「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の版間の差分
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[[File:Battle-Ship Island Nagasaki Japan.jpg|thumb|250px|構成遺産候補の一つ、[[端島 (長崎県)|端島]](通称「軍艦島」、長崎県長崎市高島町)の全景。1870年(明治3年)に[[石炭]]採掘が始まり1974年(昭和49年)まで操業した。明治期の生産施設の遺構や、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にかけての6度に亘る埋め立ての跡が残る<ref name="kantei140117" /><ref name="nag04"/><ref>後藤惠之輔・坂本道徳 『軍艦島の遺産 : 風化する近代日本の象徴』38頁・158頁、[[長崎新聞|長崎新聞社]]、2005年、ISBN 9784931493537</ref>。]] |
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'''九州・山口の近代化産業遺産群'''(きゅうしゅう・やまぐちのきんだいかさんぎょういさんぐん)は、2009年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)[[世界遺産#暫定リスト|暫定リスト]]に記載された[[九州・山口地方]]にある[[近代化遺産]]、[[産業遺産]]の総称であった。当初の正式な名称は「'''九州・山口の近代化産業遺産群-非西洋世界における近代化の先駆け-'''」であったが、[[2013年]]の構成資産見直しの結果、[[山口県|山口]]・[[福岡県|福岡]]・[[佐賀県|佐賀]]・[[長崎県|長崎]]・[[熊本県|熊本]]・[[鹿児島県|鹿児島]]・[[岩手県|岩手]]・[[静岡県|静岡]]の8県に点在することとなり、「'''明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域'''」の名称で推薦書が[[世界遺産センター]]に提出された<ref name="Kantei130920">「[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/yuushikisya/info130920.html 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の世界文化遺産推薦に係る推薦書(暫定版)のユネスコへの提出について] 」「{{PDFLink|[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/sangyouisan/140117-2.pdf 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の概要について]}}」、首相官邸、2013年9月20日、2015年5月5日閲覧</ref><ref name="kantei140117">「[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/sangyouisan/140117.html 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の世界遺産への推薦について (閣議了解)]」、首相官邸、2014年1月17日、2015年5月5日閲覧</ref>。これに対し、[[世界遺産委員会]]の諮問機関のひとつである[[国際記念物遺跡会議|イコモス]]は「登録」を勧告するとともに、登録名は「'''明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業'''」に変更するすることを求めた<ref name="nikkei">「[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG04H04_U5A500C1MM8000/?dg=1 明治の産業革命遺産、世界遺産登録へ ユネスコ勧告]」、日本経済新聞、2015年5月4日付、2015年5月5日閲覧</ref><ref name = "asahi150505_01">「明治の産業革命 世界遺産へ」『[[朝日新聞]]』2015年5月5日(朝刊)1面</ref><ref name = "mainichi150505_01">「軍艦島など世界遺産に 『明治産業革命』23施設 ユネスコへ登録勧告」『[[毎日新聞]]』2015年5月5日(朝刊)1面</ref>。実際の登録名は世界遺産委員会審議の結果確定する。 |
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'''九州・山口の近代化産業遺産群'''(きゅうしゅう・やまぐちのきんだいかさんぎょういさんぐん)は、2009年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)[[世界遺産#暫定リスト|暫定リスト]]に記載された[[九州・山口地方]]にある[[近代化遺産]]、[[産業遺産]]の総称であった。当初の正式な名称は「'''九州・山口の近代化産業遺産群-非西洋世界における近代化の先駆け-'''」であったが、[[2013年]]の構成資産見直しの結果、[[山口県|山口]]・[[福岡県|福岡]]・[[佐賀県|佐賀]]・[[長崎県|長崎]]・[[熊本県|熊本]]・[[鹿児島県|鹿児島]]・[[岩手県|岩手]]・[[静岡県|静岡]]の8県に点在することとなり、「'''明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域'''」の名称で推薦書が[[世界遺産センター]]に提出された<ref name="Kantei130920">「[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/yuushikisya/info130920.html 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の世界文化遺産推薦に係る推薦書(暫定版)のユネスコへの提出について] 」「{{PDFLink|[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/sangyouisan/140117-2.pdf 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の概要について]}}」、首相官邸、2013年9月20日、2015年5月5日閲覧</ref><ref name="kantei140117">「[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/sangyouisan/140117.html 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の世界遺産への推薦について (閣議了解)]」、首相官邸、2014年1月17日、2015年5月5日閲覧</ref>。これに対し、[[世界遺産委員会]]の諮問機関のひとつである[[国際記念物遺跡会議|イコモス]]は「登録」を勧告するとともに、登録名は「'''明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業'''」に変更することを求めた<ref name="nikkei">「[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG04H04_U5A500C1MM8000/?dg=1 明治の産業革命遺産、世界遺産登録へ ユネスコ勧告]」、日本経済新聞、2015年5月4日付、2015年5月5日閲覧</ref><ref name = "asahi150505_01">「明治の産業革命 世界遺産へ」『[[朝日新聞]]』2015年5月5日(朝刊)1面</ref><ref name = "mainichi150505_01">「軍艦島など世界遺産に 『明治産業革命』23施設 ユネスコへ登録勧告」『[[毎日新聞]]』2015年5月5日(朝刊)1面</ref>。実際の登録名は世界遺産委員会審議の結果確定する。 |
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[[西洋]]から非西洋世界への技術移転と日本の伝統文化を融合させ、[[1850年代]]から[[1910年]]までに急速な発展をとげた[[炭鉱]]、[[鉄鋼業]]、[[造船業]]に関する文化遺産であり<ref name="Kantei130920" />、[[稼働遺産]]を含む資産の世界遺産への推薦は日本では初めてである<ref name = "asahi150505_01" /><ref name = "mainichi150505_01" />。 |
[[西洋]]から非西洋世界への技術移転と日本の伝統文化を融合させ、[[1850年代]]から[[1910年]]([[幕末]] - [[明治時代]])までに急速な発展をとげた[[炭鉱]]、[[鉄鋼業]]、[[造船業]]に関する文化遺産であり<ref name="Kantei130920" />、[[稼働遺産]]を含む資産の世界遺産への推薦は日本では初めてである<ref name = "asahi150505_01" /><ref name = "mainichi150505_01" />。 |
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== 登録経緯 == |
== 登録経緯 == |
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[[2008年]][[12月15日]]、[[文化庁]]が[[北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群]]([[北海道]]など)、[[宗像・沖ノ島と関連遺産群]]([[福岡県]][[宗像市]]など)とともに追加申請を決め、翌[[2009年]][[1月5日]]に暫定リストに追加掲載された。本遺産群の世界遺産正式登録に向けて、[[2009年]][[10月22日]]に「九州・山口の近代化産業遺産群専門家委員会提言書」が登録推進協議会の諮問機関である専門家委員会より提出され、構成資産の加除が提言された。その内容を要約すると、テーマ別に9つのストーリーで構成されているほか、 旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓・煙突ほか筑豊炭田の遺産などが削除され、[[三重津海軍所]]跡([[佐賀県]][[佐賀市]]、[[1858年]])や[[橋野高炉跡]]([[岩手県]][[釜石市]])、三池炭鉱関連の三池港([[福岡県]][[大牟田市]])・鉄道敷跡([[福岡県]][[大牟田市]]・[[熊本県]][[荒尾市]])、[[韮山反射炉]]([[静岡県]][[伊豆の国市]])などが追加されている。2013年の推薦書暫定版では8エリア28資産としたが<ref name="Kantei130920" />、2014年の推薦書正式版では一部の関連資産同士を統合し、8エリア23資産とした<ref name="kantei140117" />。 |
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遺産群の中には[[文化財保護法]]対象外の[[稼働遺産]]が含まれていることから、法的保護根拠の新たな解釈調整が必要となり、国内の[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]では初めて[[文化庁]]ではなく[[内閣官房]](地域活性化統合事務局)によって推薦が行われた<ref name="kantei140117" />。[[2014年]][[1月29日]]にユネスコへ推薦書が提出され、同年[[9月26日]]から[[10月5日]]までユネスコ諮問機関の[[国際記念物遺跡会議|イコモス]]の現地調査が行われた。[[2015年]][[6月28日]]から[[7月8日]]に開催される[[第39回世界遺産委員会|第39回]][[世界遺産委員会]]で登録審査が行われる。委員会審議に先立ち、イコモスは2015年[[5月4日]]に「[[世界遺産#世界遺産委員会の決議|登録]]」(記載)を勧告し、登録が確実視されることとなった<ref name="nikkei" /><ref name="sankei" />。 |
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イコモスが提案した名称変更は事前の打診に対して日本が同意したものであり、産業全体ではなく[[重工業]]に限定された物件であることを明記する意図による<ref name = "asahi150505_01" />。 |
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== 構成資産 == |
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推薦資産は、広範囲に点在する複数の物件をまとめて1件の世界遺産とするシリアル・ノミネーションによるアプローチであり、8つのエリア、全23資産により構成されている<ref name="kantei140117" /><ref name="comchro">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/chronology.html 明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域/構成資産を年代別から見る]」、九州・山口の近代化産業遺産群 世界遺産登録推進委員会、2015年5月5日閲覧</ref>。 |
