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「那珂 (軽巡洋艦)」の版間の差分

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{{Infobox navyship
{{Infobox 艦艇
|名=那珂
|名=那珂
|画像=[[Image:Japanese cruiser Naka.jpg|300px]]
|画像=Japanese cruiser Naka.jpg
|画像説明=就役直前、[[海上公試|公試]]時の那珂<br />(1925年11月、[[横浜港|横浜]]での撮影)
|画像解説=
|建造者=[[横浜船渠]]
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|運用者={{navy|Empire of Japan}}
|運用者={{navy|Empire of Japan}}
|発注=[[1920年]]計画
|発注=[[1920年]]計画
|起工=[[1922年]][[6月10日]](公表日)<ref name="艦船要目那珂">[[#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)]]p.3『那珂|二等巡洋艦|(艦要目略)|横浜船渠會社|大正11-6-10|大正14-3-24|大正14-11-30|(艦装備略)』</ref><br />[[1922年]][[6月14日]](実際)<ref name="那珂起工">[[#川内神通阿武隈那珂製造一件(4)]]p.13『軽巡那珂本日(六月十四日)午前十時起工濟』</ref><ref>[[#東京海軍監督報告(1)]]p.3『(艦船名)那珂|(起工年月日)大正十一年六月十四日|(工程百分比)約五五(以下略)』</ref>
|起工=[[1922年]][[6月10日]]
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|就役=1925年[[11月30日]]
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|その後=[[1944年]][[2月17日]]に戦没
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|除籍=1944年[[3月31日]]
|最後=[[1944年]][[2月17日]]沈没
|艦種=[[軽巡洋艦]]
|艦級=[[川内型軽巡洋艦|川内型]]
|種別=二等[[巡洋艦]]([[軽巡洋艦]]
|クラス=[[川内型軽巡洋艦|川内型]]
|排水量=基準:5,195[[トン数|トン]]<br />常備:5,595トン
|基準排水量=5,195[[英トン]]
|常備排水量=5,595英トン
|全長=162.46m
|全長=162.46m
|全幅=14.2m
|全幅=14.2m
|吃水=4.8m (常備)
|吃水=4.8m(常備)
|機=パーソンズ式オールギアードタービン4基4軸
|機=三菱パーソンズ式オール[[ギアードタービン方式|ギアードタービン]]4基4軸
|機関出力=90,000馬力
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|速力=35.3[[ノット]]
|速力=35.3[[ノット]]
|乗員=竣工時定員446名<ref>大正14年11月30日付 海軍内令 第309号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。</ref>
|乗員=440名
|兵装=
|兵装=
'''竣工時'''<br />50口径14cm単装砲7門<br />61cm連装魚雷発射管4基8門<br />40口径8cm単装高角砲2門<br />6.5mm単装機銃2挺<br />九三式機雷56個<br />
'''竣工時'''<br />50口径14cm単装砲7基7門<br />61cm連装[[魚雷発射管]]4基8門<br />40口径8cm単装[[高角砲]]2基2門<br />6.5mm単装[[機銃]]2挺<br />九三式機雷56個<br />
'''1941年12月'''<br />50口径14cm単装砲7門<br />61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)<br />九六式25mm連装機銃2基4門<br />保式13mm四連装機銃1基4門<br />7.7mm単装機銃2挺<br />呉式二号三型改一射出機1基<br />水上機1機<br />
'''1941年12月'''<br />50口径14cm単装砲7門<br />61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式[[酸素魚雷]]16本)<br />[[九六式二十五粍機銃|九六式25mm連装機銃]]2基4門<br />[[九三式十三粍機銃|保式13mm四連装機銃]]1基4門<br />7.7mm単装機銃2挺<br />呉式二号三型改一射出機1基<br />[[水上機]]1機<br />
'''1943年4月'''<br />50口径14cm単装砲6門<br />61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)<br />八九式12.7cm連装高角砲1基2門<br />九六式25mm三連装機銃2基6門<br />九六式25mm連装機銃2基4門<br />九三式13mm連装機銃1基2門<br />九四式爆雷投射機1基<br />爆雷投下軌条2基<br />呉式二号三型改一射出機1基<br />水上機1機<br />21号電探
'''1943年4月'''<br />50口径14cm単装砲6門<br />61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)<br />八九式12.7cm連装高角砲1基2門<br />九六式25mm三連装機銃2基6門<br />九六式25mm連装機銃2基4門<br />九三式13mm連装機銃1基2門<br />九四式[[爆雷]]投射機1基<br />爆雷投下軌条2基<br />呉式二号三型改一射出機1基<br />水上機1機<br />[[二式二号電波探信儀一型|21号電探]]
|装甲=水線64mm、甲板29mm
|装甲=水線64mm、甲板29mm
|載機=1機
|載機=1機
}}
}}
'''那珂'''(なか)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[軽巡洋艦]]<ref>[[#日本軍艦集2600年版]]p.31『二等巡洋艦 那珂(なか) 基準排水量5,195噸、長さ152.4米、幅14.4米、平均吃水4.84米、速力33節、備砲14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷發射管8門、起工大正11年6月10日、進水大正14年3月24日、竣工大正14年11月30日、建造所横濱船渠會社-神通と同型。この級はいはゆる球磨級の改良型といはれる軽巡である。</ref>。[[川内型軽巡洋艦]]の3番艦<ref>[[#艦艇類別等級(昭和16年12月31日)]]p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|川内型|川内、神通、那珂』</ref>。艦名は[[栃木県]]から[[茨城県]]へと流れて[[太平洋]]に至る[[那珂川]]に因んで命名された<ref>[[#幕末以降帝国軍艦写真と史実]]p.137『那珂(なか)|艦種 二等巡洋艦 球磨改良型|艦名考 川名に採る、那珂川は又中川に作る、下野國那須郡男鹿岳の頂、男鹿沼及び根室村山谷に発源し常陸に入りて海に注ぐ。(以下略)』</ref>。[[進水式|進水]]時に発行された絵葉書には[[那珂川]]と、茨城県の名所の一つ[[筑波山]]が描かれた<ref name="三菱20話p2" />。
'''那珂'''(なか)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[軽巡洋艦]]。[[川内型軽巡洋艦]]の3番艦。艦名は[[栃木県]]、[[茨城県]]を流れる[[那珂川]]に因んで命名された。

[[艦内神社]]は、那珂川[[河口]]に近い[[大洗磯前神社]]が祀られており、その[[境内]]には戦没乗組員を追悼する[[忠魂碑]]がある<ref name=大洗磯前神社>[https://www.oarai-isosakijinja.net/keidai/naka/ 軍艦那珂忠魂碑] 大洗磯前神社ホームページ(2024年2月17日閲覧)</ref><ref name=産経20240217>[https://www.sankei.com/article/20240216-ZG4YKKG2G5P7XFAEVZVAJXELMY/ きょう巡洋艦「那珂」慰霊祭/80年節目 国防に思い/本土空襲本格化や特攻隊編成]『[[産経新聞]]』朝刊2024年2月17日(社会面)同日閲覧</ref>。

[[太平洋戦争]]序盤は[[水雷戦隊#第四水雷戦隊|第四水雷戦隊]][[旗艦]]として活動した。[[1942年]]([[昭和]]17年)4月の[[日本軍のクリスマス島占領|クリスマス島攻略作戦]]で損傷。復帰後は第十四戦隊旗艦として輸送・護衛任務に従事した。[[1944年]](昭和19年)2月17日、軽巡洋艦[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]救援のため出動したところ[[トラック島空襲]]に遭遇、[[アメリカ海軍]][[空母機動部隊]][[艦載機]]の攻撃を受けて沈没した<ref>[[#軽巡二十五隻]]81頁</ref>。


==艦歴==
==艦歴==
=== 建造経緯 ===
川内型の2番艦として[[1922年]]6月10日に[[横浜船渠]]で起工されたが、[[1923年]]9月1日の[[関東大震災]]で被災、建造途中の船体を大きく損傷した。そのため、解体の上川内型3番艦として改めて起工し、[[1925年]]11月30日に就役した。その際に、[[船首|艦首]]形状をスプーン型からダブル・カーブド型に改めている。
[[大正時代]]の日本海軍は、[[排水量]]7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた([[大日本帝国海軍艦艇類別変遷]])<ref>[[#達大正1年8月]]p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十六日 海軍大臣男爵[[斎藤実|斎藤實]] |艦艇類別標準|軍艦|巡洋艦|一等|七千頓以上|二等|七千頓未満』</ref>。
[[1921年]](大正10年)3月19日、建造予定の二等巡洋艦4隻([[川内型軽巡洋艦]])に、それぞれ加古、'''那珂'''、[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]、[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]の艦名が与えられる<ref>[[#達大正10年3月]]p.14『達第四十三號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ニ左ノ通命名セラル|大正十年三月十九日 海軍大臣男爵[[加藤友三郎]]|加古カコ 那珂ナカ 川内センダイ 神通ジンツウ』</ref>。6月9日、4隻(加古、那珂、川内、神通)は二等巡洋艦として[[大日本帝国海軍艦艇類別変遷|艦艇類別等級別表]]に登録された<ref>[[#達大正10年6月]]p.17『達第百十八號 艦艇類別等級別表中巡洋艦二等ノ欄鬼怒ノ下ニ、加古、那珂、川内、神通ヲ加フ|大正十年六月九日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』</ref>。
同年9月、日本海軍は[[知床型給油艦]][[佐多 (給油艦)|佐多]]を建造した[[横浜船渠]](後の[[三菱重工業横浜製作所]])に二等巡洋艦1隻(那珂)と[[砲艦]]1隻を発注した<ref name="三菱20話p2">[[#三菱、20話]]2頁『二等巡洋艦「那珂」を建造開始』</ref>。


川内は1922年(大正11年)2月26日に[[三菱重工業長崎造船所|長崎三菱造船所]]で<ref name="艦船要目川内">[[#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)]]p.3『川内|二等巡洋艦|(艦要目略)|三菱長崎造船所|大正11-2-16|大正12-10-30|大正13-4-29|(艦装備略)』</ref>、那珂は横濱船渠で同年[[6月10日]]<ref name="艦船要目那珂" /><ref name="三菱20話p2" /> もしくは[[6月14日]]<ref name="那珂起工" />に、神通は同年8月4日に[[神戸市|神戸]][[川崎造船所]]で<ref name="艦船要目神通">[[#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)]]p.3『神通|二等巡洋艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|大正11-8-4|大正12-12-8|大正14-7-31|(艦装備略)』</ref>、それぞれ起工した。
[[1927年]]8月24日、[[島根県]][[美保関町|美保関]]沖で行われた夜間無灯火演習において巡洋艦「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」と[[駆逐艦]]「[[樅型駆逐艦|蕨]]」が衝突、それを避けようとして駆逐艦「[[樅型駆逐艦|葦]]」の左舷後部に衝突し両艦ともに大破した([[美保関事件]])。


だが[[佐世保海軍工廠]]で建造予定の川内型軽巡加古は同年3月に建造中止の通達があり<ref>[[#軍艦加古工事に関する件]]p.3『大正十一年三月十七日 佐鎮司令長官宛 二等巡洋艦一隻建造ノ件取止メ』</ref>、10月9日に[[古鷹型重巡洋艦|一等巡洋艦加古型(古鷹型)]][[加古 (重巡洋艦)|加古]]として神戸川崎造船所で建造されることが正式に決まった<ref>[[#達大正11年10月]]p.2『達第百七十六號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ノ内加古ノ艦型ヲ一等巡洋艦ニ變更シ大正十一年度ニ於テ川崎造船所ニ於テ建造セシム|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎』</ref>。これをもって加古は二等巡洋艦(川内型軽巡)から一等巡洋艦に類別変更され、川内型軽巡洋艦は3隻(那珂、川内、神通)となった<ref>[[#達大正11年10月]]p.2『達第百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|巡洋艦一等ノ欄ニ加古、衣笠、古鷹ヲ加ヘ同二等ノ欄加古、ヲ削ル』</ref>。
[[1937年]]の[[日華事変]]時においては[[第二艦隊 (日本海軍)|第2艦隊]]に所属し作戦活動に従事した。
[[1941年]]には姉妹艦の「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」と共に雷装の強化が行われ、九三式[[酸素魚雷]]の発射能力を得た。


前述のように、那珂は加古型軽巡の2番艦(加古、那珂、川内、神通)として横浜船渠で建造が始まった<ref name="艦船要目那珂" />が、[[1923年]](大正12年)9月1日の[[関東大震災]]で被災<ref name="三菱20話p3">[[#三菱、20話]]3-4頁『関東大震災により会社は火の海』</ref>。当初の火災は鎮火したものの、[[桜木町]]方面からの延焼により横浜船渠は施設の大部分を焼失した<ref name="三菱20話p3" />。同年10月10日の[[進水式|進水]](横浜船渠側によれば9月2日進水計画)<ref name="三菱20話p4a">[[#三菱、20話]]4頁『船体のほとんどを焼失』</ref>を予定して建造最終段階の船体は、盤木の焼失により船台上に落下して右に傾いた<ref>[[#連合艦隊第1艦隊(9)]]p.12『那珂ノ船体工事ハ来ル十月十日頃進水セシム可キ豫定ニテ船台上ニ盤木ヲ作リ進水用意中ナリシモ該盤木ニ延焼シタル為メ裸体トナリ船台上ニ約十度右舷ニ傾キ横掛ス船体鋲板ハ赤銅色ニ変色シ「ビーム」ト共ニ波状ヲ呈スル處多シ機関ハ主トシテ陸上ニアリ損害ハ比較的小ナリ主機械ハ完全ノ状態ニアリ』</ref><ref>[[#東京海軍監督報告(1)]]p.3『(災害後ノ現状及災害概要)船体 盤木支柱全焼シ船台上ニ墜落シ右舷ニ約十二度傾斜ス船底局部ノ屈曲ハ全長ニ亘リ全体ノ屈曲モ約二尺ニ及ブ(以下略)』</ref>。復旧の見込みなしと判定される<ref name="三菱20話p4a" /><ref>[[#東京海軍監督報告(1)]]p.3『(復旧能否ノ見込並所見)船体ハ尚詳細ナル計測ヲ為スニアラサレバ確言スル能ハザルモ復旧ノ見込ミ覺束ナキモノヽ如シ』</ref>。また周辺の工場も大被害を受けた<ref group="注釈">近隣の浦賀で艤装中の軽巡[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]は工場の被害によって完成が約1年遅れた。</ref><ref name="日本巡洋艦物語275">[[#日本巡洋艦物語]]275頁</ref>。
1941年11月26日、那珂は[[水雷戦隊#第四水雷戦隊|第4水雷戦隊]](司令官:[[西村祥治]]少将)の旗艦となった。太平洋戦争緒戦では、[[高橋伊望]]中将率いる[[第三艦隊 (日本海軍)|第3艦隊]]の一員として[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン南部への侵攻]]に参加し、陸軍[[第48師団 (日本軍)|第48師団]]を運ぶ輸送船を護衛した。その際、[[アメリカ陸軍航空軍|米陸軍航空軍]]の攻撃により軽微な損傷を受けた。


日本海軍側は他社に再建造させる意向だったが、横浜船渠側の要請により、同社で再建造することが決まる<ref name="三菱20話p4b">[[#三菱、20話]]4-5頁『「那珂」の再建造が決まる』</ref>。旧那珂は解体の上<ref group="注釈">なお、被災炎上した船体部のうち、損傷の比較的軽微な部分は[[クレーン船|起重機船]]の船体として再利用され、120トン起重機船として横浜船渠でその後も長らく使用されている。<br />(『三菱重工横浜製作所百年史』)</ref>、川内型3番艦として改めて起工し、[[1924年]](大正13年)5月24日に工事が再開された<ref name="三菱20話p4b" /><ref>[[#川内神通阿武隈那珂製造一件(4)]]p.37『軍艦那珂工事豫定概括表』</ref>。
[[1942年]]1月、第4水雷戦隊は[[蘭印作戦|蘭印への侵攻]]に割り当てられ、呉第2[[海軍陸戦隊#特別陸戦隊|特別陸戦隊]]と[[第56師団 (日本軍)#坂口支隊|坂口支隊]]を[[タラカン]]および[[バリクパパン]]へ送る船団を護衛した<ref>{{cite web|last = Klemen |first = L |url= http://www.dutcheastindies.webs.com/tarakan.html |title=The capture of Tarakan Island, January 1942 |date=1999-2000 |work=Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942|accessdate=2013-10-08}}</ref>。1月24日、バリクパパンで部隊を上陸させている時、悪天候のため浮上中であった[[オランダ海軍]]の潜水艦{{仮リンク|K-XVIII (潜水艦)|nl|Hr. Ms. K XVIII|label=K-XVIII}}が那珂に対して魚雷4本を発射したが、命中しなかった。西村提督は第4水雷戦隊の那珂と駆逐艦に対しK-XVIIIの追跡を命じたが失敗に終わり、その間にアメリカ海軍第5任務部隊の駆逐艦4隻が、護衛のいなくなった船団を攻撃して輸送船を撃沈した。


[[1925年]](大正14年)3月24日、[[海軍大臣]]代理[[安保清種]][[海軍省#海軍次官|海軍次官]]列席のもと<ref name="三菱20話p4b" />、午後4時30分に進水した<ref>[[#川内神通阿武隈那珂製造一件(4)]]p.12『軍艦那珂午後四時三十分無事進水ス御届ス』</ref>。最初の起工から約3年が経過した11月30日に就役した<ref name="艦船要目那珂" /><ref name="三菱20話p4b" />。その際に[[船首|艦首]]形状をスプーン型からダブル・カーブド型に改めている。

[[呉鎮守府]]籍<ref name=date37>軽巡洋艦『川内・神通・那珂』行動年表、37ページ</ref>となり、1925年(大正14年)12月5日、[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]][[第三戦隊]]に編入された<ref name=date37/>。翌1926年(大正15年)12月1日には、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]][[第五戦隊]]に編入された<ref name=date37/>。

=== 美保関事件 ===
{{main|美保関事件}}
[[1927年]](昭和2年)8月24日、[[島根県]][[美保関町|美保関]]沖の[[日本海]]で行われた夜間無灯火[[軍事演習|演習]]において、那珂は第五戦隊を編成した(うち第1小隊は[[重巡洋艦]]「[[加古 (重巡洋艦)|加古]]」「[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]」、第2小隊は「神通」「那珂」)<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(1)]]p.4『乙軍ノ行動(略)左翼隊タル神通那珂ハ神通艦長之ヲ率ヰ…』</ref>。また那珂には観戦武官として[[博義王|伏見宮博義王]]が乗艦した<ref>[[#黒き日本海に消ゆ]]62頁</ref>。

夜間演習では、第一戦隊([[戦艦]]「[[長門 (戦艦)|長門]]」「[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]」)、第三戦隊(軽巡「[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]」「阿武隈」)、第四戦隊(戦艦「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」「[[比叡 (戦艦)|比叡]]」「[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]」「[[日向 (戦艦)|日向]]」)、第六戦隊(軽巡「[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]」「[[龍田 (軽巡洋艦)|龍田]]」)を仮想敵にみたてて接近中<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(7)]]pp.7-16』</ref>、戦艦伊勢および軽巡由良、龍田等から[[サーチライト|探照灯]]照射を受けた第2小隊(神通、那珂)は距離をとるべく右に転舵<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(1)]]p.5『此ノ時左舷艦尾方向ヨリ甲軍後衛ノ一艦ヨリ照射ヲ受ケ神通ハ伊勢ニ対シ反照シ那珂ハ探照燈ヲ以テ友軍敵情ヲ通報シ次テ神通ハ航行灯ヲ点シ南東ニ変針(略)11時16分敵後尾ニ触接スルノ目的ヲ以テ両舷灯ヲ消シ第三戦速(28節)ニ増速面舵転舵中…』</ref>。すると2隻は後続していた第五戦隊第1小隊(「加古」「古鷹」)および第二水雷戦隊(旗艦:軽巡「[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]」)、第26駆逐隊、第27駆逐隊(「[[菱 (樅型駆逐艦)|菱]]」「[[蕨 (駆逐艦)|蕨]]」「[[葦 (駆逐艦)|葦]]」「[[菫 (樅型駆逐艦)|菫]]」)の一群に突っ込んだ<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(7)]]p.43『…当時神通と那珂は隊を組んで敵に迫ったが其の照射猛撃に遭ふて一時避退の止むなきに至って反転した、煌々たる探照燈に眩まされて居る、其處を同しく敵に向かって突進中の第二七駆逐隊と反航の對勢で急速に近接した…』</ref>。神通と、第27駆逐隊2番艦の蕨が衝突(蕨は沈没)。それを避けようとして左に転舵した那珂は、衝突艦を避けようとして右に転舵していた同駆逐隊3番艦の葦の左舷後部に衝突し、両艦ともに大破した。

