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[[Image:Prester John.jpg|thumb|200px|right|1558年に作成された世界地図上に描かれたプレスター・ジョン(プレステ・ジョアン)]] |
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'''プレスター・ジョン''' ({{lang-en-short|Prester John}} |
'''プレスター・ジョン''' ({{lang-en-short|Prester John}}、{{lang-la-short|Presbyter Johannes}}、{{lang-pt-short|Preste João}}) |
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とは、[[アジア]]、あるいは[[アフリカ]]に存在すると考えられていた伝説上のキリスト教国の[[国王]]。プレスター・ジョン伝説では、[[ネストリウス派]][[キリスト教]]の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられている。名前のプレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味する<ref name="nagashima587">『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、587頁</ref>。 |
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Preste João}})の名称も時折使用される。 |
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== 伝説の起源 == |
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[[1122年]]にインド大司教ヨハネと称する人物が[[ローマ]]を訪れ、[[教皇]][[カリストゥス2世 (ローマ教皇)|カリストゥス2世]]に対して自分の職権の承認を求めた<ref>ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、4頁</ref>。ヨハネは教皇に対してピション川の側に立つフルナという大都市のキリスト教徒、郊外の修道院と[[トマス (使徒)|聖トマス]]の名前を冠する大教会について語ったことがランス僧院長のオドらによって記録されているが、このインド大司教を称する人物は教皇の権威を利用しようとした詐欺師の類だと考えられている<ref>ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、4-5頁</ref>。このインド大司教ヨハネのローマ訪問の記録は、しばしば後世に成立するプレスター・ジョンの伝説と混同して語られる<ref name="nagashima587"/>。 |
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プレスター・ジョンは[[英語]]読みであり、本来の[[ラテン語]]では'''プレスビュテル・ヨハンネス'''({{La|Presbyter Johannes}})であり、現在のラテン語発音ではプレスビーテル・ヨハンネス。[[司祭]][[ヨハネ]]を意味する。[[キリスト]]の誕生を伝えた[[東方の三博士]]の子孫とされ、当初は[[インド]]、後に[[モンゴル]]などの[[中央アジア]]、[[エチオピア]]、[[グレート・ジンバブエ遺跡|ジンバブエ]]等が「プレスター・ジョンの国」として推定された。 |
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[[12世紀]]の[[ドイツ]]で記された、[[オットー・フォン・フライズィング]]の[[年代記]]内の[[1145年]]の条が、プレスター・ジョンに関する最古の記録と考えられている<ref name="a-jiten">藤枝「プレスター・ジョン」『アジア歴史事典』8巻、180頁</ref><ref name="sugiyama104">杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、104頁</ref><ref name="ce-jiten">堀川「プレスター・ジョン伝説」『中央ユーラシアを知る事典』、461-462頁</ref><ref>『東方の驚異』(池上俊一訳)、149頁</ref>。1145年に[[歴史的シリア|シリア]]のガバラ<!-- 『アジア歴史事典』『幻想の東洋』『エチオピア王国誌』を参照しましたが、[[ジャブラ]]と[[ビュブロス]]のどちらか判別できないので内部リンクは貼付していません -->司教ユーグは教皇[[エウゲニウス3世 (ローマ教皇)|エウゲニウス3世]]に謁見し、中東のキリスト教勢力がイスラーム勢力との戦闘で苦境に陥っている戦況と共に東方に現れたプレスター・ジョンの情報を伝え、謁見の場に居合わせたオットーはユーグの言葉を書き残した<ref name="iyanaga181">弥永『幻想の東洋』、181頁</ref>。[[ペルシア]]、[[アルメニア]]の東方に存在する広大な国の王プレスター・ジョンが[[メディア王国|メディア]]、ペルシアを支配するサミアルドスを破り、メディアの首都[[エクバタナ]]を占領したことが、オットーによって記している<ref name="nagashima587"/><ref name="iyanaga181"/>。エルサレムに向かったプレスター・ジョンは道中で[[チグリス川]]に行く手を阻まれ、チグリス川の北では水が凍結すると聞いたプレスター・ジョンは北進するが川は凍結せず、やむなく帰国したと伝えられている<ref name="iyanaga181"/><ref name="nagashima588">『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、588頁</ref>。オットーは戦況の報告に続けて、プレスター・ジョンが[[新約聖書]]に登場する[[東方の三博士|東方三博士]]の子孫であり、エメラルド製の[[王笏|笏]]を用いているという伝聞を付記している<ref name="iyanaga182">弥永『幻想の東洋』、182頁</ref>。 |
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==背景== |
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古来から[[ネストリウス派]]の布教により、東洋にもキリスト教国家があると考えられていた。それらの布教活動を行った人々の中には、[[長老ヨハネ]]と呼ばれる人物の伝説もあった。この伝説によると、[[キリスト]]の弟子の一人[[トマス (使徒)|トマス]]がインドへ布教しに行き、インドの王ミスダエウスに殺されたと言う。しかし王は後悔し、キリスト教に改宗したと言われている。王の死後、息子のヴィサン(ヨハネと間違えられる)が王位を継ぐと共に、司教も兼ねたと言う。その様な王国がアジアにあるとネストリウス派によってヨーロッパに伝聞として広がったのである。 |
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オットーが記録した報告は、東方に伝わっていたネストリウス派が[[ウイグル]]の一部で信仰されていた点<ref name="ce-jiten"/>、[[西遼]](カラ・キタイ)の皇帝・[[耶律大石]]がイスラム教国に勝利を収めたこと<ref name="ce-jiten"/><ref name="iyanaga182"/><ref>ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、12頁</ref><ref name="ikegami150">『東方の驚異』(池上俊一訳)、150頁</ref>などに起因すると考えられている。オットーの年代記に現れるペルシアの王サミアルドスは、[[1141年]]の[[カトワーンの戦い]]で耶律大石に敗れた[[セルジューク朝]]の王[[アフマド・サンジャル]]に比定される<ref name="itani">井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112-113頁</ref>。西遼の支配層である[[契丹|契丹人]]は[[遼]]の時代に仏教徒に改宗しており、12世紀初頭に耶律大石に率いられて中央アジアに移住した一団も仏教信仰を保持していたが、ヨーロッパに誤ってキリスト教徒と伝えられたと考えられている<ref name="itani"/>。しかし、耶律大石自身は仏教を信仰していたが、彼の軍内にはネストリウス派の信者が含まれていた可能性も指摘されている<ref>杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、105頁</ref>。 |
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プレスター・ジョンの伝説が初めて記録に現れるのは、ドイツの年代記作家[[フライジングのオットー]]が著した『年代記』の[[1145年]]の項で、そこには「前年の[[1144年]]、[[アンティオキア公国]]の[[レーモン・ド・ポワティエ|レイモン]]から[[ローマ教皇]][[エウゲニウス3世 (ローマ教皇)|エウゲニウス3世]]への使者が、プレスター・ジョンのことを伝えた」とある。<ref>[[池上俊一]]訳、『西洋中世奇譚集成 東方の驚異』、p4</ref>それによると、「彼はネストリウス派キリスト教国の王と司教を兼ねた存在で、最近[[メディア]]、[[ペルシア]]を破り、十字軍を救援に[[エルサレム]]に向かったが、[[ティグリス川]]の洪水により引き返した。」とのことで、このため[[第2回十字軍]]のとき、この王の救援が期待されたという。 |
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プレスター・ジョンの戦果の報告の後に書かれたオットーの情報には、[[トマス (使徒)|聖トマス]]のインドでの布教を述べた『聖トマス行伝』に現れるインド王[[ゴンドファルネス|グンダファル]](Gundaphara)からの影響が指摘されている<ref>弥永『幻想の東洋』、176-183頁</ref>。ほか、当時の[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]がオットーの記述のモデルとなった人物の一人に挙げられている。 |