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{{Location map+|Japan|width=400|float=right|caption=明治日本の産業革命遺産 構成資産|places= |
{{Location map+|Japan|width=400|float=right|caption=明治日本の産業革命遺産 構成資産|places= |
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{{Location map~|Japan|lat=34.428153|long=131.418296|position=top|label=<div style="white-space:pre">[[萩市|萩]]([[萩反射炉]]・[[松下村塾]]他)</div>}} |
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{{Location map~|Japan|lat=35.039361|long=138.962028|position=right|label=<div style="white-space:pre">[[伊豆の国市|伊豆の国]] [[韮山反射炉]]</div>}} |
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}} |
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[[2008年]][[12月15日]]、[[文化庁]]が[[北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群]]([[北海道]]など)、[[宗像・沖ノ島と関連遺産群]]([[福岡県]][[宗像市]]など)とともに追加申請を決め、翌[[2009年]][[1月5日]]に暫定リストに追加掲載された。本遺産群の世界遺産正式登録に向けて、[[2009年]][[10月22日]]に「九州・山口の近代化産業遺産群専門家委員会提言書」が登録推進協議会の諮問機関である専門家委員会より提出され、構成資産の加除が提言された。その内容を要約すると、テーマ別に9つのストーリーで構成されているほか、 旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓・煙突ほか筑豊炭田の遺産などが削除され、[[三重津海軍所]]跡([[佐賀県]][[佐賀市]]、[[1858年]])や[[橋野高炉跡]]([[岩手県]][[釜石市]])、三池炭鉱関連の三池港([[福岡県]][[大牟田市]])・鉄道敷跡([[福岡県]][[大牟田市]]・[[熊本県]][[荒尾市]])、[[韮山反射炉]]([[静岡県]][[伊豆の国市]])などが追加されている。2013年の推薦書暫定版では8エリア28資産としたが<ref name="Kantei130920" />、2014年の推薦書正式版では一部の関連資産同士を統合し、8エリア23資産とした<ref name="kantei140117" />。 |
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; エリア1:萩(山口県) |
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: 1-1.[[萩反射炉]]([[山口県]][[萩市]]、[[1856年]]) |
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遺産群の中には[[文化財保護法]]対象外の[[稼働遺産]]が含まれていることから、法的保護根拠の新たな解釈調整が必要となり、国内の[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]では初めて[[文化庁]]ではなく[[内閣官房]](地域活性化統合事務局)によって推薦が行われた<ref name="kantei140117" />。[[2014年]][[1月29日]]にユネスコへ推薦書が提出され、同年[[9月26日]]から[[10月5日]]までユネスコ諮問機関の[[国際記念物遺跡会議|イコモス]]の現地調査が行われた。[[2015年]][[6月28日]]から[[7月8日]]に開催される[[第39回世界遺産委員会|第39回]][[世界遺産委員会]]で登録審査が行われる。委員会審議に先立ち、イコモスは2015年[[5月4日]]に「[[世界遺産#世界遺産委員会の決議|登録]]」(記載)を勧告し、登録が確実視されることとなった<ref name="nikkei" /><ref name="sankei" />。 |
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: 1-2.[[恵美須ヶ鼻造船所跡]](萩市、1856年) |
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: 1-3.[[大板山たたら製鉄遺跡]](萩市、[[1855年]]) |
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イコモスが提案した名称変更は事前の打診に対して日本が同意したものであり、産業全体ではなく[[重工業]]に限定された物件であることを明記する意図による<ref name = "asahi150505_01" />。 |
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: 1-4.萩城下町(萩市、[[江戸時代]]) |
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: 1-5.[[松下村塾]](萩市、[[1857年]]) |
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== 構成資産 == |
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; エリア2:鹿児島(鹿児島県) |
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推薦資産は、広範囲に点在する複数の物件をまとめて1件の世界遺産とするシリアル・ノミネーションによるアプローチであり、8つのエリア、全23資産により構成されている<ref name="kantei140117" /><ref name="comchro">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/chronology.html 明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域/構成資産を年代別から見る]」、九州・山口の近代化産業遺産群 世界遺産登録推進協議会、2015年5月5日閲覧</ref>。 |
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: 2-1.[[尚古集成館|旧集成館]]([[鹿児島県]][[鹿児島市]]、[[1854年]]) |
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:: 旧集成館反射炉跡([[1851年]]) |
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=== エリア1 萩 === |
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:: 旧集成館機械工場([[1865年]]) |
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{| class="wikitable" |
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:: 旧鹿児島紡績所技師館([[1867年]]) |
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|- |
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: 2-2.寺山炭窯跡(鹿児島市、[[1852年]]) |
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| No. |
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: 2-3.[[関吉の疎水溝]](鹿児島市、[[1858年]]) |
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|width="16%"| 名称 |
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; エリア3:韮山(静岡県) |
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|width="8%"| 所在地 |
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: 3-1.[[韮山反射炉]]([[静岡県]][[伊豆の国市]]、[[1857年]]) |
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| 概要 |
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; エリア4:釜石(岩手県) |
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|- |
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: 4-1.[[橋野高炉跡|橋野鉄鉱山・高炉跡]]([[岩手県]][[釜石市]]、1858年) |
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| 1-1 |
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; エリア5:佐賀(佐賀県) |
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| [[萩反射炉]] |
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: 5-1.[[三重津海軍所|三重津海軍所跡]]([[佐賀県]][[佐賀市]]、1858年) |
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|rowspan="5"| [[山口県]][[萩市]] |
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; エリア6:長崎(長崎県) |
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| [[File:Hagi Reverberatory furnaces.JPG|150px|right]] |
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: 6-1.[[小菅修船場跡]]([[長崎県]][[長崎市]]、[[1869年]]) |
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日本に現存する2基の[[反射炉]]の1つで、10.5mの煙突部分の遺構。国の史跡に指定。[[欧米]][[列強]]に対抗するため、[[長州藩]]では海防強化のための鉄製[[大砲]]製造が求められ、オランダの技術書を基に先んじて反射炉の操業を始めていた[[佐賀藩]]から技術を導入して建造された。[[1856年]]に操業を始めたが、規模が小さいことなどから実用炉ではなく実験炉だったと見られている<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_yamaguchi_03.html 萩反射炉]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
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: 6-2.[[三菱重工業長崎造船所|三菱長崎造船所]] 第三船渠(長崎市、[[1905年]]) |
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|- |
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: 6-3.長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン(長崎市、[[1909年]]) |
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| 1-2 |
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: 6-4.長崎造船所 旧木型場(長崎市、[[1898年]]) |
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| [[恵美須ヶ鼻造船所跡]] |
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: 6-5.長崎造船所 占勝閣(長崎市、[[1904年]]) |
