「オデッサ」の版間の差分
→ゆかりの人物: グリシュク、プラトフを追加 |
m →交通: 誤字 |
||
(5人の利用者による、間の9版が非表示) | |||
19行目: | 19行目: | ||
|経度度 =30 |経度分 =44 |経度秒 =0 |E(東経)及びW(西経) =E |
|経度度 =30 |経度分 =44 |経度秒 =0 |E(東経)及びW(西経) =E |
||
|成立区分 =Founded |
|成立区分 =Founded |
||
|成立日 =[[1794年 |
|成立日 =[[1794年]] |
||
|成立区分1 = |
|成立区分1 = |
||
|成立日1 = |
|成立日1 = |
||
52行目: | 52行目: | ||
|標高(メートル) =40 |
|標高(メートル) =40 |
||
|標高(フィート) =131 |
|標高(フィート) =131 |
||
|人口の時点 = |
|人口の時点 =2015年7月1日 |
||
|人口に関する備考 =都市圏人口は2001年 |
|人口に関する備考 =都市圏人口は2001年 |
||
|総人口 =1, |
|総人口 =1,012,300<ref name=2015population/> |
||
|人口密度(平方キロ当たり) =6, |
|人口密度(平方キロ当たり) =6,210 |
||
|人口密度(平方マイル当たり) = |
|人口密度(平方マイル当たり) =16,094 |
||
|市街地人口 = |
|市街地人口 = |
||
|市街地人口密度(平方キロ) = |
|市街地人口密度(平方キロ) = |
||
72行目: | 72行目: | ||
|ナンバープレート = |
|ナンバープレート = |
||
|ISOコード = |
|ISOコード = |
||
|公式ウェブサイト =http:// |
|公式ウェブサイト =http://omr.gov.ua/ |
||
|備考 = |
|備考 = |
||
}} |
}} |
||
'''オデッサ'''({{lang-uk|'''Одеса'''}} <small>オデーサ</small>、{{lang-ru|'''Одесса'''}})は、[[ウクライナ]]南部、[[黒海]]に面した[[港湾]]都市である。[[オデッサ州]]の[[県庁所在地|州庁所在地]]で、[[ |
'''オデッサ'''({{lang-uk|'''Одеса'''}} {{IPA-uk|oˈdɛsɐ|}} <small>オデーサ</small><ref name="r-jiten">青木、中井「オデッサ」『ロシアを知る事典』新版、108頁</ref>、{{lang-ru|'''Одесса'''}} {{IPA-ru|ɐˈdʲesə|}})は、[[ウクライナ]]南部、[[黒海]]に面した[[港湾]]都市である。[[オデッサ州]]の[[県庁所在地|州庁所在地]]で、[[2015年]]現在の人口は約101万人、ウクライナで3番目に大きな都市となっている<ref name=2015population>{{Cite web |url=http://omr.gov.ua/en/news/78115/ |title=UCRA upgraded the credit rating of Odessa |date=2015-12-04 |publisher=Odessa Сity Сouncil, Department of Information and Public Relations |accessdate=2016-01-09}}</ref>。 |
||
面積は約160km<sup>2</sup><ref>嵐田『オデッサ』、35頁</ref>。[[ドニエストル川|ドニエストル河口]]から北に約30km、[[キエフ]]から約443km南に位置する<ref name="bri">『ブリタニカ国際大百科事典』3、424-425頁</ref>。 |
|||
重要な貿易港を持ち、またこれまでの歴史上様々な国の支配を受けてきたため、非常に国際色豊かな都市となっている。[[ロシア帝国]]から[[ソビエト連邦]]時代に発展を遂げたため、主に現地人の間で使用されている言語は[[ロシア語]]であるが、公用語は[[ウクライナ語]]のみとなっている。住民は[[ウクライナ人]]、[[ロシア人]]、[[ユダヤ人]]、[[ギリシャ人]]、[[ルーマニア人]]、[[ブルガリア人]]、[[トルコ人]]と多種多彩であり、今でもウクライナ国内の中ではユダヤ人の割合が最も高い都市である。 |
|||
オデッサはウクライナ最大の[[港湾]]を備え、ウクライナを代表する工業都市、リゾート地としても知られている<ref>嵐田『オデッサ』、36-37頁</ref>。 |
|||
[[ロシア帝国]]時代には黒海に面する港湾都市であるオデッサはロシア帝国と外国の経済・文化の交流の拠点となっていた<ref name="nakai62">中井『ウクライナ・ナショナリズム』、62頁</ref>。20世紀のオデッサ出身の作家スラーヴィンはオデッサの人間の気質について「何かを理解するためにはどんなものでも手でじかに触り、歯で噛んでみなければ気のすまない人だった」と説明している<ref name="arashida2005-85">嵐田「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』、85頁</ref>。 |
|||
== 名称 == |
== 名称 == |
||
オデッサの名称は、この地に[[古代ギリシア]]の植民都市[[オデソス]]が存在するという誤認に由来すると考えられている<ref name="r-jiten"/><ref name="arashida5">嵐田『オデッサ』、5頁</ref>。実際のオデソスは、オデッサから離れた[[ブルガリア]]の[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]周辺に存在していた<ref name="arashida5"/>。ギリシア風の名前が付けられた背景には、皇帝エカチェリーナ2世の治世に流行していた古典主義、町の発展に不可欠であるギリシア系商人と植民者の誘致を意図したことが挙げられている<ref name="arashida5"/>。 |
|||
<!-- |
|||
ウクライナの独立以降、[[公用語]]はウクライナ語のみとなっている。従ってこの町の名もウクライナ語名'''{{lang|uk|Одеса}}'''のみが公式な名称と認められる。この名前については、[[日本語]]では'''オデーサ'''、あるいは[[アクセント]]位置を示す[[長音符]]を用いずに'''オデサ'''と表記する。古くはアクセント位置に長音符ではなく[[促音]]を用いていた慣習もあり、従来の表記'''オデッサ'''がウクライナ語名からかけ離れているわけではない。 |
ウクライナの独立以降、[[公用語]]はウクライナ語のみとなっている。従ってこの町の名もウクライナ語名'''{{lang|uk|Одеса}}'''のみが公式な名称と認められる。この名前については、[[日本語]]では'''オデーサ'''、あるいは[[アクセント]]位置を示す[[長音符]]を用いずに'''オデサ'''と表記する。古くはアクセント位置に長音符ではなく[[促音]]を用いていた慣習もあり、従来の表記'''オデッサ'''がウクライナ語名からかけ離れているわけではない。 |
||
ウクライナの独立まで長らく公用語として用いられてきた[[ロシア語]]では、'''{{lang|ru|Одесса}}'''と書き「アヂェーサ」のように発音する。 |
ウクライナの独立まで長らく公用語として用いられてきた[[ロシア語]]では、'''{{lang|ru|Одесса}}'''と書き「アヂェーサ」のように発音する。 --> |
||
このページでは、「オデッサ」で統一する。 |
|||
== 歴史 == |
== 歴史 == |
||
=== 建設以前 === |
|||
{{main|{{仮リンク|オデッサの歴史|uk|Хронологія Одеси|en|Timeline of Odessa history}}}} |
|||
オデッサ、およびその周辺には[[キンメリア人]]、[[サルマタイ|サルマタイ人]]、[[スキタイ|スキタイ人]]、[[ギリシア人]]、[[スラヴ人]]が居住していた<ref name="c-jiten1973">香山陽坪「オデッサ」『世界地名大事典』1巻、276-277頁</ref>。オデッサが位置する場所にはタタール人によって{{仮リンク|カチベイ|ru|Хаджибей}}という集落が形成され、[[15世紀]]に[[オスマン帝国]]によってカチベイの跡地に建設されたハジベイという集落がオデッサの直接の起源にあたる<ref name="r-jiten"/><ref>嵐田『オデッサ』、3頁</ref>。[[1764年]]にハジベイにエニ・ドゥニア要塞が建設された<ref name="r-jiten"/>。 |
|||
{{See also|エディサン|:en:Yedisan}} |
|||
[[露土戦争 (1787年-1791年)|露土戦争]]の過程で[[1789年]]に[[ロシア帝国]]はハジベイを占領し、[[1792年]]に締結された[[ヤッシーの講和|ヤシ条約]]によって正式にロシア領に編入された。露土戦争に従軍した海軍中将{{仮リンク|ホセ・デ・リバス|en|José de Ribas}}、オランダ人技師デ・ヴォランらは皇帝[[エカチェリーナ2世]]にハジベイに港を建設することを進言し、[[1794年]]から港の建設が開始される<ref name="arashida4">嵐田『オデッサ』、4頁</ref>。[[1795年]]にハジベイは「オデッサ」に改称される<ref name="r-jiten"/><ref name="arashida5"/>。 |
|||
[[エカチェリーナ2世]]の治世に、[[1792年]]の[[露土戦争 (1787年-1791年)]]の結果、[[ロシア帝国]]領となり、[[1794年]]から港の建設が始められた。彼女は[[トラキア]]に存在した[[古代ギリシア]]の植民地[[オデッサス]](現[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]])にちなみこの街をオデッサと名付けた。街は貿易都市として順調に発展した。[[1823年]]から翌[[1824年]]にかけてこの街に滞在したロシアの詩人[[アレクサンドル・プーシキン]]は手紙の中で[[西ヨーロッパ]]色の強い街の様子について言及している。[[1821年]]には[[オスマン帝国]]からのギリシャ独立を目指す秘密組織[[フィリキ・エテリア]]がこの街で結成された。[[1853年]]に勃発した[[クリミア戦争]]においては、[[ワラキア]]と[[モルドバ]]の両地域へ侵攻したロシア軍の拠点でもあったため、[[1854年]]より[[オスマン帝国]]を支持して参戦した[[イギリス]]と[[フランス]]の攻略目標となった。 |
|||
=== ロシア帝国時代 === |
|||
[[ファイル:Odessa downtown.jpg|thumb|300px|left|市街風景([[1895年]])]] |
|||
[[Image:Armand Emmanuel Duke of Richelieu.jpg|thumb|right|180px|[[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]によるリシュリュー公爵の肖像画]] |
|||
[[19世紀]]を通じて[[ユダヤ人]]が増加し、大きなコミュニティを形成した。[[1887年]]には街の人口の約3分の1がユダヤ人であった。ウクライナ出身で[[ロシア革命]]の中心人物である[[レフ・トロツキー]]は、8歳よりこの街で学んでいる。富裕なユダヤ人の存在のお陰で、オデッサは商業を中心とした文化先進都市として発展していた。その一方、19世紀を通じて何度かの[[ポグロム]]を経験している。 |
|||
[[Image:Knyaz'PotemkinTavricheskiy1905.jpg|thumb|right|180px|1905年に撮影されたポチョムキン号]] |
|||
エカチェリーナ2世の死後に帝位に就いた[[パーヴェル1世]]はリバスを首都[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]に召還し、オデッサに与えられていた補助金と特権が廃止される。パーヴェル1世の跡を継いだ[[アレクサンドル1世]]はオデッサの経営に関心を示し、[[1803年]]にフランス人[[アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ|アルマン・エマニュエル・リシュリュー]]をオデッサの長官に任命した<ref>嵐田『オデッサ』、8頁</ref>。また、移民の誘致と並行して、貿易の振興に必要な港湾施設の整備、税制の優遇政策が実施された<ref>嵐田『オデッサ』、9頁</ref>。リシュリューの下でオデッサは劇的に発展し、[[1803年]]当時9,000人だった人口は1813年の時点で35,000人に増加し、[[1804年]]に2,340,000[[ルーブル]]だった輸出総額は1813年には8,860,000ルーブルに増加する<ref name="arashida11">嵐田『オデッサ』、11頁</ref>。[[1812年]]8月から[[1814年]]2月にかけてオデッサでペストが流行し、人口の2割程度が死亡したと推定されている<ref>嵐田『オデッサ』、12頁</ref>。[[1814年]]9月にリシュリューはオデッサ長官の職を辞し、フランスに帰国した。 |
|||
[[1819年]]にオデッサは自由貿易港に定められ、1823年に[[ノヴォロシア]]総督に就任した[[ミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフ]]の下で自由貿易港となったオデッサは飛躍的な発展を遂げる<ref>嵐田『オデッサ』、14,16頁</ref>。ヴォロンツォフは経済の振興以外に文化事業、慈善事業にも力を注ぎ、彼の在任中に考古学博物館、救貧院、孤児院、聾盲学校が設立され、有力紙となる『オデッサ報知』が創刊される<ref>嵐田『オデッサ』、15頁</ref>。雨後の筍に例えられる急速な発展を遂げたオデッサは「幼年期を持たない都市」とも呼ばれ、19世紀後半に入った後にも成長は続く<ref name="arashida17">嵐田『オデッサ』、17頁</ref>。また、ペテルブルクからの追放処分を受けていた詩人[[アレクサンドル・プーシキン]]は、オデッサ滞在中の一時期ヴォロンツォフに仕えていた。プーシキンとヴォロンツォフの妻は恋仲になり、ヴォロンツォヴァ夫人がプーシキンに贈ったヘブライ文字が刻まれた指輪はオデッサに伝説を残した<ref name="arashida2005-86">嵐田「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』、86頁</ref>。プーシキンが指輪を持ち帰ったにもかかわらず、指輪はオデッサに残されていると信じられ、指輪がオデッサを守護し続けていると言われている<ref name="arashida2005-86"/>。 |
|||
[[日露戦争]]さなかの[[1905年]]に、この街で戦艦[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)|ポチョムキン=タヴリーチェスキー公]]の反乱が起こった。この反乱は後にソ連の映画監督[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]によって映画「[[戦艦ポチョムキン]]」として作品化されている。[[1917年]]に[[ロシア革命]]が起こると、オデッサは[[ウクライナ人民共和国]]の[[ウクライナ中央ラーダ|中央ラーダ]]軍を含めたいくつものグループ、[[フランス]]軍、[[赤軍]]、[[白軍]]による占領が繰り返され、最終的に[[1920年]]赤軍が支配権を取り戻した。この期間に街は大きな損害を被り、多くの住民が[[難民]]となり国外へ脱出した。[[第二次世界大戦]]中は[[1941年]]8月から10月にかけて[[オデッサの戦い (1941年)|激しい攻防戦]]が行われ、[[ドイツ軍]]と[[ルーマニア]]軍により占領された。その後、[[1944年]]4月に赤軍が街を奪還した。 |
|||
[[1853年]]から[[1856年]]にかけての[[クリミア戦争]]においてオデッサも戦渦に巻き込まれ、1854年に4月10日にイギリス・フランス合同艦隊の砲撃によって死傷者が出、ヴォロンツォフ宮殿などの建築物も被害を被った<ref name="arashida17"/>。砲撃を受けてもオデッサは抵抗を続け、防御を突破できなかった合同艦隊はやむなく退却する<ref name="arashida17"/>。クリミア戦争時にイギリスのフリゲート艦から奪取した大砲は海並木通りに置かれ、当時の記憶をとどめている<ref name="arashida17"/>。 |
|||
[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて、造船を中心として製油、化学工業、金属精錬などの重工業が発展し街は飛躍的に発展した。1970年代以降にはソ連の政策もあり、多くのユダヤ人が[[イスラエル]]や[[アメリカ合衆国]]へと移住した。[[1991年]]にウクライナが独立すると、オデッサはウクライナ領となった。現在では[[ウクライナ海軍]]の基地や漁業拠点がおかれている。 |
