 1938年9月30日(26歳没) |
出生地 | 日本 東京府豊多摩郡渋谷町(現・東京都渋谷区) |
職業 | 女優 |
ジャンル | 演劇、劇映画(現代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1924年 - 1937年 |
著名な家族 | 及川鼎寿 (父) |
主な作品 | |
『青い鳥』 『三人姉妹』 『ハムレット』 『港の日本娘』 『真白き富士の根』 『家族会議』 |
及川 道子(おいかわ みちこ、1911年10月20日 - 1938年9月30日)は、日本の女優。
1920年代後半~1930年代前半の日本映画で、清楚で近代的なキャラクターを数多く演じ、「永遠の処女」と呼ばれた[1]。
来歴
1911年10月20日、 東京府豊多摩郡渋谷町(現・東京都渋谷区)に生まれる[1]。父・鼎寿は、社会主義運動家の経歴を持ち、後に出版社の春秋社に勤務した[1][2]。両親ともにクリスチャンであり、その影響で道子も敬虔なキリスト教信者となる[1][3]。1924年に小学校を卒業し、当時存在した東京音楽学校一橋分教場声楽科に入学[1]。同年秋、小山内薫の紹介で、築地小劇場に加わる[1]。
同年12月の第18回公演『そら豆の煮えるまで』で主役の少年に抜擢され初舞台[1]。以後、1925年の『青い鳥』ではチルチル、1926年の『三人姉妹』ではハープ弾きの少女、1927年の『埋もれた春』では主役のきみ子を演じるなど、舞台女優としてのキャリアを積み重ねていく[1]。特に『青い鳥』での演技は、劇評家にも高い評価を受けた[3]。この間、1927年に東京音楽学校を修了し、当時本郷にあった第一外国語学校英語専科・高等科で翌年まで学ぶ[1]。1928年10月の第79回公演『国姓爺合戦』では杉村春子・滝蓮子・細川ちか子とともに女官役を演じるが、翌1929年3月に劇団は分裂[1]。道子は脱退派の土方与志・丸山定夫・細川ちか子らが4月に結成した新築地劇団に参加するが、7月に退団する[1]。
2ヵ月後の1929年9月、映画評論家の内田岐三雄の紹介で、松竹蒲田撮影所に入社[1]。以後、映画女優としてのキャリアを歩むこととなる。同年10月に公開された清水宏監督の『不壊の白珠』で、主役の八雲恵美子の妹役としてデビュー[1]。以後も、いずれも清水監督の『恋愛第一課』(1929年)、『真実の愛』(1930年)、『抱擁(ラムブラス)』(1930年)に立て続けに出演し、特に『恋愛第一課』、『抱擁』では、従来の日本の映画女優には見られなかった、知的で洗練された魅力を示した[1]。この間、1930年1月には早くも準幹部となり、同年8月の五所平之助監督『女よ!君の名を汚す勿れ 』では、母親の不倫を知って自殺する娘を熱演し注目を集めた[1]。だがその矢先、胸の病に倒れ、1年近くの休業を余儀なくされる[1]。このため、出演が決まっていた清水監督の『有憂華』(1931年)では花岡菊子、島津保次郎監督の『生活線ABC』(同)では田中絹代といった同世代のライバルが代役をつとめることになった[1]。しかし、島津監督の『野に叫ぶもの』2部作(1931年)では、鈴木伝明の妹役を好演し、田中絹代や川崎弘子らと並ぶ人気を獲得する[1]。翌1932年の清水監督『愛の防風林』、同『白夜は明くる』などでも好演し、蒲田を代表する知性派スターの地位を確立した[1]。また、同年12月には、明治座の舞台『ハムレット』で水谷八重子らと共演[3][4]。八重子のハムレットに対し、道子はオフィーリアを演じ、好評を博す[4]。
1933年1月幹部に昇格し、清水監督のサウンド版『眠れ母の胸に』に主演[1]。同作品では歌手の小林千代子と共に同名の主題歌を独唱し、レコード吹き込みも行い声楽家としての実力も示した[1]。同じ清水監督の『港の日本娘』では江川宇礼雄、島津監督の『頬を寄すれば』では、岡譲二を相手役に主演[1]。続く五所監督の『愛撫(ラムール)』では岡田嘉子と共演し、ベテラン相手に一歩も引けをとらぬ演技を見せた[1]。1934年に入ると、清水監督のオールスター大作『東洋の母』で江川宇礼雄の妹役を演じ、続く野村浩将監督『夢見る頃』でも江川と兄妹役を演じた[1]。5月には、下加茂で時代劇『月形半平太』に出演し、主演の林長二郎の相手役をつとめた[1]。続く池田義信監督『はつ姿』の主演も決定したが、彼女の再度の発病で製作中止となる[1]。彼女はこの時も1年以上の療養を余儀なくされ、翌1935年の佐々木康監督『真白き富士の根』の女学校教師役で復帰した[1]。また同年8月、東京劇場で開かれた「新派精鋭男女優合同」に村田嘉久子・山田五十鈴・村田正雄らとともに出演[1]。だが健康状態は再び悪化し、翌1936年4月の島津保次郎監督『家族会議』では、病を押してヒロイン仁礼泰子を演じ切ったものの、結果的にこれが最後の出演作となってしまった[1]。翌1937年には大船撮影所(前年に蒲田から移転)を退社[1]。そして翌1938年9月30日、結核のため26歳の若さで世を去った[1][5]。
エピソード
