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「カール1世 (オーストリア皇帝)」の版間の差分

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'''カール1世'''({{Lang-de|Karl I.}}、[[1887年]][[8月17日]] - [[1922年]][[4月1日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]最後の[[オーストリア皇帝]]および[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[ハンガリー国王一覧|国王]](在位:[[1916年]][[11月21日]] - [[1918年]][[11月12日]])。ハンガリー国王としては'''カーロイ4世'''({{Lang-hu|IV. Károly}})。オーストリア帝国内ベーメン国王としては'''カレル3世'''({{Lang-cs|Karel III.}})。全名は'''カール・フランツ・ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フーベルト・ゲオルク・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''(ドイツ語:Karl Franz Joseph Ludwig Hubert Georg Maria von Habsburg-Lothringen)
'''カール1世'''({{Lang-de|Karl I.}}、[[1887年]][[8月17日]] - [[1922年]][[4月1日]])は、最後の[[オーストリア皇帝]]および[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[ハンガリー国王一覧|国王]](在位:[[1916年]][[11月21日]] - [[1918年]][[11月12日]])。ハンガリー国王としては'''カーロイ4世'''({{Lang-hu|IV. Károly}})。オーストリア帝国内ベーメン国王としては'''カレル3世'''({{Lang-cs|Karel III.}})。

大伯父[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の後継者として[[オーストリア=ハンガリー帝国]]を統治した。[[第一次世界大戦]]に敗戦したことを受けて「国事不関与」を宣言したが、自身の退位は認めなかった。皇室財産をほとんど共和国政府に没収された後、2度にわたって[[カール1世の復帰運動]]を企てたが失敗し、[[ポルトガル]]領[[マデイラ島]]に流されて困窮の中で病死した。

[[カトリック教会]]への篤い信仰心を持ち、[[フランス]]首相[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]からは「[[中欧]]における教皇」と、時の[[ローマ教皇]][[ベネディクト15世]]からは「私のお気に入りの子」と呼ばれ、[[20世紀]]の[[国家元首]]として初めて[[福者]]に認定された。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[File:Zitawed.jpg|thumb|left|200px|ツィタ・フォン・ブルボン=パルマとの結婚式。]]
[[File:Persenbeug, Lower Austria, Austro-Hungary-LCCN2002708373.jpg|thumb|left|210px|[[1895年]]頃の{{仮リンク|ベルゼンボイク城|de|Schloss Persenbeug}}。]]
1887年、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]の皇族[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ・ヨーゼフ大公]]と[[ザクセン王国|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|国王]][[ゲオルク (ザクセン王)|ゲオルク]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン|マリア・ヨーゼファ]]の長男として、ドナウ河畔の{{仮リンク|ベルゼンボイク城|de|Schloss Persenbeug}}に生まれる。祖父[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ大公]]は[[フランツ・カール・フォン・エスターライヒ|フランツ・カール大公]]の三男で、皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]および[[メキシコ帝国|メキシコ皇帝]][[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]の弟に当たる。領土であるヴァルトホイツや父オットー・フランツ大公が司令官を務めていた[[プラハ]]で、とくに母の寵愛を受けて育った。
[[1887年]][[8月17日]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の皇族[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ大公]]と[[ザクセン王国|ザクセン]]国王[[ゲオルク (ザクセン王)|ゲオルク]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン|マリア・ヨーゼファ]]の長男として、[[ドナウ川]]の河畔に位置する{{仮リンク|ベルゼンボイク城|de|Schloss Persenbeug}}に生まれる。


皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥で位継承者に指名されていた伯父の[[フランツフェナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツフェナント大公]]は、[[ボヘミア王国|ベメン]]伯爵令嬢[[ゾフィー・ホテク]]と結婚したため、[[貴賤結婚]]を認めない[[ハプスブク家]]の家法により、その子孫の皇位継承権をすでに放棄していた。そのため、フランツ・フェディナント大公に次ぐ皇位継承権者は、その甥であカールされていた。
当時は、皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]長男[[ルドルフ (オーストリア太子)|ルドルフ皇太子]]や皇帝[[カール・ルートヴ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴ大公]](カ祖父)が存命であり、誕生した新大公カーは帝位継承とはかけ離れた存在だっ<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.89"> グリセール=ペカール(1994) p.89</ref>。そのため、カー誕生のニュースは、宮廷に関す他の記事いっしょに報告されたに過ぎなかった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.89"/>


1911年に[[ブルボン家]]の支流ある[[パマ公一覧|パマ公]][[ロベルト1世 (パルマ)|ロベルト1世]][[ツィ・フォン・ブルボンパルマ|ツィ]]と結婚した。フランツ・フェルディナント大公の貴賤結婚落胆しいたフランツ・ヨーゼ1世はカールの結婚を歓迎し、長男[[オットー・フ・ハプスブルク|オット]]が生まれた際は随喜涙を流したという
[[1889年]]1月30日、2歳に満たないときに「マイヤーリンク事件」でルドルフ皇太子が謎死を遂げた。皇位継承者はしばらく決定されなかったが、皇帝の弟カーヴィヒ大かそ長男[[フラン・フェルデナント・フォン・エスターライヒエステ|フラン・フェルデナント大公]]のどちらかだ目されていた。将来フランツ・フェルディナント大公が身分相応女性との間男児を儲けることが当然視されおり、フランツ・フディナント大公オットー・フツ大公とその息子カルの出番はないと考えらてい。ルドルフ皇太子死後も、依然とてカールの立場には変化がなかっのである


=== 少年期 ===
カールは早くから軍務に就き、オーストリア[[陸軍少将]]まで昇進した。表面的には平穏な日常が続いていたが、[[1914年]]に[[サラエボ事件]]でフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されると、正式に皇位継承者に指名される。
[[File:Otto Franz Austria Maria Josepha.jpg|thumb|left|210px|[[1900年]]頃のオットー・フランツ大公一家の写真。左下の少年がカール。母に抱かれているのは弟[[マクシミリアン・オイゲン・フォン・エスターライヒ|マクシミリアン・オイゲン]]。]]
一家の領地である{{仮リンク|ヴィラ・ヴァルトホルツ|en|Villa Wartholz}}や父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていた[[プラハ]]で、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずに[[ホテル・ザッハー]]のロビーを横切るという事件を起こしたこともあった<ref>ホフマン(2014) p.280</ref>。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。