|||
{{Clearleft}} |
|||
== 文化 == |
|||
[[ファイル:Potemkinstairs.jpg|thumb|300px|[[ポチョムキンの階段]](1895年)]] |
|||
この街の出身でもある[[イサーク・バーベリ]]による短編集『オデッサ物語』の舞台である。彼の他にも多くのユダヤ人芸術家がこの街で生まれ育ち、[[イディッシュ文化]]の中心地となった。また、現代[[ギリシャ]]の代表的な映画作家である[[テオ・アンゲロプロス]]の製作した映画「[[エレニの旅]]」([[2004年]])では、革命に伴うオデッサからの[[ギリシャ人]]難民が主人公となっている。 |
|||
19世紀末にオデッサはペテルブルク、[[モスクワ]]、[[ワルシャワ]]に次ぐロシア帝国第四の都市に発展し<ref name="nakai62"/>、ペテルブルクに次ぐ貿易港となる<ref name="r-jiten"/>。[[1865年]]に鉄道が開通し、[[オデッサ大学]]の前身であるノヴォロシア大学が開校した。生活用水の需要を満たすために[[1873年]]に[[ドニエストル川]]の水を汲み上げる設備が建設され、翌[[1874年]]に大規模な下水道が完成する<ref>嵐田『オデッサ』、19-20頁</ref>。上下水道の整備、市当局による環境・衛生状態の調査によりオデッサはロシアを代表する衛生的な都市として知られるようになる<ref name="arashida20">嵐田『オデッサ』、20頁</ref>。 |
|||
オデッサ市沿海地区には、大横綱[[大鵬幸喜|大鵬]]の銅像がある<ref>[http://jp.rbth.com/blogs/2014/01/21/46803.html ロシアNOW 大鵬~昭和の大横綱]</ref><ref>[http://www.segodnya.ua/regions/odessa/v-tsentre-odeccy-zatailcja-borets-cumo-koki.html В центре Одессы затаился борец сумо Коки]</ref>。 |
|||
[[1875年]]にロシア初の労働者の政治組織とされる[[南ロシア労働者同盟]]がオデッサで結成され、[[1900年]]には[[ロシア社会民主労働党]]オデッサ委員会が設立された<ref name="arashida31">嵐田『オデッサ』、31頁</ref>。[[1905年]]から[[1907年]]にかけての[[ロシア第一革命]]ではオデッサは革命運動の一拠点となり、1905年6月には水兵による反乱が起きた[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)|ポチョムキン号]]が入港する。革命後に町は落ち着きを取り戻し、穀物輸出と工業生産が上向きを見せ始めた<ref name="arashida31"/>。[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が勃発した後、オスマン帝国によって[[ダーダネルス海峡]]が封鎖されたためにオデッサの対外貿易は停止し、町は爆撃を受ける<ref name="arashida31"/>。 |
|||
=== ソビエト連邦時代 === |
|||
[[1917年]]の[[二月革命]]後のオデッサには[[ロシア臨時政府|臨時政府]]、[[ソビエト]]権力、[[ウクライナ中央ラーダ|ラーダ]]などのウクライナ民族派が並立し、それらの勢力に外国の干渉軍も加わって支配権を争った。1918年1月にソビエト政権が支配権を握るが、3月から11月にかけてドイツ・オーストリア軍がオデッサを占領した。ウクライナ民族派の[[ディレクトーリヤ]]の支配を経て、[[1919年]]4月までイギリス・フランス連合軍の占領下に置かれる。1919年8月から[[1920年]]2月まで反革命勢力の[[アントーン・デニーキン]]がオデッサを制圧するが、デニーキンはソビエト軍に破れ、1920年2月7日にオデッサにソビエト政権が樹立された。二月革命からソビエト政権の樹立に至るまでの騒乱はオデッサの経済に大きな痛手を与え、町の建築物の4分の1が破壊されたと言われている<ref name="arashida32">嵐田『オデッサ』、32頁</ref>。1914年当時のオデッサは630,000人の人口を擁していたが[[ボリシェヴィキ]]政権を避けて多くの人間がロシア国外に脱出し、さらに[[1921年]]から[[1922年]]にかけての大飢饉が町の衰退をより進め、1924年に人口は324,000人に減少していた<ref name="arashida32"/>。 |
|||
[[ソビエト連邦]]時代にオデッサは[[ウクライナ共和国]][[オデッサ州]]の州都に定められる。[[第二次世界大戦]]期においては、[[1941年]]8月5日にドイツ・ルーマニア軍がオデッサを攻撃し、2か月以上の戦闘の末にソ連軍は[[セヴァストポリ]]に撤退した([[オデッサの戦い (1941年)]])。1941年10月16日から[[1944年]]4月10日までオデッサは[[ナチス・ドイツ]]の占領下に置かれ、複雑に入り組んだ地下の石灰岩の採掘跡を拠点として[[パルチザン (軍事)|パルチザン]]活動が行われた。第二次世界大戦中にオデッサの多くの建物が破壊され、280,000に及ぶ人間が虐殺・連行されたが、犠牲者の多くは[[ユダヤ人]]だった<ref name="arashida34">嵐田『オデッサ』、34頁</ref>。ドイツ軍に対するオデッサ市民の抵抗を顕彰され、戦後町は英雄都市の称号を与えられた。 |
|||
オデッサの工業は第二次世界大戦後も成長し、1970年代には新しい港湾施設が建設された<ref name="arashida34"/>。1970年代後半に人口は1,000,000人に達し、ソ連時代末期の1989年には1,115,000の人口を擁していた<ref name="arashida34"/>。 |
|||
<gallery> |
|||
ファイル:Odessa falls to germans.JPG|オデッサの戦いにおいて構築されたバリケード |
|||
ファイル:Odessa (timbre soviétique).jpg|ソビエト連邦期に発行された「英雄都市」オデッサの切手 |
|||
</gallery> |
|||
=== ウクライナ独立後 === |
|||
ソビエト連邦崩壊後のオデッサには一時的に経済的に困窮した時期が訪れる<ref name="arashida36">嵐田『オデッサ』、36頁</ref>。2000年3月にオデッサの商業活動を振興するため、約140年ぶりに自由貿易港に指定された<ref name="arashida36"/>。 |
|||
== 気候 == |
== 気候 == |
||
オデッサは温暖で日照時間も多く、古くから保養地として利用されていた<ref>嵐田『オデッサ』、33,35頁</ref>。太陽の光に恵まれているオデッサは映画の撮影にも適し、映画スタジオで多くの作品が生み出された<ref>嵐田『オデッサ』、51頁</ref>。7月の平均気温は22度、1月の平均気温は-3度<ref>嵐田『オデッサ』、35-36頁</ref>。 |
|||
{{Weather box |
{{Weather box |
||
|location = オデッサ (1981–2010) |
|location = オデッサ (1981–2010) |
||
255行目: | 275行目: | ||
|date=April 2011}} |
|date=April 2011}} |
||
== |
== 民族・言語 == |
||
[[Image:Г.Г.Маразлі.jpg|thumb|right|180px|グリゴリー・マラズリ]] |
|||
* [[エミール・ギレリス]](ピアニスト) |
|||
[[Image:PikiWiki Israel 1108 People of Israel זאב זבוטינסקי.jpg|thumb|right|180px|オデッサ出身の[[シオニスト]]である[[ゼエヴ・ジャボチンスキー]]]] |
|||
* [[ミハエル・コーガン]](実業家) |
|||
=== 民族 === |
|||
* [[イダ・カミンスカ]](女優・演出家) |
|||
オデッサの民族の中で最大の割合を占めているのはウクライナ人(69%)で<ref>{{cite web|url=http://2001.ukrcensus.gov.ua/results/general/nationality/odesa/ |title=All-Ukrainian Census of 2001 Official Site |publisher=2001.ukrcensus.gov.ua |accessdate=22 May 2014|language=uk}}</ref>、それに次いでロシア人(29%)が多い<ref name=iri1>{{cite journal|title=Ukrainian Municipal Survey, March 2–20, 2015|journal=IRI|url=http://www.iri.org/sites/default/files/wysiwyg/2015-05-19_ukraine_national_municipal_survey_march_2-20_2015.pdf}}</ref>。 |
|||
* [[アハド・ハアム]](シオニズム思想家) |
|||
* [[ユーリ・ニキフォロフ]](サッカー選手) |
|||
* [[ワシリー・カンディンスキー]](美術家) |
|||
* [[レフ・トロツキー]](マルクス主義思想家) |
|||
* [[ゲオルギー・ジューコフ]](軍人・政治家) |
|||
* [[ジョージ・ガモフ]](理論物理学者) |
|||
* [[アレクサンドル・プーシキン]](詩人・作家) |
|||
* [[ユーリー・マルトフ]](社会運動家) |
|||
* [[ショーレム・アレイヘム]](劇作家・小説家・ジャーナリスト) |
|||
* [[イオン・アントネスク]](軍人・政治家) |
|||
* [[ヴラディーミル・ド・パハマン]](ピアニスト) |
|||
* [[グリゴリー・ガリツィン]](写真家) |
|||
* [[フリスト・ボテフ]](詩人・革命家) |
|||
* [[ワシル・アプリロフ]](教育家・文筆家) |
|||
* [[アンドレイ・ヴィシンスキー]](法律家・外交官) |
|||
* [[ナタン・ミルシテイン]](ヴァイオリニスト) |
|||
* [[ミッシャ・エルマン]](ヴァイオリニスト) |
|||
* [[カロル2世]](ルーマニア国王) |
|||
* [[ウラジーミル・アーノルド]](数学者) |
|||
* [[イズライル・ゲルファント]](数学者) |
|||
* [[ベンノ・モイセイヴィチ]](ピアニスト) |
|||
* [[シューラ・チェルカスキー]](ピアニスト) |
|||
* [[マリヤ・グリンベルク]](ピアニスト) |
|||
* [[ダヴィッド・オイストラフ]](ヴァイオリニスト) |
|||
* [[スヴャトスラフ・リヒテル]](ピアニスト) |
|||
* [[ウラジーミル・トゥクマコフ]](チェスプレーヤー) |
|||
* [[イーゴリ・ベラノフ]](サッカー選手) |
|||
* [[アナスタシア・チェボタリョーワ]](ヴァイオリニスト) |
|||
* [[マ・クベ]](軍人・架空の人物) |
|||
* [[レイブ・ポルナレフ]] (フランスにて[[:fr:Léo_Poll|レオ・ポル]]の名で活動していた作曲家。[[ミッシェル・ポルナレフ]]の父親) |
|||
* [[オクサナ・グリシュク]](元フィギュアスケート選手) |
|||
* [[エフゲニー・プラトフ]](元フィギュアスケート選手) |
|||
ロシア帝国時代のオデッサは帝国内部から移住した[[ロシア人]]や[[ウクライナ人]]と、国外からの移住者が混在するオデッサは多民族都市の性質を持っていた<ref name="nakai62"/>。1803年にオデッサの長官に就任したリシュリューの元で外国人の商人や職人の誘致が行われ、彼らには軍役の免除などの特権が与えられた。[[ユダヤ人]]、ドイツ人、フランス人、ギリシア人、ポーランド人、セルビア人、アルメニア人、ハンガリー人、モルドバ人、ブルガリア人、アルバニア人、トルコ人、ロマなどの民族がオデッサに移住している<ref>中井『ウクライナ・ナショナリズム』、61頁</ref>。また、[[メノナイト|メノー派]]、[[古儀式派]]、[[ドゥホボール派]]などの宗教的少数派に属する人間もオデッサとその周辺に移住した<ref name="nakai62"/>。 |
|||
== 姉妹都市 == |
|||
* {{Flagicon|USA}} - [[ボルチモア]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) |
|||
* {{Flagicon|JPN}} - [[横浜市]]([[日本]]) |
|||
* {{Flagicon|GER}} - [[レーゲンスブルク]]([[ドイツ]]) |
|||
* {{Flagicon|ITA}} - [[ジェノヴァ]]([[イタリア]]) |
|||
* {{Flagicon|MDA}} - [[キシナウ]]([[モルドバ]]) |
|||
* {{Flagicon|KSA}} - [[ジッダ]]([[サウジアラビア]]) |
|||
* {{flagicon|CRO}} - [[スプリト]]([[クロアチア共和国]]) |
|||
ギリシア人はオデッサの発展に多大な貢献をし、経済の中心となっていた穀物輸出、ホテルとレストランの経営、文化・公共事業で活躍した<ref>嵐田『オデッサ』、22-23頁</ref>。1879年からおよそ4半世紀の間オデッサの市長を勤めた{{仮リンク|グリゴリー・マラズリ|ru|Маразли, Григорий Григорьевич}}はギリシア系移民の子孫の一人で、教育施設、公共図書館の建設を行い、ロシア初の細菌学研究所の設立を支援した。穀物輸出ではギリシア人だけではなく[[イタリア人]]も重要な役割を担い、イタリア人はオデッサの文化面においても大きな影響を与えている<ref name="arashida2324">嵐田『オデッサ』、23-24頁</ref>。貿易の世界に[[ユダヤ人]]が進出し、貿易活動が停滞するとギリシア人とイタリア人の多くはオデッサを離れ、19世紀後半に入るとギリシア・イタリア系住民の数は減少に転じた<ref>嵐田『オデッサ』、24頁</ref>。 |
|||
== 関連項目 == |
|||
* [[フィリキ・エテリア]] |
|||
* [[カタコンベ]] |
|||
* [[オデッサ国際空港]] |
|||
* [[戦艦ポチョムキン]] |
|||
* [[機動戦士ガンダム]] |
|||
ロシア帝国の他の都市と異なり、オデッサでは[[ユダヤ人]]の生活に課せられる制限が少なく、抑圧に苦しむ多くのユダヤ人がこの町に移り住んだ<ref>嵐田『オデッサ』、26頁</ref>。18世紀後半の[[ポーランド分割]]後、オデッサにポーランド出身のユダヤ人が多く移住し、19世紀後半には町の人口の35%近くをユダヤ人が占めるようになっていた<ref>嵐田『オデッサ』、24-25頁</ref>。オデッサのユダヤ人は商業以外に法曹、医療といった専門分野で活躍し、病院、学校、孤児院などの社会的な施設を設立した<ref>嵐田『オデッサ』、25-26頁</ref>。オデッサはロシア帝国最大のユダヤ人都市となり、19世紀と20世紀の変わり目には人口の約3分の1がユダヤ人で占められていた<ref>中井『ウクライナ・ナショナリズム』、62-63頁</ref>。1870年代以降オデッサでは二度の大規模な[[ポグロム]]が発生し、1905年に起きた最大のポグロムでは1,000人の死者が出、50,000人のユダヤ人が退去したと言われている<ref>嵐田『オデッサ』、27頁</ref>。19世紀末からのポグロムに加えて第二次世界大戦によってユダヤ人人口は激減し、1959年当時のオデッサの人口はウクライナ人の273,000人、ロシア人の254,000人に対してユダヤ人の人口は107,000人で、割合は16%となっていた<ref name="nakai65">中井『ウクライナ・ナショナリズム』、65頁</ref>。それでもオデッサはウクライナ、ひいてはソ連最大のユダヤ人コミュニティを有していたが、1970年代からのユダヤ人の大量出国によって人口の減少に拍車がかかった<ref name="nakai65"/>。 |
|||
== 出典 == |
|||
ソビエト連邦時代のオデッサではウクライナ化、ロシア化が進められたために国際都市の特徴が失われ、ウクライナ南部地方の中心都市に変化していった<ref name="arashida33">嵐田『オデッサ』、33頁</ref>。1930年代にソビエト政府はウクライナ化政策をロシア化政策に転換し、オデッサでも文化的・言語的にロシア化が進展した<ref name="nakai66">中井『ウクライナ・ナショナリズム』、66頁</ref>。オデッサは民族解放運動が盛んな町としても知られ、ロシア帝国やオスマン帝国からの独立を志向する運動家、[[シオニスト]]、革命家の活動拠点となった<ref>嵐田『オデッサ』、30頁</ref>。 |
