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「ラモン・リュイ」の版間の差分

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{{Infobox 哲学者
[[file:Ramon Llull.jpg|thumb|250px|ラモン・リュイ]]
|region=地中海世界
'''ラモン・リュイ'''({{lang-ca|Ramon Llull}}、{{lang-la|Raimundus Lullus}}、ラテン語名のライムンドゥス・ルルスでも知られる。[[1232年]] – [[1315年]][[6月29日]])は、[[マヨルカ]]人の著述家、[[哲学者]]。彼は最初の主要な[[カタルーニャ]]文学を書いた。先駆的な[[選挙論]]も後に発見された。[[数学]]では[[ゴットフリート・ライプニッツ]]に影響を与え、[[ローマ法]]の注解者としても知られる。
|era=13世紀
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'''ラモン・リュイ'''({{lang-ca|Ramon Llull}}; {{IPA-ca|rəˈmon ˈʎuʎ|lang}})または'''ライムンドゥス・ルルス'''({{lang-la|Raimundus Lullus}}、[[1232年]]頃<ref name=birthday>1998年に刊行された『ルートリッジ哲学百科辞典』はリュイを1232年生まれとしているが、少なくとも1955年までの版の『[[ブリタニカ百科事典]]』は1235年生まれとしている。今日の『ブリタニカ百科事典』は1232年または1233年生まれとしている。『後期スコラ学』は「1233年(1232年の説もある)マリョルカ島に生まれた」としている。</ref> – [[1315年]][[6月29日]]<ref name=deathday>1315年6月29日を死去日とするのが旧来の定説である。上智大学中世思想研究所(編)『後期スコラ学』(1998年)は「1315年(1316年説もある)帰郷後すぐにそれがもとで歿したと言われる」としている。上智大学中世思想研究所(編)『中世と近世のあいだ』(2007年)は没年について「1315年/1316年」としている。</ref>)は、[[マヨルカ王国]]・[[パルマ・デ・マヨルカ]]出身の[[哲学者]]・[[神学者]]・[[神秘家]]{{sfn|上智大学中世思想研究所|2007|p=25}}。[[フランシスコ会]]第三会(在俗会)会員。
1257年に結婚し、2人の子どもが与えられたが[[吟遊詩人]]のような生き方はかわらなかった。[[マヨルカ王国|マヨルカ王]][[ジャウメ2世 (マヨルカ王)|ジャウメ2世]]の執事となる。


初期の[[カタルーニャ語文学]]において主要な作品を制作しており<ref name=MORCA>{{cite book |title=Mallorca |last=Tisdall |first=Nigel |publisher=Thomas Cook Publisher |date=2003 |isbn=9781841573274 |page=40 |work=Local Heroes – Ramon Llull – reference to his life and work}}</ref>、「カタルーニャ語の父」(カタルーニャ文学の祖{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}})と呼ばれる。<!--先駆的な[[選挙論]]も後に発見された。-->リュイはまた[[計算理論]]の先駆者とされ、特に[[ゴットフリート・ライプニッツ]]に影響を与えている<ref name="Philosophy, Vol 1958">''The History of Philosophy, Vol. IV: Modern Philosophy: From Descartes to Leibniz'' by [[Frederick Copleston|Frederick C. Copleston]] (1958)</ref><ref name="artandlogic">{{Citation |url=https://books.google.com/books?id=tlH7yaAQHEoC&pg=PA290#v=onepage&q&f=false |author=Anthony Bonner |title=The art and logic of Ramon Llull |page=290 |isbn=978-90-04-16325-6 |publisher=Brill Academic Pub |year=2007}}</ref><ref name="knuth">{{citation |title=The Art of Computer Programming: Generating all trees |author=Donald Knuth |authorlink=Donald Knuth |page=56 |publisher=Addison-Wesley Professional |volume=4-4 |year=2006 |isbn=978-0-321-33570-8}}</ref>。
30代前半の時に幻を見て新しく生まれる経験をした<ref name="World Mission" />。彼の人生の鍵となる出来事は[[回心]]である。Vita coaetaneaにこの説明がある。王の執事を務め、空しい歌と詩を書き、不道徳にふけっていた。そして、愚かな愛を与えた女に歌を書こうとしたとき、十字架にかけられたイエス・キリストの幻を見たという。<ref>Bonner, "Historical Background and Life" (an annotated Vita coaetanea) at 10-11, in Bonner (ed.), Doctor Illuminatus (1985).</ref> そして、修道院に入った<ref name="World Mission">[[中村敏]]著 『世界宣教の歴史』いのちのことば社</ref>。そこで神から[[イスラム教]]の[[サラセン人]]に対する[[福音宣教]]の召しが与えられたという確信を得た<ref name="World Mission" />。


== 経歴 ==
40歳の時に[[宣教師]]となってイスラムに伝道する<ref name="World Mission" />。また[[フランシスコ会]]の修道院を作る<ref name="World Mission" />。
=== 初期の経歴 ===
[[File:LifeOfRaymondLull14thCentury.JPG|thumb|リュイの生涯(14世紀の写本)]]


1229年には[[アラゴン連合王国|アラゴン=カタルーニャ連合王国]]の[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]が[[バレアレス諸島]]の[[マヨルカ島]]に侵攻し、[[イスラーム教徒]]の[[ムワッヒド朝]]を退けて{{仮リンク|マヨルカ島の征服|label=マヨルカ島を征服|en|Conquest of Majorca}}した<ref name=villashistory>{{cite web |url=http://www.majorcanvillas.com/majorcainfo-history.asp |title=History of Majorca |work=Majorcan Villas |accessdate=2016-03-01}}</ref><ref name=majorcacomhistory>{{cite web |url=http://www.majorca.com/v/history/ |title=Majorca, a modern city with a rich history |work=Majorca.com |accessdate=2016-03-01}}</ref>。ハイメ1世は1231年に[[マヨルカ王国]]を建国し、[[パルマ・デ・マヨルカ]]を主都とした。この[[キリスト教徒]]によるマヨルカ島征服後、リュイの両親は植民活動の一環として[[イベリア半島]]本土の[[カタルーニャ州|カタルーニャ地方]]からマヨルカ島にやってきた。当時のマヨルカ島はイスラーム教徒の[[サラセン人]]が多数を占めており、[[ユダヤ人]]も暮らしていた{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=37}}。マヨルカ島はハイメ1世によるキリスト教的生活規範に則りながらも、イスラーム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共存する特異な状況下にあった{{sfn|阿部|2007|p=93}}。
1200年代末から1300年代初頭にかけて、文字列を生成する機械仕掛け(日本では、「ルルスの円盤」等と呼ばれる)によって世界の真理を得る術(ルルスの術、[[アルス・マグナ]])を考案する。[[ガリヴァー旅行記]]のラピュータで出てくる「言葉が現れる機械」はこれに着想を得たものとする説がある。


マヨルカ王国成立直後の1232年頃<ref name=birthday/>、リュイはパルマにある裕福な家庭に生まれた。幼少期にハイメ1世の小姓となり、廷臣として[[騎士道]]や詩作などの素養を身につけた{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=26}}{{sfn|阿部|2007|p=93}}。ハイメ1世の次男ハイメ(後のマヨルカ王[[ジャウメ2世 (マヨルカ王)|ジャウメ2世]])の守役となり、後の1291年にハイメがマヨルカ王となるとセネスチャル(アラゴン王室の行政長、すなわち執事長)として相談相手を務めている{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=26}}{{sfn|阿部|2007|p=93}}。25歳頃の1257年にはブランカ・ピカニーと結婚し、一男一女(ドメネク、マグダレーナ)を儲けた{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=26}}{{sfn|阿部|2007|p=93}}。こうしてリュイは一家の主となったが、[[トルバドゥール]](吟遊詩人)のように勝手気ままで浪費的な生活を続けた。
これについて『[[ニコラ・ブルバキ|ブルバキ]]数学史』は、[[ゴットフリート・ライプニッツ#数学における業績|ライプニッツの数学]]における、記号の機械的な操作のみによることで、正しい推論のみを得る、という発想について、ラモン・リュイにまで遡ることができる、としている。


=== 回心と独学 ===
1307年に[[ブギア]]へ宣教に行き投獄される。
{{quotation|ラモンはまだ若い男であり、マヨルカ王国の執事長を務めていた。むなしい歌や詩を制作し、不道徳にふけっていた。ある夜、彼はベッドの横に座り、愚かな愛を与えた女に対して低俗な歌を書いていた。彼が歌を書きはじめた時、十字架にかけられた我らの主[[イエス・キリスト]]が右手に見え、まるで空中に浮遊しているかのようだった。|自伝『Vita coaetanea』<ref>Bonner, "Historical Background and Life" (an annotated ''Vita coaetanea'') at 10-11, in Bonner (ed.), ''Doctor Illuminatus'' (1985).</ref>}}