[[ドミニコ会]]士のNorbert Geggerleによって宗教教育が開始され、のちにGottfried Marshall司教が担当を交代した。この宗教教育によってカールは、[[ローマ・カトリック教会]]への篤い信仰心を持つようになった。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの[[聖母マリア]]の聖堂に行くのを好んだ。ある日、{{仮リンク|ライヒェナウ|en|Reichenau an der Rax}}の領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、[[神の母]]を傷つけたという思いで泣き出してしまったという。
=== 即位 ===
[[File:Kroenung Budapest Karl und Zita 1916a.jpg|thumb|left|200px|1916年に執り行われたカール1世の戴冠式。皇后ツィタ、皇太子オットーとともに。]]
[[1916年]]、[[第一次世界大戦]]中にフランツ・ヨーゼフ1世が86歳で崩御し、カールは29歳で皇帝に即位する。[[1917年]]2月に[[独墺同盟|同盟国]]の[[ドイツ帝国|ドイツ]]より[[元帥 (ドイツ)|ドイツ元帥]]の称号を贈られた。


[[1896年]]、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢[[ゾフィー・ホテク]]と恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで[[1900年]]に[[貴賤結婚]]した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。
フランツ・ヨーゼフ1世の崩御後、オーストリアは急速に戦争終結を志向し始めた。カール1世の第一の関心事は、できる限り好条件で大戦から手を引くことだった。早急に講和を達成することを決意したが、しかし依然として勝利を望んでいたドイツの将校たちの頑強な反対に遭った。オーストリアでは、[[君主制]]だけでも救いうる、時機を得た講和を妨げたドイツに対する怒りが増大した。


[[1903年]]、16歳のときに帝国陸軍に入隊して[[大佐]]となり、同時に[[金羊毛騎士団]]に入団した。この騎士団の団員はどこにいても毎日[[ミサ]]に参加できる特権があり、カールはこれを気に入っていた。カールは、彼らの中で自分の信仰についてためらうことなく公言したという。[[1906年]]、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。
=== 協商国との和平交渉 ===
ウィーン宮廷は、ドイツからの分離と協商国との単独講和を考慮し始めた。ハンガリーの外交官やクロアチアの将軍からも皇帝に対して同様の勧告があった。また、ツィタ皇后の一族、すなわち[[フランス]]の伝統の中で教育を受け、ドイツに対して憎しみの感情を抱いている[[ブルボン・パルマ家]]の人々も、オーストリアの単独講和を熱望していた<ref>バウアー(1989) P.88</ref>。カール1世自身の気持ちも、ツィタと結婚していたことから、ドイツではなくフランスおよびイタリアと結びついていた<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.116</ref>。


=== パルマ公女ツィタとの結婚 ===
1917年、皇后の兄であり[[ベルギー]]軍の将校でもあった[[シスト・ディ・ボルボーネ=パルマ|パルマ公子シクストゥス]]を通して、秘密裏に[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側との平和交渉に着手した。シクストゥス公子と弟の[[サヴェリオ・ディ・ボルボーネ=パルマ|グザヴィエ公子]]は、[[フランス第三共和政|フランス共和国]]との単独講和について秘密交渉によってフランス大統領[[レイモン・ポアンカレ]]と合意を得た。しかし1918年4月に独墺間の離反を謀ったフランス首相[[ジョルジュ・クレマンソー]]によって暴露され、交渉は水泡に帰す。これで同盟国だったドイツの信用も失う結果となった。また、オーストリア国内においても、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった<ref>バウアー(1989) P.89</ref>。
[[File:Hochzeit Erzh Karl und Zita Schwarzau 1911c.jpg|thumb|right|300px|[[1911年]][[10月21日]]、[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]公女との結婚式。写真右側の老人は皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]。この日、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]と[[ブルボン=パルマ家]]のほとんどの人々が一堂に会した<ref name="江村(2013) p.388"> 江村(2013) p.388</ref>。]]
[[マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル]]の用意周到な計画によって、[[1909年]]に[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]と出会う<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.53"> グリセール=ペカール(1994) p.53</ref>。マリア・テレサは亡き祖父カール・ルートヴィヒ大公の3度目の妻で、すなわちカールの義理の祖母にあたり<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.54"> グリセール=ペカール(1994) p.54</ref>、さらにツィタにとっては母の妹であった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.53"/>。カールとツィタは幼少期に何度か会ってはいるが、まともに顔を合わせたのはこの時が初めてだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.54"/>。カールとツィタはこれ以降、宮廷内のほとんどの人間に気付かれることなく親密な交際をするようになった。


将来の皇帝となるであろうカールに、フランツ・ヨーゼフ1世は自身の孫娘[[エリーザベト・フランツィスカ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ|エリーザベト・フランツィスカ]]を嫁がせようと考えたが、血縁関係が近すぎることを心配するカールの母マリア・ヨーゼファの反対に遭った<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.60"> グリセール=ペカール(1994) p.60</ref>。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、今度は[[オルレアン家]]の血を引く[[デンマーク]]王女[[マルグレーテ・ア・ダンマーク (1895-1992)|マルグレーテ]]をカールと結婚させようと考えた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.60"/>。
=== 大戦末期 ===

[[1918年]]、[[中央同盟国|同盟国]]側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反([[チェコスロバキア]]、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]などが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カール1世は帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。10月12日、帝室の保養地[[バーデン]]にすべての民族の32名の代議士を招いた。「諸民族内閣」を発足させようとしたのであるが、しかし[[チェコ人]]と[[南スラヴ]]人は「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と答えた<ref>バウアー(1989) P.112</ref>。ウィーン宮廷は、[[ボヘミア]]、[[クロアチア]]、[[ガリツィア]]などで暴動が公然と準備されているのを見た。カール1世はこれを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した<ref>バウアー(1989) P.113</ref>。
[[1910年]]秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.61"> グリセール=ペカール(1994) p.61</ref>。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.61"/>。[[1911年]]5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.62"> グリセール=ペカール(1994) p.62</ref>。しかし旧[[パルマ公国]]の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.62"/>。

[[1911年]][[10月21日]]、{{仮リンク|シュヴァルツアウ|de|Schwarzau am Steinfeld}}の城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はよほど嬉しかったとみえて、異例なことにカメラマンの注文にも喜んで応えた<ref name="江村(2013) p.388"/>。翌[[1912年]][[11月20日]]、長男[[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]が誕生する。

=== 第一次世界大戦、勃発 ===
[[File:Prestolonaslednik Karel na tirolski fronti.jpg|thumb|right|230px|[[チロル]]前線を視察するカール。(1915年)]]
[[File:Bosniaks in Italy 1915.jpg|thumb|right|230px|[[イゾンツォ川]]前線の[[ボスニア]]人部隊を視察するカール。(1915年)]]
表面的には平穏な日常が続いていたが、[[1914年]][[6月28日]]、[[サラエボ事件]]で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、[[第一次世界大戦]]が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.96"> グリセール=ペカール(1994) p.96</ref>。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.96"/>。

