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「フェズ」の版間の差分

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{{Otheruseslist|[[モロッコ]]の都市|上記にちなむ[[帽子]]|フェズ (帽子)|上記を首都とし[[ワッタース朝]]の王が治めた国|フェズ王国}}
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'''フェズ'''(فـاس, '''Fez''', '''Fès''')は[[アフリカ]]北西端、[[モロッコ王国]]北部の内陸[[都市]]。かつて[[マリーン朝]]など[[イスラム王朝]]が[[首都]]とした。[[13世紀]]から[[14世紀]]に発展、多数の[[モスク]]、[[マドラサ]]、[[大学]]などがある。[[2004年]]の[[人口]]は、94万6815人。'''フェス'''もしくはアラビア語では'''ファース'''と表現し、またラビ語の長音を無視することが多いため'''フス'''とも呼ぶ
'''フェズ'''({{lang-ar|فـاس}}、 Fez Fès)は[[アフリカ]]北西端、[[モロッコ王国]]北部の内陸[[都市]]。アラビア語ではファース」<ref name="a-jiten">岩永「フェズ」『歴史事典』8巻、91頁</ref>。'''フス'''とも表記される


[[イドリース朝]]、[[マリーン朝]]などのモロッコに存在した過去の[[イスラム王朝]]の多くはフェズを[[首都]]に定めていた。首都が他の都市に移された時であっても、フェズはモロッコ人にとって特別な都市であり続けている<ref name="nata">那谷敏郎『紀行 モロッコ史』(新潮選書, 新潮社, 1984年)、80-83頁</ref>。数世代前から町に住み続けているフェズの住民はファシ(ファーシー)と呼ばれ、彼らの間では独特の方言が話されている<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、251頁</ref>。ファシの間にも方言の差異があり、旧市街では北部方言、新市街では南部方言が話されている<ref>私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、132頁</ref>。
[[メディナ]]とよばれる旧市街地は、その町並みの構造から[[迷宮]]として知られる。旧来からの輸送手段である[[ロバ]]がレンタル事業として制度化され、人や荷物運びの為にナンバープレートを付けたのを見かけることができる。つばなしの円筒形のフェルト帽の[[フェズ (帽子)|フェズ]]は、この町の名前に由来する。

フェズは[[ラバト]]、[[マラケシュ]]、[[メクネス]]、[[カサブランカ]]といった都市と共にモロッコの観光資源となっている<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、24頁</ref>。複雑な構造の旧市街地は迷路にも例えられ<ref name="c-jiten2012">飯山「フェス」『世界地名大事典』3、830頁</ref>、1981年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)に「フェズ旧市街」が登録された。

== 地理、気候 ==
=== 地理 ===
フェズは[[アトラス山脈]]の北西、[[サイス平野]]の町で、[[フェズ川]]と[[セブー川]]の合流点の南に位置する。モロッコ南部の[[サハラ砂漠]]、[[アトラス山脈]]と北の地中海沿いの都市、モロッコ西部の[[カサブランカ]]、[[ラバト]]、[[メクネス]]から東に向かう交易路の交差点に位置するフェズには隊商宿と巡礼者や商人のための小規模の商店が多く建てられた<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、274-275頁</ref>。[[サハラ交易]]において、フェズは年2回[[トンブクトゥ]]に向かう隊商の拠点とされていた<ref name="a-jiten"/>。フェズ市内の地域はメディナと呼ばれる旧市街(9世紀から始まるフェズ・エル・バリと13世紀に建設されたフェズ・エル・ジェディド)、フランス植民地時代に建設された新市街(ヴィル・ヌヴェル)、旧市街の周囲に広がる墓地の外側に建設された居住区(シテ・ポピュレール)、シテ・ポピュレールの外に建つ高級住宅地とバラック街に分けられる。

町の周囲は小高い丘に囲まれており<ref name="c-jiten2012"/>、旧市街の中央を貫いてフェズ川が西から東に流れている<ref name="yoneyama26">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、26頁</ref>。フェズ・エル・バリはフェズ川を底として両岸が競りあがるすり鉢上の構造をしており、岸に建てられた建物は底の部分に近づくほど古い歴史をもつものが多くなる<ref>松原『フェスの保全と近代化』、41頁</ref>。フェズ・エル・バリの住民は地下を流れるフェズ川の水を汲み上げて利用しており、排出される下水は町の外れでフェズ川の下流に合流する<ref name="yoneyama26"/>。近代に入るとフェズ川の南半分は暗渠化され、舗装道路が川の上を通っている<ref name="jinnai28">法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、28頁</ref>。地区内の水の供給は10世紀に建設された施設に依存するところが多く、供給量は十分とは言いがたい<ref name="une17"/>。旧市街の水路はかつてのフェズの繁栄に大きな役割を果たし<ref>松原『フェスの保全と近代化』、19-20頁</ref>、ムラービト朝の君主[[ユースフ・ベン・ターシュフィーン]]による整備を経て、[[12世紀]]末にはモスク、マドラサ、多くの住居に水道が引かれるようになっていた<ref>ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、221頁</ref>。<!-- こうした旧市街の上下水道の仕組みは、イスラームに改宗したフランス人によって1780年代に設計されたものだと言われている<ref name="yoneyama27">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、27頁</ref>。 -->

フェズは[[亜熱帯|亜熱帯気候]]に属しており、[[大西洋]]の影響を受けているために夏の気温は高く、冬に降雨が集中する<ref name="c-jiten1979">野沢「フェズ」『世界地名大事典』8巻、1079頁</ref>。町の周辺では[[小麦]]、[[オリーブ]]、豆類、[[ブドウ]]が栽培され、ヒツジやヤギの遊牧が営まれている<ref name="c-jiten2012"/>。

=== 気候 ===
{{Weather box
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|source 1 = Hong Kong Observatory<ref>{{cite web
|url=http://www.weather.gov.hk/wxinfo/climat/world/eng/africa/mor_al/Fes_e.htm
|title= Climatological Information for Fes, Morocco
|publisher=[[Hong Kong Observatory]]
|date=15 August 2011
|accessdate=16 August 2012}}</ref>
|date=August 2011
|source 2 = Meoweather.com<ref name=Meoweather>{{cite web|title=Weather history for Fez, Figuig, Morocco : Fez average weather by month|url=http://www.meoweather.com/history/Morocco/na/34.0527778/-4.9827778/Fez.html|website=Meoweather.com|accessdate=20 July 2014|archiveurl= |archivedate= }}</ref>
}}


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 建設初期 - ベルベル人による支配 ===
[[西暦]][[789年]]、[[ベルベル人]][[ムーレイ・イドリス1世]]により町が建設された。[[808年]]、イドリス1世の息子[[ムーレイ・イドリス2世]]によってたてられた初の王朝[[イドリース朝]]の首都がおかれた。
フェズの起源は[[紀元前]]に遡ると言われることもあるが考古学的な根拠は無く、半ば伝説として扱われている<ref name="matsubara17">松原『フェスの保全と近代化』、17頁</ref>。[[紀元前40年]]ごろにはフェズから北西に50km離れた場所に建てられたローマ都市の[[ヴォルビリス]]が繁栄しており、同時期のフェズには[[古代ローマの公衆浴場|公衆浴場]]が存在していたと伝えられている<ref name="matsubara17"/>。

[[8世紀]]末に[[イドリース朝]]の創始者[[イドリース1世 (イドリース朝)|イドリース1世]]がフェズ川西岸に国家の首都となる町を建設し、イドリース1世の跡を継いだ[[イドリース2世 (イドリース朝)|イドリース2世]]はフェズ川東岸に新たな町を建設した<ref name="fukami84">深見『世界のイスラーム建築』、84頁</ref>。[[818年]]に[[イベリア半島]]を支配する[[後ウマイヤ朝]]の首都[[コルドバ]]から8,000の家族がフェズに移住し<ref>私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、102頁</ref>、イベリア半島からフェズに亡命したイスラム教徒は町の発展に寄与した<ref name="une12">『ユネスコ世界遺産 11(北・西アフリカ)』、12頁</ref>。[[825年]]には[[チュニジア]]の[[ケルアン|カイラワーン]](ケルアン)から追放された家族によって、フェズ川西岸にカイラワーン地区が形成される<ref>ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、214頁</ref>。[[9世紀]]にアンダルス出身者が自分たちの居住区であるアンダルス地区に建立したアンダルス・モスクはイスラム教徒の礼拝の場となり、カイラワーン地区にはアンダルス・モスクの建立と同時期にカラウィーン・モスクが建立された<ref name="une12"/>。伝説によれば、カイラワーンからフェズに亡命した富豪が2人の娘に莫大な財産を遺して没し、遺産を相続した姉妹は信仰心の篤さを示すために、それぞれカラウィーン・モスクとアンダルス・モスクを建立したという<ref name="gari224">ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、224,229頁</ref>。

やがてフェズは[[エジプト]]の[[ファーティマ朝]]の支配下に入り、[[919年]]/[[930年]]にカイラワーン地区のカラウィーン・モスクは金曜モスクとされる<ref name="hoag71">ホーグ『イスラム建築』、71頁</ref>。[[933年]]から[[980年]]までフェズは後ウマイヤ朝の支配下に置かれ、この時代にはイベリア半島からの影響を強く受けた建築物が作られる<ref>ホーグ『イスラム建築』、57頁</ref>。後ウマイヤ朝の建築様式は、[[11世紀]]から[[13世紀]]にかけてモロッコを支配した[[ベルベル人]]国家の[[ムラービト朝]]と[[ムワッヒド朝]]にフェズを通して継承される<ref>ホーグ『イスラム建築』、67頁</ref>。

[[1069年]]にムラービト朝はフェズを占領し、ムラービト朝が[[マラケシュ]]を首都に定めた後もフェズは芸術・学問の中心地として発展を続ける<ref>ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、215-216頁</ref>。11世紀のムラービト朝の時代にフェズ川を隔てて並立していた2つの地区は塁壁で1つに統合されるが<ref name="c-jiten2012"/><ref>深見『世界のイスラーム建築』、84-85頁</ref>、居住区が一つとなったあとも両地区の独自性は数世紀にわたって保たれた<ref name="une12"/>。

[[1146年]]にフェズはムワッヒド朝の支配下に入る。ムワッヒド朝の君主[[ムハンマド・ナースィル]]の時代に行われた統計調査では782のモスク、89,236の住宅、19,041の使用人が住む離れの小屋、9,082の店舗、467の商館がフェズに存在していたことが記録されている<ref name="kisaichi1999-107">私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、107頁</ref>。

=== マリーン朝の建国 ===
13世紀初頭、[[アルジェリア]]東部のビスクラ地方で遊牧民族が建国した[[マリーン朝]]が台頭し、1248年にフェズはマリーン朝の支配下に入る。マリーン朝はこれまでモロッコを支配していたムワッヒド朝との関係を絶つため、ムワッヒド朝時代の都マラケシュに代えて、フェズを首都に制定した<ref name="kisaichi1999-107"/>。[[1276年]]にマリーン朝の君主[[アブー・ユースフ・ヤアクーブ]]はフェズの新市街(フェズ・エル・ジェディド)の建設を命じた。[[1395年]]には新市街に大モスクが建立され、新たな宮殿も建設される<ref name="une13">『ユネスコ世界遺産 11(北・西アフリカ)』、13頁</ref>。マリーン朝時代のフェズは旧市街が経済の中心地、フェズ・エル・ジェディドが行政の中心地となり、あたかも[[双子都市]]のように機能していた<ref name="fukami85">深見『世界のイスラーム建築』、85頁</ref>。旧市街には家屋が密集し、[[14世紀]]の最盛期にはおよそ100,000人の市民が旧市街に居住していた<ref name="fukami85"/>。武器博物館の裏には、マリーン朝王族の墓地が広がっている<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、229頁</ref>。