自力航行可能だった那珂は比叡と古鷹に護衛され[[舞鶴基地|舞鶴]]へ回航され、損傷激しい神通は重巡加古による護衛下で金剛に曳航され、葦は阿武隈に曳航されて、それぞれ帰投した<ref>[[#神通蕨那珂葦衝突報告(1)]]p.13『那珂ハ25日午前2時40分防水区画補強工事及防水畫出シ方終了自力航行ニ差支ナキヲ確メタル旨報告ニ接シ比叡及古鷹之ヲ護衛シ舞鶴ニ回航セシム25日午後5時無事到着セリ』</ref>。

のちに、事件当時の神通艦長[[水城圭次]][[大佐]]は自決した。これを'''美保関事件'''という。修理にあたって神通の艦首は那珂と同様の形状に改められた<ref name="日本巡洋艦物語275" />。

1928年(昭和3年)12月10日、那珂は予備艦となった<ref name=date38>軽巡洋艦『川内・神通・那珂』行動年表、38ページ</ref>。1929年(昭和4年)11月30日、第一艦隊[[第一水雷戦隊]]に編入<ref name=date38/>。1930年(昭和5年)12月1日、第一艦隊第三戦隊に編入<ref name=date38/>。1932年(昭和7年)2月2日、[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]第三戦隊に編入<ref name=date38/>。同年3月20日、再び予備艦となった<ref name=date38/>。1933年(昭和8年)11月15日、第二艦隊[[第二水雷戦隊]]に編入<ref name=date38/>。1934年(昭和9年)11月15日付で[[横須賀鎮守府]]に転籍となるとともに警備[[練習艦]]となった<ref name=date38/>。

=== 第四艦隊事件 ===
{{main|第四艦隊事件}}
[[1935年]] (昭和10年) 9月25-27日、那珂は'''第四艦隊事件'''に遭遇した。第四水雷戦隊旗艦那珂は第11駆逐隊([[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]]、[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]])、第12駆逐隊([[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]、[[薄雲 (吹雪型駆逐艦)|薄雲]]、[[叢雲 (吹雪型駆逐艦)|叢雲]])、第7駆逐隊([[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]、[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]])、第8駆逐隊([[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]])に所属する駆逐艦群を率いて、[[岩手県]]沖の[[太平洋]]で演習を行なっていた<ref>[[#夕霧初雪遭難事件報告(1)]]p.3『航行隊形』/pp.42-45『別紙第三、主ナル被害損傷調』</ref>。9月25日、初雪で溺者1名が発生、那珂は「此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ」と各艦に注意した<ref>[[#初雪遭難詳報(5)]]p.2『那珂|四水戦|1255|初雪ノ溺者ニ鑑ミ人ヲ落サザル様一層厳重ナル注意ヲナセ此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ』</ref>。

9月26日夕刻、荒天により夕霧が艦首を切断(行方不明27名)、その救援中に初雪より[[SOS]]が発せられた(艦首切断行方不明24名)。夜が明けたのち夕霧は軽巡[[大井 (軽巡洋艦)|大井]]に、初雪は重巡[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]に曳航され、[[青森県]]の[[大湊基地|大湊軍港]]へ向かった<ref>[[#夕霧初雪遭難事件報告(1)]]p.5『然ルニ午後5時40分初雪ヨリ「SOS」「初雪艦首切断救助頼ム」ノ電ニ接シ夕霧ノ安全ナルヲ確メタル後初雪捜索ニ向ヒシガ夕霧救助ノ為現地ニ急行中ノ五戦隊近キニ在ルヲ以テ之ニ初雪救助ヲ依頼シ再ビ夕霧ニ近接セシモ当時風浪尚大ニシテ近寄レズ夜ヲ徹シテ之ガ監視警戒ニ任ジタリ。27日風浪稍々静マルヲ待テ初雪ハ薄雲護衛ノ下ニ羽黒ニ曳航セラレ又夕霧ハ天霧護衛ノ下ニ大井ニ曳航セラレ何レモ大湊ニ向ヘリ』</ref>。この事件で那珂は若干の損傷を受けた<ref>[[#夕霧初雪遭難事件報告(1)]]p.42『那珂|一.自11番至18番各重油「タンク」海水漏入/二.前部発射甲板左舷後部隔壁亀裂(約25糎)/三.第二通舷及舷架流失/四.四番聯管八年式方位盤流失』</ref>。

1935年(昭和10年)11月15日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入<ref name=date38/>。1936年(昭和11年)12月1日、予備艦となった<ref name=date38/>。1937年(昭和12年)12月15日、第一艦隊[[第八戦隊]]に編入<ref name=date38/>。1938年(昭和13年)12月15日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入された<ref name=date38/>。

[[1939年]](昭和14年)11月15日、第二水雷戦隊旗艦は那珂から神通に変更された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070381900|昭和14年11月15日(水)海軍公報(部内限)第3360号 p.35}}『○将旗移揚 第二水雷戰隊司令官ハ十一月十五日将旗ヲ那珂ヨリ神通ニ移揚セリ』</ref>。那珂は新編の'''第四水雷戦隊'''に編入された。11月25日、第一水雷戦隊司令官[[栗田健男]][[少将]]は第四水雷戦隊司令官に任命された<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072077000|昭和14年11月25日(発令11月25日付)海軍辞令公報(部内限)第406号 p.4}}</ref>。栗田は11月29日より那珂に将旗を掲げた<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070382100|昭和14年11月30日(木)海軍公報(部内限)第3372号 p.27}}『○将旗掲揚 第四水雷戰隊司令官ハ十一月二十九日将旗ヲ那珂ニ掲揚セリ』</ref>。

[[1941年]](昭和16年)には姉妹艦の神通と共に雷装の強化が行われ、九三式[[酸素魚雷]]の発射能力を得た。

=== 第四水雷戦隊 ===
1941年(昭和16年)11月26日、那珂は[[水雷戦隊#第四水雷戦隊|第四水雷戦隊]](司令官:[[西村祥治]]少将)の旗艦となった。当時の日本は対米英蘭開戦(太平洋戦争)を決意しており、第四水雷戦隊には以下の各駆逐隊が所属していた。
*第2駆逐隊(司令[[橘正雄]]大佐:[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]、[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]])
*第4駆逐隊(司令[[有賀幸作]]大佐:[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]])
*第9駆逐隊(司令[[佐藤康夫]]大佐:[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]、[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]])
*第24駆逐隊(司令[[平井泰次]]大佐:[[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[山風 (白露型駆逐艦)|山風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]])

だが第4駆逐隊は、[[東南アジア]]攻略を担当する[[南方作戦|南方部隊]]指揮官[[近藤信竹]]第二艦隊司令長官が率いる南方部隊本隊(旗艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]])に引き抜かれる形で同部隊に所属しており、第四水雷戦隊の直率下にはなかった<ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]付表第一『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』</ref>。

なお、太平洋戦争が起きなければ第2駆逐隊と第24駆逐隊は第四水雷戦隊(四水戦)から第一水雷戦隊(旗艦阿武隈)へ転出<ref>[[#昭和17年度帝国海軍戦時編制]]p.3『聯合艦隊|第一艦隊|第一水雷戦隊|阿武隈、第二驅逐隊、第二十一驅逐隊、第二十四驅逐隊、第二十七驅逐隊』</ref>、その代わりに[[朝潮型駆逐艦]]4隻の第8駆逐隊([[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]、[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]])および[[夕雲型駆逐艦]]を基幹とする第10駆逐隊([[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]])が四水戦に配備され那珂の指揮下に入る予定であった<ref>[[#昭和17年度帝国海軍戦時編制]]p.3『聯合艦隊|第二艦隊|第四水雷戦隊|那珂、第四驅逐隊、第八驅逐隊、第九驅逐隊、第十驅逐隊』</ref><ref>[[#昭和17年戦時編制・駆逐隊他]]p.1『横須賀|第四驅逐隊/嵐、萩風、野分、舞風|第八驅逐隊/朝潮、満潮、大潮、荒潮|第十驅逐隊/秋雲、夕雲、巻雲、《風雲》|第四水雷戦隊』</ref>。

太平洋戦争緒戦では、[[フィリピンの戦い (1941年-1942年)|米領フィリピン]]占領をめざす比島部隊第二急襲隊の一隻として[[ビガン]]攻略に参加した<ref>『[[戦史叢書]]第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』208-209ページ</ref>。第四水雷戦隊の一部(那珂および駆逐艦村雨、夕立、春雨、五月雨、朝雲、夏雲、峯雲)などからなる第二急襲隊は上陸部隊を乗せた船団を護衛して12月7日に[[日本統治時代の台湾|台湾]]の[[馬公]]より出撃した<ref>『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』209、211ページ</ref>。12月10日に目的地に到着し、上陸部隊は飛行場を占領した<ref>『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』211ページ</ref>。同日、[[アメリカ陸軍]]の[[B-17 (航空機)|B-17]]爆撃機8機と[[P-40 (航空機)|P-40E]]および[[P-35 (航空機)|P-35]]戦闘機がビガンに来襲<ref>The Army Air Forces in World War II, Volume One, pp.215-216</ref>。[[第十号掃海艇 (3代)|第十号掃海艇]]が沈没するなど日本側の艦船に被害が生じた<ref name="sen24 213"/>。那珂は至近弾により死者2名負傷者7名を出した<ref name="sen24 213">『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』213ページ</ref>。12月12日に第四水雷戦隊はビガンを離れた<ref name="sen24 215">『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』215ページ</ref>。馬公へ戻る途中、12月13日にアメリカ潜水艦[[セイルフィッシュ (SS-192)|セイルフィッシュ]]を発見し、那珂も[[爆雷]]攻撃を行った<ref>『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』215ページ、『日本水雷戦史』49ページ</ref>。

続いて[[リンガエン湾]]への上陸作戦に参加。上陸部隊を運ぶ船団は3つに別れ、それぞれ第一護衛隊から第三護衛隊が護衛する計画であった<ref>『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』255ページ</ref>。第四駆逐隊、第二十四駆逐隊および山雲を除く第四水雷戦隊は漁船5隻と共に第二護衛隊を編成した<ref>『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』253ページ</ref>。第二護衛隊は輸送船32隻を護衛して12月18日に馬公より出撃<ref>『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』260ページ</ref>。3つの部隊は途中で合流してリンガエン湾へと向かい、12月22日に船団は投錨して上陸が行われた<ref>『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』260-262、264ページ</ref>。海上では潜水艦の発見が相次ぎ、那珂、村雨、五月雨も潜水艦を探知して攻撃を行った<ref>『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』266ページ</ref>。同日、第四水雷戦隊は馬公へ向かった<ref>『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』267ページ</ref>。

12月26日に比島部隊の大半は、[[オランダ領東インド]]制圧を担う蘭印部隊となり、第四駆逐隊を除く第四水雷戦隊などは西方攻略部隊の第一護衛隊を編成<ref>『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』92、102ページ</ref>。蘭印攻略部隊は[[ダバオ]]に集合予定で、那珂は1942年1月2日にダバオに到着した<ref>『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』304ページ、『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』113ページ</ref>。那珂は[[タラカンの戦い (1942年)|タラカン]]、[[バリクパパンの戦い|バリクパパン攻略]]に参加した。

タラカン攻略部隊は1月7日にダバオから出撃し、1月10日に[[タラカン島|タラカン]]に到着した<ref>『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』144-145ページ</ref>。1月12日にタラカンの守備隊司令官より[[降伏]]の申し出があった<ref>『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』148ページ</ref>。これを受け掃海隊が掃海作業に向かったが、[[第十三号掃海艇]]と[[第十四号掃海艇]]が[[砲台]]からの砲撃により撃沈された<ref>『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』149-152ページ</ref>。この戦闘は那珂や第二駆逐隊から目撃されていたが、敵が降伏したものと思っていたなかで起きた短時間の戦闘であったことや、機雷が敷設されている場所であったことから救援は行なえなかった<ref>『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』152ページ</ref>。

{{main|バリクパパン沖海戦}}
続いて[[バリクパパン]]攻略が行われた。攻略部隊は1月21日にタラカンより出撃し、途中[[空襲]]で被害が出たものの1月23日に目的地に到着した<ref>『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』189、194、196、198ページ</ref>。24日0040分、悪天候のため浮上中であった[[オランダ海軍]]の潜水艦[[K XVIII (潜水艦)|K XVIII]]が那珂に対して魚雷4本を発射した<ref name="叢書(26)202">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]202-203頁「連合国海軍の状況」</ref>{{出典無効|date=2019年2月}}<!--戦史叢書の当該ページにはK18が那珂を雷撃し敦賀丸を撃沈したとの記述のみしかない-->。00時45分、那珂南西約1kmに停泊していた輸送船敦賀丸が被雷して沈没<ref name="叢書(26)198">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]198-201頁「敵水上部隊、わが泊地を奇襲」</ref>。西村提督は那珂と駆逐隊および哨戒艇部隊に対しK XVIIIの追跡を命じたが、失敗に終わった。この後、那珂および第2駆逐隊・第9駆逐隊は泊地東海面の哨戒を実施するが、北上してきたアメリカ海軍第5任務部隊の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、[[ポープ (駆逐艦)|ポープ]]、[[パロット (駆逐艦)|パロット]]、[[ポール・ジョーンズ (DD-230)|ポール・ジョーンズ]])が、護衛のいなくなった船団を攻撃して輸送船を撃沈している事に気付かなかった<ref name="叢書(26)198" />。米艦隊が脱出したのち、西村提督は「敵潜水艦、魚雷艇ニ対シ警戒ヲ厳ニセヨ」と下令している<ref name="叢書(26)198" />。船団は輸送船5隻沈没(敦賀丸、呉竹丸、須磨浦丸、辰神丸)、哨戒艇37号沈没、輸送船2隻(球磨川丸、朝日山丸)損傷という大きな損害を受けた<ref name="叢書(26)198" />。本海戦(日本側呼称'''バリクパパン沖海戦'''、連合国軍呼称'''マカッサル海戦''')は、アメリカ海軍にとって太平洋戦争緒戦における数少ない勝利であり、大々的に宣伝した<ref name="叢書(26)202" />。

1月30日に那珂は第二駆逐隊(駆逐艦1隻を除く)とともにバリクパパンを離れ、2月2日にリンガエン湾に到着<ref>『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』380ページ</ref>。続いて2月8日から第48師団を乗せた船団を護衛した<ref name="sen26 381">『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』381ページ</ref>。船団は2月13日にホロに着いた<ref name="sen26 381"/>。

==== スラバヤ沖海戦 ====
{{main|スラバヤ沖海戦}}
{{main|スラバヤ沖海戦}}
1942年2月末、[[ジャワ島]]占領のためジャワ島東部へ陸軍第48師団と坂口支隊を輸送することとなり、第五戦隊(重巡洋艦「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」「[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]」「[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]])、[[第2水雷戦隊]](旗艦:神通)、第4水雷戦隊(旗艦:那珂)などからなる護衛艦隊がその護衛についた<ref>{{cite web|last = Klemen |first = L |url= http://www.dutcheastindies.webs.com/java.html |title= The conquest of Java Island, March 1942 |date=1999-2000 |work=Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942|accessdate=2013-10-08}}</ref>。
1942年2月末、[[ジャワ島]]占領のためジャワ島東部へ[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[第48師団 (日本軍)|第48師団]]と坂口支隊を輸送することとなり、第五戦隊([[那智 (重巡洋艦)|那智]]羽黒[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]])、[[第水雷戦隊]](旗艦:神通)、第水雷戦隊(旗艦:那珂)などからなる護衛艦隊がその護衛についた<ref>{{cite web|last = Klemen |first = L |url= http://www.dutcheastindies.webs.com/java.html |title= The conquest of Java Island, March 1942 |date=1999-2000 |work=Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942|accessdate=2013-10-08}}</ref>。


2月27日、輸送艦隊は[[マカッサル海峡]]を南下してジャワ海を航行していた。連合国軍の[[ABDA司令部|ABDA艦隊]]はこれを迎撃すべく[[スラバヤ]]を出撃したが、連日の戦闘配置により乗員の疲労が高まっていたこともあり、[[カレル・ドールマン]]司令官は補給のため一旦艦隊をスラバヤへ帰投させることにした。12時5分(現地時間。以下同じ)、那智の水偵が連合軍艦隊を発見し日本艦隊に位置を通報した。第四水雷戦隊も輸送船団の護衛を[[若鷹 (急設網艦)|若鷹]]に任せて、敵艦隊に向かう第五戦隊に合流しようとしたが、連合軍艦隊が輸送船団の攻撃に向かっているのか、帰投しようとしているのか判断しかねており、四水は反転して一旦輸送船団護衛に戻った。
2月27日、輸送艦隊は[[マカッサル海峡]]を南下してジャワ海を航行していた<ref name="叢書(26)448">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]448-450頁「敵有力水上部隊出現(二月二十七日)」</ref>。連合国軍の[[ABDA司令部|ABDA艦隊]]はこれを迎撃すべく[[スラバヤ]]を出撃したが、連日の戦闘配置により乗員の疲労が高まっていたこともあり、[[カレル・ドールマン]]司令官は補給のため、いったん艦隊をスラバヤへ帰投させることにした。基地航空隊から「敵巡洋艦五隻、駆逐艦六隻接近」の報告を受けた第五戦隊司令官[[高木武雄]]少将は、第五戦隊(那智、羽黒)と第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊「[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]」「[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]」「[[初風 (駆逐艦)|初風]]」「[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]」および臨時編入艦「潮」「[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]」「山風」「江風」)、第四水雷戦隊の各隊に戦闘準備を下令した<ref name="叢書(26)448" />。12時5分(現地時間。以下同じ)、那智の水察機が連合軍艦隊を発見し日本艦隊に位置を通報した。第四水雷戦隊も輸送船団の護衛を[[若鷹 (急設網艦)|若鷹]]に任せて、敵艦隊に向かう第五戦隊に合流しようとしたが、連合軍艦隊が輸送船団の攻撃に向かっているのか、帰投しようとしているのか判断しかねており、四水戦は反転していったん輸送船団護衛に戻った<ref name="叢書(26)448" />


連合軍艦隊はスラバヤに入港しようとしたところ日本軍船団発見の報を受けて反転、上空触接していた「那智がそ動き日本艦隊へ送信し、日本艦隊は敵艦隊との会敵予想針路を取った。第四水雷戦隊は那智機の電報を受信するのが遅れ、船団護衛を第二十四駆逐隊司令に任せると、第五戦隊第二水雷戦隊の後を追って予想会敵地点へ向かった。
一方、連合軍艦隊はスラバヤに入港しようとしたところ日本軍船団発見の報を受けて反転。日本艦隊も那智機の報告受けて敵艦隊との会敵予想針路を取った<ref name="叢書(26)448" />。第四水雷戦隊は那智機の電報を受信するのが遅れ、西村司令官は船団護衛を第24駆逐隊司令と指揮下2隻(海風、夏雲)に任せると那珂と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)および第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)を率い、第五戦隊第二水雷戦隊の後を追って予想会敵地点へ向かった<ref name="叢書(26)448" />