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| [[File:Heisin_Maru.jpg|thumb|right|恵美須ヶ鼻造船所で建造された丙辰丸]] |
|||
: 6-6.[[高島炭鉱|高島炭坑]](長崎市、1869年) |
|||
前期にロシア式、後期にオランダ式の技術を用いて大型の洋式[[軍艦]]を製造した[[造船所]]跡。国の史跡に指定。いわゆる[[黒船来航]]による危機感から、[[江戸幕府]]は1853年に[[大船建造の禁]]を解除する。長州藩では、幕府の要請と藩士[[木戸孝允]]の意見書を受けて、幕府がロシア式([[君沢形]])造船を行った伊豆[[戸田村_(静岡県)|戸田]]に尾崎小右衛門ら技術者を派遣、帰国した尾崎らは造船所建設を行う。造船所は1856年に完成し、[[丙辰丸]]を建造(1857年進水)した。藩は1857年に造船所を一旦閉鎖するが、翌1858年に[[山田亦介]]の主導で再び整備を行う。さらに、[[長崎海軍伝習所]]に技術者を派遣してオランダ式([[バーク|バーク型]])造船を学ばせ、[[庚申丸]]を建造(1860年進水)した<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_yamaguchi_04.html 恵美須ヶ鼻造船所跡]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
: 6-7.[[端島 (長崎県)|端島炭坑]](長崎市、[[1890年]]) |
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|- |
|||
: 6-8.[[グラバー園|旧グラバー住宅]](長崎市、[[1863年]]) |
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| 1-3 |
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; エリア7:三池(福岡県・熊本県) |
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| [[大板山たたら製鉄遺跡]] |
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: 7-1.[[三井三池炭鉱|三池炭鉱]]、[[三池港]]([[福岡県]][[大牟田市]]・[[熊本県]][[荒尾市]]) |
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| [[File:Ohitayama-tatara Iron Works 04 Smelter.JPG|150px|right]] |
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:: 三池炭鉱 宮原坑(大牟田市、1898年) |
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在来の[[踏鞴製鉄|たたら製鉄]]の技術を用いて江戸時代中期から後期に操業し、洋式軍艦の製造に欠かせない鉄の供給を行った。国の史跡に指定。恵美須ヶ鼻造船所で1856年に建造された丙辰丸に、鉄製の船[[釘]]を供給した。炉、天秤ふいごなどの遺構が発掘されている<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_yamaguchi_06.html 大板山たたら製鉄遺跡]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
:: 三池炭鉱 万田坑(大牟田市・荒尾市、1902年) |
|||
|- |
|||
:: 三池炭鉱 [[三池鉄道|専用鉄道敷跡]](大牟田市・荒尾市、[[1891年]]) |
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| 1-4 |
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:: 三池港(大牟田市、[[1908年]]) |
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| 萩城下町 |
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: 7-2.[[三角港|三角西(旧)港]](熊本県[[宇城市]]、[[1887年]]) |
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| [[File:Hagi old town.jpg|150px|right]] |
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; エリア8:八幡(福岡県) |
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[[幕末]]から[[明治維新]]にかけて日本の近代国家形成を主導した[[西南雄藩]]のひとつ、[[長州藩]]の中心拠点。1604年に[[毛利氏]]の戸城として指月山に[[萩城]]が建造され、麓に城下町が形成された。武家屋敷や商家が連なる「萩城城下町」は国の史跡に指定、重臣の屋敷が並ぶ「堀内地区」は国の[[重要伝統的建造物群保存地区]]として選定<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_yamaguchi_05.html 萩城下町]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
: 8-1.[[八幡製鐵所|官営八幡製鐵所]](福岡県[[北九州市]]) |
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|- |
|||
:: 八幡製鐵所 旧本事務所([[1899年]]) |
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| 1-5 |
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:: 八幡製鐵所 修繕工場([[1900年]]) |
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| [[松下村塾]] |
|||
:: 八幡製鐵所 旧鍛冶工場(1900年) |
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| [[File:Shokasonjuku.jpg|150px|right]] |
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: 8-2.遠賀川水源地ポンプ室(福岡県[[中間市]]、[[1910年]]) |
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長州藩校[[明倫館]]の師範を務めた藩士[[吉田松陰]]が講義した[[私塾]]。国の史跡に指定。3年弱の間に指導した塾生の中から、[[高杉晋作]]、[[伊藤博文]]、[[山縣有朋]]など、[[幕末]]から[[明治維新]]にかけての日本の近代化・産業化に貢献する人材を輩出した<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_yamaguchi_07.html 松下村塾]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
|} |
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=== エリア2 鹿児島 === |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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| No. |
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|colspan="2" width="16%"| 名称 |
|||
|width="8%"| 所在地 |
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| 概要 |
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|- |
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|rowspan="4"| 2-1 |
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|colspan="2"| [[集成館事業|旧集成館]] |
|||
|rowspan="6"| [[鹿児島県]]<br/>[[鹿児島市]] |
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| [[File:Shuseikan.JPG|150px|right]] |
|||
欧米列強に対抗するため、[[薩摩藩]]主[[島津斉彬]]は[[1851年]]から現在の鹿児島市[[吉野 (鹿児島市)|吉野町]]磯地区に工場群を設けて軍事強化と産業育成を図った([[集成館事業]])。[[製鉄]]・[[造船]]・[[紡績]]など幅広い分野を手掛けた。[[1863年]]の[[薩英戦争]]や[[1877年]]の[[西南戦争]]では被害を受けその度に再興したが、[[1915年]]に廃止された。国の史跡に指定<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-kag01"/><ref name="ky-kag02"/><ref name="ky-kag03"/>。 |
|||
|- |
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|rowspan="3" style="border-top:hidden"| |
|||
|width="15%"| 旧集成館反射炉跡 |
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| [[File:仙巌園反射炉跡.JPG|150px|right]] |
|||
反射炉下部の遺構。佐賀藩が有していたオランダの技術書の日本語訳を基にしつつ、在来工法による石積みや[[薩摩焼]]の技術を用いた耐火煉瓦製造など、和洋折衷の技術で反射炉が建設された<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-kag01">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_kagoshima_01.html 旧集成館(反射炉跡)]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
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|- |
|||
| [[尚古集成館|旧集成館機械工場]] |
|||
| [[File:Kagoshima Syuseikan.jpg|150px|right]] |
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金属加工や船舶の修理、部品加工が行われた機械工場。建物は国の重要文化財。薩英戦争により初期の集成館は一度焼失する。その後[[島津忠義]]は、幕府直営の[[長崎製鉄所]]を手本に、オランダから工作機械を輸入して再興を行い、[[1865年]]に建物が完成した。1863年製造のオランダ製[[形削り盤|形削盤]]も現存しており、国の重要文化財に指定されている<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-kag02">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_kagoshima_02.html 旧集成館(機械工場)]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
|- |
|||
| 旧鹿児島紡績所技師館 |
|||
| [[File:Kagoshima Ijinkan.jpg|150px|right]] |
|||
イギリス人技術者の宿舎として建設された洋館で、洋風の外観ながら、柱には[[尺]]寸法が用いられたほか、[[屋根裏]]小屋組が和式であるなど、和洋折衷となっている。建物は国の重要文化財。島津忠義は、[[1867年]]に鹿児島紡績所を建設したが、その際イギリスから7名の技術者を招いて工場の設計と技術指導を依頼した。イギリス人技術者帰国後は、大砲製造の支配所などに使用された。[[1882年]]に[[鹿児島城]]本丸跡に移築され学校などに使用された後、[[1936年]]に再び現在の場所に移築された<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-kag03">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_kagoshima_03.html 旧集成館(旧鹿児島紡績所技師館)]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
|- |
|||
| 2-2 |
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|colspan="2"| 寺山炭窯跡 |