フェズはイスラム教徒だけでなく[[ユダヤ教徒]]にとっても重要な町であり、11世紀の地理学者バクリーはフェズには他のマグリブのどの都市よりもユダヤ教徒が多く住んでいたと記している<ref>私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、103頁</ref>。イスラム教徒の住民とユダヤ教徒の住民の関係は不安定であり、時にはイスラム教徒によるユダヤ教徒の殺害・略奪が起きた<ref>私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、105,107-109頁</ref>。1276年に起きた[[ポグロム]](ユダヤ教徒の大量虐殺)の後からマリーン朝はユダヤ教徒の居住区の必要性を痛感し、[[1438年]]ごろにフェズ・エル・ジェディドにメッラーフ(ユダヤ教徒の強制隔離地区)が設置された<ref>私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、113-114頁</ref>。また、マリーン朝時代のフェズにはユダヤ人居住区以外にイベリア半島出身のキリスト教徒傭兵の居住区、シリア出身の弓兵の居住区も設けられていた<ref>松原『フェスの保全と近代化』、19頁</ref>。

マリーン朝の滅亡後に成立した[[ワッタース朝]]はフェズを首都とし、[[1549年]]にフェズはマラケシュを本拠とする[[サアド朝]]の支配下に入る。フェズは外来者の受け皿となり、[[グラナダ]]の[[ナスル朝]]の滅亡によって現れた難民を受け入れ、[[アルジェリア]]や[[サハラ砂漠]]からの移民のための居住区が建設される<ref>松原『フェスの保全と近代化』、19-20頁</ref>。[[16世紀]]以降、断続的に起きる反乱によってフェズの町は衰退していく<ref name="c-jiten2012"/>。[[17世紀]]に成立した[[アラウィー朝]]はフェズを首都に定め、宗教・学問・商業の中心地として繁栄する。

[[1911年]]にフェズは[[フランス]]によって占領され、翌[[1912年]]に締結されたフェズ条約によってモロッコはフランスの保護下に置かれる。フランス統治下のフェズは軍用地域と市民用地域に分けられ、移動は制限されていた<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、74-75頁</ref>。[[1916年]]にフランス人居住区として第三の市街地(ヴィル・ヌヴェル)が建設され、フェズに3つ目の市街が形成される<ref name="c-jiten2012"/>。新市街は幅の広い道路が直角に交差する「近代的」な構造で、さながら迷路のような旧市街と対照的な町並みとなっている<ref>私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、323-324頁</ref>。また、フランスによって公布された旧市街に新たな建築物を建てることを禁じる法令は、旧市街の景観の維持に一役買った<ref>ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、221頁</ref>。このような状況下で、フェズのイスラーム法学者はラバトの知識人と共にモロッコの民族独立運動の担い手として、フランスへの抗議活動に参加した<ref>私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、56頁</ref>。[[第二次世界大戦|第二次世界大戦期]]のアフリカでの植民地戦争において、フェズは[[レジスタンス]]の拠点となった<ref name="gari217">ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、217頁</ref>。

=== モロッコ王国再独立後 ===
[[1956年]]のモロッコ王国の独立後、フェズの外周にシテ・ポピュレールと呼ばれる新たな住宅地が拡大する<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、33-34頁</ref>。シテ・ポピュレールには集合住宅が建てられ、病院、学校、道路などの施設や工場が整備された<ref name="yoneyama34">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、34頁</ref>。1976年以降、フェズ知事と市議会、市域外の地方議会による行政システムが導入される<ref name="yoneyama74">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、74頁</ref>。1990年12月14日、労働組合のストライキに端を発する暴動が起きる<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、168-169頁</ref>。暴動の後、旧市街、新市街、フェズから約25km南にある町[[セフルー]]の3つの地域に行政を担う知事が任命された。

== 経済 ==
[[Image:Tannery(js).jpg|thumb|180px|right|タンネリには染料の入った壷が並べられており、強い臭気が漂っている<ref name="yoneyama50">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、50頁</ref>。]]
フェズの旧市街では105種類の手工業が営まれていると言われている<ref name="yoneyama48">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、48頁</ref>。手工業に携わる職人たちは階級制に基づく同業者組合を結成し、それぞれの組合で伝統的な規則が敷かれている<ref name="gari222">ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、222頁</ref>。職人たちが有する伝統的な技術の継承が奨励されており、伝統工芸の中でも皮なめしが特に名高い<ref>『ユネスコ世界遺産 11(北・西アフリカ)』、13,17頁</ref>。フェズには木綿、羊毛を扱う繊維業、精油、石鹸、なめし皮の工場が置かれている<ref name="c-jiten1979"/>。旧市街にはなめし皮、染色、陶工などの工房、それらの手工芸品を販売する商店が路地に密集している<ref name="c-jiten2012"/>。


旧市街東のフェズ川下流の急斜面にはタンネリ(タヌリ)と呼ばれる川染めの工場が置かれ、モロッコ内で最大の規模を誇る<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、48,50頁</ref>。フェズブルーという名前の陶器が多く生産され、モスクの屋根瓦や食器として使われている<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、164頁</ref>。皮なめしの工房は汚水を排出するためにフェズ川下流に設置されており<ref>松原『フェスの保全と近代化』、20頁</ref>、悪臭と染料による汚染の対策として搬入・搬出は大通りから外れた通路で行われる<ref>法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、36頁</ref>。
[[818年]]、イドリス2世は[[スペイン]]・[[アンダルス|アンダルシア]]からイスラム教徒難民8000家族を呼び寄せた。その後、スペインからの移民と[[ユダヤ人]]、また近隣の[[チュニジア]]人の出会いにより文化が発展し、フェズは[[モロッコ]]の宗教、文化の中心都市となる。


町は革製品、絹のショール、赤色の帽子の取引の中心地でもあり、帽子は町の名前にちなんで「フェズ」と呼ばれている。
[[1912年]]に[[フランス]]とモロッコ王国との間で[[フェス条約]]が結ばれている。この[[条約]]で、モロッコの大部分がフランスの[[植民地]]となった。
{{-}}


== 世界遺産 ==
== 建築物 ==
{{世界遺産概要表
{{世界遺産概要表
|site_img = 画像:Blue Gate in Fes.jpg
|site_img = 画像:Fes old city.JPG
|site_img_capt =バブ・ブージュルード
|site_img_capt =旧市街の眺望
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105行目: 205行目:
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}}
}}
=== 歴史建造物史跡名所 ===
=== フェズエルバリ ===
フェズ・エル・バリは[[チュニジア]]のケルアンからの移住者の居住区が元となったフェズ川西岸のカイラワーン地区と、[[イベリア半島]]からの移住者の居住区が元となった東岸のアンダルス地区で構成され、二つの地区は川をまたぐ市壁に囲まれている<ref name="fukami84"/>。フェズ・エル・バリと市外を隔てる厚い市壁には、8つの門が設けられている。
*[[カラウィーン・モスク]]
* ブー・ジュルード門
*[[カラウィーン大学]]([[神学校]])
* ハディード門
*[[ムーレイ・イドリス廟]]
* ジャディード門
*[[サファリーン・マドラサ]]
* フトウ門
*[[アンダルース・モスク]]
* クウーカ門
*[[タンネリ]](皮なめし工房)
* シディ・ブー・シダ門
*貸し鍋屋の[[スーク (市)|スーク]]
* ギッサ門
*[[ナジャリン・フォンドック]]([[隊商宿]])
* ショルファ門
8の門のうち、西に建つブー・ジュルード門が旧市街の正門とされており<ref name="yoneyama27">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、27頁</ref><ref name="bat168">バットゥータ『大旅行記』7巻(家島彦一訳注)、168頁</ref>、ギッサ門とハディード門はフェズの建設初期から存在していたと考えられている<ref>松原『フェスの保全と近代化』、18頁</ref>。城門は交易上重要な方角に設置されており、フトウ門は東のアラブ世界、ギッサ門は北のイベリア半島、ブー・ジュルード門は西のメクネスやラバトに面している<ref>法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、27,29頁</ref>。ブー・ジュルード門の外壁と柱頭は幾何学模様のズッリージュ(コバルトの陶製タイル)で彩られ、主門と脇門には馬蹄型のアーチが架かる<ref name="bat168"/>。ブー・ジュルード門の周辺には、肉や野菜といった生鮮食品を扱う店が集まっている<ref>今村『迷宮都市モロッコを歩く』、64頁</ref>。

門から町の中心に向かう主要街路が伸びており<ref>深見『世界のイスラーム建築』、77-78頁</ref>、ブー・ジュルード門から北東に伸びるタラー・ケビラとタラー・セビーラの二本の道路がメインストリートといえる<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、27-28頁</ref>。タラー・ケビラはタラー・セビーラに比べてやや広いが傾斜は急で、通りの途中には階段になっている部分もある<ref name="yoneyama42">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、42頁</ref>。タラー・ケビラよりも新しいタラー・セビーラはやや緩やかだが道幅は狭く<ref name="yoneyama42"/>、どちらの大通りも[[カラウィーン・モスク]]に通じている<ref>「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』、136頁</ref>。南のジャディード門から伸びるアーメド・ベン・エル・アラウィー大通りは、旧市街を通る唯一の自動車道である<ref name="yoneyama42"/>。8つの主要街路は枝分かれした街路によって互いに接続され、街路から伸びた袋小路の先には個人の住宅が現れる<ref name="fukami78">深見『世界のイスラーム建築』、78頁</ref>。旧市街の街区は門やアーチで区切られており<ref>法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、27頁</ref>、長い袋小路の中には街区として設定されているものも多い<ref>今村『迷宮都市モロッコを歩く』、74頁</ref>。中庭の確保と交互に配置された入り口による住居のプライバシーの確保、通りに面して作られた建物に併せて住宅や路地を建設する工程のため、フェズの旧市街には曲がりくねった路地や袋小路が多く現れた<ref>今村『迷宮都市モロッコを歩く』、96-97頁</ref>。

道は曲がりくねっている上に高低差があり、見通しも悪い迷路のような形状になっている<ref>深見『世界のイスラーム建築』、80-81頁</ref>。道幅は広い部分で6m余り、狭い部分では1m以下で、広い通りは少なく狭い通りが多い<ref>深見『世界のイスラーム建築』、80,83頁</ref>。狭い通りや路地の両側は高い壁に挟まれていることが多く、家屋の入り口となる扉がまばらに見られる<ref name="yoneyama27"/>。坂の傾斜が緩やかな地形には、モスク、ザーウィヤ(霊廟)、[[ハンマーム]](公共浴場)、[[フンドゥク]](隊商宿)などの大規模な施設や、大きい邸宅が建てられている<ref name="imamura68">今村『迷宮都市モロッコを歩く』、68頁</ref>。複雑な路地と100m以上の高低差による立体的な迷路性が合わさって、旧市街に入り込んだ人間を混乱させると言われている<ref name="jinnai28"/>。地形の高低差があるフェズには、街路にまたがって建てられたモスクも見られる<ref>今村『迷宮都市モロッコを歩く』、74頁</ref>。

地区内のところどころに小さなモスクや[[ハンマーム]](公共浴場)、小規模の店舗がまとまって配置され、いくつかの主要街路は道の両側に商店が並ぶ[[スーク]](市場)となっている<ref name="fukami78"/>。スーク内の店の敷居は通りよりも高く、業種の同じ店が固まっている<ref name="gari222"/>。フェズ川沿いにはなめし皮職人街であるシュアラが広がり、シェッラティーン通りには民族衣装を扱う店が並んでいる。ハンマームの構造は地形の高低が生かされており、湯を沸かすために火を使う場所を低地に置き、入り口は高い場所に設けられている<ref name="imamura68"/>。

フェズ・エル・バリの家屋の多くは中庭を持ち、それぞれ異なる形や敷地面積を有している<ref name="fukami78"/>。基本的に家屋に[[ファサード]]は設けられておらず、入り口の扉だけが街路に面していることが多い<ref name="yoneyama66">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、66頁</ref>。家屋の入り口の扉は対面の家の入り口と真っ直ぐ向かい合わないように作られており、お互いの家の中を覗き込まないように工夫されている<ref name="yoneyama66"/>。邸宅の増改築について、かつては工事を手がける職人と一部の住民の間に共通の規則が存在しており、工事にあたって住民間のプライバシーの確保、住宅地と公共施設の分離が徹底されていた<ref>松原『フェスの保全と近代化』、22-25頁</ref>。入り口の扉は木の細工と鋲で飾り付けられ、多くの扉には「[[ファーティマの手]]」と呼ばれる魔除けのついた2つのノッカーが取り付けられている2つのノッカーが付けられている理由について、家人と来客の区別をするため<ref>松原『フェスの保全と近代化』、44頁</ref>、徒歩で訪れた客と馬で乗りつけた客の両方に応対するため<ref name="gari229">ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、229頁</ref>など諸説ある。