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これは、[[1141年]]に[[西遼]](カラ・キタイ)が、実際に[[サマルカンド]]近辺で[[セルジューク朝]]軍を破ったことが誤って伝えられたものと思われる。当然、西遼の支配者層は仏教徒であり、キリスト教徒ではない。しかしネストリウス派はヨーロッパから追放され、中央アジアから中国にまで散らばる大コミュニティーを形成していたため、西遼の軍の中にキリスト教徒がいた可能性は否定できない。 |
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ところが[[1165年]]ごろ、プレスター・ジョンの手紙と称するものが西欧に広く出回ることになる。その手紙は、「[[東方の三博士]]の子孫でインドの王プレスター・ジョン」から「東ローマ皇帝[[マヌエル1世コムネノス]]」に宛てたとされるもので、この手紙は各国語に翻訳され、さらに尾ひれがついて多くの複製が作られた。今日でも数百通が残されている。これに対し、[[1177年]]に[[ローマ教皇]][[アレクサンデル3世]]は、プレスター・ジョン宛ての手紙を持たせた使者を派遣した。その後、使者がどうなったかは定かではない。しかしこの手紙は、西欧では数十年にわたって人気を博したと言う。このプレスター・ジョンの手紙は現代の研究では、当時の西欧人が偽造したものだと考えられている(一部、[[千一夜物語]]からの仮借もあると言う)。また[[マルコ・ポーロ]]も、プレスター・ジョンの国家がアジアにあると確信していた。 |
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12世紀前半のインド大司教ヨハネのローマ来訪、オットー・フォン・フライズィングのプレスター・ジョンに関する最古の記録は、大きな反響を呼ばなかった<ref>クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』、81頁</ref>。しかし、プレスター・ジョンの書簡の写しとされるものがヨーロッパ中に流布し、プレスター・ジョンの使者が現れたという噂も広まっていく<ref name="a-jiten"/>。 |
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[[1165年]]頃、[[東ローマ帝国の皇帝一覧|ビザンツ皇帝]][[マヌエル1世コムネノス]]の元にプレスター・ジョンを差出人とする書簡が届けられる<ref name="nagashima588"/><ref name="akashi">岡倉『エチオピアを知るための50章』、167-170頁</ref>。マヌエル1世の元に届けられた書簡には[[アレクサンドロス3世]]の[[アレクサンドロス・ロマンス|英雄譚]]や布教のためにインドへ赴いた聖トマスの伝承が組み込まれており、62の国を従えた「3つのインドの王」プレスター・ジョンと彼の王国の栄華、不老泉などの王国の自然、インドに住む様々な怪物が記されていた<ref>ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、5-6,125-126頁</ref>。同様の手紙は[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]、教皇[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]、[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]][[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]][[ポルトガル君主一覧|王]][[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]の元にも届けられ、吟遊詩人、放浪の楽士を介してプレスター・ジョン伝説はヨーロッパに広まった<ref name="nagashima588"/>。ラテン語による書簡の原文は1150年から1160年の間に作成されたと考えられており<ref name="ikegami150"/>、120以上存在する書簡の写本は様々な言語に訳されている<ref>ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、5頁</ref>。写本作家によって記述は脚色され、版によっては[[アマゾン族]]、インドの[[バラモン]]、[[ゴグ]]と[[マゴグ]]、[[イスラエルの失われた10支族|イスラエルの十支族]]など様々なアジアの伝承が取り入れられている<ref name="lar6">ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、6頁</ref>。書簡の作者は判明しておらず、制作の意図も諸説ある<ref name="lar6"/>。当時の人々の願望を反映した理想郷、放浪の詩人が仲間を楽しませるために様々な逸話を組み合わせて作ったものなどが動機に挙げられ<ref name="lar6"/>、ネストリウス派のキリスト教徒によって作成されたとする意見もある<ref name="nagashima590">『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、590頁</ref>。歴史家レオナルド・オルスキーは神権政治の理想を説いたものだと解釈し、バーナード・ハミルトンは聖職者が世俗の支配者に服従する世界の有様を説こうとした神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が作成に関与したと考えた<ref name="lar6"/>。1220年ごろに[[バイエルン]]の[[ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ]]によって書かれた叙事詩『[[パルツィヴァール]]』にはプレスター・ジョンの伝説も織り込まれ<ref>マルコム・ゴドウィン『図説聖杯伝説』(平野加代子、和田敦子訳, 原書房, 2010年5月)、191,195,262頁</ref>、『[[東方旅行記]]』の著者として知られる14世紀の[[イギリス]]の騎士[[ジョン・マンデヴィル]]は書簡の写本を元にプレスター・ジョンの国の見聞録を書き上げた<ref>J.マンデヴィル『東方旅行記』(大場正史訳, 東洋文庫, 平凡社, 1964年)、241頁</ref>。 |
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[[十字軍]]が苦戦する中で、東方から[[ムスリム]]を蹴散らすキリスト教の援軍が来ることを待望して、噂が広まったと思われる。また、十字軍の時代においては、ヨーロッパのキリスト教諸国よりも、イスラム諸国のほうが文化的にも進んだ先進国であり、これがヨーロッパ人のコンプレックスとなっていた。そのような情勢にあって、イスラム諸国に劣らぬ先進国であるキリスト教国の存在が、当時のヨーロッパ人の願望となったのである。 |
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イスラーム教徒との戦争が膠着する状況を反映して、まだ見ぬプレスター・ジョンへの期待はヨーロッパ諸国、十字軍内に広がっていく<ref name="ce-jiten"/><ref name="sugiyama104"/>。アレクサンデル3世はイスラーム勢力に対抗するため、[[1177年]]9月27日付けのインドのプレスター・ジョンに宛てた書簡を記し、医師のフィリップをプレスター・ジョンへの使者として送り出した<ref name="nagashima590"/><ref>弥永『幻想の東洋』、205頁</ref>。アレクサンデル3世の書簡は以前に届けられたプレスター・ジョンの書簡の返信という形式をとっておらず、その内容にも触れられていない<ref name="nagashima590"/>。また、書簡の中でアレクサンデル3世は同盟の締結を提案しながらも、[[カトリック教会|ローマ教会]]の正統性を主張していた。その後フィリップは消息を絶ち、彼が携えていた書簡の行方もまた判明していない<ref name="nagashima590"/>。ユダヤ人医師ジョシュア・ロルキが引用した学者[[モーシェ・ベン=マイモーン|マイモニデス]]の手紙では「キリスト教徒の領主プレステ・クアンの国に住むユダヤ人」について言及され<ref name="nagashima588"/>、[[1181年]]頃に編纂された『アドモント修道院年史』には[[アルメニア]]にプレスター・ジョンの国が存在すると書かれていた<ref>マクラウド『世界伝説歴史地図』、106頁</ref>。 |
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==モンゴル== |
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[[ファイル:WangKhan.JPG|thumb|250px|left|オン・カンの伝説]] |
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[[1221年]]、[[第5回十字軍]]に従軍した[[アッコ|アッコン]]の[[司教]]が、「プレスター・ジョンの孫のダビデ王が[[ペルシア]]を征服して[[バグダード]]に向かっている」との報告をもたらした。これは実は[[モンゴル帝国]]の[[チンギス・カン]]のことであり、[[1245年]]に[[プラノ・カルピニ|プラノ・カルピニのジョヴァンニ]]がローマ教皇庁によって[[グユク]]の即位式に、[[1253年]]には[[ウィリアム・ルブルック]]がフランス国王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]によって[[モンケ]]の治世に、[[フランシスコ会|フランシスコ派]]の[[修道士]]らを代表とする使節がそれぞれモンゴル宮廷に派遣された。当時、彼らによって西側に伝えられた話では、チンギス・カンの義父、[[ケレイト]]の[[オン・カン]]がプレスター・ジョンだったが、チンギス・カンと争い殺されたというものである。モンゴルに滅ぼされたケレイト、[[ナイマン]]などの[[遊牧国家]]のいくつかは、実際にネストリウス派キリスト教国であり、モンゴル帝室にもネストリウス派キリスト教徒は多かったので、このような話になったと思われる。この後、プレスター・ジョンは完全に伝説となり、[[聖杯伝説]]などと結び付けられたりするようになる。 |