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| [[1858年]]に建設された[[木炭]]製造用の石積み窯跡。国の史跡に指定(「旧集成館」の附(つけたり)としての指定)。集成館事業に必要な大量の燃料を補うため、島津斉彬の命により建設された<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_kagoshima_04.html 寺山炭窯跡]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
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|- |
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| 2-3 |
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|colspan="2"| [[関吉の疎水溝]] |
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| [[File:関吉の疎水溝1.JPG|150px|right]] |
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[[1852年]]に建設された集成館事業の[[水車]]動力用[[水路]]跡。現在の鹿児島市[[下田町 (鹿児島市)|下田町]]関吉にある[[稲荷川]]上流から取水し、吉野町磯地区の集成館まで送水した。もともと島津氏の庭園である[[仙巌園]]へ水路(吉野疎水)が設けられていたが、それを島津斉彬の命により改修した。現在は一部が灌漑用水として利用されており、取水口や集成館内の水路などが現存する<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_kagoshima_05.html 関吉の疎水溝]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
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|} |
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=== エリア3 韮山 === |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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| No. |
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|width="16%"| 名称 |
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|width="8%"| 所在地 |
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| 概要 |
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| 3-1 |
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| [[韮山反射炉]] |
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| [[静岡県]]<br/>[[伊豆の国市]] |
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| [[File:Nirayama-Hansharo.jpg|150px|right]] |
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日本に現存する2基の[[反射炉]]の一つで、実際に大砲を鋳造した実用炉としては唯一現存する。国の史跡に指定。[[欧米]][[列強]]に対抗するため、[[江川英龍]]らの主導により[[江戸幕府]]直営で建造された鉄製大砲鋳造のための炉で、[[1857年]]に完成した。付属機械は明治期に陸軍に引き渡されたため、耐火煉瓦製の反射炉本体のみ現存する<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_shizuoka_01.html 韮山反射炉]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
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|} |
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=== エリア4 釜石 === |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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| No. |
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|width="16%"| 名称 |
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|width="8%"| 所在地 |
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| 概要 |
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| 4-1 |
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| [[橋野高炉跡|橋野鉄鉱山・高炉跡]] |
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| [[岩手県]]<br/>[[釜石市]] |
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| [[File:Hashino-sanbankouroato.jpg|150px|right]] |
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日本に現存する最古の洋式高炉跡。国の史跡に指定。[[盛岡藩]]士[[大島高任]]は、自らが建設に携わった[[水戸藩]]の反射炉に良質な[[銑鉄]]を供給する必要性を感じ、[[鉄鉱石]]を用いた[[製鉄]]を行う洋式[[高炉]]を現在の釜石市大橋に建設、1858年に日本で初めて連続出銑に成功した。その後盛岡藩は製鉄の本格化を目指して大島の指導を受け、新たに1858年から1860年頃にかけて釜石市橋野に3基の高炉を建設した。橋野の高炉は1894年まで操業し、その後は鉄鉱石の採掘が継続された。採掘場から運搬路を経て高炉に至る、製鉄工程全体の遺構が残っている<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_iwate_01.html 橋野鉄鉱山・高炉跡]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
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|} |
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=== エリア5 佐賀 === |
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{| class="wikitable" |
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| No. |
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|width="16%"| 名称 |
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|width="8%"| 所在地 |
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| 概要 |
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| 5-1 |
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| [[三重津海軍所|三重津海軍所跡]] |
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| [[佐賀県]]<br/>[[佐賀市]] |
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| [[File:RyofuMaru.JPG|thumb|right|三重津海軍所で建造された凌風丸]] |
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佐賀藩海軍の訓練場・造船所で、日本に現存する最古の[[乾ドック|乾船渠(ドライドック)]]の遺構が残る。国の史跡に指定。1853年に大船建造の禁が解除されたことを受け、[[佐賀藩]]はオランダに[[蒸気船]]軍艦を発注し、幕府の[[長崎海軍伝習所]]に藩士を派遣して操船や造船技術の習得を図った。また、1858年に三重津の舟屋を拡張して海軍の訓練場とし、後に乾船渠を増設して造船や修理の場とした。また、[[1865年]]に日本初の実用蒸気船[[凌風丸 (佐賀藩)|凌風丸]]を建造した<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_saga_01.html 三重津海軍所跡]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
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|} |
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=== エリア6 長崎 === |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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| No. |
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|width="16%"| 名称 |
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|width="8%"| 所在地 |
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| 概要 |
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| 6-1 |
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| [[小菅修船場跡]] |
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|rowspan="8"| [[長崎県]]<br/>[[長崎市]] |
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| [[File:Kosuge Ship Repair Dock 02.jpg|150px|right]] |
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[[1869年]]に落成した日本で初めて[[蒸気機関]]を用いた洋式[[ドック]]で、日本の近代造船では最古の遺構が残る。国の史跡に指定。通称「コンニャクレンガ」と呼ばれる扁平な[[煉瓦]]を用いた曳揚げ小屋は、日本最古の煉瓦造り建築。[[五代友厚]]、[[小松清廉]]、[[トーマス・グラバー]]らにより設立され、同年に明治政府が買収、[[1887年]]に[[三菱グループ|三菱]]に移管し、現在は三菱重工業長崎造船所が管理<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_01.html 小菅修船場跡]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
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|- |
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| 6-2 |
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| [[三菱重工業長崎造船所|三菱長崎造船所]] 第三船渠 |
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| [[File:IJN heavy cuiser HAGURO 1928 under construction at MITSUBISHI Nagasaki dry dock.jpg|thumb|right|1928年当時の第三船渠と建造中の日本海軍軍艦「羽黒」]] |
