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'''五稜郭'''(ごりょうかく)は、[[江戸時代]]末期に[[蝦夷地]]の[[箱館]](現在の[[北海道]][[函館市]])に建造された[[星形要塞|稜堡式]]の[[城|城郭]]である。[[長野県]][[佐久市]]の[[龍岡城]]など、当時日本で建造された星形の城郭を「五稜郭」と通称するが、一般に「五稜郭」といえば函館のそれを指すことが多い。


[[画像:5ryokaku stereo.jpg|thumb|360px|五稜郭の[[ステレオグラム|ステレオ]]空中写真(1976年) {{国土航空写真}}]]
建造中の名称は'''亀田御役所土塁'''(かめだおんやくしょどるい)、完成後の名称は'''箱館御役所'''(はこだておんやくしょ)。'''柳野城'''(やなぎのじょう)とも呼ばれる。国の[[特別史跡]]に指定され、「五稜郭と[[箱館戦争]]の遺構」として[[北海道遺産]]に選定されている。
'''五稜郭'''(ごりょうかく)は、[[江戸時代]]末期に[[江戸幕府]]により[[蝦夷地]]の[[箱館]](現在の[[北海道]][[函館市]])郊外に建造された[[星形要塞|稜堡式]]の[[城|城郭]]である。[[長野県]][[佐久市]]の[[龍岡城]]など、当時日本で建造された星形の城郭を「五稜郭」と通称するが、一般に「五稜郭」といえば函館のそれを指すことが多い。


予算書時点から五稜郭の名称は用いられていた<ref name=shishi2-87>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-00/shishi_04-00-02-02-02.htm |title=函館市史通説編第2巻 pp.87-88|publisher=函館中央図書館 |accessdate=2014-11-26}}</ref>が、築造中は、'''亀田役所土塁'''(かめだやくしょどるい)<ref name=shishi1-585>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-03-00-01.htm |title=函館市史通説編第1巻 pp.585-586|publisher=函館中央図書館 |accessdate=2014-11-26}}</ref>または'''亀田御役所土塁'''(かめだおんやくしょどるい)<ref name=shishi2-92>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-00/shishi_04-00-02-02-05.htm |title=函館市史通説編第2巻 pp.92-93|publisher=函館中央図書館 |accessdate=2014-11-26}}</ref>とも呼ばれた{{Refnest|group="注釈"|「役所」は奉行所建物のことであり、五稜郭完成後、箱館奉行所(俗称)ではなく'''箱館御役所'''(はこだておんやくしょ)と呼ばれた<ref name=shishi2-92 />。}}。元は湿地で[[ネコヤナギ]]が多く生えていた土地であることから、'''柳野城'''(やなぎのじょう)の別名を持つ<ref>[[#五稜郭物語|五稜郭物語]] p.26</ref>。
== 概要 ==
[[日米和親条約]]締結による[[箱館]][[開港]]に伴い、[[防衛]]力の強化と[[役所]]の移転問題を解決するため、[[徳川家定]]の命により築造された。[[設計]]を担当したのは[[西洋|洋]]式[[軍学者]]の[[武田斐三郎]]。[[大砲]]による[[戦闘]]が一般化した後の[[ヨーロッパ]]における[[稜堡式]]の築城様式を採用し、堡を[[五芒星|星型]]に配置している。総面積、74,990坪(約247,466m&sup2;)。施工は[[土工]]事を[[松川弁之助]]、[[石垣]]工事を井上喜三郎、[[奉行所]]の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人・中川伝蔵が[[請負|請け負った]]<ref>[http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-03-00-03~05.htm 函館市史通説編第1巻 五稜郭の築造] - 函館市中央図書館</ref>。


五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた[[箱館奉行]]所の移転先として築造された。しかし、1866年([[慶応]]2年)の完成からわずか2年後に幕府が崩壊、短期間[[箱館府]]が使用した後、[[箱館戦争]]で[[蝦夷共和国|旧幕府軍]]に占領され、その本拠となった。[[明治]]に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、[[1914年]]([[大正]]3年)から'''五稜郭公園'''として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。
当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、脅威が薄れていくとともに築造の目的が国家の威信になった。

国の[[特別史跡]]に指定され、「五稜郭と[[箱館戦争]]の遺構」として[[北海道遺産]]に選定されている。なお五稜郭は[[文化庁]]所管の[[国有財産]]<ref>{{cite web||url=http://www.bunka.go.jp/bunkazai/kokuyuzaisan/katsuyo.html |title=国有財産の活用|publisher=文化庁 |accessdate=2014-11-24}}</ref>であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社([[指定管理者]])が管理している<ref>{{cite web||url=http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014030800101/ |title=公の施設一覧(平成26年4月1日現在)|publisher=函館市 |accessdate=2014-11-27}}</ref>。

== 歴史 ==
=== 築造 ===
[[ファイル:GoryokakuPlanLarge.jpg|thumb|「五稜郭之図」。最終設計図の一つとみられている。]]
[[ファイル:五稜郭本陣.jpg|thumb|箱館御役所(奉行所庁舎)<br />(1868年冬撮影)]]
[[1854年]]([[安政]]元年)3月、[[日米和親条約]]の締結により箱館開港が決定すると、幕府は[[松前藩]]領であった箱館周辺を上知し、同年6月に[[箱館奉行]]を再置した<ref>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-02-00-01~02.htm |title=函館市史通説編第1巻 p.579|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-17}}</ref>。箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じ基坂(当時は松前藩の箱館奉行詰役所があった<ref name=shishi2-85>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-00/shishi_04-00-01-03-08.htm |title=函館市史通説編第2巻 pp.85-87|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-24}}</ref>)に置かれた。初代奉行の[[竹内保徳]]は松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示したが、続いて奉行に任命された[[堀利煕]]は、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内である[[函館山|箱館山]]に登れば奉行所を見下ろせることから防御に適さず、亀田方面への移転が必要であると上申。そして竹内・堀は江戸に戻ると、当時の大砲では箱館湾からの射程外である、鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を[[老中]]・[[阿部正弘]]に出した。これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定した<ref name=shishi2-85 />。

併せて、矢不来(やぎらい、現在の[[北斗市]])、押付、山背泊(やませどまり)、弁天岬、立待岬、築島、沖の口番所の7か所の台場の新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿部は同時に築造するのは困難であることから、まず弁天岬([[弁天台場]])と築島(実施されず)に着手するよう指示している<ref name=shishi2-85 />。

[[1855年]](安政2年)7月に[[フランス]]の軍艦コンスタンティーヌ号が箱館に入港{{Refnest|group="注釈"|当時、フランスは条約未締結国であったが、病人を上陸させ養生させたいとの願い出を箱館奉行所が受け入れ、特別に入港を許可した<ref>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-00/shishi_04-00-01-03-08.htm |title=函館市史通説編第2巻 pp.67-69|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-21}}</ref>。}}した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた<ref>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-13-01-01.htm |title=函館市史通説編第1巻 pp.663-665|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-21}}</ref>[[武田斐三郎]]が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った<ref>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-00/shishi_04-00-01-03-09.htm |title=函館市史通説編第2巻 pp.69-70|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-21}}</ref>。武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|p=18}}</ref>。そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成された<ref name=shishi1-585 />。当初は工事期間20年の計画であったが、蝦夷地警備を命じられた松前藩([[戸切地陣屋]])・[[津軽藩]]([[千代ヶ岱陣屋|津軽陣屋]])・[[南部藩]]([[南部陣屋]])・[[仙台藩]](白老陣屋)の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった<ref name=shishi2-87 />。

[[1856年]](安政3年)11月、組頭・[[河津祐邦]]、調役並・鈴木孫四郎、下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎らを台場並亀田役所土塁普請掛に任命<ref name=shishi1-585 />し、[[1857年]](安政4年)7月に五稜郭の築造を開始<ref name=shishi2-88>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-00/shishi_04-00-02-02-03.htm |title=函館市史通説編第2巻 pp.88-89|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-27}}</ref>。建物については、[[1856年]](安政5年)から郭外北側に役宅を建設、[[1861年]]([[文久]]元年)に奉行所庁舎建設を開始した。施工は土木工事を[[松川弁之助]]、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人中川伝蔵が請け負った<ref>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-03-00-03~05.htm |title=函館市史通説編第1巻 p.588|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-20}}</ref>。当初は、まず掘割と土塁工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画であったが、当地は地盤が脆弱であり、冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させた<ref name=shishi2-88 />。

1864年([[元治]]元年)に竣工、6月15日に箱館奉行・[[小出秀実]]が奉行所を五稜郭内に移転し業務を開始した。引き続き防風林や庭木としての[[アカマツ]]の植樹{{Refnest|group="注釈"|このアカマツは箱館奉行所組頭・[[栗本鋤雲|栗本瀬兵衛]]が佐渡から種子を取り寄せ、七重で育てた若木を五稜郭に移植したもの。1872年(明治9年)、[[明治天皇]]が[[官園 (開拓使)|七重勧業課試験場]]に行幸した際に一部が[[札幌本道]]沿いに移植され、[[国道5号|赤松街道]]のはじまりとなった<ref>{{cite web||url=http://www.town.nanae.hokkaido.jp/hotnews/detail/00000225.html |title=赤松街道|publisher=七飯町 |accessdate=2014-11-19}}</ref>。}}や付帯施設の工事も行われ、[[1866年]](慶応2年)に全ての工事が完了した<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|p=21}}</ref>。