30歳頃の1263年には宗教的な啓示を受け{{sfn|中村|2006}}{{sfn|阿部|2007|p=94}}、この時の様子を後に自伝『Vita coaetanea』に書いている。リュイは計6回の啓示を受け、神に仕える生活を追求するために家族・地位・所有資産を手放す決心を下した。具体的には、リュイは以下の3点を企てた{{sfn|野村|1980|p=85}}{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=26}}{{sfn|阿部|2007|p=94}}。
1314年の3度目のイスラム伝道に赴くが、現在の北[[アルジェリア]]においてイスラム教徒に石を投げられ、[[殉教]]した<ref name="World Mission" />。


# 主に全身全霊を捧げるために、[[サラセン人]](イスラーム教徒)をカトリック信仰に改宗させ、そのためには死をも辞さない
==脚注==
# 異教徒の誤謬を論駁するためにこの世で最高の書物を著す
{{Reflist}}
# 異教徒の地でカトリック信仰の真理を宣教する宣教師のために、外国語教育を目的とした修道院の設立を促進する

1265年にはイベリア半島北西部の[[ガリシア州|ガリシア地方]]にある[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]への[[聖地巡礼]]を行った{{sfn|阿部|2007|p=94}}。その帰路でアラゴン=カタルーニャ連合王国の中心都市である[[バルセロナ]]に立ち寄り、フランスの[[パリ]]に出て学問を修める決意を固めたが、家族や[[ドミニコ会]]司祭の助言で断念し{{sfn|野村|1980|p=85}}{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=26}}{{sfn|阿部|2007|p=93}}、マヨルカ島に戻った{{sfn|阿部|2007|p=94}}。わずかな財産を妻子に残すと、それ以外の全財産を処分{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=26}}。マヨルカ島で[[ラテン語]]、[[リベラル・アーツ|自由学芸]](自由七科)、[[神学]]、[[哲学]]などを独学し、約9年に渡って[[ムーア人]]の奴隷から[[アラビア語]]とアラビア文化を学んだ{{sfn|野村|1980|p=85}}{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=26}}{{sfn|阿部|2007|p=94}}。
<!--リュイは[[アッシジの聖フランシスコ]]から着想を得てフランシスコ会第三会の会員となった。その後1274年までの9年間、リュイは孤独の中で勉学と熟考に務めた。[[ラテン語]]とアラビア語の双方の書物を読みふけり、キリスト教とイスラーム教の双方の神学や哲学的思考を学んだ。-->

=== 著作活動 ===
[[File:Randa Monasteries.jpg|thumb|left|ランダ山の修道院]]

1271年から1274年の間に、イスラーム教徒の思想家である[[ガザーリー]]の理論の概要と黙想を通じて真実を見つけるための長大な手引書『神の観想についての書』を書いた{{sfn|阿部|2007|p=94}}。1274年にはリュイがアラビア語を学んだムーア人奴隷が死去し{{sfn|阿部|2007|p=94}}、マヨルカ島の{{仮リンク|プッチ・ダ・ランダ|label=ランダ山|en|Puig de Randa}}で啓示を得て{{sfn|野村|1980|p=85}}{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=26}}、『真理に到達するための術の提要』の草稿を書いた{{sfn|阿部|2007|p=94}}。その後にはランダ山の修道院{{sfn|中村|2006}}に入り、神からイスラーム教徒のサラセン人に対する[[福音宣教]]の召しが与えられたという確信を得た{{sfn|中村|2006}}。

1275年には[[フランシスコ会]]の神学専門家がリュイの著書の内容を精査{{sfn|阿部|2007|p=95}}。1276年にはハイメ(後のマヨルカ王ジャウメ2世)の財政的援助の下、ローマ教皇[[ヨハネス21世 (ローマ教皇)|ヨハネス21世]]の承認を得て、マヨルカ島の[[バルデモーサ]]の{{仮リンク|ミラマール (マヨルカ島)|label=ミラマール|ca|Miramar (Mallorca)}}にアラビア語学院を設立した{{sfn|野村|1980|p=86}}{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=27}}{{sfn|阿部|2007|p=95}}。こうして13年前に志した三点のひとつが実現し、13人のフランシスコ会士がアラビア語や「術」を学び始めた{{sfn|阿部|2007|p=95}}。リュイが1287年にマヨルカ島を出た後には適役の後任が見つからず、このアラビア語学院は開校から12年後に閉鎖されている{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=27}}{{sfn|阿部|2007|p=95}}。

1276年から1287年にはマヨルカ島のミラマールと南フランスの[[モンペリエ]]で過ごし{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=27}}、1283年にはモンペリエで小説『エヴァストとアローマとブランケルナについての書』を著した{{sfn|阿部|2007|p=95}}。リュイは常に宣教の志を胸に秘めており{{sfn|阿部|2007|p=95}}、1287年以降には地中海地域の全域をめぐって宣教活動を行っている{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=27}}。1287年には[[ローマ教皇庁]]を訪問したほかに、初めてフランスの[[パリ]]を訪れ、フランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]](美麗王)に謁見して「術」の啓蒙活動の重要性を提言した{{sfn|阿部|2007|p=95}}。1290年にはフランシスコ会総長の{{仮リンク|ライムンド・ガウフレディ|en|Raymond de Gaufredi}}からイタリアの諸修道院で「術」を教えるよう依頼され、1292年にはローマ教皇[[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]]から公式に顕彰された{{sfn|阿部|2007|p=95}}。

=== 宣教活動 ===
[[File:Voyages Llull-fr.svg|thumb|right|リュイの宣教活動]]

この頃にはすでに60歳を越えていたが、リュイは北アフリカで最初の宣教活動を行った{{sfn|阿部|2007|p=95}}。1293年には北イタリアの[[ジェノヴァ]]で健康を害したが、1294年に南イタリアの[[ナポリ]]で静養した後に故郷のマヨルカ島に戻った{{sfn|阿部|2007|p=95}}。1295年にはローマに滞在して『{{仮リンク|学問の樹|en|Tree of Science (Ramon Llull)}}』の執筆に取りくみ、1297年から1299年にはパリに滞在して『愛の哲学の樹』をフィリップ4世に献呈した{{sfn|阿部|2007|p=96}}。1297年には[[パリ大学]]で[[ドゥンス・スコトゥス]]と議論を交わしている{{sfn|阿部|2007|p=96}}。リュイはヨーロッパのユダヤ人をカトリックに改宗させることにも熱心であり、ユダヤ人やユダヤ教のカトリックに対する影響を緩和させようとしていた。バルセロナの{{仮リンク|Shlomo ben Aderet|en|Shlomo ben Aderet}}、[[サレルノ]]のMoshe ben Shlomoなどの[[ラビ]]がリュイの論争相手となった<ref>Libre de Contemplacio 287.9, 2:887 in The friars and the Jews: the evolution of medieval anti-Judaism. Cohen, Jeremy. Cornell University Press, c. 1982. see chapter: "The Ideology in Perspective: Raymond Lull", esp. pp. 222-225.</ref>。

1300年からは約1年間マヨルカ島に戻ったが、1302年には地中海東部の[[キプロス]]、[[アルメニア]]、[[エルサレム]]を訪れた{{sfn|阿部|2007|p=96}}。1303年から1305年にはジェノヴァに滞在し、さらには3度目のパリ訪問を行った{{sfn|阿部|2007|p=96}}。1307年には北アフリカに2度目の宣教旅行を行い、1308年には[[ピサ]]で『結合術』を著した{{sfn|阿部|2007|p=96}}。1309年には再びパリを訪れ、『アヴェロエス主義駁論』など30編以上の作品を残した{{sfn|阿部|2007|p=96}}。当時のパリではイスラーム世界の哲学者である[[イブン・ルシュド]](アヴェロエス)の思想からなる{{仮リンク|ラテン・アヴェロエス主義|en|Averroism}}が興隆しており、リュイは作品を執筆するほかにラテン・アヴェロエス主義者と論争を行っている{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=27}}。1311年の[[ヴィエンヌ公会議]]ではリュイの提唱によって、[[アラビア語]]・[[ヘブライ語]]・[[カルデア語]]の3言語を、[[パリ大学]]、[[ローマ大学]]、[[ボローニャ大学]]、[[サラマンカ大学]]、[[オックスフォード大学]]の5大学で教えることが認められたが{{sfn|野村|1980|p=86}}{{sfn|阿部|2007|p=96}}、「術」の使用は却下された{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=27}}。<!--40歳の時に[[宣教師]]となってイスラームに伝道する{{sfn|中村|2006}}。また[[フランシスコ会]]の修道院を作る{{sfn|中村|2006}}。-->