やがてカールのもとには時のローマ教皇[[ピウス10世]]からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが、しかし当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。[[セルビア王国]]への[[オーストリア最後通牒|最後通牒]]についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.105"> グリセール=ペカール(1994) p.105</ref>。カールは新たな皇位継承者になったにも関わらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.105"/>。

参謀本部長[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]は、開戦後もカールに活躍の場を与えようとしなかった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.113"> グリセール=ペカール(1994) p.113</ref>。カールの日程は歓迎会、謁見、練兵場への訪問などの実働を伴わない公務で埋められていたが、[[1915年]]7月にようやく皇帝の側近に任命され、決済の済んだ報告書を見せられるようになった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.113"/>。カールはオーストリア首相とハンガリー首相から政治の講義を受けるようになったが、この生活は長続きしなかった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.114"> グリセール=ペカール(1994) p.114</ref>。若い大公を側近から外すよう求める声に、フランツ・ヨーゼフ1世が屈してしまったのである<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.114"/>。そしてカールは新設のイタリア第20部隊に派遣されることになった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.114"/>。

[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]においてカールは、[[イゾンツォの戦い]]の際に、皇位継承者でありながら自ら水中に飛び込んで川に溺れかけた男を助けた。また、従軍司祭であったロドルフォ・スピッツルによれば、アシエロへの過酷な行軍の中で、傷のために歩行不可能となった兵士を助けるためにとりなしたという。

=== 老帝の崩御、即位 ===
[[File:Funeral Procession for Emperor Franz Josef 1916.jpg |thumb|right|300px|[[カプツィーナー納骨堂]]へのフランツ・ヨーゼフ1世の葬送行列のなかの新皇帝「'''カール1世'''」。従来は故皇帝の棺の後ろに立つのは新皇帝のみで、その後に大公・皇后という順序であったが、カールは慣例化した様式を廃止し、皇后ツィタ・皇太子オットーと並んだ<ref>グリセール=ペカール(1994) p.125</ref>。]]
[[1916年]]11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.120"> グリセール=ペカール(1994) p.120</ref>。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながらこう語ったとされる<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.120"/>。「朕は、多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった……」。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールはオーストリア皇帝「'''カール1世'''」と呼ばれることとなった。

新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.127"> グリセール=ペカール(1994) p.127</ref>。[[ハンガリー人]]の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた[[燕尾服]]の着用を不要とするなどした<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.127"/>。侍従武官{{仮リンク|アルバート・マルグッティ|de|Albert von Margutti}}はカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.128"> グリセール=ペカール(1994) p.128</ref>。

先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.128"/>。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.128"/>。

1916年12月30日、カールはハンガリー国王「'''カーロイ4世'''」として即位することとなった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.139"> グリセール=ペカール(1994) p.139</ref>。[[聖イシュトヴァーンの王冠]]を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にも関わらず荘厳華麗な即位式がブダペストの[[マーチャーシュ聖堂]]で挙行された<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.139"/>。この即位式においてカールはこう宣誓した。「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.146"> グリセール=ペカール(1994) p.146</ref>。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.146"/>。

{{Gallery
|File:Karloath.jpg|[[マーチャーシュ聖堂]]で挙行された、ハンガリー国王「'''カーロイ4世'''」としての即位の宣誓。
|File:Kroenung Budapest Karl und Zita 1916a.jpg|ハンガリー国王・王妃・王太子となったカール・ツィタ・オットー。
}}

=== ジクストゥス事件 ===
[[1917年]]3月23日夜、カールは{{仮リンク|ラクセンブルク城|en|Laxenburg castles}}において、皇后ツィタの二人の兄[[シスト・ディ・ボルボーネ=パルマ|パルマ公子ジクストゥス]]と[[サヴェリオ・ディ・ボルボーネ=パルマ|グザヴィエ公子]]と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利のみを追求する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏の単独講和を締結するためであった。ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。

カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.160"> グリセール=ペカール(1994) p.160</ref>、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.160"/>。戦争を終わらせたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らに渡したこの時の手紙が、のちにヨーロッパ中を騒然とさせることになる<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.158"> グリセール=ペカール(1994) p.158</ref>。

*ドイツ帝国によるフランスへの[[アルザス・ロレーヌ]]地方返還の支援
*ベルギー復興の支援
*[[アドリア海]]への通行権を伴った[[セルビア王国]]の独立の保証
*ロシア皇帝[[ニコライ2世]]退位後の[[サンクトペテルブルク]]の状況が明確になった時点での、[[コンスタンティノープル]]のロシアへの割譲の賛成

といった内容であり、さらに手紙には次のように明記してあった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.158"/>。
{{Quotation|朕はジクストゥスを通して、フランス大統領[[レイモン・ポアンカレ]]氏に内密に通告する。同盟国の皇帝として、アルザス・ロレーヌ地域のフランスへの返還は正当であると認め、あらゆる手段を行使して、これを支援する考えである。}}

フランス政府は、パルマ公子を仲介としてのオーストリア=ハンガリー帝国との講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.163"> グリセール=ペカール(1994) p.163</ref>。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.163"/>。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.163"/>。つまり、この単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。

しかし、1918年にフランス首相[[クレマンソー]]がこの秘密交渉を暴露してしまった。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.182"> グリセール=ペカール(1994) p.182</ref>、次にその手紙の存在を認め、「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言ってしまった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.182"/>。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し<ref name="バウアー(1989) P.89"> バウアー(1989) P.89</ref>、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ったことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった<ref name="バウアー(1989) P.89"/>。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家の[[プロパガンダ]]も広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つ[[ブルボン=パルマ家]]出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。

=== 帝国諸民族の離反 ===
[[1918年]]、[[中央同盟国|同盟国]]側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反([[チェコスロバキア]]、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]などが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カール1世は帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。10月12日、帝室の保養地[[バーデン]]にすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかし[[チェコ人]]と[[南スラヴ]]人は「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と答えた<ref>バウアー(1989) P.112</ref>。[[ボヘミア]]、[[クロアチア]]、[[ガリツィア]]などで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した<ref>バウアー(1989) P.113</ref>。
{{Quotation|オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。}}
{{Quotation|オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。}}
カール1世にはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けて[[ハンガリー王国]]議会では、[[1867年]]の[[アウスグライヒ]]の前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された<ref>バウアー(1989) P.129</ref>。
カールにはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けて[[ハンガリー王国]]議会では、[[1867年]]の[[アウスグライヒ]]の前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された<ref>バウアー(1989) P.129</ref>。11月3日、カールは正式に帝国連邦化を宣言し、同日イタリア王国と[[ヴィラ・ジュスティ休戦協定]]を結び無条件降伏した