建設費用は、堀・土木・石垣工事が予算98,000両に対し53,144両、建物工事が予算25,000両に対し44,854両、水道工事が予算20,000両に対し6,092両、全体で予算143,000両に対し104,090両であった(その他、弁天台場が予算100,000両に対し107,277両)<ref name=mokuroku20>[[#五稜郭分館常設展示目録|五稜郭分館常設展示目録]] p.20</ref>。この巨額工事には最盛期で5、6千人の人夫が使われたといわれ、箱館は大いに繁栄した<ref>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-03-00-03~05.htm |title=函館市史通説編第1巻 p.589|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-27}}</ref>。

=== 箱館戦争 ===
[[ファイル:Land And Naval Battle of Hakodate.JPG|thumb|300px|「箱館大戦争之図」[[歌川芳虎|永嶌孟斎]]画]]
{{main|箱館戦争}}
[[大政奉還]]の後、新政府により[[箱館府]]が設置されると、五稜郭は、[[1868年]](慶応4年)閏4月に箱館奉行・[[杉浦梅潭|杉浦誠]]から箱館府知事・[[清水谷公考]]に引き渡され<ref>{{Harvnb|田口英爾|1995|pp=183-184}}</ref>、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に[[榎本武揚]]率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の[[森町 (北海道)|森町]])に上陸。箱館府は迎撃したものの各地で敗北、10月25日に清水谷知事が箱館から[[青森]]へ逃走し、10月26日に[[松岡四郎次郎]]隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は[[大鳥圭介]]によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態であったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた<ref>大鳥圭介「南柯紀行」[[#大鳥・今井 1998|大鳥・今井 1998]] pp.72,80</ref>。

同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている<ref>{{Harvnb|田口英爾|1995|p=113}}</ref>。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、[[甲鉄]]が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により[[古屋佐久左衛門]]らが死傷<ref name=imai183>今井信郎「北国戦争概略衝鉾隊之記」[[#大鳥・今井 1998|大鳥・今井 1998]] p.183</ref>。また、新政府軍は各所に陣地を築き大砲を並べ五稜郭を砲撃した<ref name=imai183 />ため、旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、石垣や堤を盾にして畳を敷き屏風を立てて凌ぐ有様であった<ref>大鳥圭介「南柯紀行」[[#大鳥・今井 1998|大鳥・今井 1998]] p.96</ref>。その後、5月15日の弁天台場降伏および16日の[[千代ヶ岱陣屋]]陥落により五稜郭は孤立、5月18日に榎本らが降伏し、五稜郭は新政府軍に引き渡された。

=== 練兵場 ===
明治以降、五稜郭は[[兵部省]]([[1873年]](明治6年)から[[陸軍省]])の所管となった<ref name=tahara31>{{Harvnb|田原良信|2008|p=31}}</ref>。奉行所庁舎および付属建物の多くは、[[1871年]](明治4年)に[[札幌]]の[[開拓使]]本庁舎建設の資材とする目的で解体されたが、実際には札幌に運ばれず、[[札幌本道]]の工事や蓬莱町遊郭の建設資材として使われた<ref>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/yowa/yowa_contents/yowa_004.htm |title=市史余話4「五稜郭庁舎 解体材の行方」|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-08}}</ref>。
その後、五稜郭は特に手を加えられることなく、練兵場として使用された<ref name=tahara31 />ほか、[[1890年]](明治23年)から[[1899年]](明治32年)まで[[津軽要塞|函館要塞]]砲兵大隊の仮事務所が置かれた<ref>{{cite web|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_03/shishi_05-02/shishi_05-02-03-03-01.htm|title=函館市史通説編第3編 pp.287-288|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-20}}</ref>。
一般市民は立入禁止であったが、[[中川嘉兵衛]]が陸軍の許可を得て、1871年から五稜郭の氷を切り出し、[[函館氷]]として売り出している<ref>{{cite web|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-09/shishi_04-09-01-04-02.htm|title=函館市史通説編第2編 pp.1057-1063|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-20}}</ref>。

=== 五稜郭公園 ===
[[ファイル:Cherry of Goryokaku 五稜郭の桜 (2497592882).jpg|right|thumb|五稜郭の桜と五稜郭タワー]]
[[1913年]]([[大正]]2年)、[[函館区]]長が[[陸軍大臣]]に、五稜郭を公園として無償貸与して欲しいとの請願を行った。翌年、陸軍から、使用許可時点の状態を変更することは認めない、最小限の便益施設の設置や新たな樹木の植栽は全て函館要塞司令部の許可が必要である、かつ借用期間中の土地建物等の保存責任と費用負担は函館区が負う、などの条件付きで使用許可が出され、「'''五稜郭公園'''」として一般開放された<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=32-33}}</ref>。また、[[函館新聞|函館毎日新聞]]が発行1万号を記念して、1913年から10年かけて数千本の[[ソメイヨシノ]]を植樹した。この桜は現在も約1,600本が残っており、北海道内有数の花見の名所となっている<ref name=history03>{{cite web||date= |url=http://www.goryokaku-tower.co.jp/pdf/history03.pdf |title=幕末の激動と、その後の五稜郭 |format=PDF |publisher=五稜郭タワー |accessdate=2014-11-22}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|五稜郭のソメイヨシノは、函館の桜の開花観測の標本木となっている<ref>{{cite web|format=PDF|url=http://www.jma-net.go.jp/hakodate-c/guide/press/2014/press20140428.pdf |title=函館で「サクラの開花」を観測しました。|publisher=函館地方気象台 |accessdate=2014-11-20}}</ref>}}。

[[1925年]](大正11年)には[[内務省]]に所管が変わるとともに、[[史蹟名勝天然紀念物保存法]]に基づく[[史蹟]]に指定された。[[1929年]]([[昭和]]4年)には郭外の長斜坂が追加指定され、[[文部省]]の所管となった。そして戦後、[[文化財保護法]]が制定されると、[[1952年]](昭和27年)に[[特別史跡]]に指定された<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=33-34}}</ref>。

[[1954年]](昭和29年)には、函館で開催された[[北洋漁業再開記念北海道大博覧会]](北洋博)の第二会場となった<ref name=tahara34>{{Harvnb|田原良信|2008|p=34}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|第一会場は[[函館公園]]。五稜郭は特別史跡に指定されていたため、現状変更は厳しいところ、将来的に奉行所を復元するための資料を十分に得ていることを理由に文化財保護委員会から許可された<ref name=tahara34 />。}}。北洋博で「観光館・お菓子デパート」として用いられた建物は、翌[[1955年]](昭和30年)から[[市立函館博物館]]五稜郭分館となり、奉行所の復元工事に伴い、[[2007年]]([[平成]]19年)11月に閉館するまで箱館戦争関連の品々を展示していた<ref>{{cite web|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_07-02/shishi_07-02-18.htm|title=函館市史通説編第4編 pp.688-692 コラム18 北洋博覧会の開催 「北洋の基地」から「観光都市」へ|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-16}}</ref>。また、発掘調査・復元工事が行われる以前には中央部の広場で地元の運動会や夏季の[[林間学校]]などが行われ<ref name=tahara34 />、堀も水質が良好だった時代には[[プール]]や[[スケートリンク]]として使用されていた<ref name=history03 />。

=== 函館を代表する観光地に ===
[[ファイル:Gtwintower.JPG|right|thumb|新旧五稜郭タワー(2006年1月)]]
[[1964年]](昭和34年)、五稜郭築城100年を記念して、南隣に高さ60メートルの[[五稜郭タワー]]が開業<ref>{{cite web|url=http://goryokaku-tower.co.jp/html/related/oldtower.html|title=旧タワーについて|publisher=五稜郭タワー |accessdate=2014-11-20}}</ref>。
[[1970年]](昭和45年)からは毎年5月に「'''[[箱館五稜郭祭]]'''」が開催され、箱館戦争の旧幕府軍・新政府軍に扮した「維新パレード」、[[土方歳三]]の物まねを競う「土方歳三コンテスト」などが行われている<ref>{{cite web|url=http://www.hotweb.or.jp/goryokaku-sai/index.html|title=箱館五稜郭祭公式ページ|publisher=箱館五稜郭祭協賛会 |accessdate=2014-11-19}}</ref>。
そのほか、[[1988年]](昭和63年)から五稜郭の土手や堀を舞台に市民ボランティアが函館の歴史を演じる「'''[[市民創作函館野外劇]]'''」<ref>{{cite web|url=http://www.yagaigeki.com/|title=市民創作函館野外劇公式ページ|publisher=NPO法人市民創作「函館野外劇」の会 |accessdate=2014-11-20}}</ref>や、[[1989年]](平成元年)からは、冬の夜間に五稜郭のライトアップを行う「'''五稜星の夢'''」<ref>{{cite web|url=http://www.ikamesi.com/hosinoyume/|title=五稜星の夢公式ページ|publisher=まちをつくる”五稜星の夢”実行委員会 |accessdate=2014-11-19}}</ref><ref name="hokkaido-np-2014-11-25">{{Cite news | url = http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki2/576433.html | title =函館・五稜郭跡をライトアップ「五稜星の夢」 準備着々、29日に点灯 | newspaper = [[北海道新聞]] | publisher = 北海道新聞社 | date = 2014-11-25 }}</ref>が始まり、現在まで続いている。近年では、[[2006年]](平成18年)に五稜郭タワーが高さ107メートルの新タワーに改築された<ref>{{cite web|url=http://www.goryokaku-tower.co.jp/html/info/index.html|title=五稜郭タワーとは|publisher=五稜郭タワー |accessdate=2014-11-23}}</ref>。