1313年から1314年には南イタリアの[[メッシーナ]]に滞在し{{sfn|阿部|2007|p=97}}、1314年から1315年にはイスラーム教徒の土地に3度目の伝道に赴いた{{sfn|中村|2006}}。アラゴン王[[ハイメ2世 (アラゴン王)|ハイメ2世]]の親書をこの地の[[スルタン]]に届け、さらには自身の著作も献上している{{sfn|阿部|2007|p=97}}。1315年12月から1316年3月のあいだ{{sfn|阿部|2007|p=97}}、[[チュニス]]での宣教の際にイスラーム教徒に石を投げられた{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}。この時のけがが元で、マヨルカ島に帰郷後すぐに死去した{{sfn|野村|1980|p=86}}{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}。なお、マヨルカ島帰郷前に死去したとする説もある{{sfn|阿部|2007|p=97}}。生年・没年ともに複数の説があるが、いずれにしてもリュイの生涯は84年から90年であり、当時としてはかなりの長寿であった{{sfn|阿部|2007|p=92}}。

== 評価 ==
[[File:Llull3.1.JPG|thumb|right|リュイが生涯に訪れた都市]]

1200年代末から1300年代初頭にかけて、文字列を生成する機械仕掛け(日本では、「ルルスの円盤」等と呼ばれる)によって世界の真理を得る術(ルルスの術、[[アルス・マグナ]])を考案する。[[ガリヴァー旅行記]]のラピュータで出てくる「言葉が現れる機械」はこれに着想を得たものとする説がある。これについて『[[ニコラ・ブルバキ|ブルバキ]]数学史』は、[[ゴットフリート・ライプニッツ#数学における業績|ライプニッツの数学]]における、記号の機械的な操作のみによることで、正しい推論のみを得る、という発想について、ラモン・リュイにまで遡ることができる、としている。

哲学者{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、神学者{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、神秘家(神秘思想家){{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、宣教者(宣教師){{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、百科全書家{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、教育者{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、作家(著述家){{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、詩人{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}、騎士{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、宮廷詩人{{sfn|阿部|2007|p=90}}、医者{{sfn|阿部|2007|p=90}}、薬学者{{sfn|阿部|2007|p=90}}、数学者{{sfn|阿部|2007|p=90}}、語学研究者{{sfn|阿部|2007|p=90}}、など、リュイには様々な肩書が与えられている。夢想家{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、ユートピアン(理想主義者){{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、狂気の人(狂気に満ちた人){{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、見神博士{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、カタルーニャ文学の祖{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=30}}{{sfn|阿部|2007|p=90}}、魔術師{{sfn|阿部|2007|p=90}}などという二つ名がつけられている。

リュイはその著書の中で、聖書、[[クルアーン]]、[[タルムード]]、[[プラトン]]、[[アリストテレス]]、[[アレオパゴスのディオニシオ|ディオニュシオス・ホ・アレオパギテス]]、{{仮リンク|アエギディウス・ロマヌス|en|Giles of Rome}}、{{仮リンク|サン=ヴィクトルのリカルドゥス|en|Richard of Saint Victor}}、[[アンセルムス|カンタベリーのアンセルムス]]などを引用している{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|pp=31-32}}。[[ペトルス・ロンバルドゥス]]の『[[命題集 (ペトルス・ロンバルドゥス)|命題集]]』、[[アウグスティヌス]]の『三位一体論』、[[トマス・アクィナス]]の『対異教徒大全』などの[[教会博士]]も引用している{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|pp=31-32}}。[[イブン・スィーナー]](アヴィセンナ)、{{仮リンク|マテウス・プラテアリウス|en|Matthaeus Platearius}}、[[コンスタンティヌス・アフリカヌス]]などの意見を批判している{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|pp=31-32}}。

リュイは[[ドミニコ会]]の神学者であるアクィナス(1225年頃-1274年)より約10歳若い{{sfn|阿部|2007|p=91}}。活動内容や影響力の点でリュイはアクィナスと遜色ないとされる{{sfn|阿部|2007|p=91}}。リュイもアクィナスも聖書や教父の写本に精通し、イスラーム思潮やアリストテレス哲学などに影響を受けながらもそれらと思想を異にしていた点で共通している{{sfn|阿部|2007|p=91}}。リュイは中世キリスト教思想と近代思想の橋渡し役となったとされる{{sfn|上智大学中世思想研究所|2007|pp=25-26}}。さらには、キリスト教思想とイスラーム教やユダヤ教などの異教思想の対話において先駆的な役割を果たしたとされる{{sfn|上智大学中世思想研究所|2007|pp=25-26}}。

死後の1376年、カトリックの尋問官である{{仮リンク|ニコラウス・エイメリクス|en|Nicholas Eymerich}}はリュイによる100の理論や思想を考え違いであるとして非難した。同じく1376年には、ローマ教皇[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]が公式にリュイの20の著作を非難し<ref name="books.google.com">Dictionary of World Biography, edited by Frank N. Magill and Alison Aves, page 610 | [https://books.google.com/books?id=CurSh3Sh_KMC&lpg=PA610&ots=y2YEgeJn5j&dq=ramon%20llull%20books%20condemned%20pope&pg=PA610#v=onepage&q=ramon%20llull%20books%20condemned%20pope&f=false]</ref>、やがてローマ教皇[[パウロ4世 (ローマ教皇)|パウロ4世]]がグレゴリウス11世による非難を追認した<ref>Turner, William. "Raymond Lully." The Catholic Encyclopedia. Vol. 12. New York: Robert Appleton Company, 1911. 5 Dec. 2013 [http://www.newadvent.org/cathen/12670c.htm]</ref>。一方で、1416年にはローマ教皇[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]がグレゴリウス11世による非難を撤回した<ref name="books.google.com"/>。このように死後にローマ教皇による非難は受けたものの、生前のリュイはカトリック教会と良好な関係を保った。フランシスコ会においてリュイは[[殉教者]]とされており、1857年にはローマ教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]によって[[列福]]された<ref name="habig">Habig, Marion. (Ed.). (1959). ''The Franciscan Book Of Saints''. Franciscan Herald Press.</ref>。リュイの祝祭日は6月30日であり、フランシスコ会第三会によって祝われている<ref name="habig"/>。

== 影響 ==
[[File:Gottfried Wilhelm von Leibniz.jpg|thumb|right|ライプニッツ]]

14世紀前半にはパリや[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]などでリュイの信奉者が学派を形成した{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=32}}{{sfn|阿部|2007|p=114}}。特にリュイが4度滞在したパリでは、講義を聴講した[[パリ大学]]の学生が中心となってリュイの思想の伝承に務め、聴講生のトマ・ル・ミエジェは『リュイ選集』や『小約格言集』を刊行した{{sfn|阿部|2007|p=114}}。15世紀にはヨーロッパ全土にリュイの思想が伝わり{{sfn|阿部|2007|p=114}}、カタルーニャ地方、マヨルカ島、イタリア、フランス、ドイツなどにリュイ信奉者の学派が広がっていった{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=32}}。16世紀後半にはスペイン国王の[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]がリュイの著作物を収集して各地の図書館で保管することに努めた{{sfn|阿部|2007|p=115}}。フェリペ2世は神学者や修道者などにスペイン国内で活動することを求め、16世紀のスペインでは[[霊性|神秘霊性]]が活性化された{{sfn|阿部|2007|p=115}}。イエズス会の創立者である[[イグナチオ・デ・ロヨラ]](1491年-1556年)、神秘家で修道院改革者の[[アビラのテレサ]](1515年-1582年)、同じく神秘家で修道院改革者の[[十字架のヨハネ]](1542年-1591年)などが活躍したが、いずれの人物にもリュイの思想に影響されている{{sfn|阿部|2007|p=115}}。

17世紀後半には哲学者や数学者であった[[ゴットフリート・ライプニッツ]]がリュイの「術」やリュイ主義者の「記憶術」を洗練させた{{sfn|阿部|2007|p=117}}。ライプニッツのおかげでリュイに対する関心が再度高まったとされる{{sfn|上智大学中世思想研究所|2007|pp=25-26}}。19世紀から20世紀になると、リュイの思想は「神秘的な魔術」としての地位に落ち込み、[[神秘学|オカルティズム]]、[[神智学]]、[[秘密結社]]などが用いる道具となった{{sfn|阿部|2007|p=119}}。しかし、現代になると再びリュイに対する関心が強まり、[[数理論理学]]、[[記号学|象徴記号学]]、[[図像学]]などの分野でリュイの再評価が始まった{{sfn|阿部|2007|p=119}}。1957年にはリュイの思想を専門とする雑誌「ルルス研究」が刊行され、1960年、1976年、1984年にはリュイの思想を主題とする国際学会が開催された{{sfn|上智大学中世思想研究所|2007|pp=25-26}}。リュイの出生地であるマヨルカ島にはマヨルカ・リュイ学院が、ドイツのフライブルクにはラモン・リュイ研究所が設立され、それぞれリュイの思想を探求している{{sfn|上智大学中世思想研究所|2007|pp=25-26}}。