16時ごろ第四水雷戦隊戦域に到着した。四水戦は距離15,000mで一斉に27発の魚雷を発射したが命中しなかった。連合軍艦隊が態勢を立て直すために変針したのを見て、第五艦隊司令官高木少将は全軍突撃を下令し、四水戦が真っ先に突撃を始めた。旗艦那珂は連合軍艦隊に距離12000mまで近づくと魚雷4本を発射して避退した。四水戦の子隊である第駆逐隊駆逐隊は肉薄攻撃をかけるため突撃した。第駆逐隊は距離5000mまで近づいて魚雷を発射したが、これらは命中しなかった。しかしドールマン少将が英重巡[[エクセター (重巡洋艦)|エクセター]]を避退させるために英駆逐艦[[エレクトラ (駆逐艦)|エレクトラ]]」ほか2隻に攻撃を下令し、「エレクトラ」は煙幕抜けたところで「神通」以下から集中砲を受けて轟沈した。「エレクトラ」反撃一弾第九駆逐隊旗艦「[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]」に命中し損傷した。
16時(1750)ごろ第四水雷戦隊は戦闘戦域に到着し、退避する神通以下第二水雷戦隊の前を突っ切って連合国軍艦隊に接近した<ref name="叢書(26)451">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]451-454頁「第一次昼戦(自一七二五 至一八五〇)」</ref>。四水戦は距離15,000mで一斉に27発の魚雷を発射、神通は四水戦の外側から魚雷4本を発射したがいずれも命中前に爆発てしまったものの、日本側は大口径砲か機雷の爆発とみて混乱する<ref name="叢書(26)451" />遠距離砲戦を繰返しながら時間が経過していくうち、連合軍艦隊が態勢を立て直すために変針したのを見て、高木少将は全軍突撃セヨ」を下令した<ref name="叢書(26)451" />。日本艦隊は、四水戦―二水戦―第五戦隊という順番で突撃を<ref name="叢書(26)455">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]455-456頁「第二次昼戦(自一八五〇 至一九五〇)」</ref>。旗艦那珂は連合軍艦隊に距離12000mまで近づくと魚雷4本を発射して避退四水戦の子隊である第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)と9駆逐隊(朝雲、峯雲)接近した<ref name="叢書(26)455" />。第2駆逐隊は距離10000〜7500mで魚雷を発射、[[佐藤康夫]]9駆司令指揮下の第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は距離6000mまで近づいて魚雷を発射したが、これらは命中しなかった<ref name="叢書(26)455" />。しかしドールマン少将が[[イギリス海軍|]]重巡[[エクセター (重巡洋艦)|エクセター]]を避退させるために英駆逐艦2隻([[エレクトラ (駆逐艦)|エレクトラ]]、[[エンカウンター (駆逐艦)|エンカウンター]])に攻撃を下令し、英駆逐艦2隻と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は3000mで砲戦を交えた<ref name="叢書(26)455" /><ref name="叢書(26)478">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]478頁連合軍側の状況」</ref>。第9駆逐隊(朝雲、峯雲)はエレクトラを撃沈、エンカウンターを避退させたが朝雲も損傷した<ref name="叢書(26)478" />戦闘海域は砲煙と煙幕と日没重なって視界は極度に悪化、日本艦隊司令官達は輸送船団の反転と、配下駆逐隊の集結を命じた<ref name="叢書(26)455" />。スラバヤ沖海戦はその日の日没後および3月1日にも戦闘があっが、これらに四水戦は関わっていない


3月、第四水雷戦隊はジャワ島と[[セレベス島]]の間の海域の哨戒任務に就いた。
スラバヤ沖海戦はその日の日没後、および3月1日にも戦闘があったが、これらには「那珂」および四水戦は関わっていない。


==== クリスマス島攻略作戦 ====
3月、ジャワ島とセレベス島の間の海域の哨戒任務に就いた。3月14日、[[日本軍のクリスマス島占領|クリスマス島攻略]]部隊の旗艦となった。攻略部隊は第16戦隊(軽巡洋艦「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」「[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]」)、第9駆逐隊(駆逐艦「[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]」「[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]」)、第22駆逐隊(「[[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]」「[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]」「[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]」「[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]]」)、第16駆逐隊(「[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]」「[[初風 (駆逐艦)|初風]]」)および給油船「あけぼの丸」、輸送船「君島丸」「球磨川丸」で構成された<ref>{{cite web|last = Klemen |first = L |url= http://www.dutcheastindies.webs.com/christmas.html |title= The Mystery of Christmas Island, March 1942 |date=1999-2000 |work=Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942|accessdate=2013-10-08}}</ref>。攻略作戦中の4月1日、クリスマス島沖において[[潜水艦]]「[[シーウルフ (サーゴ級潜水艦)|シーウルフ]]」 (''USS Seawolf, SS-197'') の雷撃を受け航行不能となった。「名取」によってジャワ島バンタム湾へ曳航されてそこで応急修理を受け、自力で[[シンガポール]]へ航行した後、修理を受けるために日本へ帰投した。6月2日、シンガポール出発<ref>[[#昭和17年4月~4水戦日誌(3)]]p.13『3日1500那珂艦長→4sd/横須賀ニ向ケ昭南港発』</ref>。12日、横須賀帰着<ref>[[#昭和17年4月~4水戦日誌(3)]]p.10『那珂ハ12日横須賀帰着 15日附ニテ4sdヨリ除カレタリ』</ref>。15日附で「那珂」は第4水雷戦隊から除かれ、同戦隊旗艦は「[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]」が務めた<ref>[[#昭和17年4月~4水戦日誌(3)]]p.6『(二)第四水雷戦隊艦隊編成 (2)6月15日 那珂第四水雷戦隊ヨリ除カル』</ref>。その後、[[舞鶴海軍工廠]]にて修理、近代化改装を行い、5番主砲が撤去され、跡に12.7cm連装高角砲1基が搭載された。
{{main|日本軍のクリスマス島占領}}
<!--その頃、インド洋では南雲機動部隊(司令長官[[南雲忠一]]中将:旗艦[[赤城 (空母)|赤城]])に所属する[[第二航空戦隊]](司令官[[山口多聞]]少将:空母[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]])及び第三戦隊第2小隊(3番艦[[榛名 (戦艦)|榛名]]、4番艦[[金剛 (戦艦)|金剛]])、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)の8隻が、別働隊として機動部隊本隊から分離していた<ref name="叢書(26)509">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]509-511頁『移動部隊、チラチャップを爆砕』</ref>。二航戦(蒼龍、飛龍)の護衛に17駆2小隊(浜風、磯風)を残し、戦艦2隻(金剛、榛名)・駆逐艦2隻(谷風、浦風)の4隻は3月7日早朝に[[キリスィマスィ島|クリスマス島]]へ艦砲射撃を行う<ref>[[#S1703一水戦日誌(1)]]pp.6-7『3月7日 第17駆逐隊1小隊第三戦隊2小隊ト共ニ「クリスマス」島ヲ砲撃陸上施設(電信所桟橋油槽)ヲ破壊/3月9日 第17駆逐隊主隊ニ合同』</ref>。圧倒されたイギリス軍守備隊は白旗を掲げた<ref name="叢書(26)509" /><ref>[[#S1703一水戦日誌(1)]]pp.37-38『9日谷風駆逐艦長/當隊(2小隊欠)7日早朝第3戦隊2小隊ト共ニ「クリスマス」島陸上施設(電信所桟橋油槽)ヲ砲撃之ヲ破壊セリ。射撃距離50乃至35発射弾数谷風31浦風12、敵ハ白旗ヲ掲揚ス我人員兵器異状ナシ其ノ他別動中異状ナシ』-『9日第2航空戦隊司令官/別動中ノ戦果左ノ通リ|一.3月7日早朝約20分間ニ亘リ2D/3S及1D/17dgヲ以テ「クリスマス」島ヲ砲爆撃セリ敵ハ忽チ白旗ヲ掲揚セリ(以下略)』</ref>。だが4隻は白旗を放置してクリスマス島を去った。山口司令官から報告を受けた南雲司令長官は『クリスマス島の攻略は小兵力を以て容易に実施可能』と結論づけている<ref name="叢書(26)509" /><ref>[[#昭S1703一水戦日誌(1)]]p.41『9日2100機動部隊指揮官/機動部隊戦闘概報第7號 3月6日南緯140度0分東経109度40分ニ於テ別働隊(第二航空戦隊、第三戦隊2小隊、第17駆逐隊)ヲ分離、9日「スンバ」島南方ニテ合同、11日「スターリング」湾着ノ予定(略)同島攻略ハ小兵力ヲ以テ容易ニ実施シ得ルモノト認ム、港内敵船ヲ認メス(以下略)』</ref>。-->


3月末から4月初めにかけて那珂はクリスマス島攻略作戦に参加した。
[[1943年]]4月1日に戦線復帰。同日「[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]」と那珂で第14戦隊(第4艦隊所属)が新編され、那珂は4月2日にその司令官[[伊藤賢三]]少将の将旗を掲げた<ref>日本軽巡戦史、467-468ページ</ref>。内南洋に進出するため那珂は4月25日に空母[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]、[[冲鷹 (空母)|冲鷹]]を護衛して横須賀を離れ、4月30日に[[チューク諸島|トラック諸島]]に到着<ref>日本軽巡戦史、469ページ</ref>。5月から6月の間ヤルートへ進出した<ref>日本軽巡戦史、469-470ページ</ref>。6月22日からは那珂と五十鈴はトラックからナウルへの兵員輸送を行った<ref>日本軽巡戦史、471-472ページ</ref>。続いて那珂は7月17日からはトラックからミレへ<ref>日本軽巡戦史、473ページ</ref>、8月25日からは重巡洋艦高雄、駆逐艦海風、涼風とともにトラックからラバウルへの輸送任務に従事した<ref>日本軽巡戦史、475ページ</ref>。9月は3日から兵員輸送をおこなう日枝丸、富士山丸をトラックからクェゼリンへ護衛し、クェゼリン到着後はマロエラップへの兵員輸送に従事<ref name="kimata476">日本軽巡戦史、476ページ</ref>。12日には潜水艦による攻撃を受けた第六一三三船団の救援に向かった<ref name="kimata476"/>。19日からはミレ、ウオッゼへの兵員輸送をおこなった<ref>日本軽巡戦史、479ページ</ref>。


3月15日、第十六戦隊司令官[[原顕三郎]]少将(3月10日まで第五水雷戦隊司令官)を指揮官とするクリスマス島攻略部隊が正式に編成され、3月31日の攻略を目指した<ref name="叢書(26)613">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]613-614頁『クリスマス島の攻略』</ref>。主隊/第十六戦隊([[名取 (軽巡洋艦)|名取]]、[[長良 (軽巡洋艦)|長良]])、警戒隊(司令官西村祥治少将:第四水雷戦隊那珂、第9駆逐隊第1小隊《[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]、[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]]》、哨戒艇2隻、球磨川丸、君島丸)、第24特別根拠地隊分遣隊、補給部隊(あけぼの丸)、さらに第16駆逐隊[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]という兵力部署であった<ref name="叢書(26)613" />。
10月21日、「那珂」と「五十鈴」は[[上海]]で陸軍部隊を乗船させた。10月23日、輸送船団は[[東シナ海]]で米潜水艦「[[シャード (潜水艦)|シャード]]」の攻撃を受けた。10発の魚雷が発射されたが、いずれも当たらなかった。11月3日、第17駆逐隊([[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]])、輸送船「清澄丸」「護国丸」は[[カビエン]]の北60海里の地点で米[[第13空軍 (アメリカ軍)|第13空軍]]の[[B-24 (航空機)|B-24]]爆撃機に攻撃され、「那珂」は至近弾による攻撃を受けた。輸送船団は11月5日に[[ラバウル]]に到着したが、ちょうどその日に[[ラバウル空襲]]があり、「那珂」は爆撃機の至近弾によりわずかに損傷した。11月23日、[[タラワ]]への増援部隊の輸送のため[[ポンペイ島|ポナペ]]を出発した。しかし、タラワはすでにアメリカ軍により陥落しており、上陸することはできなかった。
<!-- 攻略部隊は第十六戦隊(長良、名取)、第9駆逐隊(朝雲、峯雲)、第22駆逐隊([[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]、[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]、[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]、[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]])、第16駆逐隊(天津風、[[初風 (駆逐艦)|初風]])および給油船あけぼの丸、輸送船君島丸、球磨川丸で構成されている<ref>{{cite web|last = Klemen |first = L |url= http://www.dutcheastindies.webs.com/christmas.html |title= The Mystery of Christmas Island, March 1942 |date=1999-2000 |work=Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942|accessdate=2013-10-08}}</ref>。攻略部隊に22dgは加わっていない。 --><!--本海戦に参加した駆逐艦天津風の艦長[[原為一]]中佐は『攻略部隊旗艦は那珂』と回想しているが、那珂は警戒隊旗艦である<ref name="原復刻34">[[#原(復刻版)]]34-35頁</ref>。-->

攻略作戦中の3月31日早朝、軽巡3隻(名取、長良、那珂)は水上偵察機を投入して偵察・哨戒と対地支援攻撃を行い、また那珂は[[艦砲射撃]]を行なった<ref name="叢書(26)615">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]615頁「那珂被雷す」</ref>。午前8時、クリスマス島守備隊は白旗を掲げ、警戒隊・輸送船は入泊して陸戦隊の揚陸を開始する<ref name="叢書(26)615" />。20時30分、天津風が到着して対潜哨戒に加わった<ref name="叢書(26)615" />。

日本の船団はアメリカ潜水艦[[サーモン (SS-182)|サーモン]]に発見され、その情報は潜水艦[[シーウルフ (サーゴ級潜水艦)|シーウルフ]]へと伝えられた<ref>『日本軽巡戦史』221ページ</ref>。シーウルフは3月31日に那珂に対して4本、4月1日に名取に対して3本の魚雷を発射したが、これらは命中しなかった<ref>『日本軽巡戦史』222ページ</ref>。シーウルフは4月1日には那珂に対して2度目の雷撃も行い、残っていた魚雷2本を発射して1本を命中させた<ref>『日本水雷戦史』119ページ</ref>。
4月1日18時4分、那珂は第九駆逐隊第一小隊とともにクリスマス島北方海面を哨戒中に雷撃を受け、右舷中央部缶室に魚雷が命中<ref name="sen26 618">『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』618ページ</ref>。
一時航行不能となり2隻(天津風、哨戒艇34号)が護衛した<ref name="sen26 618"/>。那珂は名取に曳航され、第九駆逐隊第一小隊と天津風の護衛でバンタム湾へ向かった<ref name="sen26 619">『戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』619ページ</ref>。途中で那珂は自力航行可能となり、4月3日昼過ぎにバンタム湾に到着した<ref name="sen26 619"/>。

クリスマス島攻略部隊は4月3日、名取のバンタム湾到着をもって解散(那珂、夏雲、峯雲は4月2日附で除かれる)<ref name="叢書(26)622">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]622頁</ref><ref>[[#S1703四水戦日誌(3)]]p.23「2日0000 4sd(那珂 1D/9dg)X攻略部隊ヨリ除カル」</ref>。四水戦(那珂、夏雲、峯雲)は4月6日にバンタム湾を経ち[[シンガポール]](日本軍占領期の呼称は「昭南島」)へ移動した<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.8『「バンタム」泊地ニ於テ静波丸ニ依リ損傷情況ヲ確メ應急準備ヲナシ6日2200九驅一小隊ト共ニ昭南港ニ向ケ「バンタム」泊地ヲ出港セリ途中天候ニ恵マレ大ナル支障ヲ受クルコトナク10日1530「セレター」軍港ニ入港セリ』</ref>。4月10日着後、西村司令官は那珂を[[工作艦]][[朝日 (戦艦)|朝日]]に托し、第四水雷戦隊旗艦を駆逐艦夏雲に変更して内地へ向かった<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.9「本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ…」</ref>。

また艦隊の再編により第24駆逐隊([[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]、[[山風 (白露型駆逐艦)|山風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]])は第一水雷戦隊へ転出、第8駆逐隊([[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]、《[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]、[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]》5月15日除籍<ref name="S17達850号">[[#内令昭和17年5月(2)]]p.26『内令第八百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年 五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』</ref>)が第四水雷戦隊に編入された。那珂修理中の5月9日、軽巡洋艦[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]が第四水雷戦隊に編入された<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.47「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」</ref><ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.10「九日附ニテ由良ハ5SSヨリ除カレ當隊ニ編入サル同日前進部隊電令第七號ニ依リ大潮ハ舞鶴満潮呉山雲ハ横須賀ニテ修理セシメラルルコトトナリ何レモ十五日附ニテ特別役務艦ニ編入セラレタリ」</ref>。5月20日、四水戦旗艦は夏雲から由良に変更される<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.53「二〇(天候略)1500旗艦ヲ夏雲ヨリ由良ニ変更、由良九駆二駆攻略部隊主隊ニ編入セラル八駆ハ攻略部隊支援隊ニ編入」</ref>。

一方、那珂は6月3日にシンガポールを出発<ref>[[#S1704四水戦日誌(3)]]p.13「3日1500那珂艦長→4sd/横須賀ニ向ケ昭南港発」</ref>。台湾の馬公を経由して12日に横須賀帰着<ref>[[#S1704四水戦日誌(3)]]p.10「那珂ハ12日横須賀帰着 15日附ニテ4sdヨリ除カレタリ」</ref><ref>[[#S1704四水戦日誌(3)]]p.57「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」</ref>。15日附で第四水雷戦隊から除かれた<ref>[[#S1704四水戦日誌(3)]]p.6「(二)第四水雷戦隊艦隊編成 (2)6月15日 那珂第四水雷戦隊ヨリ除カル」</ref>。6月21日、舞鶴に到着<ref name="S1706舞鶴9">[[#S1706舞鎮日誌]]p.9「(2)其ノ他ノ工事(a)損傷復舊工事 薄雲工事=豫定通進捗中ニシテ七月末完成ノ豫定/大潮工事=目下現場調査作業豫定按畫中/那珂工事=損傷復舊竝ニ改装工事ノ爲本月二十一日入港セリ (b)天龍、龍田工事=本月十五日完成/呂六三潜水艦工事=本月八日完成現地ニ向ケ出港セルモ途中主電動機電動子燃損ノ爲十日歸投セルヲ以テ換装工事中/名取工事=本月十七日入港整備工事中/三十一驅潜隊工事=本月二十七日入港直ニ工事着手セリ/神威工事=本月二十九日入港〃」</ref>。[[舞鶴海軍工廠]]での修理に入った。