住宅の敷地の形状や大きさはそれぞれ異なり、街区の奥に進むほど豪華な造りの住宅が見られるようになる<ref>深見『世界のイスラーム建築』、78-79頁</ref>。中庭が住宅の中心となっており、建物の配置はロ字型、コ字型、二時型、L字型に分類できる<ref name="jinnai41">法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、41頁</ref>。敷地に余裕がある豪邸ではロ字型が採用されていることが多く、面積が狭まるにつれてコ字型、二時型、L字型とスペースを節約できる構造が採用されるようになる<ref name="jinnai41"/>。いずれの構造の住宅でも左右対称性が重視されており、向かい合う部屋の大きさはほぼ同じであることが多い<ref name="jinnai41"/>。中庭が小さい割に周りを囲む建物は高く、部屋は奥行きが狭く横幅が広い<ref>深見『世界のイスラーム建築』、83頁</ref>。中庭の面積と比べて周囲の壁面が高い構造は、古代ローマの住宅(ドムス)と共通している<ref name="jinnai47">法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、47頁</ref>。中庭の周囲の構造は、列柱が並ぶ2階建ての回廊が中庭を囲むギャラリー型が最も多く、他に2階が吹きさらしのテラスになっているテラス型、部屋の壁が直接中庭に面しているウォール型の二種が存在する<ref name="jinnai41"/>。[[シリア]]、[[イラン]]、[[イラク]]の住宅と比べて、フェズ旧市街の住宅では中庭が室内空間として積極的に利用されており、中庭の上に簡素な屋根が取り付けられるとその傾向はより顕著になる<ref>法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、46-47頁</ref>。中庭を積極的に利用して開放感を高めようとする構造は、人口密度が高いフェズの住民が生み出した生活の知恵とも言える<ref name="jinnai47"/>。

==== モスク、マドラサ ====
[[857年]]頃にカイラワーン地区に建立された[[カラウィーン・モスク|カラウィーン(カラウィーイーン)・モスク]]は、アラブ人富豪の娘ファーティマが建立した礼拝堂が元になっている[[モスク]]である<ref name="gari224"/>。当初は個人的な礼拝所として使用されていたといわれているが、[[919年]]にはすでに集団礼拝の場とされていた<ref>私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、261頁</ref>。

建設初期のカラウィーン・モスクの上部に架けられていたアーチ、アーチを支える柱の形状は明らかになっていない<ref name="hoag71"/>。後ウマイヤ朝時代の[[956年]]に完成したミナレットには、[[パラペット]]と[[ドーム]]部分を除いてコルドバ風の建築様式が採用されており、アーチはコルドバ風の円頭馬蹄型をしている<ref name="hoag71"/>。ミナレットはイドリース2世の剣の上に建てられたという伝承が残り、フェズに存在する他のモスクのミナレットの高さはいずれもカラウィーン・モスクのミナレットの高さを考慮して設計されたと言われている<ref>ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、225,228頁</ref>。後ウマイヤ朝の時代に初期のモスクに備わっていた北側の中庭は取り壊されて拡張工事が行われ、新たな中庭が作られた。後ウマイヤ朝時代に拡張された部分のうち、開口部の柱とアーチにはレンガ、外壁にはある種のセメント、ミナレットには石が建材として使われている<ref name="hoag71"/>。

ムラービト朝時代の[[1134年]]に最後のカラウィーン・モスクの拡張工事が行われ、この工事によって天井を飾る複雑な[[ムカルナス]]が追加される<ref name="hoag71"/>。また、マグリブで最も古く、そして美しいと評価されるカラウィーン・モスク付設の死者の葬儀用の礼拝所はムラービト朝時代に増設された施設である<ref>私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、262頁</ref>。カラウィーン・モスクの中庭には黒タイルが敷き詰められ、庭を囲む壁は多色タイルや木や石の彫刻で装飾されており、装飾の主要な部分はムワッヒド朝時代に制作された<ref name="une13"/>。ムワッヒド朝によってムカルナスの装飾が白く塗りつぶされたため、上塗りを部分的に取り除く修復作業が進められている<ref name="hoag71"/>。17世紀前半に[[グラナダ]]の[[アルハンブラ宮殿]]の獅子の中庭のパビリオンを模した2つのパビリオンが中庭に建設され、パビリオンの中では泉が湧き出ている<ref name="hoag71"/>。

カラウィーン・モスクを建立したファーティマの姉妹であるメリアムは、アンダルス地区に質素な造りの小礼拝堂を建立し、礼拝堂は後のアンダルス・モスクの原型となる<ref>ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、224,229頁</ref>。956年にカラウィーン・モスクと同じくアンダルス・モスクにもミナレットが建立され、ムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルによって大規模なモスクの再建工事が実施された<ref name="gari229">ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、229頁</ref>。モスク北の大門の扉には彫刻が施された木のひさしが取り付けられており、モスクの建築の中でも高い評価を受けている<ref name="gari229"/>。16世紀にサアド朝のスルタンによって中庭に水盤が寄贈され、アラウィー朝の[[ムーレイ・イスマーイール]]によって水盤が修復された<ref name="gari229"/>。

1323年から1325年にかけて建立されたアッタリーン・モスクには、化粧漆喰とタイル装飾が施されている。アッタリーン・モスク付属の[[マドラサ]](神学校)は非イスラム教徒も入場することができ、屋上に登ることもできる<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、46頁</ref>。これらのマドラサに共通する点として、洗浄のための水盤とアーケードを備えた中庭が挙げられる<ref>ホーグ『イスラム建築』、82,84頁</ref>。アッタリーン・マドラサの中庭はタイルモザイク、タイル画、彫刻された漆喰(スタッコ)、木彫金彩などで装飾され、その鮮やかさは[[細密画]]にも例えられている<ref name="hoag84">ホーグ『イスラム建築』、84頁</ref>。マドラサ内部の生徒用の小部屋の窓枠、祈祷室に吊るされたシャンデリアの美しさが高く評価されている<ref name="nata"/>。

アッタリーン・マドラサなど、13世紀から15世紀にかけてのマリーン朝の時代に建設されたマドラサは、[[マグリブ]]で最も美しい建築物と評されている<ref name="une17"/>。[[1350年]]から[[1357年]]ごろにかけて<ref name="bat168"/><!-- ホーグ『イスラム建築』、84頁では1350年から1355年 -->、マリーン朝の君主[[アブー・イナーン・ファーリス]]は学問と礼拝のための施設である[[ブー・イナーニーヤ・マドラサ]]の建設を命じた<ref name="hoag84"/>。ブー・イナーニーヤ・マドラサは1階と2階いずれも円柱に支えられたアーチが、[[メノウ|オニキス]]が敷かれた中庭を囲む構造になっている<ref name="une17"/>。フェズ川から引き込まれた水路が中庭と礼拝所の間を流れ、礼拝所の両端に橋が架かる<ref>ホーグ『イスラム建築』、85頁</ref>。垂れ下がりアーチを備えた講義室が中庭を挟んで東西に向かい合い、1階と2階には学生用の宿舎が置かれている。講義室は1階と2階を貫き、天井はムカルナスで覆われている。ブー・イナーニーヤ・マドラサには中世マグリブの建築技術の粋を凝らしたものだと言われ、建築中のマドラサを見た旅行家[[イブン・バットゥータ]]は[[カイロ]]郊外のスィルヤークスに建てられたザーウィア(イスラム教徒のための修行所)よりも数段上だと驚嘆した<ref>バットゥータ『大旅行記』7巻(家島彦一訳注)、168,261頁</ref>。マドラサの北西には高いミナレットが併設されており、かつてはミナレットの中に精巧な[[水時計]]が置かれていた<ref name="hoag84"/>。

[[1321年]]から[[1323年]]にかけて[[アブー・アルハサン・アリー]]によって建設されたサフリージュ・マドラサの名前は、7種類の[[クルアーン|コーラン]]の詠唱法が教えられていたことに由来し、留学生だけを受け入れていた<ref name="gari229"/>。

カラウィーン・モスク、ブー・イナーニーヤ・マドラサの付近にはキサリアと呼ばれる複数の店舗が入居する商業施設が建てられており<ref name="yoneyama48"/>、カラウィーン・モスクに近接するキサリアはフェズのスークの中心となっている<ref>今村『迷宮都市モロッコを歩く』、78頁</ref>。カラウィーン・モスクのキサリアは13世紀にマリーン朝の[[アブー・ヤアクーブ・ユースフ]]によって建てられた精神病院の跡地に建ち、1954年に火災によって焼失した後、コンクリート製の建物が再建された<ref name="gari223">ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、223頁</ref>。また、モスクにはマドラサ以外に公衆トイレが独立した建物として併設されている<ref>法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、29,33頁</ref>。トイレは敷き詰められたタイルで装飾され、中央には泉が湧き出ている<ref>法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、41頁</ref>。

==== 他の歴史的建造物 ====
[[ヒジュラ暦]]841年ラジャブ月(1437年12月29日 - 1438年1月27日)<ref>私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、113頁</ref>に建立されたザーウィア・ムーレイ・イドリースは町の建設者であるイドリース2世の霊廟であり、18世紀に再建された。廟の屋根は緑の彩釉タイルで覆われており、棺には毎年新しい絹の聖布がかけられる<ref name="une13"/>。モロッコ内の他の宗教施設と同じく、廟には非イスラム教徒の立ち入りは禁止されており、信者は銅版に開けられた穴に手を入れてイドリース2世の墓に触れることができる<ref name="gari223"/>。誤ってロバやラバが廟に入らないよう、廟に向かう道には高さ1.6mほどのガードが設置されている<ref name="gari223"/>。

19世紀に建立されたアラウィー朝の宮殿はグラナダのヘネラリーフェ離宮を模して造られた建物で、1912年以降は事実上放棄された状態にある<ref name="une17"/>。

門付近とタラー・ケビラ、タラー・セビーラの周辺には多くのフンドゥクが建てられており<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、37頁</ref>、特にギッサ門からカラウィーン・モスクに至る通りの両側に集中している<ref>今村『迷宮都市モロッコを歩く』、83頁</ref>。旧市街には100以上のフンドゥクとその遺構が存在し、宿として営業を続けているものもあれば、工房、観光客向けの店、倉庫などに転用されているものもある<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、37-38頁</ref>。14世紀に建設されたフンドゥク・テトゥアニーは3階建ての建物で、工房・倉庫として使用されている。2階部分と3階部分の手摺にはムシャラビーヤと呼ばれる組子細工が施され、入り口の簗と天井はマリーン朝様式の幾何学模様で飾られている<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、40頁</ref>。17世紀後半に建設されたフンドゥク・サガーはアラウィー朝時代の建築様式をよく残したものだといわれ、中庭には大きな天秤が吊るされている<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、40-41頁</ref>。フンドゥク・ネジャリン(ネジャリン木工芸博物館)の前には周辺には広場が広がり、家具店が集まっている<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、50,52頁</ref>。

ブー・ジュルード門の西に隣接するカスバはかつて軍事基地として使用され、現在敷地内には病院や中学校が設置されている<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、28頁</ref>。旧市街周辺の丘には墓地、イスラームの聖者の小さな霊廟が点在する<ref name="yoneyama33"/>。丘の上の墓はいずれも西を向いており、墓地は市民のくつろぎの場にもなっている<ref>法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、29頁</ref>。