特に[[バルセロナ大学]]や[[バレンシア大学]]などでリュイの思想の普及が行われている。リュイはもっとも大きな影響力を持つカタルーニャの著作家とされている。英語が「[[ウィリアム・シェークスピア|シェイクスピア]]の言語」、フランス語が「[[モリエール]]の言語」、スペイン語が「[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]の言語」、ドイツ語が「[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の言語」と呼ばれることがあるように、カタルーニャ語はしばしば「リュイの言語」と呼ばれる。スペインの{{仮リンク|科学研究高等評議会|en|Consejo Superior de Investigaciones Científicas}}はロゴマークにリュイの『学問の樹』を採用している。カタルーニャ語やカタルーニャ文化を世界に発信する公的機関として、2002年には{{仮リンク|インスティトゥット・ラモン・リュイ|en|Institut Ramon Llull}}が設立された。スペイン語における[[セルバンテス文化センター|インスティテュート・セルバンテス]](セルバンテス文化センター)、フランス語における[[アリアンスフランセーズ|アリアンス・フランセーズ]]、英語における[[ブリティッシュ・カウンシル]]、イタリア語における[[ダンテ・アリギエーリ協会]]、ドイツ語における[[ゲーテ・インスティトゥート]]などと同様の役割を持っている。

=== リュイの思想の継承者 ===
* トマ・ル・ミエジェ<!--トマス・ミュエシエル-->(Thomas le Myésier, -1336) : パリでリュイの著作集を編集。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}{{sfn|阿部|2007}}
* {{仮リンク|ラモン・シビウダ|en|Raymond of Sabunde}}(-1436) : カタルーニャの教育者・哲学者。リュイと同じマヨルカ島生まれ。{{仮リンク|トゥールーズ大学|fr|Université fédérale de Toulouse Midi-Pyrénées}}で教鞭をとる。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}
* {{仮リンク|ハイメリクス・デ・カンポ|en|Heymeric de Campo}}(1395頃-1460) : フランドルの神学者・哲学者。[[ニコラウス・クザーヌス]]にリュイを教示。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}
* [[ジャック・ルフェーヴル・デタープル]](1455-1536) : フランスの人文学者。『リュイ著作集』を編纂。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}{{sfn|阿部|2007}}
* {{仮リンク|シャルル・ド・ボヴェル|en|Charles de Bovelles}}(1479-1553) : フランスの数学者。初めてリュイの伝記を著す。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}
* [[フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス]](1436-1517) : スペインの枢機卿・トレド大司教。[[マドリード・コンプルテンセ大学|コンプルテンセ大学]]の創設者。リュイの神学と哲学の講義を開講。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}
* {{仮リンク|ベルナール・ド・ラヴィネータ|en|Bernard de Lavinheta}}(-1530頃) : [[バスク地方]]のフランシスコ会士。リュイの著作を数多く刊行。リュイの「アルス・マグナ」の解説書を通じて[[パリ大学]]で教鞭をとる。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}
* [[ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ]](1486-1535) : ドイツの魔術師・人文主義者・神学者。ドイツで初めてリュイの「術」を解説。「結合術」の構築を試みる。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}{{sfn|阿部|2007}}
* [[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]] : スペイン国王。熱心なリュイの信奉者。王宮に設けた図書館にリュイの著作を多数集める。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}{{sfn|阿部|2007}}
* {{仮リンク|ヨハン・ハインリッヒ・アルシュテット|en|Johann Heinrich Alsted}}(1588-1638) : ドイツの百科全書家。リュイの著作を数多く刊行し、「術」を擁護。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}
* [[アタナシウス・キルヒャー]](1601-1680) : ドイツの自然科学者・イエズス会員。リュイの「術」の完成を試みる。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}
* イーヴォ・ザルツィンガー(Ivo Salzinger, 1669-1728) : 自然科学者・博物学者・錬金術師。ラテン語版のリュイ全集の刊行を企てる。「マインツ版」を刊行。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}

=== リュイに影響を受けた人物 ===
* [[ニコラウス・クザーヌス]](1401-1464) : ドイツの哲学者・神学者。リュイの思想が『知ある無知』に影響。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}{{sfn|阿部|2007}}
* [[ヨハンネス・ベッサリオン]](1399?-1472) : 東ローマ帝国の人文主義者・枢機卿。コンスタンティノポリス総大司教。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}
* [[ピコ・デラ・ミランドラ]](1463-1494) : イタリアの哲学者。『アポロギア』でリュイの思想と[[カバラ]](カバラー)の類似性を指摘。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}{{sfn|阿部|2007}}
* [[ジョルダーノ・ブルーノ]](1548-1600) : イタリアの哲学者・自然科学者。リュイの思想に影響されて記憶術を開発。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}{{sfn|阿部|2007}}
* [[ゴットフリート・ライプニッツ]](1646-1716) : ドイツの哲学者・数学者。『結合法論』でリュイの「術」や「記憶術」を洗練化。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}{{sfn|阿部|2007}}

=== 反リュイ主義者 ===
* {{仮リンク|ニコラウス・エイメリクス|en|Nicholas Eymerich}}(1320-1399) : アラゴン王国の異端尋問所長官。リュイを告発。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}
* [[ジャン・ジェルソン]](1363-1429) : フランスの神学者。[[パリ大学]]総長。パリ大学でリュイについて講じることを禁止。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}
* {{仮リンク|ベニート・ヘロニモ・フェイホー・イ・モンテネグロ|en|Benito Jerónimo Feijóo y Montenegro}}(1676-1764) : スペインの修道士・[[啓蒙主義者]]。リュイを攻撃。{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998}}

== 著作 ==
リュイは[[ラテン語]]、[[カタルーニャ語]]、[[アラビア語]]などで著作を残した{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|p=97}}。真正な著作265、擬書(仮託文書)400がリュイの作品として伝わっている{{sfn|阿部|2007|p=97}}。当時はラテン語で著作を執筆することが慣例であったが{{sfn|阿部|2007|p=97}}、リュイは大多数をカタルーニャ語で執筆した{{sfn|野村|1980|p=86}}。ラテン語以外の言語を用いた中世初のキリスト教的哲学者であるとされ{{sfn|野村|1980|p=85}}、[[ダンテ・アリギエーリ]](1265年-1321年、イタリア語)や[[マイスター・エックハルト]](1260年頃-1328年頃、ドイツ語)に先んじ{{sfn|野村|1980|p=86}}、自言語を使用する著述家の先駆けとなった{{sfn|阿部|2007|p=97}}。宣教相手であるイスラーム教徒の言語(アラビア語)でも執筆したことも特筆される{{sfn|阿部|2007|p=97}}。

1276年から1278年にマヨルカ島で著した『愛する者と愛された者についての書』は、「リュイの[[神秘主義]]のみならず全哲学が要約されている」と評価され、数多くの言語に翻訳されている{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=34}}。文学的著作の中でもよく知られた『{{仮リンク|エヴァストとアローマとブランケルナについての書|en|Blanquerna}}』(『ブランケルナ』)は教育論的説話である{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=34}}。アラビア語の著作は散逸しており、一作も現存しない{{sfn|野村|1980|p=86}}{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=37}}。

=== 代表的著作 ===
[[File:Houghton SC.L9695.482ab - Ramon Llull, 1505.jpg|thumb|right|『学問の樹』(1505年刊行版)]]

著名なリュイ研究者(ルリスタ)である{{仮リンク|トマス・カレーラス・イ・アルタウ|en|Tomás Carreras Artau}}は、リュイの著作を10の分野に分類している{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}。詳しくは[[:ca:Llista d’obres de Ramon Llull|カタルーニャ語版にあるリュイの著作一覧]]を参照。

* '''百科全書的著作'''
** 『{{仮リンク|学問の樹|en|Tree of Science (Ramon Llull)}}』1296年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}

* '''自然学的著作'''
** 『新自然学概説』<!--『新自然学序説』-->1310年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}

* '''哲学的著作'''
** 『人間論』1300年{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}
** 『知性の上昇と下降についての書』1304年{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}
** 『真理発見のための簡略な術』<!--『真理発見のための簡明な術』-->1308年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}
** 『{{仮リンク|究極の一般術|ca|Ars magna}}』<!--『究極的一般術』-->1308年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}

* '''神学的・護教的著作'''
** 『異教徒と三賢人についての書』1274-1276年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}
** 『神の術』1308年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}