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[[1219年]]の[[チンギス・カン]]のペルシア侵入後まもなく、キリスト教徒である[[タタール|タルタリー]]王ダヴィドが東方のキリスト教徒の援護に向かうといった、恐らくはネストリウス派のキリスト教徒によって作り上げられた噂が広まった<ref name="CMD368369">ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、368-369頁</ref>。話の中ではチンギス・カンがイスラエル王の子でジョン王の孫にあたるダヴィデ王に擬せられており、中央アジア、ペルシアのイスラーム教徒に勝利を収め、シリア・エジプトのキリスト教徒の救援に向かっていると伝えられていた<ref name="CMD368369"/>。ダヴィデ王の治める中央アジアのキリスト教国こそがプレスター・ジョンの国ではないかと噂された<ref name="nagashima590"/>。1219年、キリスト教勢力の支配下にあるシリアの都市[[アッコ]]の司教ジャック・ド・ヴィトリーは説教の中で、「二つのインドの王」ダヴィデがイスラーム教徒と戦うキリスト教徒の援軍として現れることを説いた<ref>ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、15頁</ref>。[[1221年]]には、[[アッバース朝]]の首都[[バグダード]]近郊にダヴィデ王の率いる軍隊が現れた報告がキリスト教世界にもたらされる<ref>杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、106頁</ref>。同年に実施された[[第5回十字軍]]に際して枢機卿ペラギウスと[[騎士修道会]]はこの噂を吹聴し、中東への新たな援軍の派遣を要請した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、369-371頁</ref><ref>アンドリュー・ジョティシュキー『十字軍の歴史』(森田安一訳, 刀水歴史全書, 刀水書房, 2013年12月)、339頁</ref>。 |
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==エチオピア== |
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[[ファイル:Prester John map.jpg|thumb|200px|right|プレスター・ジョンの版図を描いた地図]] |
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早くから[[エチオピア帝国]]にキリスト教国([[コプト正教会|コプト派]])があることは知られていたが、イスラム教国で遮られていたため、ほとんど接触がなかった。[[1306年]]にエチオピアから30人の使節が来欧し、[[15世紀]]ごろからエチオピアの皇帝をプレスター・ジョンと呼ぶようになった。[[1520年]]に[[ポルトガル王国|ポルトガル]]が外交関係を樹立した際も、プレスター・ジョンを皇帝と同義語に使っている。また、[[モンゴル帝国]]に追われてアジア側からアフリカへ避難しただけと言う者もいた。 |
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12世紀におおよその内容が形成されたプレスター・ジョンの伝説は、[[13世紀]]に入ると写本作家、アジアから帰還した旅行者の見聞録によってより誇張されていく<ref name="nagashima587"/>。プレスター・ジョンはヨーロッパ世界の探求心を刺激し、多くの探検家が派遣されたことでより現実に即したユーラシア大陸、アフリカ大陸の地図が作成されるようになる<ref name="mck115">マクラウド『世界伝説歴史地図』、115頁</ref>。 |
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これに対してコプト教会側は激しく否定した。エチオピアは、[[4世紀]]にキリスト教に改宗しており、プレスター・ジョンという胡散臭い組織と同一視される事を拒んだ。しかも自分たちは、[[ソロモン|ソロモン王]]と[[シバの女王]]の子[[メネリク1世|メネリク]]を祖とする王統を誇っていると豪語した。歴史的な根拠には乏しいものの、20世紀に帝政が終焉するまで、日本の天皇家をしのぎ世界で最も古い皇統であるとされた。 |
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== アジアから帰還した旅行者の報告 == |
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しかしヨーロッパの世界地図には長らくエチオピアがプレスター・ジョンの国として描かれた。またポルトガルの航海士[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]もアフリカ東海岸に寄航した折に誤認した。 |
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[[Image:WangKhan.JPG|thumb|200px|right|『[[東方見聞録]]』の挿絵にキリスト教国の君主として描かれた[[オン・カン]](15世紀)]] |
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[[1237年]]に[[ルーシ]]に侵入した[[バトゥ]]の率いるモンゴル軍はヨーロッパに強い衝撃を与え、現実離れしたプレスター・ジョンへの期待は薄れていった<ref>杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、109頁</ref>。しかし、モンゴル帝国の襲来後もプレスター・ジョンの国を探し当てる試みはなおも続けられ<ref name="ce-jiten"/>、13世紀のヨーロッパでは、プレスター・ジョンの国をモンゴルの支配下に入ったキリスト教徒の国とする傾向が主流になる<ref name="nagashima590"/>。 |
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[[1248年]]12月<ref name="lar26">ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、26頁</ref>、[[キプロス島]]で[[第7回十字軍]]の準備を進めるフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の元にモンゴルの西アジア方面の司令官イルヂギデイ(エリジデイ)から派遣された使者を自称する、ダヴィデとマルコと名乗る2人組が現れる<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、259頁</ref>。彼らはエルサレムの奪取を図るイルヂギデイがフランスと同盟してイスラーム勢力を攻撃することを望んでいること<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、260-261頁</ref>、モンゴルの皇帝[[グユク]]とイルヂギデイがキリスト教に改宗し、さらにグユクの母はプレスター・ジョンの娘であると述べ立てた<ref name="lar26"/>。使者の言伝に強い興味を持ったルイ9世は、ロンジュモーのアンドルーら3人の[[ドミニコ会]]の修道士をモンゴルの宮廷に派遣した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、261-262頁</ref>。しかし、アンドルーがモンゴルに到着したときにグユクは没しており、グユクの皇后[[オグルガイミシュ]]が摂政として政務を執っていた。[[1251年]]にオグルガイミシュからの返書がルイ9世の元に届けられたが、返書はフランス国王自らのモンゴルの宮廷への貢納を要求するもので、キリスト教への改宗、同盟の締結について触れられていなかった<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、262頁</ref><ref>ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、26-27頁</ref>。 |
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しかし結局は、エチオピアがプレスター・ジョンの国であるという根拠も証拠も乏しく、断定することはできなかった。 |
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[[1245年]]から[[1247年]]にかけてモンゴル帝国の宮廷を訪れた[[プラノ・カルピニ]]はプレスター・ジョンと呼ばれる大インドの王が[[タタール|タルタル人]]の軍隊を破った報告を記したが、プラノ・カルピニの記したプレスター・ジョンはモンゴルに抵抗した[[ホラズム・シャー朝]]の君主[[ジャラールッディーン・メングベルディー]]だと考えられている<ref>カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳)、28-29,98頁</ref>。[[1253年]]にモンゴル帝国の宮廷に派遣された[[フランシスコ会]]修道士[[ウィリアム・ルブルック]]は、カラ・キタイの王位を簒奪した[[ナイマン|ナイマン部族]]の指導者がジョン王と称せられていたことを報告した<ref name="rub">カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳)、178,321頁</ref>。ルブルックのいうジョンは西遼(カラ・キタイ)の帝位を簒奪したナイマンの王子[[クチュルク]]がモデルになっていると考えられているが<ref name="a-jiten"/><ref name="rub"/>、クチュルクは西遼の帝位に就いた当時はネストリウス派から[[仏教]]に改宗していた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年3月)、147-148頁</ref>。また、ルブルックはジョン王には「ウンク」という名前の非キリスト教徒の兄弟がいたことを記しているが<ref>カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳)、178頁</ref>、「ウンク」は[[ケレイト]]の指導者[[オン・カン]]を混同したものだと考えられている<ref name="a-jiten"/><ref>カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳)、321-322頁</ref>。[[シリア正教会]]の大主教[[バール・ヘブラエウス]]はルブルックの記録に現れるウンクをプレスター・ジョンと同一視し、配下であるチンギス・カンの殺害を企てたが逆襲を受けて戦死したと『シリア年代記』に記した<ref name="nagashima591">『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、591頁</ref>。ヘブラエウスは『シリア年代記』でウンクがキリスト教から異教に改宗し、ユダヤ教国からクァラカタという妃を迎えたことも伝えている<ref name="nagashima591"/>。 |