=== フェズ・エル・ジェディド ===
[[Image:Fes coffee place in the mellah.jpg|thumb|160px|right|メッラーフのカフェ(1912年)]]
13世紀にマリーン朝によって建設されたフェズ・エル・ジェディドは、ブー・ジュルード公園を挟んでフェズ・エル・バリの西に位置する。フェズ・エル・ジェディドの宮殿建築は残っておらず、市壁の大部分は改修されている<ref name="hoag80">ホーグ『イスラム建築』、80頁</ref>。

1395年に改修された金曜モスクは縦54m・横34mで、礼拝所は伝統的なT字型の構造になっている<ref name="hoag80"/>。回廊に囲まれたモスクの中庭は、[[アルジェリア]]の[[トレムセン]]のモスクに着想を得たものだと考えられている<ref name="hoag80"/>。[[1886年]]にはイタリアの使節団によって旧ミシュワール地区に建設された武器工場は、輸出用のモロッコ絨毯の工場に改修されている<ref name="gari220">ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、220頁</ref>。

15世紀にユダヤ人の居住区域であるメッラーフがフェズ・エル・ジェディドに建設されるとフェズ・エル・バリに住んでいたユダヤ教徒の多くはメッラーフに移住し、1465年に起きたマリーン朝を滅亡させたフェズの住民反乱とそれに伴うユダヤ教徒の虐殺の後、フェズ・エル・バリに残っていたユダヤ教徒のほとんどがメッラーフに移った<ref>私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、115-117頁</ref>。時代が経つにつれてメッラーフのユダヤ人のほとんどは国外に移住したため、メッラーフに住むユダヤ人は非常に少なくなり、往時は5つあった[[シナゴーグ]]も1つに減った<ref name="yoneyama32">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、32頁</ref>。ユダヤ人が去った後もメッラーフには凝った造りの木のバルコニーや新古典主義様式の列柱が立ち並ぶファサードを備えた邸宅、20世紀初頭の建築様式によるビルが残る<ref>ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、219頁</ref>。メッラーフ南の斜面にはユダヤ人の墓地があり、時にはメッラーフを出た人間も墓参りに訪れる<ref name="yoneyama32"/>。

=== 都市建築の保全活動 ===
フランス支配時代の初代モロッコ総督[[ルイ・リベール・リヨテ]]は、1912年にモロッコ各都市の歴史建築を文化財として登録し、建物の保護を試みた。フェズの文化財の大半はマドラサで占められ、マドラサ、フンドゥク、カスバ、城壁、城門はフェズ出身の職人によって修復された<ref>松原『フェスの保全と近代化』、34-35頁</ref>。安全の保証、モロッコ人との衝突の回避のためにフランス人の旧市街への入居は禁止され、1914年には旧市街全体の開発が禁止された<ref>松原『フェスの保全と近代化』、35,50頁</ref>。リヨテの保護政策はフンドゥクやカスバなどの基礎建築と記念碑的建築のみを対象としており、街区、通りの袋小路、邸宅といった住環境には及ばなかった<ref>松原『フェスの保全と近代化』、35,39頁</ref>。リヨテが任期を終えてモロッコから去った後、文化財の保護政策は停滞する<ref>松原『フェスの保全と近代化』、39頁</ref>。

1956年のモロッコ独立後に旧市街の居住者が新市街に流出したために古くからの家屋は荒廃し、地方の住民によって建てられた家屋のために城壁内の密度が高くなり、市街の荒廃は深刻化している<ref>私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、324-325頁</ref>。放棄された邸宅の中にはフェズに流入した離村農民に占拠されたものもあり、中庭を囲む個々の部屋が一家族の居住スペースとして使用されており、複数の家族が居住する共用住宅のような状態になっている<ref name="matsubara115">松原『フェスの保全と近代化』、115頁</ref>。部屋の中庭に面する部分にはカーテンやシートが目隠しとしてかけられ、中にはモルタルで塞がれている部屋もある<ref name="matsubara115"/>。

1980年にはユネスコのアマドゥ・マクタル・ム・ボウ全事務局長がフェズ旧市街の保持の援助を呼びかけた。1989年以降は自治体でも町の保全に取り組んでいるが、公的予算が不足しているため、住民に住居の保全を呼びかけるに留まっている<ref name="une17">『ユネスコ世界遺産 11(北・西アフリカ)』、17頁</ref>。1990年代には汚水の排出、水路網の老朽化、川の暗渠化されていない場所へのごみの投棄といった環境問題によって旧市街の衛生状態が悪化し、古くからの住民の退去を促進する一因にもなった<ref>松原『フェスの保全と近代化』、231-232頁</ref>。衛生状態の改善のために、暗渠化の工事、下水道の整備、汚水産業の移転と指導、川へのごみの投棄の違法化といった処置がとられた<ref name="matsubara232">松原『フェスの保全と近代化』、232頁</ref>。併せて旧市街の過密化に伴って問題となっていたごみ収集システムの整備が実施され、これまで住民が行っていたごみの収集が市が指定する業者に委託され、動物交通と自動車を組み合わせた運搬が行われるようになった<ref name="matsubara232"/>。


=== 登録基準 ===
=== 登録基準 ===
{{世界遺産基準|2|5}}
{{世界遺産基準|2|5}}
<gallery>
Image:Blue Gate in Fes.jpg|ブー・ジュルード門
Image:Medina Fez 8.jpg|旧市街の路地とアーチ
Image:Bou Inania Madrasa 2011.jpg|ブー・イナーニーヤ・マドラサ
Image:MoroccoFesMedrassa small.jpg|ブー・イナーニーヤ・マドラサの柱と壁
Image:Medresa Al-Attarin(js)2.jpg|アッタリーン・マドラサ
Image:Fes mausolee idris 2.jpg|ザーウィア・ムーレイ・イドリースの入り口
Image:Fes - Fondouk el-Nejjarine.jpg|フンドゥク・ネジャリンの内部
Image:Marinid tombs 1.jpg|マリーン朝王族の墓地
</gallery>

=== ヴィル・ヌヴェル ===
[[Image:Ville Nouvelle Fès Maroc.JPG|thumb|160px|ヴィル・ヌヴェルのハサン2世通り]]
1912年にモロッコがフランスの保護国とされた後、建築家[[アンリ・プロスト]]の構想に沿ったフ新たな地区の建設が開始され、1916年にフランス人の居住区となる新市街が完成した。1956年のモロッコ王国の独立後、旧市街の住民はフランス人が引き上げたヴィル・ヌヴェルに移住した。

旧市街南西の平坦な農地ダール・デビバグが新市街の建設場所に選ばれ、平らな地形を活用した競馬場や飛行場が建設された<ref>松原『フェスの保全と近代化』、55,57頁</ref>。フランス風の大通りが地区の中心を走り、街路樹として[[オリーブ]]が植えられている<ref name="yoneyama33">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、33頁</ref>。フェズの人口増加に伴って多くの高層住宅と一戸建ての家屋が建てられ、役所、ホテル、スークが整備された<ref name="yoneyama33"/>。ヴィル・ヌヴェルの東には[[フェズ大学]]のキャンパス、軍事基地、病院が置かれている。

新市街に建つチュニス・モスクは、1957年にモロッコ人によって建立されたスンナ・モスクという小さな礼拝所が元になっている<ref>松原『フェスの保全と近代化』、148-149頁</ref>。1958年にフェズを訪問した[[チュニジア共和国]]の初代大統領[[ハビーブ・ブルギーバ]]はフランス人居住区に建てられたスンナ・モスクを見て感じるところがあり、新市街唯一のモスクであるスンナ・モスクへの寄付を申し出た<ref>松原『フェスの保全と近代化』、149-150頁</ref>。スンナ・モスクが建てられている街区全体を更地にしたうえで増築が行われ、1961年に工事を終えたモスクはブルギーバにちなんで「チュニス・モスク」と改名された<ref>松原『フェスの保全と近代化』、150頁</ref>。チュニス・モスクにはモロッコで珍しい赤レンガ風のタイルが使用されており、併設されているミナレットは白の素地が赤茶と緑のタイルで縁取られている<ref name="matsubara165">松原『フェスの保全と近代化』、165頁</ref>。入り口には木の扉が取り付けられており、木彫りと漆喰彫り、緑と紺の2色のタイルで装飾されている<ref name="matsubara165"/>。旧市街の歴史的なモスクと同じように、チュニス・モスクも天井部分はムカルナスで飾られている<ref name="matsubara165"/>。

1987年完成のユースフ・ベン・ターシュフィーン・モスクは、近隣の住民の礼拝の場となっていたカフェの地下室を前身としている<ref>松原『フェスの保全と近代化』、151-152頁</ref>。

== 人口 ==
{| class="wikitable"
|-
! !! 1960年 !! 1971年 !! 1982年!! 2004年
|-
! 人口
| 216,200<ref name="matsubara108">松原『フェスの保全と近代化』、108頁</ref> || 322,800<ref name="matsubara108"/> || 484,154<ref name="matsubara108"/>
|| 965,507<ref>[http://www.hcp.ma/Recensement-general-de-la-population-et-de-l-habitat-2004_a633.html Recensement général de la population et de l'habitat 2004](2015年2月閲覧)</ref>
|}

== 観光施設 ==
* バトハ博物館 - 19世紀末にムーレイ・ハッサンによって建設された宮殿を改修した博物館<!-- [[ハサン1世 (モロッコ)」]]と同一人物だと思うけど確信が無いので内部リンクは貼付していません。『モロッコの迷宮都市フェス』では「高官の邸宅」として紹介。 --><ref name="aruki141">「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』、141頁</ref>。陶器、絨毯、民族衣装などのフェズの伝統工芸品が展示されている<ref name="yoneyama50"/>。[[ムーア建築]]に基づいた庭園は、楽園([[ジェンナ]])をイメージして作られたものだといわれている<ref name="aruki141"/>。
* 武器博物館 - 旧市街北の丘に立つ城砦ボルジュ・ノールを改修した博物館。刀剣、甲冑、弓矢、大砲などの武器が展示され、国王からの下賜品も含まれる<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、228-229頁</ref>。
* ネジャリン木工芸博物館 - 旧市街のネジャリン広場に面する博物館。高級宿として使われていたフンドゥク・ネジャリンを1990年から1998年にかけて改修した博物館<ref>「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』、142頁</ref>。
* ブー・ジュルード公園 - 旧市街と新市街の間に広がる公園。サアド朝時代のスルタンの庭園であり、1917年に公園に改修された<ref name="gari220"/>。
* パレ・ジャメイ - 1930年開業。[[1879年]]に建てられたアラウィー朝の高官の邸宅を改修したホテル<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、52頁</ref>。広い庭園を有する邸宅はそのまま保存され、プール、テニスコートなどの設備が置かれている。
* オテル・デ・メリニッド - 旧市街北のギッサ門の外の丘に広がるマリーン朝(メリニッド朝)の王族の墓地の隣に立つホテル。1990年12月の暴動では暴徒によって放火された<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、53頁</ref>。

== 教育 ==
[[Image:Var 132.jpg|thumb|160px|right|カラウィーン大学]]
カラウィーン・モスクに付属する[[マドラサ]](神学校)は西方イスラム世界で最古のもののひとつであり、歴史家[[イブン・ハルドゥーン]]もこの学校で教鞭を執った<ref name="une13"/>。カラウィーン・モスクが高等教育機関としての性質を備えるようになったのは11世紀のムラービト朝の時代からだと考えられており、特に[[医学]]の分野で名声を博した<ref>私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、262-263頁</ref>。カラウィーン・モスクは植民地時代に民族主義派の活動の拠点となり、人材の育成、政治綱領・独立宣言の起草もここで行われた<ref name="gari217"/>。1956年のモロッコ独立後にカラウィーン・モスクは法人化されて教育部門が教育省の管轄化に置かれるようになり、イスラーム諸学とアラビア語の専門家の育成、それらの分野における学術研究の振興を目的として{{仮リンク|カラウィーン大学|en|University of al-Qarawiyyin}}が運営されている<ref>私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、265頁</ref>。10世紀に建設されたカラウィーン・モスク付属の図書館には10,000冊超のアラビア語写本が所蔵されており、その中にはイブン・バットゥータの手による写本も含まれている<ref>バットゥータ『大旅行記』7巻(家島彦一訳注)、171頁</ref>。