当時の舞鶴海軍工廠は、[[秋月型駆逐艦]]2隻([[秋月 (駆逐艦)|秋月]]、[[初月 (駆逐艦)|初月]])、[[夕雲型駆逐艦]]複数隻、島風型駆逐艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]の建造<ref>[[#S1706舞鎮日誌]]pp.8-9「(1)新造艦船工事 前月ニ引續キ秋月、巻波及初月ノ艤装工事竝ニ島風、第三四〇號艦及第三百四十一號艦ノ建造工事ハ概ネ順當ニ進捗シツツアリシモ秋月砲熕公試ノ結果不具合ノ點アリ完成期ヲ六月十日ニ變更セル處尚俯角制限装置機構手直ヲ要スル爲更ニ六月十九日迄完成期ヲ延期セラレタル處作戰ノ関係上砲熕機能試験ヲ省略シ六月十一日引渡ノコトニ大臣ヨリ指令アリタルニ付任務ニ差支ナキ程度ニ整備ノ上十一日竣工引渡ヲ了ス」</ref>、軽巡洋艦や駆逐艦複数隻([[薄雲 (吹雪型駆逐艦)|薄雲]]、[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]、[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]《8月13日舞鶴着》<ref>[[#S1708舞鎮日誌]]p.5「(a)損傷復舊工事 大潮、那珂工事=豫定通進捗中/霞工事=損傷復舊工事ノ爲本月十三日入港目下損傷部調査中 (b)利根筑摩ノ整備工事ハ六日完成シ作戰地ニ向ケ進出セリ 夕風(二十一日)、室戸(二十四日)ハ附記ノ通入稿以來極力進捗中」</ref>、[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]《9月3日舞鶴着》<ref>[[#S1709舞鎮日誌]]p.5「(a)損傷復舊工事 大潮、那珂及霞ノ特定修理、損傷復舊工事ハ前月ニ引續キ豫定通順調ニ進捗シツツアリ/不知火九月三日入港損傷調査竝修理實施準備ヲ爲シツツアリ」</ref>、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]《11月6日舞鶴到着》<ref>[[#S1711舞鎮日誌]]p.5「(a)損傷復舊工事 大潮、那珂、霞及不知火ハ概ネ豫定通進捗中/初春六日入港工事ニ着手シ中央要求ニ即應極力工事促進中」</ref>。)等の修理整備工事を抱えており<ref name="S1706舞鶴9" />、那珂の修理と改造もその中で行なわれた。近代化改装にあたっては、5番主砲が撤去され、5番主砲の位置には12.7cm連装高角砲1基が搭載された。小発動艇を4隻搭載、中甲板以下の舷窓を閉塞するなど、輸送作戦や対空戦闘に対応する改修を実施して、その訓練に従事する<ref>[[#軽巡二十五隻]]132頁</ref>。[[1943年]](昭和18年)3月31日、修理完成<ref>[[#S1803舞鎮日誌(1)]]pp.6-7「(a)損傷復舊工事 霞不知火初春何レモ豫定通工事進捗中/那珂ハ三十一日工事完成セリ (b)修理工事 龍田 操舵装置修理豫想外ニ困難ニシテ一日試運轉ノ結果徹底的修理ヲ要スルコトトナリ陸揚修理二十七日試運轉成績良好二十八日出動セリ/太刀風八日、日進十三日、利根十六日}整備完成何レモ出動/刈萱 整備工事中/眞鶴(十六日)、長波(十七日)、木曾(二十日)、室戸(二十三日)何レモ附記ノ通入港極力整備工事中」</ref>。

=== 第十四戦隊 ===
[[1943年]](昭和18年)4月1日、那珂と[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]の軽巡2隻で第十四戦隊が新編された<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(1)]]p.4『當戦隊ハ四月一日附編成内南洋部隊ニ編入セラレ四月二十五日横須賀出撃四月三十日「トラック」着警戒任務ニ就ク』</ref>。ただし五十鈴は[[第三次ソロモン海戦]]等で受けた損傷を横浜で修理中だった<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(1)]]p.6「五十鈴ハ横浜浅野船渠ニ在リテ改造修理工事ニ従事」</ref>。第十四戦隊は[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]]に編入され、4月2日に司令官[[伊藤賢三 (海軍軍人)|伊藤賢三]]少将は那珂に将旗を掲げた<ref name=戦史叢書(62)310>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』310ページ</ref>。那珂は4月25日に[[航空母艦|空母]]2隻([[雲鷹 (空母)|雲鷹]]、[[冲鷹 (空母)|冲鷹]])を護衛して横須賀を出発し、4月30日に[[チューク諸島|トラック島]]に着いた<ref name=戦史叢書(62)310/>。
<!--
4月5日、那珂は舞鶴港を出港<ref>[[#S1804舞鎮日誌]]p.59『五日(天候略)那珂修理完成出動/芙蓉入港(以下略)』</ref>。訓練や哨戒を実施しつつ内海西部を経由して横須賀へと向かった<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(1)]]p.5『當戦隊(五十鈴欠)ハ四月五日改造修理成リ舞鶴発六日内海西部ニ回航(略)十九日内海西部発対潜掃蕩ヲ実施シツツ横須賀ニ回航』</ref>。4月25日、那珂は駆逐艦3隻([[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]])と共に空母2隻([[雲鷹 (空母)|雲鷹]]、[[冲鷹 (空母)|冲鷹]])を護衛して横須賀を離れ、4月30日に[[チューク諸島|トラック諸島]]に到着した<ref>[[#S1801二水戦日誌(5)]]p.31『AdB指揮官|4月15日1340AdB司令官27dg司令駆逐艦長雲鷹艦長|27dg(時雨有明)長波ハ左ニ依リ行動後23日横須賀発予定ノ雲鷹冲鷹ヲ「トラック」迄警戒ニ任ズベシ右回航中雲鷹艦長ノ指揮ヲ受クベシ 一.27dg(時雨有明)ハAdB電令作第177号ニ依リ行動 二.長波ハ修理完了後速ニ横須賀ニ回航』</ref><ref name="叢書中部太平洋海軍(2)310">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]310頁『第十四戦隊の内南洋部隊への進出』</ref>。(出典不備 前者は実際の行動が書かれたものではなく、後者は駆逐艦名がない)-->

敵潜水艦の跳梁等から警戒が下令されると、那珂は5月18日に[[ジャルート環礁|ヤルート]]へ進出し、[[マーシャル諸島]]・[[ギルバート諸島]]方面への敵来襲に備えた<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』329ページ</ref>。那珂は6月18日にトラックに戻った<ref name=戦史叢書(62)310/>。

敵潜水艦による被害増加に対し、戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」や第十四戦隊などの水偵を[[パラオ]]へ派遣して対潜掃蕩にあたらせる命令が6月21日に出された<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』344-345ページ</ref>。それによってパラオへ向かった那珂の搭載機は、7月4日にソロール島で故障し、使用不能となった<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』345ページ</ref>。

6月22日より、第十四戦隊はトラック島から[[ナウル]]への兵員輸送を命じられた<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)369">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]369頁「横二特のナウル進出」</ref><ref>日本軽巡戦史、471-472ページ</ref>。この輸送作戦のため、第四水雷戦隊より軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]、第16駆逐隊([[雪風 (駆逐艦)|雪風]])と第17駆逐隊([[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]])、第27駆逐隊(有明:22日附で時雨と交代)が選抜され、第十四戦隊(那珂、五十鈴)と行動を共にする<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)369" />。第一次輸送隊(那珂400名、五十鈴453名、浜風70名、谷風70名)は22日、第二次輸送隊(長良350名、雪風70名)は23日、第三次輸送隊(時雨69名、駆潜艇28号、秋葉山丸50名)は24日にそれぞれトラック泊地を出発、25日-26日-29日ナウル着、28日午前-28日午後-7月3日トラック泊地帰着という輸送任務を達成した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)369" /><ref>[[#S1804十四戦隊日誌(1)]]p.29『…25日0500「ナウル」着増援隊ヲ揚搭ス、仝地ニ於テ浜風ノ指揮ヲ解キ当隊及谷風ハ同日0945「ナウル」発28日0832「トラック」着尓後防備警戒任務ニ就ク』</ref>。

続いて那珂と駆逐艦[[朝凪 (駆逐艦)|朝凪]]は[[ミリ環礁|ミレ]]増強部隊約600名を乗せて7月17日にトラック島を出発し、ミレへ輸送した<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』354ページ</ref>。

8月15日、アメリカ軍は[[ベララベラ島]]に上陸を開始、[[ニュージョージア島の戦い]]は緊迫の度合いを増した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)384">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]384頁「第十四戦隊のラバウルへの緊急輸送」</ref>。同日より五十鈴は[[ラバウル]]方面に緊急輸送を実施した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)384" />。8月25日、那珂と[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]および第24駆逐隊([[海風 (駆逐艦)|海風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]])という戦力でラバウルへの輸送任務を実施<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.5『海風(AdB十五日以後YBニ編入)ハ前月二十五日以降佐廠ニテ入渠修理中ノ處八月十五日完成十六日佐世保發十六日内海ニテ主力部隊ニ合同「トラック」ニ進出二十三日「トラック着司令驅逐艦トナル二十五日24dg(海風涼風)ハ14S(那珂)高雄ト共ニ「トラック」至「ラバウル」同増援部隊輸送ノ爲「トラック」出撃二十七日「ラバウル」着揚陸後即日同發二十九日「トラック」ニ歸投ス』</ref>。29日にトラックへ戻った<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)384" /><ref>[[#戦隊行動調書]]p.14『14S|八.二五「ラバウル」方面緊急輸送(将旗14S)那珂高雄24dg(海風涼風)』</ref>。9月は3日から兵員輸送を担う輸送船2隻(日枝丸、富士山丸)をトラック島から[[クェゼリン]]へ護衛する<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)434">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]434頁「歩兵第百二十二聯隊のマーシャル進出」</ref>。さらに第7駆逐隊の[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]が途中まで同行した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)434" />。7日にクェゼリンへ到着、引き続き[[マロエラップ]]への兵員輸送に従事<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)434" /><ref name="kimata476">『日本軽巡戦史』476ページ</ref>。12日、那珂と駆潜艇2隻、輸送船香取丸等は{{coor dm|08|23|N|165|12|E|}}にて米潜水艦[[パーミット (ポーパス級潜水艦)|パーミット]]の雷撃により損傷した特務艦[[知床 (給油艦)|知床]]と特設航空機運搬艦[[富士川丸]]の救援に赴いた<ref name="kimata476" /><ref name="叢書中部太平洋海軍(2)398">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]398頁「米潜水艦の跳梁と被雷した知床の救援」</ref>。なお救援中にパーミットから雷撃されたが、魚雷は那珂左舷30mを通過するなどして、命中しなかった<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(3)]]p.3『(ハ)13日0036知床ノ280度1000米ニ浮上潜水艦発見攻撃運動中0102{{coor dm|08|27.5|N|164|37|E|}}ニテ左舷艦首近距離ニ雷撃2本受ケタルモ雷跡那珂左舷約三十米ヲ通過シ被害ナシ、射点附近ニ爆雷投射九個効果不明、0447再ビ雷撃1ヲ受ケタルモ水面跳出被害ナシ、射点附近ニ爆雷投射三個効果不明』</ref>。知床は香取丸に曳航されてクェゼリンへ向かい、富士川丸は自力で[[ロイ=ナムル島|ルオット(ロイ=ナムル島)]]へ向かった<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)398" />。19日からはミレ、[[ウォッジェ環礁|ウオッゼ]]への兵員輸送を行なった<ref>『日本軽巡戦史』479ページ</ref>。

10月5日、[[連合艦隊司令長官]]は、第十四戦隊司令官伊澤少将を指揮官として陸軍[[第17師団 (日本軍)|第十七師団]]の南東方面派遣任務「丁四号輸送部隊」の編成を下令した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)436">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]436-438頁「第十七師団の南東方面への派遣」</ref>。那珂を旗艦とする部隊戦力は、第十四戦隊(那珂、五十鈴)、軽巡2隻([[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]、[[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]])、駆逐艦3隻([[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]])、輸送船団(栗田丸、日枝丸、護国丸、清澄丸)であった<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)436" /><ref>[[#戦隊行動調書]]p.14『10.5 丁四号輸送作戦(将旗14S) 14S木曾多摩栗田丸日枝丸護国丸清澄丸4dg(野分舞風)山雲』</ref>。上海から回航された第一輸送部隊(木曾、多摩)はトラック泊地で駆逐艦[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]を合同後、ラバウルへ向かうが爆撃により木曾は損傷<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(3)]]p.29『21日|0004第一次輸送隊「ニューアイルランド」島「セントヂョージ」岬沖ニテ敵機ト交戦木曽爆弾1命中』</ref>、駆逐艦2隻(卯月、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]])の救援を得てラバウルへたどりついた<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)436" /><ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.9『木曽ハ約十節ニテ卯月ノ護衛下ニ0315迄敵機18機ノ執拗ナル攻撃ヲ撃退、0500以後味方直衛機及五月雨ノ増援ヲ得テ1130「ラバウル」着1410火災鎮火排水…』</ref>。23日附で軽巡2隻(木曾、多摩)は丁四号輸送部隊から除かれた<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.10「GF電令作特第一号(GFキデ230758)ニ依リ多摩、木曽ハ丁四号輸送部隊ヨリ除カル」</ref>。

第二輸送隊(那珂、五十鈴、山雲、護国丸、[[清澄丸 (特設巡洋艦)|清澄丸]])は10月11日にトラック泊地を出発し、[[中国大陸]]の[[上海市]]へ向かった<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)436" />。途中、五十鈴は被雷した給糧艦[[間宮 (給糧艦)|間宮]]の救援に向かい、艦隊から分離した(18日上海着)<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]417頁『米潜の機動部隊搭乗員の救助と「間宮」の救援』</ref><ref>[[#S1804十四戦隊日誌(3)]]p.16「(3)五十鈴ハGF電令作第760号ニ依リ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ航行不能ノ間宮曳航ノ為12日2230分離現場ニ急行セシム」</ref>。10月21日、第二輸送隊はトラックを出発<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)436" />。10月22日、輸送船団は[[東シナ海]]で敵潜に襲撃された<ref>[[#軽巡二十五隻]]136頁「危うくかわす魚雷三本」</ref>。2隻(那珂、山雲)は爆雷攻撃を行った<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.14「第二輸送隊21日0845上海発22日0213及0217ノ二回ニ亙リ雷撃2(位置{{coor dm|28|40|N|124|10|E|}})ヲ受ケタルモ被害ナシ、那珂山雲ヲシテ攻撃制圧セシム」</ref>。この米潜水艦は[[シャード (潜水艦)|シャード]] (''USS Shad, SS-235'') であった。那珂右舷側に魚雷1本が命中していたが、不発だったという<ref>[[#軽巡二十五隻]]141頁(後日艦内調査で漏水箇所発見、魚雷胴体擦過時の損傷と推定)</ref>。28日、トラック泊地へ到着する<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)436" />。

同地にて戦力の再編が行なわれ山雲は第三輸送隊(野分、舞風、日威丸、神威丸)に編入、代艦として第17駆逐隊の[[陽炎型駆逐艦]]2隻([[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]])が第二輸送隊へ編入され、那珂の指揮下に入った<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)436" /><ref>[[#戦隊行動調書]]p.14「10.30 17dg(浦風磯風)指揮下ニ入ル」</ref>。11月1日、第二輸送隊はトラックを出港した<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.18</ref>。11月3日、第二輸送隊は[[カビエン]]の北60浬にて{{要出典|[[第13空軍 (アメリカ軍)|アメリカ第13空軍]]所属[[B-24 (航空機)|B-24爆撃機]]のべ40機|date=2020年9月}}の空襲を受け、[[機銃掃射]]により那珂は十四戦隊首席参謀以下戦死7名・重傷者20名という損害を出し、ほかに特設巡洋艦[[清澄丸 (特設巡洋艦)|清澄丸]]が被弾浸水して航行不能となった<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]pp.18-19「1129、{{coor dm|2|00|S|151|31|E|}}ニ於テ第一次B-24型19機来襲銃爆撃、当隊之ト交戦1220第二次B-24型21機再ビ来襲、之ト交戦敵機ハ爆撃セズ1254之ヲ撃退セリ」</ref><ref>[[#S1804十四戦隊日誌(5)]]p.44「那珂(司令部ヲ含ム)戦死 准士官以上1 下士官兵6/重軽傷 准士官以上8 下士官兵12」</ref>。

空襲後、五十鈴は清澄丸の曳航を実施、3隻(那珂、磯風、[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]《途中合流》)はその警戒と護衛にあたった<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(5)]]p.41『1215|磯風ハ清澄丸ノ左舷、那珂ハ右舷ヲ警戒セシム(略)1445|五十鈴ハ清澄丸ヲ曳航開始速力約七節、那珂ハ前方、磯風ハ後方警戒ニ当ラシム』</ref>。4日0時40分、[[秋月型駆逐艦]][[若月 (駆逐艦)|若月]]が合流するが、同艦は午前4時に分離してラバウルへ向かった<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.21『当隊救難警戒ノタメ若月ヲ急派セラレ4日0040来着当隊合同セシモNTFキデ032043ニ依リ4日0420分離「ラバウル」ニ先行セシム』</ref>。伊澤少将は健在艦2隻(浦風、護国丸)を分離、先行してラバウルに向かわせた<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)436" /><ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.21「四日1020 十七駆(浦風)護国丸「ラバウル」着」</ref>。

11月4日午前7時、カビエンに到着<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.21『四日0700 第十四戦隊、清澄丸(五十鈴曳航)、磯風、水無月「カビエン」泊地着』</ref>。[[ラバウル]]より到着した軽巡[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]を含め、各艦は清澄丸搭載物件と兵員を転載した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)436" />。同日、五十鈴と磯風は触雷して小破<ref>[[#軽巡二十五隻]]139頁</ref><ref>[[#佐藤 艦長(文庫)]]67-68頁</ref>。磯風はカビエンに残置された<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]pp.22-23『1629 出港時磯風推進器附近ニ触雷 磯風清澄丸ハ「カビエン」ニ残シ那珂、五十鈴ノミヲ率ヒ1630「ラバウル」ニ向ケ「カビエン」発』</ref>。ラバウルへは那珂、五十鈴、夕張、水無月が向かった<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)436" />。同日附をもって第17駆逐隊(磯風、浦風)は南東方面部隊に編入され、第十四戦隊の指揮下を離れた(磯風は内地回航、浦風はラバウル残留)<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.36「11月4日1817GF電令作第786号ニ依リ17駆(浦風、磯風)ヲNTB(南東方面部隊)YBニ編入」</ref>。

輸送船団は11月5日にラバウルに到着したが、ちょうどその日に[[ラバウル空襲]]があり、ラバウル停泊中の重巡洋艦部隊(指揮官[[栗田健男]]中将:旗艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]、[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]、[[第二水雷戦隊]]各艦)は大損害を受けた<ref>[[#佐藤 艦長(文庫)]]68-69頁</ref>。第十四戦隊(那珂、五十鈴)は被害なく対空戦闘を実施、撃墜15機(重複含む)を記録している<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.24「戦果 撃墜15-6機(重複アルベシ) 被害ナシ」</ref>。

11月6日に第十四戦隊と護国丸はラバウルを出発し、9日にトラックへ戻り原隊へ復帰した<ref>[[#軽巡二十五隻]]140頁</ref><ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.24『第十四戦隊及護国丸6日0430「トラック」ニ向ケ「ラバウル」発9日0015「トラック」着』</ref>。改編第三次輸送隊(野分、舞風、山雲、日枝丸、日威丸、神威丸)は11月3日にトラック泊地を出発したもののラバウル大規模空襲やアメリカ軍潜水艦に反復攻撃された事などから、命令によりトラック泊地へ引き返した<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.26『第三次輸送隊(野分、舞風、山雲、日枝丸)及神威丸、日威丸7日1100「トラック」着』</ref>。9日になり、第4駆逐隊(野分、舞風、山雲)は輸送船日枝丸を護衛して再びラバウルへ向かった<ref>[[#S1804十四戦隊日誌(4)]]p.28『改編丁四号輸送部隊(四駆、日枝丸)NTB電令作第128号(NTBキデ081047)ニ依リ9日0430「ラバウル」ニ向ケ「トラック」発』</ref>。

{{main|タラワの戦い}}
11月21日、アメリカ軍は[[ギルバート諸島]]・[[タラワ|タラワ環礁]]へ攻撃を開始、「タラワの戦い」が始まった<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)477">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]477頁「タラワ増援作戦部隊の編成」</ref>。連合艦隊は第四艦隊長官を指揮官として、タラワ増援部隊を編成した。支援部隊(第四戦隊、第七戦隊、第八戦隊、第二水雷戦隊)、南洋方面航空部隊、補給部隊(第十駆逐隊、東亜丸、富士山丸)と共に、輸送部隊(指揮官伊澤少将:第十四戦隊《那珂、五十鈴》、長良、第6駆逐隊《雷、響》)、先遣隊潜水艦9隻という戦力が作戦に組み込まれた<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)477" />。21日、第十四戦隊はトラックを出発、22日に[[ポンペイ島|ポナペ島]]に到着して陸軍部隊を収容、25日にクェゼリンに到着した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)481">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]481頁「在ポナペ甲支隊のギルバートへの増援準備」</ref>。26日までに軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]、第6駆逐隊([[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]])はクェゼリンに集結、第十四戦隊(那珂)の指揮下に入った<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)481" />。こうしてギルバート方面への逆上陸準備は完了した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)481" />が、タラワは既にアメリカ軍により陥落させられており、逆上陸作戦は実行されなかった<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)488">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]488-490頁「ギルバートへの増援逆上陸の中止と甲支隊及び南洋第一支隊のクサイ、ミレへの転進」</ref>。タラワの陥落と、並行して勃発した[[ギルバート諸島沖航空戦]]の敗北により、日本軍はこの方面における[[制海権]]も[[制空権]]も失いかけていた<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]594頁「彼我の死傷者数及びギルバート作戦の及ぼす影響」</ref>。