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結局のところエチオピアに否定され、他に存在するという証すら発見できず、何の進展も無かった。 |
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[[元 (王朝)|元]]を訪れた[[イタリア]]の旅行家[[マルコ・ポーロ]]は『[[東方見聞録]]』において、ユヌ・カンと呼ばれる遊牧民の指導者がプレスター・ジョンで、チンギス・カンとの戦闘で落命したことを記した<ref>『マルコ・ポーロ 東方見聞録』(月村辰雄、久保田勝一本文訳, フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ解説, 小林典子、駒田亜紀子、黒岩三恵訳)、70-76頁</ref>。マルコ・ポーロの伝えたプレスター・ジョン像は過去に伝えられた大国の君主ではなく、チンギス・カンとの戦闘で不名誉な戦死を遂げた一指導者として書かれており<ref>ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、133頁</ref>、『東方見聞録』で述べられているプレスター・ジョンはケレイトのオン・カンに比定されている<ref name="a-jiten"/><ref>『マルコ・ポーロ 東方見聞録』(月村辰雄、久保田勝一本文訳, フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ解説, 小林典子、駒田亜紀子、黒岩三恵訳)、70頁</ref>。 |
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そのうちイスラムの脅威も薄れ最後に西欧を圧迫したイスラム勢力である[[オスマン帝国]]が衰えを見せ、一方で[[ルネッサンス]]や[[産業革命]]を経てヨーロッパが世界の先進地域となる事でイスラムに対するコンプレックスも消滅し、[[17世紀]]頃までには話題の俎上にあがる事も無くなり、自然消滅してしまう事になった。 |
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やがて、カトリックの宣教師たちはプレスター・ジョン、彼の王国の実在性を疑問視するようになる<ref name="a-jiten"/>。14世紀初頭に中国を訪れた[[オドリコ|ポルデノーネのオドリコ]]はキタイ(中国)から西に50日進んだ場所にあるプレスター・ジョンの国の情報を書き残し、これがアジアにおけるプレスター・ジョンの国についての最後の報告となった<ref name="penro18">ペンローズ『大航海時代』、18頁</ref>。プレスター・ジョンの国に着いたオドリコは住民からの情報を集め、ジョンにまつわる噂は真実ではないと断定した<ref>弥永『幻想の東洋』、208頁</ref>。[[14世紀]]後半に元が衰退し、[[ティムール朝]]という中央・西アジアにまたがるイスラーム教国が現れると、アジアに存在するといわれるプレスター・ジョンの国を探す試みはされなくなる<ref name="a-jiten"/>。それでもなお、ジョン、ダヴィデなどの東方のキリスト教徒の王の伝説は[[大航海時代]]の後までヨーロッパの人々に幻想的な憧れを抱かせた<ref>ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、7頁</ref>。 |
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現代でも、[[大航海時代]]が湧き上がった原因の1つにプレスター・ジョンの伝説があるが、世界中探し回って見つけられなかった為に歴史家や専門家の研究対象となりにくく、世界史の一面としては、影の歴史として据えられてしまったのである。 |
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== アフリカのプレスター・ジョン == |
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もっとも、エチオピアがプレスター・ジョンの国と一時期思われた事の影響は後世も残り、西欧列強がアフリカの植民地化に乗り出す19世紀以降において、エチオピアだけは唯一独立を保った。 |
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[[Image:PresteJoanP.jpg|thumb|180px|right|1540年に出版されたフランシスコ・アルヴァレスの見聞録の扉絵に描かれたプレスター・ジョン<ref>弥永『幻想の東洋』、231頁</ref>]] |
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[[Image:Prester John map.jpg|thumb|180px|right|1558年に作成されたディオゴ・オーメンの[[インド洋]]海図に描かれた北アフリカのプレスター・ジョン<ref>マクラウド『世界伝説歴史地図』、104頁</ref>]] |
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[[15世紀]]から[[16世紀]]にかけては、アフリカのキリスト教国である[[エチオピア帝国]]がプレスター・ジョンの国と見なされるようになる<ref name="ce-jiten"/>。13世紀にプレスター・ジョンの情報を伝えたプラノ・カルピニやマルコ・ポーロは旅行記の中で「中央インド」に存在する黒人が住むキリスト教国「ハバシャ([[アビシニア]])」に言及し、いずれの旅行記でもハバシャがプレスター・ジョンの国であることは否定されていたが、彼らの記録はヨーロッパ世界のエチオピアへの関心を引き付けたとも考えられる<ref name="nagashima591"/>。13世紀末に[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]のウゴリーノとヴァディーノは[[ジブラルタル海峡]]を抜け、アフリカ大陸南端を経由してインドに向かう航海に出たが行方不明になり、彼らは予想外に敵対的なプレスター・ジョンに捕らえられたのだという噂が広まった<ref>クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』、109頁</ref>。 |
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[[アクスム王国]]などのエチオピアの国家はイスラーム勢力との戦いでしばしばビザンツ帝国やポルトガルと同盟を結んでおり、[[ソロモン朝]]の[[ダウィト1世]](在位:[[1382年]] - [[1411年]]もしくは[[1380年]] - [[1412年]])が最も早くプレスター・ジョンと見なされたエチオピアの王だと考えられている<ref>岡倉『エチオピアの歴史』、42,46頁</ref>。1321年に布教のために西インドを訪れたドミニコ会士の{{仮リンク|ヨルダヌス|en|Jordanus}}は報告書の中でプレスター・ジョンはエチオピアにいると述べており、ヨルダヌスのこの記述がエチオピアとプレスター・ジョンを結びつけた最古の記録だと考えられている<ref>ダニエル・B.ベイカー編『世界探検家事典』1(藤野幸雄編訳, 日外アソシエーツ, 1997年1月)、223-224頁</ref>。[[1400年]]までにエチオピアをプレスター・ジョンの国とする仮定は多くの人々に受け入れられ、イギリスの[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]はエチオピアのプレスター・ジョンに宛てた手紙を送付した<ref name="crif83">クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』、81頁</ref>。[[1411年]]から[[1415年]]にかけてヴェネツィアのアルベルティヌス・デ・ヴィルガによって作成された世界地図には、エチオピアが「プレスター・ジョンの国」として記されていた<ref>マクラウド『世界伝説歴史地図』、41頁</ref>。 |
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==関連書籍== |
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===資料=== |
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*[[池上俊一]]訳、『西洋中世奇譚集成 東方の驚異』、[[講談社学術文庫]]、2009年 |
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** 司祭ヨハネの手紙のラテン語版と古フランス語版を収録。 |
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大航海時代の15世紀後半から16世紀前半にかけての時期には銀や香辛料などの獲得といった経済的目的のほか、プレスター・ジョンの探索も探検事業の推進力となっていたと考えられている<ref name="akashi"/>。[[ポルトガル王国]]の[[エンリケ航海王子]]が西アフリカの探検事業を推進した理由は金山の発見のほかに、プレスター・ジョンの国の捜索が目的となっていたと言われている<ref>岡倉『エチオピアの歴史』、41-42頁</ref>。エンリケ航海王子は、プレスター・ジョン(プレステ・ジョアン)の国の入り口となるエチオピア湾と思しき大きな湾の入り口を発見した場合には付近の住民にインドとプレスター・ジョンの情報を聞きまわるよう、船舶の乗組員に言いつけていた<ref name="crif83"/>。 |