=== 「国事不関与」の宣言 ===
11月3日、カール1世は正式に帝国連邦化を宣言し、同日[[イタリア王国|イタリア]]と[[ヴィラ・ジュスティ休戦協定]]を結び無条件降伏した。11月9日、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退位を宣言した。その直後ドイツでは[[ドイツ社会民主党]]の主導する政権が誕生したことを受けて、[[オーストリア社会民主党]]はカール1世の退位を要求し始めた<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.131</ref>。11月11日、[[シェーンブルン宮殿]]内の「青磁の間」において、カール1世は次の宣言を発した。
[[File:Verzichtserklärung Karl I. 11.11.1918.jpg|thumb|right|210px|[[シェーンブルン宮殿]]で署名したオーストリア版「国事不関与」の文書。]]
{{Quotation|すべての人民への変わらぬ親愛の情をもって、今ここに宣する。朕は自らが人民の自由な発展に対する障碍になることを欲せず。人民は、その代表者を通じて政府を継承した。朕は国事への一切の関与を放棄することを宣する。}}
[[File:Eckartsaui nyilatkozat.jpg|thumb|right|210px|{{仮リンク|エッカルトザウ宮殿|de|Schloss Eckartsau}}で署名したハンガリー版「国事不関与」の文書。]]
これは社会福祉相[[イグナーツ・ザイペル]]の起草したものであり、いわゆる「国事不関与宣言」である。この後、カール1世は家族とともにウィーン郊外の{{仮リンク|エッカルトザウ城|de|Schloss Eckartsau}}へと移った。同日、国家評議会において、共和国と同時にドイツとの[[アンシュルス|合邦]]を公布すべきであるとする動議が多数決によって採択された。[[普墺戦争]]以来のハプスブルク家とホーエンツォレルン家の争いは、オーストリアをドイツから引き離したが、敗戦によって両家がともに君主の座を追われると、[[大ドイツ主義]]的な統一思想が急速に息を吹き返したのである<ref>バウアー(1989) p.151</ref>。
11月9日、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退位を宣言した。その直後ドイツでは[[ドイツ社会民主党]]の主導する政権が誕生したことを受けて、[[オーストリア社会民主党]]はカール1世の退位を要求し始めた<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.131</ref>。{{仮リンク|キリスト教社会党 (オーストリア)|label=キリスト教社会党|de|Christlichsoziale Partei (Österreich)}}は王党派であったが、彼らも最終的には皇帝退位に同意した。


11月11日午後3時、[[シェーンブルン宮殿]]内の「青磁の間」において、カール1世は次の声明文に署名した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.226"> グリセール=ペカール(1994) p.226</ref>。
なお、カール1世はあくまで国事への不関与を宣言しただけであって、正式にはけっして退位を宣言しなかった<ref>リケット(1995) p.128</ref>。要求された正式な帝位放棄をカール1世は拒絶し、3月23日、[[イギリス]]の保護のもとで[[スイス]]へ亡命した。民族議会は、このカール1世の決意を受けて、オーストリア国内のハプスブルク家の全員に国外退去を命令し、ハプスブルク家の財産を戦傷者のためにすべて没収することを決めた。これらの対処は1919年4月2日に法律で定められた<ref>バウアー(1989) p.185</ref>。(ただし、民間人として生きることに同意した者は別だった。同意した者は引き続きオーストリアに住むことができた<ref>リケット(1995) p.128</ref>。)


{{Quotation|今般の戦争責任は朕の負うところではないが、帝位継承以来、忌まわしい戦禍から国民を救出すべく不断の努力を重ねてきたつもりである。国民が憲法に則った国民生活を確立し、独立国家発展への道を開拓することに対して、これを阻止する考えはない。わが国民を愛する心に変わりはなく、自由にはばたかんとする国民の前途に、朕自身が障害となることは本望ではない。朕はドイツ系オーストリア暫定政府が決定した今後の国家体制を以前から承認してきた。
=== 復権運動、マデイラ島への亡命 ===
国民は今後、政府代表者の手に委ねられよう。'''朕はすべての国事行為の遂行を断念するとともに、現内閣の解散をここに宣言する。'''
こうして、700年余りに及ぶハプスブルク家のオーストリア支配が終焉を迎えた。その後、1921年に[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]における主権を取り戻そうとした([[カール1世の復帰運動]])が失敗し、「冒険はもちろんのこと、政治活動すらしない」という約束を反故にしたことによって、スイス当局からは亡命の延長を拒否された。そこで各国に問い合わせた結果、[[ポルトガル第一共和政|ポルトガル]]がカール1世を受け入れてくれる唯一の国だった<ref>リケット(1995) p.129</ref>。大西洋のポルトガル領[[マデイラ諸島|マデイラ島]]にイギリスのモニトル艦で送られ、翌1922年4月1日に[[肺炎]]のため死去した。享年35歳。マデイラ島での生活は、満足に食事も採れないほど貧しいものだったという。ツィタ皇后は、財政的な困窮から医者を呼ぶことをためらい、それが肺炎を悪化させてカール1世の死の原因となった。
国民が一致融和の精神のもとに、新体制を確立していくことを切に望む。
国民の至福が、朕の当初からの篤い祈願であり、国内の平穏によってのみ、戦禍は癒されよう。}}


これは{{仮リンク|ハインリッヒ・ラマシュ|de|Heinrich Lammasch}}首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか!朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.222-223"> グリセール=ペカール(1994) p.222-223</ref>。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.222-223"/>。続いてこの最終的草稿文は皇后ツィタにも見せられたが、ツィタもカールと同様に「これは退位以外の何物でもありません」と怒った<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.224"> グリセール=ペカール(1994) p.224</ref>。この際にも、退位宣言ではないことが起草者によって保証された<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.224"/>。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.226"/>。
政治的には成すところの少なかったカール1世であったが、[[キリスト教徒]]としては非常に敬虔な人物だった。死後82年目の2004年10月3日、[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]によって[[列福]]されている。20世紀の[[元首|国家元首]]で福者となったのはカール1世が初めてである。


2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.230"> グリセール=ペカール(1994) p.230</ref>。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が[[王権神授説]]にもとづいていることを述べ、国王退位は明確に否定した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.230"/>。
なお、カール1世の子孫は[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]]の各国の君主の姻戚であり、それぞれ順位は低いものの、これらの君主の地位の継承権を現在でも保持している。

=== スイス亡命 ===
[[File:Schloss Eckartsau mit Schlosspark.jpg|thumb|left|210px|エッカルトザウ宮殿。「国事不関与」宣言後の4ヵ月間、カール一家はここで過ごした。]]
[[File:Zasche Heimkehr-Habsburger-1919.jpg|thumb|right|350px|共和国の夜明けを描いた絵。中世以来の[[ハプスブルク家]]の歴代君主がオーストリアから去ってゆく様子。最後尾がカール1世。(1919年)]]
「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちに[[シェーンブルン宮殿]]を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿から{{仮リンク|エッカルトザウ宮殿|de|Schloss Eckartsau}}に移った。