|||
=== 言語 === |
|||
ウクライナ人が多数派であるにもかかわらず、町ではロシア語が支配的な地位を有している。2015年では、家庭で話される言語の割合はロシア語が78%、ウクライナ語が6%、ロシア語とウクライナ語の両方が15%だった<ref name=iri1/>。ウクライナ東部・南部の地域と同様に、オデッサではウクライナ語よりもロシア語の方が多く話されていると言われており、オデッサのロシア語には独特の語彙や言い回しが使われている<ref>嵐田『オデッサ』、40頁</ref>。多民族都市として誕生したオデッサでは多くの言語が話され、19世紀末には50以上の言語が使われていたという<ref>嵐田『オデッサ』、27-28頁</ref>。 |
|||
多民族都市の様相を示していた19世紀後半のオデッサでは人口の50.78%を占めるロシア語話者と32.5%を占める[[イディッシュ語]]の話者が二大勢力となっていた<ref name="nakai63">中井『ウクライナ・ナショナリズム』、63頁</ref>。ウクライナ語の話者は3番目に多いものの、ロシア帝国ではウクライナ語の使用・教育が禁止されていたため、5.66%にとどまっている<ref name="nakai63"/>。初期のオデッサで活躍したイタリア人が話す[[イタリア語]]は長い間オデッサの主要な言語となり、公正証書、勘定表、価格表だけでなく劇場の広告がイタリア語で表記されていた<ref name="arashida2324"/>。ソ連時代のオデッサでは言語のロシア化が進められ、1990年にオデッサで実施された調査において市の人口の65%、ウクライナ人の3分の1以上、ユダヤ人の大部分がロシア語が母語だと回答した<ref name="nakai66"/>。 |
|||
=== 民族構成の遷移 === |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:right" |
|||
! |
|||
!colspan="2"|1897年<ref>http://demoscope.ru/weekly/ssp/rus_lan_97_uezd.php?reg=1665</ref> |
|||
!colspan="2"|1926年<ref>{{cite web|url=http://demoscope.ru/weekly/ssp/sng_nac_26.php?reg=2119/ |title=Данные Всесоюзной переписи населения 1926 года по регионам республик СССР |publisher=Demoscope.ru |accessdate=22 May 2014}}</ref> |
|||
!colspan="2"|1939年<ref>{{cite web|url=http://demoscope.ru/weekly/ssp/ussr_nac_39_ra.php?reg=336 |title=Всесоюзная перепись населения 1939 года. Национальный состав населения районов, городов и крупных сел союзных республик СССР |publisher=Demoscope.ru |accessdate=15 April 2015}}</ref> |
|||
!colspan="2"|2001年<ref>http://2001.ukrcensus.gov.ua/eng/results/general/nationality/Odesa</ref> |
|||
|- |
|||
|1||[[ロシア人]]||198,233人(49.09%)||ロシア人||162,789人(39.97%)||ユダヤ人||200,961人(33.26%)||ウクライナ人||622,900人(61.6%) |
|||
|- |
|||
|2||[[ユダヤ人]]||124,511人(30.83%)||ユダヤ人||153,243人(36.69%)||ロシア人||186,610人(30.88%)||ロシア人||292,000人(29.0%) |
|||
|- |
|||
|3||[[ウクライナ人]]||37,925人(9.39%)||ウクライナ人||73,453人(17.59%)||ウクライナ人||178,878人(29.60%)||ブルガリア人||13,300人(1.3%) |
|||
|- |
|||
|4||[[ポーランド人]]||17,395人(4.31%)||ポーランド人||10,021人(2.40%)||ポーランド人||8,829人(1.46%)||ユダヤ人||12,400人(1.2%) |
|||
|- |
|||
|5||[[ドイツ人]]||10,248人(2.54%)||ドイツ人||5,522人(1.32%)||ドイツ人||8,424人(1.39%)||モルドバ人||7,600人(0.7%) |
|||
|- |
|||
|6||[[ギリシア人]]||5,086人(1.26%)||ベラルーシ人||2,501人(0.60%)||ブルガリア人||4,967人(0.82%)||ベラルーシ人||6,400人(0.6%) |
|||
|- |
|||
|7||[[クリミア・タタール人|タタール人]]||1,437人(0.36%)||アルメニア人||1,843人(0.44%)||モルドバ人||2,573人(0.43%)||アルメニア人||4,400人(0.4%) |
|||
|- |
|||
|8||[[アルメニア人]]||1,401人(0.35%)||ギリシア人||1,377人(0.33%)||アルメニア人||2,298人(0.38%)||ポーランド人||2,100人(0.2%) |
|||
|- |
|||
|9||[[ベラルーシ人]]||1,267人(0.31%)||[[ブルガリア人]]||1,186人(0.28%) |
|||
|- |
|||
|10||[[フランス人]]||1,137人(0.28%)||[[モルドバ人]]||1,048人(0.25%) |
|||
|} |
|||
== 経済 == |
|||
[[Image:Arkadiya.jpg|thumb|right|180px|アルカーディヤの風景]] |
|||
デ・リバス、リシュリューらによって統治された初期のオデッサは貿易・商業の発展に重点が置かれ、オデッサの背後に広がる穀倉地帯から集まる穀物の輸出を基盤としてロシア有数の国際貿易港に成長した<ref>嵐田『オデッサ』、6-7,9頁</ref>。19世紀半ばの自由貿易港時代に交易はより活発になり、オデッサの穀物輸出で主要な役割を果たしていたギリシア人とイタリア人によってウクライナの小麦がヨーロッパ中に輸出され、ウクライナは「ヨーロッパのパンかご」と呼ばれるようになった<ref name="arashida16">嵐田『オデッサ』、16頁</ref>。1847年の時点では、ロシア帝国全土から輸出される穀物のうち、半分以上がオデッサから積み出されていた<ref>黒川『物語 ウクライナの歴史』、158頁</ref>。小麦以外には[[鉄]]、[[麻]]、ロープ類、[[皮革]]、[[獣脂]]が輸出されたほか、輸入量も大きく増加し、ワイン、果物、タバコ、絹などの輸入品の一大集積地となった<ref name="arashida16"/>。また、貿易・商業の振興に伴って金融機関が整備され、1804年に商業銀行、1806年にロシア初とされる海上保険会社が設立された<ref name="arashida10">嵐田『オデッサ』、10頁</ref>。1880年代から港湾施設の老朽化やウクライナの対外的な小麦の供給地としての地位の低下のため、オデッサの貿易に陰りが見え始め、輸出総額と輸入総額が減少する<ref>嵐田『オデッサ』、21頁</ref>。 |
|||
オデッサ最初の工場は、[[1799年]]にフランス人によって建てられた化粧品の工場である<ref name="arashida17"/>。後背地から豊富な原料を調達できるオデッサには、[[マカロニ]]、[[ビール]]、[[ウオッカ]]、ロープ類、獣脂、[[石鹸]]、[[ロウソク]]などの加工製品の工場が多く建てられた<ref name="arashida17"/>。19世紀末からは加工工業に代わり、金属工業が成長を見せ始める<ref name="arashida31"/>。 |
|||
ソビエト政権下のオデッサでは外国との自由取引が制限されていたために貿易の役割が低下し、金属工業、機械製造業が主要な産業となった<ref name="arashida33"/>。オデッサに30以上の企業が新設され、古いものは再建された<ref name="c-jiten1973"/>。1940年の工業生産は1913年の水準の8倍に達した<ref name="c-jiten1973"/><ref name="arashida33"/>。第二次世界大戦後にオデッサの重要性は低下するが、工業の一中心地としての地位を保ち続けた<ref name="bri"/>。主として工作機械、鉱山用・農業用機械、クレーン、ウィンチ、ガス発生炉、冷凍機、印刷機、映写機、計量器などの機械が生産されていた<ref name="bri"/>。 |
|||
ウクライナ独立後のオデッサの主要工業は機械製造、金属加工、造船、食品加工、石油化学などで、ソ連時代と比べて大きな変化は無い<ref name="arashida37">嵐田『オデッサ』、37頁</ref>。2002年5月にはオデッサと[[ブロディ]]を結ぶ石油パイプラインが完成した。 |
|||
ソビエト連邦時代に保養地としての開発が進められ、[[サナトリウム]]や休息の家が建設され、泥や鉱泉を利用した治療が行われた<ref name="arashida33"/>。オデッサの近郊にはアルカーディヤなどのビーチが点在する。 |
|||
== 建築物 == |
|||
19世紀初頭のオデッサの町並みは「海賊の集落」と呼ばれるように建設が進んでいなかったが、1803年に長官としてオデッサに赴任したリシュリューによって町作りが進められていった<ref name="arashida10"/>。デ・リバスの都市計画を生かした上で左右対称の町並みが形作られ、[[新古典主義建築|新古典主義様式]]の建物が建てられていった<ref name="arashida10"/>。建物の建設以外に並木道の整備、街灯の設置が進められ、植林が推奨された<ref name="arashida11"/>。リシュリュー時代を代表する建築物として1809年に完成した市立劇場があり、800の座席と立見席を有していたが、1873年に劇場は火災で焼失した<ref name="arashida10"/>。19世紀後半には[[1884年]]に完成した[[オデッサ駅]]、[[1887年]]に再建された市立劇場、[[1898年]]に完成した新しい証券取引所などのオデッサを代表する建築物のいくつかが建てられた<ref>嵐田『オデッサ』、20頁</ref>。オデッサの開発にあたって必要な石材は現地で調達され、石材の採掘跡として1,000kmにわたる地下道が残された<ref>地球の歩き方編集室『ロシア』(2012-2013年版)、485頁</ref>。第二次世界大戦期に地下道はパルチザンの拠点となり、一部はパルチザン記念博物館として一般に公開されている。 |
|||
歩行者道のデリバスィフスカ通りはオデッサの中心で、商店や安宿が集まっている<ref name="aruki481">地球の歩き方編集室『ロシア』(2012-2013年版)、481頁</ref>。もう一つの表通りである高台を通るプリモールスキー並木通りは、デリバスィフスカ通りとは対照的に閑静な雰囲気がある<ref name="aruki481"/>。町の各所にはデ・リバス、リシュリュー、ヴォロンツォフら町の建設に貢献した人物や、オデッサに滞在したプーシキンの像が建てられている。市の中心部にはポチョムキン号の水兵を記念するモニュメントが置かれているが、帝政ロシア時代にはエカチェリーナ2世の像が建てられていた。[[アレクサンドル2世]]によって建設されたアレクサンドル公園はソ連時代にシェフチェンコ公園に改称され、公園に建てられていたアレクサンドル2世を追悼するモニュメントはシェフチェンコの像に代えられている<ref name="arashida57">嵐田『オデッサ』、57頁</ref>。 |
|||
=== 主な観光名所 === |
|||
* オペラ・バレエ劇場 - 1873年に市立劇場が焼失した後、1887年建てられた劇場で、オデッサのシンボルとして知られている<ref>嵐田『オデッサ』、58-59頁</ref>。[[ウィーン]]の建築家であるフェルナーとヘルマーの設計によって1883年から建設が開始され、1887年に完成した。イタリア・ルネサンス様式とバロック様式が融合した建築物で、外壁にはプーシキン、ゴーゴリ、[[アレクサンドル・グリボエードフ|グリボエードフ]]、[[ミハイル・グリンカ|グリンカ]]の胸像が飾られている<ref name="arashida59">嵐田『オデッサ』、59頁</ref>。また、正面[[ファサード]]には音楽、舞踏、喜劇、悲劇の神の彫像が置かれている。 |
|||
* [[ポチョムキンの階段]] - 1837年から1842年にかけて建設された階段。最上段の幅は12.5m、最下段の幅は21mと下に向かうにつれて広くなり、下から見上げると踊り場は見えず、上から見下ろすと踊り場は見えるが段は見えない<ref name="arashida57"/>。階段を上った先にある広場にはリシュリューの像が建つ。映画『1905年』の撮影のためにオデッサを訪れた[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]はこの階段にインスピレーションを得て『[[戦艦ポチョムキン]]』の制作に取り掛かった<ref>嵐田『オデッサ』、53頁</ref>。 |
|||
* ヴォロンツォフ宮殿 - 1828年に建設された総督ヴォロンツォフの居所。1905年の革命後は技師学校とされ、ソ連時代には[[ピオネール宮殿]]として使われた。 |
|||
* 愛の橋 - プリモールスキー並木通りの西端に架かる橋。恋人たちや新郎新婦は愛の誓いとして橋の欄干に南京錠をかけていく<ref>地球の歩き方編集室『ロシア』(2012-2013年版)、484頁</ref>。 |
|||
* オデッサ美術館 - ソフィーシカ通りに位置する。オデッサ最古の邸宅の一つである、1810年にポトツキー伯爵邸として建設された建物<ref>嵐田『オデッサ』、60頁</ref>。 |
|||
19世紀末に市長を務めていたマラズリによって市に寄贈され、1899年に美術館として開設された。収蔵品は10,000を超え、オデッサをモチーフとした作品を描いたコスタンジ、[[イヴァン・アイヴァゾフスキー]]の作品も展示されている。 |
|||
* 東洋西洋美術館 - プーシキン通りに位置する。1920年開館。展示室は古代美術、東洋美術、西洋美術の3部門に分けられている。 |
|||
* オデッサ考古学博物館 - ランジェロン通りに位置する。160,000点以上の黒海北岸の古代史に関する収蔵品を擁する<ref name="arashida61">嵐田『オデッサ』、61頁</ref>。 |
|||
* 国立オデッサ文学博物館 - 1977年設立、1984年開館<ref name="arashida61"/>。バーベリらオデッサ出身の作家やプーシキンらオデッサにゆかりのある作家に関する展示品が置かれている。 |
|||
* プーシキン博物館 - プーシキンが滞在したホテルの跡地に建てられた博物館。プーシキンが滞在していた当時の部屋が再現されている。 |
|||
* オデッサ動物園 |
|||
<gallery> |
|||
ファイル:Украина, Одесса - Оперный театр 04.jpg|オペラ・バレエ劇場 |
|||
ファイル:Odessa-opera-and-ballet-theater-edit.jpg|オペラ・バレエ劇場の内装 |
|||
ファイル:Potěmkinovy schody.jpg|ポチョムキンの階段 |
|||
ファイル:Одеса - Воронцовський палац P1050259.JPG|ヴォロンツォフ宮殿 |
|||
ファイル:City Hall Odessa 1.jpg|シティホール |
|||
ファイル:Odessa vlasenko.jpg|リシュリューの像 |
|||
ファイル:Odessa city garden and Deribasovskaya street.jpg|デリバスィフスカ通り |
|||
ファイル:Украина, Одесса - Приморский бульвар, 9.jpg|プリモールスキー並木通り |
|||
</gallery> |
|||
== 教育 == |
|||
19世紀半ばまでにオデッサに歴史・考古学博物館、大学が設置された<ref name="c-jiten1973"/>。オデッサはウクライナ南部の教育の中心地であり、{{仮リンク|オデッサ大学|en|Odessa University}}をはじめとする14の大学や様々な研究機関が置かれている<ref name="arashida38">嵐田『オデッサ』、38頁</ref>。角膜移植で知られるフィラトフ研究所はオデッサに置かれている。 |