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[[1905年]]に竣工した全長222.2m・建造能力3万トン(いずれも竣工当時)の大型ドックで、竣工当時は東洋最大規模だった。その後全長276.6m・9万5千トンに増強され、現在も三菱重工業長崎造船所のドックとして稼働中。長崎造船所では明治時代に3つのドックが開設されたが、そのうち唯一現存する。竣工時設置の[[シーメンス]]社製排水ポンプも稼働中<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-nag05">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_05.html 三菱長崎造船所関連施設]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
|- |
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| 6-3 |
|||
| 長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン |
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| [[File:Mitsubishi Nagasaki Hammerhead Crane.JPG|150px|right]] |
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[[1909年]]に竣工したイギリスのアップルビー社製・吊上げ能力150トンの電動[[カンチレバー]]クレーンで、日本で初めて設置された大型カンチレバークレーン。1961年に工場拡張のため移設されたが、当初から変わらず大型機械の搭載や陸揚げに使用され、現在も稼働中<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-nag05"/>。 |
|||
|- |
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| 6-4 |
|||
| 長崎造船所 旧木型場 |
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| [[1898年]]に竣工した煉瓦造り2階建の[[木型]]場で、明治30年代に作られた現存する木型場としては日本国内最大。長崎造船所の現存する建物の中でも最古。骨組は木造クイーンポスト[[トラス]]組みで、屋根は桟瓦葺きの[[切妻屋根]]。1915年に増築されており、増築部分は[[鉄骨]]造フィンクトラス組み。現在は長崎造船所の資料館となっている<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-nag05"/>。 |
|||
|- |
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| 6-5 |
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| 長崎造船所 占勝閣 |
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| [[File:長崎造船所 占勝閣.JPG|150px|right]] |
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[[1904年]]に落成した[[曽禰達蔵]]設計の木造洋館。当時の長崎造船所所長、[[荘田平五郎]]の邸宅として建設されたもので、造船所構内の丘の上に立地する。なお、予定されていた邸宅としては使用されず[[迎賓館]]となり、現在まで使用され続けている<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-nag05"/>。 |
|||
|- |
|||
| 6-6 |
|||
| [[高島炭鉱|高島炭坑]] |
|||
| [[開国]]後の蒸気船用[[石炭]]需要の高まりを受けて、1868年に日本で初めて蒸気機関を用いて竪坑が開削され、日本における近代炭鉱開発の先駆けとなった。この坑は翌1869年に海底炭田に着炭し、北渓井坑と命名され1876年まで採掘された。蒸気機関の動力は炭箱を運ぶ巻揚機、排水ポンプなどに使用され、その技術は[[筑豊炭田|筑豊炭鉱]]や三池炭鉱に伝わった。北渓井坑跡は国の史跡に指定。当初は佐賀藩と[[グラバー商会]]による共同経営だったが<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_03.html 高島炭鉱]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>、後に三菱の経営となり、[[1986年]]に閉山した。 |
|||
|- |
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| 6-7 |
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| [[端島 (長崎県)|端島炭坑]] |
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| [[File:Nagasaki Hashima 01.png|150px|right]] |
|||
1870年に石炭の採掘が始まり、[[1890年]]に三菱の所有となった炭鉱の島。製鉄用原料炭に適した良質な石炭を産出する炭鉱で、炭鉱開発とともに[[埋め立て]]により拡張され、大正期の[[1916年]]以降に多くの[[鉄筋コンクリート造]]高層住宅が建設された。国の史跡に指定。明治末期には八幡製鉄所向けの原料炭生産地となった。[[1974年]]に閉山したが、地下を含めて多くの生産施設や幾度に亘る埋め立ての護岸遺構が残っている<ref name="kantei140117" /><ref name="nag04">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_04.html 端島炭鉱]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
|- |
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| 6-8 |
|||
| [[グラバー園|旧グラバー住宅]] |
|||
| [[File:Nagasaki-Glover-Garden-5415.jpg|150px|right]] |
|||
小菅修船場や高島炭鉱の経営など、近代技術の導入を通じて日本の近代化に尽力した、スコットランド出身の実業家[[トーマス・グラバー]]の邸宅。主家は[[1863年]]に建設された日本最古の木造洋風建築で、[[欄間]]がアーチ型になっている一方で日本瓦や土壁が用いられるなど、イギリスの[[コロニアル]]様式と日本の伝統技術が融合した形となっている。主屋と附属屋の2棟が国の重要文化財に指定。他の邸宅や移築されてきた洋館などと併せて、1974年に観光施設「グラバー園」となった<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_nagasaki_02.html 旧グラバー住宅]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
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|} |
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=== エリア7 三池 === |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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| No. |
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|colspan="2" width="16%"| 名称 |
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|width="8%"| 所在地 |
|||
| 概要 |
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|- |
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|rowspan="5"| 7-1 |
|||
|colspan="2"| [[三井三池炭鉱|三池炭鉱]]、[[三池港]] |
|||
|rowspan="5"| [[福岡県]]<br/>[[大牟田市]]・<br/>[[熊本県]]<br/>[[荒尾市]]<br/><ref group="注">宮原坑と三池港は大牟田市内のみ。万田坑と専用鉄道敷跡は両市に跨る。</ref> |
|||
| [[File:Mikawa2kouguchiheisokumae.jpg|thumb|right|三池炭鉱三川坑入口、2000年(指定範囲外)]] |
|||
[[1873年]]に操業開始し、明治政府から[[1889年]]に[[三井グループ|三井]]に移管、[[1997年]]に閉山した炭鉱。[[1894年]]、[[團琢磨]]は宮原と万田での新坑掘削を提言し、開削につながる。一方、三池港は石炭の積出港として整備された<ref name="ky-fkk02"/><ref name="ky-kum02"/><ref name="ky-fkk03"/>。 |
|||
|- |
|||
|rowspan="4" style="border-top:hidden"| |
|||
|width="15%"| 三池炭鉱 宮原坑 |
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| [[File:Miyaharakou.JPG|150px|right]] |
|||
1898年に第一竪坑、1901年に第二竪坑が完成した。第二竪坑の櫓とデビーポンプ室の壁の一部が現存する。国の史跡に指定、また第二竪坑櫓、第二竪坑巻揚機室は建造物として国の重要文化財に指定。第二竪坑は主に人員の昇降と排気を行う坑で、2基の昇降機が設けられている。当初は蒸気を動力としたが、後に電気に変わり、現存する電動モーターは昭和初期のものである。なお、竪坑自体は閉塞されている<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-fkk02">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_fukuoka_02.html 三池炭鉱 宮原坑]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
|- |
|||
| 三池炭鉱 万田坑 |
|||
| [[File:Mandakou.JPG|150px|right]] |
|||
1902年に第一竪坑、1908年に第二竪坑が完成した。また、これに合わせて機械室、選炭場、事務所などの施設が造られたが、当時の煉瓦造りの建物や、外国産あるいは国産の機械類が、良好な状態で保存されている。第一竪坑口と第一竪坑跡、汽罐場跡、選炭場跡、坑内トロッコ軌道敷などの一連の工程を構成する施設群は国の史跡に指定、また第二竪坑櫓、第二竪坑巻揚機室、倉庫及びポンプ室、安全灯室及び浴室、事務所、山ノ神祭祀施設は建造物として国の重要文化財に指定<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-kum02">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_kumamoto_01.html 三池炭鉱 万田坑]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
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|- |
|||
| 三池炭鉱 [[三池鉄道|専用鉄道敷跡]] |
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| [[File:Miike map circa 1930.PNG|thumb|right|1930年当時の三池地区の鉄道網]] |
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石炭や資材の運搬のために敷設された専用鉄道で、[[1891年]]に七浦坑と大牟田川河口を結ぶ最初の区間が開通、1905年に三池港まで延伸開通した。設置当時に造成された切土・盛土の跡などはそのまま残っている。国の史跡に指定。1909年から1923年にかけて全線電化したほか、坑口や主要工場へと多くの支線が設けられ、最盛期には客車も運行された。現在は[[三井化学]]の専用鉄道となり、原材料の運搬を担っている<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-fkk04">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_fukuoka_04.html 三池炭鉱専用鉄道]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
|- |
|||
| 三池港 |
|||
| [[File:三池港閘門3.JPG|thumb|right|三池港の閘門]]三池炭鉱で産出された石炭を大型船に乗せて運搬するために建設された港で、[[1908年]]に竣工した。干満の差が大きい[[有明海]]で大型船を航行させるため、汐待ちのために[[閘門]]で締め切った内港が設けられた。また、砂泥の侵入を防ぐために長い防砂堤が設置された。港は現在も重要港湾として使用されている。築港時に建てられた税関の建物も残っている<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-fkk03">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_fukuoka_03.html 三池港]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