[[1919年]]1月、共和国初代首相[[カール・レンナー]]がエッカルトザウ城のカールのもとを訪れた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.232”> グリセール=ペカール(1994) p.232</ref>。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.232”/>。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.232”/>。実際、2月にはエッカルトザウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.234”> グリセール=ペカール(1994) p.234</ref>。カールは[[スイス]]への亡命を真剣に考え始めた。

近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、[[ロシア革命]]の際に[[ロマノフ家]]を英国王室と縁戚関係にあるにも関わらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.234”/>。イギリスから派遣されてきたストラット大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.234”/>。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.238-239”> グリセール=ペカール(1994) p.238-239</ref>。これにランナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.238-239”/>。

3月23日、皇帝一家はオーストリアを出国した。翌日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅で、カールはすでに用意してあった次の声明文に署名した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.242"> グリセール=ペカール(1994) p.242</ref>。
{{Quotation|ドイツ・オーストリア共和国政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。}}
この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文は[[ローマ教皇]]やオーストリア首相の手元のみに送付された<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.242"/>。

=== カール1世の復帰運動 ===
{{main|カール1世の復帰運動}}

=== マデイラ島への配流、崩御 ===
[[File:Portugal in its region (Madeira special).svg|thumb|right|210px|大西洋上の[[マデイラ島]]の位置。]]
[[File:Nossa Senhora do Monte Madeira4.jpg|thumb|right|210px|フンシャルの[[:en:Monte (Funchal)|ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会]]に安置されたカール1世の棺。]]
11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領[[マデイラ島]]に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた<ref>グリセール=ペカール(1994) p.279</ref>。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌[[1922年]]2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.280"> グリセール=ペカール(1994) p.280</ref>。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.280"/>。

やがてバターも買えないほど皇帝一家は困窮し、ベビーシッターの給料も3ヶ月間未払いだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.288"> グリセール=ペカール(1994) p.288</ref>。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.288"/>。
{{Quotation|電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたため、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たらないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけだった。(中略)皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜と[[クヌーデル]]だけの粗末な食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母ひとりだった。}}

3月9日、四男[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]の4歳の誕生日プレゼントを買いたいという子供たちを連れてフンシャルに出かけた<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.289"> グリセール=ペカール(1994) p.289</ref>。このときカールは風邪をひいてしまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化していき、そのうちカールは呼吸困難に陥ってしまった。ツィタは慌てて医者を呼んだが、すでに片肺が侵されているとの診断が下された<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.289"/>。治療の甲斐なく、やがてカールは両肺を侵されてしまった。

カールはツィタに「これからはスペイン国王[[アルフォンソ13世]]を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「11月の私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と弱々しい声で遺言し、[[1922年]][[4月1日]]12月23分に崩御した<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.293"> グリセール=ペカール(1994) p.293</ref>。享年34歳。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.293"/>。カールの篤い信仰心に島民は深い敬意を抱いていたため、その葬儀には3万人が参列したという。

=== 死後 ===
[[File:Pfarrkirche Liesing - Kirchenfenster-KarlI.jpg|thumb|left|210px|[[福者]]カールを描いた教会の[[ステンドグラス]]。]]
[[File:Wieden - Krypta cesarska - statua Karola I Habsburga.JPG|thumb|right|210px|[[カプツィーナー納骨堂]]の皇帝カール1世の胸像。]]
カールの死後、長男オットーが「オーストリア皇帝およびハンガリー王」として亡命オーストリア宮廷の頂点に立った。オットーは[[1961年]]にオーストリア帝位請求権の放棄を宣言するまで、自身を正統な君主であるとみなし、帝冠について一貫して父カールと同様の態度を取った。

[[1982年]][[8月17日]]、ツィタは国外追放以来63年ぶりにオーストリアへの入国を果たした<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.351"> グリセール=ペカール(1994) p.351</ref>。ツィタがこの日に帰郷日を決定した理由は、8月17日がカールの誕生日だったからである<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.351"/>。もしカールが生きていたとしたとしたら、この日に95歳を迎えるはずだった。

[[1989年]][[3月14日]]、ツィタは96歳で崩御。4月1日に[[シュテファン大聖堂]]で葬儀が営まれたが、この日もマデイラ島でカールが崩御した1922年4月1日に合わせてのものだった<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.360"> グリセール=ペカール(1994) p.360</ref>。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、{{仮リンク|ムーリ修道院|en|Muri Abbey}}に安置されている<ref name="グリセール=ペカール(1994) p.360"/>。

[[2003年]]10月3日、ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世]]によってカールは[[列福]]され、20世紀の国家元首として[[福者]]に認定された最初の人物となった。しだいに名誉回復されつつある最後の皇帝カールであるが、その遺骸は心臓以外いまだマデイラ島フンシャルにあり、死してなおウィーンへの帰還を許されていない。皇帝廟カプツィーナー納骨堂の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。


== 家族 ==
== 家族 ==
[[File:IV. Károly és családja.jpg|thumb|right|270px|カール1世とその家族。左から右へ、[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]、[[フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン|フェリックス]]、{{仮リンク|オーストリア女大公シャルロッテ|label=シャルロッテ|en|Archduchess Charlotte of Austria}}とツィタ、[[ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン|ルドルフ]]とカール1世、{{仮リンク|オーストリア女大公アーデルハイト|label=アーデルハイト|en|Archduchess Adelheid of Austria}}、オットー、[[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]]。([[1921年]]、[[スイス]]にて)]]
[[ファイル:Karel Zita deti.jpg|thumb|right|180px|カールと家族(1914年)]]
皇后ツィタとの間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。
皇后[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]との間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。
* [[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]](1912年11月20日 - 2011年7月4日) - 皇太子、ハプスブルク家前当主、元[[欧州議会議員]]。
* [[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]](本名フランツ・ヨーゼフ)(1912年11月20日 - 2011年7月4日) - 皇太子、ハプスブルク家前当主、元[[欧州議会議員]]、[[国際汎ヨーロッパ連合]]2代目会長
* アーデルハイト(1914年1月3日 - 1971年10月2日)
* アーデルハイト(1914年1月3日 - 1971年10月2日)
* [[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]](1915年2月8日 - 1996年2月7日)
* [[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]](1915年2月8日 - 1996年2月7日)
78行目: 175行目:
* エリーザベト(1922年5月31日 - 1993年1月6日)
* エリーザベト(1922年5月31日 - 1993年1月6日)