五稜郭は、[[2004年]](平成16年)に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として[[北海道遺産]]に選定<ref>{{cite web|url=http://www.hokkaidoisan.org/heritage/028.html|title=五稜郭と箱館戦争の遺構|publisher=北海道遺産協議会 |accessdate=2014-11-22}}</ref>されたほか、観光地の評価としては、[[ミシュランガイド|ミシュラン・グリーンガイド・ジャパン]]で、「五稜郭跡」、「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得している<ref>{{cite web||date= |url=http://www.michelin.co.jp/content/download/6005/193094/version/1/file/GVJ_ed3_list_2013_modified_20130312.pdf |title=三つ星・二つ星・一つ星の観光地リスト |format=PDF |publisher=日本ミシュランタイヤ |accessdate=2014-11-19}}</ref>。

=== 奉行所復元 ===
函館市では、[[1983年]](昭和58年)頃から五稜郭の復元整備を目的とした資料調査を進めた<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=39-40}}</ref>。これと並行して郭内中心部の遺構確認試掘調査を行い、奉行所等建物の遺構の残存状況が良好であることを確認し、[[1985年]](昭和60年)から本格的な奉行所遺構の発掘調査を開始した。1985年(昭和60年)から[[1989年]](平成元年)、[[1993年]](平成5年)から[[2000年]](平成12年)、[[2001年]](平成13年)、[[2005年]](平成17年)と四度の発掘調査を行い、復元に向けて多数の基礎的資料を得ている<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=53-56}}</ref>。

この間、有識者で構成された「特別史跡五稜郭跡保存整備委員会<ref>{{cite web||url=http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014012800556/ |title=特別史跡五稜郭跡保存整備委員会|publisher=函館市 |accessdate=2014-11-23}}</ref>」が、2000年(平成12年)に「箱館奉行所復元構想」を、2001年(平成13年)に「箱館奉行所復元計画(郭内土塁内エリア整備計画)」を策定し、箱館奉行所庁舎等の復元整備と活用・公開等についての計画を立案した。その後、文化庁と復元に向けた協議を実施し、2006年(平成18年)に現状変更許可を得て着工した<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=157,163-164}}</ref>。[[2010年]](平成22年)に復元工事が完成、7月29日に開館した<ref>{{cite web||url=http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010071601000306.html |title=五稜郭跡の「箱館奉行所」公開 140年ぶり復元|publisher=全国新聞ネット |accessdate=2014-11-28}}</ref>。


== 構造 ==
== 構造 ==
{{建築物
[[画像:5ryokaku stereo.jpg|thumb|360px|五稜郭の[[ステレオグラム|ステレオ]]空中写真(1976年) {{国土航空写真}}]]
|名称 = 箱館奉行所(復元)
[[ファイル:GoryokakuPlanLarge.jpg|thumb|五稜郭絵図]]
|旧名称 =
[[ファイル:Fortbourtange.jpg|thumb|本来のヨーロッパの稜堡式の築城の例。[[オランダ]]の{{仮リンク|ブルタンヘ要塞|en|Fort Bourtange}}。]]
|画像 = [[画像:Restored Hakodate Bugyosho.jpg|250px]]
費用不足もあって、当初の計画は縮小された。[[半月堡]]も[[大手口]]に一箇所しか造られなかった。本来のヨーロッパの稜堡式の築城様式であれば、半月堡は二重、三重に築かれて[[縦深防御]]を構成したが、たった一箇所の半月堡ではかなり見劣りがする。
|画像説明 = 箱館奉行所
|用途 = 資料館
|旧用途 =
|設計者 = [[文化財保存計画協会]]
|構造設計者 =
|施工 = [[竹中工務店]]・加藤組土建・石井組・野辺工務店・明匠建工
|建築主 = 函館市
|事業主体 = 函館市
|管理運営 = 名美興業(指定管理者)
|構造形式 = 木造
|敷地面積= |敷地面積ref= |敷地面積備考=
|建築面積= 1,033.38|建築面積ref= |建築面積備考=
|延床面積= 979.40|延床面積ref= |延床面積備考=
|階数 = 平屋建
|高さ =
|着工 =
|竣工 = [[2010年]]
|開館開所 =
|改築 =
|所在地郵便番号 = 040-0001
|所在地 = 函館市五稜郭町44番3号
|緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
|経度度 = |経度分 = |経度秒 =
|文化財指定 =
|指定日 =
|備考 =
}}
[[ファイル:Goryokaku Hakodate Hokkaido Japan01s3.jpg|thumb|left|築造当時の五稜郭(模型)。手前の橋は裏門橋。]]
[[ファイル:GoryokakuSmall.jpg|thumb|left|半月堡]]
五稜郭は、水堀で囲まれた[[五芒星]]型の堡塁と1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、その内側に奉行所などの建物が建築された。その他、郭外北側に役宅街が造られた。現在の敷地面積(国有地部分)は、郭内外合わせて250,835.51平方メートル<ref>{{cite web||url=http://www.kokuyuzaisan-info.mof.go.jp/kokuyu-info/info/now/ik_monbu.zip |title=平成24年度国有財産一件別情報(文部科学省)|publisher=財務省理財局管理課国有財産情報室 |accessdate=2014-11-26}}</ref>であり、うち郭内は約12万平方メートルである<ref name=mokuroku20 />。


=== 外構 ===
また箱館開港時に政庁[[遠国奉行#箱館奉行(松前奉行)|箱館奉行所]]がおかれたが、[[大砲]]の標的となることを防ぐ目的で建物を低く設計したため、政庁を置くスペースがなくなった。純[[軍事施設]]としての建造が本来の稜堡式の築城様式であり、これは目的に叶っていない。
予算の制約と開港後の外国の脅威が予想ほどではなかったことから、外構工事は縮小された。当初5ヶ所を計画していた半月堡は1ヶ所のみ、内岸沿いの低塁も3辺のみ、郭外の長斜坂も4辺しか造られなかった<ref>[[#箱館戦争のすべて|箱館戦争のすべて]] pp.120-121</ref>。


==== 土塁 ====
当時の日本の城郭は、政治的変化や[[戦争]]と[[銃砲]]の発達を経験したヨーロッパと異なり、居住施設である[[宮殿]]と軍事施設である[[要塞]]の分離がほとんど行われておらず<!--ref>戦国時代以前の日本の伝統としては、朝鮮半島式の軍事施設([[山城]])と[[居住]][[施設]]の分離だが、[[戦国時代]]の[[鉄砲伝来]]による[[防御]]力の増大により、居住施設と軍事施設の一体化へと発展していった。その後ヨーロッパでは逆に大砲の発達による居住施設と軍事施設の分離の方向へと発展していったが、日本では[[戦国時代]]の終焉により[[軍事技術]]が停滞した。また、[[一国一城令]]などによって一部の例外([[仙台藩]]の[[仙台藩の城砦|要害]]や[[薩摩藩]]の[[根小屋]]など)を除いて純軍事施設としての城郭は破棄され、残った「一国に一つ」の城は、居住施設を兼ねるものがほとんどになった。</ref-->、居住施設(五稜郭の場合は役所)と軍事施設を兼務していた。そのため見かけだけの西洋式築城であるという評が一般的である。五稜郭以外に洋式築城が用いられたのは龍岡城や明治維新後の[[松尾城 (上総国)|松尾城]]などであり、このほかに[[前橋城]]が部分的に擬似洋式築城を用いている。また、[[松前城]]や五島[[石田城]]など純和式の城郭に砲台を追加したものなども築造された。そのような旧式の城郭が大砲を備えた近代戦の攻防の舞台となればどういう目に遭うかは、[[会津若松城]]・[[白河小峰城]]の[[休戦]]後の[[写真]]を見れば明らかである。
堀を掘った土で土塁を築いた。本塁の高さは7.5メートル、幅は土台部分で30メートル、上部の塁道が8メートルあり、塁道は砲台として使用された。そのほか郭内への入口の奥に高さ5.5メートルの見隠塁、堀の内岸に高さ2メートルの低塁、郭外に高さ1メートル強の長斜坂が築かれた<ref>[[#箱館戦争のすべて|箱館戦争のすべて]] pp.121-122</ref>。


