「宮城島 (沖縄県うるま市)」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2014年3月2日 (日) 06:14 (UTC)|ソートキー=沖縄みやきしま}} |
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{{Infobox 島 |
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|島名=宮城島 |
|島名=宮城島 |
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|画像=[[File:Miyagi Island aerial.jpg|300px]]<br/>南東方向から撮影(2010年) |
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|最高峰=ヒータキ(火焚山) |
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[[ファイル:Road in Miyagi Island, Uruma.JPG|thumb|奥に見える斜面は、標高100mの台地周辺を取り巻く急崖である。]] |
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'''宮城島'''(みやぎじま)は[[沖縄県]][[うるま市]]に属する[[島]]である。[[ |
'''宮城島'''(みやぎじま)は、[[沖縄県]][[うるま市]]に属する島で<ref name="katou-miyagi338">加藤(2010年)p.338</ref>、[[沖縄諸島]]の内、与勝諸島を構成する[[太平洋]]の有人島である<ref name="nichigai496">『島嶼大事典』「宮城島」(1991年)p.496</ref>。[[沖縄本島]]中部の東部海岸に突出する[[勝連半島]]北東約7kmに位置する<ref name="kadokawa-miyagijima-667">『角川日本地名大辞典』「宮城島」(1991年)p.667</ref>。 |
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== 地理 == |
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[[沖縄本島]]とは[[船]]を使わず、[[海中道路]]などを介しての往来が可能である。[[人口]]約1,000人、[[面積]]5.50[[平方キロメートル|平方km]]、[[標高]]121.4[[メートル|m]]。 |
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=== 地形・地質 === |
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面積5.55km²<ref name="island-area">{{Cite web|date=2013-10-01|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201310/shima.pdf|title=平成25年 全国都道府県市区町村別面積調 島面積|format=PDF|publisher=[[国土地理院]]|accessdate=2014-03-06}}</ref>、周囲12.24kmの島で<ref name="kadokawa-miyagijima-667-668">『角川日本地名大辞典』「宮城島」(1991年)pp.667 - 668</ref>、[[平安座島]]と[[伊計島]]の間に位置する<ref name="sugata190">『島嶼大事典』「宮城島」(1995年)p.190</ref>。島全体は[[第三紀]]の[[泥岩]]・[[砂岩]]を主とする島尻層岩を基盤岩とし、その上部に[[琉球石灰岩]]で覆われている<ref name="rekishi-miyagijima-414chu">『日本歴史地名大系』「宮城島」(2002年)p.414中段</ref>。全体的に[[三角形]]をした島で、西側にある標高約100mの平坦で三角形状の[[台地]]と東側の標高約50mの[[半島]]地形を有し、海岸線は西側よりも東側で入り組んでいる<ref name="kadokawa-miyagijima-668">『角川日本地名大辞典』「宮城島」(1991年)p.668</ref>。島西側の台地平面は西方向に緩やかに傾斜し、その周囲は急崖となる<ref name="rekishi-miyagijima-414chu"/>。台地の東端は宮城島最高峰のヒータキ(火焚山)で、標高は121.4mである<ref name="kadokawa-miyagijima-668"/>。琉球石灰岩と島尻層岩の境界面から[[地下水]]が湧出し、島北東部に多く見られる<ref name="rekishi-miyagijima-414chu"/>。平安座島と宮城島間のダネー水道は[[石油備蓄]]基地の建造により[[埋立て]]られ<ref name="kado-hiramiya604">『角川日本地名大辞典』「平宮」(1991年)p.604</ref>、島の北西沖に石油貯蔵船を接岸できる[[シーバース]]が建造している<ref name="rekishi-miyagijima-414chu"/>。沖縄本島南部の知念半島から伊計島まで伸びる[[サンゴ礁]]は、[[中城湾]]と[[金武湾]]の[[堤防]]として役割を担っている<ref name="kadokawa-miyagijima-668">『角川日本地名大辞典』「宮城島」(1991年)p.668</ref>。 |
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=== 地区 === |