|||
[[1805年]]にオデッサにはじめて貴族学校が開設され、その後全ての人間に入学が認められた[[ギムナジウム|ギムナジヤ]]が開設される<ref name="arashida11"/>。[[1817年]]に二つの学校は統合され、両方の学校の創立者であるリシュリューの名前に由来する「リシュリュー貴族学校」と命名された<ref name="arashida11"/>。1860年代に[[ノヴォロシア]]地域に大学を設置する計画が持ち上がり、1865年にリシュリュー貴族学校はノヴォロシア大学に改組された<ref name="arashida19">嵐田『オデッサ』、19頁</ref>。ロシア革命後にノヴォロシア大学はいくつかの大学に分割されるが、1933年に統合されてオデッサ大学に改称し、1945年からは大学で教育・研究に従事した医学者[[イリヤ・メチニコフ]]の名前を冠するようになる。 |
|||
== 交通 == |
|||
[[Image:Одесса. Морской порт..JPG|thumb|right|160px|オデッサ港の遠景]] |
|||
[[Image:Будівля залізничного вокзалу 01.jpg|thumb|right|160px|オデッサ駅]] |
|||
{{仮リンク|オデッサ港|en|Port of Odessa}}は貿易港、漁港、軍港の機能を併せ持ち、世界100か国、600以上の港から出航する船舶がオデッサに入港している<ref name="arashida36"/>。オデッサ港の全長は約8kmで全長250m、吃水12.5mまでの船舶を収容できる<ref name="arashida36"/>。[[イスタンブル]]、[[ハイファ]]、[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]などのウクライナ国外の都市との間にフェリーや客船が定期的に運航されており、夏季には地中海などからのクルーズ船が寄港する<ref name="arashida37"/>。 |
|||
オデッサは鉄道の重要な拠点でもあり、ウクライナ国内の各都市やモスクワやサンクトペテルブルクなどの旧ソ連の都市と接続され、[[ワルシャワ]]、[[プラハ]]、[[ウィーン]]、[[ベルリン]]との間に定期的に旅客列車が運行されている。[[1865年]]にオデッサとバルタを結ぶ鉄道が開通し、[[1872年]]に線路が[[ハルキウ]](ハリコフ)まで延伸されたことで[[モスクワ]]、ペテルブルクと接続された<ref>嵐田『オデッサ』、18頁</ref>。[[1880年]]には[[ベルギー]]の企業によって[[馬車鉄道]]が開業し、19世紀末の鉄道馬車の総延長は80kmに達していた<ref name="arashida20"/>。1884年に新古典様式の駅舎が完成する<ref name="arashida59"/>。1944年にドイツ軍によって駅舎は破壊されるが、1952年に原形を生かした建物が再建された。 |
|||
ロシア国内の他の都市よりも早く[[自転車]]が流行し、1880年代に新しいもの好きの市民の間で自転車が流行した<ref name="arashida29">嵐田『オデッサ』、29頁</ref>。[[1891年]]のオデッサではロシア国内で初めて自動車が走り、ベンツ、フォード、オペルなどの店舗が進出した<ref name="arashida29"/>。長距離バスはウクライナ内の都市だけでなく、ブルガリア、ギリシアに向かう便も存在する<ref name="arashida37"/>。 |
|||
市街地の南西12kmの地点には[[オデッサ国際空港]]が置かれている<ref>地球の歩き方編集室『ロシア』(2012-2013年版)、480頁</ref>。1908年にオデッサ飛行クラブが設立され、1910年3月にはミハイル・エフィーモフの乗る飛行機がオデッサの競馬場から離陸し、ロシア人によるロシア国内での初飛行を成功させた<ref name="arashida29"/>。 |
|||
== 文化 == |
|||
[[Image:Pushkinskaya-13-2.jpg|thumb|right|160px|プーシキン博物館のプーシキン像]] |
|||
[[Image:Vassily Kandinsky, 1898 - Odessa Port.jpg|thumb|right|160px|[[ワシリー・カンディンスキー]]『オデッサ港』(1898年)]] |
|||
=== 文学 === |
|||
[[アレクサンドル・プーシキン]]、[[ニコライ・ゴーゴリ]]、[[マクシム・ゴーリキー]]らのロシア文壇の作家はオデッサに滞在し、町を創作のモチーフとした<ref>嵐田『オデッサ』、40-41頁</ref>。ロシア革命の直後には[[アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ|アレクセイ・トルストイ]]、[[イヴァン・ブーニン]]らソビエト政権の樹立を受け入れない作家が一時期オデッサに亡命した。しかし、20世紀初頭まで[[ロシア文学]]史上に名前を残すオデッサ生まれの作家は現れなかった<ref name="arashida2005-85"/>。 |
|||
ソビエト時代初期の1920年代に[[イサーク・バーベリ]]、[[ワレンチン・カターエフ]]、[[ユーリイ・オレーシャ]]らの作家がオデッサに現れ、1920年代後半にモスクワに移って本格的な文学活動を開始し、ソビエト文学界から注目を集めた<ref>嵐田『オデッサ』、42-43頁</ref>。オデッサ出身の作家には、社会性・思想性を重視する伝統的な[[ロシア文学]]とは異なる幻想的な作風、あらすじの重視、オデッサ独特のロシア語文体といった共通性が見られ、評論家の[[ヴィクトル・シクロフスキー]]は彼らを「南西派」と呼んだ<ref>嵐田『オデッサ』、45-46頁</ref>。 |
|||
ユダヤ人が多いオデッサは[[メンデレ・スフォリム]]や[[ショーレム・アレイヘム]]といった[[イディッシュ文化|イディッシュ]]の作家とも繋がりがあり、[[ポーランド]]の詩人[[アダム・ミツキェヴィチ]]、[[ブルガリア]]の作家[[イヴァン・ヴァゾフ]]はオデッサ滞在中に作品を書き上げている<ref>嵐田『オデッサ』、47-48頁</ref>。[[ウクライナ文学]]に対するオデッサの影響は薄いと言われ、[[タラス・シェフチェンコ]]、[[イヴァン・フランコ]]、[[レーシャ・ウクラインカ]]らの作家は文学活動よりも民族解放運動に従事する形でオデッサと関わりを持った<ref>嵐田『オデッサ』、47頁</ref>。 |
|||
=== 音楽 === |
|||
オデッサの貿易において重要な役割を果たしたイタリア人によって、19世紀のオデッサにイタリアの音楽文化が広められた<ref name="arashida48">嵐田『オデッサ』、48頁</ref>。中でも[[オペラ]]は上流階級から庶民に至るまで人気を集め、19世紀のロシア帝国におけるイタリア・オペラの中心地はペテルブルク、モスクワではなくオデッサだったとも言われる<ref name="arashida48"/>。オペラ以外の芸術音楽も徐々に根付いていき、1842年にオデッサ音楽協会が設立され、1860年には交響楽団が結成された<ref name="arashida49">嵐田『オデッサ』、49頁</ref>。庶民や暗黒街の人間は居酒屋で音楽に親しみ、居酒屋ではヴァイオリニストが活躍していた<ref>嵐田「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』、89-90頁</ref>。 |
|||
1887年に再建されたオペラ・バレエ劇場では、[[ピョートル・チャイコフスキー]]、[[フョードル・シャリアピン]]などの国内外の音楽家が上演を行った。 |
|||
1897年に開設された音楽学校は1913年にオデッサ音楽院に改編され、音楽院から多くの演奏家が巣立っていった。オデッサでは世界的な名演奏家が多く生まれ、特に[[ダヴィッド・オイストラフ]]などのヴァイオリニストが多い<ref>嵐田「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』、89頁</ref>。 |
|||
== 国際関係 == |
|||
オデッサには[[ルーマニア]]、[[ギリシャ]]、[[ポーランド]]、[[トルコ]]、[[ロシア]]、[[グルジア|ジョージア]](グルジア)の総領事館が置かれ、 |
|||
[[イタリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[カザフスタン]]、[[ラトビア]]の領事機関、[[イスラエル]]の文化機関が設置されている<ref>嵐田『オデッサ』、37-38頁</ref>。また、[[1902年]]から[[1934年]]までの間には[[日本]]の領事館が開設されていた。オデッサ市沿海地区には、ウクライナ人を父に持つ横綱[[大鵬幸喜|大鵬]]の銅像が建てられている<ref>[http://jp.rbth.com/blogs/2014/01/21/46803.html ロシアNOW 大鵬~昭和の大横綱](2015年12月閲覧)</ref><ref>[http://www.segodnya.ua/regions/odessa/v-tsentre-odeccy-zatailcja-borets-cumo-koki.html В центре Одессы затаился борец сумо Коки](2015年12月閲覧)</ref>。 |
|||
オデッサは世界各地の都市と姉妹都市協定を結んでおり、その多くが国際的な港湾都市である<ref name="arashida38"/>。 |
|||
=== 姉妹都市 === |
|||
{{div col|3}} |
|||
* {{flagicon|EGY}} [[アレクサンドリア]]([[エジプト]]、1968年) |
|||
* {{flagicon|USA}} [[ボルチモア]]([[アメリカ合衆国]]、1975年<ref name="Baltimore">{{cite web|url=http://baltimore.org/visitors/international/sister-cities|title=Sister Cities|publisher=Baltimore Convention & Tourism Board|accessdate=19 October 2011}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|MDA}} [[キシナウ]]([[モルドバ共和国]]、1994年<ref name="Chișinău twinnings">{{cite web|url=http://www.chisinau.md/tabview.php?l=ro&idc=526|archiveurl=//web.archive.org/web/20120903122220/http://www.chisinau.md/tabview.php?l=ro&idc=526|title=Oraşe înfrăţite (Twin cities of Minsk) ''[via WaybackMachine.com]''|publisher=Primăria Municipiului Chişinău|archivedate=3 November 2012|accessdate=21 July 2013|language=Romanian}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|ROU}} [[コンスタンツァ]]([[ルーマニア]]、1991年) |
|||
* {{flagicon|POL}} [[グダニスク]]([[ポーランド]]) |
|||
* {{flagicon|ITA}} [[ジェノヴァ]]([[イタリア]]、1972年) |
|||
* {{flagicon|ISR}} [[ハイファ]]([[イスラエル]]、1992年<ref>{{cite web |url=http://www.haifa.muni.il/Cultures/en-US/city/CitySecretary_ForeignAffairs/EngActs.htm |archiveurl=//web.archive.org/web/20080621013813/http://www.haifa.muni.il/Cultures/en-US/city/CitySecretary_ForeignAffairs/EngActs.htm |archivedate=21 June 2008 |title=Twin City activities |publisher=Haifa Municipality |accessdate=2 November 2008}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|TUR}} [[イスタンブル]]([[トルコ]]、1997年<ref>{{cite web|url=http://www.greatistanbul.com/sister_cities.htm|title=Sister Cities of Istanbul|accessdate=2 November 2008}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=94185|publisher=Radikal|language=Turkish|date=3 November 2003|quote=49 sister cities in 2003|title=İstanbul'a 49 kardeş|last=Erdem|first=Selim Efe|accessdate=2 November 2008}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|SAU}} [[ジッダ]]([[サウジアラビア]]) |
|||
* {{flagicon|IND}} [[コルカタ]]([[インド]]、1986年<ref name="Kolkata twinnings">{{cite news|last=Mazumdar|first=Jaideep|title=A tale of two cities: Will Kolkata learn from her sister?|url=http://timesofindia.indiatimes.com/city/kolkata/A-tale-of-two-cities-Will-Kolkata-learn-from-her-sister/articleshow/25916888.cms|accessdate=17 November 2013|newspaper=Times of India|date=17 November 2013|location=New Delhi}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|MEX}} [[レオン (メキシコ)|レオン]]([[メキシコ]]、2012年) |
|||
* {{flagicon|UK}} [[リバプール]]([[イギリス]]、1957年<ref>{{cite web|url=http://www.liverpool.gov.uk/Community_and_living/Twinning/index.asp|title=Liverpool City Council: twinning|accessdate=2 November 2008}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|POL}} [[ウッチ]](ポーランド、1993年<ref name="Łódź twinning">{{cite web|url=http://www.uml.lodz.pl/samorzad/miasta_partnerskie_lodzi/tabelka|archiveurl=//web.archive.org/web/20130624211727/http://www.uml.lodz.pl/samorzad/miasta_partnerskie_lodzi/tabelka/|title=Miasta partnerskie – Urząd Miasta Łodzi ''[via WaybackMachine.com]''|accessdate=21 July 2013|archivedate=24 June 2013|work=City of Łódź|language=Polish}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|FRA}} [[マルセイユ]]([[フランス]]、1973年<ref name="Marseille">{{cite web |url=http://www.marseille.fr/vdm/cms/accueil/mairie/international/pid/185 |archiveurl=//web.archive.org/web/20080505065256/http://www.marseille.fr/vdm/cms/accueil/mairie/international/pid/185 |archivedate=5 May 2008 |title=Marseille Official Website – Twin Cities |accessdate=26 November 2008 |publisher=[[File:Flag of France.svg|10px]] 2008 Ville de Marseille|language=fr}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|CYP}} [[ニコシア]]([[キプロス共和国]]、1996年) |