==== 堀 ====
実際、[[箱館戦争]]の際、写真にあるように箱館[[奉行所]]の建物の天辺にある[[楼閣]]が、[[官軍]]の[[軍艦]]の[[艦砲射撃]]の格好の[[標的]]となった。それを知った[[幕府陸軍|旧幕府軍]]は慌てて楼閣部分を撤去したが、射撃角度をかなりの精度で知られてしまい、要塞内に次々と着弾、最早この時点で要塞としての機能は[[麻痺]]していた。
総堀のほか、郭内への入口3ヶ所の両側に幅4メートルの空堀が造られた<ref>[[#箱館戦争のすべて|箱館戦争のすべて]] p.122</ref>。総堀の幅は最も広い所で約30メートル、深さは約4~5メートル、外周は約1.8キロメートル<ref name=mokuroku20 />。築造当時、五稜郭の裏手約1キロメートル離れた[[亀田川]]に取水口を設け、地中に埋めた箱樋を通して五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていた。しかし、第二次大戦後、亀田川の護岸工事により五稜郭へ水が流れなくなり、水位が低下して堀の水質が悪化<ref>[[#五稜郭物語|五稜郭物語]] pp.30-32</ref>、悪臭を放つようになったため、1974年(昭和49年)からは水道水を堀に流すようになった<ref>[[#はこだて歴史散歩|はこだて歴史散歩]] p.194</ref>。


==== 石垣 ====
防御壁としては[[土塁]]を築き、砲弾のショックを吸収するのが稜堡式の築城様式の特徴である。しかし、五稜郭の場合は土塁を築こうにも[[北海道の気候|北海道の寒冷な気候]]に適合せず、[[冬]]の間に凍った土塁が、[[春]]の温かさで崩壊するという困難に直面した。そのためわざわざ[[石垣]]を築き、その上に土を盛るという手間をかけている。なお、土塁に固執しなくとも、[[南北戦争]]の[[サムター要塞]]のように、柔らかい[[煉瓦]]を使うという方法もあった。
[[ファイル:Goryokaku Hakodate Hokkaido Japan10n.jpg|thumb|left|大手口から入って左側の本塁の石垣。最上部に刎ね出しがある。右奥に見えるのは見隠塁。]]
当初は総堀のほか土塁全てに石垣を築く「西洋法石垣御全備」を計画したが、費用が嵩むとともに石の切り出しに時間がかかることから中止され<ref name=shishi2-88 />、石垣は堀のほか半月堡と郭内入口周辺にしか築かれなかった<ref>[[#箱館戦争のすべて|箱館戦争のすべて]] pp.120-123</ref>。函館山などから切り出された石材を使用したが、堀の石垣では資金不足のため赤川や亀田川の石を集めて代用した箇所がある(裏門橋側の一部に見られる)<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=147-149}}</ref>。半月堡と大手口の本塁の最上部には「刎ね出し(武者返し)」が付いている。


==== 橋 ====
一番の問題としては、既にヨーロッパでもこのような稜堡式の築城様式は、いささか旧式化していたことである。堡塁を重ねるのは[[小銃]]を防御兵器として用いるための方式であり、当時のヨーロッパでは大砲を[[掩体壕]]に据えての防御へと移行しつつあった時期である。現に同時期の[[普仏戦争]]において、[[フランス]]の稜堡式の要塞は[[プロイセン王国]]軍に簡単に突破・攻略され、要塞形式として旧式化していることを露呈していた。稜堡式の陣地を築いた例は[[近現代]]でもあるが、あくまで[[野戦]]築城であり、恒久的な要塞としての築城例は無い。ちなみに同時期に[[東京湾]]に築かれた[[台場]]は、大砲を用いる要塞施設である。
現在、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、および北側の裏門橋の3本の橋が架かっているが、築造当時は、半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていた<ref>函館区史 pp.252-253</ref>。なお現在の一の橋、二の橋は築造当時と同じ平橋であるが、1950年(昭和25年)から1980年(昭和55年)までは[[アーチ橋|太鼓橋]]が架けられていた<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=149-150}}</ref><ref>{{cite web||url=http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/postcards/4f0b7005ea8e8a0b70000dd7 |title=太鼓橋時代の一の橋の写真|publisher=はこだて未来大学 |accessdate=2014-12-02}}</ref>。


== 歴史・沿革 ==
=== 建物 ===
[[ファイル:Hakodate Magistrates Office Hakodate Hokkaido Japan15n.jpg|thumb|right|兵糧庫]]
=== 江戸時代 ===
[[ファイル:Hakodate Magistrates Office Hakodate Hokkaido Japan11n.jpg|thumb|right|復元された板庫と土蔵]]
[[ファイル:五稜郭本陣.jpg|thumb|箱館奉行所・五稜郭本陣<br />(明治元年冬撮影)]]
五稜郭内には、奉行所庁舎のほか、用人や近習の長屋、厩、仮牢など計26棟が建てられた<ref name=mokuroku20 />。建材は[[津軽]]・[[南部]]・[[出羽]]など、[[瓦]]は[[能登]]・[[越後]]など、[[釘]]や[[畳]]は[[江戸]]というように各地から運ばれた資材が用いられた<ref>[[#五稜郭分館常設展示目録|五稜郭分館常設展示目録]] p.24</ref>。なお、建材は[[能代]]などで予め加工し、現場では組立だけとすることで、経費節減に努めていた<ref>[[#五稜郭築造と箱館戦争|五稜郭築造と箱館戦争]] p.29</ref>。
* [[1854年]]([[安政]]元年) 箱館奉行・竹内保徳、堀利煕が箱館周辺の防備と奉行所移転に関し意見具申。
* [[1857年]](安政4年) 工事開始。同年、[[箱館通宝]]発行。
* [[1864年]](元治元年) 組立開始。この年[[遠国奉行#箱館奉行・松前奉行|箱館奉行所]]を[[道南十二館|宇須岸館]](別名・河野館または箱館)跡(現在の[[元町公園]])から五稜郭に移した。
* [[1866年]](慶応2年) 工事完了。


=== 近代 ===
==== 奉行所 ====
郭内中心部に建てられた。規模は東西約97メートル、南北約59メートルで、建物面積は約2,685平方メートル。一部二階建であり、西側の役所部分(全体の3/4)と東南の奉行役宅(奥向)から構成されていた<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|p=57}}</ref>。また役所部分は、正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれていた<ref>[[#五稜郭分館常設展示目録|五稜郭分館常設展示目録]] pp.22-23</ref>。
* [[1868年]](明治元年) [[10月26日]]、旧幕府軍の[[大鳥圭介]]隊と[[土方歳三]]隊の両隊が五稜郭を占拠。
* [[1869年]]1月(明治元年12月<!-- 15日 -->)、[[箱館政権]]樹立。
* [[1869年]](明治2年)[[5月18日]]、新政府軍に敗北し明け渡される。(詳細は[[箱館戦争]]を参照)
* [[1871年]](明治4年) 五稜郭内部の建物の解体が始まる。廃材は[[札幌本道]]工事や、蓬莱町遊郭の建設に使用された<ref>[http://www.lib-hkd.jp/hensan/yowa/yowa_contents/yowa_004.htm 市史余話 五稜郭庁舎解体材の行方] - 函館市中央図書館</ref>。[[中川嘉兵衛]]が結氷を切り出し、「[[函館氷]]」と銘打って京浜市場に送りはじめる。
* [[1873年]](明治6年) この年から1897年まで[[陸軍省]]の管轄下に置かれ練兵場として使用される<ref name=tower3>[http://www.goryokaku-tower.co.jp/pdf/history03.pdf 幕末の激動と、その後の五稜郭] - 五稜郭タワー</ref>。
* [[1914年]](大正3年) 公園として一般に公開される。同年から1923年にかけて5000本の[[サクラ]]が植樹され、サクラの名所となる<ref name=tower3 />
* [[1917年]](大正6年) [[片上楽天]]が兵糧庫を利用して「懐旧館」を設立。箱館戦争に関する資料を展示していた。
* [[1922年]](大正11年) 国の[[史跡]]に指定される<ref name=tower3 /><ref name=bunkazaidb>{{国指定文化財等データベース|401|7|五稜郭跡}}</ref>。
* [[1929年]](昭和4年) 郭外長斜堤(長斜坂)が史跡に追加指定<ref name=tower3 /><ref name=bunkazaidb/>。
[[File:Restored Hakodate Bugyosho.jpg|thumb|復元された箱館奉行所(2010年8月撮影)]]


正面玄関を入った先に高さ約16.5メートルの太鼓櫓が設けられたが、箱館戦争で甲鉄の艦砲射撃を受けた際に、その照準となっていると考えた旧幕府軍が慌てて切り倒している<ref>{{Harvnb|竹内収太|1983|p=192}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|この作業をさせられたのは、箱館府により牢に入れられ、旧幕府軍の五稜郭占領後、土木工事に従事させられていた中国人<ref>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/yowa/yowa_contents/yowa_023.htm |title=市史余話23 箱館戦争シリーズ 41人の中国人 |publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-27}}</ref>であった。}}。
=== 現代 ===
* [[1952年]](昭和27年) 特別史跡に指定される<ref name=tower3 /><ref name=bunkazaidb/>。
* [[1954年]](昭和29年) 北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)の第2会場となる<ref>[http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_07-02/shishi_07-02-18.htm 函館市史通説編第4巻 北洋博覧会の開催] - 函館市中央図書館</ref>。
* [[1955年]](昭和30年) 北洋博の観光館・お菓子デパート建物を利用して、[[市立函館博物館]]五稜郭分館が開館。
* [[1964年]](昭和39年) 入口付近に[[五稜郭タワー]]が建設される。
* [[1970年]](昭和45年) この年から毎年[[5月]]の土日に箱館五稜郭祭が開催<ref>[http://www.hotweb.or.jp/goryokaku-sai/ 箱館五稜郭祭*公式サイト - Hakodate Goryokaku-Sai]</ref>。
* [[1988年]](昭和63年) この年から市民創作函館野外劇が開催<ref>[http://www.yagaigeki.com/ashiato/index.html 野外劇の足跡] -箱館野外劇公式サイト</ref>。
* [[2005年]](平成17年) 11月20日、函館市中央図書館が五稜郭公園西側入口近くの[[渡島支庁]]旧庁舎跡地に開館。
* [[2006年]](平成18年) 4月1日、新しい五稜郭タワー(高さ107m)が開館。
* [[2006年]](平成18年) 7月13日から、函館市は当時の図面・古写真・文献資料に基づいて[[箱館奉行所]]の復元工事に着手した<ref>[http://mainichi.jp/photo/news/20081104k0000m040086000c.html 五稜郭跡の「奉行所」復元工事を一般公開] (毎日新聞、2008年11月4日付)</ref>。
* [[2007年]](平成19年) 11月30日、市立函館博物館五稜郭分館が閉館<ref>[http://hakomachi.com/kankonews07/2007/11/post_62.html 市立函館博物館五稜郭分館 閉館]</ref>。
* [[2010年]](平成22年) 7月29日、箱館奉行所の復元工事が完成し、一般公開が始まる<ref>[https://archive.is/20120710000351/mainichi.jp/hokkaido/shakai/news/20100730hog00m040004000c.html 函館:五稜郭跡に「箱館奉行所」復元 一般公開に500人が列] (毎日新聞、2010年7月30日付)</ref>。