== 参考文献 ==
== 出典 ==
{{reflist|3}}
* {{Cite book|和書|author=[[オットー・バウアー]]|translator=[[酒井晨史]]|date=1989年|title=オーストリア革命|publisher=[[早稲田大学出版部]]|isbn=4-657-89619-9|}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|バーバラ・ジェラヴィッチ|en|Barbara Jelavich}}|translator=[[矢田俊隆]]|date=1994年(平成6年)|title=近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-65600-0|ref=ジェラヴィッチ(1994)}}
* {{Cite book|和書|author=[[リチャード・リケット]]|translator=[[青山孝徳]]|date=1995年(平成7年)|title=オーストリアの歴史|publisher=[[成文社]]|isbn=4-915730-12-3|}}


=== 出典 ===
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[オットー・バウアー]]|translator=[[酒井晨史]]|date=1989年|title=オーストリア革命|publisher=[[早稲田大学出版部]]|isbn=4-657-89619-9|ref=バウアー(1989)}}
<references />
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|バーバラ・ジェラヴィッチ|en|Barbara Jelavich}}|translator=[[矢田俊隆]]|date=1994年|title=近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-65600-0|ref=ジェラヴィッチ(1994)}}
* {{Cite book|和書|author=[[リチャード・リケット]]|translator=[[青山孝徳]]|date=1995年|title=オーストリアの歴史|publisher=[[成文社]]|isbn=4-915730-12-3|}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|タマラ・グリセール=ペカール|en|Tamara Griesser Pečar}}|translator=[[関田淳子]]|date=1995年5月10日|title=チタ――ハプスブルク家最後の皇妃|publisher=[[新書館]]|isbn=4-403-24038-0}}
* {{Cite book|和書|author=[[江村洋]]|date=2013年12月10日|title=フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝|publisher=[[東京書籍]]|isbn=978-4-309-41266-5|ref=江村(2013)}}
* {{Cite book|和書|author=[[ティモシー・スナイダー]]|translator=[[池田年穂]]|date=2014年4月25日|title=赤い大公――ハプスブルク家と東欧の20世紀|publisher=[[慶応義塾大学出版会]]|isbn=978-4-7664-2135-4|ref=スナイダー(2014)}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ポール・ホフマン|de|Paul Hofmann (Journalist)}}|translator=[[持田鋼一郎]]|date=2014年7月15日|title=ウィーン――栄光・黄昏・亡命|publisher=[[作品社]]|isbn=978-4-86-182-467-8|ref=ホフマン(2014)}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commons&cat|Karl I. (Österreich-Ungarn)|Karl I of Austria|カール1世}}
{{Commonscat|Karl I of Austria}}
* [http://www.oct-net.ne.jp/~kusubook/misc/aus01.html くすき出版 カル1世列福に関する記事]
*[http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後ストリア皇帝、。」]


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2016年3月19日 (土) 07:30時点における版

カール1世
Karl I.
オーストリア皇帝ハンガリー国王
カール1世
在位 1916年11月21日1918年11月12日
戴冠式 1916年12月30日、於マーチャーシュ聖堂(ハンガリー国王)

全名 Karl Franz Joseph Ludwig Hubert Georg Maria von Habsburg-Lothringen
カール・フランツ・ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フーベルト・ゲオルク・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
出生 (1887-08-17) 1887年8月17日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ペルゼンボイク=ゴッツドルフペルゼンボイク城
死去 (1922-04-01) 1922年4月1日(34歳没)
ポルトガルフンシャル
埋葬 ポルトガルフンシャルノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会
スイスの旗 スイスムーリムーリ修道院(心臓)
配偶者 ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
子女
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ
母親 マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン
宗教 キリスト教カトリック教会
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カール1世ドイツ語: Karl I.1887年8月17日 - 1922年4月1日)は、最後のオーストリア皇帝およびハンガリー国王(在位:1916年11月21日 - 1918年11月12日)。ハンガリー国王としてはカーロイ4世ハンガリー語: IV. Károly)。オーストリア帝国内ベーメン国王としてはカレル3世チェコ語: Karel III.)。

大伯父フランツ・ヨーゼフ1世の後継者としてオーストリア=ハンガリー帝国を統治した。第一次世界大戦に敗戦したことを受けて「国事不関与」を宣言したが、自身の退位は認めなかった。皇室財産をほとんど共和国政府に没収された後、2度にわたってカール1世の復帰運動を企てたが失敗し、ポルトガルマデイラ島に流されて困窮の中で病死した。

カトリック教会への篤い信仰心を持ち、フランス首相クレマンソーからは「中欧における教皇」と、時のローマ教皇ベネディクト15世からは「私のお気に入りの子」と呼ばれ、20世紀国家元首として初めて福者に認定された。

生涯

幼少期

1895年頃のベルゼンボイク城ドイツ語版

1887年8月17日オーストリア=ハンガリー帝国の皇族オットー・フランツ大公ザクセン国王ゲオルクの娘マリア・ヨーゼファの長男として、ドナウ川の河畔に位置するベルゼンボイク城ドイツ語版に生まれる。

当時は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の長男ルドルフ皇太子や皇帝の弟カール・ルートヴィヒ大公(カールの祖父)が存命であり、誕生した新大公カールは帝位継承とはかけ離れた存在だった[1]。そのため、カール誕生のニュースは、宮廷に関する他の記事といっしょに報告されたに過ぎなかった[1]

1889年1月30日、2歳に満たないときに「マイヤーリンク事件」でルドルフ皇太子が謎の死を遂げた。皇位継承者はしばらく決定されなかったが、皇帝の弟カール・ルートヴィヒ大公かその長男フランツ・フェルディナント大公のどちらかだと目されていた。将来フランツ・フェルディナント大公が身分相応の女性との間に男児を儲けることが当然視されており、フランツ・フェルディナント大公の弟オットー・フランツ大公とその息子カールの出番はないと考えられていた。ルドルフ皇太子の死後も、依然としてカールの立場には変化がなかったのである。

少年期

1900年頃のオットー・フランツ大公一家の写真。左下の少年がカール。母に抱かれているのは弟マクシミリアン・オイゲン

一家の領地であるヴィラ・ヴァルトホルツ英語版や父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていたプラハで、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずにホテル・ザッハーのロビーを横切るという事件を起こしたこともあった[2]。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。

ドミニコ会士のNorbert Geggerleによって宗教教育が開始され、のちにGottfried Marshall司教が担当を交代した。この宗教教育によってカールは、ローマ・カトリック教会への篤い信仰心を持つようになった。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの聖母マリアの聖堂に行くのを好んだ。ある日、ライヒェナウの領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、神の母を傷つけたという思いで泣き出してしまったという。