|||
* {{flagicon|FIN}} [[オウル]]([[フィンランド]]、1957年<ref name="Oulu Twin Cities">{{cite web|url=http://www.ouka.fi/oulu/kansainvalisyys/ystavyyskaupungit|title=Ystävyyskaupungit (Twin Cities)|accessdate=27 July 2013|work = Oulun kaupunki (City of Oulu)|language = Finnish}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|GRE}} [[ピレウス]]([[ギリシャ]]、1993年<ref name="Greek twinnings">{{cite web|url=http://www.kedke.gr/uploads/twinnedcities.pdf|title=Twinnings|accessdate=25 August 2013|work=Central Union of Municipalities & Communities of Greece}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|PRC}} [[青島市]]([[中華人民共和国]]、1993年) |
|||
* {{flagicon|GER}} [[レーゲンスブルク]]([[ドイツ]]、1990年) |
|||
* {{flagicon|ISR}} {{仮リンク|ロシュ・ハアイン|en|Rosh HaAyin}}(イスラエル) |
|||
* {{flagicon|RUS}} [[ロストフ・ナ・ドヌ]]([[ロシア]]、1999年) |
|||
* {{flagicon|CRO}} [[スプリト]]([[クロアチア]]、1964年<ref name="Split twinnings">{{cite web|url= http://www.split.hr/Default.aspx?sec=526|title=Gradovi prijatelji Splita|accessdate=19 December 2013|work=Grad Split [Split Official City Website]|language=Croatian|trans_title=Split Twin Towns|archiveurl=//web.archive.org/web/20120324035937/http://www.split.hr/Default.aspx?sec=526|archivedate=24 March 2012}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|HUN}} [[セゲド]]([[ハンガリー]]、1977年) |
|||
* {{flagicon|ESP}} [[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]([[スペイン]]、1982年<ref name="Valencia twinnings">{{cite web|url=http://www.valencia.es/ayuntamiento/rinternacionales_accesible.nsf/vDocumentosTituloAux/D80022569C2533B9C12571F100285E72?OpenDocument&bdOrigen=ayuntamiento%2Frinternacionales_accesible.nsf&idapoyo=&lang=1&nivel=3|title=Ciudades Hermanadas con València|accessdate=8 August 2013|work = Ajuntament de València [City of Valencia]|trans_title=Valencia Twin/Sister Cities|language=Spanish|archiveurl=//web.archive.org/web/20121029071705/http://www.valencia.es/ayuntamiento/rinternacionales_accesible.nsf/vDocumentosTituloAux/D80022569C2533B9C12571F100285E72?OpenDocument&bdOrigen=ayuntamiento%2Frinternacionales_accesible.nsf&idapoyo=&lang=1&nivel=3|archivedate=23 October 2012}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|TUR}} [[ヴァン]],(トルコ) |
|||
* {{flagicon|CAN}} [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]([[カナダ]]、1944年<ref name="Vancouver">{{cite web|url=http://vancouver.ca/ctyclerk/cclerk/20080311/documents/a14.pdf|format=PDF|title=Vancouver Twinning Relationships|publisher=City of Vancouver|accessdate=18 July 2009}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|BUL}} [[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]([[ブルガリア]]、1958年) |
|||
* {{flagicon|ARM}} [[エレバン]]([[アルメニア]]、1995年<ref name="Yerevan twinnings 2">{{cite web|url=http://www.yerevan.am/en/partner/sister-cities/|title=Yerevan – Twin Towns & Sister Cities|accessdate=4 November 2013|work=Yerevan Municipality Official Website|publisher= 2005–2013 www.yerevan.am}}</ref><ref name="Yerevan twinnings">{{cite web|url=http://www.yerevan.am/pages.php?lang=1&id=184&page_name=news|title=hy:ԵՐԵՎԱՆԻ ՔԱՂԱՔԱՊԵՏԱՐԱՆՊԱՇՏՈՆԱԿԱՆ ԿԱՅՔ|publisher=[http://www.yerevan.amwww.yerevan.am]|accessdate=5 August 2013|trans_title=Yerevan expanding its international relations|language=Armenian|archiveurl=//web.archive.org/web/20130512174924/http://www.yerevan.am/pages.php?lang=1&id=184&page_name=news|archivedate=12 May 2013}}</ref></small>) |
|||
* {{flagicon|JPN}} [[横浜市]]([[日本]]、1965年<ref>黒川『物語 ウクライナの歴史』、257頁</ref><ref>{{cite web |url=http://www.city.yokohama.lg.jp/kokusai/exchange/odessa.html|title=トップページ > 国際局 > 国際交流 > オデッサ市|accessdate=2015年12月}}</ref>) |
|||
{{div col end}} |
|||
=== 友好都市 === |
|||
{{div col|3}} |
|||
* {{flagicon|BLR}} [[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]]([[ベラルーシ]]、2004年<ref>{{cite web|url=http://city.brest.by/article_in.php?id=1464&tc=26&tc2=31 |title=ru:Побратимские связи г. Бреста |language=ru |publisher=City.brest.by |accessdate=3 October 2010}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|POL}} グダニスク(ポーランド、1996年<ref name="Gdańsk">{{cite web|url=http://www.gdansk.pl/samorzad,62,733.html|title=Gdańsk Official Website: 'Miasta partnerskie'|publisher=2009 [http://www.gdansk.pl/ Urząd Miejski w Gdańsku]|language=Polish, English|accessdate=11 July 2009}}</ref>) |
|||
* {{flagicon|GRE}} [[イラクリオン]](ギリシャ、1992年) |
|||
* {{flagicon|LTU}} [[クライペダ]]([[リトアニア]]、2004年) |
|||
* {{flagicon|CYP}} [[ラルナカ]](キプロス共和国、2004年<ref name="Greek twinnings" />) |
|||
* {{flagicon|BLR}} [[ミンスク]](ベラルーシ、1996年) |
|||
* {{flagicon|RUS}} [[モスクワ]](ロシア、1995年) |
|||
* {{flagicon|PRC}} [[寧波市]](中華人民共和国、2008年) |
|||
* {{flagicon|RUS}} [[サンクトペテルブルク]](ロシア、2002年) |
|||
* {{flagicon|RUS}} [[タガンログ]](ロシア、1993年) |
|||
* {{flagicon|EST}} [[タリン]]([[エストニア]]、1997年) |
|||
* {{flagicon|GEO}} [[トビリシ]]([[グルジア|ジョージア]]、1996年) |
|||
* {{flagicon|CHI}} [[バルパライソ]]([[チリ]]、2004年) |
|||
* {{flagicon|AUT}} [[ウィーン]]([[オーストリア]]、2006年) |
|||
* {{flagicon|RUS}} [[ヴォルゴグラード]](ロシア、2001年) |
|||
{{div col end}} |
|||
== 主なオデッサ出身の人物 == |
|||
* [[レフ・トロツキー]] - [[ボリシェビキ]]・[[ソビエト連邦]]の政治家、[[マルクス主義]]思想家 |
|||
* [[アンドレイ・ヴィシンスキー]] - 政治家、法曹家、外交官 |
|||
* [[ゼエヴ・ジャボチンスキー]] - [[シオニスト]] |
|||
* [[ロディオン・マリノフスキー]] - 軍人 |
|||
* [[スタニスラフ・ペトロフ]] - 軍人 |
|||
* [[ゲンリフ・リュシコフ]] - ソビエト連邦秘密警察 |
|||
* [[ミハエル・コーガン]] - 実業家。[[タイトー]]の創業者。 |
|||
* [[イサーク・バーベリ]] - 作家 |
|||
* [[ワレンチン・カターエフ]] - 作家 |
|||
* [[ウラジーミル・アーノルド]] - 数学者 |
|||
* [[イズライル・ゲルファント]] - 数学者 |
|||
* [[ジョージ・ガモフ]] - 物理学者 |
|||
* [[アレクサンドル・モギレフスキー]] - ヴァイオリニスト |
|||
* [[ダヴィッド・オイストラフ]] - ヴァイオリニスト |
|||
* [[ナタン・ミルシテイン]] - ヴァイオリニスト |
|||
* [[アナスタシア・チェボタリョーワ]] - ヴァイオリニスト |
|||
* [[エミール・ギレリス]] - ピアニスト |
|||
* [[ヴラディーミル・ド・パハマン]] - ピアニスト |
|||
* [[ベンノ・モイセイヴィチ]] - ピアニスト |
|||
* [[シューラ・チェルカスキー]] - ピアニスト |
|||
* [[マリヤ・グリンベルク]] - ピアニスト |
|||
* [[ウラジーミル・トゥクマコフ]] - チェスプレーヤー |
|||
* [[イダ・カミンスカ]] - 女優・演出家 |
|||
* [[イーゴリ・ベラノフ]] - サッカー選手 |
|||
* [[ユーリ・ニキフォロフ]] - サッカー選手 |
|||
* [[エフゲニー・プラトフ]] - フィギュアスケート選手 |
|||
* [[ヴィクトール・ペトレンコ]] - フィギュアスケート選手 |
|||
* [[オクサナ・グリシュク]] - フィギュアスケート選手 |
|||
== オデッサを舞台とする作品 == |
|||
* 『オネーギンの旅の断章』([[アレクサンドル・プーシキン]]) |
|||
* 『ガムブリヌス』([[アレクサンドル・クプリーン]]) |
|||
* 『魔窟』(アレクサンドル・クプリーン) |
|||
* 『チェルカッシ』([[マクシム・ゴーリキー]]) |
|||
* 『[[オデッサ物語]]』([[イサーク・バーベリ]]) |
|||
* 『オデッサのスタジアム』{[[ワレンチン・カターエフ]]) |
|||
* 『鉄の指輪』(ワレンチン・カターエフ) |
|||
* 『[[戦艦ポチョムキン]]』 |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
{{Reflist}} |
{{Reflist|3}} |
||
== 参考文献 == |
|||
* 青木節也、中井和夫「オデッサ」『ロシアを知る事典』新版収録(平凡社, 2004年1月) |
|||
* 嵐田浩吉「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』収録(水声社, 2005年4月) |
|||
* 嵐田浩吉『オデッサ』(ユーラシア・ブックレット, 東洋書店, 2007年6月) |
|||
* 香山陽坪「オデッサ」『世界地名大事典』1巻収録(朝倉書店, 1973年) |
|||
* 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』(中公新書, 中央公論新社, 2002年8月) |
|||
* 地球の歩き方編集室『ロシア』(2012-2013年版)(地球の歩き方, ダイヤモンド社, 2012年6月) |
|||
* 中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム』(東京大学出版会, 1998年11月) |
|||
* 『ブリタニカ国際大百科事典』3(ティビーエス・ブリタニカ, 1972年7月) |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2016年1月27日 (水) 05:25時点における版
オデッサ Одеса | |||||
---|---|---|---|---|---|
ポチョムキンの階段 | |||||
| |||||
位置 | |||||
オデッサの位置 | |||||
座標 : 北緯46度28分0秒 東経30度44分0秒 / 北緯46.46667度 東経30.73333度 | |||||
歴史 | |||||
Founded | 1794年 | ||||
行政 | |||||
国 | ウクライナ | ||||
州 | オデッサ州 | ||||
市 | オデッサ | ||||
市長 | Труханов Геннадій Леонідович | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 163 km2 (62.9 mi2) | ||||
標高 | 40 m (131 ft) | ||||
人口 | |||||
人口 | (2015年7月1日現在) | ||||