このような状況下、陸軍部隊の一部を各方面に転用することになり、3隻(那珂、五十鈴、雷)は28日にクェゼリン発、12月1日にミレへ到着した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)488" />。12月5日、アメリカ軍空母機動部隊艦載機がルオットを襲撃し、軽巡2隻(五十鈴、長良)を損傷させ、多数の輸送船を撃沈・撃破した([[マーシャル諸島沖航空戦]])<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)508">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]508-509頁「米機動部隊マーシャル来襲」</ref>。損傷艦はトラック泊地へ回航された<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)508" />。2隻の損傷により随伴艦は雷のみとなり、2隻(那珂、雷)はポナペ島の陸軍部隊を[[コスラエ州|クサイ島(コスラエ島)]]へ転進させる輸送作戦に従事する<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)488" />。輸送任務終了後の10日、2隻はトラックに到着してマーシャル方面での行動を終えた<ref>[[#戦隊行動調書]]p.14『11.11〜12.10「マーシャル」方面陸軍輸送』</ref>。

12月17日、空母[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]がトラック泊地に到着、同艦から基地物件を受け入れた<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)485">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]485頁</ref>。19日にトラック泊地を出発し、22日にルオット着<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)485" />。その後、アメリカ軍機の空襲によりサイパン輸送作戦は中止、24日にトラック泊地へ戻った<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]485、514頁</ref>。

=== 沈没 ===
[[1944年]](昭和19年)1月10日、第十四戦隊司令官は[[伊藤賢三]]少将から[[清田孝彦]]少将に交代した<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072095200|昭和19年1月10日(発令1月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1296号 p.45}}</ref>。[[松永市郎]](当時は那珂通信長)によれば、那珂は内地帰投の予定だった<ref>[[#松永、ネイビー]]157頁</ref>。2月16日にアメリカ潜水艦[[スケート (潜水艦)|スケート]]の雷撃で、内地へ向け回航中の軽巡洋艦[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]がトラック泊地北方で航行不能となり<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)623">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]623頁『那珂の戦闘状況』</ref>、2月17日午前1時45分に沈没した<ref>[[#S1812十戦隊日誌(3)]]p.6『(リ)十六日阿賀野「トラック」発佐世保回航中一六四五北緯十度十分東経百五十一度四十分ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ二本命中十七日〇一四五沈没』</ref>。那珂は阿賀野救援の下令を受けてトラック泊地を出港したが<ref>[[#S1812十戦隊日誌(3)]]p.19「UNB機密第161842番電 UNB信電令第37號 一.十四戰隊司令官ハ那珂ヲ率ヰ準備出来次第出港阿賀野ノ救難ニ任ズベシ/二.第四工作部長ハ救難隊ヲ那珂ニ乗艦セシメ右救難ニ関シ十四戰隊司令官ノ指揮ヲ受ケシムベシ/三.四根司令官ハ艦艇航空機ヲシテ之ガ警戒ニ任ゼレムベシ」</ref>、途中で阿賀野沈没の連絡を受けてトラック泊地に引き返した<ref>[[#軽巡二十五隻]]142頁</ref>。なお、阿賀野の生存者は駆逐艦追風や哨戒艇に救助されている<ref>[[#軽巡二十五隻]]337頁</ref>。


{{main|トラック島空襲}}
{{main|トラック島空襲}}
2月17日未明、アメリカ海軍[[第38任務部隊|第58任務部隊]]がトラック島を空襲した。トラックへ入泊寸前(北水道を航行中)だった那珂は空襲警報を受けて反転、外洋に出ようとした<ref name="軽巡二十五隻143">[[#軽巡二十五隻]]143頁</ref>。だが、既にアメリカ軍空母機動部隊に捕捉されており、午前7時に爆装の[[艦上攻撃機]](艦攻)が約20機、9時に[[艦上爆撃機]](艦爆)が十数機、正午に艦爆・艦攻約20機、午後2時に艦爆4機の反復攻撃を受けてしまう<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)623" />。当時の天候は全曇でうねりが高く、アメリカ軍機は雲を利用して攻撃をかけてきたという<ref name="軽巡二十五隻143" />。空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]および[[カウペンス (空母)|カウペンス]] 艦載機部隊の波状攻撃を受けた<ref>[[#軽巡二十五隻]]311頁</ref>。魚雷1本と爆弾1発が那珂の艦中央部に命中<ref name="軽巡二十五隻146">[[#軽巡二十五隻]]146-147頁「死闘九時間の果てに」</ref>、艦前部(艦首から約50m、約1/4)を喪失した<ref name="軽巡二十五隻146" /><ref name="名取短艇122">[[#名取短艇隊]]122頁</ref>。前部乗組員は総員退去となり、脱出者は[[カッターボート]]で那珂の後部へ移動した<ref name="名取短艇122" />。対空戦闘を目撃していた哨戒艇が「那珂は[[艦橋]]切断、今なお奮戦中」と打電するほどの対空戦闘を続けたが再び直撃弾を受けて浸水が進み、那珂は午後2時頃に沈没した<ref name="軽巡二十五隻146" />。地点{{coord|07|15|N|151|15|E}}<ref>[[#三菱、20話]]5頁『その後の「那珂」の運命』</ref>。約240人が戦死し、末沢慶政艦長を含む210人は哨戒艇に救助された。トラック泊地北水道周辺では、空襲と米戦艦部隊の艦砲射撃により第4215船団より3隻(練習巡洋艦[[香取 (練習巡洋艦)|香取]]、駆逐艦[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]、特設巡洋艦[[赤城丸 (特設巡洋艦)|赤城丸]])が沈没、駆逐艦1隻([[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]])のみサイパン方面へ脱出した<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]622頁「四二一五船団の戦闘状況」</ref>。第4215船団と同時刻に北水道を通過した第27駆逐隊([[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]])は空襲により損傷しつつもパラオ方面へ脱出していった<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]624頁「第二十七駆逐隊の戦闘情況」</ref>。
[[1944年]]2月16日夕方、米潜水艦「[[スケート (潜水艦)|スケート]]」の雷撃により航行不能となった「[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]」の救援のためにトラック島を出港したが、途中で「阿賀野」沈没の連絡を受けてトラックに引き返した。その帰途の17日未明、米海軍[[第38任務部隊|第58任務部隊]]がトラック島を空襲した。「那珂」は南へ迂回して攻撃を避けながら入港しようとしていたが、トラック島の西方35海里で[[航空母艦]]「[[バンカー・ヒル (空母)|バンカー・ヒル]]」 (''USS Bunker Hill, CV-17'') および「[[カウペンス (空母)|カウペンス]]」 (''USS Cowpens, CV-25'') 艦載機部隊に攻撃された。午後2時頃、魚雷と爆弾を受けて{{coord|07|15|N|151|15|E}}の地点で沈没、240人が戦死した。末沢慶政艦長を含む210人は哨戒艇に救助された。


2月28日、末沢慶政大佐は那珂艦長の職務を解かれた<ref name="jirei1348">{{アジア歴史資料センター|C13072096000|昭和19年2月28日(発令2月28日付)海軍辞令公報(部内限)第1348号 p.34}}</ref>。
那珂は1944年3月31日に除籍された。

3月4日、第十四戦隊は解隊され、清田少将(十四戦隊司令官)は横須賀鎮守府附となった<ref>[[#戦隊行動調書]]p.14「14S|三.四 解隊」</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072096400|昭和19年3月6日(発令3月4日付)海軍辞令公報(部内限)第1356号 p.21}}</ref>。

3月31日、トラック島空襲で沈没した艦艇群(那珂、阿賀野、舞風、[[太刀風 (駆逐艦)|太刀風]]、[[追風 (2代神風型駆逐艦)|追風]]、[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]])等は同日附で除籍された<ref>[[#内令昭和19年3月(5)]]p.41「内令第五百十三号|横須賀鎮守府在籍 <strong>軍艦 那珂</strong> 軍艦 香取|呉鎮守府在籍 軍艦 阿賀野 右帝國海軍籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 舞風|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雲|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 峯風 驅逐艦 追風 驅逐艦 文月 驅逐艦 海風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 太刀風|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 [[嶋田繁太郎]]」</ref>。また、川内は[[ブーゲンビル島沖海戦]]、神通は[[コロンバンガラ島沖海戦]]で既に沈没しており、那珂の沈没により川内型軽巡洋艦3隻は全隻喪失、艦艇類別等級別表からも除籍された<ref>[[#内令昭和19年3月(5)]]p.21『内令第四百九十九号 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等ノ部中川内型ノ項ヲ、同阿賀野型ノ項中阿賀野、ヲ、同練習巡洋艦ノ項中香取、ヲ削ル|驅逐艦一等峯風型ノ項中峯風、太刀風、ヲ、同神風型ノ項中追風、ヲ、同卯月型ノ項中文月、ヲ、同初雪型ノ項中白雲、ヲ、同白露型ノ項中海風、ヲ、同不知火型ノ項中「舞風、」ヲ削ル|驅潜艇、第十四号型ノ項中第二十二号、「第四十号、」ヲ削ル』</ref>。


==歴代艦長==
==歴代艦長==
<small>※『艦長たちの軍艦史』166-169頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。</small>
<small>※『艦長たちの軍艦史』166-169頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『[[官報]]』に基づく。</small>
===艤装員長===
===艤装員長===
#井上肇治 大佐:1925年4月15日 -
#[[井上肇治]] 大佐:1925年4月15日 -


===艦長===
===艦長===
#井上肇治 大佐:1925年11月30日 - 1926年12月1日
#[[井上肇治]]大佐:1925年11月30日 - 1926年12月1日
#[[中村亀三郎]] 大佐:1926年12月1日 - 1927年4月5日
#[[中村亀三郎]]大佐:1926年12月1日 - 1927年4月5日
#三戸基介 大佐:1927年4月5日 - 1927年11月1日
#[[三戸基介]]大佐:1927年4月5日 - 1927年11月1日
#毛内効 大佐:1927年11月1日 - 1928年12月10日
#[[毛内効]]大佐:1927年11月1日 - 1928年12月10日
#伴次郎 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
#[[伴次郎]]大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
#[[南雲忠一]] 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
#[[南雲忠一]]大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
#山田定男 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
#[[山田定男]]大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
#山本弘毅 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
#[[山本弘毅]]大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
#園田滋 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
#[[園田滋]]大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
#[[後藤英次]] 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
#[[後藤英次]]大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
#[[阿部嘉輔]] 大佐:1934年11月15日 - 1935年5月25日
#[[阿部嘉輔]]大佐:1934年11月15日 - 1935年5月25日
#[[醍醐忠重]] 大佐:1935年5月25日 - 11月15日
#[[醍醐忠重]]大佐:1935年5月25日 - 1935年11月15日
#[[五藤存知]] 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
#[[五藤存知]]大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
#[[阿部孝壮]] 大佐:1936年12月1日 -
#[[阿部孝壮]]大佐:1936年12月1日 - 1937年8月2日
#中邑元司 大佐:1937年8月2日 -
#[[中邑元司]]大佐:1937年8月2日 - 1937年12月1日
#[[河野千万城]] 大佐:1937年12月1日 -
#[[河野千万城]]大佐:1937年12月1日 - 1938年11月15日
#(兼)[[宮里秀徳]] 大佐:1938年11月15日 -
#(兼)[[宮里秀徳]]大佐:1938年11月15日 - 1938年12月15日
#高間完 大佐:1938年12月15日 -
#[[高間完]]大佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日
#[[秋山輝男]] 大佐:1939年11月15日 -
#[[秋山輝男]]大佐:1939年11月15日 - 1940年10月15日
#[[伊集院松治]] 大佐:1940年10月15日 -
#[[伊集院松治]]大佐:1940年10月15日 - 1941年8月11日
#田原吉興 大佐:1941年8月11日 -
#[[田原吉興]]大佐:1941年8月11日 -
#中里隆治 大佐:1942年7月10日 -
#[[中里隆治]]大佐:1942年7月10日 -
#高木伴治郎 大佐:1942年10月1日 -
#[[高木伴治郎]]大佐:1942年10月1日 -
#今和泉喜次郎 大佐:1943年3月25日 -
#[[今和泉喜次郎]]大佐:1943年3月25日 -
#末沢慶政 大佐:1944年1月7日 -
#[[末沢慶政]]大佐:1944年1月7日 - 1944年2月28日<ref name="jirei1348" />


== 同型艦 ==
== 戦後 ==
艦内神社であった大洗磯前神社には1983年(昭和58年)に忠魂碑が建てられ、那珂が戦没した2月17日には慰霊祭が開催されている<ref name=大洗磯前神社/><ref name=産経20240217/>。
* [[川内 (軽巡洋艦)|川内]] - [[神通 (軽巡洋艦)|神通]]


<gallery>
== 脚注 ==
File:那珂慰霊碑全体像.jpg| 大洗磯前神社にある軍艦那珂忠魂碑<br />(2013年11月4日撮影)
{{reflist}}
File:那珂慰霊碑大洗磯前神社.jpg| 忠魂碑横の艦影、艦歴、乗組員名簿<br />(2013年11月4日撮影)
File:Sendai class light cruiser.jpg| アメリカ海軍資料にある川内型軽巡の写真
</gallery>


==参考文献==
== 注釈 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
== 出典 ==
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030112300|title=昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)|ref=昭和17年4月~4水戦日誌(1)}}
{{Reflist|2}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030112400|title=昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)|ref=昭和17年4月~4水戦日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030112500|title=昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)|ref=昭和17年4月~4水戦日誌(3)}}


==参考文献==
*木俣滋郎、『日本軽巡戦史』、図書出版社、1989年
* {{Cite book|和書|author=五十嵐邁|year=1978|month=11|title=黒き日本海に消ゆ {{small|海軍・美保関遭難事件}}|publisher=講談社|isbn=|ref=黒き日本海に消ゆ}}
*海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
* 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、[[第一法規出版]]、1995年。
*外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
* [[木俣滋郎]]『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
*木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
* {{Cite book|和書|author=佐藤和正|authorlink=佐藤和正|year=1993|title=艦長たちの太平洋戦争 {{small|34人の艦長が語った勇者の条件}}|publisher=[[光人社]]NF文庫|isbn=47698-2009-7|ref=佐藤 艦長(文庫)}}
** 独創と捨て身 <軽巡洋艦那珂艦長・今和泉喜次郎大佐の証言>(太平洋戦争時、第二潜水隊司令、第一潜水隊司令、那珂艦長、第十六潜水隊司令等)
* 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
* {{Cite book|和書|author=原為一|coauthors=|year=2011|month=7|origyear=1955|title=帝国海軍の最後|publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-24557-7|ref=原(復刻版)}}
* {{Cite book|和書|author=原為一ほか|authorlink=原為一|year=2014|month=12|title=軽巡二十五隻 {{small|駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1580-8|ref=軽巡二十五隻}}
**{{small|当時「阿賀野」通信科員・海軍一等兵曹}}中村卓司『損傷艦阿賀野紅蓮の炎のなかの絶叫 {{small|ブーゲンビル島沖海戦からラバウル大空襲そして被雷沈没の最後}}』
**{{small|当時那珂二十四代目艦長・海軍大佐}}今和泉喜次郎『十四戦隊旗艦那珂ラバウルに健在なり』
**{{small|当時那珂二十五代目艦長・海軍大佐}}末沢慶政『軽巡那珂は艦橋切断今なお奮戦中 {{small|トラック大空襲下、死闘九時間の果てに沈没した鬼軽巡の最後}}』
* {{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|coauthors=|year=1992|month=10|origyear=|title=日本巡洋艦物語 {{smaller|福井静夫著作集/第四巻-軍艦七十五年回想記}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0610-8|ref=日本巡洋艦物語}}
* {{Cite book|和書|author=レオンス・ペイヤール|coauthors=長塚隆二訳|title=潜水艦戦争 {{small|1939-1945}}|publisher=[[早川書房]]|year=1973|month=12|ISBN=|ref=潜水艦戦争}}
*[[防衛庁]][[防衛研修所]]戦史室『[https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=024 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦]』[[朝雲新聞社]]
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史叢書26 {{small|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書26海軍進攻作戦}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1973|month=2|title=戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) {{small|昭和十七年六月以降}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)}}
* {{Cite book|和書|author=松永市郎|authorlink=松永市郎|year=1994|month=2|title=思い出のネイビーブルー {{small|私の海軍生活記}}|chapter=第三部 戦争参加|publisher=光人社NF文庫|ref=松永、ネイビー}} <br />松永(兵68期)は重巡[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]沈没後、第六艦隊附を経て昭和18年11月より那珂通信長。那珂沈没から生還後、軽巡[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]配属となり同艦沈没から生還。空母[[葛城 (空母)|葛城]]通信長。
* {{Cite book|和書|author=松永市郎|authorlink=松永市郎|year=2009|month=7||origyear=1984|title=先任将校 {{small|軍艦名取短艇隊帰投せり}}|chapter=|publisher=光人社NF文庫|ref=名取短艇隊}}
* 横浜製作所100年史編さん委員会『三菱重工横浜製作所百年史』三菱重工業株式会社横浜製作所、1992年。
* {{Cite book|和書|author=三菱重工業株式会社横浜製作所|chapter=第1話 二等巡洋艦「那珂」|title=20話でつづる名船の生涯|publisher=三菱重工業株式会社横浜製作所総務勤労課|year=2013|month=8|origyear=|ISBN=|ref=三菱、20話}}
* {{Cite book|和書|author=吉村昭|authorlink=吉村昭|coauthors=|year=1981|month=4|origyear=1970|title=空白の戦記|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-111709-6|ref=空白の戦記}}
*[[丸 (雑誌)|雑誌「丸」]]編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 15 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型』光人社、1997年、ISBN 4-7698-0816-X
*:36-38ページ、伊達久「軽巡洋艦『川内・神通・那珂』行動年表」
*[https://books.google.co.jp/books?vid=ISBN1428915869&redir_esc=y&hl=ja The Army Air Forces in World War II, Volume One: Plans and Early Operations, January 1939 to August 1942]
*『[[官報]]』
*『[[官報]]』
*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]