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[[1486年]]にジョアン・アフォンソ・デ・アヴェイロに伴われてポルトガルの宮廷を訪れた[[ベニン王国]]の使者は、ベニンから約1,400km離れた場所のオガネーという王の存在をポルトガルに伝えた<ref name="masuda">増田『図説 大航海時代』、54-55頁</ref>。ベニンの使者が述べたオガネーは[[ヨルバ人]]の[[オヨ王国]]の王だと考えられているが<ref name="masuda"/>、オガネーは近隣の首長に対して錫の十字架を授与するなど教皇のように振る舞っていたと言われ、ポルトガル王[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]はオガネーがプレスター・ジョンの正体だと考えた<ref name="masuda"/><ref>クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』、117-118頁</ref>。また、オガネーのほかに、は[[ディオゴ・カン]]によって「発見」された[[コンゴ王国]]の君主<ref name="akashi"/>、莫大な富と強い権力を有する[[モノモタパ王国]]の王<ref>岡倉『エチオピアの歴史』、42頁</ref>も、一時期プレスター・ジョンと見なされていた。 |
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ベニンからの使者の報告を受け取ったジョアン2世は、[[地中海]]方面と西アフリカ方面にプレスター・ジョンの国とインドへの到達を目的とする探検隊を派遣した<ref>ペンローズ『大航海時代』、18頁、55頁</ref>。[[トンブクトゥ]]、[[テクルル]]など西アフリカ内陸部の都市に探索隊が派遣され、[[バルトロメウ・ディアス]]には西アフリカ沿岸の更なる南下が命じられた<ref name="masuda"/>。地中海方面には[[ペロ・デ・コヴィリャン]]とアフォンソ・デ・パイヴァが派遣され、2人はイスラム教国の[[マムルーク朝]]が支配する[[エジプト]]に向かった。地中海を渡った2人はエジプトを経て[[イエメン]]の[[アデン]]に到達して別れ、パイヴァはエチオピアに、コヴィリャンはインド亜大陸に向かう。パイヴァはエチオピアに到着した後に病死し、コヴィリャンは西インドを探索した後にカイロに戻った<ref name="masuda"/>。カイロに戻ったコヴィリャンはジョアン2世が派遣した使者に会い、インド探検の報告書を託してプレスター・ジョン捜索のためエチオピアに向かった<ref name="masuda"/>。[[1493年]]にコヴィリャンはエチオピアに到着し、帝国から厚い待遇を受けるが帰国は許されなかった<ref name="masuda"/>。 |
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エチオピアに向かったコヴィリャンとポルトガル本国との連絡は途絶えていたが<ref>岡倉『エチオピアの歴史』、49,53頁</ref>、1520年にエチオピアからの要請を受けて派遣されたドン・ロドリゴを団長とする使節団はこの地でコヴィリャンを発見し、エチオピアをプレスター・ジョンの国、当時のエチオピア王[[ダウィト2世]](レブナ・デンゲル)をプレスター・ジョンとしてポルトガル本国に報告した<ref name="akashi"/>。ドン・ロドリゴがコヴィリャンと再会した1520年以後、ポルトガルはエチオピアの王を「プレスター・ジョン」として認定した<ref>岡倉『エチオピアの歴史』、53頁</ref>。使節団に随行した司祭[[フランシスコ・アルヴァレス]]はエチオピアの見聞録を「プレステ・ジョアンの国」の記録として記し、[[1540年]]に[[リスボン]]でアルヴァレスの見聞録が刊行された<ref>『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、705頁</ref>。 |
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[[1572年]]にアブラハム・オルテリウスによって作成されたアフリカ大陸の地図には「[[月の山脈|月の山]]」などの架空の土地が多く描かれており、その中にはプレスター・ジョンの国も含まれていた<ref>マクラウド『世界伝説歴史地図』、113頁</ref>。[[17世紀]]に入るとプレスター・ジョンの国は地図上から消滅するが<ref name="mck115"/>、大航海時代の後も「プレスター・ジョンの国」はエチオピアの文学的な呼称として使われ続けられている<ref name="a-jiten"/>。 |
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17世紀前半から[[チベット]]を訪れた[[イエズス会]]の宣教師はキリスト教と[[チベット仏教]]の間に多くの共通点を見出し、[[1692年]]にチベットを訪れたイエズス会士アブリルは当時の[[ダライ・ラマ6世|ダライ・ラマ]]をプレスター・ジョンに例えた<ref name="akashi"/>。 |
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== 参考文献 == |
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* 岡倉登志『エチオピアの歴史』(明石書店, 1999年10月) |
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* 岡倉登志編著『エチオピアを知るための50章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2007年12月) |
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* 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』(講談社現代新書、講談社、1996年5月) |
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* 日本基督教協議会文書事業部キリスト教大事典編集委員会編『キリスト教大事典』改訂新版(教文館, 1968年) |
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* 藤枝晃「プレスター・ジョン」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年) |
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* 堀川徹「プレスター・ジョン伝説」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月) |
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* 増田義郎『図説 大航海時代』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2008年9月) |
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* 弥永信美『幻想の東洋』(青土社, 1987年1月) |
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* アルヴァレス『エチオピア王国誌』(池上岑夫訳, 長島信弘注・解説, 大航海時代叢書, 岩波書店, 1980年1月) |
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* カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳, 東西交渉旅行記全集, 桃源社, 1965年4月) |
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* ナイジェル・クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』(山村宜子訳, 白水社, 2013年8月) |
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* C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1973年6月) |
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* ジョン・ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』(野崎嘉信、立崎秀和訳, 叢書・ウニベルシタス, 法政大学出版局, 2008年5月) |
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* ジュディス.A.マクラウド『世界伝説歴史地図』(巽孝之日本語版監修, 大槻敦子訳, 原書房, 2013年1月) |
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* ボイス・ペンローズ『大航海時代』(荒尾克己訳, 筑摩書房, 1985年9月) |
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* 『マルコ・ポーロ 東方見聞録』(月村辰雄、久保田勝一本文訳, フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ解説, 小林典子、駒田亜紀子、黒岩三恵訳, 岩波書店, 2002年3月) |
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* 『東方の驚異』(池上俊一訳, 講談社学術文庫, 講談社, 2009年5月) |
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== プレスター・ジョンに関するフィクション == |
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*ノーヴェル・W・ペイジ Norvell W. Page 『炎の塔の剣士』Flame Winds (1939) 『熊神の王国の剣士』Sons of the Bear-God (1939) |
*ノーヴェル・W・ペイジ Norvell W. Page 『炎の塔の剣士』Flame Winds (1939) 『熊神の王国の剣士』Sons of the Bear-God (1939) |
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** [[ロバート・E・ハワード]]の[[英雄コナン]]シリーズの系譜を継ぐ[[ヒロイック・ファンタジー]]であり、プレスター・ジョンはコナン風の肉体派剣士として主役を務めた。性格もコナン風の味つけで、色も欲もある大らかな普通の人間として描かれている。 |
** [[ロバート・E・ハワード]]の[[英雄コナン]]シリーズの系譜を継ぐ[[ヒロイック・ファンタジー]]であり、プレスター・ジョンはコナン風の肉体派剣士として主役を務めた。性格もコナン風の味つけで、色も欲もある大らかな普通の人間として描かれている。 |
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*[[ウンベルト・エーコ]] 『バウドリーノ』Baudolino (2000) |