奉行所の復元に際し、当初、函館市は奉行所の建物全体の復元を計画したが、[[建築基準法]]では1,000平方メートルごとに[[防火区画|防火壁]]を設置しなければならず、復元と防火壁の両立を文化庁と協議した結果、景観上芳しくないこともあり断念し、約1,000平方メートル以内の復元に留めることとなった<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=160-162}}</ref>。当時と同じ材料、同じ工法で、奉行所の南棟と中央棟部分が復元され<ref>{{cite web||url=http://www.takenaka.co.jp/solution/purpose/traditional/service10/ |title=特別史跡五稜郭跡内箱館奉行所庁舎復元工事|publisher=竹中工務店 |accessdate=2014-11-23}} - 元の建物と復元部分の比較図あり。</ref>、復元された奉行所は、平成23年度の[[赤レンガ建築賞|北海道赤レンガ建築賞]]を受賞している<ref>{{cite web||url=http://www.do-sumai.jp/weblog02/cat150/ |title=平成23年度北海道赤レンガ建築賞|publisher=北海道 |accessdate=2014-11-15}}</ref>。
== イベント ==

* [[箱館五稜郭祭]]
==== 兵糧庫 ====
* [[市民創作函館野外劇]]
築造当時から唯一現存する建物である。明治30年代に函館要塞砲兵大隊の兵舎として使用され<ref>[[#五稜郭物語|五稜郭物語]] p.159</ref>、一般開放後、[[1917年]](大正6年)から片上楽天が私設の展示館「懐古館」を開き箱館戦争の資料を展示していた<ref>[[#五稜郭築造と箱館戦争|五稜郭築造と箱館戦争]] p.69</ref>ほか、市立博物館の科学教室としても使用されていたことがある<ref>{{Harvnb|元木省吾|1987|p=80}}</ref>。1972-1973年と2001-2002年に復元工事が行われ現在の姿となった<ref>{{Harvnb|田原良信|2008|pp=92-95}}</ref>。
* 五稜星の夢

: 1989年から実施されている五稜郭をライトアップするイベント<ref name="hokkaido-np-2014-11-25">{{Cite news | url = http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki2/576433.html | title =函館・五稜郭跡をライトアップ「五稜星の夢」 準備着々、29日に点灯 | newspaper = [[北海道新聞]] | publisher = 北海道新聞社 | date = 2014-11-25 }}</ref>。
==== 板庫・土蔵 ====
奉行所復元と同時に、兵糧庫の北側にあった市立博物館五稜郭分館を解体し板庫(いたくら)と土蔵を復元している。板庫は売店および休憩所、土蔵は管理事務所に使用されている<ref name=annai>{{cite web||url=http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014012100380/ |title=五稜郭内施設案内|publisher=函館市 |accessdate=2014-11-23}}</ref>。

==== 役宅 ====
五稜郭の北側(現在の中道1丁目および本道1丁目)に、組頭以下同心までの役宅や長屋、数十軒が建設された<ref>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-00/shishi_04-00-02-02-04.htm |title=函館市史通説編第2巻 pp.90-91|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-20}}</ref>。付近には郷宿や料理店も開業し街が形成された<ref>{{cite web||url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-16-00-04~05.htm |title=函館市史通説編第1巻 p.706|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2014-11-20}}</ref>が、箱館総攻撃の際に退却する旧幕府軍により焼き払われた<ref name=imai183 />。現在は住宅街となっている。

=== 軍備 ===
築造時点では大砲を設置していなかったとみられる<ref name=shishi2-88 />が、旧幕府軍が五稜郭を占領したときには、二十四斤砲4門が配備されていた<ref>{{Harvnb|竹内収太|1983|p=106}}</ref>。

箱館総攻撃の際、旧幕府軍は、二十四斤加農砲9門、四斤施条クルップ砲13門、拇短クルップ砲10門を配備していた<ref>{{Harvnb|竹内収太|1983|p=199}}</ref>。但し降伏時に新政府軍に引き渡された大砲は、長加農二十四斤砲9門、四斤施条砲3門、短忽微(ホーイッスル)砲2門、亜ホート忽微砲3門、十三拇(ドイム)臼砲16門であった<ref>丸尾利恒「北州新話」[[#箱館戦争資料集|箱館戦争資料集]] p.161</ref>。

== 石碑その他 ==
[[ファイル:Goryokaku Hakodate Hokkaido Japan08n.jpg|right|thumb|武田斐三郎先生顕彰碑]]
* 武田斐三郎先生顕彰碑
:郭内にある。1963年(昭和38年)、五稜郭築城100周年を記念して建てられた。題字は[[太田鶴堂]]で、彫刻家・[[鈴木達]]が作った斐三郎のレリーフがはめ込まれている<ref>[[#はこだて歴史散歩|はこだて歴史散歩]] p.195</ref>。
* 一万号記念桜樹碑
:1923年(大正12年)、函館毎日新聞社が五稜郭に植樹した桜が1万本に達したことを記念して建てられた<ref name=annai />。
* 巌谷小波の句碑
:一万号記念桜樹碑の隣にあり、1915年(大正4年)に建てられた。1913年(大正2年)に作家・[[巌谷小波]]が来道の際に詠んだ句「其跡や其血の色を艸の花」が刻まれている<ref>{{cite web|url=http://www.h-bungaku.or.jp/issue/pdf/jiten01.pdf|format=PDF|title=北海道文学大事典 p.52 |publisher=北海道立文学館 |accessdate=2014-11-20}}</ref><ref name=annai />。
*箱館戦争当時の大砲
:五稜郭に配備されていたものではないが、箱館戦争で使用された大砲が2門、郭内に展示されている。1門は、旧幕府軍が箱館占領中に構築した築島台場に備え付けられた砲(英・ブラッケリー社製){{Refnest|group="注釈"|築島台場は、函館港内、現在の豊川町から末広町付近にあったものとみられている。1961年(昭和36年)、北海道漁連函館支所の建設工事中に土中から発見された<ref>[[#はこだて歴史散歩|はこだて歴史散歩]] p.189</ref>。}}で、もう1門は明治2年5月11日の[[箱館湾海戦]]で沈没した新政府軍の軍艦・[[朝陽丸|朝陽]]の砲(独・[[クルップ]]社製){{Refnest|group="注釈"|1932年(昭和7年)、七重浜埋立工事中に発見され、[[亀田八幡宮]]に奉納された。戦後、GHQの目を恐れ土に埋めたが、1958年(昭和33年)、皇太子の市立博物館五稜郭分館来館を機に博物館に寄贈された<ref>[[#はこだて歴史散歩|はこだて歴史散歩]] p.190</ref>。}}である。
<gallery>
ファイル:Hakodate Magistrates Office Hakodate Hokkaido Japan13n.jpg|築島台場のブラッケリー砲。
ファイル:Hakodate Magistrates Office Hakodate Hokkaido Japan14n.jpg|朝陽のクルップ砲。
</gallery>
* 藤棚
:二の橋を渡り郭内に入った正面にあり、5、6月に見頃を迎える。五稜郭公園開園当時に園内の食堂経営者が別の場所に植樹したもので、1920年以降に函館市により現在地に移設されたといわれる<ref>{{cite web|url=http://www.hakodateshinbun.co.jp/topics/topic_2007_6_27.html|title=函新トピック2007年6月27日 市民団体、フジ棚の現状維持を要望 |publisher=函館新聞社 |accessdate=2014-11-19}}</ref>。奉行所復元工事の際、同所に表門があったとして、門の復元のため移設されそうになったが、市民の保存運動により残された。
* 男爵芋の碑
:裏門郭外にある。第二次大戦中に[[ジャガイモ|男爵芋]]が食料として市民を飢えから救ったことを感謝して、1947年(昭和22年)に建てられた<ref>[[#はこだて歴史散歩|はこだて歴史散歩]] p.193</ref>。