* '''対アヴェロエス主義的著作'''
** 『対話によるライムンドゥスの言明あるいはボエティウスとシゲルスの誤謬駁論』<!--『対話によるライムンドゥスの言明あるいはダキアのボエティウスとブラバンのシゲルスの誤謬駁論』-->1298年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}

* '''神秘主義的著作'''
** 祈りと観想の術に関する書
*** 『神の観想についての書』1271-1273年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}
*** 『分別知の祈りと観想』1273-1275年頃{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}
*** 『観想の術』1282-1287年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}
*** 『神の百の名』<!--『神の百の呼び名』-->1289年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}
*** 『ライムンドゥスの観想』1297年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}
*** 『祈りについての書』1299-1300年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}
*** 『簡略な観想』1313年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}
** 愛に関する書
*** 『神の観想についての書』1271-1273年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}
*** 『愛する者と愛された者についての書』1276-1278年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}
*** 『愛の術』1290年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}
*** 『愛の華と知解の華』1294年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}
*** 『愛の哲学の樹』1298年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}

* '''教育学的著作'''
** 『騎士道論』1275年{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}
** 『児童のための公教要理』<!--『子どものための公教要理』-->1282-1287年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}
** 『教育的格言集』1309年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}

* '''十字軍と宣教に関する著作'''
** 『目的についての書』1305年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}

* '''文学的著作'''
** 『{{仮リンク|エヴァストとアローマとブランケルナについての書|en|Blanquerna}}』1283年-1285年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}{{sfn|野村|1980|p=87}}
** 『驚異についての書あるいは世界の驚異を経験するフェリシュ』1287-1289年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}

* '''韻文による著作'''
** 『聖母マリアの嘆き』1276-1285年{{sfn|上智大学中世思想研究所|1998|p=28}}{{sfn|阿部|2007|pp=97-103}}

== ラモン・リュイ大学 ==
{{Infobox University
|name = ラモン・リュイ大学
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|latin_name =
|image = [[File:Facultat Filosofia URL.JPG|250px]]
|caption = 哲学部の建物
|motto =Ser i saber
|established =1990年3月1日
|type =[[私立大学|私立]](カトリック)
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'''{{仮リンク|ラモン・リュイ大学|en|Ramon Llull University}}'''({{lang-ca|Universitat Ramon Llull: URL}})は、[[スペイン]]・[[カタルーニャ州]][[バルセロナ県]][[バルセロナ]]に拠点を置く[[私立大学]]([[カトリック大学]])。1990年創設。7つの異なる[[カレッジ]]の集合体であり、その多くはバルセロナのダウンタウンに位置する。

=== 大学の母体 ===
大学の名称は13世紀に活躍した哲学者・著述家のラモン・リュイに因んでいる。1989年10月に4つの教育機関が集まって、1990年3月1日にラモン・リュイ大学が設立され、1991年5月10日に[[カタルーニャ州議会]]によって承認された。その後複数の教育機関が加わっている。

; 設立時の4教育機関
* {{仮リンク|ラ・サリェ工学・建築学校|es|La Salle Campus Barcelona}} : 1903年設立。
* {{仮リンク|サリア化学インスティテュート|es|Instituto Químico de Sarriá}}(IQS) : 1905年設立。
* {{仮リンク|ブランケルナ財団|es|Fundación Blanquerna}} : 1948年設立。
* {{仮リンク|カタルーニャ哲学聖職者学校|es|Facultad de Filosofía de la Universidad Ramon Llull}} : 1864年設立。哲学科と人文学科を内包。

; 後から加わった教育機関
* [[ESADE]] : 1958年に[[イエズス会]]が設立。[[ビジネススクール]]と[[法科大学院|ロースクール]]を内包。
* パレ・タレス社会研究大学学校 : 1998年設立。
* エブロ観測調査インスティテュート : 1904年設立。
* ビダル・イ・バラケール財団 : 1964年設立。精神衛生が専門。
* {{仮リンク|ボルハ生命倫理インスティテュート|es|Instituto Borja de Bioética}} : 1974年設立。
* ESDiデザイン高等教育学校 : 1989年設立。

=== 大学の学部 ===
* 哲学部
* ブランケルナ心理・科学教育・スポーツ学部
* ブランケルナ情報・国際関係学部
* ブランケルナ健康科学部
* パレ・タレス社会教育・社会労働学部
* サン・イグナシオ観光・ホテル経営学部
* ラ・サリェ通信技術工学大学学校
* ラ・サリェ情報電子工学高等工科学校
* ラ・サリェ建築高等工科学校
* {{仮リンク|ESDiデザイン学校|en|ESDi School of Design}}
* [[ESADE]]ビジネススクール
* [[ESADE]]ロースクール
* IQS工学学校
* IQS経営学校

== 脚注 ==
{{Reflist|2}}

== 文献 ==
=== 参考文献 ===
* {{cite book|和書
|last=エーコ |first=ウンベルト
|autherlink=ウンベルト・エーコ
|title=完全言語の探求
|publisher=[[平凡社]]
|year=1995
|others=上村 忠男, 広石 正和(訳)
|isbn=978-4582476316
|ref=harv
}}
* {{cite book|和書
|last=坂口 |first=昴吉
|autherlink=坂口昴吉
|last2=前川 |first2=登
|autherlink2=前川登
|last3=福田 |first3=誠二
|autherlink3=福田誠二
|title=フランシスコ会学派(下) ボナベントゥラからベルナルディノ
|series=フランシスカン研究 3
|publisher=[[聖母の騎士社]]
|year=2007
|others=[[阿部仲麻呂]]「ライムンドゥス・ルルスの思想と可能性」, pp.90-126, 東京フランシスカン研究所(監修)
|isbn=
|ref=harv
}}
* {{citation
|last=沢田 |first=直
|autherlink=沢田直
|year=1994-07
|title=ラモン・リュイと地中海思想
|journal=現代思想
|publisher=[[青土社]]
|volume=22
|issue=7
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|title=アルス・マグナ ラモン・リュイの発見術
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|autherlink=[[上智大学中世思想研究所]]
|title=中世の教育思想(下)
|series=教育思想史4
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|series=中世思想原典集成 18
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|publisher=[[知泉書館]]
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| publisher=[[いのちのことば社]]
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|title=Ramon Llullの神秘思想についての一考察(2)
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=== その他の文献 ===
* {{cite book
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|title= Ramon Llull as a Vernacular Writer
|publisher= Tamesis
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|title= Raymond Lull, the illuminated doctor : a study in mediaeval missions
|publisher= C.H. Kelly
|place=[[ロンドン|London, UK]]
|year=1903
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|url= https://archive.org/details/raymondlullillum00barbuoft
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* {{cite book
|last= Bonner |first=Anthony
|title= Doctor Illuminatus. A Ramon Llull Reader
|publisher= Princeton University
|place=[[ロンドン|London, UK]]
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* {{cite book
|last= Bonner |first= Anthony
|title= The Art and Logic of Ramon Llull: A User's Guide
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==参考文献==
*『世界宣教の歴史-エルサレムから地の果てまで』[[中村敏]]著 [[いのちのことば社]] ISBN 4264024226
* {{cite book | 和書 | author=ウンベルト・エーコ | editor=上村 忠男, 広石 正和(訳) | title=完全言語の探求 | publisher=平凡社 | year=1995 | ref=エーコ(1995) }}
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons category|Raimundus Lullus}}
{{Commonscat|Raimundus Lullus}}
* [http://www.escriptors.cat/autors/llullr Ramon Llull at the AELC] (Association of Writers in Catalan Language). Webpage in Catalan, English and Spanish.
* [http://www.escriptors.cat/autors/llullr Ramon Llull] カタルーニャ語作家協会(AELC) {{ca icon}} {{en icon}} {{es icon}}
* [http://lullianarts.net/ Site with fulltexts of Raymond Lull's books. Also music based on Lullian arts.]
* [http://lullianarts.net リュイの作品の英語訳] Lullian Arts.net {{en icon}}
* [http://orbita.bib.ub.es/ramon/p.asp Ramon Llull Database] バルセロナ大学
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* [http://www.catholic-forum.com/saints/saintr73.htm Patron Saints Index]
* [http://www.catholic-forum.com/saints/saintr73.htm Patron Saints Index]
* [http://www.newadvent.org/cathen/12670c.htm ''Catholic Encyclopedia'' article of 1911]
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* [http://www.uoc.edu/lletra/noms/rllull/index.html Ramon Llull] at Lletra, espai virtual de literatura catalana) {{ca icon}}
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* [http://www.uib.es/catedra/ramonllull Càtedra Ramon Llull] (in Catalan)
* [http://www.uib.es/catedra/ramonllull Càtedra Ramon Llull] {{ca icon}}
* [http://www.americancatholic.org/Features/SaintOfDay/default.asp?id=1426 Blessed Raymond Lull]
* [http://www.americancatholic.org/Features/SaintOfDay/default.asp?id=1426 Blessed Raymond Lull]
* [http://lullianarts.net/Ars-Magna/1-2-3-4.htm The Ultimate General Art]
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2016年3月3日 (木) 09:56時点における版