*[[ウンベルト・エーコ]] 『バウドリーノ』Baudolino (2000) |
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** [[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)]]や[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)]]の活躍した時代を史実と空想をない交ぜにユーモラスに描いた小説。プレスター・ジョンを求めて東方に旅に出るのはフリードリヒ1世の養子であり天賦の嘘つきの才を持つ主人公という設定。 |
** [[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]や[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の活躍した時代を史実と空想をない交ぜにユーモラスに描いた小説。プレスター・ジョンを求めて東方に旅に出るのはフリードリヒ1世の養子であり天賦の嘘つきの才を持つ主人公という設定。 |
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==脚注== |
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== 関連項目 == |
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*[[十字軍]] |
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*[[大航海時代]] |
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*[[ゴンドファルネス|グンダファル]] |
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*[[東方見聞録]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://70.1911encyclopedia.org/P/PR/PRESTER_JOHN.htm ブリタニカ百科事典1911年版](英語) |
*[http://70.1911encyclopedia.org/P/PR/PRESTER_JOHN.htm ブリタニカ百科事典1911年版](英語) |
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*[http://www.newadvent.org/cathen/12400b.htm カトリック百科事典](英語) |
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2015年3月28日 (土) 11:26時点における版
プレスター・ジョン (英: Prester John、羅: Presbyter Johannes、葡: Preste João) とは、アジア、あるいはアフリカに存在すると考えられていた伝説上のキリスト教国の国王。プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられている。名前のプレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味する[1]。
伝説の起源
1122年にインド大司教ヨハネと称する人物がローマを訪れ、教皇カリストゥス2世に対して自分の職権の承認を求めた[2]。ヨハネは教皇に対してピション川の側に立つフルナという大都市のキリスト教徒、郊外の修道院と聖トマスの名前を冠する大教会について語ったことがランス僧院長のオドらによって記録されているが、このインド大司教を称する人物は教皇の権威を利用しようとした詐欺師の類だと考えられている[3]。このインド大司教ヨハネのローマ訪問の記録は、しばしば後世に成立するプレスター・ジョンの伝説と混同して語られる[1]。
12世紀のドイツで記された、オットー・フォン・フライズィングの年代記内の1145年の条が、プレスター・ジョンに関する最古の記録と考えられている[4][5][6][7]。1145年にシリアのガバラ司教ユーグは教皇エウゲニウス3世に謁見し、中東のキリスト教勢力がイスラーム勢力との戦闘で苦境に陥っている戦況と共に東方に現れたプレスター・ジョンの情報を伝え、謁見の場に居合わせたオットーはユーグの言葉を書き残した[8]。ペルシア、アルメニアの東方に存在する広大な国の王プレスター・ジョンがメディア、ペルシアを支配するサミアルドスを破り、メディアの首都エクバタナを占領したことが、オットーによって記している[1][8]。エルサレムに向かったプレスター・ジョンは道中でチグリス川に行く手を阻まれ、チグリス川の北では水が凍結すると聞いたプレスター・ジョンは北進するが川は凍結せず、やむなく帰国したと伝えられている[8][9]。オットーは戦況の報告に続けて、プレスター・ジョンが新約聖書に登場する東方三博士の子孫であり、エメラルド製の笏を用いているという伝聞を付記している[10]。
オットーが記録した報告は、東方に伝わっていたネストリウス派がウイグルの一部で信仰されていた点[6]、西遼(カラ・キタイ)の皇帝・耶律大石がイスラム教国に勝利を収めたこと[6][10][11][12]などに起因すると考えられている。オットーの年代記に現れるペルシアの王サミアルドスは、1141年のカトワーンの戦いで耶律大石に敗れたセルジューク朝の王アフマド・サンジャルに比定される[13]。西遼の支配層である契丹人は遼の時代に仏教徒に改宗しており、12世紀初頭に耶律大石に率いられて中央アジアに移住した一団も仏教信仰を保持していたが、ヨーロッパに誤ってキリスト教徒と伝えられたと考えられている[13]。しかし、耶律大石自身は仏教を信仰していたが、彼の軍内にはネストリウス派の信者が含まれていた可能性も指摘されている[14]。
プレスター・ジョンの戦果の報告の後に書かれたオットーの情報には、聖トマスのインドでの布教を述べた『聖トマス行伝』に現れるインド王グンダファル(Gundaphara)からの影響が指摘されている[15]。ほか、当時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がオットーの記述のモデルとなった人物の一人に挙げられている。
プレスター・ジョンの書簡、噂の流布
12世紀前半のインド大司教ヨハネのローマ来訪、オットー・フォン・フライズィングのプレスター・ジョンに関する最古の記録は、大きな反響を呼ばなかった[16]。しかし、プレスター・ジョンの書簡の写しとされるものがヨーロッパ中に流布し、プレスター・ジョンの使者が現れたという噂も広まっていく[4]。
1165年頃、ビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスの元にプレスター・ジョンを差出人とする書簡が届けられる[9][17]。マヌエル1世の元に届けられた書簡にはアレクサンドロス3世の英雄譚や布教のためにインドへ赴いた聖トマスの伝承が組み込まれており、62の国を従えた「3つのインドの王」プレスター・ジョンと彼の王国の栄華、不老泉などの王国の自然、インドに住む様々な怪物が記されていた[18]。同様の手紙は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、教皇アレクサンデル3世、フランス王ルイ7世、ポルトガル王アフォンソ1世の元にも届けられ、吟遊詩人、放浪の楽士を介してプレスター・ジョン伝説はヨーロッパに広まった[9]。ラテン語による書簡の原文は1150年から1160年の間に作成されたと考えられており[12]、120以上存在する書簡の写本は様々な言語に訳されている[19]。写本作家によって記述は脚色され、版によってはアマゾン族、インドのバラモン、ゴグとマゴグ、イスラエルの十支族など様々なアジアの伝承が取り入れられている[20]。書簡の作者は判明しておらず、制作の意図も諸説ある[20]。当時の人々の願望を反映した理想郷、放浪の詩人が仲間を楽しませるために様々な逸話を組み合わせて作ったものなどが動機に挙げられ[20]、ネストリウス派のキリスト教徒によって作成されたとする意見もある[21]。歴史家レオナルド・オルスキーは神権政治の理想を説いたものだと解釈し、バーナード・ハミルトンは聖職者が世俗の支配者に服従する世界の有様を説こうとした神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が作成に関与したと考えた[20]。1220年ごろにバイエルンのヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハによって書かれた叙事詩『パルツィヴァール』にはプレスター・ジョンの伝説も織り込まれ[22]、『東方旅行記』の著者として知られる14世紀のイギリスの騎士ジョン・マンデヴィルは書簡の写本を元にプレスター・ジョンの国の見聞録を書き上げた[23]。
イスラーム教徒との戦争が膠着する状況を反映して、まだ見ぬプレスター・ジョンへの期待はヨーロッパ諸国、十字軍内に広がっていく[6][5]。アレクサンデル3世はイスラーム勢力に対抗するため、1177年9月27日付けのインドのプレスター・ジョンに宛てた書簡を記し、医師のフィリップをプレスター・ジョンへの使者として送り出した[21][24]。アレクサンデル3世の書簡は以前に届けられたプレスター・ジョンの書簡の返信という形式をとっておらず、その内容にも触れられていない[21]。また、書簡の中でアレクサンデル3世は同盟の締結を提案しながらも、ローマ教会の正統性を主張していた。その後フィリップは消息を絶ち、彼が携えていた書簡の行方もまた判明していない[21]。ユダヤ人医師ジョシュア・ロルキが引用した学者マイモニデスの手紙では「キリスト教徒の領主プレステ・クアンの国に住むユダヤ人」について言及され[9]、1181年頃に編纂された『アドモント修道院年史』にはアルメニアにプレスター・ジョンの国が存在すると書かれていた[25]。
1219年のチンギス・カンのペルシア侵入後まもなく、キリスト教徒であるタルタリー王ダヴィドが東方のキリスト教徒の援護に向かうといった、恐らくはネストリウス派のキリスト教徒によって作り上げられた噂が広まった[26]。話の中ではチンギス・カンがイスラエル王の子でジョン王の孫にあたるダヴィデ王に擬せられており、中央アジア、ペルシアのイスラーム教徒に勝利を収め、シリア・エジプトのキリスト教徒の救援に向かっていると伝えられていた[26]。ダヴィデ王の治める中央アジアのキリスト教国こそがプレスター・ジョンの国ではないかと噂された[21]。1219年、キリスト教勢力の支配下にあるシリアの都市アッコの司教ジャック・ド・ヴィトリーは説教の中で、「二つのインドの王」ダヴィデがイスラーム教徒と戦うキリスト教徒の援軍として現れることを説いた[27]。1221年には、アッバース朝の首都バグダード近郊にダヴィデ王の率いる軍隊が現れた報告がキリスト教世界にもたらされる[28]。同年に実施された第5回十字軍に際して枢機卿ペラギウスと騎士修道会はこの噂を吹聴し、中東への新たな援軍の派遣を要請した[29][30]。