|- |
|||
| 7-2 |
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|colspan="2"| [[三角港|三角西(旧)港]] |
|||
| 熊本県<br/>[[宇城市]] |
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| [[File:Misumi-West-port Uki Kumamoto.JPG|150px|right]] |
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明治政府において産業開発と併せた港湾整備の一環として建設された港で、[[1887年]]に開港した。オランダ人技師[[ローウェンホルスト・ムルデル]]の設計。石積みの埠頭、道路、排水路、石橋などがそのまま残っており、明治期の港湾の中では日本で唯一完全な状態で現存する。鉄道と併せて三角東港が整備されたため荷役を取って代わられ、早期に衰退したため当時の状態が残っている。埠頭などが建造物として国の重要文化財に指定されているほか、「三角浦の文化的景観」の名称で[[重要文化的景観]]として選定されている。なお、三池港整備以前の三池炭鉱の石炭積出港でもあり、1893年からの9年間、上海などに向けて石炭の輸出が行われた<ref name="kantei140117" /><ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_kumamoto_02.html 三角西(旧)港]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
|} |
|||
=== |
=== エリア8 八幡 === |
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{| class="wikitable" |
|||
<!-- 構成資産節にリストアップされている順番にソートしています --> |
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|- |
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<gallery> |
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| No. |
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File:Hagi Reverberatory furnaces.JPG|萩反射炉跡 |
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|colspan="2" width="16%"| 名称 |
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File:Ohitayama-tatara Iron Works 04 Smelter.JPG|大板山たたら製鉄遺跡 |
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|width="8%"| 所在地 |
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File:Shokasonjuku.jpg|松下村塾 |
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| 概要 |
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File:Kagoshima Syuseikan.jpg|尚古集成館 |
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|- |
|||
File:Nirayama-Hansharo.jpg|韮山反射炉 |
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|rowspan="4"| 8-1 |
|||
File:Hashino-sanbankouroato.jpg|橋野高炉跡 |
|||
|colspan="2"| [[八幡製鐵所|官営八幡製鐵所]] |
|||
File:Mitsubishi Nagasaki Hammerhead Crane.JPG|三菱重工業長崎造船所ハンマーヘッド型起重機 |
|||
|rowspan="4"| 福岡県<br/>[[北九州市]] |
|||
File:Nagasaki Hashima 01.png|端島炭鉱(軍艦島) |
|||
| [[File:140721 Yawata Steel Works from RRH Kitakyushu Japan01s3.jpg|150px|right]] |
|||
File:Nagasaki-Glover-Garden-5415.jpg|旧グラバー住宅 |
|||
明治20年代に急増した鉄鋼需要を補うため、[[1897年]]、筑豊炭田に隣接し誘致活動が活発だった八幡に製鉄所を設置することが決定する。ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ(GHH)社に設計を依頼し、技術指導を受けた。4年の建設期間を経て、[[1901年]]2月に東田第一高炉に火入れが行われ稼働が開始する。しかし、トラブルや資金難により翌1902年7月には休止を余儀なくされたため、[[釜石鉱山田中製鉄所|釜石田中製鉄所]]で日本初の[[コークス]]による銑鉄生産を成功させた野呂景義に再建が託される。野呂は高炉の改良と新たなコークス炉の建設を行い、1904年7月から本格稼働を再開した。これにより、日本の高炉操業技術が確立され、日本の産業近代化(重工業化)が達成される。製鉄所は1930年代にかけて拡張され、周辺にも多くの産業が集積し、[[北九州工業地帯]]の主要拠点となった<ref name="kantei140117" /><ref name="ky-fkk01">「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_fukuoka_01.html 官営八幡製鐵所関連施設]」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧</ref>。 |
|||
File:Hammer Head Crane, Mistubishi, Nagasaki.jpg|三菱重工業長崎造船所ハンマーヘッド型起重機(明治期)手彩色絵葉書 |
|||
|- |
|||
File:Hashima_Gunkan_jima_Nagasaki.jpg|端島炭鉱(軍艦島)(明治期)手彩色絵葉書 |
|||
|rowspan="3" style="border-top:hidden"| |
|||
File:Mandakou.JPG|三池炭鉱 万田坑 |
|||
|width="15%"| 八幡製鐵所 旧本事務所 |
|||
</gallery> |
|||
| [[1899年]]に建設された赤煉瓦組積造の建物。製鐵所の技術者による設計。骨組はクイーンポストトラス組み、煉瓦積みはイギリス式の一方、屋根は和式の瓦葺。1922年まで本事務所として使用された後、鉄鋼の研究所として使用された<ref name="ky-fkk01"/>。 |
|||
|- |
|||
| 八幡製鐵所 修繕工場 |
|||
| [[1900年]]に建設された鉄骨造の建物。設計及び使用鋼材はGHH社による。現存する日本国内最古の鉄骨建築物。3回に亘り増築されたが、使用された鋼材がドイツ製から次第に日本製へと変わり、日本の製鉄技術が発展する過程を示すものとなっている。製鉄所で使用する機械の修繕や部材の製作が行われ、現在も稼働中<ref name="ky-fkk01"/>。 |
|||
|- |
|||
| 八幡製鐵所 旧鍛冶工場 |
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| 1900年に建設された鉄骨造の建物。設計及び使用鋼材はGHH社による。製鉄所で使用する鍛造品の製造が行われ、大正時代に現在の場所に移転してからは製品試験所として使用された。現在は創業時からの資料を保管する史料室となっている<ref name="ky-fkk01"/>。 |
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|- |
|||
| 8-2 |
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|colspan="2"| 遠賀川水源地ポンプ室 |
|||
| 福岡県<br/>[[中間市]] |
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| [[File:遠賀川水源地ポンプ室1.JPG|150px|right]] |
|||
鉄鋼生産に必要な工業用水を[[遠賀川]]上流から取水し八幡製鐵所に送水する施設で、[[1910年]]に建設された。鉄骨骨組、イギリス式の煉瓦積み。操業開始時は蒸気ポンプとボイラーが使用されたが、現在は電気ポンプになっている。ボイラー室・ポンプ室の建屋と沈砂池が現存し、現在も使用されている<ref name="ky-fkk01"/>。 |
|||
|} |
|||
=== 選定期に候補となった遺産 === |
=== 選定期に候補となった遺産 === |
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以下は、初期の候補として挙げられたものの、最終推薦では除外された<ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/related.html 明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域:関連資産]」、九州・山口の近代化産業遺産群 世界遺産登録推進 |
以下は、初期の候補として挙げられたものの、最終推薦では除外された<ref>「[http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/related.html 明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域:関連資産]」、九州・山口の近代化産業遺産群 世界遺産登録推進協議会、2015年5月5日閲覧</ref>。 |
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* 官営八幡製鐵所 東田第一高炉跡、西田岸壁(福岡県北九州市) |
* 官営八幡製鐵所 東田第一高炉跡、西田岸壁(福岡県北九州市) |
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98行目: | 274行目: | ||
== 反対意見 == |
== 反対意見 == |
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[[大韓民国|韓国]]の[[尹炳世]]外 |
[[大韓民国|韓国]]の[[尹炳世]][[外交部 (大韓民国)|外交部]]長官は、「九州・山口の近代化産業遺産群を世界遺産に登録することは世界遺産登録の基本精神に反する」として登録に反対を表明した。構成資産のうち、[[三菱重工業長崎造船所|長崎造船所]]や[[端島 (長崎県)|端島炭坑]]など7つの施設で[[第二次世界大戦]]中に[[朝鮮人強制連行|多くの朝鮮人が徴用]]され、多くの犠牲者を出したというのが主な理由であり<ref>「[http://www.sankei.com/world/news/150504/wor1505040041-n1.html 韓国、「侵略の歴史美化」日本の産業革命遺産登録に重ねて反対]」、産経新聞、2015年5月4日付、2015年5月5日閲覧</ref>、全23施設のうち7施設の申請撤回を求めている。また、[[中華人民共和国|中国]]外務省も韓国の働きかけに応じ、中国人が働かされた施設があるとして登録反対を表明している<ref>「[http://www.yomiuri.co.jp/world/20150610-OYT1T50034.html 中韓、ユネスコで対日圧力…歴史問題で揺さぶり]」、読売新聞、2015年6月10日付、2015年6月10日閲覧</ref><ref name="yom0509">「[http://www.yomiuri.co.jp/feature/matome/20150511-OYT8T50041.html 政府、韓国反応に不信感]」、読売新聞、2015年5月9日付、2015年6月10日閲覧</ref><ref>「[http://www.sankei.com/world/news/150528/wor1505280050-n1.html 日本の態度「話にならない」…中国は絶対反対の立場 日韓の妥協阻止狙いか]」、産経新聞、2015年5月28日付、2015年6月10日閲覧</ref>。 |
||
これに対し日本の[[岸田文雄]][[外務大臣]]は、この遺産群の対象年代は1850年代から1910年であり、徴用が行われた年代とは異なると反論している<ref name="yom0509"/>。 |