市域 | 1,012,300[1]人 | ||||
人口密度 | 6,210人/km2(16,094人/mi2) | ||||
都市圏 | 1,191,000人 | ||||
備考 | 都市圏人口は2001年 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) | ||||
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) | ||||
郵便番号 | 65000 — 65480 | ||||
市外局番 | +380 48 | ||||
公式ウェブサイト : http://omr.gov.ua/ |
オデッサ(ウクライナ語: Одеса [oˈdɛsɐ] オデーサ[2]、ロシア語: Одесса [ɐˈdʲesə])は、ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市である。オデッサ州の州庁所在地で、2015年現在の人口は約101万人、ウクライナで3番目に大きな都市となっている[1]。
面積は約160km2[3]。ドニエストル河口から北に約30km、キエフから約443km南に位置する[4]。
オデッサはウクライナ最大の港湾を備え、ウクライナを代表する工業都市、リゾート地としても知られている[5]。 ロシア帝国時代には黒海に面する港湾都市であるオデッサはロシア帝国と外国の経済・文化の交流の拠点となっていた[6]。20世紀のオデッサ出身の作家スラーヴィンはオデッサの人間の気質について「何かを理解するためにはどんなものでも手でじかに触り、歯で噛んでみなければ気のすまない人だった」と説明している[7]。
名称
オデッサの名称は、この地に古代ギリシアの植民都市オデソスが存在するという誤認に由来すると考えられている[2][8]。実際のオデソスは、オデッサから離れたブルガリアのヴァルナ周辺に存在していた[8]。ギリシア風の名前が付けられた背景には、皇帝エカチェリーナ2世の治世に流行していた古典主義、町の発展に不可欠であるギリシア系商人と植民者の誘致を意図したことが挙げられている[8]。
歴史
建設以前
オデッサ、およびその周辺にはキンメリア人、サルマタイ人、スキタイ人、ギリシア人、スラヴ人が居住していた[9]。オデッサが位置する場所にはタタール人によってカチベイという集落が形成され、15世紀にオスマン帝国によってカチベイの跡地に建設されたハジベイという集落がオデッサの直接の起源にあたる[2][10]。1764年にハジベイにエニ・ドゥニア要塞が建設された[2]。
露土戦争の過程で1789年にロシア帝国はハジベイを占領し、1792年に締結されたヤシ条約によって正式にロシア領に編入された。露土戦争に従軍した海軍中将ホセ・デ・リバス、オランダ人技師デ・ヴォランらは皇帝エカチェリーナ2世にハジベイに港を建設することを進言し、1794年から港の建設が開始される[11]。1795年にハジベイは「オデッサ」に改称される[2][8]。
ロシア帝国時代
エカチェリーナ2世の死後に帝位に就いたパーヴェル1世はリバスを首都ペテルブルクに召還し、オデッサに与えられていた補助金と特権が廃止される。パーヴェル1世の跡を継いだアレクサンドル1世はオデッサの経営に関心を示し、1803年にフランス人アルマン・エマニュエル・リシュリューをオデッサの長官に任命した[12]。また、移民の誘致と並行して、貿易の振興に必要な港湾施設の整備、税制の優遇政策が実施された[13]。リシュリューの下でオデッサは劇的に発展し、1803年当時9,000人だった人口は1813年の時点で35,000人に増加し、1804年に2,340,000ルーブルだった輸出総額は1813年には8,860,000ルーブルに増加する[14]。1812年8月から1814年2月にかけてオデッサでペストが流行し、人口の2割程度が死亡したと推定されている[15]。1814年9月にリシュリューはオデッサ長官の職を辞し、フランスに帰国した。
1819年にオデッサは自由貿易港に定められ、1823年にノヴォロシア総督に就任したミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフの下で自由貿易港となったオデッサは飛躍的な発展を遂げる[16]。ヴォロンツォフは経済の振興以外に文化事業、慈善事業にも力を注ぎ、彼の在任中に考古学博物館、救貧院、孤児院、聾盲学校が設立され、有力紙となる『オデッサ報知』が創刊される[17]。雨後の筍に例えられる急速な発展を遂げたオデッサは「幼年期を持たない都市」とも呼ばれ、19世紀後半に入った後にも成長は続く[18]。また、ペテルブルクからの追放処分を受けていた詩人アレクサンドル・プーシキンは、オデッサ滞在中の一時期ヴォロンツォフに仕えていた。プーシキンとヴォロンツォフの妻は恋仲になり、ヴォロンツォヴァ夫人がプーシキンに贈ったヘブライ文字が刻まれた指輪はオデッサに伝説を残した[19]。プーシキンが指輪を持ち帰ったにもかかわらず、指輪はオデッサに残されていると信じられ、指輪がオデッサを守護し続けていると言われている[19]。
1853年から1856年にかけてのクリミア戦争においてオデッサも戦渦に巻き込まれ、1854年に4月10日にイギリス・フランス合同艦隊の砲撃によって死傷者が出、ヴォロンツォフ宮殿などの建築物も被害を被った[18]。砲撃を受けてもオデッサは抵抗を続け、防御を突破できなかった合同艦隊はやむなく退却する[18]。クリミア戦争時にイギリスのフリゲート艦から奪取した大砲は海並木通りに置かれ、当時の記憶をとどめている[18]。
19世紀末にオデッサはペテルブルク、モスクワ、ワルシャワに次ぐロシア帝国第四の都市に発展し[6]、ペテルブルクに次ぐ貿易港となる[2]。1865年に鉄道が開通し、オデッサ大学の前身であるノヴォロシア大学が開校した。生活用水の需要を満たすために1873年にドニエストル川の水を汲み上げる設備が建設され、翌1874年に大規模な下水道が完成する[20]。上下水道の整備、市当局による環境・衛生状態の調査によりオデッサはロシアを代表する衛生的な都市として知られるようになる[21]。
1875年にロシア初の労働者の政治組織とされる南ロシア労働者同盟がオデッサで結成され、1900年にはロシア社会民主労働党オデッサ委員会が設立された[22]。1905年から1907年にかけてのロシア第一革命ではオデッサは革命運動の一拠点となり、1905年6月には水兵による反乱が起きたポチョムキン号が入港する。革命後に町は落ち着きを取り戻し、穀物輸出と工業生産が上向きを見せ始めた[22]。1914年に第一次世界大戦が勃発した後、オスマン帝国によってダーダネルス海峡が封鎖されたためにオデッサの対外貿易は停止し、町は爆撃を受ける[22]。
ソビエト連邦時代
1917年の二月革命後のオデッサには臨時政府、ソビエト権力、ラーダなどのウクライナ民族派が並立し、それらの勢力に外国の干渉軍も加わって支配権を争った。1918年1月にソビエト政権が支配権を握るが、3月から11月にかけてドイツ・オーストリア軍がオデッサを占領した。ウクライナ民族派のディレクトーリヤの支配を経て、1919年4月までイギリス・フランス連合軍の占領下に置かれる。1919年8月から1920年2月まで反革命勢力のアントーン・デニーキンがオデッサを制圧するが、デニーキンはソビエト軍に破れ、1920年2月7日にオデッサにソビエト政権が樹立された。二月革命からソビエト政権の樹立に至るまでの騒乱はオデッサの経済に大きな痛手を与え、町の建築物の4分の1が破壊されたと言われている[23]。1914年当時のオデッサは630,000人の人口を擁していたがボリシェヴィキ政権を避けて多くの人間がロシア国外に脱出し、さらに1921年から1922年にかけての大飢饉が町の衰退をより進め、1924年に人口は324,000人に減少していた[23]。
ソビエト連邦時代にオデッサはウクライナ共和国オデッサ州の州都に定められる。第二次世界大戦期においては、1941年8月5日にドイツ・ルーマニア軍がオデッサを攻撃し、2か月以上の戦闘の末にソ連軍はセヴァストポリに撤退した(オデッサの戦い (1941年))。1941年10月16日から1944年4月10日までオデッサはナチス・ドイツの占領下に置かれ、複雑に入り組んだ地下の石灰岩の採掘跡を拠点としてパルチザン活動が行われた。第二次世界大戦中にオデッサの多くの建物が破壊され、280,000に及ぶ人間が虐殺・連行されたが、犠牲者の多くはユダヤ人だった[24]。ドイツ軍に対するオデッサ市民の抵抗を顕彰され、戦後町は英雄都市の称号を与えられた。
オデッサの工業は第二次世界大戦後も成長し、1970年代には新しい港湾施設が建設された[24]。1970年代後半に人口は1,000,000人に達し、ソ連時代末期の1989年には1,115,000の人口を擁していた[24]。
-
オデッサの戦いにおいて構築されたバリケード
-
ソビエト連邦期に発行された「英雄都市」オデッサの切手
ウクライナ独立後
ソビエト連邦崩壊後のオデッサには一時的に経済的に困窮した時期が訪れる[25]。2000年3月にオデッサの商業活動を振興するため、約140年ぶりに自由貿易港に指定された[25]。
気候
オデッサは温暖で日照時間も多く、古くから保養地として利用されていた[26]。太陽の光に恵まれているオデッサは映画の撮影にも適し、映画スタジオで多くの作品が生み出された[27]。7月の平均気温は22度、1月の平均気温は-3度[28]。
オデッサ (1981–2010)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 15.1 (59.2) |
18.6 (65.5) |
24.1 (75.4) |
29.4 (84.9) |
33.3 (91.9) |
35.6 (96.1) |
39.3 (102.7) |
38.0 (100.4) |
32.4 (90.3) |
30.5 (86.9) |
26.0 (78.8) |
16.3 (61.3) |
39.3 (102.7) |
平均最高気温 °C (°F) | 2.2 (36) |
2.7 (36.9) |
6.6 (43.9) |
13.0 (55.4) |
19.5 (67.1) |
24.0 (75.2) |
27.0 (80.6) |
26.5 (79.7) |
21.0 (69.8) |
15.0 (59) |
8.4 (47.1) |
3.7 (38.7) |
14.1 (57.4) |
日平均気温 °C (°F) | −0.5 (31.1) |
−0.2 (31.6) |
3.5 (38.3) |
9.4 (48.9) |
15.6 (60.1) |
20.0 (68) |
22.6 (72.7) |
22.3 (72.1) |
17.2 (63) |
11.6 (52.9) |
5.7 (42.3) |
1.1 (34) |
10.7 (51.3) |
平均最低気温 °C (°F) | −2.8 (27) |
−2.6 (27.3) |
1.0 (33.8) |
6.6 (43.9) |
12.1 (53.8) |
16.3 (61.3) |
18.5 (65.3) |
18.2 (64.8) |
13.5 (56.3) |
8.6 (47.5) |
3.2 (37.8) |
−1.2 (29.8) |
7.6 (45.7) |
最低気温記録 °C (°F) | −26.2 (−15.2) |
−28.0 (−18.4) |
−16.0 (3.2) |
−5.9 (21.4) |
0.3 (32.5) |
5.2 (41.4) |
7.5 (45.5) |
7.9 (46.2) |
−0.8 (30.6) |
−13.3 (8.1) |
−14.6 (5.7) |
−19.6 (−3.3) |
−28.0 (−18.4) |
降水量 mm (inch) | 34 (1.34) |
37 (1.46) |
32 (1.26) |
27 (1.06) |
36 (1.42) |
49 (1.93) |
47 (1.85) |
39 (1.54) |
41 (1.61) |
35 (1.38) |
41 (1.61) |
35 (1.38) |
453 (17.83) |
平均降雨日数 | 9 | 7 | 10 | 11 | 12 | 13 | 10 | 8 | 9 | 10 | 13 | 10 | 122 |
平均降雪日数 | 11 | 10 | 6 | 0.4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.2 | 4 | 9 | 41 |
% 湿度 | 83 | 81 | 78 | 74 | 71 | 70 | 66 | 65 | 72 | 77 | 82 | 84 | 75 |
平均月間日照時間 | 77.5 | 81.9 | 124.0 | 186.0 | 263.5 | 291.0 | 313.1 | 300.7 | 240.0 | 170.5 | 78.0 | 55.8 | 2,182 |
出典1:Pogoda.ru[29] | |||||||||||||
出典2:HKO (sun 1961–1990)[30] |
民族・言語
民族
オデッサの民族の中で最大の割合を占めているのはウクライナ人(69%)で[31]、それに次いでロシア人(29%)が多い[32]。
ロシア帝国時代のオデッサは帝国内部から移住したロシア人やウクライナ人と、国外からの移住者が混在するオデッサは多民族都市の性質を持っていた[6]。1803年にオデッサの長官に就任したリシュリューの元で外国人の商人や職人の誘致が行われ、彼らには軍役の免除などの特権が与えられた。ユダヤ人、ドイツ人、フランス人、ギリシア人、ポーランド人、セルビア人、アルメニア人、ハンガリー人、モルドバ人、ブルガリア人、アルバニア人、トルコ人、ロマなどの民族がオデッサに移住している[33]。また、メノー派、古儀式派、ドゥホボール派などの宗教的少数派に属する人間もオデッサとその周辺に移住した[6]。
ギリシア人はオデッサの発展に多大な貢献をし、経済の中心となっていた穀物輸出、ホテルとレストランの経営、文化・公共事業で活躍した[34]。1879年からおよそ4半世紀の間オデッサの市長を勤めたグリゴリー・マラズリはギリシア系移民の子孫の一人で、教育施設、公共図書館の建設を行い、ロシア初の細菌学研究所の設立を支援した。穀物輸出ではギリシア人だけではなくイタリア人も重要な役割を担い、イタリア人はオデッサの文化面においても大きな影響を与えている[35]。貿易の世界にユダヤ人が進出し、貿易活動が停滞するとギリシア人とイタリア人の多くはオデッサを離れ、19世紀後半に入るとギリシア・イタリア系住民の数は減少に転じた[36]。
ロシア帝国の他の都市と異なり、オデッサではユダヤ人の生活に課せられる制限が少なく、抑圧に苦しむ多くのユダヤ人がこの町に移り住んだ[37]。18世紀後半のポーランド分割後、オデッサにポーランド出身のユダヤ人が多く移住し、19世紀後半には町の人口の35%近くをユダヤ人が占めるようになっていた[38]。オデッサのユダヤ人は商業以外に法曹、医療といった専門分野で活躍し、病院、学校、孤児院などの社会的な施設を設立した[39]。オデッサはロシア帝国最大のユダヤ人都市となり、19世紀と20世紀の変わり目には人口の約3分の1がユダヤ人で占められていた[40]。1870年代以降オデッサでは二度の大規模なポグロムが発生し、1905年に起きた最大のポグロムでは1,000人の死者が出、50,000人のユダヤ人が退去したと言われている[41]。19世紀末からのポグロムに加えて第二次世界大戦によってユダヤ人人口は激減し、1959年当時のオデッサの人口はウクライナ人の273,000人、ロシア人の254,000人に対してユダヤ人の人口は107,000人で、割合は16%となっていた[42]。それでもオデッサはウクライナ、ひいてはソ連最大のユダヤ人コミュニティを有していたが、1970年代からのユダヤ人の大量出国によって人口の減少に拍車がかかった[42]。
ソビエト連邦時代のオデッサではウクライナ化、ロシア化が進められたために国際都市の特徴が失われ、ウクライナ南部地方の中心都市に変化していった[43]。1930年代にソビエト政府はウクライナ化政策をロシア化政策に転換し、オデッサでも文化的・言語的にロシア化が進展した[44]。オデッサは民族解放運動が盛んな町としても知られ、ロシア帝国やオスマン帝国からの独立を志向する運動家、シオニスト、革命家の活動拠点となった[45]。
言語
ウクライナ人が多数派であるにもかかわらず、町ではロシア語が支配的な地位を有している。2015年では、家庭で話される言語の割合はロシア語が78%、ウクライナ語が6%、ロシア語とウクライナ語の両方が15%だった[32]。ウクライナ東部・南部の地域と同様に、オデッサではウクライナ語よりもロシア語の方が多く話されていると言われており、オデッサのロシア語には独特の語彙や言い回しが使われている[46]。多民族都市として誕生したオデッサでは多くの言語が話され、19世紀末には50以上の言語が使われていたという[47]。
多民族都市の様相を示していた19世紀後半のオデッサでは人口の50.78%を占めるロシア語話者と32.5%を占めるイディッシュ語の話者が二大勢力となっていた[48]。ウクライナ語の話者は3番目に多いものの、ロシア帝国ではウクライナ語の使用・教育が禁止されていたため、5.66%にとどまっている[48]。初期のオデッサで活躍したイタリア人が話すイタリア語は長い間オデッサの主要な言語となり、公正証書、勘定表、価格表だけでなく劇場の広告がイタリア語で表記されていた[35]。ソ連時代のオデッサでは言語のロシア化が進められ、1990年にオデッサで実施された調査において市の人口の65%、ウクライナ人の3分の1以上、ユダヤ人の大部分がロシア語が母語だと回答した[44]。