12世紀におおよその内容が形成されたプレスター・ジョンの伝説は、13世紀に入ると写本作家、アジアから帰還した旅行者の見聞録によってより誇張されていく[1]。プレスター・ジョンはヨーロッパ世界の探求心を刺激し、多くの探検家が派遣されたことでより現実に即したユーラシア大陸、アフリカ大陸の地図が作成されるようになる[31]。
アジアから帰還した旅行者の報告
1237年にルーシに侵入したバトゥの率いるモンゴル軍はヨーロッパに強い衝撃を与え、現実離れしたプレスター・ジョンへの期待は薄れていった[32]。しかし、モンゴル帝国の襲来後もプレスター・ジョンの国を探し当てる試みはなおも続けられ[6]、13世紀のヨーロッパでは、プレスター・ジョンの国をモンゴルの支配下に入ったキリスト教徒の国とする傾向が主流になる[21]。
1248年12月[33]、キプロス島で第7回十字軍の準備を進めるフランス王ルイ9世の元にモンゴルの西アジア方面の司令官イルヂギデイ(エリジデイ)から派遣された使者を自称する、ダヴィデとマルコと名乗る2人組が現れる[34]。彼らはエルサレムの奪取を図るイルヂギデイがフランスと同盟してイスラーム勢力を攻撃することを望んでいること[35]、モンゴルの皇帝グユクとイルヂギデイがキリスト教に改宗し、さらにグユクの母はプレスター・ジョンの娘であると述べ立てた[33]。使者の言伝に強い興味を持ったルイ9世は、ロンジュモーのアンドルーら3人のドミニコ会の修道士をモンゴルの宮廷に派遣した[36]。しかし、アンドルーがモンゴルに到着したときにグユクは没しており、グユクの皇后オグルガイミシュが摂政として政務を執っていた。1251年にオグルガイミシュからの返書がルイ9世の元に届けられたが、返書はフランス国王自らのモンゴルの宮廷への貢納を要求するもので、キリスト教への改宗、同盟の締結について触れられていなかった[37][38]。
1245年から1247年にかけてモンゴル帝国の宮廷を訪れたプラノ・カルピニはプレスター・ジョンと呼ばれる大インドの王がタルタル人の軍隊を破った報告を記したが、プラノ・カルピニの記したプレスター・ジョンはモンゴルに抵抗したホラズム・シャー朝の君主ジャラールッディーン・メングベルディーだと考えられている[39]。1253年にモンゴル帝国の宮廷に派遣されたフランシスコ会修道士ウィリアム・ルブルックは、カラ・キタイの王位を簒奪したナイマン部族の指導者がジョン王と称せられていたことを報告した[40]。ルブルックのいうジョンは西遼(カラ・キタイ)の帝位を簒奪したナイマンの王子クチュルクがモデルになっていると考えられているが[4][40]、クチュルクは西遼の帝位に就いた当時はネストリウス派から仏教に改宗していた[41]。また、ルブルックはジョン王には「ウンク」という名前の非キリスト教徒の兄弟がいたことを記しているが[42]、「ウンク」はケレイトの指導者オン・カンを混同したものだと考えられている[4][43]。シリア正教会の大主教バール・ヘブラエウスはルブルックの記録に現れるウンクをプレスター・ジョンと同一視し、配下であるチンギス・カンの殺害を企てたが逆襲を受けて戦死したと『シリア年代記』に記した[44]。ヘブラエウスは『シリア年代記』でウンクがキリスト教から異教に改宗し、ユダヤ教国からクァラカタという妃を迎えたことも伝えている[44]。
元を訪れたイタリアの旅行家マルコ・ポーロは『東方見聞録』において、ユヌ・カンと呼ばれる遊牧民の指導者がプレスター・ジョンで、チンギス・カンとの戦闘で落命したことを記した[45]。マルコ・ポーロの伝えたプレスター・ジョン像は過去に伝えられた大国の君主ではなく、チンギス・カンとの戦闘で不名誉な戦死を遂げた一指導者として書かれており[46]、『東方見聞録』で述べられているプレスター・ジョンはケレイトのオン・カンに比定されている[4][47]。
やがて、カトリックの宣教師たちはプレスター・ジョン、彼の王国の実在性を疑問視するようになる[4]。14世紀初頭に中国を訪れたポルデノーネのオドリコはキタイ(中国)から西に50日進んだ場所にあるプレスター・ジョンの国の情報を書き残し、これがアジアにおけるプレスター・ジョンの国についての最後の報告となった[48]。プレスター・ジョンの国に着いたオドリコは住民からの情報を集め、ジョンにまつわる噂は真実ではないと断定した[49]。14世紀後半に元が衰退し、ティムール朝という中央・西アジアにまたがるイスラーム教国が現れると、アジアに存在するといわれるプレスター・ジョンの国を探す試みはされなくなる[4]。それでもなお、ジョン、ダヴィデなどの東方のキリスト教徒の王の伝説は大航海時代の後までヨーロッパの人々に幻想的な憧れを抱かせた[50]。
アフリカのプレスター・ジョン
15世紀から16世紀にかけては、アフリカのキリスト教国であるエチオピア帝国がプレスター・ジョンの国と見なされるようになる[6]。13世紀にプレスター・ジョンの情報を伝えたプラノ・カルピニやマルコ・ポーロは旅行記の中で「中央インド」に存在する黒人が住むキリスト教国「ハバシャ(アビシニア)」に言及し、いずれの旅行記でもハバシャがプレスター・ジョンの国であることは否定されていたが、彼らの記録はヨーロッパ世界のエチオピアへの関心を引き付けたとも考えられる[44]。13世紀末にジェノヴァのウゴリーノとヴァディーノはジブラルタル海峡を抜け、アフリカ大陸南端を経由してインドに向かう航海に出たが行方不明になり、彼らは予想外に敵対的なプレスター・ジョンに捕らえられたのだという噂が広まった[53]。
アクスム王国などのエチオピアの国家はイスラーム勢力との戦いでしばしばビザンツ帝国やポルトガルと同盟を結んでおり、ソロモン朝のダウィト1世(在位:1382年 - 1411年もしくは1380年 - 1412年)が最も早くプレスター・ジョンと見なされたエチオピアの王だと考えられている[54]。1321年に布教のために西インドを訪れたドミニコ会士のヨルダヌスは報告書の中でプレスター・ジョンはエチオピアにいると述べており、ヨルダヌスのこの記述がエチオピアとプレスター・ジョンを結びつけた最古の記録だと考えられている[55]。1400年までにエチオピアをプレスター・ジョンの国とする仮定は多くの人々に受け入れられ、イギリスのヘンリー4世はエチオピアのプレスター・ジョンに宛てた手紙を送付した[56]。1411年から1415年にかけてヴェネツィアのアルベルティヌス・デ・ヴィルガによって作成された世界地図には、エチオピアが「プレスター・ジョンの国」として記されていた[57]。
大航海時代の15世紀後半から16世紀前半にかけての時期には銀や香辛料などの獲得といった経済的目的のほか、プレスター・ジョンの探索も探検事業の推進力となっていたと考えられている[17]。ポルトガル王国のエンリケ航海王子が西アフリカの探検事業を推進した理由は金山の発見のほかに、プレスター・ジョンの国の捜索が目的となっていたと言われている[58]。エンリケ航海王子は、プレスター・ジョン(プレステ・ジョアン)の国の入り口となるエチオピア湾と思しき大きな湾の入り口を発見した場合には付近の住民にインドとプレスター・ジョンの情報を聞きまわるよう、船舶の乗組員に言いつけていた[56]。
1486年にジョアン・アフォンソ・デ・アヴェイロに伴われてポルトガルの宮廷を訪れたベニン王国の使者は、ベニンから約1,400km離れた場所のオガネーという王の存在をポルトガルに伝えた[59]。ベニンの使者が述べたオガネーはヨルバ人のオヨ王国の王だと考えられているが[59]、オガネーは近隣の首長に対して錫の十字架を授与するなど教皇のように振る舞っていたと言われ、ポルトガル王ジョアン2世はオガネーがプレスター・ジョンの正体だと考えた[59][60]。また、オガネーのほかに、はディオゴ・カンによって「発見」されたコンゴ王国の君主[17]、莫大な富と強い権力を有するモノモタパ王国の王[61]も、一時期プレスター・ジョンと見なされていた。
ベニンからの使者の報告を受け取ったジョアン2世は、地中海方面と西アフリカ方面にプレスター・ジョンの国とインドへの到達を目的とする探検隊を派遣した[62]。トンブクトゥ、テクルルなど西アフリカ内陸部の都市に探索隊が派遣され、バルトロメウ・ディアスには西アフリカ沿岸の更なる南下が命じられた[59]。地中海方面にはペロ・デ・コヴィリャンとアフォンソ・デ・パイヴァが派遣され、2人はイスラム教国のマムルーク朝が支配するエジプトに向かった。地中海を渡った2人はエジプトを経てイエメンのアデンに到達して別れ、パイヴァはエチオピアに、コヴィリャンはインド亜大陸に向かう。パイヴァはエチオピアに到着した後に病死し、コヴィリャンは西インドを探索した後にカイロに戻った[59]。カイロに戻ったコヴィリャンはジョアン2世が派遣した使者に会い、インド探検の報告書を託してプレスター・ジョン捜索のためエチオピアに向かった[59]。1493年にコヴィリャンはエチオピアに到着し、帝国から厚い待遇を受けるが帰国は許されなかった[59]。
エチオピアに向かったコヴィリャンとポルトガル本国との連絡は途絶えていたが[63]、1520年にエチオピアからの要請を受けて派遣されたドン・ロドリゴを団長とする使節団はこの地でコヴィリャンを発見し、エチオピアをプレスター・ジョンの国、当時のエチオピア王ダウィト2世(レブナ・デンゲル)をプレスター・ジョンとしてポルトガル本国に報告した[17]。ドン・ロドリゴがコヴィリャンと再会した1520年以後、ポルトガルはエチオピアの王を「プレスター・ジョン」として認定した[64]。使節団に随行した司祭フランシスコ・アルヴァレスはエチオピアの見聞録を「プレステ・ジョアンの国」の記録として記し、1540年にリスボンでアルヴァレスの見聞録が刊行された[65]。
1572年にアブラハム・オルテリウスによって作成されたアフリカ大陸の地図には「月の山」などの架空の土地が多く描かれており、その中にはプレスター・ジョンの国も含まれていた[66]。17世紀に入るとプレスター・ジョンの国は地図上から消滅するが[31]、大航海時代の後も「プレスター・ジョンの国」はエチオピアの文学的な呼称として使われ続けられている[4]。
17世紀前半からチベットを訪れたイエズス会の宣教師はキリスト教とチベット仏教の間に多くの共通点を見出し、1692年にチベットを訪れたイエズス会士アブリルは当時のダライ・ラマをプレスター・ジョンに例えた[17]。
脚注
- ^ a b c d 『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、587頁
- ^ ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、4頁