ラモン・リュイ
別名 ライムンドゥス・ルルス
生誕 1232年[1]
マヨルカ王国パルマ・デ・マヨルカマヨルカ島
死没 1315年6月29日 [2]
マヨルカ王国パルマ・デ・マヨルカマヨルカ島[3]
時代 13世紀
地域 地中海世界
研究分野 哲学神学神秘主義
主な概念 「術」
テンプレートを表示

ラモン・リュイカタルーニャ語: Ramon Llull; カタルーニャ語: [rəˈmon ˈʎuʎ])またはライムンドゥス・ルルスラテン語: Raimundus Lullus1232年[1]1315年6月29日[2])は、マヨルカ王国パルマ・デ・マヨルカ出身の哲学者神学者神秘家[4]フランシスコ会第三会(在俗会)会員。

初期のカタルーニャ語文学において主要な作品を制作しており[5]、「カタルーニャ語の父」(カタルーニャ文学の祖[6][7])と呼ばれる。リュイはまた計算理論の先駆者とされ、特にゴットフリート・ライプニッツに影響を与えている[8][9][10]

経歴

初期の経歴

リュイの生涯(14世紀の写本)

1229年にはアラゴン=カタルーニャ連合王国ハイメ1世バレアレス諸島マヨルカ島に侵攻し、イスラーム教徒ムワッヒド朝を退けてマヨルカ島を征服英語版した[11][12]。ハイメ1世は1231年にマヨルカ王国を建国し、パルマ・デ・マヨルカを主都とした。このキリスト教徒によるマヨルカ島征服後、リュイの両親は植民活動の一環としてイベリア半島本土のカタルーニャ地方からマヨルカ島にやってきた。当時のマヨルカ島はイスラーム教徒のサラセン人が多数を占めており、ユダヤ人も暮らしていた[13]。マヨルカ島はハイメ1世によるキリスト教的生活規範に則りながらも、イスラーム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共存する特異な状況下にあった[14]

マヨルカ王国成立直後の1232年頃[1]、リュイはパルマにある裕福な家庭に生まれた。幼少期にハイメ1世の小姓となり、廷臣として騎士道や詩作などの素養を身につけた[15][14]。ハイメ1世の次男ハイメ(後のマヨルカ王ジャウメ2世)の守役となり、後の1291年にハイメがマヨルカ王となるとセネスチャル(アラゴン王室の行政長、すなわち執事長)として相談相手を務めている[15][14]。25歳頃の1257年にはブランカ・ピカニーと結婚し、一男一女(ドメネク、マグダレーナ)を儲けた[15][14]。こうしてリュイは一家の主となったが、トルバドゥール(吟遊詩人)のように勝手気ままで浪費的な生活を続けた。

回心と独学

ラモンはまだ若い男であり、マヨルカ王国の執事長を務めていた。むなしい歌や詩を制作し、不道徳にふけっていた。ある夜、彼はベッドの横に座り、愚かな愛を与えた女に対して低俗な歌を書いていた。彼が歌を書きはじめた時、十字架にかけられた我らの主イエス・キリストが右手に見え、まるで空中に浮遊しているかのようだった。 — 自伝『Vita coaetanea』[16]

30歳頃の1263年には宗教的な啓示を受け[17][18]、この時の様子を後に自伝『Vita coaetanea』に書いている。リュイは計6回の啓示を受け、神に仕える生活を追求するために家族・地位・所有資産を手放す決心を下した。具体的には、リュイは以下の3点を企てた[19][15][18]

  1. 主に全身全霊を捧げるために、サラセン人(イスラーム教徒)をカトリック信仰に改宗させ、そのためには死をも辞さない
  2. 異教徒の誤謬を論駁するためにこの世で最高の書物を著す
  3. 異教徒の地でカトリック信仰の真理を宣教する宣教師のために、外国語教育を目的とした修道院の設立を促進する

1265年にはイベリア半島北西部のガリシア地方にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの聖地巡礼を行った[18]。その帰路でアラゴン=カタルーニャ連合王国の中心都市であるバルセロナに立ち寄り、フランスのパリに出て学問を修める決意を固めたが、家族やドミニコ会司祭の助言で断念し[19][15][14]、マヨルカ島に戻った[18]。わずかな財産を妻子に残すと、それ以外の全財産を処分[15]。マヨルカ島でラテン語自由学芸(自由七科)、神学哲学などを独学し、約9年に渡ってムーア人の奴隷からアラビア語とアラビア文化を学んだ[19][15][18]

著作活動

ランダ山の修道院

1271年から1274年の間に、イスラーム教徒の思想家であるガザーリーの理論の概要と黙想を通じて真実を見つけるための長大な手引書『神の観想についての書』を書いた[18]。1274年にはリュイがアラビア語を学んだムーア人奴隷が死去し[18]、マヨルカ島のランダ山英語版で啓示を得て[19][15]、『真理に到達するための術の提要』の草稿を書いた[18]。その後にはランダ山の修道院[17]に入り、神からイスラーム教徒のサラセン人に対する福音宣教の召しが与えられたという確信を得た[17]

1275年にはフランシスコ会の神学専門家がリュイの著書の内容を精査[20]。1276年にはハイメ(後のマヨルカ王ジャウメ2世)の財政的援助の下、ローマ教皇ヨハネス21世の承認を得て、マヨルカ島のバルデモーサミラマールカタルーニャ語版にアラビア語学院を設立した[21][22][20]。こうして13年前に志した三点のひとつが実現し、13人のフランシスコ会士がアラビア語や「術」を学び始めた[20]。リュイが1287年にマヨルカ島を出た後には適役の後任が見つからず、このアラビア語学院は開校から12年後に閉鎖されている[22][20]

1276年から1287年にはマヨルカ島のミラマールと南フランスのモンペリエで過ごし[22]、1283年にはモンペリエで小説『エヴァストとアローマとブランケルナについての書』を著した[20]。リュイは常に宣教の志を胸に秘めており[20]、1287年以降には地中海地域の全域をめぐって宣教活動を行っている[22]。1287年にはローマ教皇庁を訪問したほかに、初めてフランスのパリを訪れ、フランス王フィリップ4世(美麗王)に謁見して「術」の啓蒙活動の重要性を提言した[20]。1290年にはフランシスコ会総長のライムンド・ガウフレディ英語版からイタリアの諸修道院で「術」を教えるよう依頼され、1292年にはローマ教皇ニコラウス4世から公式に顕彰された[20]

宣教活動

リュイの宣教活動

この頃にはすでに60歳を越えていたが、リュイは北アフリカで最初の宣教活動を行った[20]。1293年には北イタリアのジェノヴァで健康を害したが、1294年に南イタリアのナポリで静養した後に故郷のマヨルカ島に戻った[20]。1295年にはローマに滞在して『学問の樹英語版』の執筆に取りくみ、1297年から1299年にはパリに滞在して『愛の哲学の樹』をフィリップ4世に献呈した[23]。1297年にはパリ大学ドゥンス・スコトゥスと議論を交わしている[23]。リュイはヨーロッパのユダヤ人をカトリックに改宗させることにも熱心であり、ユダヤ人やユダヤ教のカトリックに対する影響を緩和させようとしていた。バルセロナのShlomo ben Aderet英語版サレルノのMoshe ben Shlomoなどのラビがリュイの論争相手となった[24]

1300年からは約1年間マヨルカ島に戻ったが、1302年には地中海東部のキプロスアルメニアエルサレムを訪れた[23]。1303年から1305年にはジェノヴァに滞在し、さらには3度目のパリ訪問を行った[23]。1307年には北アフリカに2度目の宣教旅行を行い、1308年にはピサで『結合術』を著した[23]。1309年には再びパリを訪れ、『アヴェロエス主義駁論』など30編以上の作品を残した[23]。当時のパリではイスラーム世界の哲学者であるイブン・ルシュド(アヴェロエス)の思想からなるラテン・アヴェロエス主義英語版が興隆しており、リュイは作品を執筆するほかにラテン・アヴェロエス主義者と論争を行っている[22]。1311年のヴィエンヌ公会議ではリュイの提唱によって、アラビア語ヘブライ語カルデア語の3言語を、パリ大学ローマ大学ボローニャ大学サラマンカ大学オックスフォード大学の5大学で教えることが認められたが[21][23]、「術」の使用は却下された[22]