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韓国は21か国で構成される第39回世界遺産委員会の委員国に含まれており、委員会審議での紛糾も予想される<ref name="sankei">「[http://www.sankei.com/life/news/150504/lif1505040026-n2.html 「軍艦島」など世界遺産へ ユネスコに勧告、3年連続19件目 明治産業革命23施設]」、産経新聞、2015年5月4日付、2015年5月5日閲覧</ref>。 |
韓国は21か国で構成される第39回世界遺産委員会の委員国に含まれており、委員会審議での紛糾も予想される<ref name="sankei">「[http://www.sankei.com/life/news/150504/lif1505040026-n2.html 「軍艦島」など世界遺産へ ユネスコに勧告、3年連続19件目 明治産業革命23施設]」、産経新聞、2015年5月4日付、2015年5月5日閲覧</ref>。 |
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イコモスの登録勧告が行われた2015年5月以降、日韓両政府は協議を行っている。韓国は、勧告の文言にある「各施設の全体の歴史を理解できるようにする」という点から、「全体の歴史」には1940年代の徴用も含まれるという解釈を示し、強制徴用の説明を展示に加える措置をとることを妥協案として提示している<ref>「[http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20150601-OYS1T50034.html 世界遺産登録で日本に妥協要求 韓国当局者]」、読売新聞、2015年5月31日付、2015年6月10日閲覧</ref>。 |
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2015年6月21日、尹外交部長官は訪日して岸田外務大臣と会談を行い、「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録について協力する方針を示した。日本の政府関係者によると、日本側は歴史的な事実関係の範囲内で明示すると説明し、韓国側に一定の配慮をみせたという。また、韓国も「[[百済]]の歴史地区」の世界遺産登録を目指しているので、岸田大臣は「(両国は)ともに協力し、両案件が登録できるよう協力することで一致した」ことを明らかにした<ref>「[http://www.sankei.com/politics/news/150621/plt1506210021-n1.html 韓国一転「日本の世界文化遺産登録に協力」 外相会談で提示]」、産経新聞、2015年6月21日付、2015年6月22日閲覧</ref>。 |
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2015年6月27日 (土) 05:07時点における版
九州・山口の近代化産業遺産群(きゅうしゅう・やまぐちのきんだいかさんぎょういさんぐん)は、2009年にユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストに記載された九州・山口地方にある近代化遺産、産業遺産の総称であった。当初の正式な名称は「九州・山口の近代化産業遺産群-非西洋世界における近代化の先駆け-」であったが、2013年の構成資産見直しの結果、山口・福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・岩手・静岡の8県に点在することとなり、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の名称で推薦書が世界遺産センターに提出された[4][1]。これに対し、世界遺産委員会の諮問機関のひとつであるイコモスは「登録」を勧告するとともに、登録名は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」に変更することを求めた[5][6][7]。実際の登録名は世界遺産委員会審議の結果確定する。
西洋から非西洋世界への技術移転と日本の伝統文化を融合させ、1850年代から1910年(幕末 - 明治時代)までに急速な発展をとげた炭鉱、鉄鋼業、造船業に関する文化遺産であり[4]、稼働遺産を含む資産の世界遺産への推薦は日本では初めてである[6][7]。
登録経緯
2008年12月15日、文化庁が北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群(北海道など)、宗像・沖ノ島と関連遺産群(福岡県宗像市など)とともに追加申請を決め、翌2009年1月5日に暫定リストに追加掲載された。本遺産群の世界遺産正式登録に向けて、2009年10月22日に「九州・山口の近代化産業遺産群専門家委員会提言書」が登録推進協議会の諮問機関である専門家委員会より提出され、構成資産の加除が提言された。その内容を要約すると、テーマ別に9つのストーリーで構成されているほか、 旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓・煙突ほか筑豊炭田の遺産などが削除され、三重津海軍所跡(佐賀県佐賀市、1858年)や橋野高炉跡(岩手県釜石市)、三池炭鉱関連の三池港(福岡県大牟田市)・鉄道敷跡(福岡県大牟田市・熊本県荒尾市)、韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)などが追加されている。2013年の推薦書暫定版では8エリア28資産としたが[4]、2014年の推薦書正式版では一部の関連資産同士を統合し、8エリア23資産とした[1]。
遺産群の中には文化財保護法対象外の稼働遺産が含まれていることから、法的保護根拠の新たな解釈調整が必要となり、国内の文化遺産では初めて文化庁ではなく内閣官房(地域活性化統合事務局)によって推薦が行われた[1]。2014年1月29日にユネスコへ推薦書が提出され、同年9月26日から10月5日までユネスコ諮問機関のイコモスの現地調査が行われた。2015年6月28日から7月8日に開催される第39回世界遺産委員会で登録審査が行われる。委員会審議に先立ち、イコモスは2015年5月4日に「登録」(記載)を勧告し、登録が確実視されることとなった[5][8]。
イコモスが提案した名称変更は事前の打診に対して日本が同意したものであり、産業全体ではなく重工業に限定された物件であることを明記する意図による[6]。
構成資産
推薦資産は、広範囲に点在する複数の物件をまとめて1件の世界遺産とするシリアル・ノミネーションによるアプローチであり、8つのエリア、全23資産により構成されている[1][9]。
エリア1 萩
No. | 名称 | 所在地 | 概要 |
1-1 | 萩反射炉 | 山口県萩市 |
日本に現存する2基の反射炉の1つで、10.5mの煙突部分の遺構。国の史跡に指定。欧米列強に対抗するため、長州藩では海防強化のための鉄製大砲製造が求められ、オランダの技術書を基に先んじて反射炉の操業を始めていた佐賀藩から技術を導入して建造された。1856年に操業を始めたが、規模が小さいことなどから実用炉ではなく実験炉だったと見られている[1][10]。 |
1-2 | 恵美須ヶ鼻造船所跡 |
前期にロシア式、後期にオランダ式の技術を用いて大型の洋式軍艦を製造した造船所跡。国の史跡に指定。いわゆる黒船来航による危機感から、江戸幕府は1853年に大船建造の禁を解除する。長州藩では、幕府の要請と藩士木戸孝允の意見書を受けて、幕府がロシア式(君沢形)造船を行った伊豆戸田に尾崎小右衛門ら技術者を派遣、帰国した尾崎らは造船所建設を行う。造船所は1856年に完成し、丙辰丸を建造(1857年進水)した。藩は1857年に造船所を一旦閉鎖するが、翌1858年に山田亦介の主導で再び整備を行う。さらに、長崎海軍伝習所に技術者を派遣してオランダ式(バーク型)造船を学ばせ、庚申丸を建造(1860年進水)した[1][11]。 | |
1-3 | 大板山たたら製鉄遺跡 |
在来のたたら製鉄の技術を用いて江戸時代中期から後期に操業し、洋式軍艦の製造に欠かせない鉄の供給を行った。国の史跡に指定。恵美須ヶ鼻造船所で1856年に建造された丙辰丸に、鉄製の船釘を供給した。炉、天秤ふいごなどの遺構が発掘されている[1][12]。 | |
1-4 | 萩城下町 |
幕末から明治維新にかけて日本の近代国家形成を主導した西南雄藩のひとつ、長州藩の中心拠点。1604年に毛利氏の戸城として指月山に萩城が建造され、麓に城下町が形成された。武家屋敷や商家が連なる「萩城城下町」は国の史跡に指定、重臣の屋敷が並ぶ「堀内地区」は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定[1][13]。 | |
1-5 | 松下村塾 |
長州藩校明倫館の師範を務めた藩士吉田松陰が講義した私塾。国の史跡に指定。3年弱の間に指導した塾生の中から、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など、幕末から明治維新にかけての日本の近代化・産業化に貢献する人材を輩出した[1][14]。 |
エリア2 鹿児島
No. | 名称 | 所在地 | 概要 | |
2-1 | 旧集成館 | 鹿児島県 鹿児島市 |
欧米列強に対抗するため、薩摩藩主島津斉彬は1851年から現在の鹿児島市吉野町磯地区に工場群を設けて軍事強化と産業育成を図った(集成館事業)。製鉄・造船・紡績など幅広い分野を手掛けた。1863年の薩英戦争や1877年の西南戦争では被害を受けその度に再興したが、1915年に廃止された。国の史跡に指定[1][15][16][17]。 | |
旧集成館反射炉跡 |
反射炉下部の遺構。佐賀藩が有していたオランダの技術書の日本語訳を基にしつつ、在来工法による石積みや薩摩焼の技術を用いた耐火煉瓦製造など、和洋折衷の技術で反射炉が建設された[1][15]。 | |||
旧集成館機械工場 |
金属加工や船舶の修理、部品加工が行われた機械工場。建物は国の重要文化財。薩英戦争により初期の集成館は一度焼失する。その後島津忠義は、幕府直営の長崎製鉄所を手本に、オランダから工作機械を輸入して再興を行い、1865年に建物が完成した。1863年製造のオランダ製形削盤も現存しており、国の重要文化財に指定されている[1][16]。 | |||
旧鹿児島紡績所技師館 |
イギリス人技術者の宿舎として建設された洋館で、洋風の外観ながら、柱には尺寸法が用いられたほか、屋根裏小屋組が和式であるなど、和洋折衷となっている。建物は国の重要文化財。島津忠義は、1867年に鹿児島紡績所を建設したが、その際イギリスから7名の技術者を招いて工場の設計と技術指導を依頼した。イギリス人技術者帰国後は、大砲製造の支配所などに使用された。1882年に鹿児島城本丸跡に移築され学校などに使用された後、1936年に再び現在の場所に移築された[1][17]。 | |||
2-2 | 寺山炭窯跡 | 1858年に建設された木炭製造用の石積み窯跡。国の史跡に指定(「旧集成館」の附(つけたり)としての指定)。集成館事業に必要な大量の燃料を補うため、島津斉彬の命により建設された[1][18]。 | ||
2-3 | 関吉の疎水溝 |
1852年に建設された集成館事業の水車動力用水路跡。現在の鹿児島市下田町関吉にある稲荷川上流から取水し、吉野町磯地区の集成館まで送水した。もともと島津氏の庭園である仙巌園へ水路(吉野疎水)が設けられていたが、それを島津斉彬の命により改修した。現在は一部が灌漑用水として利用されており、取水口や集成館内の水路などが現存する[1][19]。 |
エリア3 韮山
No. | 名称 | 所在地 | 概要 |
3-1 | 韮山反射炉 | 静岡県 伊豆の国市 |
日本に現存する2基の反射炉の一つで、実際に大砲を鋳造した実用炉としては唯一現存する。国の史跡に指定。欧米列強に対抗するため、江川英龍らの主導により江戸幕府直営で建造された鉄製大砲鋳造のための炉で、1857年に完成した。付属機械は明治期に陸軍に引き渡されたため、耐火煉瓦製の反射炉本体のみ現存する[1][20]。 |
エリア4 釜石
No. | 名称 | 所在地 | 概要 |
4-1 | 橋野鉄鉱山・高炉跡 | 岩手県 釜石市 |
日本に現存する最古の洋式高炉跡。国の史跡に指定。盛岡藩士大島高任は、自らが建設に携わった水戸藩の反射炉に良質な銑鉄を供給する必要性を感じ、鉄鉱石を用いた製鉄を行う洋式高炉を現在の釜石市大橋に建設、1858年に日本で初めて連続出銑に成功した。その後盛岡藩は製鉄の本格化を目指して大島の指導を受け、新たに1858年から1860年頃にかけて釜石市橋野に3基の高炉を建設した。橋野の高炉は1894年まで操業し、その後は鉄鉱石の採掘が継続された。採掘場から運搬路を経て高炉に至る、製鉄工程全体の遺構が残っている[1][21]。 |
エリア5 佐賀
No. | 名称 | 所在地 | 概要 |
5-1 | 三重津海軍所跡 | 佐賀県 佐賀市 |
佐賀藩海軍の訓練場・造船所で、日本に現存する最古の乾船渠(ドライドック)の遺構が残る。国の史跡に指定。1853年に大船建造の禁が解除されたことを受け、佐賀藩はオランダに蒸気船軍艦を発注し、幕府の長崎海軍伝習所に藩士を派遣して操船や造船技術の習得を図った。また、1858年に三重津の舟屋を拡張して海軍の訓練場とし、後に乾船渠を増設して造船や修理の場とした。また、1865年に日本初の実用蒸気船凌風丸を建造した[1][22]。 |
エリア6 長崎
No. | 名称 | 所在地 | 概要 |
6-1 | 小菅修船場跡 | 長崎県 長崎市 |
1869年に落成した日本で初めて蒸気機関を用いた洋式ドックで、日本の近代造船では最古の遺構が残る。国の史跡に指定。通称「コンニャクレンガ」と呼ばれる扁平な煉瓦を用いた曳揚げ小屋は、日本最古の煉瓦造り建築。五代友厚、小松清廉、トーマス・グラバーらにより設立され、同年に明治政府が買収、1887年に三菱に移管し、現在は三菱重工業長崎造船所が管理[1][23]。 |
6-2 | 三菱長崎造船所 第三船渠 |