**{{Cite book|和書|author=海軍有終会編|year=1935|month=11|title=幕末以降帝国軍艦写真と史実|publisher=海軍有終会|ref=幕末以降帝国軍艦写真と史実}}
==画像集==
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1935|month=5|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版|publisher=海軍研究社|ref=ポケット海軍年鑑(1935)}}
{{Commons|Category:Naka (ship, 1925)}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1937|month=2|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版|publisher=海軍研究社|ref=ポケット海軍年鑑(1937)}}
<gallery>
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1940|month=7|title=日本軍艦集 2600年版|publisher=海軍研究社|ref=日本軍艦集2600年版}}
File:Sendai class light cruiser.jpg| アメリカ側UPの川内型写真
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]([[防衛省]][[防衛研究所]])
File:那珂慰霊碑大洗磯前神社.jpg| 茨城県[[大洗磯前神社]]の慰霊碑、艦影・艦歴・乗組員名簿2013.11/04撮影
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051772000|title=昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書|ref=戦隊行動調書}}
File:那珂慰霊碑全体像.jpg| 慰霊碑全体像
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051365100|title=川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(3)|ref=川内神通阿武隈那珂製造一件(3)}}
</gallery>
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051365200|title=川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(4)|ref=川内神通阿武隈那珂製造一件(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08050999800|title=大正12年公文備考 変災災害付属巻5/東京海軍監督報告(1)|ref=東京海軍監督報告(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051006800|title=大正12年公文備考 変災災害付属巻8/連合艦隊第1艦隊(9)|ref=連合艦隊第1艦隊(9)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C04015668100|title=神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(1)|ref=神通蕨那珂葦衝突報告(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C04015668200|title=神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(2)|ref=神通蕨那珂葦衝突報告(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C04015668300|title=神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(3)|ref=神通蕨那珂葦衝突報告(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C04015668400|title=神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(4)|ref=神通蕨那珂葦衝突報告(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C04015668500|title=神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(5)|ref=神通蕨那珂葦衝突報告(5)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C04015668600|title=神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(6)|ref=神通蕨那珂葦衝突報告(6)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C04015668700|title=神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(7)|ref=神通蕨那珂葦衝突報告(7)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C05034650000|title=赤軍4水戦機密第6号 10.9.29夕霧、初雪遭難事件報告(1)|ref=夕霧初雪遭難事件報告(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C05034650100|title=赤軍4水戦機密第6号 10.9.29夕霧、初雪遭難事件報告(2)|ref=夕霧初雪遭難事件報告(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C05034650200|title=赤軍4水戦機密第6号 10.9.29夕霧、初雪遭難事件報告(3)|ref=夕霧初雪遭難事件報告(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C05034651200|title=11駆機密第101号の13 10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(1)|ref=初雪遭難詳報(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C05034651200|title=11駆機密第101号の13 10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(2)|ref=初雪遭難詳報(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C05034651200|title=11駆機密第101号の13 10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(3)|ref=初雪遭難詳報(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C05034651200|title=11駆機密第101号の13 10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(4)|ref=初雪遭難詳報(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C05034651200|title=11駆機密第101号の13 10.10.10駆逐艦初雪遭難詳報(5)|ref=初雪遭難詳報(5)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C13071974300|title=昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護|ref=艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C13072003500|title=昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿2.3|ref=艦艇類別等級(昭和16年12月31日)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C14121196200|title=昭和17年度 帝国海軍戦時編制(内示案) 昭和16.9.12/ 昭和17年度帝国海軍戦時編制/附表|ref=昭和17年度帝国海軍戦時編制}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C14121196500|title=昭和17年度 帝国海軍戦時編制(内示案) 昭和16.9.12/ 昭和17年度戦時駆逐隊・潜水隊・水雷隊・掃海隊・驅潛隊・通信隊・航空隊編制予定表 昭和17年度警備隊・防備隊附属艦艇及防備機関編制予定表 昭和17年度戦時艦船飛行機搭載予定表/第1表~第9表|ref=昭和17年戦時編制・駆逐隊他}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030041200|title=昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌第3戦隊(3)|ref=昭和17年1月~第3戦隊日誌(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030080200|title=昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(1)|ref=S1703一水戦日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030080300|title=昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(2)|ref=S1703一水戦日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030110700|title=昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)|ref=S170208四水戦戦闘詳報(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030111600|title=昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)|ref=S1703四水戦日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030111700|title=昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)|ref=S1703四水戦日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030111800|title=昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)|ref=S1703四水戦日誌(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030111900|title=昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)|ref=S1703四水戦日誌(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030112000|title=昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)|ref=S1703四水戦日誌(5)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030112300|title=昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)|ref=S1704四水戦日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030112400|title=昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)|ref=S1704四水戦日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030112500|title=昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)|ref=S1704四水戦日誌(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030100600|title=昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S1801二水戦日誌(5)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030101100|title=昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1806二水戦日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030653900|title=昭和18年8月1日~昭和18年11月30日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌 南海守備隊輸送 丁2.4号輸送(1)|ref=S1808護国丸日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030654000|title=昭和18年8月1日~昭和18年11月30日 特設巡洋艦護国丸戦時日誌 南海守備隊輸送 丁2.4号輸送(2)|ref=S1808護国丸日誌(2)}}
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== 関連項目 ==
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* [[5500トン型軽巡洋艦]]
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==外部リンク==
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* [http://www.combinedfleet.com/naka_t.htm Tabular record of movement]
* [http://www.combinedfleet.com/naka_t.htm Tabular record of movement]
* [http://www.youtube.com/watch?v=LRAjb3RKbII HD Historic Archival Stock Footage WWII Color - GUN CAMERA STRAFING PACIFIC THEATER] - 米軍艦載機のガンカメラで撮影された、トラック空襲時の「那珂」の映像(18秒~1分9秒)
* [https://www.youtube.com/watch?v=LRAjb3RKbII HD Historic Archival Stock Footage WWII Color - GUN CAMERA STRAFING PACIFIC THEATER]米軍艦載機のガンカメラで撮影された、トラック空襲時の「那珂」の映像(18秒〜1分9秒)



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那珂
就役直前、公試時の那珂 (1925年11月、横浜での撮影)
就役直前、公試時の那珂
(1925年11月、横浜での撮影)
基本情報
建造所 横浜船渠[1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 二等巡洋艦軽巡洋艦
級名 川内型
艦歴
発注 1920年計画
起工 1922年6月10日(公表日)[1]
1922年6月14日(実際)[2][3]
進水 1925年3月24日[1]
竣工 1925年11月30日[1]
最期 1944年2月17日沈没
除籍 1944年3月31日
要目
基準排水量 5,195英トン
常備排水量 5,595英トン
全長 162.46m
最大幅 14.2m
吃水 4.8m(常備)
主機 三菱パーソンズ式オールギアードタービン4基4軸
出力 90,000馬力
速力 35.3ノット
乗員 竣工時定員446名[4]
兵装

竣工時
50口径14cm単装砲7基7門
61cm連装魚雷発射管4基8門
40口径8cm単装高角砲2基2門
6.5mm単装機銃2挺
九三式機雷56個
1941年12月
50口径14cm単装砲7門
61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)
九六式25mm連装機銃2基4門
保式13mm四連装機銃1基4門
7.7mm単装機銃2挺
呉式二号三型改一射出機1基
水上機1機

1943年4月
50口径14cm単装砲6門
61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)
八九式12.7cm連装高角砲1基2門
九六式25mm三連装機銃2基6門
九六式25mm連装機銃2基4門
九三式13mm連装機銃1基2門
九四式爆雷投射機1基
爆雷投下軌条2基
呉式二号三型改一射出機1基
水上機1機
21号電探
装甲 水線64mm、甲板29mm
搭載機 1機
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那珂(なか)は、日本海軍軽巡洋艦[5]川内型軽巡洋艦の3番艦[6]。艦名は栃木県から茨城県へと流れて太平洋に至る那珂川に因んで命名された[7]進水時に発行された絵葉書には那珂川と、茨城県の名所の一つ筑波山が描かれた[8]

艦内神社は、那珂川河口に近い大洗磯前神社が祀られており、その境内には戦没乗組員を追悼する忠魂碑がある[9][10]

太平洋戦争序盤は第四水雷戦隊旗艦として活動した。1942年昭和17年)4月のクリスマス島攻略作戦で損傷。復帰後は第十四戦隊旗艦として輸送・護衛任務に従事した。1944年(昭和19年)2月17日、軽巡洋艦阿賀野救援のため出動したところトラック島空襲に遭遇、アメリカ海軍空母機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没した[11]

艦歴

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建造経緯

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大正時代の日本海軍は、排水量7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷[12]1921年(大正10年)3月19日、建造予定の二等巡洋艦4隻(川内型軽巡洋艦)に、それぞれ加古、那珂川内神通の艦名が与えられる[13]。6月9日、4隻(加古、那珂、川内、神通)は二等巡洋艦として艦艇類別等級別表に登録された[14]。 同年9月、日本海軍は知床型給油艦佐多を建造した横浜船渠(後の三菱重工業横浜製作所)に二等巡洋艦1隻(那珂)と砲艦1隻を発注した[8]

川内は1922年(大正11年)2月26日に長崎三菱造船所[15]、那珂は横濱船渠で同年6月10日[1][8] もしくは6月14日[2]に、神通は同年8月4日に神戸川崎造船所[16]、それぞれ起工した。

だが佐世保海軍工廠で建造予定の川内型軽巡加古は同年3月に建造中止の通達があり[17]、10月9日に一等巡洋艦加古型(古鷹型)加古として神戸川崎造船所で建造されることが正式に決まった[18]。これをもって加古は二等巡洋艦(川内型軽巡)から一等巡洋艦に類別変更され、川内型軽巡洋艦は3隻(那珂、川内、神通)となった[19]

前述のように、那珂は加古型軽巡の2番艦(加古、那珂、川内、神通)として横浜船渠で建造が始まった[1]が、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災[20]。当初の火災は鎮火したものの、桜木町方面からの延焼により横浜船渠は施設の大部分を焼失した[20]。同年10月10日の進水(横浜船渠側によれば9月2日進水計画)[21]を予定して建造最終段階の船体は、盤木の焼失により船台上に落下して右に傾いた[22][23]。復旧の見込みなしと判定される[21][24]。また周辺の工場も大被害を受けた[注釈 1][25]

日本海軍側は他社に再建造させる意向だったが、横浜船渠側の要請により、同社で再建造することが決まる[26]。旧那珂は解体の上[注釈 2]、川内型3番艦として改めて起工し、1924年(大正13年)5月24日に工事が再開された[26][27]

1925年(大正14年)3月24日、海軍大臣代理安保清種海軍次官列席のもと[26]、午後4時30分に進水した[28]。最初の起工から約3年が経過した11月30日に就役した[1][26]。その際に艦首形状をスプーン型からダブル・カーブド型に改めている。

呉鎮守府[29]となり、1925年(大正14年)12月5日、第一艦隊第三戦隊に編入された[29]。翌1926年(大正15年)12月1日には、第二艦隊第五戦隊に編入された[29]

美保関事件

[編集]

1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖の日本海で行われた夜間無灯火演習において、那珂は第五戦隊を編成した(うち第1小隊は重巡洋艦加古」「古鷹」、第2小隊は「神通」「那珂」)[30]。また那珂には観戦武官として伏見宮博義王が乗艦した[31]

夜間演習では、第一戦隊(戦艦長門」「陸奥」)、第三戦隊(軽巡「鬼怒」「阿武隈」)、第四戦隊(戦艦「金剛」「比叡」「伊勢」「日向」)、第六戦隊(軽巡「由良」「龍田」)を仮想敵にみたてて接近中[32]、戦艦伊勢および軽巡由良、龍田等から探照灯照射を受けた第2小隊(神通、那珂)は距離をとるべく右に転舵[33]。すると2隻は後続していた第五戦隊第1小隊(「加古」「古鷹」)および第二水雷戦隊(旗艦:軽巡「夕張」)、第26駆逐隊、第27駆逐隊(「」「」「」「」)の一群に突っ込んだ[34]。神通と、第27駆逐隊2番艦の蕨が衝突(蕨は沈没)。それを避けようとして左に転舵した那珂は、衝突艦を避けようとして右に転舵していた同駆逐隊3番艦の葦の左舷後部に衝突し、両艦ともに大破した。

自力航行可能だった那珂は比叡と古鷹に護衛され舞鶴へ回航され、損傷激しい神通は重巡加古による護衛下で金剛に曳航され、葦は阿武隈に曳航されて、それぞれ帰投した[35]

のちに、事件当時の神通艦長水城圭次大佐は自決した。これを美保関事件という。修理にあたって神通の艦首は那珂と同様の形状に改められた[25]

1928年(昭和3年)12月10日、那珂は予備艦となった[36]。1929年(昭和4年)11月30日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[36]。1930年(昭和5年)12月1日、第一艦隊第三戦隊に編入[36]。1932年(昭和7年)2月2日、第三艦隊第三戦隊に編入[36]。同年3月20日、再び予備艦となった[36]。1933年(昭和8年)11月15日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入[36]。1934年(昭和9年)11月15日付で横須賀鎮守府に転籍となるとともに警備練習艦となった[36]

第四艦隊事件

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1935年 (昭和10年) 9月25-27日、那珂は第四艦隊事件に遭遇した。第四水雷戦隊旗艦那珂は第11駆逐隊(初雪白雪)、第12駆逐隊(白雲薄雲叢雲)、第7駆逐隊()、第8駆逐隊(天霧夕霧)に所属する駆逐艦群を率いて、岩手県沖の太平洋で演習を行なっていた[37]。9月25日、初雪で溺者1名が発生、那珂は「此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ」と各艦に注意した[38]

9月26日夕刻、荒天により夕霧が艦首を切断(行方不明27名)、その救援中に初雪よりSOSが発せられた(艦首切断行方不明24名)。夜が明けたのち夕霧は軽巡大井に、初雪は重巡羽黒に曳航され、青森県大湊軍港へ向かった[39]。この事件で那珂は若干の損傷を受けた[40]

1935年(昭和10年)11月15日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入[36]。1936年(昭和11年)12月1日、予備艦となった[36]。1937年(昭和12年)12月15日、第一艦隊第八戦隊に編入[36]。1938年(昭和13年)12月15日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入された[36]

1939年(昭和14年)11月15日、第二水雷戦隊旗艦は那珂から神通に変更された[41]。那珂は新編の第四水雷戦隊に編入された。11月25日、第一水雷戦隊司令官栗田健男少将は第四水雷戦隊司令官に任命された[42]。栗田は11月29日より那珂に将旗を掲げた[43]

1941年(昭和16年)には姉妹艦の神通と共に雷装の強化が行われ、九三式酸素魚雷の発射能力を得た。

第四水雷戦隊

[編集]

1941年(昭和16年)11月26日、那珂は第四水雷戦隊(司令官:西村祥治少将)の旗艦となった。当時の日本は対米英蘭開戦(太平洋戦争)を決意しており、第四水雷戦隊には以下の各駆逐隊が所属していた。

だが第4駆逐隊は、東南アジア攻略を担当する南方部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官が率いる南方部隊本隊(旗艦愛宕)に引き抜かれる形で同部隊に所属しており、第四水雷戦隊の直率下にはなかった[44]

なお、太平洋戦争が起きなければ第2駆逐隊と第24駆逐隊は第四水雷戦隊(四水戦)から第一水雷戦隊(旗艦阿武隈)へ転出[45]、その代わりに朝潮型駆逐艦4隻の第8駆逐隊(朝潮満潮大潮荒潮)および夕雲型駆逐艦を基幹とする第10駆逐隊(秋雲夕雲巻雲風雲)が四水戦に配備され那珂の指揮下に入る予定であった[46][47]

太平洋戦争緒戦では、米領フィリピン占領をめざす比島部隊第二急襲隊の一隻としてビガン攻略に参加した[48]。第四水雷戦隊の一部(那珂および駆逐艦村雨、夕立、春雨、五月雨、朝雲、夏雲、峯雲)などからなる第二急襲隊は上陸部隊を乗せた船団を護衛して12月7日に台湾馬公より出撃した[49]。12月10日に目的地に到着し、上陸部隊は飛行場を占領した[50]。同日、アメリカ陸軍B-17爆撃機8機とP-40EおよびP-35戦闘機がビガンに来襲[51]第十号掃海艇が沈没するなど日本側の艦船に被害が生じた[52]。那珂は至近弾により死者2名負傷者7名を出した[52]。12月12日に第四水雷戦隊はビガンを離れた[53]。馬公へ戻る途中、12月13日にアメリカ潜水艦セイルフィッシュを発見し、那珂も爆雷攻撃を行った[54]

続いてリンガエン湾への上陸作戦に参加。上陸部隊を運ぶ船団は3つに別れ、それぞれ第一護衛隊から第三護衛隊が護衛する計画であった[55]。第四駆逐隊、第二十四駆逐隊および山雲を除く第四水雷戦隊は漁船5隻と共に第二護衛隊を編成した[56]。第二護衛隊は輸送船32隻を護衛して12月18日に馬公より出撃[57]。3つの部隊は途中で合流してリンガエン湾へと向かい、12月22日に船団は投錨して上陸が行われた[58]。海上では潜水艦の発見が相次ぎ、那珂、村雨、五月雨も潜水艦を探知して攻撃を行った[59]。同日、第四水雷戦隊は馬公へ向かった[60]

12月26日に比島部隊の大半は、オランダ領東インド制圧を担う蘭印部隊となり、第四駆逐隊を除く第四水雷戦隊などは西方攻略部隊の第一護衛隊を編成[61]。蘭印攻略部隊はダバオに集合予定で、那珂は1942年1月2日にダバオに到着した[62]。那珂はタラカンバリクパパン攻略に参加した。

タラカン攻略部隊は1月7日にダバオから出撃し、1月10日にタラカンに到着した[63]。1月12日にタラカンの守備隊司令官より降伏の申し出があった[64]。これを受け掃海隊が掃海作業に向かったが、第十三号掃海艇第十四号掃海艇砲台からの砲撃により撃沈された[65]。この戦闘は那珂や第二駆逐隊から目撃されていたが、敵が降伏したものと思っていたなかで起きた短時間の戦闘であったことや、機雷が敷設されている場所であったことから救援は行なえなかった[66]

続いてバリクパパン攻略が行われた。攻略部隊は1月21日にタラカンより出撃し、途中空襲で被害が出たものの1月23日に目的地に到着した[67]。24日0040分、悪天候のため浮上中であったオランダ海軍の潜水艦K XVIIIが那珂に対して魚雷4本を発射した[68][出典無効]。00時45分、那珂南西約1kmに停泊していた輸送船敦賀丸が被雷して沈没[69]。西村提督は那珂と駆逐隊および哨戒艇部隊に対しK XVIIIの追跡を命じたが、失敗に終わった。この後、那珂および第2駆逐隊・第9駆逐隊は泊地東海面の哨戒を実施するが、北上してきたアメリカ海軍第5任務部隊の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、ポープパロットポール・ジョーンズ)が、護衛のいなくなった船団を攻撃して輸送船を撃沈している事に気付かなかった[69]。米艦隊が脱出したのち、西村提督は「敵潜水艦、魚雷艇ニ対シ警戒ヲ厳ニセヨ」と下令している[69]。船団は輸送船5隻沈没(敦賀丸、呉竹丸、須磨浦丸、辰神丸)、哨戒艇37号沈没、輸送船2隻(球磨川丸、朝日山丸)損傷という大きな損害を受けた[69]。本海戦(日本側呼称バリクパパン沖海戦、連合国軍呼称マカッサル海戦)は、アメリカ海軍にとって太平洋戦争緒戦における数少ない勝利であり、大々的に宣伝した[68]

1月30日に那珂は第二駆逐隊(駆逐艦1隻を除く)とともにバリクパパンを離れ、2月2日にリンガエン湾に到着[70]。続いて2月8日から第48師団を乗せた船団を護衛した[71]。船団は2月13日にホロに着いた[71]

スラバヤ沖海戦

[編集]

1942年2月末、ジャワ島占領のためジャワ島東部へ陸軍第48師団と坂口支隊を輸送することとなり、第五戦隊(那智、羽黒、妙高)、第二水雷戦隊(旗艦:神通)、第四水雷戦隊(旗艦:那珂)などからなる護衛艦隊がその護衛についた[72]

2月27日、輸送艦隊はマカッサル海峡を南下してジャワ海を航行していた[73]。連合国軍のABDA艦隊はこれを迎撃すべくスラバヤを出撃したが、連日の戦闘配置により乗員の疲労が高まっていたこともあり、カレル・ドールマン司令官は補給のため、いったん艦隊をスラバヤへ帰投させることにした。基地航空隊から「敵巡洋艦五隻、駆逐艦六隻接近」の報告を受けた第五戦隊司令官高木武雄少将は、第五戦隊(那智、羽黒)と第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊「雪風」「時津風」「初風」「天津風」および臨時編入艦「潮」「」「山風」「江風」)、第四水雷戦隊の各隊に戦闘準備を下令した[73]。12時5分(現地時間。以下同じ)、那智の水上偵察機が連合軍艦隊を発見し日本艦隊に位置を通報した。第四水雷戦隊も輸送船団の護衛を若鷹に任せて、敵艦隊に向かう第五戦隊に合流しようとしたが、連合軍艦隊が輸送船団の攻撃に向かっているのか、帰投しようとしているのか判断しかねており、四水戦は反転していったん輸送船団護衛に戻った[73]