民族構成の遷移
1897年[49] | 1926年[50] | 1939年[51] | 2001年[52] | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ロシア人 | 198,233人(49.09%) | ロシア人 | 162,789人(39.97%) | ユダヤ人 | 200,961人(33.26%) | ウクライナ人 | 622,900人(61.6%) |
2 | ユダヤ人 | 124,511人(30.83%) | ユダヤ人 | 153,243人(36.69%) | ロシア人 | 186,610人(30.88%) | ロシア人 | 292,000人(29.0%) |
3 | ウクライナ人 | 37,925人(9.39%) | ウクライナ人 | 73,453人(17.59%) | ウクライナ人 | 178,878人(29.60%) | ブルガリア人 | 13,300人(1.3%) |
4 | ポーランド人 | 17,395人(4.31%) | ポーランド人 | 10,021人(2.40%) | ポーランド人 | 8,829人(1.46%) | ユダヤ人 | 12,400人(1.2%) |
5 | ドイツ人 | 10,248人(2.54%) | ドイツ人 | 5,522人(1.32%) | ドイツ人 | 8,424人(1.39%) | モルドバ人 | 7,600人(0.7%) |
6 | ギリシア人 | 5,086人(1.26%) | ベラルーシ人 | 2,501人(0.60%) | ブルガリア人 | 4,967人(0.82%) | ベラルーシ人 | 6,400人(0.6%) |
7 | タタール人 | 1,437人(0.36%) | アルメニア人 | 1,843人(0.44%) | モルドバ人 | 2,573人(0.43%) | アルメニア人 | 4,400人(0.4%) |
8 | アルメニア人 | 1,401人(0.35%) | ギリシア人 | 1,377人(0.33%) | アルメニア人 | 2,298人(0.38%) | ポーランド人 | 2,100人(0.2%) |
9 | ベラルーシ人 | 1,267人(0.31%) | ブルガリア人 | 1,186人(0.28%) | ||||
10 | フランス人 | 1,137人(0.28%) | モルドバ人 | 1,048人(0.25%) |
経済
デ・リバス、リシュリューらによって統治された初期のオデッサは貿易・商業の発展に重点が置かれ、オデッサの背後に広がる穀倉地帯から集まる穀物の輸出を基盤としてロシア有数の国際貿易港に成長した[53]。19世紀半ばの自由貿易港時代に交易はより活発になり、オデッサの穀物輸出で主要な役割を果たしていたギリシア人とイタリア人によってウクライナの小麦がヨーロッパ中に輸出され、ウクライナは「ヨーロッパのパンかご」と呼ばれるようになった[54]。1847年の時点では、ロシア帝国全土から輸出される穀物のうち、半分以上がオデッサから積み出されていた[55]。小麦以外には鉄、麻、ロープ類、皮革、獣脂が輸出されたほか、輸入量も大きく増加し、ワイン、果物、タバコ、絹などの輸入品の一大集積地となった[54]。また、貿易・商業の振興に伴って金融機関が整備され、1804年に商業銀行、1806年にロシア初とされる海上保険会社が設立された[56]。1880年代から港湾施設の老朽化やウクライナの対外的な小麦の供給地としての地位の低下のため、オデッサの貿易に陰りが見え始め、輸出総額と輸入総額が減少する[57]。
オデッサ最初の工場は、1799年にフランス人によって建てられた化粧品の工場である[18]。後背地から豊富な原料を調達できるオデッサには、マカロニ、ビール、ウオッカ、ロープ類、獣脂、石鹸、ロウソクなどの加工製品の工場が多く建てられた[18]。19世紀末からは加工工業に代わり、金属工業が成長を見せ始める[22]。
ソビエト政権下のオデッサでは外国との自由取引が制限されていたために貿易の役割が低下し、金属工業、機械製造業が主要な産業となった[43]。オデッサに30以上の企業が新設され、古いものは再建された[9]。1940年の工業生産は1913年の水準の8倍に達した[9][43]。第二次世界大戦後にオデッサの重要性は低下するが、工業の一中心地としての地位を保ち続けた[4]。主として工作機械、鉱山用・農業用機械、クレーン、ウィンチ、ガス発生炉、冷凍機、印刷機、映写機、計量器などの機械が生産されていた[4]。
ウクライナ独立後のオデッサの主要工業は機械製造、金属加工、造船、食品加工、石油化学などで、ソ連時代と比べて大きな変化は無い[58]。2002年5月にはオデッサとブロディを結ぶ石油パイプラインが完成した。
ソビエト連邦時代に保養地としての開発が進められ、サナトリウムや休息の家が建設され、泥や鉱泉を利用した治療が行われた[43]。オデッサの近郊にはアルカーディヤなどのビーチが点在する。
建築物
19世紀初頭のオデッサの町並みは「海賊の集落」と呼ばれるように建設が進んでいなかったが、1803年に長官としてオデッサに赴任したリシュリューによって町作りが進められていった[56]。デ・リバスの都市計画を生かした上で左右対称の町並みが形作られ、新古典主義様式の建物が建てられていった[56]。建物の建設以外に並木道の整備、街灯の設置が進められ、植林が推奨された[14]。リシュリュー時代を代表する建築物として1809年に完成した市立劇場があり、800の座席と立見席を有していたが、1873年に劇場は火災で焼失した[56]。19世紀後半には1884年に完成したオデッサ駅、1887年に再建された市立劇場、1898年に完成した新しい証券取引所などのオデッサを代表する建築物のいくつかが建てられた[59]。オデッサの開発にあたって必要な石材は現地で調達され、石材の採掘跡として1,000kmにわたる地下道が残された[60]。第二次世界大戦期に地下道はパルチザンの拠点となり、一部はパルチザン記念博物館として一般に公開されている。
歩行者道のデリバスィフスカ通りはオデッサの中心で、商店や安宿が集まっている[61]。もう一つの表通りである高台を通るプリモールスキー並木通りは、デリバスィフスカ通りとは対照的に閑静な雰囲気がある[61]。町の各所にはデ・リバス、リシュリュー、ヴォロンツォフら町の建設に貢献した人物や、オデッサに滞在したプーシキンの像が建てられている。市の中心部にはポチョムキン号の水兵を記念するモニュメントが置かれているが、帝政ロシア時代にはエカチェリーナ2世の像が建てられていた。アレクサンドル2世によって建設されたアレクサンドル公園はソ連時代にシェフチェンコ公園に改称され、公園に建てられていたアレクサンドル2世を追悼するモニュメントはシェフチェンコの像に代えられている[62]。
主な観光名所
- オペラ・バレエ劇場 - 1873年に市立劇場が焼失した後、1887年建てられた劇場で、オデッサのシンボルとして知られている[63]。ウィーンの建築家であるフェルナーとヘルマーの設計によって1883年から建設が開始され、1887年に完成した。イタリア・ルネサンス様式とバロック様式が融合した建築物で、外壁にはプーシキン、ゴーゴリ、グリボエードフ、グリンカの胸像が飾られている[64]。また、正面ファサードには音楽、舞踏、喜劇、悲劇の神の彫像が置かれている。
- ポチョムキンの階段 - 1837年から1842年にかけて建設された階段。最上段の幅は12.5m、最下段の幅は21mと下に向かうにつれて広くなり、下から見上げると踊り場は見えず、上から見下ろすと踊り場は見えるが段は見えない[62]。階段を上った先にある広場にはリシュリューの像が建つ。映画『1905年』の撮影のためにオデッサを訪れたセルゲイ・エイゼンシュテインはこの階段にインスピレーションを得て『戦艦ポチョムキン』の制作に取り掛かった[65]。
- ヴォロンツォフ宮殿 - 1828年に建設された総督ヴォロンツォフの居所。1905年の革命後は技師学校とされ、ソ連時代にはピオネール宮殿として使われた。
- 愛の橋 - プリモールスキー並木通りの西端に架かる橋。恋人たちや新郎新婦は愛の誓いとして橋の欄干に南京錠をかけていく[66]。
- オデッサ美術館 - ソフィーシカ通りに位置する。オデッサ最古の邸宅の一つである、1810年にポトツキー伯爵邸として建設された建物[67]。
19世紀末に市長を務めていたマラズリによって市に寄贈され、1899年に美術館として開設された。収蔵品は10,000を超え、オデッサをモチーフとした作品を描いたコスタンジ、イヴァン・アイヴァゾフスキーの作品も展示されている。
- 東洋西洋美術館 - プーシキン通りに位置する。1920年開館。展示室は古代美術、東洋美術、西洋美術の3部門に分けられている。
- オデッサ考古学博物館 - ランジェロン通りに位置する。160,000点以上の黒海北岸の古代史に関する収蔵品を擁する[68]。
- 国立オデッサ文学博物館 - 1977年設立、1984年開館[68]。バーベリらオデッサ出身の作家やプーシキンらオデッサにゆかりのある作家に関する展示品が置かれている。
- プーシキン博物館 - プーシキンが滞在したホテルの跡地に建てられた博物館。プーシキンが滞在していた当時の部屋が再現されている。
- オデッサ動物園
-
オペラ・バレエ劇場
-
オペラ・バレエ劇場の内装
-
ポチョムキンの階段
-
ヴォロンツォフ宮殿
-
シティホール
-
リシュリューの像
-
デリバスィフスカ通り
-
プリモールスキー並木通り
教育
19世紀半ばまでにオデッサに歴史・考古学博物館、大学が設置された[9]。オデッサはウクライナ南部の教育の中心地であり、オデッサ大学をはじめとする14の大学や様々な研究機関が置かれている[69]。角膜移植で知られるフィラトフ研究所はオデッサに置かれている。
1805年にオデッサにはじめて貴族学校が開設され、その後全ての人間に入学が認められたギムナジヤが開設される[14]。1817年に二つの学校は統合され、両方の学校の創立者であるリシュリューの名前に由来する「リシュリュー貴族学校」と命名された[14]。1860年代にノヴォロシア地域に大学を設置する計画が持ち上がり、1865年にリシュリュー貴族学校はノヴォロシア大学に改組された[70]。ロシア革命後にノヴォロシア大学はいくつかの大学に分割されるが、1933年に統合されてオデッサ大学に改称し、1945年からは大学で教育・研究に従事した医学者イリヤ・メチニコフの名前を冠するようになる。
交通
オデッサ港は貿易港、漁港、軍港の機能を併せ持ち、世界100か国、600以上の港から出航する船舶がオデッサに入港している[25]。オデッサ港の全長は約8kmで全長250m、吃水12.5mまでの船舶を収容できる[25]。イスタンブル、ハイファ、ヴァルナなどのウクライナ国外の都市との間にフェリーや客船が定期的に運航されており、夏季には地中海などからのクルーズ船が寄港する[58]。
オデッサは鉄道の重要な拠点でもあり、ウクライナ国内の各都市やモスクワやサンクトペテルブルクなどの旧ソ連の都市と接続され、ワルシャワ、プラハ、ウィーン、ベルリンとの間に定期的に旅客列車が運行されている。1865年にオデッサとバルタを結ぶ鉄道が開通し、1872年に線路がハルキウ(ハリコフ)まで延伸されたことでモスクワ、ペテルブルクと接続された[71]。1880年にはベルギーの企業によって馬車鉄道が開業し、19世紀末の鉄道馬車の総延長は80kmに達していた[21]。1884年に新古典様式の駅舎が完成する[64]。1944年にドイツ軍によって駅舎は破壊されるが、1952年に原形を生かした建物が再建された。
ロシア国内の他の都市よりも早く自転車が流行し、1880年代に新しいもの好きの市民の間で自転車が流行した[72]。1891年のオデッサではロシア国内で初めて自動車が走り、ベンツ、フォード、オペルなどの店舗が進出した[72]。長距離バスはウクライナ内の都市だけでなく、ブルガリア、ギリシアに向かう便も存在する[58]。
市街地の南西12kmの地点にはオデッサ国際空港が置かれている[73]。1908年にオデッサ飛行クラブが設立され、1910年3月にはミハイル・エフィーモフの乗る飛行機がオデッサの競馬場から離陸し、ロシア人によるロシア国内での初飛行を成功させた[72]。
文化
文学
アレクサンドル・プーシキン、ニコライ・ゴーゴリ、マクシム・ゴーリキーらのロシア文壇の作家はオデッサに滞在し、町を創作のモチーフとした[74]。ロシア革命の直後にはアレクセイ・トルストイ、イヴァン・ブーニンらソビエト政権の樹立を受け入れない作家が一時期オデッサに亡命した。しかし、20世紀初頭までロシア文学史上に名前を残すオデッサ生まれの作家は現れなかった[7]。
ソビエト時代初期の1920年代にイサーク・バーベリ、ワレンチン・カターエフ、ユーリイ・オレーシャらの作家がオデッサに現れ、1920年代後半にモスクワに移って本格的な文学活動を開始し、ソビエト文学界から注目を集めた[75]。オデッサ出身の作家には、社会性・思想性を重視する伝統的なロシア文学とは異なる幻想的な作風、あらすじの重視、オデッサ独特のロシア語文体といった共通性が見られ、評論家のヴィクトル・シクロフスキーは彼らを「南西派」と呼んだ[76]。
ユダヤ人が多いオデッサはメンデレ・スフォリムやショーレム・アレイヘムといったイディッシュの作家とも繋がりがあり、ポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィチ、ブルガリアの作家イヴァン・ヴァゾフはオデッサ滞在中に作品を書き上げている[77]。ウクライナ文学に対するオデッサの影響は薄いと言われ、タラス・シェフチェンコ、イヴァン・フランコ、レーシャ・ウクラインカらの作家は文学活動よりも民族解放運動に従事する形でオデッサと関わりを持った[78]。
音楽
オデッサの貿易において重要な役割を果たしたイタリア人によって、19世紀のオデッサにイタリアの音楽文化が広められた[79]。中でもオペラは上流階級から庶民に至るまで人気を集め、19世紀のロシア帝国におけるイタリア・オペラの中心地はペテルブルク、モスクワではなくオデッサだったとも言われる[79]。オペラ以外の芸術音楽も徐々に根付いていき、1842年にオデッサ音楽協会が設立され、1860年には交響楽団が結成された[80]。庶民や暗黒街の人間は居酒屋で音楽に親しみ、居酒屋ではヴァイオリニストが活躍していた[81]。
1887年に再建されたオペラ・バレエ劇場では、ピョートル・チャイコフスキー、フョードル・シャリアピンなどの国内外の音楽家が上演を行った。
1897年に開設された音楽学校は1913年にオデッサ音楽院に改編され、音楽院から多くの演奏家が巣立っていった。オデッサでは世界的な名演奏家が多く生まれ、特にダヴィッド・オイストラフなどのヴァイオリニストが多い[82]。
国際関係
オデッサにはルーマニア、ギリシャ、ポーランド、トルコ、ロシア、ジョージア(グルジア)の総領事館が置かれ、 イタリア、南アフリカ共和国、カザフスタン、ラトビアの領事機関、イスラエルの文化機関が設置されている[83]。また、1902年から1934年までの間には日本の領事館が開設されていた。オデッサ市沿海地区には、ウクライナ人を父に持つ横綱大鵬の銅像が建てられている[84][85]。
オデッサは世界各地の都市と姉妹都市協定を結んでおり、その多くが国際的な港湾都市である[69]。
姉妹都市
- アレクサンドリア(エジプト、1968年)
- ボルチモア(アメリカ合衆国、1975年[86])
- キシナウ(モルドバ共和国、1994年[87])
- コンスタンツァ(ルーマニア、1991年)
- グダニスク(ポーランド)
- ジェノヴァ(イタリア、1972年)
- ハイファ(イスラエル、1992年[88])
- イスタンブル(トルコ、1997年[89][90])
- ジッダ(サウジアラビア)
- コルカタ(インド、1986年[91])
- レオン(メキシコ、2012年)
- リバプール(イギリス、1957年[92])
- ウッチ(ポーランド、1993年[93])
- マルセイユ(フランス、1973年[94])
- ニコシア(キプロス共和国、1996年)
- オウル(フィンランド、1957年[95])
- ピレウス(ギリシャ、1993年[96])
- 青島市(中華人民共和国、1993年)
- レーゲンスブルク(ドイツ、1990年)
- ロシュ・ハアイン(イスラエル)
- ロストフ・ナ・ドヌ(ロシア、1999年)
- スプリト(クロアチア、1964年[97])
- セゲド(ハンガリー、1977年)
- バレンシア(スペイン、1982年[98])
- ヴァン,(トルコ)
- バンクーバー(カナダ、1944年[99])
- ヴァルナ(ブルガリア、1958年)
- エレバン(アルメニア、1995年[100][101])
- 横浜市(日本、1965年[102][103])
友好都市
主なオデッサ出身の人物
- レフ・トロツキー - ボリシェビキ・ソビエト連邦の政治家、マルクス主義思想家
- アンドレイ・ヴィシンスキー - 政治家、法曹家、外交官
- ゼエヴ・ジャボチンスキー - シオニスト
- ロディオン・マリノフスキー - 軍人
- スタニスラフ・ペトロフ - 軍人
- ゲンリフ・リュシコフ - ソビエト連邦秘密警察