1313年から1314年には南イタリアのメッシーナに滞在し[25]、1314年から1315年にはイスラーム教徒の土地に3度目の伝道に赴いた[17]。アラゴン王ハイメ2世の親書をこの地のスルタンに届け、さらには自身の著作も献上している[25]。1315年12月から1316年3月のあいだ[25]チュニスでの宣教の際にイスラーム教徒に石を投げられた[26]。この時のけがが元で、マヨルカ島に帰郷後すぐに死去した[21][26]。なお、マヨルカ島帰郷前に死去したとする説もある[25]。生年・没年ともに複数の説があるが、いずれにしてもリュイの生涯は84年から90年であり、当時としてはかなりの長寿であった[27]

評価

リュイが生涯に訪れた都市

1200年代末から1300年代初頭にかけて、文字列を生成する機械仕掛け(日本では、「ルルスの円盤」等と呼ばれる)によって世界の真理を得る術(ルルスの術、アルス・マグナ)を考案する。ガリヴァー旅行記のラピュータで出てくる「言葉が現れる機械」はこれに着想を得たものとする説がある。これについて『ブルバキ数学史』は、ライプニッツの数学における、記号の機械的な操作のみによることで、正しい推論のみを得る、という発想について、ラモン・リュイにまで遡ることができる、としている。

哲学者[6][7]、神学者[6][7]、神秘家(神秘思想家)[6][7]、宣教者(宣教師)[6][7]、百科全書家[6][7]、教育者[6][7]、作家(著述家)[6][7]、詩人[6]、騎士[6][7]、宮廷詩人[7]、医者[7]、薬学者[7]、数学者[7]、語学研究者[7]、など、リュイには様々な肩書が与えられている。夢想家[6][7]、ユートピアン(理想主義者)[6][7]、狂気の人(狂気に満ちた人)[6][7]、見神博士[6][7]、カタルーニャ文学の祖[6][7]、魔術師[7]などという二つ名がつけられている。

リュイはその著書の中で、聖書、クルアーンタルムードプラトンアリストテレスディオニュシオス・ホ・アレオパギテスアエギディウス・ロマヌス英語版サン=ヴィクトルのリカルドゥス英語版カンタベリーのアンセルムスなどを引用している[28]ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』、アウグスティヌスの『三位一体論』、トマス・アクィナスの『対異教徒大全』などの教会博士も引用している[28]イブン・スィーナー(アヴィセンナ)、マテウス・プラテアリウス英語版コンスタンティヌス・アフリカヌスなどの意見を批判している[28]

リュイはドミニコ会の神学者であるアクィナス(1225年頃-1274年)より約10歳若い[29]。活動内容や影響力の点でリュイはアクィナスと遜色ないとされる[29]。リュイもアクィナスも聖書や教父の写本に精通し、イスラーム思潮やアリストテレス哲学などに影響を受けながらもそれらと思想を異にしていた点で共通している[29]。リュイは中世キリスト教思想と近代思想の橋渡し役となったとされる[30]。さらには、キリスト教思想とイスラーム教やユダヤ教などの異教思想の対話において先駆的な役割を果たしたとされる[30]

死後の1376年、カトリックの尋問官であるニコラウス・エイメリクス英語版はリュイによる100の理論や思想を考え違いであるとして非難した。同じく1376年には、ローマ教皇グレゴリウス11世が公式にリュイの20の著作を非難し[31]、やがてローマ教皇パウロ4世がグレゴリウス11世による非難を追認した[32]。一方で、1416年にはローマ教皇マルティヌス5世がグレゴリウス11世による非難を撤回した[31]。このように死後にローマ教皇による非難は受けたものの、生前のリュイはカトリック教会と良好な関係を保った。フランシスコ会においてリュイは殉教者とされており、1857年にはローマ教皇ピウス9世によって列福された[33]。リュイの祝祭日は6月30日であり、フランシスコ会第三会によって祝われている[33]

影響

ライプニッツ

14世紀前半にはパリやバレンシアなどでリュイの信奉者が学派を形成した[34][35]。特にリュイが4度滞在したパリでは、講義を聴講したパリ大学の学生が中心となってリュイの思想の伝承に務め、聴講生のトマ・ル・ミエジェは『リュイ選集』や『小約格言集』を刊行した[35]。15世紀にはヨーロッパ全土にリュイの思想が伝わり[35]、カタルーニャ地方、マヨルカ島、イタリア、フランス、ドイツなどにリュイ信奉者の学派が広がっていった[34]。16世紀後半にはスペイン国王のフェリペ2世がリュイの著作物を収集して各地の図書館で保管することに努めた[36]。フェリペ2世は神学者や修道者などにスペイン国内で活動することを求め、16世紀のスペインでは神秘霊性が活性化された[36]。イエズス会の創立者であるイグナチオ・デ・ロヨラ(1491年-1556年)、神秘家で修道院改革者のアビラのテレサ(1515年-1582年)、同じく神秘家で修道院改革者の十字架のヨハネ(1542年-1591年)などが活躍したが、いずれの人物にもリュイの思想に影響されている[36]

17世紀後半には哲学者や数学者であったゴットフリート・ライプニッツがリュイの「術」やリュイ主義者の「記憶術」を洗練させた[37]。ライプニッツのおかげでリュイに対する関心が再度高まったとされる[30]。19世紀から20世紀になると、リュイの思想は「神秘的な魔術」としての地位に落ち込み、オカルティズム神智学秘密結社などが用いる道具となった[38]。しかし、現代になると再びリュイに対する関心が強まり、数理論理学象徴記号学図像学などの分野でリュイの再評価が始まった[38]。1957年にはリュイの思想を専門とする雑誌「ルルス研究」が刊行され、1960年、1976年、1984年にはリュイの思想を主題とする国際学会が開催された[30]。リュイの出生地であるマヨルカ島にはマヨルカ・リュイ学院が、ドイツのフライブルクにはラモン・リュイ研究所が設立され、それぞれリュイの思想を探求している[30]

特にバルセロナ大学バレンシア大学などでリュイの思想の普及が行われている。リュイはもっとも大きな影響力を持つカタルーニャの著作家とされている。英語が「シェイクスピアの言語」、フランス語が「モリエールの言語」、スペイン語が「セルバンテスの言語」、ドイツ語が「ゲーテの言語」と呼ばれることがあるように、カタルーニャ語はしばしば「リュイの言語」と呼ばれる。スペインの科学研究高等評議会英語版はロゴマークにリュイの『学問の樹』を採用している。カタルーニャ語やカタルーニャ文化を世界に発信する公的機関として、2002年にはインスティトゥット・ラモン・リュイ英語版が設立された。スペイン語におけるインスティテュート・セルバンテス(セルバンテス文化センター)、フランス語におけるアリアンス・フランセーズ、英語におけるブリティッシュ・カウンシル、イタリア語におけるダンテ・アリギエーリ協会、ドイツ語におけるゲーテ・インスティトゥートなどと同様の役割を持っている。

リュイの思想の継承者

リュイに影響を受けた人物

反リュイ主義者

著作

リュイはラテン語カタルーニャ語アラビア語などで著作を残した[26][25]。真正な著作265、擬書(仮託文書)400がリュイの作品として伝わっている[25]。当時はラテン語で著作を執筆することが慣例であったが[25]、リュイは大多数をカタルーニャ語で執筆した[21]。ラテン語以外の言語を用いた中世初のキリスト教的哲学者であるとされ[19]ダンテ・アリギエーリ(1265年-1321年、イタリア語)やマイスター・エックハルト(1260年頃-1328年頃、ドイツ語)に先んじ[21]、自言語を使用する著述家の先駆けとなった[25]。宣教相手であるイスラーム教徒の言語(アラビア語)でも執筆したことも特筆される[25]

1276年から1278年にマヨルカ島で著した『愛する者と愛された者についての書』は、「リュイの神秘主義のみならず全哲学が要約されている」と評価され、数多くの言語に翻訳されている[41]。文学的著作の中でもよく知られた『エヴァストとアローマとブランケルナについての書英語版』(『ブランケルナ』)は教育論的説話である[41]。アラビア語の著作は散逸しており、一作も現存しない[21][13]

代表的著作

『学問の樹』(1505年刊行版)

著名なリュイ研究者(ルリスタ)であるトマス・カレーラス・イ・アルタウ英語版は、リュイの著作を10の分野に分類している[26]。詳しくはカタルーニャ語版にあるリュイの著作一覧を参照。

  • 自然学的著作
  • 神学的・護教的著作
    • 『異教徒と三賢人についての書』1274-1276年[26][42]
    • 『神の術』1308年[26][42]
  • 対アヴェロエス主義的著作
    • 『対話によるライムンドゥスの言明あるいはボエティウスとシゲルスの誤謬駁論』1298年[26][42]
  • 神秘主義的著作
  • 教育学的著作
    • 『騎士道論』1275年[42]
    • 『児童のための公教要理』1282-1287年[26][42]
    • 『教育的格言集』1309年[26][42]
  • 十字軍と宣教に関する著作
    • 『目的についての書』1305年[26][42]
  • 韻文による著作
    • 『聖母マリアの嘆き』1276-1285年[26][42]