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また[[大宜味村]]にも同名の島があり[[宮城橋]]や[[塩屋大橋]]を介して[[沖縄本島]]と行き来する事が可能である。 |
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当初の宮城島全島は[[勝連町|勝連]][[間切]]に属したが、1676年に平田間切を経て、1687年に[[与那城町|与那城]]間切の管轄となる<ref name="kado-uehara-kinsei182">『角川日本地名大辞典』「上原村」<与那城村>〔近世〕(1991年)p.182</ref><ref name="kadokawa-miyagi-kinsei-667">『角川日本地名大辞典』「宮城村」<与那城村>〔近世〕(1991年)p.667</ref>。琉球処分後の1896年(明治29年)に[[中頭郡]]、1908年(明治41年)に同郡与那城村に帰属し、1994年(平成6年)に[[与那城町]]へ町制施行する<ref name="shimadas1193">『SHIMADAS 第2版』「宮城島」(2004年)p.1193</ref>。その後近隣の自治体と合併し2005年(平成17年)にうるま市へ属し、現在に至る<ref name="merge">{{Cite web|url=http://www.soumu.go.jp/gapei/hensen_okinawa.html|title=市町村合併資料集 市町村名逆引き一覧(平成11年3月31日時点の市町村名がどう変わるか)(沖縄県)|format=html|publisher=[[総務省]]|accessdate=2014-02-20}}</ref>。 |
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宮城島は「池味(いけみ)」・「上原(うえはら)」・「宮城(みやぎ)」・「桃原(とうばる)」の4つの大字で構成され<ref name="rekishi-miyagijima-414chu"/>、池味・上原・宮城の3集落は島北東部の斜面に、桃原は島南部の低地に位置する。元来、宮城島は「宮城村」1村であったが、1676年に「上原村」と「名安呉(なーぐ)村」の2村が宮城村から独立する<ref name="kadokawa-miyagi-kinsei-667"/>。詳細な時期は不明だが、[[明治]]初期に名安呉村が上原村に編入[[合併]]され<ref name="kado-uehara-kinsei182"/>、1908年(明治41年)に全2村は与那城村の大字となる<ref name="kadokawa-miyagi-kinsei-667"/><ref name="kado-uehara-kinsei182"/>。1947年(昭和22年)に宮城から「池味」が<ref name="kadokawa-miyagi-kindai-667">『角川日本地名大辞典』「宮城」<与那城村>〔近代〕(1991年)p.667</ref>、さらに上原から「桃原」が分離し<ref name="kado-uehara-kindai183">『角川日本地名大辞典』「上原村」<与那城村>〔近世〕(1991年)p.183</ref>、現在に至る<ref name="rekishi-miyagijima-414chu"/>。宮城島に南接する平安座島の「平宮(ひらみや)」は1974年に埋立て地に新設された字名で<ref name="okinawage-hiramiya328">『沖繩大百科事典 下巻』「平宮」(1983年)p.328</ref>、'''平'''安座島と'''宮'''城島両島の頭文字を取って名付けられた<ref name="kado-hiramiya604"/>。 |
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{{Japan-geo-stub}} |
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{{Pref-stub|pref=沖縄県}} |
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{| class="wikitable" style="margin:0 auto;width:70%;text-align:center" |
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|+ 宮城島島内の地区変遷 |
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! 1687年以前 !! 1687年 - 明治初期 !! 1908年 - 1947年 !!1947年 - 現在 |
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| rowspan="5" |宮城村 |
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| rowspan="2" |宮城村 |
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| rowspan="2" |宮城 |
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|宮城 |
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|池味 |
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| rowspan="2" |上原村 |
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| rowspan="3" |上原 |