- ミハエル・コーガン - 実業家。タイトーの創業者。
- イサーク・バーベリ - 作家
- ワレンチン・カターエフ - 作家
- ウラジーミル・アーノルド - 数学者
- イズライル・ゲルファント - 数学者
- ジョージ・ガモフ - 物理学者
- アレクサンドル・モギレフスキー - ヴァイオリニスト
- ダヴィッド・オイストラフ - ヴァイオリニスト
- ナタン・ミルシテイン - ヴァイオリニスト
- アナスタシア・チェボタリョーワ - ヴァイオリニスト
- エミール・ギレリス - ピアニスト
- ヴラディーミル・ド・パハマン - ピアニスト
- ベンノ・モイセイヴィチ - ピアニスト
- シューラ・チェルカスキー - ピアニスト
- マリヤ・グリンベルク - ピアニスト
- ウラジーミル・トゥクマコフ - チェスプレーヤー
- イダ・カミンスカ - 女優・演出家
- イーゴリ・ベラノフ - サッカー選手
- ユーリ・ニキフォロフ - サッカー選手
- エフゲニー・プラトフ - フィギュアスケート選手
- ヴィクトール・ペトレンコ - フィギュアスケート選手
- オクサナ・グリシュク - フィギュアスケート選手
オデッサを舞台とする作品
- 『オネーギンの旅の断章』(アレクサンドル・プーシキン)
- 『ガムブリヌス』(アレクサンドル・クプリーン)
- 『魔窟』(アレクサンドル・クプリーン)
- 『チェルカッシ』(マクシム・ゴーリキー)
- 『オデッサ物語』(イサーク・バーベリ)
- 『オデッサのスタジアム』{ワレンチン・カターエフ)
- 『鉄の指輪』(ワレンチン・カターエフ)
- 『戦艦ポチョムキン』
脚注
- ^ a b “UCRA upgraded the credit rating of Odessa”. Odessa Сity Сouncil, Department of Information and Public Relations (2015年12月4日). 2016年1月9日閲覧。
- ^ a b c d e f 青木、中井「オデッサ」『ロシアを知る事典』新版、108頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、35頁
- ^ a b c 『ブリタニカ国際大百科事典』3、424-425頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、36-37頁
- ^ a b c d 中井『ウクライナ・ナショナリズム』、62頁
- ^ a b 嵐田「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』、85頁
- ^ a b c d 嵐田『オデッサ』、5頁
- ^ a b c d 香山陽坪「オデッサ」『世界地名大事典』1巻、276-277頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、3頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、4頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、8頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、9頁
- ^ a b c d 嵐田『オデッサ』、11頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、12頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、14,16頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、15頁
- ^ a b c d e f 嵐田『オデッサ』、17頁
- ^ a b 嵐田「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』、86頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、19-20頁
- ^ a b 嵐田『オデッサ』、20頁
- ^ a b c d 嵐田『オデッサ』、31頁
- ^ a b 嵐田『オデッサ』、32頁
- ^ a b c 嵐田『オデッサ』、34頁
- ^ a b c d 嵐田『オデッサ』、36頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、33,35頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、51頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、35-36頁
- ^ “Погода и Климат – Климат Одессы” (Russian). Weather and Climate (Погода и климат). 23 May 2013閲覧。
- ^ “Climatological Information for Odessa, Ukraine”. Hong Kong Observatory. 23 May 2013閲覧。
- ^ “All-Ukrainian Census of 2001 Official Site” (ウクライナ語). 2001.ukrcensus.gov.ua. 22 May 2014閲覧。
- ^ a b “Ukrainian Municipal Survey, March 2–20, 2015”. IRI .
- ^ 中井『ウクライナ・ナショナリズム』、61頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、22-23頁
- ^ a b 嵐田『オデッサ』、23-24頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、24頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、26頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、24-25頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、25-26頁
- ^ 中井『ウクライナ・ナショナリズム』、62-63頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、27頁
- ^ a b 中井『ウクライナ・ナショナリズム』、65頁
- ^ a b c d 嵐田『オデッサ』、33頁
- ^ a b 中井『ウクライナ・ナショナリズム』、66頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、30頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、40頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、27-28頁
- ^ a b 中井『ウクライナ・ナショナリズム』、63頁
- ^ http://demoscope.ru/weekly/ssp/rus_lan_97_uezd.php?reg=1665
- ^ “Данные Всесоюзной переписи населения 1926 года по регионам республик СССР”. Demoscope.ru. 22 May 2014閲覧。
- ^ “Всесоюзная перепись населения 1939 года. Национальный состав населения районов, городов и крупных сел союзных республик СССР”. Demoscope.ru. 15 April 2015閲覧。
- ^ http://2001.ukrcensus.gov.ua/eng/results/general/nationality/Odesa
- ^ 嵐田『オデッサ』、6-7,9頁
- ^ a b 嵐田『オデッサ』、16頁
- ^ 黒川『物語 ウクライナの歴史』、158頁
- ^ a b c d 嵐田『オデッサ』、10頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、21頁
- ^ a b c 嵐田『オデッサ』、37頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、20頁
- ^ 地球の歩き方編集室『ロシア』(2012-2013年版)、485頁
- ^ a b 地球の歩き方編集室『ロシア』(2012-2013年版)、481頁
- ^ a b 嵐田『オデッサ』、57頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、58-59頁
- ^ a b 嵐田『オデッサ』、59頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、53頁
- ^ 地球の歩き方編集室『ロシア』(2012-2013年版)、484頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、60頁
- ^ a b 嵐田『オデッサ』、61頁
- ^ a b 嵐田『オデッサ』、38頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、19頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、18頁
- ^ a b c 嵐田『オデッサ』、29頁
- ^ 地球の歩き方編集室『ロシア』(2012-2013年版)、480頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、40-41頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、42-43頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、45-46頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、47-48頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、47頁
- ^ a b 嵐田『オデッサ』、48頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、49頁
- ^ 嵐田「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』、89-90頁
- ^ 嵐田「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』、89頁
- ^ 嵐田『オデッサ』、37-38頁
- ^ ロシアNOW 大鵬~昭和の大横綱(2015年12月閲覧)
- ^ В центре Одессы затаился борец сумо Коки(2015年12月閲覧)
- ^ “Sister Cities”. Baltimore Convention & Tourism Board. 19 October 2011閲覧。
- ^ “Oraşe înfrăţite (Twin cities of Minsk) [via WaybackMachine.com]” (Romanian). Primăria Municipiului Chişinău. 3 November 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。21 July 2013閲覧。
- ^ “Twin City activities”. Haifa Municipality. 21 June 2008時点のオリジナルよりアーカイブ。2 November 2008閲覧。
- ^ “Sister Cities of Istanbul”. 2 November 2008閲覧。
- ^ Erdem, Selim Efe (3 November 2003). “İstanbul'a 49 kardeş” (Turkish). Radikal 2 November 2008閲覧. "49 sister cities in 2003"
- ^ Mazumdar, Jaideep (17 November 2013). “A tale of two cities: Will Kolkata learn from her sister?”. Times of India (New Delhi) 17 November 2013閲覧。
- ^ “Liverpool City Council: twinning”. 2 November 2008閲覧。
- ^ “Miasta partnerskie – Urząd Miasta Łodzi [via WaybackMachine.com]” (Polish). City of Łódź. 24 June 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。21 July 2013閲覧。
- ^ “Marseille Official Website – Twin Cities” (フランス語). 2008 Ville de Marseille. 5 May 2008時点のオリジナルよりアーカイブ。26 November 2008閲覧。
- ^ “Ystävyyskaupungit (Twin Cities)” (Finnish). Oulun kaupunki (City of Oulu). 27 July 2013閲覧。
- ^ a b “Twinnings”. Central Union of Municipalities & Communities of Greece. 25 August 2013閲覧。
- ^ “Gradovi prijatelji Splita” (Croatian). Grad Split [Split Official City Website]. 24 March 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。19 December 2013閲覧。
- ^ “Ciudades Hermanadas con València” (Spanish). Ajuntament de València [City of Valencia]. 23 October 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。8 August 2013閲覧。
- ^ “Vancouver Twinning Relationships” (PDF). City of Vancouver. 18 July 2009閲覧。
- ^ “Yerevan – Twin Towns & Sister Cities”. Yerevan Municipality Official Website. 2005–2013 www.yerevan.am. 4 November 2013閲覧。
- ^ “hy:ԵՐԵՎԱՆԻ ՔԱՂԱՔԱՊԵՏԱՐԱՆՊԱՇՏՈՆԱԿԱՆ ԿԱՅՔ” (Armenian). [1]. 12 May 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。5 August 2013閲覧。
- ^ 黒川『物語 ウクライナの歴史』、257頁
- ^ “トップページ > 国際局 > 国際交流 > オデッサ市”. 2015年12月閲覧。
- ^ “ru:Побратимские связи г. Бреста” (ロシア語). City.brest.by. 3 October 2010閲覧。
- ^ “Gdańsk Official Website: 'Miasta partnerskie'” (Polish, English). 2009 Urząd Miejski w Gdańsku. 11 July 2009閲覧。
参考文献
- 青木節也、中井和夫「オデッサ」『ロシアを知る事典』新版収録(平凡社, 2004年1月)
- 嵐田浩吉「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』収録(水声社, 2005年4月)
- 嵐田浩吉『オデッサ』(ユーラシア・ブックレット, 東洋書店, 2007年6月)
- 香山陽坪「オデッサ」『世界地名大事典』1巻収録(朝倉書店, 1973年)
- 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』(中公新書, 中央公論新社, 2002年8月)
- 地球の歩き方編集室『ロシア』(2012-2013年版)(地球の歩き方, ダイヤモンド社, 2012年6月)
- 中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム』(東京大学出版会, 1998年11月)
- 『ブリタニカ国際大百科事典』3(ティビーエス・ブリタニカ, 1972年7月)