== 現地情報 ==
== 現地情報 ==
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; 交通アクセス
; 交通アクセス
* [[函館市交通局|函館市電]]2系統・5系統[[五稜郭公園前停留場]] - 徒歩15分
* [[函館市交通局|函館市電]]2系統・5系統[[五稜郭公園前停留場]] - 徒歩15分
    [[函館本線]]の[[五稜郭駅]]からは2km程度離れている。
: [[函館本線]]の[[五稜郭駅]]からは2km程度離れている。
* [[函館バス]]「五稜郭公園入口」 - 徒歩7分、「中央図書館前」下車すぐ(裏門から入場)
* [[函館バス]]「五稜郭公園入口」 - 徒歩7分、「中央図書館前」下車すぐ(裏門から入場)
* 函館バス「五稜郭タワー・トラピスチヌ シャトルバス」(冬季は土日のみ運行) - 五稜郭タワー前に停車<ref>[http://donan.net/hbus/newpage2014-106-gotora.html 五稜郭タワー・トラピスチヌ シャトルバス時刻表] - 函館バス</ref>。
* 函館バス「五稜郭タワー・トラピスチヌ シャトルバス」(冬季は土日のみ運行) - 五稜郭タワー前に停車<ref>[http://donan.net/hbus/newpage2014-106-gotora.html 五稜郭タワー・トラピスチヌ シャトルバス時刻表] - 函館バス</ref>。
* [[北海道道571号五稜郭公園線]]
* [[北海道道571号五稜郭公園線]]

=== 近隣施設 ===
*[[五稜郭タワー]]
*[[北海道立函館美術館]]
*[[北洋資料館]]
*[[函館市文化ホール]]
*[[函館市中央図書館]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references />
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
*『函館市史』函館市([http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/shishi_index.htm 「函館市史」デジタル版])
*『函館区史』函館区([http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763068/1 近代デジタルライブラリー])
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* {{cite book|和書|author= |year= 2014|title= 五稜郭築造と箱館戦争|editor=|publisher= 市立函館博物館|isbn= |ref=五稜郭築造と箱館戦争}}
* {{cite book|和書|author= 大鳥圭介・[[今井信郎]]|year= 1998|title= 南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記|publisher= [[新人物往来社]]|isbn= 4-404-02627-7|ref=大鳥・今井 1998}}
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* {{cite book|和書|author= |year= 1984|title= 箱館戦争のすべて|editor=須藤隆仙・編|publisher= 新人物往来社|isbn= 4-404-01247-0|ref=箱館戦争のすべて}}
* {{cite book|和書|author= |year= 2011|title= 箱館戦争資料集|editor=須藤隆仙・編|publisher= 新人物往来社|isbn= 978-4-8354-4741-4|ref=箱館戦争資料集}}
* {{cite book|和書|author= 田口英爾|year= 1995|title= 最後の箱館奉行の日記|publisher= [[新潮社]]|series =新潮選書|isbn= 4-10-600475-5|ref=harv}}
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* {{cite book|和書|author= 田原良信|year= 2008|title= 五稜郭|publisher= 同成社|series =日本の遺跡27|isbn= 978-4-88621-434-8|ref=harv}}
* {{cite book|和書|author= 元木省吾|year= 1987|title= 新編=函館町物語|publisher= 幻洋社|isbn= 4-906320-02-3|ref=harv}}
* {{cite book|和書|author= |year= 1979|title= 五稜郭物語|edition=改訂版|editor=[[北海道新聞社]]函館支社・編|publisher= 五稜郭タワー|ref=五稜郭物語}}
* {{cite book|和書|author= |year= 1982|title= はこだて歴史散歩|editor=[[北海道新聞社]]・編|publisher= 北海道新聞社|isbn= 4-89363-315-5|ref=はこだて歴史散歩}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commonscat|Goryokaku}}
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* [[日本の城一覧]]
* [[日本の特別史跡一覧]]
* [[北海道・東北の史跡一覧]]
* [[日本100名城]]
* [[五稜郭 (テレビドラマ)]]
* [[五稜郭 (テレビドラマ)]]
* [[四稜郭]]
* [[四稜郭]]
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* [[星形要塞]]
* [[星形要塞]]
* [[箱館通宝]]
* [[箱館通宝]]
* [[ハリファックス]] - 星状城塞がある縁で、函館市の姉妹都市となった。
* [[日本の城一覧]]
* [[日本の特別史跡一覧]]
* [[北海道・東北の史跡一覧]]
* [[日本100名城]]
* [[北海道の観光地]]
* [[北海道の観光地]]



2014年12月15日 (月) 09:54時点における版

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五稜郭
北海道
五稜郭タワーから望む五稜郭
五稜郭タワーから望む五稜郭
別名 亀田(御)役所土塁、柳野城
城郭構造 稜堡式
天守構造 なし
築城主 江戸幕府
築城年 1866年
主な改修者 なし
主な城主 なし
廃城年 1869年
遺構 土塁、石垣、堀、兵糧庫
指定文化財 特別史跡
再建造物 奉行所、板庫、土蔵
位置 北緯41度47分48.84秒 東経140度45分25.06秒 / 北緯41.7969000度 東経140.7569611度 / 41.7969000; 140.7569611
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五稜郭のステレオ空中写真(1976年) 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府により蝦夷地箱館(現在の北海道函館市)郊外に建造された稜堡式城郭である。長野県佐久市龍岡城など、当時日本で建造された星形の城郭を「五稜郭」と通称するが、一般に「五稜郭」といえば函館のそれを指すことが多い。

予算書時点から五稜郭の名称は用いられていた[1]が、築造中は、亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)[2]または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)[3]とも呼ばれた[注釈 1]。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ[4]

五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に幕府が崩壊、短期間箱館府が使用した後、箱館戦争旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。

国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。なお五稜郭は文化庁所管の国有財産[5]であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理している[6]

歴史

築造

「五稜郭之図」。最終設計図の一つとみられている。
箱館御役所(奉行所庁舎)
(1868年冬撮影)

1854年安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、幕府は松前藩領であった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を再置した[7]。箱館奉行所は前幕領時代(1802年-1807年)と同じ基坂(当時は松前藩の箱館奉行詰役所があった[8])に置かれた。初代奉行の竹内保徳は松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示したが、続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内である箱館山に登れば奉行所を見下ろせることから防御に適さず、亀田方面への移転が必要であると上申。そして竹内・堀は江戸に戻ると、当時の大砲では箱館湾からの射程外である、鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を老中阿部正弘に出した。これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定した[8]

併せて、矢不来(やぎらい、現在の北斗市)、押付、山背泊(やませどまり)、弁天岬、立待岬、築島、沖の口番所の7か所の台場の新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿部は同時に築造するのは困難であることから、まず弁天岬(弁天台場)と築島(実施されず)に着手するよう指示している[8]

1855年(安政2年)7月にフランスの軍艦コンスタンティーヌ号が箱館に入港[注釈 2]した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた[10]武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取った[11]。武田は、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行っている[12]。そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成された[2]。当初は工事期間20年の計画であったが、蝦夷地警備を命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩津軽陣屋)・南部藩南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった[1]

1856年(安政3年)11月、組頭・河津祐邦、調役並・鈴木孫四郎、下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎らを台場並亀田役所土塁普請掛に任命[2]し、1857年(安政4年)7月に五稜郭の築造を開始[13]。建物については、1856年(安政5年)から郭外北側に役宅を建設、1861年文久元年)に奉行所庁舎建設を開始した。施工は土木工事を松川弁之助、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人中川伝蔵が請け負った[14]。当初は、まず掘割と土塁工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画であったが、当地は地盤が脆弱であり、冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させた[13]

1864年(元治元年)に竣工、6月15日に箱館奉行・小出秀実が奉行所を五稜郭内に移転し業務を開始した。引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹[注釈 3]や付帯施設の工事も行われ、1866年(慶応2年)に全ての工事が完了した[16]

建設費用は、堀・土木・石垣工事が予算98,000両に対し53,144両、建物工事が予算25,000両に対し44,854両、水道工事が予算20,000両に対し6,092両、全体で予算143,000両に対し104,090両であった(その他、弁天台場が予算100,000両に対し107,277両)[17]。この巨額工事には最盛期で5、6千人の人夫が使われたといわれ、箱館は大いに繁栄した[18]

箱館戦争

「箱館大戦争之図」永嶌孟斎

大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され[19]、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの各地で敗北、10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、10月26日に松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は大鳥圭介によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態であったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた[20]

同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている[21]。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷[22]。また、新政府軍は各所に陣地を築き大砲を並べ五稜郭を砲撃した[22]ため、旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、石垣や堤を盾にして畳を敷き屏風を立てて凌ぐ有様であった[23]。その後、5月15日の弁天台場降伏および16日の千代ヶ岱陣屋陥落により五稜郭は孤立、5月18日に榎本らが降伏し、五稜郭は新政府軍に引き渡された。

練兵場

明治以降、五稜郭は兵部省1873年(明治6年)から陸軍省)の所管となった[24]。奉行所庁舎および付属建物の多くは、1871年(明治4年)に札幌開拓使本庁舎建設の資材とする目的で解体されたが、実際には札幌に運ばれず、札幌本道の工事や蓬莱町遊郭の建設資材として使われた[25]。 その後、五稜郭は特に手を加えられることなく、練兵場として使用された[24]ほか、1890年(明治23年)から1899年(明治32年)まで函館要塞砲兵大隊の仮事務所が置かれた[26]。 一般市民は立入禁止であったが、中川嘉兵衛が陸軍の許可を得て、1871年から五稜郭の氷を切り出し、函館氷として売り出している[27]