1896年、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢ゾフィー・ホテクと恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで1900年貴賤結婚した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。

1903年、16歳のときに帝国陸軍に入隊して大佐となり、同時に金羊毛騎士団に入団した。この騎士団の団員はどこにいても毎日ミサに参加できる特権があり、カールはこれを気に入っていた。カールは、彼らの中で自分の信仰についてためらうことなく公言したという。1906年、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。

パルマ公女ツィタとの結婚

1911年10月21日ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ公女との結婚式。写真右側の老人は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。この日、ハプスブルク=ロートリンゲン家ブルボン=パルマ家のほとんどの人々が一堂に会した[3]

マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガルの用意周到な計画によって、1909年ツィタ・フォン・ブルボン=パルマと出会う[4]。マリア・テレサは亡き祖父カール・ルートヴィヒ大公の3度目の妻で、すなわちカールの義理の祖母にあたり[5]、さらにツィタにとっては母の妹であった[4]。カールとツィタは幼少期に何度か会ってはいるが、まともに顔を合わせたのはこの時が初めてだった[5]。カールとツィタはこれ以降、宮廷内のほとんどの人間に気付かれることなく親密な交際をするようになった。

将来の皇帝となるであろうカールに、フランツ・ヨーゼフ1世は自身の孫娘エリーザベト・フランツィスカを嫁がせようと考えたが、血縁関係が近すぎることを心配するカールの母マリア・ヨーゼファの反対に遭った[6]。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、今度はオルレアン家の血を引くデンマーク王女マルグレーテをカールと結婚させようと考えた[6]

1910年秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された[7]。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた[7]1911年5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた[8]。しかし旧パルマ公国の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した[8]

1911年10月21日シュヴァルツアウドイツ語版の城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はよほど嬉しかったとみえて、異例なことにカメラマンの注文にも喜んで応えた[3]。翌1912年11月20日、長男オットーが誕生する。

第一次世界大戦、勃発

チロル前線を視察するカール。(1915年)
イゾンツォ川前線のボスニア人部隊を視察するカール。(1915年)

表面的には平穏な日常が続いていたが、1914年6月28日サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、第一次世界大戦が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た[9]。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという[9]

やがてカールのもとには時のローマ教皇ピウス10世からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが、しかし当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。セルビア王国への最後通牒についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった[10]。カールは新たな皇位継承者になったにも関わらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した[10]

参謀本部長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは、開戦後もカールに活躍の場を与えようとしなかった[11]。カールの日程は歓迎会、謁見、練兵場への訪問などの実働を伴わない公務で埋められていたが、1915年7月にようやく皇帝の側近に任命され、決済の済んだ報告書を見せられるようになった[11]。カールはオーストリア首相とハンガリー首相から政治の講義を受けるようになったが、この生活は長続きしなかった[12]。若い大公を側近から外すよう求める声に、フランツ・ヨーゼフ1世が屈してしまったのである[12]。そしてカールは新設のイタリア第20部隊に派遣されることになった[12]

イタリア戦線においてカールは、イゾンツォの戦いの際に、皇位継承者でありながら自ら水中に飛び込んで川に溺れかけた男を助けた。また、従軍司祭であったロドルフォ・スピッツルによれば、アシエロへの過酷な行軍の中で、傷のために歩行不可能となった兵士を助けるためにとりなしたという。

老帝の崩御、即位

カプツィーナー納骨堂へのフランツ・ヨーゼフ1世の葬送行列のなかの新皇帝「カール1世」。従来は故皇帝の棺の後ろに立つのは新皇帝のみで、その後に大公・皇后という順序であったが、カールは慣例化した様式を廃止し、皇后ツィタ・皇太子オットーと並んだ[13]

1916年11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった[14]。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながらこう語ったとされる[14]。「朕は、多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった……」。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールはオーストリア皇帝「カール1世」と呼ばれることとなった。

新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた[15]ハンガリー人の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた燕尾服の着用を不要とするなどした[15]。侍従武官アルバート・マルグッティドイツ語版はカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている[16]

先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった[16]。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった[16]

1916年12月30日、カールはハンガリー国王「カーロイ4世」として即位することとなった[17]聖イシュトヴァーンの王冠を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にも関わらず荘厳華麗な即位式がブダペストのマーチャーシュ聖堂で挙行された[17]。この即位式においてカールはこう宣誓した。「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と[18]。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった[18]

ジクストゥス事件

1917年3月23日夜、カールはラクセンブルク城において、皇后ツィタの二人の兄パルマ公子ジクストゥスグザヴィエ公子と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利のみを追求する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏の単独講和を締結するためであった。ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。

カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており[19]、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという[19]。戦争を終わらせたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らに渡したこの時の手紙が、のちにヨーロッパ中を騒然とさせることになる[20]

といった内容であり、さらに手紙には次のように明記してあった[20]

朕はジクストゥスを通して、フランス大統領レイモン・ポアンカレ氏に内密に通告する。同盟国の皇帝として、アルザス・ロレーヌ地域のフランスへの返還は正当であると認め、あらゆる手段を行使して、これを支援する考えである。

フランス政府は、パルマ公子を仲介としてのオーストリア=ハンガリー帝国との講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた[21]。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった[21]。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した[21]。つまり、この単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。

しかし、1918年にフランス首相クレマンソーがこの秘密交渉を暴露してしまった。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し[22]、次にその手紙の存在を認め、「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言ってしまった[22]。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し[23]、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ったことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった[23]。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家のプロパガンダも広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つブルボン=パルマ家出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。

帝国諸民族の離反

1918年同盟国側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反(チェコスロバキアポーランドなどが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カール1世は帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。10月12日、帝室の保養地バーデンにすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかしチェコ人南スラヴ人は「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と答えた[24]ボヘミアクロアチアガリツィアなどで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した[25]

オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。

カールにはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けてハンガリー王国議会では、1867年アウスグライヒの前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された[26]。11月3日、カールは正式に帝国連邦化を宣言し、同日イタリア王国とヴィラ・ジュスティ休戦協定を結び無条件降伏した。

「国事不関与」の宣言

シェーンブルン宮殿で署名したオーストリア版「国事不関与」の文書。
エッカルトザウ宮殿ドイツ語版で署名したハンガリー版「国事不関与」の文書。

11月9日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言した。その直後ドイツではドイツ社会民主党の主導する政権が誕生したことを受けて、オーストリア社会民主党はカール1世の退位を要求し始めた[27]キリスト教社会党は王党派であったが、彼らも最終的には皇帝退位に同意した。

11月11日午後3時、シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」において、カール1世は次の声明文に署名した[28]