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|桃原 |
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| rowspan="2" |上原<br/>(小字としての「名安呉」は確認されず<ref name="rekishi-naagu">『日本歴史地名大系』「名安呉村」(2002年)p.416中段</ref>) |
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|名安呉村 |
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|} |
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== 歴史 == |
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宮城島は[[沖縄方言|方言]]で「ナーグシク」といわれるが<ref name="rekishi-miyagijima-414chu"/>、同島の宮城地区と区別するため、「ミヤグスクジマ」とも呼ばれる<ref name="kadokawa-miyagijima-667"/>。また宮城島は標高の高い陵丘を有する為<ref name="kadokawa-miyagi-667">『角川日本地名大辞典』「宮城」<与那城村>(1991年)p.667</ref>、「高離島(たかはなりじま)」とも別称される<ref name="sugata190-191">『日本の島事典』「宮城島」(1995年)pp.190 - 191</ref>。『[[正保国絵図]]』には、「宮城嶋」<ref name="rekishi-miyagijima-414ge">『日本歴史地名大系』「宮城島」(2002年)p.414下段</ref>、『[[マシュー・ペリー|ペリー]]日本遠征記』と『ペリー提督沖繩訪問記』には「ハナディ(''Hanadi'' )」と記載されている<ref name="kadokawa-miyagi-667"/><ref name="rekishi-miyagijima-414ge"/>。 |
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=== 先史からグスク時代 === |
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宮城島中央部の標高約100mに位置する「シヌグ堂遺跡」は、[[貝塚時代]]中期([[縄文時代]]後期)の遺跡と思われ、[[放射性炭素年代測定|炭素年代測定]]により約3,000年前とされる<ref name="rekishi-sinugu-415ge416zyo">『日本歴史地名大系』「シヌグ堂遺跡」(2002年)pp.415下段 - 416上段</ref>。当遺跡は段丘上に形成し、東側の崖下に[[貝塚]]もある<ref name="okinawa-sinugu581ge">『沖繩大百科事典 下巻』「宮城島シヌグ堂遺跡」(1983年)p.581</ref>。1972年(昭和42年)の発見以降、1983年(昭和53年)から翌年に亘って、沖縄県教育委員会は詳細な発掘調査を行った<ref name="rekishi-sinugu-415ge416zyo"/>。その結果、[[竪穴式住居]]跡42軒、礫床住居跡18軒が確認された<ref name="kado-sinugu388">『角川日本地名大辞典』「シヌグ堂遺跡」(1991年)p.388</ref>。竪穴式住居の床面は約2m × 約3mの四隅が丸い長方形を成し<ref name="kado-sinugu388"/>、深さは平均30cmで、壁面は石灰岩の積み石で覆われていた<ref name="rekishi-sinugu-415ge416zyo"/>。礫床住居跡には、人間の[[こぶし]]程の大きさの石を地面に敷設し、約2m × 約5mなどの広さを有する<ref name="kado-sinugu388"/>。[[暖炉]]跡は竪穴式住居の中央に<ref name="kado-sinugu388"/>、礫床住居跡には端側に形成されていた<ref name="rekishi-sinugu-415ge416zyo"/>。住居跡の[[切り合い関係|切り合い]]が見受けられ、幾度も住居の建築を行ったと考えられる<ref name="rekishi-sinugu-415ge416zyo"/>。出土した遺物は、[[土器]]・[[石器]]・貝製品が多く占めたが、[[イノシシ]]・[[ジュゴン]]・[[ウミガメ]]などの骨も発見されている<ref name="kado-sinugu388"/>。 |
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宮城島にはシヌグ堂遺跡以外にも、貝塚時代から[[グスク]]時代までの遺跡が多数存在している<ref name="rekishi-miyagijima-414ge">『日本歴史地名大系』「宮城島」(2002年)p.414下段</ref>。上原地区にはシヌグ堂遺跡とほぼ同時代の「高嶺遺跡」と<ref name="kado-uehara182">『角川日本地名大辞典』「上原」<与那城村>(1991年)p.388</ref>、桃原地区の「桃原貝塚」などが挙げられる<ref name="kado-yona-his-shimajima1003">『角川日本地名大辞典』「与那城村〔沿革〕島々の遺跡」(1991年)p.1003</ref>。また宮城地区東海岸の丘陵上に位置する泊グスク跡には、グスク時代に組み上げられた野面積みの[[石垣]]が残存し<ref name="rekishi-miyagijima-414ge"/>、14 - 15世紀頃と思われる[[中国]]製の[[陶磁器]]が出土している<ref name="kado-yona-his-shimajima1003"/>。 |