五稜郭公園

五稜郭の桜と五稜郭タワー

1913年大正2年)、函館区長が陸軍大臣に、五稜郭を公園として無償貸与して欲しいとの請願を行った。翌年、陸軍から、使用許可時点の状態を変更することは認めない、最小限の便益施設の設置や新たな樹木の植栽は全て函館要塞司令部の許可が必要である、かつ借用期間中の土地建物等の保存責任と費用負担は函館区が負う、などの条件付きで使用許可が出され、「五稜郭公園」として一般開放された[28]。また、函館毎日新聞が発行1万号を記念して、1913年から10年かけて数千本のソメイヨシノを植樹した。この桜は現在も約1,600本が残っており、北海道内有数の花見の名所となっている[29][注釈 4]

1925年(大正11年)には内務省に所管が変わるとともに、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく史蹟に指定された。1929年昭和4年)には郭外の長斜坂が追加指定され、文部省の所管となった。そして戦後、文化財保護法が制定されると、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された[31]

1954年(昭和29年)には、函館で開催された北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)の第二会場となった[32][注釈 5]。北洋博で「観光館・お菓子デパート」として用いられた建物は、翌1955年(昭和30年)から市立函館博物館五稜郭分館となり、奉行所の復元工事に伴い、2007年平成19年)11月に閉館するまで箱館戦争関連の品々を展示していた[33]。また、発掘調査・復元工事が行われる以前には中央部の広場で地元の運動会や夏季の林間学校などが行われ[32]、堀も水質が良好だった時代にはプールスケートリンクとして使用されていた[29]

函館を代表する観光地に

新旧五稜郭タワー(2006年1月)

1964年(昭和34年)、五稜郭築城100年を記念して、南隣に高さ60メートルの五稜郭タワーが開業[34]1970年(昭和45年)からは毎年5月に「箱館五稜郭祭」が開催され、箱館戦争の旧幕府軍・新政府軍に扮した「維新パレード」、土方歳三の物まねを競う「土方歳三コンテスト」などが行われている[35]。 そのほか、1988年(昭和63年)から五稜郭の土手や堀を舞台に市民ボランティアが函館の歴史を演じる「市民創作函館野外劇[36]や、1989年(平成元年)からは、冬の夜間に五稜郭のライトアップを行う「五稜星の夢[37][38]が始まり、現在まで続いている。近年では、2006年(平成18年)に五稜郭タワーが高さ107メートルの新タワーに改築された[39]

五稜郭は、2004年(平成16年)に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定[40]されたほか、観光地の評価としては、ミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで、「五稜郭跡」、「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得している[41]

奉行所復元

函館市では、1983年(昭和58年)頃から五稜郭の復元整備を目的とした資料調査を進めた[42]。これと並行して郭内中心部の遺構確認試掘調査を行い、奉行所等建物の遺構の残存状況が良好であることを確認し、1985年(昭和60年)から本格的な奉行所遺構の発掘調査を開始した。1985年(昭和60年)から1989年(平成元年)、1993年(平成5年)から2000年(平成12年)、2001年(平成13年)、2005年(平成17年)と四度の発掘調査を行い、復元に向けて多数の基礎的資料を得ている[43]

この間、有識者で構成された「特別史跡五稜郭跡保存整備委員会[44]」が、2000年(平成12年)に「箱館奉行所復元構想」を、2001年(平成13年)に「箱館奉行所復元計画(郭内土塁内エリア整備計画)」を策定し、箱館奉行所庁舎等の復元整備と活用・公開等についての計画を立案した。その後、文化庁と復元に向けた協議を実施し、2006年(平成18年)に現状変更許可を得て着工した[45]2010年(平成22年)に復元工事が完成、7月29日に開館した[46]

構造

箱館奉行所(復元)
箱館奉行所
情報
用途 資料館
設計者 文化財保存計画協会
施工 竹中工務店・加藤組土建・石井組・野辺工務店・明匠建工
建築主 函館市
事業主体 函館市
管理運営 名美興業(指定管理者)
構造形式 木造
建築面積 1,033.38 m²
延床面積 979.40 m²
階数 平屋建
竣工 2010年
所在地 040-0001
函館市五稜郭町44番3号
テンプレートを表示
築造当時の五稜郭(模型)。手前の橋は裏門橋。
半月堡

五稜郭は、水堀で囲まれた五芒星型の堡塁と1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、その内側に奉行所などの建物が建築された。その他、郭外北側に役宅街が造られた。現在の敷地面積(国有地部分)は、郭内外合わせて250,835.51平方メートル[47]であり、うち郭内は約12万平方メートルである[17]

外構

予算の制約と開港後の外国の脅威が予想ほどではなかったことから、外構工事は縮小された。当初5ヶ所を計画していた半月堡は1ヶ所のみ、内岸沿いの低塁も3辺のみ、郭外の長斜坂も4辺しか造られなかった[48]

土塁

堀を掘った土で土塁を築いた。本塁の高さは7.5メートル、幅は土台部分で30メートル、上部の塁道が8メートルあり、塁道は砲台として使用された。そのほか郭内への入口の奥に高さ5.5メートルの見隠塁、堀の内岸に高さ2メートルの低塁、郭外に高さ1メートル強の長斜坂が築かれた[49]

総堀のほか、郭内への入口3ヶ所の両側に幅4メートルの空堀が造られた[50]。総堀の幅は最も広い所で約30メートル、深さは約4~5メートル、外周は約1.8キロメートル[17]。築造当時、五稜郭の裏手約1キロメートル離れた亀田川に取水口を設け、地中に埋めた箱樋を通して五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていた。しかし、第二次大戦後、亀田川の護岸工事により五稜郭へ水が流れなくなり、水位が低下して堀の水質が悪化[51]、悪臭を放つようになったため、1974年(昭和49年)からは水道水を堀に流すようになった[52]

石垣

大手口から入って左側の本塁の石垣。最上部に刎ね出しがある。右奥に見えるのは見隠塁。

当初は総堀のほか土塁全てに石垣を築く「西洋法石垣御全備」を計画したが、費用が嵩むとともに石の切り出しに時間がかかることから中止され[13]、石垣は堀のほか半月堡と郭内入口周辺にしか築かれなかった[53]。函館山などから切り出された石材を使用したが、堀の石垣では資金不足のため赤川や亀田川の石を集めて代用した箇所がある(裏門橋側の一部に見られる)[54]。半月堡と大手口の本塁の最上部には「刎ね出し(武者返し)」が付いている。

現在、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、および北側の裏門橋の3本の橋が架かっているが、築造当時は、半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていた[55]。なお現在の一の橋、二の橋は築造当時と同じ平橋であるが、1950年(昭和25年)から1980年(昭和55年)までは太鼓橋が架けられていた[56][57]

建物

兵糧庫
復元された板庫と土蔵

五稜郭内には、奉行所庁舎のほか、用人や近習の長屋、厩、仮牢など計26棟が建てられた[17]。建材は津軽南部出羽など、能登越後など、江戸というように各地から運ばれた資材が用いられた[58]。なお、建材は能代などで予め加工し、現場では組立だけとすることで、経費節減に努めていた[59]

奉行所

郭内中心部に建てられた。規模は東西約97メートル、南北約59メートルで、建物面積は約2,685平方メートル。一部二階建であり、西側の役所部分(全体の3/4)と東南の奉行役宅(奥向)から構成されていた[60]。また役所部分は、正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれていた[61]

正面玄関を入った先に高さ約16.5メートルの太鼓櫓が設けられたが、箱館戦争で甲鉄の艦砲射撃を受けた際に、その照準となっていると考えた旧幕府軍が慌てて切り倒している[62][注釈 6]

奉行所の復元に際し、当初、函館市は奉行所の建物全体の復元を計画したが、建築基準法では1,000平方メートルごとに防火壁を設置しなければならず、復元と防火壁の両立を文化庁と協議した結果、景観上芳しくないこともあり断念し、約1,000平方メートル以内の復元に留めることとなった[64]。当時と同じ材料、同じ工法で、奉行所の南棟と中央棟部分が復元され[65]、復元された奉行所は、平成23年度の北海道赤レンガ建築賞を受賞している[66]

兵糧庫

築造当時から唯一現存する建物である。明治30年代に函館要塞砲兵大隊の兵舎として使用され[67]、一般開放後、1917年(大正6年)から片上楽天が私設の展示館「懐古館」を開き箱館戦争の資料を展示していた[68]ほか、市立博物館の科学教室としても使用されていたことがある[69]。1972-1973年と2001-2002年に復元工事が行われ現在の姿となった[70]

板庫・土蔵

奉行所復元と同時に、兵糧庫の北側にあった市立博物館五稜郭分館を解体し板庫(いたくら)と土蔵を復元している。板庫は売店および休憩所、土蔵は管理事務所に使用されている[71]