- 雑誌『新青年』の編集者で、後に異色作家として知られるようになる渡辺温とは、少女時代から交流があった[6]。やがて2人は互いに結婚を望む間柄となるが、道子の病気のため周囲の反対にあい、実現せずに終わった[6]。1930年2月に渡辺は不慮の死を遂げたが、道子は後に自伝『いばらの道』(1935年)の中で、渡辺との思い出を回想している[7]。
- 自身の来歴や役柄のイメージもあり、主に知識階層から熱烈な支持を受けていた[1]。だが、実生活では病身に鞭打ち、家族を養う女性という一面も持っており、そのためか働く青年や少女のファンも少なくなかった[3]。本人も野田醤油(現キッコーマン)の女工の集まりなどによく顔を出していたという[3]。
出演
舞台
築地小劇場
- 『そら豆の煮えるまで』 : 第18回公演、1924年12月 - 少年
- 『虫の生活』 : 第26回公演、1925年 - 少女
- 『青い鳥』 : 第39回公演、1925年 - チルチル
- 『リリオム』 : 1925年 - ルイザ
- 『闇の力』 : 1926年
- 『息子』 : 1926年
- 『埋もれた春』 : 1927年 - きみ子
- 『ウィリアム・テル』 : 1927年 - イエンニ
- 『桜の園』 : 1927年
- 『空気饅頭』 : 1927年
- 『国姓爺合戦』 : 第79回公演、1928年 - 栴檀皇女の女官
その他
映画
松竹蒲田撮影所
- 『不壊の白珠』 : 監督清水宏、サイレント映画、1929年10月17日公開 - 水野玲子 ※現存(NFC所蔵[8])
- 『恋愛第一課』 : 監督清水宏、サイレント映画、1929年12月31日公開 - 道子
- 『真実の愛』 : 監督清水宏、サイレント映画、1930年4月18日公開 - お民
- 『抱擁(ラムブラス)』 : 監督清水宏、サイレント映画、1930年6月13日公開
- 『女よ!君の名を汚す勿れ』 : 監督五所平之助、サイレント映画、1930年8月15日公開
- 『野に叫ぶもの 青春篇』 : 監督島津保次郎、サイレント映画、1931年7月15日公開
- 『野に叫ぶもの 争闘篇』 : 監督島津保次郎、サイレント映画、1931年7月23日公開
- 『生活線ABC』 : 監督島津保次郎、サイレント映画、1931年10月16日公開 ※撮影中に病気のために降板
- 『愛の防風林』 : 監督清水宏、サイレント映画、1932年8月5日公開 - 美佐保
- 『白夜は明くる』 : 監督清水宏、サイレント映画、1932年9月9日公開 - 寺本益枝(芸者浜勇)
- 『女性の切札』 : 監督野村芳亭、サイレント映画、1932年11月3日公開
- 『眠れ母の胸に』 : 監督清水宏、サウンド版、1933年1月20日公開 - 羽山道子 ※独唱も担当
- 『港の日本娘』 : 監督清水宏、サイレント映画、1933年6月1日公開 - 黒川砂子 ※現存(NFC所蔵[9])
- 『頬を寄すれば』 : 監督島津保次郎、サイレント映画、1933年8月3日公開
- 『愛撫(ラムール)』 : 監督五所平之助、サイレント映画、1933年11月9日公開- 節子 ※現存(NFC所蔵 [10])
- 『東洋の母』 : 総監督監督清水宏、1934年2月1日公開 - 娘
- 『夢みる頃』 : 監督野村浩将、1934年3月21日公開
- 『真白き富士の根』 : 監督佐々木康、サウンド版、1935年8月29日公開
- 『永久の愛 前篇』 : 監督池田義信、サウンド版、1935年10月15日公開 - 本田よし子
- 『永久の愛 後篇』 : 監督池田義信、サウンド版、1935年10月15日公開 - 本田よし子
- 『家族会議』 : 監督島津保次郎、1936年4月3日公開 - 仁礼泰子 ※現存(NFC所蔵[11])
松竹下加茂撮影所
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 『日本映画人名事典・女優編・上巻』、304 - 306頁
- ^ 『荒畑寒村著作集 9 寒村自伝 上』、157頁
- ^ a b c d e 『人物 日本映画史』、380 - 382頁
- ^ a b 『女優一代』、110頁
- ^ 『キネマの美女 - 二十世紀ノスタルジア』、138頁
- ^ a b 『戦前戦後異端文学論』、58頁
- ^ 渡辺温、及川道子、そして『アンドロギュノスの裔』 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
- ^ 及川道子、東京国立近代美術館フィルムセンター
- ^ 及川道子、東京国立近代美術館フィルムセンター
- ^ 及川道子、東京国立近代美術館フィルムセンター
- ^ 及川道子、東京国立近代美術館フィルムセンター
参考文献
- 『日本映画人名事典・女優編・上巻』、キネマ旬報社、1995年8月
- 岸松雄『人物 日本映画史』、ダヴィッド社、1970年1月
- 『荒畑寒村著作集 9 寒村自伝 上』、平凡社、1977年1月
- 水谷八重子『女優一代』、日本図書センター、1997年2月
- 『キネマの美女 - 二十世紀ノスタルジア』、文藝春秋、1999年5月
- 谷口基『戦前戦後異端文学論: 奇想と反骨』、新典社、2009年5月