ラモン・リュイ大学

ラモン・リュイ大学
Universitat Ramon Llull
哲学部の建物
モットー Ser i saber
種別 私立(カトリック)
設立年 1990年3月1日
学長 ジュゼップ・M・ガレイ・イ・ギウ(2014-15)
学生総数 18,519人(2014-15)
所在地 スペインの旗
バルセロナ
キャンパス 都市型
公式サイト [3]
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ラモン・リュイ大学カタルーニャ語: Universitat Ramon Llull: URL)は、スペインカタルーニャ州バルセロナ県バルセロナに拠点を置く私立大学カトリック大学)。1990年創設。7つの異なるカレッジの集合体であり、その多くはバルセロナのダウンタウンに位置する。

大学の母体

大学の名称は13世紀に活躍した哲学者・著述家のラモン・リュイに因んでいる。1989年10月に4つの教育機関が集まって、1990年3月1日にラモン・リュイ大学が設立され、1991年5月10日にカタルーニャ州議会によって承認された。その後複数の教育機関が加わっている。

設立時の4教育機関
後から加わった教育機関

大学の学部

  • 哲学部
  • ブランケルナ心理・科学教育・スポーツ学部
  • ブランケルナ情報・国際関係学部
  • ブランケルナ健康科学部
  • パレ・タレス社会教育・社会労働学部
  • サン・イグナシオ観光・ホテル経営学部
  • ラ・サリェ通信技術工学大学学校
  • ラ・サリェ情報電子工学高等工科学校
  • ラ・サリェ建築高等工科学校
  • ESDiデザイン学校英語版
  • ESADEビジネススクール
  • ESADEロースクール
  • IQS工学学校
  • IQS経営学校

脚注

  1. ^ a b c 1998年に刊行された『ルートリッジ哲学百科辞典』はリュイを1232年生まれとしているが、少なくとも1955年までの版の『ブリタニカ百科事典』は1235年生まれとしている。今日の『ブリタニカ百科事典』は1232年または1233年生まれとしている。『後期スコラ学』は「1233年(1232年の説もある)マリョルカ島に生まれた」としている。
  2. ^ a b 1315年6月29日を死去日とするのが旧来の定説である。上智大学中世思想研究所(編)『後期スコラ学』(1998年)は「1315年(1316年説もある)帰郷後すぐにそれがもとで歿したと言われる」としている。上智大学中世思想研究所(編)『中世と近世のあいだ』(2007年)は没年について「1315年/1316年」としている。
  3. ^ 阿部仲麻呂「ライムンドゥス・ルルスの思想と可能性」(2007年)は北アフリカのチュニスでの宣教中に死去したとしている。
  4. ^ 上智大学中世思想研究所 2007, p. 25.
  5. ^ Tisdall, Nigel (2003). Mallorca. Thomas Cook Publisher. p. 40. ISBN 9781841573274 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 上智大学中世思想研究所 1998, p. 30.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 阿部 2007, p. 90.
  8. ^ The History of Philosophy, Vol. IV: Modern Philosophy: From Descartes to Leibniz by Frederick C. Copleston (1958)
  9. ^ Anthony Bonner (2007), The art and logic of Ramon Llull, Brill Academic Pub, p. 290, ISBN 978-90-04-16325-6, https://books.google.com/books?id=tlH7yaAQHEoC&pg=PA290#v=onepage&q&f=false 
  10. ^ Donald Knuth (2006), The Art of Computer Programming: Generating all trees, 4-4, Addison-Wesley Professional, p. 56, ISBN 978-0-321-33570-8 
  11. ^ History of Majorca”. Majorcan Villas. 2016年3月1日閲覧。
  12. ^ Majorca, a modern city with a rich history”. Majorca.com. 2016年3月1日閲覧。
  13. ^ a b 上智大学中世思想研究所 1998, p. 37.
  14. ^ a b c d e 阿部 2007, p. 93.
  15. ^ a b c d e f g h 上智大学中世思想研究所 1998, p. 26.
  16. ^ Bonner, "Historical Background and Life" (an annotated Vita coaetanea) at 10-11, in Bonner (ed.), Doctor Illuminatus (1985).
  17. ^ a b c d 中村 2006.
  18. ^ a b c d e f g h 阿部 2007, p. 94.
  19. ^ a b c d e 野村 1980, p. 85.
  20. ^ a b c d e f g h i j 阿部 2007, p. 95.
  21. ^ a b c d e f 野村 1980, p. 86.
  22. ^ a b c d e f 上智大学中世思想研究所 1998, p. 27.
  23. ^ a b c d e f g 阿部 2007, p. 96.
  24. ^ Libre de Contemplacio 287.9, 2:887 in The friars and the Jews: the evolution of medieval anti-Judaism. Cohen, Jeremy. Cornell University Press, c. 1982. see chapter: "The Ideology in Perspective: Raymond Lull", esp. pp. 222-225.
  25. ^ a b c d e f g h i 阿部 2007, p. 97.
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 上智大学中世思想研究所 1998, p. 28.
  27. ^ 阿部 2007, p. 92.
  28. ^ a b c 上智大学中世思想研究所 1998, pp. 31–32.
  29. ^ a b c 阿部 2007, p. 91.
  30. ^ a b c d e 上智大学中世思想研究所 2007, pp. 25–26.
  31. ^ a b Dictionary of World Biography, edited by Frank N. Magill and Alison Aves, page 610 | [1]
  32. ^ Turner, William. "Raymond Lully." The Catholic Encyclopedia. Vol. 12. New York: Robert Appleton Company, 1911. 5 Dec. 2013 [2]
  33. ^ a b Habig, Marion. (Ed.). (1959). The Franciscan Book Of Saints. Franciscan Herald Press.
  34. ^ a b 上智大学中世思想研究所 1998, p. 32.
  35. ^ a b c 阿部 2007, p. 114.
  36. ^ a b c 阿部 2007, p. 115.
  37. ^ 阿部 2007, p. 117.
  38. ^ a b 阿部 2007, p. 119.
  39. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 上智大学中世思想研究所 1998.
  40. ^ a b c d e f g h 阿部 2007.
  41. ^ a b 上智大学中世思想研究所 1998, p. 34.
  42. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 阿部 2007, pp. 97–103.
  43. ^ a b c d e f g h i j k 野村 1980, p. 87.

文献

参考文献

  • エーコ, ウンベルト『完全言語の探求』上村 忠男, 広石 正和(訳)、平凡社、1995年。ISBN 978-4582476316 
  • 坂口, 昴吉、前川, 登、福田, 誠二『フランシスコ会学派(下) ボナベントゥラからベルナルディノ』阿部仲麻呂「ライムンドゥス・ルルスの思想と可能性」, pp.90-126, 東京フランシスカン研究所(監修)、聖母の騎士社〈フランシスカン研究 3〉、2007年。 
  • 沢田, 直 (1994-07), “ラモン・リュイと地中海思想”, 現代思想 (青土社) 22 (7): 288-319 
  • 沢田, 直 (1995-06), “アルス・マグナ ラモン・リュイの発見術”, 現代思想 (青土社) 23 (6): 244-262 
  • 『中世の教育思想(下)』野村銑一「ライムンドゥス・ルルス」, pp.201-224、東洋館出版社〈教育思想史4〉、1985年。 
  • 『後期スコラ学』「愛する者と愛された者についての書 解説」, pp.26-38、平凡社〈中世思想原典集成 18〉、1998年。 
  • 『中世と近世のあいだ』R・ロペス・シロニス「ルルスの思想と近代」, pp.25-51、知泉書館〈中世研究 第12号〉、2007年。 
  • 中村, 敏『世界宣教の歴史-エルサレムから地の果てまで』いのちのことば社、1995年。ISBN 4264024226 
  • 野村, 銑一 (1978), “Ramon Llullの神秘思想についての一考察(1)”, 倫理学年報 (日本倫理学会) (27): 3-16 
  • 野村, 銑一 (1980), “Ramon Llullの神秘思想についての一考察(2)”, 倫理学年報 (日本倫理学会) (29): 3-14 
  • 野村, 銑一 (1980), “ルルスの神秘思想 神・人間・世界”, 理想 (理想社) (565): 85-95 
  • ジルソン, エティエンヌ『中世哲学史 復刻第1刷』渡辺秀(訳), 「第十章 ライムンドゥス・ルルスとドゥンス・スコトゥス」、エンデルレ書店、1978年。 

その他の文献

外部リンク