役宅

五稜郭の北側(現在の中道1丁目および本道1丁目)に、組頭以下同心までの役宅や長屋、数十軒が建設された[72]。付近には郷宿や料理店も開業し街が形成された[73]が、箱館総攻撃の際に退却する旧幕府軍により焼き払われた[22]。現在は住宅街となっている。

軍備

築造時点では大砲を設置していなかったとみられる[13]が、旧幕府軍が五稜郭を占領したときには、二十四斤砲4門が配備されていた[74]

箱館総攻撃の際、旧幕府軍は、二十四斤加農砲9門、四斤施条クルップ砲13門、拇短クルップ砲10門を配備していた[75]。但し降伏時に新政府軍に引き渡された大砲は、長加農二十四斤砲9門、四斤施条砲3門、短忽微(ホーイッスル)砲2門、亜ホート忽微砲3門、十三拇(ドイム)臼砲16門であった[76]

石碑その他

武田斐三郎先生顕彰碑
  • 武田斐三郎先生顕彰碑
郭内にある。1963年(昭和38年)、五稜郭築城100周年を記念して建てられた。題字は太田鶴堂で、彫刻家・鈴木達が作った斐三郎のレリーフがはめ込まれている[77]
  • 一万号記念桜樹碑
1923年(大正12年)、函館毎日新聞社が五稜郭に植樹した桜が1万本に達したことを記念して建てられた[71]
  • 巌谷小波の句碑
一万号記念桜樹碑の隣にあり、1915年(大正4年)に建てられた。1913年(大正2年)に作家・巌谷小波が来道の際に詠んだ句「其跡や其血の色を艸の花」が刻まれている[78][71]
  • 箱館戦争当時の大砲
五稜郭に配備されていたものではないが、箱館戦争で使用された大砲が2門、郭内に展示されている。1門は、旧幕府軍が箱館占領中に構築した築島台場に備え付けられた砲(英・ブラッケリー社製)[注釈 7]で、もう1門は明治2年5月11日の箱館湾海戦で沈没した新政府軍の軍艦・朝陽の砲(独・クルップ社製)[注釈 8]である。
  • 藤棚
二の橋を渡り郭内に入った正面にあり、5、6月に見頃を迎える。五稜郭公園開園当時に園内の食堂経営者が別の場所に植樹したもので、1920年以降に函館市により現在地に移設されたといわれる[81]。奉行所復元工事の際、同所に表門があったとして、門の復元のため移設されそうになったが、市民の保存運動により残された。
  • 男爵芋の碑
裏門郭外にある。第二次大戦中に男爵芋が食料として市民を飢えから救ったことを感謝して、1947年(昭和22年)に建てられた[82]

現地情報

五稜郭付近の衛星写真(NASAによる資料)
所在地
北海道函館市五稜郭町・本通1
交通アクセス
函館本線五稜郭駅からは2km程度離れている。
  • 函館バス「五稜郭公園入口」 - 徒歩7分、「中央図書館前」下車すぐ(裏門から入場)
  • 函館バス「五稜郭タワー・トラピスチヌ シャトルバス」(冬季は土日のみ運行) - 五稜郭タワー前に停車[83]
  • 北海道道571号五稜郭公園線

近隣施設

脚注

注釈

  1. ^ 「役所」は奉行所建物のことであり、五稜郭完成後、箱館奉行所(俗称)ではなく箱館御役所(はこだておんやくしょ)と呼ばれた[3]
  2. ^ 当時、フランスは条約未締結国であったが、病人を上陸させ養生させたいとの願い出を箱館奉行所が受け入れ、特別に入港を許可した[9]
  3. ^ このアカマツは箱館奉行所組頭・栗本瀬兵衛が佐渡から種子を取り寄せ、七重で育てた若木を五稜郭に移植したもの。1872年(明治9年)、明治天皇七重勧業課試験場に行幸した際に一部が札幌本道沿いに移植され、赤松街道のはじまりとなった[15]
  4. ^ 五稜郭のソメイヨシノは、函館の桜の開花観測の標本木となっている[30]
  5. ^ 第一会場は函館公園。五稜郭は特別史跡に指定されていたため、現状変更は厳しいところ、将来的に奉行所を復元するための資料を十分に得ていることを理由に文化財保護委員会から許可された[32]
  6. ^ この作業をさせられたのは、箱館府により牢に入れられ、旧幕府軍の五稜郭占領後、土木工事に従事させられていた中国人[63]であった。
  7. ^ 築島台場は、函館港内、現在の豊川町から末広町付近にあったものとみられている。1961年(昭和36年)、北海道漁連函館支所の建設工事中に土中から発見された[79]
  8. ^ 1932年(昭和7年)、七重浜埋立工事中に発見され、亀田八幡宮に奉納された。戦後、GHQの目を恐れ土に埋めたが、1958年(昭和33年)、皇太子の市立博物館五稜郭分館来館を機に博物館に寄贈された[80]

出典

  1. ^ a b 函館市史通説編第2巻 pp.87-88”. 函館中央図書館. 2014年11月26日閲覧。
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  3. ^ a b 函館市史通説編第2巻 pp.92-93”. 函館中央図書館. 2014年11月26日閲覧。
  4. ^ 五稜郭物語 p.26
  5. ^ 国有財産の活用”. 文化庁. 2014年11月24日閲覧。
  6. ^ 公の施設一覧(平成26年4月1日現在)”. 函館市. 2014年11月27日閲覧。
  7. ^ 函館市史通説編第1巻 p.579”. 函館市中央図書館. 2014年11月17日閲覧。
  8. ^ a b c 函館市史通説編第2巻 pp.85-87”. 函館市中央図書館. 2014年11月24日閲覧。
  9. ^ 函館市史通説編第2巻 pp.67-69”. 函館市中央図書館. 2014年11月21日閲覧。
  10. ^ 函館市史通説編第1巻 pp.663-665”. 函館市中央図書館. 2014年11月21日閲覧。
  11. ^ 函館市史通説編第2巻 pp.69-70”. 函館市中央図書館. 2014年11月21日閲覧。
  12. ^ 田原良信 2008, p. 18
  13. ^ a b c d 函館市史通説編第2巻 pp.88-89”. 函館市中央図書館. 2014年11月27日閲覧。
  14. ^ 函館市史通説編第1巻 p.588”. 函館市中央図書館. 2014年11月20日閲覧。
  15. ^ 赤松街道”. 七飯町. 2014年11月19日閲覧。
  16. ^ 田原良信 2008, p. 21
  17. ^ a b c d 五稜郭分館常設展示目録 p.20
  18. ^ 函館市史通説編第1巻 p.589”. 函館市中央図書館. 2014年11月27日閲覧。
  19. ^ 田口英爾 1995, pp. 183–184
  20. ^ 大鳥圭介「南柯紀行」大鳥・今井 1998 pp.72,80
  21. ^ 田口英爾 1995, p. 113
  22. ^ a b c 今井信郎「北国戦争概略衝鉾隊之記」大鳥・今井 1998 p.183
  23. ^ 大鳥圭介「南柯紀行」大鳥・今井 1998 p.96
  24. ^ a b 田原良信 2008, p. 31
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  28. ^ 田原良信 2008, pp. 32–33
  29. ^ a b 幕末の激動と、その後の五稜郭” (PDF). 五稜郭タワー. 2014年11月22日閲覧。
  30. ^ 函館で「サクラの開花」を観測しました。” (PDF). 函館地方気象台. 2014年11月20日閲覧。
  31. ^ 田原良信 2008, pp. 33–34
  32. ^ a b c 田原良信 2008, p. 34
  33. ^ 函館市史通説編第4編 pp.688-692 コラム18 北洋博覧会の開催 「北洋の基地」から「観光都市」へ”. 函館市中央図書館. 2014年11月16日閲覧。
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  39. ^ 五稜郭タワーとは”. 五稜郭タワー. 2014年11月23日閲覧。
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参考文献

  • 『函館市史』函館市(「函館市史」デジタル版
  • 『函館区史』函館区(近代デジタルライブラリー
  • 『市立函館博物館五稜郭分館常設展示目録 五稜郭 箱館戦争』市立函館博物館、2004年。 
  • 『五稜郭築造と箱館戦争』市立函館博物館、2014年。 
  • 大鳥圭介・今井信郎『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』新人物往来社、1998年。ISBN 4-404-02627-7 
  • 大山柏『補訂・戊辰役戦史』 下巻、時事通信社、1988年。ISBN 4-7887-8840-3 
  • 須藤隆仙・編 編『箱館戦争のすべて』新人物往来社、1984年。ISBN 4-404-01247-0 
  • 須藤隆仙・編 編『箱館戦争資料集』新人物往来社、2011年。ISBN 978-4-8354-4741-4 
  • 田口英爾『最後の箱館奉行の日記』新潮社〈新潮選書〉、1995年。ISBN 4-10-600475-5 
  • 竹内収太『箱館戦争』五稜郭タワー、1983年。 
  • 田原良信『五稜郭』同成社〈日本の遺跡27〉、2008年。ISBN 978-4-88621-434-8 
  • 元木省吾『新編=函館町物語』幻洋社、1987年。ISBN 4-906320-02-3 
  • 北海道新聞社函館支社・編 編『五稜郭物語』(改訂版)五稜郭タワー、1979年。 
  • 北海道新聞社・編 編『はこだて歴史散歩』北海道新聞社、1982年。ISBN 4-89363-315-5 

関連項目

外部リンク