1956年のモロッコ独立後に[[ムハンマド・ベン・アブダル大学]]が開校するまでの間、大学への進学を希望するフェズの人間はラバトの大学に入らなければならなかった<ref>米山『モロッコの迷宮都市フェス』、75頁</ref>。リセー・ムーレイ・イドリースはモロッコ有数の名門校で、政財界・学界に多くの人物を輩出した<ref name="yoneyama274">米山『モロッコの迷宮都市フェス』、274頁</ref>。ラバトに政治機能、カサブランカに経済の中心が移った後も、リセー・ムーレイ・イドリースの学閥の影響力は強く残っているといわれている<ref name="yoneyama274"/>。

== 交通 ==
[[Image:Fes (5364938140).jpg|thumb|180px|right|旧市街ではロバが荷物の運搬に使われている。]]
フェズは交通の要衝であり、[[ラバト]]から[[アルジェ]]、[[タンジェ]]に向かうルートの交差点に位置している<ref name="c-jiten1979"/>。

旧市街に入る主要な城門の周辺には駐車場が整備されているが、旧市街への自動車の乗り入れは制限されている<ref name="matsubara115"/>。旧市街内部では[[ウマ]]などの動物が主要な交通手段として使われている<ref>松原『フェスの保全と近代化』、43,115頁</ref>。

フェズ市内の[[ONCF]](モロッコ国営鉄道)の駅は、ヴィル・ヌヴェルの[[フェズ駅]]、旧市街東の[[フトウ門駅]]の二か所<ref name="yoneyama33"/>。本数が多い市営バスはフェズ市民がよく使用する交通手段の一つである<ref>「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』、134頁</ref>。新市街の南端と旧市街に隣接するカスバの北西にはCTM(モロッコ国営バス)のバスターミナルが置かれており、[[カサブランカ]]やタンジェなどの他の都市に向かうバスの発着地となっている<ref>「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』、132-133頁</ref>。町の南には[[フェズ=サイス空港]]があり、空港は国道24号線でフェズ市内と接続されている<ref name="yoneyama34"/>。


== 姉妹都市 ==
== 姉妹都市 ==
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*{{Flagicon|KOR}} [[水原市]]、[[大韓民国]]
*{{Flagicon|KOR}} [[水原市]]、[[大韓民国]]
*{{Flagicon|TUR}} [[イズミル]]、[[トルコ共和国]]
*{{Flagicon|TUR}} [[イズミル]]、[[トルコ共和国]]

== 交通 ==
* [[フェズ=サイス空港]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* 飯山陽「フェス」『世界地名大事典』3収録(朝倉書店, 2012年11月)
* 今村文明『迷宮都市モロッコを歩く』(気球の本, NTT出版, 1998年2月)
* 岩永博「フェズ」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年)
* 私市正年「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』収録(岩波講座 世界歴史10, 岩波書店, 1999年10月)
* 私市正年、佐藤健太郎編著『モロッコを知るための65章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2007年4月)
* 「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』(地球の歩き方, ダイヤモンド社, 2014年2月)
* 野沢秀樹「フェズ」『世界地名大事典』8巻収録(朝倉書店, 1974年4月)
* 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』(講談社現代新書, 講談社, 2005年3月)
* 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43収録(日本オリベッティ広報室, 1991年6月)
* 松原康介『フェスの保全と近代化』(学芸出版社, 2008年2月)
* 米山俊直『モロッコの迷宮都市フェス』(平凡社, 1996年6月)
* イブン・バットゥータ『大旅行記』7巻(家島彦一訳注, 東洋文庫, 平凡社, 2002年7月)
* ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』(赤井駒子他訳, 望遠郷「旅する21世紀」ブック, 同朋舎出版, 1995年3月)
* ジョン.D.ホーグ『イスラム建築』(図説世界建築史, 本の友社, 2001年9月)
* 『ユネスコ世界遺産 11(北・西アフリカ)』(ユネスコ世界遺産センター監修, 講談社, 1998年1月)


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2015年2月13日 (金) 14:17時点における版

フェズ
فاس
Fes
モロッコの旗
フェズの風景
フェズの風景
フェズの市旗
市旗
位置
フェズ・ブルマーヌ地方の位置の位置図
フェズ・ブルマーヌ地方の位置
座標 : 北緯34度2分 西経5度0分 / 北緯34.033度 西経5.000度 / 34.033; -5.000
行政
モロッコの旗 モロッコ
 地域 フェズ・ブルマーヌ地方
 州 Fès-Dar-Dbibegh
 市 フェズ
地理
面積  
  市域 ? km2
人口
人口 (2004年現在)
  市域 965,507人
その他
等時帯 西ヨーロッパ時間 (UTC+0)
夏時間 西ヨーロッパ夏時間 (UTC+1)
郵便番号 30 000

フェズアラビア語: فـاس‎、 Fez、 Fès)はアフリカ北西端、モロッコ王国北部の内陸都市。アラビア語では「ファース」[1]フェスとも表記される。

イドリース朝マリーン朝などのモロッコに存在した過去のイスラム王朝の多くはフェズを首都に定めていた。首都が他の都市に移された時であっても、フェズはモロッコ人にとって特別な都市であり続けている[2]。数世代前から町に住み続けているフェズの住民はファシ(ファーシー)と呼ばれ、彼らの間では独特の方言が話されている[3]。ファシの間にも方言の差異があり、旧市街では北部方言、新市街では南部方言が話されている[4]

フェズはラバトマラケシュメクネスカサブランカといった都市と共にモロッコの観光資源となっている[5]。複雑な構造の旧市街地は迷路にも例えられ[6]、1981年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に「フェズ旧市街」が登録された。

地理、気候

地理

フェズはアトラス山脈の北西、サイス平野の町で、フェズ川セブー川の合流点の南に位置する。モロッコ南部のサハラ砂漠アトラス山脈と北の地中海沿いの都市、モロッコ西部のカサブランカラバトメクネスから東に向かう交易路の交差点に位置するフェズには隊商宿と巡礼者や商人のための小規模の商店が多く建てられた[7]サハラ交易において、フェズは年2回トンブクトゥに向かう隊商の拠点とされていた[1]。フェズ市内の地域はメディナと呼ばれる旧市街(9世紀から始まるフェズ・エル・バリと13世紀に建設されたフェズ・エル・ジェディド)、フランス植民地時代に建設された新市街(ヴィル・ヌヴェル)、旧市街の周囲に広がる墓地の外側に建設された居住区(シテ・ポピュレール)、シテ・ポピュレールの外に建つ高級住宅地とバラック街に分けられる。

町の周囲は小高い丘に囲まれており[6]、旧市街の中央を貫いてフェズ川が西から東に流れている[8]。フェズ・エル・バリはフェズ川を底として両岸が競りあがるすり鉢上の構造をしており、岸に建てられた建物は底の部分に近づくほど古い歴史をもつものが多くなる[9]。フェズ・エル・バリの住民は地下を流れるフェズ川の水を汲み上げて利用しており、排出される下水は町の外れでフェズ川の下流に合流する[8]。近代に入るとフェズ川の南半分は暗渠化され、舗装道路が川の上を通っている[10]。地区内の水の供給は10世紀に建設された施設に依存するところが多く、供給量は十分とは言いがたい[11]。旧市街の水路はかつてのフェズの繁栄に大きな役割を果たし[12]、ムラービト朝の君主ユースフ・ベン・ターシュフィーンによる整備を経て、12世紀末にはモスク、マドラサ、多くの住居に水道が引かれるようになっていた[13]

フェズは亜熱帯気候に属しており、大西洋の影響を受けているために夏の気温は高く、冬に降雨が集中する[14]。町の周辺では小麦オリーブ、豆類、ブドウが栽培され、ヒツジやヤギの遊牧が営まれている[6]

気候

フェズの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 14.7
(58.5)
16.2
(61.2)
18.5
(65.3)
21.7
(71.1)
25.6
(78.1)
31.3
(88.3)
35.8
(96.4)
35.6
(96.1)
30.7
(87.3)
25.2
(77.4)
18.7
(65.7)
15.3
(59.5)
24.11
(75.41)
平均最低気温 °C°F 4.1
(39.4)
5.4
(41.7)
6.3
(43.3)
8.9
(48)
11.8
(53.2)
14.7
(58.5)
18.4
(65.1)
18.6
(65.5)
16.1
(61)
12.2
(54)
7.7
(45.9)
4.9
(40.8)
10.76
(51.37)
雨量 mm (inch) 84.6
(3.331)
81.1
(3.193)
71.3
(2.807)
46.0
(1.811)
24.1
(0.949)
6.4
(0.252)
1.2
(0.047)
1.9
(0.075)
17.7
(0.697)
41.5
(1.634)
90.5
(3.563)
82.2
(3.236)
548.5
(21.595)
平均降雪日数 0,2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0,2
出典1:Hong Kong Observatory[15]
出典2:Meoweather.com[16]

歴史

建設初期 - ベルベル人による支配

フェズの起源は紀元前に遡ると言われることもあるが考古学的な根拠は無く、半ば伝説として扱われている[17]紀元前40年ごろにはフェズから北西に50km離れた場所に建てられたローマ都市のヴォルビリスが繁栄しており、同時期のフェズには公衆浴場が存在していたと伝えられている[17]

8世紀末にイドリース朝の創始者イドリース1世がフェズ川西岸に国家の首都となる町を建設し、イドリース1世の跡を継いだイドリース2世はフェズ川東岸に新たな町を建設した[18]818年イベリア半島を支配する後ウマイヤ朝の首都コルドバから8,000の家族がフェズに移住し[19]、イベリア半島からフェズに亡命したイスラム教徒は町の発展に寄与した[20]825年にはチュニジアカイラワーン(ケルアン)から追放された家族によって、フェズ川西岸にカイラワーン地区が形成される[21]9世紀にアンダルス出身者が自分たちの居住区であるアンダルス地区に建立したアンダルス・モスクはイスラム教徒の礼拝の場となり、カイラワーン地区にはアンダルス・モスクの建立と同時期にカラウィーン・モスクが建立された[20]。伝説によれば、カイラワーンからフェズに亡命した富豪が2人の娘に莫大な財産を遺して没し、遺産を相続した姉妹は信仰心の篤さを示すために、それぞれカラウィーン・モスクとアンダルス・モスクを建立したという[22]

やがてフェズはエジプトファーティマ朝の支配下に入り、919年/930年にカイラワーン地区のカラウィーン・モスクは金曜モスクとされる[23]933年から980年までフェズは後ウマイヤ朝の支配下に置かれ、この時代にはイベリア半島からの影響を強く受けた建築物が作られる[24]。後ウマイヤ朝の建築様式は、11世紀から13世紀にかけてモロッコを支配したベルベル人国家のムラービト朝ムワッヒド朝にフェズを通して継承される[25]

1069年にムラービト朝はフェズを占領し、ムラービト朝がマラケシュを首都に定めた後もフェズは芸術・学問の中心地として発展を続ける[26]。11世紀のムラービト朝の時代にフェズ川を隔てて並立していた2つの地区は塁壁で1つに統合されるが[6][27]、居住区が一つとなったあとも両地区の独自性は数世紀にわたって保たれた[20]

1146年にフェズはムワッヒド朝の支配下に入る。ムワッヒド朝の君主ムハンマド・ナースィルの時代に行われた統計調査では782のモスク、89,236の住宅、19,041の使用人が住む離れの小屋、9,082の店舗、467の商館がフェズに存在していたことが記録されている[28]

マリーン朝の建国

13世紀初頭、アルジェリア東部のビスクラ地方で遊牧民族が建国したマリーン朝が台頭し、1248年にフェズはマリーン朝の支配下に入る。マリーン朝はこれまでモロッコを支配していたムワッヒド朝との関係を絶つため、ムワッヒド朝時代の都マラケシュに代えて、フェズを首都に制定した[28]1276年にマリーン朝の君主アブー・ユースフ・ヤアクーブはフェズの新市街(フェズ・エル・ジェディド)の建設を命じた。1395年には新市街に大モスクが建立され、新たな宮殿も建設される[29]。マリーン朝時代のフェズは旧市街が経済の中心地、フェズ・エル・ジェディドが行政の中心地となり、あたかも双子都市のように機能していた[30]。旧市街には家屋が密集し、14世紀の最盛期にはおよそ100,000人の市民が旧市街に居住していた[30]。武器博物館の裏には、マリーン朝王族の墓地が広がっている[31]