一方、連合軍艦隊はスラバヤに入港しようとしたところ日本軍船団発見の報を受けて反転。日本艦隊も那智機の報告を受けて敵艦隊との会敵予想針路を取った[73]。第四水雷戦隊は那智機の電報を受信するのが遅れ、西村司令官は船団護衛を第24駆逐隊司令と指揮下2隻(海風、夏雲)に任せると那珂と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)および第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)を率い、第五戦隊と第二水雷戦隊の後を追って予想会敵地点へ向かった[73]

16時(1750)ごろ第四水雷戦隊は戦闘戦域に到着し、退避する神通以下第二水雷戦隊の前を突っ切って連合国軍艦隊に接近した[74]。四水戦は距離15,000mで一斉に27発の魚雷を発射、神通は四水戦の外側から魚雷4本を発射したがいずれも命中前に爆発してしまったものの、日本側は大口径砲か機雷の爆発とみて混乱する[74]。遠距離砲戦を繰返しながら時間が経過していくうち、連合軍艦隊が態勢を立て直すために変針したのを見て、高木少将は「全軍突撃セヨ」を下令した[74]。日本艦隊は、四水戦―二水戦―第五戦隊という順番で突撃を開始[75]。旗艦那珂は連合軍艦隊に距離12000mまで近づくと魚雷4本を発射して避退、四水戦の子隊である第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は更に接近した[75]。第2駆逐隊は距離10000〜7500mで魚雷を発射、佐藤康夫9駆司令指揮下の第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は距離6000mまで近づいて魚雷を発射したが、これらは命中しなかった[75]。しかしドールマン少将が重巡エクセターを避退させるために英駆逐艦2隻(エレクトラエンカウンター)に攻撃を下令し、英駆逐艦2隻と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は3000mで砲戦を交えた[75][76]。第9駆逐隊(朝雲、峯雲)はエレクトラを撃沈、エンカウンターを避退させたが朝雲も損傷した[76]。この頃の戦闘海域は砲煙と煙幕と日没が重なって視界は極度に悪化、日本艦隊司令官達は輸送船団の反転と、配下駆逐隊の集結を命じた[75]。スラバヤ沖海戦はその日の日没後、および3月1日にも戦闘があったが、これらに四水戦は関わっていない。

3月、第四水雷戦隊はジャワ島とセレベス島の間の海域の哨戒任務に就いた。

クリスマス島攻略作戦

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3月末から4月初めにかけて那珂はクリスマス島攻略作戦に参加した。

3月15日、第十六戦隊司令官原顕三郎少将(3月10日まで第五水雷戦隊司令官)を指揮官とするクリスマス島攻略部隊が正式に編成され、3月31日の攻略を目指した[77]。主隊/第十六戦隊(名取長良)、警戒隊(司令官西村祥治少将:第四水雷戦隊那珂、第9駆逐隊第1小隊《峯雲夏雲》、哨戒艇2隻、球磨川丸、君島丸)、第24特別根拠地隊分遣隊、補給部隊(あけぼの丸)、さらに第16駆逐隊天津風という兵力部署であった[77]

攻略作戦中の3月31日早朝、軽巡3隻(名取、長良、那珂)は水上偵察機を投入して偵察・哨戒と対地支援攻撃を行い、また那珂は艦砲射撃を行なった[78]。午前8時、クリスマス島守備隊は白旗を掲げ、警戒隊・輸送船は入泊して陸戦隊の揚陸を開始する[78]。20時30分、天津風が到着して対潜哨戒に加わった[78]

日本の船団はアメリカ潜水艦サーモンに発見され、その情報は潜水艦シーウルフへと伝えられた[79]。シーウルフは3月31日に那珂に対して4本、4月1日に名取に対して3本の魚雷を発射したが、これらは命中しなかった[80]。シーウルフは4月1日には那珂に対して2度目の雷撃も行い、残っていた魚雷2本を発射して1本を命中させた[81]。 4月1日18時4分、那珂は第九駆逐隊第一小隊とともにクリスマス島北方海面を哨戒中に雷撃を受け、右舷中央部缶室に魚雷が命中[82]。 一時航行不能となり2隻(天津風、哨戒艇34号)が護衛した[82]。那珂は名取に曳航され、第九駆逐隊第一小隊と天津風の護衛でバンタム湾へ向かった[83]。途中で那珂は自力航行可能となり、4月3日昼過ぎにバンタム湾に到着した[83]

クリスマス島攻略部隊は4月3日、名取のバンタム湾到着をもって解散(那珂、夏雲、峯雲は4月2日附で除かれる)[84][85]。四水戦(那珂、夏雲、峯雲)は4月6日にバンタム湾を経ちシンガポール(日本軍占領期の呼称は「昭南島」)へ移動した[86]。4月10日着後、西村司令官は那珂を工作艦朝日に托し、第四水雷戦隊旗艦を駆逐艦夏雲に変更して内地へ向かった[87]

また艦隊の再編により第24駆逐隊(海風江風山風涼風)は第一水雷戦隊へ転出、第8駆逐隊(朝潮荒潮、《大潮満潮》5月15日除籍[88])が第四水雷戦隊に編入された。那珂修理中の5月9日、軽巡洋艦由良が第四水雷戦隊に編入された[89][90]。5月20日、四水戦旗艦は夏雲から由良に変更される[91]

一方、那珂は6月3日にシンガポールを出発[92]。台湾の馬公を経由して12日に横須賀帰着[93][94]。15日附で第四水雷戦隊から除かれた[95]。6月21日、舞鶴に到着[96]舞鶴海軍工廠での修理に入った。

当時の舞鶴海軍工廠は、秋月型駆逐艦2隻(秋月初月)、夕雲型駆逐艦複数隻、島風型駆逐艦島風の建造[97]、軽巡洋艦や駆逐艦複数隻(薄雲大潮《8月13日舞鶴着》[98]不知火《9月3日舞鶴着》[99]初春《11月6日舞鶴到着》[100]。)等の修理整備工事を抱えており[96]、那珂の修理と改造もその中で行なわれた。近代化改装にあたっては、5番主砲が撤去され、5番主砲の位置には12.7cm連装高角砲1基が搭載された。小発動艇を4隻搭載、中甲板以下の舷窓を閉塞するなど、輸送作戦や対空戦闘に対応する改修を実施して、その訓練に従事する[101]1943年(昭和18年)3月31日、修理完成[102]

第十四戦隊

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1943年(昭和18年)4月1日、那珂と五十鈴の軽巡2隻で第十四戦隊が新編された[103]。ただし五十鈴は第三次ソロモン海戦等で受けた損傷を横浜で修理中だった[104]。第十四戦隊は第四艦隊に編入され、4月2日に司令官伊藤賢三少将は那珂に将旗を掲げた[105]。那珂は4月25日に空母2隻(雲鷹冲鷹)を護衛して横須賀を出発し、4月30日にトラック島に着いた[105]

敵潜水艦の跳梁等から警戒が下令されると、那珂は5月18日にヤルートへ進出し、マーシャル諸島ギルバート諸島方面への敵来襲に備えた[106]。那珂は6月18日にトラックに戻った[105]

敵潜水艦による被害増加に対し、戦艦「大和」や第十四戦隊などの水偵をパラオへ派遣して対潜掃蕩にあたらせる命令が6月21日に出された[107]。それによってパラオへ向かった那珂の搭載機は、7月4日にソロール島で故障し、使用不能となった[108]

6月22日より、第十四戦隊はトラック島からナウルへの兵員輸送を命じられた[109][110]。この輸送作戦のため、第四水雷戦隊より軽巡長良、第16駆逐隊(雪風)と第17駆逐隊(浜風谷風)、第27駆逐隊(有明:22日附で時雨と交代)が選抜され、第十四戦隊(那珂、五十鈴)と行動を共にする[109]。第一次輸送隊(那珂400名、五十鈴453名、浜風70名、谷風70名)は22日、第二次輸送隊(長良350名、雪風70名)は23日、第三次輸送隊(時雨69名、駆潜艇28号、秋葉山丸50名)は24日にそれぞれトラック泊地を出発、25日-26日-29日ナウル着、28日午前-28日午後-7月3日トラック泊地帰着という輸送任務を達成した[109][111]

続いて那珂と駆逐艦朝凪ミレ増強部隊約600名を乗せて7月17日にトラック島を出発し、ミレへ輸送した[112]

8月15日、アメリカ軍はベララベラ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いは緊迫の度合いを増した[113]。同日より五十鈴はラバウル方面に緊急輸送を実施した[113]。8月25日、那珂と高雄および第24駆逐隊(海風涼風)という戦力でラバウルへの輸送任務を実施[114]。29日にトラックへ戻った[113][115]。9月は3日から兵員輸送を担う輸送船2隻(日枝丸、富士山丸)をトラック島からクェゼリンへ護衛する[116]。さらに第7駆逐隊のが途中まで同行した[116]。7日にクェゼリンへ到着、引き続きマロエラップへの兵員輸送に従事[116][117]。12日、那珂と駆潜艇2隻、輸送船香取丸等は北緯08度23分 東経165度12分 / 北緯8.383度 東経165.200度 / 8.383; 165.200にて米潜水艦パーミットの雷撃により損傷した特務艦知床と特設航空機運搬艦富士川丸の救援に赴いた[117][118]。なお救援中にパーミットから雷撃されたが、魚雷は那珂左舷30mを通過するなどして、命中しなかった[119]。知床は香取丸に曳航されてクェゼリンへ向かい、富士川丸は自力でルオット(ロイ=ナムル島)へ向かった[118]。19日からはミレ、ウオッゼへの兵員輸送を行なった[120]

10月5日、連合艦隊司令長官は、第十四戦隊司令官伊澤少将を指揮官として陸軍第十七師団の南東方面派遣任務「丁四号輸送部隊」の編成を下令した[121]。那珂を旗艦とする部隊戦力は、第十四戦隊(那珂、五十鈴)、軽巡2隻(木曾多摩)、駆逐艦3隻(野分舞風山雲)、輸送船団(栗田丸、日枝丸、護国丸、清澄丸)であった[121][122]。上海から回航された第一輸送部隊(木曾、多摩)はトラック泊地で駆逐艦卯月を合同後、ラバウルへ向かうが爆撃により木曾は損傷[123]、駆逐艦2隻(卯月、五月雨)の救援を得てラバウルへたどりついた[121][124]。23日附で軽巡2隻(木曾、多摩)は丁四号輸送部隊から除かれた[125]

第二輸送隊(那珂、五十鈴、山雲、護国丸、清澄丸)は10月11日にトラック泊地を出発し、中国大陸上海市へ向かった[121]。途中、五十鈴は被雷した給糧艦間宮の救援に向かい、艦隊から分離した(18日上海着)[126][127]。10月21日、第二輸送隊はトラックを出発[121]。10月22日、輸送船団は東シナ海で敵潜に襲撃された[128]。2隻(那珂、山雲)は爆雷攻撃を行った[129]。この米潜水艦はシャード (USS Shad, SS-235) であった。那珂右舷側に魚雷1本が命中していたが、不発だったという[130]。28日、トラック泊地へ到着する[121]

同地にて戦力の再編が行なわれ山雲は第三輸送隊(野分、舞風、日威丸、神威丸)に編入、代艦として第17駆逐隊の陽炎型駆逐艦2隻(磯風浦風)が第二輸送隊へ編入され、那珂の指揮下に入った[121][131]。11月1日、第二輸送隊はトラックを出港した[132]。11月3日、第二輸送隊はカビエンの北60浬にてアメリカ第13空軍所属B-24爆撃機のべ40機[要出典]の空襲を受け、機銃掃射により那珂は十四戦隊首席参謀以下戦死7名・重傷者20名という損害を出し、ほかに特設巡洋艦清澄丸が被弾浸水して航行不能となった[133][134]

空襲後、五十鈴は清澄丸の曳航を実施、3隻(那珂、磯風、水無月《途中合流》)はその警戒と護衛にあたった[135]。4日0時40分、秋月型駆逐艦若月が合流するが、同艦は午前4時に分離してラバウルへ向かった[136]。伊澤少将は健在艦2隻(浦風、護国丸)を分離、先行してラバウルに向かわせた[121][137]

11月4日午前7時、カビエンに到着[138]ラバウルより到着した軽巡夕張を含め、各艦は清澄丸搭載物件と兵員を転載した[121]。同日、五十鈴と磯風は触雷して小破[139][140]。磯風はカビエンに残置された[141]。ラバウルへは那珂、五十鈴、夕張、水無月が向かった[121]。同日附をもって第17駆逐隊(磯風、浦風)は南東方面部隊に編入され、第十四戦隊の指揮下を離れた(磯風は内地回航、浦風はラバウル残留)[142]

輸送船団は11月5日にラバウルに到着したが、ちょうどその日にラバウル空襲があり、ラバウル停泊中の重巡洋艦部隊(指揮官栗田健男中将:旗艦愛宕摩耶高雄最上筑摩阿賀野第二水雷戦隊各艦)は大損害を受けた[143]。第十四戦隊(那珂、五十鈴)は被害なく対空戦闘を実施、撃墜15機(重複含む)を記録している[144]

11月6日に第十四戦隊と護国丸はラバウルを出発し、9日にトラックへ戻り原隊へ復帰した[145][146]。改編第三次輸送隊(野分、舞風、山雲、日枝丸、日威丸、神威丸)は11月3日にトラック泊地を出発したもののラバウル大規模空襲やアメリカ軍潜水艦に反復攻撃された事などから、命令によりトラック泊地へ引き返した[147]。9日になり、第4駆逐隊(野分、舞風、山雲)は輸送船日枝丸を護衛して再びラバウルへ向かった[148]

11月21日、アメリカ軍はギルバート諸島タラワ環礁へ攻撃を開始、「タラワの戦い」が始まった[149]。連合艦隊は第四艦隊長官を指揮官として、タラワ増援部隊を編成した。支援部隊(第四戦隊、第七戦隊、第八戦隊、第二水雷戦隊)、南洋方面航空部隊、補給部隊(第十駆逐隊、東亜丸、富士山丸)と共に、輸送部隊(指揮官伊澤少将:第十四戦隊《那珂、五十鈴》、長良、第6駆逐隊《雷、響》)、先遣隊潜水艦9隻という戦力が作戦に組み込まれた[149]。21日、第十四戦隊はトラックを出発、22日にポナペ島に到着して陸軍部隊を収容、25日にクェゼリンに到着した[150]。26日までに軽巡長良、第6駆逐隊()はクェゼリンに集結、第十四戦隊(那珂)の指揮下に入った[150]。こうしてギルバート方面への逆上陸準備は完了した[150]が、タラワは既にアメリカ軍により陥落させられており、逆上陸作戦は実行されなかった[151]。タラワの陥落と、並行して勃発したギルバート諸島沖航空戦の敗北により、日本軍はこの方面における制海権制空権も失いかけていた[152]

このような状況下、陸軍部隊の一部を各方面に転用することになり、3隻(那珂、五十鈴、雷)は28日にクェゼリン発、12月1日にミレへ到着した[151]。12月5日、アメリカ軍空母機動部隊艦載機がルオットを襲撃し、軽巡2隻(五十鈴、長良)を損傷させ、多数の輸送船を撃沈・撃破した(マーシャル諸島沖航空戦[153]。損傷艦はトラック泊地へ回航された[153]。2隻の損傷により随伴艦は雷のみとなり、2隻(那珂、雷)はポナペ島の陸軍部隊をクサイ島(コスラエ島)へ転進させる輸送作戦に従事する[151]。輸送任務終了後の10日、2隻はトラックに到着してマーシャル方面での行動を終えた[154]

12月17日、空母瑞鳳がトラック泊地に到着、同艦から基地物件を受け入れた[155]。19日にトラック泊地を出発し、22日にルオット着[155]。その後、アメリカ軍機の空襲によりサイパン輸送作戦は中止、24日にトラック泊地へ戻った[156]

沈没

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1944年(昭和19年)1月10日、第十四戦隊司令官は伊藤賢三少将から清田孝彦少将に交代した[157]松永市郎(当時は那珂通信長)によれば、那珂は内地帰投の予定だった[158]。2月16日にアメリカ潜水艦スケートの雷撃で、内地へ向け回航中の軽巡洋艦阿賀野がトラック泊地北方で航行不能となり[159]、2月17日午前1時45分に沈没した[160]。那珂は阿賀野救援の下令を受けてトラック泊地を出港したが[161]、途中で阿賀野沈没の連絡を受けてトラック泊地に引き返した[162]。なお、阿賀野の生存者は駆逐艦追風や哨戒艇に救助されている[163]

2月17日未明、アメリカ海軍第58任務部隊がトラック島を空襲した。トラックへ入泊寸前(北水道を航行中)だった那珂は空襲警報を受けて反転、外洋に出ようとした[164]。だが、既にアメリカ軍空母機動部隊に捕捉されており、午前7時に爆装の艦上攻撃機(艦攻)が約20機、9時に艦上爆撃機(艦爆)が十数機、正午に艦爆・艦攻約20機、午後2時に艦爆4機の反復攻撃を受けてしまう[159]。当時の天候は全曇でうねりが高く、アメリカ軍機は雲を利用して攻撃をかけてきたという[164]。空母バンカー・ヒルおよびカウペンス 艦載機部隊の波状攻撃を受けた[165]。魚雷1本と爆弾1発が那珂の艦中央部に命中[166]、艦前部(艦首から約50m、約1/4)を喪失した[166][167]。前部乗組員は総員退去となり、脱出者はカッターボートで那珂の後部へ移動した[167]。対空戦闘を目撃していた哨戒艇が「那珂は艦橋切断、今なお奮戦中」と打電するほどの対空戦闘を続けたが再び直撃弾を受けて浸水が進み、那珂は午後2時頃に沈没した[166]。地点北緯07度15分 東経151度15分 / 北緯7.250度 東経151.250度 / 7.250; 151.250[168]。約240人が戦死し、末沢慶政艦長を含む210人は哨戒艇に救助された。トラック泊地北水道周辺では、空襲と米戦艦部隊の艦砲射撃により第4215船団より3隻(練習巡洋艦香取、駆逐艦舞風、特設巡洋艦赤城丸)が沈没、駆逐艦1隻(野分)のみサイパン方面へ脱出した[169]。第4215船団と同時刻に北水道を通過した第27駆逐隊(時雨春雨)は空襲により損傷しつつもパラオ方面へ脱出していった[170]

2月28日、末沢慶政大佐は那珂艦長の職務を解かれた[171]

3月4日、第十四戦隊は解隊され、清田少将(十四戦隊司令官)は横須賀鎮守府附となった[172][173]

3月31日、トラック島空襲で沈没した艦艇群(那珂、阿賀野、舞風、太刀風追風文月)等は同日附で除籍された[174]。また、川内はブーゲンビル島沖海戦、神通はコロンバンガラ島沖海戦で既に沈没しており、那珂の沈没により川内型軽巡洋艦3隻は全隻喪失、艦艇類別等級別表からも除籍された[175]

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』166-169頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長

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  1. 井上肇治 大佐:1925年4月15日 -

艦長

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  1. 井上肇治大佐:1925年11月30日 - 1926年12月1日
  2. 中村亀三郎大佐:1926年12月1日 - 1927年4月5日
  3. 三戸基介大佐:1927年4月5日 - 1927年11月1日
  4. 毛内効大佐:1927年11月1日 - 1928年12月10日
  5. 伴次郎大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
  6. 南雲忠一大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
  7. 山田定男大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  8. 山本弘毅大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
  9. 園田滋大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  10. 後藤英次大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  11. 阿部嘉輔大佐:1934年11月15日 - 1935年5月25日
  12. 醍醐忠重大佐:1935年5月25日 - 1935年11月15日
  13. 五藤存知大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  14. 阿部孝壮大佐:1936年12月1日 - 1937年8月2日
  15. 中邑元司大佐:1937年8月2日 - 1937年12月1日
  16. 河野千万城大佐:1937年12月1日 - 1938年11月15日
  17. (兼)宮里秀徳大佐:1938年11月15日 - 1938年12月15日
  18. 高間完大佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日
  19. 秋山輝男大佐:1939年11月15日 - 1940年10月15日
  20. 伊集院松治大佐:1940年10月15日 - 1941年8月11日
  21. 田原吉興大佐:1941年8月11日 -
  22. 中里隆治大佐:1942年7月10日 -
  23. 高木伴治郎大佐:1942年10月1日 -
  24. 今和泉喜次郎大佐:1943年3月25日 -
  25. 末沢慶政大佐:1944年1月7日 - 1944年2月28日[171]