- ^ ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、4-5頁
- ^ a b c d e f g h 藤枝「プレスター・ジョン」『アジア歴史事典』8巻、180頁
- ^ a b 杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、104頁
- ^ a b c d e f 堀川「プレスター・ジョン伝説」『中央ユーラシアを知る事典』、461-462頁
- ^ 『東方の驚異』(池上俊一訳)、149頁
- ^ a b c 弥永『幻想の東洋』、181頁
- ^ a b c d 『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、588頁
- ^ a b 弥永『幻想の東洋』、182頁
- ^ ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、12頁
- ^ a b 『東方の驚異』(池上俊一訳)、150頁
- ^ a b 井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112-113頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、105頁
- ^ 弥永『幻想の東洋』、176-183頁
- ^ クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』、81頁
- ^ a b c d e 岡倉『エチオピアを知るための50章』、167-170頁
- ^ ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、5-6,125-126頁
- ^ ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、5頁
- ^ a b c d ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、6頁
- ^ a b c d e f 『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、590頁
- ^ マルコム・ゴドウィン『図説聖杯伝説』(平野加代子、和田敦子訳, 原書房, 2010年5月)、191,195,262頁
- ^ J.マンデヴィル『東方旅行記』(大場正史訳, 東洋文庫, 平凡社, 1964年)、241頁
- ^ 弥永『幻想の東洋』、205頁
- ^ マクラウド『世界伝説歴史地図』、106頁
- ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、368-369頁
- ^ ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、15頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、106頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、369-371頁
- ^ アンドリュー・ジョティシュキー『十字軍の歴史』(森田安一訳, 刀水歴史全書, 刀水書房, 2013年12月)、339頁
- ^ a b マクラウド『世界伝説歴史地図』、115頁
- ^ 杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、109頁
- ^ a b ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、26頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、259頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、260-261頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、261-262頁
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、262頁
- ^ ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、26-27頁
- ^ カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳)、28-29,98頁
- ^ a b カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳)、178,321頁
- ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年3月)、147-148頁
- ^ カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳)、178頁
- ^ カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳)、321-322頁
- ^ a b c 『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、591頁
- ^ 『マルコ・ポーロ 東方見聞録』(月村辰雄、久保田勝一本文訳, フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ解説, 小林典子、駒田亜紀子、黒岩三恵訳)、70-76頁
- ^ ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、133頁
- ^ 『マルコ・ポーロ 東方見聞録』(月村辰雄、久保田勝一本文訳, フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ解説, 小林典子、駒田亜紀子、黒岩三恵訳)、70頁
- ^ ペンローズ『大航海時代』、18頁
- ^ 弥永『幻想の東洋』、208頁
- ^ ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、7頁
- ^ 弥永『幻想の東洋』、231頁
- ^ マクラウド『世界伝説歴史地図』、104頁
- ^ クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』、109頁
- ^ 岡倉『エチオピアの歴史』、42,46頁
- ^ ダニエル・B.ベイカー編『世界探検家事典』1(藤野幸雄編訳, 日外アソシエーツ, 1997年1月)、223-224頁
- ^ a b クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』、81頁
- ^ マクラウド『世界伝説歴史地図』、41頁
- ^ 岡倉『エチオピアの歴史』、41-42頁
- ^ a b c d e f g 増田『図説 大航海時代』、54-55頁
- ^ クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』、117-118頁
- ^ 岡倉『エチオピアの歴史』、42頁
- ^ ペンローズ『大航海時代』、18頁、55頁
- ^ 岡倉『エチオピアの歴史』、49,53頁
- ^ 岡倉『エチオピアの歴史』、53頁
- ^ 『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、705頁
- ^ マクラウド『世界伝説歴史地図』、113頁
参考文献
- 岡倉登志『エチオピアの歴史』(明石書店, 1999年10月)
- 岡倉登志編著『エチオピアを知るための50章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2007年12月)
- 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』(講談社現代新書、講談社、1996年5月)
- 日本基督教協議会文書事業部キリスト教大事典編集委員会編『キリスト教大事典』改訂新版(教文館, 1968年)
- 藤枝晃「プレスター・ジョン」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年)
- 堀川徹「プレスター・ジョン伝説」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
- 増田義郎『図説 大航海時代』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2008年9月)
- 弥永信美『幻想の東洋』(青土社, 1987年1月)
- アルヴァレス『エチオピア王国誌』(池上岑夫訳, 長島信弘注・解説, 大航海時代叢書, 岩波書店, 1980年1月)
- カルピニ、ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳, 東西交渉旅行記全集, 桃源社, 1965年4月)
- ナイジェル・クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』(山村宜子訳, 白水社, 2013年8月)
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1973年6月)
- ジョン・ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』(野崎嘉信、立崎秀和訳, 叢書・ウニベルシタス, 法政大学出版局, 2008年5月)
- ジュディス.A.マクラウド『世界伝説歴史地図』(巽孝之日本語版監修, 大槻敦子訳, 原書房, 2013年1月)
- ボイス・ペンローズ『大航海時代』(荒尾克己訳, 筑摩書房, 1985年9月)
- 『マルコ・ポーロ 東方見聞録』(月村辰雄、久保田勝一本文訳, フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ解説, 小林典子、駒田亜紀子、黒岩三恵訳, 岩波書店, 2002年3月)
- 『東方の驚異』(池上俊一訳, 講談社学術文庫, 講談社, 2009年5月)
プレスター・ジョンに関するフィクション
- ノーヴェル・W・ペイジ Norvell W. Page 『炎の塔の剣士』Flame Winds (1939) 『熊神の王国の剣士』Sons of the Bear-God (1939)
- ロバート・E・ハワードの英雄コナンシリーズの系譜を継ぐヒロイック・ファンタジーであり、プレスター・ジョンはコナン風の肉体派剣士として主役を務めた。性格もコナン風の味つけで、色も欲もある大らかな普通の人間として描かれている。
- ウンベルト・エーコ 『バウドリーノ』Baudolino (2000)
外部リンク
- ブリタニカ百科事典1911年版(英語)
- カトリック百科事典(英語)