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=== 琉球王国時代 === |
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当初の宮城島全島は勝連間切に属していたが、1676年に平田間切、1687年に与那城間切の帰属となる<ref name="kado-uehara-kinsei182"/><ref name="kadokawa-miyagi-kinsei-667"/>。また、宮城島は「宮城村」1村であったが、1676年に「上原村」と「名安呉(なーぐ)村」の2村が宮城村から独立した<ref name="kadokawa-miyagi-kinsei-667"/>。現在の池味地区は18世紀に沖縄本島の[[首里]]や[[名護市|名護]]からの入植者により形成された集落である<ref name="kado-ikemi142">『角川日本地名大辞典』「池味」<与那城村>(1991年)p.142</ref>。 |
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[[南山王国]]最後の国王・[[他魯毎]]が宮城島の上根(イークン)グスクに逃亡したという言い伝えがあり、彼を祀った南山お宮という祭祀殿がある<ref name="kado-yona-dist-ikemi1006">『角川日本地名大辞典』「与那城村〔現行行政地名〕池味」(1991年)p.1006</ref>。『[[球陽]]』(1731年条)によると、宮城村で80歳で死去した喜也宇大翁という老人の墓中から、生前よく彼が歌った神詠が聞こえたという<ref name="rekishi-miyagi-415jo">『日本歴史地名大系』「宮城村」(2002年)p.415上段</ref>。また『球陽』(1743年条)には、平安座島沖で船が転覆した際、そこに現れたウミガメに助けられたという逸話が現在の上原地区に残っている<ref name="kado-uehara-kindai183"/>。琉球王国時代の宮城島は[[政治犯|政治思想犯]]の[[流刑]]地として利用された<ref name="nichigai496"/>。実際、1734年に[[処刑]]された平屋敷朝敏の妻子も当地へ移送され、その際、朝敏の妻は以下の[[琉歌]]を残したとされる<ref name="kado-uehara-kindai183"/>。 |
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{{Quotation|''高離島や物知らせどころ にや物知やべたん 渡ちたばうれ''<br/>'''訳''':高離島(宮城島)は、恐ろしく淋しい所で、悲しいことや辛いこともよく分かりましたので、どうか[[沖縄本島|本島]]に帰して下さい。|平屋敷朝敏の妻|琉歌全集808<ref name="kado-uehara-kindai183"/>}} |
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宮城島は常に水不足に陥り、上原村南の崖下から湧出する屋武川から水を汲み取っていた。1837年に[[用水路]]を新設し、2,000坪以上の[[水田]]を開発した<ref name="kadokawa-miyagi-kinsei-667"/>。その後、天水田にも[[灌漑]]用水を引くなどの功績を王府から讃えられ、[[親雲上]]らに[[爵位]]を与えた<ref name="rekishi-miyagi-415jo"/>。 |
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=== 明治から現在 === |
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琉球処分後、現在の桃原地区に[[那覇市|那覇]]・首里からの人々が集まり、さらに平安座・[[浜比嘉島]]の島民も開墾者として入植し、新しく集落を形成した<ref name="kado-tobaru488">『角川日本地名大辞典』「桃原」<与那城村>(1991年)p.488</ref>。戦前の宮城地区は山原船が多く集結した平安座島へ赴き、交易を行っていた<ref name="kadokawa-miyagi-kindai-667"/>。沖縄戦前後の時期における池味地区は、[[フィリピン]]や[[南米]]への移住者30世帯を送り出した<ref name="kado-ikemi142"/>。 |
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[[アメリカ合衆国|アメリカ]]資本の[[石油]]会社ガルフ・オイル社は沖縄へ進出すべく、1966年(昭和41年)10月までに[[金武湾]]周辺地域を石油備蓄基地(CTS:''Central Terminal Station'' <ref name="matsui-kaihatsu225">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)p.225</ref>)の建設候補地の1つとして挙げていた。当初の計画では、宮城島に石油基地、伊計島に製油所を建設する予定であった。伊計島では誘致に概ね賛成であったが、宮城島では賛成派と反対派が二分した。島内反対派は1967年(昭和42年)3月16日に「宮城島を守る会」を、賛成派は「工場誘致促進委員会」を結成した。5月8日の与那城村会議ではガルフ社誘致が議題となり、全会一致で誘致の早期実現に関する要請決議を行い、7月1日に「石油事業誘致特別委員会」を設置した。しかし、7月19日に宮城島内で賛成・反対派よる傷害事件が発生するなど、両者は益々対立した。元々島内の賛成派は反対派よりも多数であったが、反対派が所有する土地が建設予定地の半分以上を占め、さらに賛成・反対派の所有地が点在し、用地取得が困難であった。その上再三に亘って、反対派への説得を行ったが誘致の支持は得られず、結局宮城島でのCTS計画は頓挫した。その後、隣の平安座島へのCTS建設が決定した。<ref name="matsui-kaihatsu287-290">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)pp.287-290</ref> |