フェズはイスラム教徒だけでなくユダヤ教徒にとっても重要な町であり、11世紀の地理学者バクリーはフェズには他のマグリブのどの都市よりもユダヤ教徒が多く住んでいたと記している[32]。イスラム教徒の住民とユダヤ教徒の住民の関係は不安定であり、時にはイスラム教徒によるユダヤ教徒の殺害・略奪が起きた[33]。1276年に起きたポグロム(ユダヤ教徒の大量虐殺)の後からマリーン朝はユダヤ教徒の居住区の必要性を痛感し、1438年ごろにフェズ・エル・ジェディドにメッラーフ(ユダヤ教徒の強制隔離地区)が設置された[34]。また、マリーン朝時代のフェズにはユダヤ人居住区以外にイベリア半島出身のキリスト教徒傭兵の居住区、シリア出身の弓兵の居住区も設けられていた[35]

マリーン朝の滅亡後に成立したワッタース朝はフェズを首都とし、1549年にフェズはマラケシュを本拠とするサアド朝の支配下に入る。フェズは外来者の受け皿となり、グラナダナスル朝の滅亡によって現れた難民を受け入れ、アルジェリアサハラ砂漠からの移民のための居住区が建設される[36]16世紀以降、断続的に起きる反乱によってフェズの町は衰退していく[6]17世紀に成立したアラウィー朝はフェズを首都に定め、宗教・学問・商業の中心地として繁栄する。

1911年にフェズはフランスによって占領され、翌1912年に締結されたフェズ条約によってモロッコはフランスの保護下に置かれる。フランス統治下のフェズは軍用地域と市民用地域に分けられ、移動は制限されていた[37]1916年にフランス人居住区として第三の市街地(ヴィル・ヌヴェル)が建設され、フェズに3つ目の市街が形成される[6]。新市街は幅の広い道路が直角に交差する「近代的」な構造で、さながら迷路のような旧市街と対照的な町並みとなっている[38]。また、フランスによって公布された旧市街に新たな建築物を建てることを禁じる法令は、旧市街の景観の維持に一役買った[39]。このような状況下で、フェズのイスラーム法学者はラバトの知識人と共にモロッコの民族独立運動の担い手として、フランスへの抗議活動に参加した[40]第二次世界大戦期のアフリカでの植民地戦争において、フェズはレジスタンスの拠点となった[41]

モロッコ王国再独立後

1956年のモロッコ王国の独立後、フェズの外周にシテ・ポピュレールと呼ばれる新たな住宅地が拡大する[42]。シテ・ポピュレールには集合住宅が建てられ、病院、学校、道路などの施設や工場が整備された[43]。1976年以降、フェズ知事と市議会、市域外の地方議会による行政システムが導入される[44]。1990年12月14日、労働組合のストライキに端を発する暴動が起きる[45]。暴動の後、旧市街、新市街、フェズから約25km南にある町セフルーの3つの地域に行政を担う知事が任命された。

経済

タンネリには染料の入った壷が並べられており、強い臭気が漂っている[46]

フェズの旧市街では105種類の手工業が営まれていると言われている[47]。手工業に携わる職人たちは階級制に基づく同業者組合を結成し、それぞれの組合で伝統的な規則が敷かれている[48]。職人たちが有する伝統的な技術の継承が奨励されており、伝統工芸の中でも皮なめしが特に名高い[49]。フェズには木綿、羊毛を扱う繊維業、精油、石鹸、なめし皮の工場が置かれている[14]。旧市街にはなめし皮、染色、陶工などの工房、それらの手工芸品を販売する商店が路地に密集している[6]

旧市街東のフェズ川下流の急斜面にはタンネリ(タヌリ)と呼ばれる川染めの工場が置かれ、モロッコ内で最大の規模を誇る[50]。フェズブルーという名前の陶器が多く生産され、モスクの屋根瓦や食器として使われている[51]。皮なめしの工房は汚水を排出するためにフェズ川下流に設置されており[52]、悪臭と染料による汚染の対策として搬入・搬出は大通りから外れた通路で行われる[53]

町は革製品、絹のショール、赤色の帽子の取引の中心地でもあり、帽子は町の名前にちなんで「フェズ」と呼ばれている。

建築物

世界遺産 フェズの旧市街
モロッコ
旧市街の眺望
旧市街の眺望
英名 Medina of Fez
仏名 Médina de Fès
面積 280 ha
登録区分 文化遺産
登録基準 (2),(5)
登録年 1981年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
フェズの位置
使用方法表示

フェズ・エル・バリ

フェズ・エル・バリはチュニジアのケルアンからの移住者の居住区が元となったフェズ川西岸のカイラワーン地区と、イベリア半島からの移住者の居住区が元となった東岸のアンダルス地区で構成され、二つの地区は川をまたぐ市壁に囲まれている[18]。フェズ・エル・バリと市外を隔てる厚い市壁には、8つの門が設けられている。

  • ブー・ジュルード門
  • ハディード門
  • ジャディード門
  • フトウ門
  • クウーカ門
  • シディ・ブー・シダ門
  • ギッサ門
  • ショルファ門

8の門のうち、西に建つブー・ジュルード門が旧市街の正門とされており[54][55]、ギッサ門とハディード門はフェズの建設初期から存在していたと考えられている[56]。城門は交易上重要な方角に設置されており、フトウ門は東のアラブ世界、ギッサ門は北のイベリア半島、ブー・ジュルード門は西のメクネスやラバトに面している[57]。ブー・ジュルード門の外壁と柱頭は幾何学模様のズッリージュ(コバルトの陶製タイル)で彩られ、主門と脇門には馬蹄型のアーチが架かる[55]。ブー・ジュルード門の周辺には、肉や野菜といった生鮮食品を扱う店が集まっている[58]

門から町の中心に向かう主要街路が伸びており[59]、ブー・ジュルード門から北東に伸びるタラー・ケビラとタラー・セビーラの二本の道路がメインストリートといえる[60]。タラー・ケビラはタラー・セビーラに比べてやや広いが傾斜は急で、通りの途中には階段になっている部分もある[61]。タラー・ケビラよりも新しいタラー・セビーラはやや緩やかだが道幅は狭く[61]、どちらの大通りもカラウィーン・モスクに通じている[62]。南のジャディード門から伸びるアーメド・ベン・エル・アラウィー大通りは、旧市街を通る唯一の自動車道である[61]。8つの主要街路は枝分かれした街路によって互いに接続され、街路から伸びた袋小路の先には個人の住宅が現れる[63]。旧市街の街区は門やアーチで区切られており[64]、長い袋小路の中には街区として設定されているものも多い[65]。中庭の確保と交互に配置された入り口による住居のプライバシーの確保、通りに面して作られた建物に併せて住宅や路地を建設する工程のため、フェズの旧市街には曲がりくねった路地や袋小路が多く現れた[66]

道は曲がりくねっている上に高低差があり、見通しも悪い迷路のような形状になっている[67]。道幅は広い部分で6m余り、狭い部分では1m以下で、広い通りは少なく狭い通りが多い[68]。狭い通りや路地の両側は高い壁に挟まれていることが多く、家屋の入り口となる扉がまばらに見られる[54]。坂の傾斜が緩やかな地形には、モスク、ザーウィヤ(霊廟)、ハンマーム(公共浴場)、フンドゥク(隊商宿)などの大規模な施設や、大きい邸宅が建てられている[69]。複雑な路地と100m以上の高低差による立体的な迷路性が合わさって、旧市街に入り込んだ人間を混乱させると言われている[10]。地形の高低差があるフェズには、街路にまたがって建てられたモスクも見られる[70]

地区内のところどころに小さなモスクやハンマーム(公共浴場)、小規模の店舗がまとまって配置され、いくつかの主要街路は道の両側に商店が並ぶスーク(市場)となっている[63]。スーク内の店の敷居は通りよりも高く、業種の同じ店が固まっている[48]。フェズ川沿いにはなめし皮職人街であるシュアラが広がり、シェッラティーン通りには民族衣装を扱う店が並んでいる。ハンマームの構造は地形の高低が生かされており、湯を沸かすために火を使う場所を低地に置き、入り口は高い場所に設けられている[69]

フェズ・エル・バリの家屋の多くは中庭を持ち、それぞれ異なる形や敷地面積を有している[63]。基本的に家屋にファサードは設けられておらず、入り口の扉だけが街路に面していることが多い[71]。家屋の入り口の扉は対面の家の入り口と真っ直ぐ向かい合わないように作られており、お互いの家の中を覗き込まないように工夫されている[71]。邸宅の増改築について、かつては工事を手がける職人と一部の住民の間に共通の規則が存在しており、工事にあたって住民間のプライバシーの確保、住宅地と公共施設の分離が徹底されていた[72]。入り口の扉は木の細工と鋲で飾り付けられ、多くの扉には「ファーティマの手」と呼ばれる魔除けのついた2つのノッカーが取り付けられている2つのノッカーが付けられている理由について、家人と来客の区別をするため[73]、徒歩で訪れた客と馬で乗りつけた客の両方に応対するため[74]など諸説ある。

住宅の敷地の形状や大きさはそれぞれ異なり、街区の奥に進むほど豪華な造りの住宅が見られるようになる[75]。中庭が住宅の中心となっており、建物の配置はロ字型、コ字型、二時型、L字型に分類できる[76]。敷地に余裕がある豪邸ではロ字型が採用されていることが多く、面積が狭まるにつれてコ字型、二時型、L字型とスペースを節約できる構造が採用されるようになる[76]。いずれの構造の住宅でも左右対称性が重視されており、向かい合う部屋の大きさはほぼ同じであることが多い[76]。中庭が小さい割に周りを囲む建物は高く、部屋は奥行きが狭く横幅が広い[77]。中庭の面積と比べて周囲の壁面が高い構造は、古代ローマの住宅(ドムス)と共通している[78]。中庭の周囲の構造は、列柱が並ぶ2階建ての回廊が中庭を囲むギャラリー型が最も多く、他に2階が吹きさらしのテラスになっているテラス型、部屋の壁が直接中庭に面しているウォール型の二種が存在する[76]シリアイランイラクの住宅と比べて、フェズ旧市街の住宅では中庭が室内空間として積極的に利用されており、中庭の上に簡素な屋根が取り付けられるとその傾向はより顕著になる[79]。中庭を積極的に利用して開放感を高めようとする構造は、人口密度が高いフェズの住民が生み出した生活の知恵とも言える[78]

モスク、マドラサ

857年頃にカイラワーン地区に建立されたカラウィーン(カラウィーイーン)・モスクは、アラブ人富豪の娘ファーティマが建立した礼拝堂が元になっているモスクである[22]。当初は個人的な礼拝所として使用されていたといわれているが、919年にはすでに集団礼拝の場とされていた[80]

建設初期のカラウィーン・モスクの上部に架けられていたアーチ、アーチを支える柱の形状は明らかになっていない[23]。後ウマイヤ朝時代の956年に完成したミナレットには、パラペットドーム部分を除いてコルドバ風の建築様式が採用されており、アーチはコルドバ風の円頭馬蹄型をしている[23]。ミナレットはイドリース2世の剣の上に建てられたという伝承が残り、フェズに存在する他のモスクのミナレットの高さはいずれもカラウィーン・モスクのミナレットの高さを考慮して設計されたと言われている[81]。後ウマイヤ朝の時代に初期のモスクに備わっていた北側の中庭は取り壊されて拡張工事が行われ、新たな中庭が作られた。後ウマイヤ朝時代に拡張された部分のうち、開口部の柱とアーチにはレンガ、外壁にはある種のセメント、ミナレットには石が建材として使われている[23]