1905年に竣工した全長222.2m・建造能力3万トン(いずれも竣工当時)の大型ドックで、竣工当時は東洋最大規模だった。その後全長276.6m・9万5千トンに増強され、現在も三菱重工業長崎造船所のドックとして稼働中。長崎造船所では明治時代に3つのドックが開設されたが、そのうち唯一現存する。竣工時設置のシーメンス社製排水ポンプも稼働中[1][24]。 | |
6-3 | 長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン |
1909年に竣工したイギリスのアップルビー社製・吊上げ能力150トンの電動カンチレバークレーンで、日本で初めて設置された大型カンチレバークレーン。1961年に工場拡張のため移設されたが、当初から変わらず大型機械の搭載や陸揚げに使用され、現在も稼働中[1][24]。 | |
6-4 | 長崎造船所 旧木型場 | 1898年に竣工した煉瓦造り2階建の木型場で、明治30年代に作られた現存する木型場としては日本国内最大。長崎造船所の現存する建物の中でも最古。骨組は木造クイーンポストトラス組みで、屋根は桟瓦葺きの切妻屋根。1915年に増築されており、増築部分は鉄骨造フィンクトラス組み。現在は長崎造船所の資料館となっている[1][24]。 | |
6-5 | 長崎造船所 占勝閣 |
1904年に落成した曽禰達蔵設計の木造洋館。当時の長崎造船所所長、荘田平五郎の邸宅として建設されたもので、造船所構内の丘の上に立地する。なお、予定されていた邸宅としては使用されず迎賓館となり、現在まで使用され続けている[1][24]。 | |
6-6 | 高島炭坑 | 開国後の蒸気船用石炭需要の高まりを受けて、1868年に日本で初めて蒸気機関を用いて竪坑が開削され、日本における近代炭鉱開発の先駆けとなった。この坑は翌1869年に海底炭田に着炭し、北渓井坑と命名され1876年まで採掘された。蒸気機関の動力は炭箱を運ぶ巻揚機、排水ポンプなどに使用され、その技術は筑豊炭鉱や三池炭鉱に伝わった。北渓井坑跡は国の史跡に指定。当初は佐賀藩とグラバー商会による共同経営だったが[1][25]、後に三菱の経営となり、1986年に閉山した。 | |
6-7 | 端島炭坑 |
1870年に石炭の採掘が始まり、1890年に三菱の所有となった炭鉱の島。製鉄用原料炭に適した良質な石炭を産出する炭鉱で、炭鉱開発とともに埋め立てにより拡張され、大正期の1916年以降に多くの鉄筋コンクリート造高層住宅が建設された。国の史跡に指定。明治末期には八幡製鉄所向けの原料炭生産地となった。1974年に閉山したが、地下を含めて多くの生産施設や幾度に亘る埋め立ての護岸遺構が残っている[1][2]。 | |
6-8 | 旧グラバー住宅 |
小菅修船場や高島炭鉱の経営など、近代技術の導入を通じて日本の近代化に尽力した、スコットランド出身の実業家トーマス・グラバーの邸宅。主家は1863年に建設された日本最古の木造洋風建築で、欄間がアーチ型になっている一方で日本瓦や土壁が用いられるなど、イギリスのコロニアル様式と日本の伝統技術が融合した形となっている。主屋と附属屋の2棟が国の重要文化財に指定。他の邸宅や移築されてきた洋館などと併せて、1974年に観光施設「グラバー園」となった[1][26]。 |
エリア7 三池
No. | 名称 | 所在地 | 概要 | |
7-1 | 三池炭鉱、三池港 | 福岡県 大牟田市・ 熊本県 荒尾市 [注 1] |
1873年に操業開始し、明治政府から1889年に三井に移管、1997年に閉山した炭鉱。1894年、團琢磨は宮原と万田での新坑掘削を提言し、開削につながる。一方、三池港は石炭の積出港として整備された[27][28][29]。 | |
三池炭鉱 宮原坑 |
1898年に第一竪坑、1901年に第二竪坑が完成した。第二竪坑の櫓とデビーポンプ室の壁の一部が現存する。国の史跡に指定、また第二竪坑櫓、第二竪坑巻揚機室は建造物として国の重要文化財に指定。第二竪坑は主に人員の昇降と排気を行う坑で、2基の昇降機が設けられている。当初は蒸気を動力としたが、後に電気に変わり、現存する電動モーターは昭和初期のものである。なお、竪坑自体は閉塞されている[1][27]。 | |||
三池炭鉱 万田坑 |
1902年に第一竪坑、1908年に第二竪坑が完成した。また、これに合わせて機械室、選炭場、事務所などの施設が造られたが、当時の煉瓦造りの建物や、外国産あるいは国産の機械類が、良好な状態で保存されている。第一竪坑口と第一竪坑跡、汽罐場跡、選炭場跡、坑内トロッコ軌道敷などの一連の工程を構成する施設群は国の史跡に指定、また第二竪坑櫓、第二竪坑巻揚機室、倉庫及びポンプ室、安全灯室及び浴室、事務所、山ノ神祭祀施設は建造物として国の重要文化財に指定[1][28]。 | |||
三池炭鉱 専用鉄道敷跡 |
石炭や資材の運搬のために敷設された専用鉄道で、1891年に七浦坑と大牟田川河口を結ぶ最初の区間が開通、1905年に三池港まで延伸開通した。設置当時に造成された切土・盛土の跡などはそのまま残っている。国の史跡に指定。1909年から1923年にかけて全線電化したほか、坑口や主要工場へと多くの支線が設けられ、最盛期には客車も運行された。現在は三井化学の専用鉄道となり、原材料の運搬を担っている[1][30]。 | |||
三池港 | 三池炭鉱で産出された石炭を大型船に乗せて運搬するために建設された港で、1908年に竣工した。干満の差が大きい有明海で大型船を航行させるため、汐待ちのために閘門で締め切った内港が設けられた。また、砂泥の侵入を防ぐために長い防砂堤が設置された。港は現在も重要港湾として使用されている。築港時に建てられた税関の建物も残っている[1][29]。 | |||
7-2 | 三角西(旧)港 | 熊本県 宇城市 |
明治政府において産業開発と併せた港湾整備の一環として建設された港で、1887年に開港した。オランダ人技師ローウェンホルスト・ムルデルの設計。石積みの埠頭、道路、排水路、石橋などがそのまま残っており、明治期の港湾の中では日本で唯一完全な状態で現存する。鉄道と併せて三角東港が整備されたため荷役を取って代わられ、早期に衰退したため当時の状態が残っている。埠頭などが建造物として国の重要文化財に指定されているほか、「三角浦の文化的景観」の名称で重要文化的景観として選定されている。なお、三池港整備以前の三池炭鉱の石炭積出港でもあり、1893年からの9年間、上海などに向けて石炭の輸出が行われた[1][31]。 |
エリア8 八幡
No. | 名称 | 所在地 | 概要 | |
8-1 | 官営八幡製鐵所 | 福岡県 北九州市 |
明治20年代に急増した鉄鋼需要を補うため、1897年、筑豊炭田に隣接し誘致活動が活発だった八幡に製鉄所を設置することが決定する。ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ(GHH)社に設計を依頼し、技術指導を受けた。4年の建設期間を経て、1901年2月に東田第一高炉に火入れが行われ稼働が開始する。しかし、トラブルや資金難により翌1902年7月には休止を余儀なくされたため、釜石田中製鉄所で日本初のコークスによる銑鉄生産を成功させた野呂景義に再建が託される。野呂は高炉の改良と新たなコークス炉の建設を行い、1904年7月から本格稼働を再開した。これにより、日本の高炉操業技術が確立され、日本の産業近代化(重工業化)が達成される。製鉄所は1930年代にかけて拡張され、周辺にも多くの産業が集積し、北九州工業地帯の主要拠点となった[1][32]。 | |
八幡製鐵所 旧本事務所 | 1899年に建設された赤煉瓦組積造の建物。製鐵所の技術者による設計。骨組はクイーンポストトラス組み、煉瓦積みはイギリス式の一方、屋根は和式の瓦葺。1922年まで本事務所として使用された後、鉄鋼の研究所として使用された[32]。 | |||
八幡製鐵所 修繕工場 | 1900年に建設された鉄骨造の建物。設計及び使用鋼材はGHH社による。現存する日本国内最古の鉄骨建築物。3回に亘り増築されたが、使用された鋼材がドイツ製から次第に日本製へと変わり、日本の製鉄技術が発展する過程を示すものとなっている。製鉄所で使用する機械の修繕や部材の製作が行われ、現在も稼働中[32]。 | |||
八幡製鐵所 旧鍛冶工場 | 1900年に建設された鉄骨造の建物。設計及び使用鋼材はGHH社による。製鉄所で使用する鍛造品の製造が行われ、大正時代に現在の場所に移転してからは製品試験所として使用された。現在は創業時からの資料を保管する史料室となっている[32]。 | |||
8-2 | 遠賀川水源地ポンプ室 | 福岡県 中間市 |
鉄鋼生産に必要な工業用水を遠賀川上流から取水し八幡製鐵所に送水する施設で、1910年に建設された。鉄骨骨組、イギリス式の煉瓦積み。操業開始時は蒸気ポンプとボイラーが使用されたが、現在は電気ポンプになっている。ボイラー室・ポンプ室の建屋と沈砂池が現存し、現在も使用されている[32]。 |
選定期に候補となった遺産
以下は、初期の候補として挙げられたものの、最終推薦では除外された[33]。
- 官営八幡製鐵所 東田第一高炉跡、西田岸壁(福岡県北九州市)
- 旧伊藤伝右衛門邸(福岡県飯塚市)
- 筑豊炭鉱 旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓、伊田竪坑第一・第二煙突(福岡県田川市)
- 旧高取家住宅(佐賀県唐津市)
- 新波止砲台跡(鹿児島県鹿児島市)
- 祇園之洲砲台跡(鹿児島県鹿児島市、1853年)
- 六連島灯台(山口県下関市、1872年)
- 前田砲台跡(山口県下関市、1864年)
登録基準
日本政府は、伝統的なものづくりの文化と西洋技術の交流によって世界的にも稀な急速な近代産業化を遂げた優れた例証として、世界遺産の登録基準のうち、(2)、(3)、(4)を適用できるものとしている[1]。
- (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
反対意見
韓国の尹炳世外交部長官は、「九州・山口の近代化産業遺産群を世界遺産に登録することは世界遺産登録の基本精神に反する」として登録に反対を表明した。構成資産のうち、長崎造船所や端島炭坑など7つの施設で第二次世界大戦中に多くの朝鮮人が徴用され、多くの犠牲者を出したというのが主な理由であり[34]、全23施設のうち7施設の申請撤回を求めている。また、中国外務省も韓国の働きかけに応じ、中国人が働かされた施設があるとして登録反対を表明している[35][36][37]。
これに対し日本の岸田文雄外務大臣は、この遺産群の対象年代は1850年代から1910年であり、徴用が行われた年代とは異なると反論している[36]。
韓国は21か国で構成される第39回世界遺産委員会の委員国に含まれており、委員会審議での紛糾も予想される[8]。
イコモスの登録勧告が行われた2015年5月以降、日韓両政府は協議を行っている。韓国は、勧告の文言にある「各施設の全体の歴史を理解できるようにする」という点から、「全体の歴史」には1940年代の徴用も含まれるという解釈を示し、強制徴用の説明を展示に加える措置をとることを妥協案として提示している[38]。
2015年6月21日、尹外交部長官は訪日して岸田外務大臣と会談を行い、「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録について協力する方針を示した。日本の政府関係者によると、日本側は歴史的な事実関係の範囲内で明示すると説明し、韓国側に一定の配慮をみせたという。また、韓国も「百済の歴史地区」の世界遺産登録を目指しているので、岸田大臣は「(両国は)ともに協力し、両案件が登録できるよう協力することで一致した」ことを明らかにした[39]。
脚注
注釈
- ^ 宮原坑と三池港は大牟田市内のみ。万田坑と専用鉄道敷跡は両市に跨る。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 「「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の世界遺産への推薦について (閣議了解)」、首相官邸、2014年1月17日、2015年5月5日閲覧
- ^ a b 「端島炭鉱」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧
- ^ 後藤惠之輔・坂本道徳 『軍艦島の遺産 : 風化する近代日本の象徴』38頁・158頁、長崎新聞社、2005年、ISBN 9784931493537
- ^ a b c 「「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の世界文化遺産推薦に係る推薦書(暫定版)のユネスコへの提出について 」「「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の概要について (PDF) 」、首相官邸、2013年9月20日、2015年5月5日閲覧
- ^ a b 「明治の産業革命遺産、世界遺産登録へ ユネスコ勧告」、日本経済新聞、2015年5月4日付、2015年5月5日閲覧
- ^ a b c 「明治の産業革命 世界遺産へ」『朝日新聞』2015年5月5日(朝刊)1面
- ^ a b 「軍艦島など世界遺産に 『明治産業革命』23施設 ユネスコへ登録勧告」『毎日新聞』2015年5月5日(朝刊)1面
- ^ a b 「「軍艦島」など世界遺産へ ユネスコに勧告、3年連続19件目 明治産業革命23施設」、産経新聞、2015年5月4日付、2015年5月5日閲覧
- ^ 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域/構成資産を年代別から見る」、九州・山口の近代化産業遺産群 世界遺産登録推進協議会、2015年5月5日閲覧
- ^ 「萩反射炉」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧
- ^ 「恵美須ヶ鼻造船所跡」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧
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