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ガルフ社撤退後の1971年(昭和46年)に、[[アラビア石油]]も宮城島に石油基地建設を計画していたが、「宮城島を守る会」の反対運動により再び阻止された<ref name="matsui-okinawa20">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.20</ref>。1989年(平成元年)に[[リゾート]]開発の構想が浮上したが、建設予定地が土地改良事業の整備予定地であったことから、またしても反対運動により計画は中止となった<ref name="matsui-kaihatsu274">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)p.274</ref>。互いに隣接する島で同じ土地所有形式を持ちながらも、農業を主な産業とする宮城島と、十分な農地に恵まれない平安座島の両島には、[[地理]]的な条件は勿論、[[経済]]・[[社会]]的にも相違が見受けられる<ref name="matsui-kaihatsu275">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)p.275</ref>。 |
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== 産業 == |
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[[ファイル:Port of Miyagi Island, Uruma.JPG|thumb|宮城島南部の桃原港。対岸の平安座島から撮影。]] |
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戦前において、上原地区では[[サツマイモ]]や[[大麦]]・[[豆]]類が栽培され<ref name="kado-uehara-kindai183"/>、池味では[[牛]]などの[[畜産業]]で有名であった<ref name="rekishi-ikemi-415chu">『日本歴史地名大系』「池味村」(2002年)p.415中段</ref><ref name="okinawa-ikemi156jo">『沖繩大百科事典 上巻』「池味」(1983年)p.156</ref>。1963年(昭和38年)の大[[干ばつ]]により、島内で行われた[[稲作]]は廃れ、それ以降は[[サトウキビ]]を主に生産している<ref name="kadokawa-miyagi-kindai-667"/><ref name="kado-uehara-kindai183"/><ref name="kado-ikemi142"/>。島内に[[製糖]]工場が建設される前の[[昭和]]初期は、サトウキビは[[黒砂糖]]に加工され、仲買人により島外に運ばれた<ref name="matsui-okinawa43">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.43</ref>。そして、1929年(昭和4年)に上原地区で[[組合]]が発足し、小規模の製糖工場が設営された<ref name="matsui-okinawa43"/>。1932年(昭和7年)の宮城島における砂糖生産高は当時の与那城村全体の3分の1以上を占めていた<ref name="matsui-okinawa38">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.38</ref>。現在でも、サトウキビを主要とした農業が中心で、他に[[ダイジョ|紅芋]]や[[タバコ|葉タバコ]]の栽培も行われている<ref name="shimadas1193"/>。 |
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1981年(昭和56年)の桃原漁港における漁獲高は約98[[トン]]で、当時の与那城村内で最も多く<ref name="kado-tobaru488"/>、[[タイ]]や[[イカ]]が水揚げされた<ref name="kado-yona-dist-toubaru1006">『角川日本地名大辞典』「与那城村〔現行行政地名〕桃原」(1991年)p.1006</ref>。ほかに池味漁港の1981年(昭和56年)における漁獲高は約50トンで、主に[[アジ]]が獲れた<ref name="kado-yona-dist-ikemi1006">『角川日本地名大辞典』「与那城村〔現行行政地名〕池味」(1991年)p.1006</ref>。 |
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== 交通 == |