ムラービト朝時代の1134年に最後のカラウィーン・モスクの拡張工事が行われ、この工事によって天井を飾る複雑なムカルナスが追加される[23]。また、マグリブで最も古く、そして美しいと評価されるカラウィーン・モスク付設の死者の葬儀用の礼拝所はムラービト朝時代に増設された施設である[82]。カラウィーン・モスクの中庭には黒タイルが敷き詰められ、庭を囲む壁は多色タイルや木や石の彫刻で装飾されており、装飾の主要な部分はムワッヒド朝時代に制作された[29]。ムワッヒド朝によってムカルナスの装飾が白く塗りつぶされたため、上塗りを部分的に取り除く修復作業が進められている[23]。17世紀前半にグラナダアルハンブラ宮殿の獅子の中庭のパビリオンを模した2つのパビリオンが中庭に建設され、パビリオンの中では泉が湧き出ている[23]

カラウィーン・モスクを建立したファーティマの姉妹であるメリアムは、アンダルス地区に質素な造りの小礼拝堂を建立し、礼拝堂は後のアンダルス・モスクの原型となる[83]。956年にカラウィーン・モスクと同じくアンダルス・モスクにもミナレットが建立され、ムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルによって大規模なモスクの再建工事が実施された[74]。モスク北の大門の扉には彫刻が施された木のひさしが取り付けられており、モスクの建築の中でも高い評価を受けている[74]。16世紀にサアド朝のスルタンによって中庭に水盤が寄贈され、アラウィー朝のムーレイ・イスマーイールによって水盤が修復された[74]

1323年から1325年にかけて建立されたアッタリーン・モスクには、化粧漆喰とタイル装飾が施されている。アッタリーン・モスク付属のマドラサ(神学校)は非イスラム教徒も入場することができ、屋上に登ることもできる[84]。これらのマドラサに共通する点として、洗浄のための水盤とアーケードを備えた中庭が挙げられる[85]。アッタリーン・マドラサの中庭はタイルモザイク、タイル画、彫刻された漆喰(スタッコ)、木彫金彩などで装飾され、その鮮やかさは細密画にも例えられている[86]。マドラサ内部の生徒用の小部屋の窓枠、祈祷室に吊るされたシャンデリアの美しさが高く評価されている[2]

アッタリーン・マドラサなど、13世紀から15世紀にかけてのマリーン朝の時代に建設されたマドラサは、マグリブで最も美しい建築物と評されている[11]1350年から1357年ごろにかけて[55]、マリーン朝の君主アブー・イナーン・ファーリスは学問と礼拝のための施設であるブー・イナーニーヤ・マドラサの建設を命じた[86]。ブー・イナーニーヤ・マドラサは1階と2階いずれも円柱に支えられたアーチが、オニキスが敷かれた中庭を囲む構造になっている[11]。フェズ川から引き込まれた水路が中庭と礼拝所の間を流れ、礼拝所の両端に橋が架かる[87]。垂れ下がりアーチを備えた講義室が中庭を挟んで東西に向かい合い、1階と2階には学生用の宿舎が置かれている。講義室は1階と2階を貫き、天井はムカルナスで覆われている。ブー・イナーニーヤ・マドラサには中世マグリブの建築技術の粋を凝らしたものだと言われ、建築中のマドラサを見た旅行家イブン・バットゥータカイロ郊外のスィルヤークスに建てられたザーウィア(イスラム教徒のための修行所)よりも数段上だと驚嘆した[88]。マドラサの北西には高いミナレットが併設されており、かつてはミナレットの中に精巧な水時計が置かれていた[86]

1321年から1323年にかけてアブー・アルハサン・アリーによって建設されたサフリージュ・マドラサの名前は、7種類のコーランの詠唱法が教えられていたことに由来し、留学生だけを受け入れていた[74]

カラウィーン・モスク、ブー・イナーニーヤ・マドラサの付近にはキサリアと呼ばれる複数の店舗が入居する商業施設が建てられており[47]、カラウィーン・モスクに近接するキサリアはフェズのスークの中心となっている[89]。カラウィーン・モスクのキサリアは13世紀にマリーン朝のアブー・ヤアクーブ・ユースフによって建てられた精神病院の跡地に建ち、1954年に火災によって焼失した後、コンクリート製の建物が再建された[90]。また、モスクにはマドラサ以外に公衆トイレが独立した建物として併設されている[91]。トイレは敷き詰められたタイルで装飾され、中央には泉が湧き出ている[92]

他の歴史的建造物

ヒジュラ暦841年ラジャブ月(1437年12月29日 - 1438年1月27日)[93]に建立されたザーウィア・ムーレイ・イドリースは町の建設者であるイドリース2世の霊廟であり、18世紀に再建された。廟の屋根は緑の彩釉タイルで覆われており、棺には毎年新しい絹の聖布がかけられる[29]。モロッコ内の他の宗教施設と同じく、廟には非イスラム教徒の立ち入りは禁止されており、信者は銅版に開けられた穴に手を入れてイドリース2世の墓に触れることができる[90]。誤ってロバやラバが廟に入らないよう、廟に向かう道には高さ1.6mほどのガードが設置されている[90]

19世紀に建立されたアラウィー朝の宮殿はグラナダのヘネラリーフェ離宮を模して造られた建物で、1912年以降は事実上放棄された状態にある[11]

門付近とタラー・ケビラ、タラー・セビーラの周辺には多くのフンドゥクが建てられており[94]、特にギッサ門からカラウィーン・モスクに至る通りの両側に集中している[95]。旧市街には100以上のフンドゥクとその遺構が存在し、宿として営業を続けているものもあれば、工房、観光客向けの店、倉庫などに転用されているものもある[96]。14世紀に建設されたフンドゥク・テトゥアニーは3階建ての建物で、工房・倉庫として使用されている。2階部分と3階部分の手摺にはムシャラビーヤと呼ばれる組子細工が施され、入り口の簗と天井はマリーン朝様式の幾何学模様で飾られている[97]。17世紀後半に建設されたフンドゥク・サガーはアラウィー朝時代の建築様式をよく残したものだといわれ、中庭には大きな天秤が吊るされている[98]。フンドゥク・ネジャリン(ネジャリン木工芸博物館)の前には周辺には広場が広がり、家具店が集まっている[99]

ブー・ジュルード門の西に隣接するカスバはかつて軍事基地として使用され、現在敷地内には病院や中学校が設置されている[100]。旧市街周辺の丘には墓地、イスラームの聖者の小さな霊廟が点在する[101]。丘の上の墓はいずれも西を向いており、墓地は市民のくつろぎの場にもなっている[102]

フェズ・エル・ジェディド

メッラーフのカフェ(1912年)

13世紀にマリーン朝によって建設されたフェズ・エル・ジェディドは、ブー・ジュルード公園を挟んでフェズ・エル・バリの西に位置する。フェズ・エル・ジェディドの宮殿建築は残っておらず、市壁の大部分は改修されている[103]

1395年に改修された金曜モスクは縦54m・横34mで、礼拝所は伝統的なT字型の構造になっている[103]。回廊に囲まれたモスクの中庭は、アルジェリアトレムセンのモスクに着想を得たものだと考えられている[103]1886年にはイタリアの使節団によって旧ミシュワール地区に建設された武器工場は、輸出用のモロッコ絨毯の工場に改修されている[104]

15世紀にユダヤ人の居住区域であるメッラーフがフェズ・エル・ジェディドに建設されるとフェズ・エル・バリに住んでいたユダヤ教徒の多くはメッラーフに移住し、1465年に起きたマリーン朝を滅亡させたフェズの住民反乱とそれに伴うユダヤ教徒の虐殺の後、フェズ・エル・バリに残っていたユダヤ教徒のほとんどがメッラーフに移った[105]。時代が経つにつれてメッラーフのユダヤ人のほとんどは国外に移住したため、メッラーフに住むユダヤ人は非常に少なくなり、往時は5つあったシナゴーグも1つに減った[106]。ユダヤ人が去った後もメッラーフには凝った造りの木のバルコニーや新古典主義様式の列柱が立ち並ぶファサードを備えた邸宅、20世紀初頭の建築様式によるビルが残る[107]。メッラーフ南の斜面にはユダヤ人の墓地があり、時にはメッラーフを出た人間も墓参りに訪れる[106]

都市建築の保全活動

フランス支配時代の初代モロッコ総督ルイ・リベール・リヨテは、1912年にモロッコ各都市の歴史建築を文化財として登録し、建物の保護を試みた。フェズの文化財の大半はマドラサで占められ、マドラサ、フンドゥク、カスバ、城壁、城門はフェズ出身の職人によって修復された[108]。安全の保証、モロッコ人との衝突の回避のためにフランス人の旧市街への入居は禁止され、1914年には旧市街全体の開発が禁止された[109]。リヨテの保護政策はフンドゥクやカスバなどの基礎建築と記念碑的建築のみを対象としており、街区、通りの袋小路、邸宅といった住環境には及ばなかった[110]。リヨテが任期を終えてモロッコから去った後、文化財の保護政策は停滞する[111]

1956年のモロッコ独立後に旧市街の居住者が新市街に流出したために古くからの家屋は荒廃し、地方の住民によって建てられた家屋のために城壁内の密度が高くなり、市街の荒廃は深刻化している[112]。放棄された邸宅の中にはフェズに流入した離村農民に占拠されたものもあり、中庭を囲む個々の部屋が一家族の居住スペースとして使用されており、複数の家族が居住する共用住宅のような状態になっている[113]。部屋の中庭に面する部分にはカーテンやシートが目隠しとしてかけられ、中にはモルタルで塞がれている部屋もある[113]

1980年にはユネスコのアマドゥ・マクタル・ム・ボウ全事務局長がフェズ旧市街の保持の援助を呼びかけた。1989年以降は自治体でも町の保全に取り組んでいるが、公的予算が不足しているため、住民に住居の保全を呼びかけるに留まっている[11]。1990年代には汚水の排出、水路網の老朽化、川の暗渠化されていない場所へのごみの投棄といった環境問題によって旧市街の衛生状態が悪化し、古くからの住民の退去を促進する一因にもなった[114]。衛生状態の改善のために、暗渠化の工事、下水道の整備、汚水産業の移転と指導、川へのごみの投棄の違法化といった処置がとられた[115]。併せて旧市街の過密化に伴って問題となっていたごみ収集システムの整備が実施され、これまで住民が行っていたごみの収集が市が指定する業者に委託され、動物交通と自動車を組み合わせた運搬が行われるようになった[115]

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。

ヴィル・ヌヴェル

ヴィル・ヌヴェルのハサン2世通り

1912年にモロッコがフランスの保護国とされた後、建築家アンリ・プロストの構想に沿ったフ新たな地区の建設が開始され、1916年にフランス人の居住区となる新市街が完成した。1956年のモロッコ王国の独立後、旧市街の住民はフランス人が引き上げたヴィル・ヌヴェルに移住した。

旧市街南西の平坦な農地ダール・デビバグが新市街の建設場所に選ばれ、平らな地形を活用した競馬場や飛行場が建設された[116]。フランス風の大通りが地区の中心を走り、街路樹としてオリーブが植えられている[101]。フェズの人口増加に伴って多くの高層住宅と一戸建ての家屋が建てられ、役所、ホテル、スークが整備された[101]。ヴィル・ヌヴェルの東にはフェズ大学のキャンパス、軍事基地、病院が置かれている。

新市街に建つチュニス・モスクは、1957年にモロッコ人によって建立されたスンナ・モスクという小さな礼拝所が元になっている[117]。1958年にフェズを訪問したチュニジア共和国の初代大統領ハビーブ・ブルギーバはフランス人居住区に建てられたスンナ・モスクを見て感じるところがあり、新市街唯一のモスクであるスンナ・モスクへの寄付を申し出た[118]。スンナ・モスクが建てられている街区全体を更地にしたうえで増築が行われ、1961年に工事を終えたモスクはブルギーバにちなんで「チュニス・モスク」と改名された[119]。チュニス・モスクにはモロッコで珍しい赤レンガ風のタイルが使用されており、併設されているミナレットは白の素地が赤茶と緑のタイルで縁取られている[120]。入り口には木の扉が取り付けられており、木彫りと漆喰彫り、緑と紺の2色のタイルで装飾されている[120]。旧市街の歴史的なモスクと同じように、チュニス・モスクも天井部分はムカルナスで飾られている[120]