戦後

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艦内神社であった大洗磯前神社には1983年(昭和58年)に忠魂碑が建てられ、那珂が戦没した2月17日には慰霊祭が開催されている[9][10]

注釈

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  1. ^ 近隣の浦賀で艤装中の軽巡阿武隈は工場の被害によって完成が約1年遅れた。
  2. ^ なお、被災炎上した船体部のうち、損傷の比較的軽微な部分は起重機船の船体として再利用され、120トン起重機船として横浜船渠でその後も長らく使用されている。
    (『三菱重工横浜製作所百年史』)

出典

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  1. ^ a b c d e f g #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『那珂|二等巡洋艦|(艦要目略)|横浜船渠會社|大正11-6-10|大正14-3-24|大正14-11-30|(艦装備略)』
  2. ^ a b #川内神通阿武隈那珂製造一件(4)p.13『軽巡那珂本日(六月十四日)午前十時起工濟』
  3. ^ #東京海軍監督報告(1)p.3『(艦船名)那珂|(起工年月日)大正十一年六月十四日|(工程百分比)約五五(以下略)』
  4. ^ 大正14年11月30日付 海軍内令 第309号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。
  5. ^ #日本軍艦集2600年版p.31『二等巡洋艦 那珂(なか) 基準排水量5,195噸、長さ152.4米、幅14.4米、平均吃水4.84米、速力33節、備砲14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷發射管8門、起工大正11年6月10日、進水大正14年3月24日、竣工大正14年11月30日、建造所横濱船渠會社-神通と同型。この級はいはゆる球磨級の改良型といはれる軽巡である。
  6. ^ #艦艇類別等級(昭和16年12月31日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|川内型|川内、神通、那珂』
  7. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.137『那珂(なか)|艦種 二等巡洋艦 球磨改良型|艦名考 川名に採る、那珂川は又中川に作る、下野國那須郡男鹿岳の頂、男鹿沼及び根室村山谷に発源し常陸に入りて海に注ぐ。(以下略)』
  8. ^ a b c #三菱、20話2頁『二等巡洋艦「那珂」を建造開始』
  9. ^ a b 軍艦那珂忠魂碑 大洗磯前神社ホームページ(2024年2月17日閲覧)
  10. ^ a b きょう巡洋艦「那珂」慰霊祭/80年節目 国防に思い/本土空襲本格化や特攻隊編成産経新聞』朝刊2024年2月17日(社会面)同日閲覧
  11. ^ #軽巡二十五隻81頁
  12. ^ #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十六日 海軍大臣男爵斎藤實 |艦艇類別標準|軍艦|巡洋艦|一等|七千頓以上|二等|七千頓未満』
  13. ^ #達大正10年3月p.14『達第四十三號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ニ左ノ通命名セラル|大正十年三月十九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|加古カコ 那珂ナカ 川内センダイ 神通ジンツウ』
  14. ^ #達大正10年6月p.17『達第百十八號 艦艇類別等級別表中巡洋艦二等ノ欄鬼怒ノ下ニ、加古、那珂、川内、神通ヲ加フ|大正十年六月九日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
  15. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『川内|二等巡洋艦|(艦要目略)|三菱長崎造船所|大正11-2-16|大正12-10-30|大正13-4-29|(艦装備略)』
  16. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『神通|二等巡洋艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|大正11-8-4|大正12-12-8|大正14-7-31|(艦装備略)』
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  18. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十六號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ノ内加古ノ艦型ヲ一等巡洋艦ニ變更シ大正十一年度ニ於テ川崎造船所ニ於テ建造セシム|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
  19. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|巡洋艦一等ノ欄ニ加古、衣笠、古鷹ヲ加ヘ同二等ノ欄加古、ヲ削ル』
  20. ^ a b #三菱、20話3-4頁『関東大震災により会社は火の海』
  21. ^ a b #三菱、20話4頁『船体のほとんどを焼失』
  22. ^ #連合艦隊第1艦隊(9)p.12『那珂ノ船体工事ハ来ル十月十日頃進水セシム可キ豫定ニテ船台上ニ盤木ヲ作リ進水用意中ナリシモ該盤木ニ延焼シタル為メ裸体トナリ船台上ニ約十度右舷ニ傾キ横掛ス船体鋲板ハ赤銅色ニ変色シ「ビーム」ト共ニ波状ヲ呈スル處多シ機関ハ主トシテ陸上ニアリ損害ハ比較的小ナリ主機械ハ完全ノ状態ニアリ』
  23. ^ #東京海軍監督報告(1)p.3『(災害後ノ現状及災害概要)船体 盤木支柱全焼シ船台上ニ墜落シ右舷ニ約十二度傾斜ス船底局部ノ屈曲ハ全長ニ亘リ全体ノ屈曲モ約二尺ニ及ブ(以下略)』
  24. ^ #東京海軍監督報告(1)p.3『(復旧能否ノ見込並所見)船体ハ尚詳細ナル計測ヲ為スニアラサレバ確言スル能ハザルモ復旧ノ見込ミ覺束ナキモノヽ如シ』
  25. ^ a b #日本巡洋艦物語275頁
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  28. ^ #川内神通阿武隈那珂製造一件(4)p.12『軍艦那珂午後四時三十分無事進水ス御届ス』
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  30. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.4『乙軍ノ行動(略)左翼隊タル神通那珂ハ神通艦長之ヲ率ヰ…』
  31. ^ #黒き日本海に消ゆ62頁
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  33. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.5『此ノ時左舷艦尾方向ヨリ甲軍後衛ノ一艦ヨリ照射ヲ受ケ神通ハ伊勢ニ対シ反照シ那珂ハ探照燈ヲ以テ友軍敵情ヲ通報シ次テ神通ハ航行灯ヲ点シ南東ニ変針(略)11時16分敵後尾ニ触接スルノ目的ヲ以テ両舷灯ヲ消シ第三戦速(28節)ニ増速面舵転舵中…』
  34. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)p.43『…当時神通と那珂は隊を組んで敵に迫ったが其の照射猛撃に遭ふて一時避退の止むなきに至って反転した、煌々たる探照燈に眩まされて居る、其處を同しく敵に向かって突進中の第二七駆逐隊と反航の對勢で急速に近接した…』
  35. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.13『那珂ハ25日午前2時40分防水区画補強工事及防水畫出シ方終了自力航行ニ差支ナキヲ確メタル旨報告ニ接シ比叡及古鷹之ヲ護衛シ舞鶴ニ回航セシム25日午後5時無事到着セリ』
  36. ^ a b c d e f g h i j k 軽巡洋艦『川内・神通・那珂』行動年表、38ページ
  37. ^ #夕霧初雪遭難事件報告(1)p.3『航行隊形』/pp.42-45『別紙第三、主ナル被害損傷調』
  38. ^ #初雪遭難詳報(5)p.2『那珂|四水戦|1255|初雪ノ溺者ニ鑑ミ人ヲ落サザル様一層厳重ナル注意ヲナセ此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ』
  39. ^ #夕霧初雪遭難事件報告(1)p.5『然ルニ午後5時40分初雪ヨリ「SOS」「初雪艦首切断救助頼ム」ノ電ニ接シ夕霧ノ安全ナルヲ確メタル後初雪捜索ニ向ヒシガ夕霧救助ノ為現地ニ急行中ノ五戦隊近キニ在ルヲ以テ之ニ初雪救助ヲ依頼シ再ビ夕霧ニ近接セシモ当時風浪尚大ニシテ近寄レズ夜ヲ徹シテ之ガ監視警戒ニ任ジタリ。27日風浪稍々静マルヲ待テ初雪ハ薄雲護衛ノ下ニ羽黒ニ曳航セラレ又夕霧ハ天霧護衛ノ下ニ大井ニ曳航セラレ何レモ大湊ニ向ヘリ』
  40. ^ #夕霧初雪遭難事件報告(1)p.42『那珂|一.自11番至18番各重油「タンク」海水漏入/二.前部発射甲板左舷後部隔壁亀裂(約25糎)/三.第二通舷及舷架流失/四.四番聯管八年式方位盤流失』
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  42. ^ 昭和14年11月25日(発令11月25日付)海軍辞令公報(部内限)第406号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077000 
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  85. ^ #S1703四水戦日誌(3)p.23「2日0000 4sd(那珂 1D/9dg)X攻略部隊ヨリ除カル」
  86. ^ #S1704四水戦日誌(1)p.8『「バンタム」泊地ニ於テ静波丸ニ依リ損傷情況ヲ確メ應急準備ヲナシ6日2200九驅一小隊ト共ニ昭南港ニ向ケ「バンタム」泊地ヲ出港セリ途中天候ニ恵マレ大ナル支障ヲ受クルコトナク10日1530「セレター」軍港ニ入港セリ』
  87. ^ #S1704四水戦日誌(1)p.9「本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ…」
  88. ^ #内令昭和17年5月(2)p.26『内令第八百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年 五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』
  89. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.47「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」
  90. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.10「九日附ニテ由良ハ5SSヨリ除カレ當隊ニ編入サル同日前進部隊電令第七號ニ依リ大潮ハ舞鶴満潮呉山雲ハ横須賀ニテ修理セシメラルルコトトナリ何レモ十五日附ニテ特別役務艦ニ編入セラレタリ」
  91. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.53「二〇(天候略)1500旗艦ヲ夏雲ヨリ由良ニ変更、由良九駆二駆攻略部隊主隊ニ編入セラル八駆ハ攻略部隊支援隊ニ編入」
  92. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.13「3日1500那珂艦長→4sd/横須賀ニ向ケ昭南港発」
  93. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.10「那珂ハ12日横須賀帰着 15日附ニテ4sdヨリ除カレタリ」
  94. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.57「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」
  95. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.6「(二)第四水雷戦隊艦隊編成 (2)6月15日 那珂第四水雷戦隊ヨリ除カル」
  96. ^ a b #S1706舞鎮日誌p.9「(2)其ノ他ノ工事(a)損傷復舊工事 薄雲工事=豫定通進捗中ニシテ七月末完成ノ豫定/大潮工事=目下現場調査作業豫定按畫中/那珂工事=損傷復舊竝ニ改装工事ノ爲本月二十一日入港セリ (b)天龍、龍田工事=本月十五日完成/呂六三潜水艦工事=本月八日完成現地ニ向ケ出港セルモ途中主電動機電動子燃損ノ爲十日歸投セルヲ以テ換装工事中/名取工事=本月十七日入港整備工事中/三十一驅潜隊工事=本月二十七日入港直ニ工事着手セリ/神威工事=本月二十九日入港〃」
  97. ^ #S1706舞鎮日誌pp.8-9「(1)新造艦船工事 前月ニ引續キ秋月、巻波及初月ノ艤装工事竝ニ島風、第三四〇號艦及第三百四十一號艦ノ建造工事ハ概ネ順當ニ進捗シツツアリシモ秋月砲熕公試ノ結果不具合ノ點アリ完成期ヲ六月十日ニ變更セル處尚俯角制限装置機構手直ヲ要スル爲更ニ六月十九日迄完成期ヲ延期セラレタル處作戰ノ関係上砲熕機能試験ヲ省略シ六月十一日引渡ノコトニ大臣ヨリ指令アリタルニ付任務ニ差支ナキ程度ニ整備ノ上十一日竣工引渡ヲ了ス」
  98. ^ #S1708舞鎮日誌p.5「(a)損傷復舊工事 大潮、那珂工事=豫定通進捗中/霞工事=損傷復舊工事ノ爲本月十三日入港目下損傷部調査中 (b)利根筑摩ノ整備工事ハ六日完成シ作戰地ニ向ケ進出セリ 夕風(二十一日)、室戸(二十四日)ハ附記ノ通入稿以來極力進捗中」
  99. ^ #S1709舞鎮日誌p.5「(a)損傷復舊工事 大潮、那珂及霞ノ特定修理、損傷復舊工事ハ前月ニ引續キ豫定通順調ニ進捗シツツアリ/不知火九月三日入港損傷調査竝修理實施準備ヲ爲シツツアリ」
  100. ^ #S1711舞鎮日誌p.5「(a)損傷復舊工事 大潮、那珂、霞及不知火ハ概ネ豫定通進捗中/初春六日入港工事ニ着手シ中央要求ニ即應極力工事促進中」
  101. ^ #軽巡二十五隻132頁
  102. ^ #S1803舞鎮日誌(1)pp.6-7「(a)損傷復舊工事 霞不知火初春何レモ豫定通工事進捗中/那珂ハ三十一日工事完成セリ (b)修理工事 龍田 操舵装置修理豫想外ニ困難ニシテ一日試運轉ノ結果徹底的修理ヲ要スルコトトナリ陸揚修理二十七日試運轉成績良好二十八日出動セリ/太刀風八日、日進十三日、利根十六日}整備完成何レモ出動/刈萱 整備工事中/眞鶴(十六日)、長波(十七日)、木曾(二十日)、室戸(二十三日)何レモ附記ノ通入港極力整備工事中」
  103. ^ #S1804十四戦隊日誌(1)p.4『當戦隊ハ四月一日附編成内南洋部隊ニ編入セラレ四月二十五日横須賀出撃四月三十日「トラック」着警戒任務ニ就ク』
  104. ^ #S1804十四戦隊日誌(1)p.6「五十鈴ハ横浜浅野船渠ニ在リテ改造修理工事ニ従事」
  105. ^ a b c 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』310ページ
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  107. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』344-345ページ
  108. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』345ページ
  109. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)369頁「横二特のナウル進出」
  110. ^ 日本軽巡戦史、471-472ページ
  111. ^ #S1804十四戦隊日誌(1)p.29『…25日0500「ナウル」着増援隊ヲ揚搭ス、仝地ニ於テ浜風ノ指揮ヲ解キ当隊及谷風ハ同日0945「ナウル」発28日0832「トラック」着尓後防備警戒任務ニ就ク』
  112. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』354ページ
  113. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)384頁「第十四戦隊のラバウルへの緊急輸送」
  114. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.5『海風(AdB十五日以後YBニ編入)ハ前月二十五日以降佐廠ニテ入渠修理中ノ處八月十五日完成十六日佐世保發十六日内海ニテ主力部隊ニ合同「トラック」ニ進出二十三日「トラック着司令驅逐艦トナル二十五日24dg(海風涼風)ハ14S(那珂)高雄ト共ニ「トラック」至「ラバウル」同増援部隊輸送ノ爲「トラック」出撃二十七日「ラバウル」着揚陸後即日同發二十九日「トラック」ニ歸投ス』
  115. ^ #戦隊行動調書p.14『14S|八.二五「ラバウル」方面緊急輸送(将旗14S)那珂高雄24dg(海風涼風)』
  116. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)434頁「歩兵第百二十二聯隊のマーシャル進出」
  117. ^ a b 『日本軽巡戦史』476ページ
  118. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)398頁「米潜水艦の跳梁と被雷した知床の救援」
  119. ^ #S1804十四戦隊日誌(3)p.3『(ハ)13日0036知床ノ280度1000米ニ浮上潜水艦発見攻撃運動中0102北緯08度27.5分 東経164度37分 / 北緯8.4583度 東経164.617度 / 8.4583; 164.617ニテ左舷艦首近距離ニ雷撃2本受ケタルモ雷跡那珂左舷約三十米ヲ通過シ被害ナシ、射点附近ニ爆雷投射九個効果不明、0447再ビ雷撃1ヲ受ケタルモ水面跳出被害ナシ、射点附近ニ爆雷投射三個効果不明』
  120. ^ 『日本軽巡戦史』479ページ
  121. ^ a b c d e f g h i j #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)436-438頁「第十七師団の南東方面への派遣」
  122. ^ #戦隊行動調書p.14『10.5 丁四号輸送作戦(将旗14S) 14S木曾多摩栗田丸日枝丸護国丸清澄丸4dg(野分舞風)山雲』
  123. ^ #S1804十四戦隊日誌(3)p.29『21日|0004第一次輸送隊「ニューアイルランド」島「セントヂョージ」岬沖ニテ敵機ト交戦木曽爆弾1命中』
  124. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.9『木曽ハ約十節ニテ卯月ノ護衛下ニ0315迄敵機18機ノ執拗ナル攻撃ヲ撃退、0500以後味方直衛機及五月雨ノ増援ヲ得テ1130「ラバウル」着1410火災鎮火排水…』
  125. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.10「GF電令作特第一号(GFキデ230758)ニ依リ多摩、木曽ハ丁四号輸送部隊ヨリ除カル」
  126. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)417頁『米潜の機動部隊搭乗員の救助と「間宮」の救援』
  127. ^ #S1804十四戦隊日誌(3)p.16「(3)五十鈴ハGF電令作第760号ニ依リ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ航行不能ノ間宮曳航ノ為12日2230分離現場ニ急行セシム」
  128. ^ #軽巡二十五隻136頁「危うくかわす魚雷三本」
  129. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.14「第二輸送隊21日0845上海発22日0213及0217ノ二回ニ亙リ雷撃2(位置北緯28度40分 東経124度10分 / 北緯28.667度 東経124.167度 / 28.667; 124.167)ヲ受ケタルモ被害ナシ、那珂山雲ヲシテ攻撃制圧セシム」
  130. ^ #軽巡二十五隻141頁(後日艦内調査で漏水箇所発見、魚雷胴体擦過時の損傷と推定)
  131. ^ #戦隊行動調書p.14「10.30 17dg(浦風磯風)指揮下ニ入ル」
  132. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.18
  133. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)pp.18-19「1129、南緯2度00分 東経151度31分 / 南緯2.000度 東経151.517度 / -2.000; 151.517ニ於テ第一次B-24型19機来襲銃爆撃、当隊之ト交戦1220第二次B-24型21機再ビ来襲、之ト交戦敵機ハ爆撃セズ1254之ヲ撃退セリ」
  134. ^ #S1804十四戦隊日誌(5)p.44「那珂(司令部ヲ含ム)戦死 准士官以上1 下士官兵6/重軽傷 准士官以上8 下士官兵12」
  135. ^ #S1804十四戦隊日誌(5)p.41『1215|磯風ハ清澄丸ノ左舷、那珂ハ右舷ヲ警戒セシム(略)1445|五十鈴ハ清澄丸ヲ曳航開始速力約七節、那珂ハ前方、磯風ハ後方警戒ニ当ラシム』
  136. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.21『当隊救難警戒ノタメ若月ヲ急派セラレ4日0040来着当隊合同セシモNTFキデ032043ニ依リ4日0420分離「ラバウル」ニ先行セシム』
  137. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.21「四日1020 十七駆(浦風)護国丸「ラバウル」着」
  138. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.21『四日0700 第十四戦隊、清澄丸(五十鈴曳航)、磯風、水無月「カビエン」泊地着』
  139. ^ #軽巡二十五隻139頁
  140. ^ #佐藤 艦長(文庫)67-68頁
  141. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)pp.22-23『1629 出港時磯風推進器附近ニ触雷 磯風清澄丸ハ「カビエン」ニ残シ那珂、五十鈴ノミヲ率ヒ1630「ラバウル」ニ向ケ「カビエン」発』
  142. ^ #S1804十四戦隊日誌(4)p.36「11月4日1817GF電令作第786号ニ依リ17駆(浦風、磯風)ヲNTB(南東方面部隊)YBニ編入」
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参考文献

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  • 吉村昭『空白の戦記』新潮社、1981年4月(原著1970年)。ISBN 978-4-10-111709-6 
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関連項目

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外部リンク

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