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戦前は[[マツ]]の木で作られた小舟で、船頭2人で約10人の乗客を漕いで沖縄本島を行き来していた<ref name="kadokawa-miyagi-kindai-667"/>。また干潮時には宮城島から平安座島を経て、本島の勝連半島まで[[干潟]]が出現し、そこを徒歩で往来していた<ref name="kadokawa-miyagi-kindai-667"/>。本島と架橋する1975年(昭和50年)以前は、5トンの定期船が池味港と本島の屋慶名港の間を運航していた<ref name="kadokawa-miyagi-kindai-667"/>。さらに伊計島との架橋以前も池味港から渡し船が出入りし、宮城島の玄関口として栄えた<ref name="rekishi-ikemi-415chu"/>。1982年(昭和57年)に伊計大橋が完成し、沖縄本島の勝連半島と平安座・宮城・伊計の3島が連結したことになる<ref name="kado-ikeibridge138">『角川日本地名大辞典』「伊計大橋」(1991年)p.138</ref><ref name="okinawa-ikeibridge">『沖繩大百科事典 上巻』「伊計大橋」(1983年)p.152</ref>。島南部の桃原地区のみ他の集落より離れている為、かつては標高約100mの台地を上って、学校のある宮城地区まで約3kmの道のりを歩く術しか無く、陸上交通は不便であった<ref name="kado-tobaru488"/>。しかし、現在では台地の周縁を沿うように道路が整備されている<ref name="rekishi-miyagijima-414chu"/>。 |
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== 出典 == |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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*「角川日本地名大辞典」編纂委員会 『[[角川日本地名大辞典]] 47.沖縄県』 [[角川書店]]、1991年。ISBN 4-04-001470-7 |
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*沖繩大百科事典刊行事務局 『沖繩大百科事典 上・中・下巻』 [[沖縄タイムス]]、1983年。 |
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*平凡社地方資料センター 『日本歴史地名大系第四八巻 沖縄県の地名』 [[平凡社]]、2002年。ISBN 4-582-49048-4 |
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*加藤庸二 『原色 日本島図鑑』 [[新星出版社]]、2010年。ISBN 978-4-405-07130-8 |
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*財団法人日本離島センター編 『日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス) 第2版』 財団法人日本離島センター、2004年。ISBN 4-931230-22-9 |
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*日外アソシエーツ編 『島嶼大事典』 [[日外アソシエーツ]]、1991年。ISBN 4-8169-1113-8 |
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*菅田正昭編集 『日本の島事典』 [[三交社]]、1995年。ISBN 4-87919-554-5 |
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*松井健一編 『開発と環境の文化学 <small>沖縄地域社会変動の諸契機</small>』 [[榕樹書林]]、2002年。ISBN 4-9477667-87-7 |
|||
*松井健一編 『島の生活世界と開発 3 沖縄列島 <small>シマの自然と伝統のゆくえ</small>』 [[東京大学出版会]]、2004年。ISBN 4-13-034173-1 |
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== 関連項目 == |
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{{Commonscat|Miyagi Island, Uruma}} |
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*[[日本の島一覧]] |
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*[[南西諸島]] |
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*[[沖縄諸島]] |
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== 外部リンク == |
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* [http://www.city.uruma.lg.jp/ うるま市役所] |
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{{沖縄諸島}} |
{{沖縄諸島}} |
2014年5月26日 (月) 14:46時点における版
宮城島 | |
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南東方向から撮影(2010年) | |
所在地 | 日本・沖縄県うるま市 |
所在海域 | 太平洋 |
所属諸島 | 沖縄諸島 |
座標 | 北緯26度22分06秒 東経127度58分53秒 / 北緯26.36833度 東経127.98139度 |
面積 | 5.55 km² |
海岸線長 | 12.24 km |
最高標高 | 121.4 m |
最高峰 | ヒータキ(火焚山) |
プロジェクト 地形 |