1987年完成のユースフ・ベン・ターシュフィーン・モスクは、近隣の住民の礼拝の場となっていたカフェの地下室を前身としている[121]

人口

1960年 1971年 1982年 2004年
人口 216,200[122] 322,800[122] 484,154[122] 965,507[123]

観光施設

  • バトハ博物館 - 19世紀末にムーレイ・ハッサンによって建設された宮殿を改修した博物館[124]。陶器、絨毯、民族衣装などのフェズの伝統工芸品が展示されている[46]ムーア建築に基づいた庭園は、楽園(ジェンナ)をイメージして作られたものだといわれている[124]
  • 武器博物館 - 旧市街北の丘に立つ城砦ボルジュ・ノールを改修した博物館。刀剣、甲冑、弓矢、大砲などの武器が展示され、国王からの下賜品も含まれる[125]
  • ネジャリン木工芸博物館 - 旧市街のネジャリン広場に面する博物館。高級宿として使われていたフンドゥク・ネジャリンを1990年から1998年にかけて改修した博物館[126]
  • ブー・ジュルード公園 - 旧市街と新市街の間に広がる公園。サアド朝時代のスルタンの庭園であり、1917年に公園に改修された[104]
  • パレ・ジャメイ - 1930年開業。1879年に建てられたアラウィー朝の高官の邸宅を改修したホテル[127]。広い庭園を有する邸宅はそのまま保存され、プール、テニスコートなどの設備が置かれている。
  • オテル・デ・メリニッド - 旧市街北のギッサ門の外の丘に広がるマリーン朝(メリニッド朝)の王族の墓地の隣に立つホテル。1990年12月の暴動では暴徒によって放火された[128]

教育

カラウィーン大学

カラウィーン・モスクに付属するマドラサ(神学校)は西方イスラム世界で最古のもののひとつであり、歴史家イブン・ハルドゥーンもこの学校で教鞭を執った[29]。カラウィーン・モスクが高等教育機関としての性質を備えるようになったのは11世紀のムラービト朝の時代からだと考えられており、特に医学の分野で名声を博した[129]。カラウィーン・モスクは植民地時代に民族主義派の活動の拠点となり、人材の育成、政治綱領・独立宣言の起草もここで行われた[41]。1956年のモロッコ独立後にカラウィーン・モスクは法人化されて教育部門が教育省の管轄化に置かれるようになり、イスラーム諸学とアラビア語の専門家の育成、それらの分野における学術研究の振興を目的としてカラウィーン大学英語版が運営されている[130]。10世紀に建設されたカラウィーン・モスク付属の図書館には10,000冊超のアラビア語写本が所蔵されており、その中にはイブン・バットゥータの手による写本も含まれている[131]

1956年のモロッコ独立後にムハンマド・ベン・アブダル大学が開校するまでの間、大学への進学を希望するフェズの人間はラバトの大学に入らなければならなかった[132]。リセー・ムーレイ・イドリースはモロッコ有数の名門校で、政財界・学界に多くの人物を輩出した[133]。ラバトに政治機能、カサブランカに経済の中心が移った後も、リセー・ムーレイ・イドリースの学閥の影響力は強く残っているといわれている[133]

交通

旧市街ではロバが荷物の運搬に使われている。

フェズは交通の要衝であり、ラバトからアルジェタンジェに向かうルートの交差点に位置している[14]

旧市街に入る主要な城門の周辺には駐車場が整備されているが、旧市街への自動車の乗り入れは制限されている[113]。旧市街内部ではウマなどの動物が主要な交通手段として使われている[134]

フェズ市内のONCF(モロッコ国営鉄道)の駅は、ヴィル・ヌヴェルのフェズ駅、旧市街東のフトウ門駅の二か所[101]。本数が多い市営バスはフェズ市民がよく使用する交通手段の一つである[135]。新市街の南端と旧市街に隣接するカスバの北西にはCTM(モロッコ国営バス)のバスターミナルが置かれており、カサブランカやタンジェなどの他の都市に向かうバスの発着地となっている[136]。町の南にはフェズ=サイス空港があり、空港は国道24号線でフェズ市内と接続されている[43]

姉妹都市

脚注

  1. ^ a b 岩永「フェズ」『アジア歴史事典』8巻、91頁
  2. ^ a b 那谷敏郎『紀行 モロッコ史』(新潮選書, 新潮社, 1984年)、80-83頁
  3. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、251頁
  4. ^ 私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、132頁
  5. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、24頁
  6. ^ a b c d e f g 飯山「フェス」『世界地名大事典』3、830頁
  7. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、274-275頁
  8. ^ a b 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、26頁
  9. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、41頁
  10. ^ a b 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、28頁
  11. ^ a b c d e 『ユネスコ世界遺産 11(北・西アフリカ)』、17頁
  12. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、19-20頁
  13. ^ ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、221頁
  14. ^ a b c 野沢「フェズ」『世界地名大事典』8巻、1079頁
  15. ^ Climatological Information for Fes, Morocco”. Hong Kong Observatory (15 August 2011). 16 August 2012閲覧。
  16. ^ Weather history for Fez, Figuig, Morocco : Fez average weather by month”. Meoweather.com. 20 July 2014閲覧。
  17. ^ a b 松原『フェスの保全と近代化』、17頁
  18. ^ a b 深見『世界のイスラーム建築』、84頁
  19. ^ 私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、102頁
  20. ^ a b c 『ユネスコ世界遺産 11(北・西アフリカ)』、12頁
  21. ^ ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、214頁
  22. ^ a b ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、224,229頁
  23. ^ a b c d e f g ホーグ『イスラム建築』、71頁
  24. ^ ホーグ『イスラム建築』、57頁
  25. ^ ホーグ『イスラム建築』、67頁
  26. ^ ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、215-216頁
  27. ^ 深見『世界のイスラーム建築』、84-85頁
  28. ^ a b 私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、107頁
  29. ^ a b c d 『ユネスコ世界遺産 11(北・西アフリカ)』、13頁
  30. ^ a b 深見『世界のイスラーム建築』、85頁
  31. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、229頁
  32. ^ 私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、103頁
  33. ^ 私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、105,107-109頁
  34. ^ 私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、113-114頁
  35. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、19頁
  36. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、19-20頁
  37. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、74-75頁
  38. ^ 私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、323-324頁
  39. ^ ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、221頁
  40. ^ 私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、56頁
  41. ^ a b ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、217頁
  42. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、33-34頁
  43. ^ a b 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、34頁
  44. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、74頁
  45. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、168-169頁
  46. ^ a b 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、50頁
  47. ^ a b 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、48頁
  48. ^ a b ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、222頁
  49. ^ 『ユネスコ世界遺産 11(北・西アフリカ)』、13,17頁
  50. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、48,50頁
  51. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、164頁
  52. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、20頁
  53. ^ 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、36頁
  54. ^ a b 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、27頁
  55. ^ a b c バットゥータ『大旅行記』7巻(家島彦一訳注)、168頁
  56. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、18頁
  57. ^ 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、27,29頁
  58. ^ 今村『迷宮都市モロッコを歩く』、64頁
  59. ^ 深見『世界のイスラーム建築』、77-78頁
  60. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、27-28頁
  61. ^ a b c 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、42頁
  62. ^ 「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』、136頁
  63. ^ a b c 深見『世界のイスラーム建築』、78頁
  64. ^ 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、27頁
  65. ^ 今村『迷宮都市モロッコを歩く』、74頁
  66. ^ 今村『迷宮都市モロッコを歩く』、96-97頁
  67. ^ 深見『世界のイスラーム建築』、80-81頁
  68. ^ 深見『世界のイスラーム建築』、80,83頁
  69. ^ a b 今村『迷宮都市モロッコを歩く』、68頁
  70. ^ 今村『迷宮都市モロッコを歩く』、74頁
  71. ^ a b 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、66頁
  72. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、22-25頁
  73. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、44頁
  74. ^ a b c d e ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、229頁
  75. ^ 深見『世界のイスラーム建築』、78-79頁
  76. ^ a b c d 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、41頁
  77. ^ 深見『世界のイスラーム建築』、83頁
  78. ^ a b 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、47頁
  79. ^ 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、46-47頁
  80. ^ 私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、261頁
  81. ^ ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、225,228頁
  82. ^ 私市、佐藤『モロッコを知るための65章』、262頁
  83. ^ ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、224,229頁
  84. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、46頁
  85. ^ ホーグ『イスラム建築』、82,84頁
  86. ^ a b c ホーグ『イスラム建築』、84頁
  87. ^ ホーグ『イスラム建築』、85頁
  88. ^ バットゥータ『大旅行記』7巻(家島彦一訳注)、168,261頁
  89. ^ 今村『迷宮都市モロッコを歩く』、78頁
  90. ^ a b c ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、223頁
  91. ^ 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、29,33頁
  92. ^ 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、41頁
  93. ^ 私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、113頁
  94. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、37頁
  95. ^ 今村『迷宮都市モロッコを歩く』、83頁
  96. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、37-38頁
  97. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、40頁
  98. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、40-41頁
  99. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、50,52頁
  100. ^ 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、28頁
  101. ^ a b c d 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、33頁
  102. ^ 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43、29頁
  103. ^ a b c ホーグ『イスラム建築』、80頁
  104. ^ a b ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、220頁
  105. ^ 私市「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』、115-117頁
  106. ^ a b 米山『モロッコの迷宮都市フェス』、32頁
  107. ^ ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』、219頁
  108. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、34-35頁
  109. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、35,50頁
  110. ^ 松原『フェスの保全と近代化』、35,39頁
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  123. ^ Recensement général de la population et de l'habitat 2004(2015年2月閲覧)
  124. ^ a b 「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』、141頁
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  135. ^ 「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』、134頁
  136. ^ 「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』、132-133頁
  137. ^ 1982年、フェズと、アル=クドゥスエルサレムのアラビア語呼称)の間で姉妹都市提携が合意された。モロッコ政府は公式にイスラエルを承認していない。

参考文献

  • 飯山陽「フェス」『世界地名大事典』3収録(朝倉書店, 2012年11月)
  • 今村文明『迷宮都市モロッコを歩く』(気球の本, NTT出版, 1998年2月)
  • 岩永博「フェズ」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年)
  • 私市正年「マグリブ中世社会のユダヤ教徒―境域の中のマイノリティ」『イスラーム世界の発展』収録(岩波講座 世界歴史10, 岩波書店, 1999年10月)
  • 私市正年、佐藤健太郎編著『モロッコを知るための65章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2007年4月)
  • 「地球の歩き方」編集室・編『モロッコ(2014‐2015年版)』(地球の歩き方, ダイヤモンド社, 2014年2月)
  • 野沢秀樹「フェズ」『世界地名大事典』8巻収録(朝倉書店, 1974年4月)
  • 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』(講談社現代新書, 講談社, 2005年3月)
  • 法政大学陣内研究室「フェズ物語」『Spazio』No.43収録(日本オリベッティ広報室, 1991年6月)
  • 松原康介『フェスの保全と近代化』(学芸出版社, 2008年2月)
  • 米山俊直『モロッコの迷宮都市フェス』(平凡社, 1996年6月)
  • イブン・バットゥータ『大旅行記』7巻(家島彦一訳注, 東洋文庫, 平凡社, 2002年7月)
  • ガリマール社、同朋舎出版編『モロッコ』(赤井駒子他訳, 望遠郷「旅する21世紀」ブック, 同朋舎出版, 1995年3月)
  • ジョン.D.ホーグ『イスラム建築』(図説世界建築史, 本の友社, 2001年9月)
  • 『ユネスコ世界遺産 11(北・西アフリカ)』(ユネスコ世界遺産センター監修, 講談社, 1998年1月)

外部リンク

公式

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