今般の戦争責任は朕の負うところではないが、帝位継承以来、忌まわしい戦禍から国民を救出すべく不断の努力を重ねてきたつもりである。国民が憲法に則った国民生活を確立し、独立国家発展への道を開拓することに対して、これを阻止する考えはない。わが国民を愛する心に変わりはなく、自由にはばたかんとする国民の前途に、朕自身が障害となることは本望ではない。朕はドイツ系オーストリア暫定政府が決定した今後の国家体制を以前から承認してきた。

国民は今後、政府代表者の手に委ねられよう。朕はすべての国事行為の遂行を断念するとともに、現内閣の解散をここに宣言する。 国民が一致融和の精神のもとに、新体制を確立していくことを切に望む。

国民の至福が、朕の当初からの篤い祈願であり、国内の平穏によってのみ、戦禍は癒されよう。

これはハインリッヒ・ラマシュドイツ語版首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか!朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した[29]。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した[29]。続いてこの最終的草稿文は皇后ツィタにも見せられたが、ツィタもカールと同様に「これは退位以外の何物でもありません」と怒った[30]。この際にも、退位宣言ではないことが起草者によって保証された[30]。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた[28]

2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した[31]。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が王権神授説にもとづいていることを述べ、国王退位は明確に否定した[31]

スイス亡命

エッカルトザウ宮殿。「国事不関与」宣言後の4ヵ月間、カール一家はここで過ごした。
共和国の夜明けを描いた絵。中世以来のハプスブルク家の歴代君主がオーストリアから去ってゆく様子。最後尾がカール1世。(1919年)

「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちにシェーンブルン宮殿を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿からエッカルトザウ宮殿ドイツ語版に移った。

1919年1月、共和国初代首相カール・レンナーがエッカルトザウ城のカールのもとを訪れた[32]。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた[32]。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった[32]。実際、2月にはエッカルトザウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった[33]。カールはスイスへの亡命を真剣に考え始めた。

近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、ロシア革命の際にロマノフ家を英国王室と縁戚関係にあるにも関わらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった[33]。イギリスから派遣されてきたストラット大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した[33]。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた[34]。これにランナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった[34]

3月23日、皇帝一家はオーストリアを出国した。翌日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅で、カールはすでに用意してあった次の声明文に署名した[35]

ドイツ・オーストリア共和国政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。

この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文はローマ教皇やオーストリア首相の手元のみに送付された[35]

カール1世の復帰運動

マデイラ島への配流、崩御

大西洋上のマデイラ島の位置。
フンシャルのノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会に安置されたカール1世の棺。

11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた[36]。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌1922年2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた[37]。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという[37]

やがてバターも買えないほど皇帝一家は困窮し、ベビーシッターの給料も3ヶ月間未払いだった[38]。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している[38]

電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたため、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たらないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけだった。(中略)皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜とクヌーデルだけの粗末な食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母ひとりだった。

3月9日、四男カール・ルートヴィヒの4歳の誕生日プレゼントを買いたいという子供たちを連れてフンシャルに出かけた[39]。このときカールは風邪をひいてしまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化していき、そのうちカールは呼吸困難に陥ってしまった。ツィタは慌てて医者を呼んだが、すでに片肺が侵されているとの診断が下された[39]。治療の甲斐なく、やがてカールは両肺を侵されてしまった。

カールはツィタに「これからはスペイン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「11月の私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と弱々しい声で遺言し、1922年4月1日12月23分に崩御した[40]。享年34歳。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている[40]。カールの篤い信仰心に島民は深い敬意を抱いていたため、その葬儀には3万人が参列したという。

死後

福者カールを描いた教会のステンドグラス
カプツィーナー納骨堂の皇帝カール1世の胸像。

カールの死後、長男オットーが「オーストリア皇帝およびハンガリー王」として亡命オーストリア宮廷の頂点に立った。オットーは1961年にオーストリア帝位請求権の放棄を宣言するまで、自身を正統な君主であるとみなし、帝冠について一貫して父カールと同様の態度を取った。

1982年8月17日、ツィタは国外追放以来63年ぶりにオーストリアへの入国を果たした[41]。ツィタがこの日に帰郷日を決定した理由は、8月17日がカールの誕生日だったからである[41]。もしカールが生きていたとしたとしたら、この日に95歳を迎えるはずだった。

1989年3月14日、ツィタは96歳で崩御。4月1日にシュテファン大聖堂で葬儀が営まれたが、この日もマデイラ島でカールが崩御した1922年4月1日に合わせてのものだった[42]。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、ムーリ修道院に安置されている[42]

2003年10月3日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によってカールは列福され、20世紀の国家元首として福者に認定された最初の人物となった。しだいに名誉回復されつつある最後の皇帝カールであるが、その遺骸は心臓以外いまだマデイラ島フンシャルにあり、死してなおウィーンへの帰還を許されていない。皇帝廟カプツィーナー納骨堂の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。

家族

カール1世とその家族。左から右へ、カール・ルートヴィヒフェリックスシャルロッテ英語版とツィタ、ルドルフとカール1世、アーデルハイト英語版、オットー、ローベルト。(1921年スイスにて)

皇后ツィタとの間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。

出典

  1. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.89
  2. ^ ホフマン(2014) p.280
  3. ^ a b 江村(2013) p.388
  4. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.53
  5. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.54
  6. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.60
  7. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.61
  8. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.62
  9. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.96
  10. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.105
  11. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.113
  12. ^ a b c グリセール=ペカール(1994) p.114
  13. ^ グリセール=ペカール(1994) p.125
  14. ^ a b グリセール=ペカール(1994) p.120
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参考文献

  • オットー・バウアー 著、酒井晨史 訳『オーストリア革命』早稲田大学出版部、1989年。ISBN 4-657-89619-9 
  • バーバラ・ジェラヴィッチ英語版 著、矢田俊隆 訳『近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国』山川出版社、1994年。ISBN 4-634-65600-0 
  • リチャード・リケット 著、青山孝徳 訳『オーストリアの歴史』成文社、1995年。ISBN 4-915730-12-3 
  • タマラ・グリセール=ペカール英語版 著、関田淳子 訳『チタ――ハプスブルク家最後の皇妃』新書館、1995年5月10日。ISBN 4-403-24038-0 
  • 江村洋『フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝』東京書籍、2013年12月10日。ISBN 978-4-309-41266-5 
  • ティモシー・スナイダー 著、池田年穂 訳『赤い大公――ハプスブルク家と東欧の20世紀』慶応義塾大学出版会、2014年4月25日。ISBN 978-4-7664-2135-4 
  • ポール・ホフマンドイツ語版 著、持田鋼一郎 訳『ウィーン――栄光・黄昏・亡命』作品社、2014年7月15日。ISBN 978-4-86-182-467-8 

外部リンク