宮城島(みやぎじま)は、沖縄県うるま市に属する島で[1]、沖縄諸島の内、与勝諸島を構成する太平洋の有人島である[2]。沖縄本島中部の東部海岸に突出する勝連半島北東約7kmに位置する[3]。
地理
地形・地質
面積5.55km²[4]、周囲12.24kmの島で[5]、平安座島と伊計島の間に位置する[6]。島全体は第三紀の泥岩・砂岩を主とする島尻層岩を基盤岩とし、その上部に琉球石灰岩で覆われている[7]。全体的に三角形をした島で、西側にある標高約100mの平坦で三角形状の台地と東側の標高約50mの半島地形を有し、海岸線は西側よりも東側で入り組んでいる[8]。島西側の台地平面は西方向に緩やかに傾斜し、その周囲は急崖となる[7]。台地の東端は宮城島最高峰のヒータキ(火焚山)で、標高は121.4mである[8]。琉球石灰岩と島尻層岩の境界面から地下水が湧出し、島北東部に多く見られる[7]。平安座島と宮城島間のダネー水道は石油備蓄基地の建造により埋立てられ[9]、島の北西沖に石油貯蔵船を接岸できるシーバースが建造している[7]。沖縄本島南部の知念半島から伊計島まで伸びるサンゴ礁は、中城湾と金武湾の堤防として役割を担っている[8]。
地区
当初の宮城島全島は勝連間切に属したが、1676年に平田間切を経て、1687年に与那城間切の管轄となる[10][11]。琉球処分後の1896年(明治29年)に中頭郡、1908年(明治41年)に同郡与那城村に帰属し、1994年(平成6年)に与那城町へ町制施行する[12]。その後近隣の自治体と合併し2005年(平成17年)にうるま市へ属し、現在に至る[13]。
宮城島は「池味(いけみ)」・「上原(うえはら)」・「宮城(みやぎ)」・「桃原(とうばる)」の4つの大字で構成され[7]、池味・上原・宮城の3集落は島北東部の斜面に、桃原は島南部の低地に位置する。元来、宮城島は「宮城村」1村であったが、1676年に「上原村」と「名安呉(なーぐ)村」の2村が宮城村から独立する[11]。詳細な時期は不明だが、明治初期に名安呉村が上原村に編入合併され[10]、1908年(明治41年)に全2村は与那城村の大字となる[11][10]。1947年(昭和22年)に宮城から「池味」が[14]、さらに上原から「桃原」が分離し[15]、現在に至る[7]。宮城島に南接する平安座島の「平宮(ひらみや)」は1974年に埋立て地に新設された字名で[16]、平安座島と宮城島両島の頭文字を取って名付けられた[9]。
1687年以前 | 1687年 - 明治初期 | 1908年 - 1947年 | 1947年 - 現在 |
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宮城村 | 宮城村 | 宮城 | 宮城 |
池味 | |||
上原村 | 上原 | 桃原 | |
上原 (小字としての「名安呉」は確認されず[17]) | |||
名安呉村 |
歴史
宮城島は方言で「ナーグシク」といわれるが[7]、同島の宮城地区と区別するため、「ミヤグスクジマ」とも呼ばれる[3]。また宮城島は標高の高い陵丘を有する為[18]、「高離島(たかはなりじま)」とも別称される[19]。『正保国絵図』には、「宮城嶋」[20]、『ペリー日本遠征記』と『ペリー提督沖繩訪問記』には「ハナディ(Hanadi )」と記載されている[18][20]。
先史からグスク時代
宮城島中央部の標高約100mに位置する「シヌグ堂遺跡」は、貝塚時代中期(縄文時代後期)の遺跡と思われ、炭素年代測定により約3,000年前とされる[21]。当遺跡は段丘上に形成し、東側の崖下に貝塚もある[22]。1972年(昭和42年)の発見以降、1983年(昭和53年)から翌年に亘って、沖縄県教育委員会は詳細な発掘調査を行った[21]。その結果、竪穴式住居跡42軒、礫床住居跡18軒が確認された[23]。竪穴式住居の床面は約2m × 約3mの四隅が丸い長方形を成し[23]、深さは平均30cmで、壁面は石灰岩の積み石で覆われていた[21]。礫床住居跡には、人間のこぶし程の大きさの石を地面に敷設し、約2m × 約5mなどの広さを有する[23]。暖炉跡は竪穴式住居の中央に[23]、礫床住居跡には端側に形成されていた[21]。住居跡の切り合いが見受けられ、幾度も住居の建築を行ったと考えられる[21]。出土した遺物は、土器・石器・貝製品が多く占めたが、イノシシ・ジュゴン・ウミガメなどの骨も発見されている[23]。
宮城島にはシヌグ堂遺跡以外にも、貝塚時代からグスク時代までの遺跡が多数存在している[20]。上原地区にはシヌグ堂遺跡とほぼ同時代の「高嶺遺跡」と[24]、桃原地区の「桃原貝塚」などが挙げられる[25]。また宮城地区東海岸の丘陵上に位置する泊グスク跡には、グスク時代に組み上げられた野面積みの石垣が残存し[20]、14 - 15世紀頃と思われる中国製の陶磁器が出土している[25]。
琉球王国時代
当初の宮城島全島は勝連間切に属していたが、1676年に平田間切、1687年に与那城間切の帰属となる[10][11]。また、宮城島は「宮城村」1村であったが、1676年に「上原村」と「名安呉(なーぐ)村」の2村が宮城村から独立した[11]。現在の池味地区は18世紀に沖縄本島の首里や名護からの入植者により形成された集落である[26]。
南山王国最後の国王・他魯毎が宮城島の上根(イークン)グスクに逃亡したという言い伝えがあり、彼を祀った南山お宮という祭祀殿がある[27]。『球陽』(1731年条)によると、宮城村で80歳で死去した喜也宇大翁という老人の墓中から、生前よく彼が歌った神詠が聞こえたという[28]。また『球陽』(1743年条)には、平安座島沖で船が転覆した際、そこに現れたウミガメに助けられたという逸話が現在の上原地区に残っている[15]。琉球王国時代の宮城島は政治思想犯の流刑地として利用された[2]。実際、1734年に処刑された平屋敷朝敏の妻子も当地へ移送され、その際、朝敏の妻は以下の琉歌を残したとされる[15]。
宮城島は常に水不足に陥り、上原村南の崖下から湧出する屋武川から水を汲み取っていた。1837年に用水路を新設し、2,000坪以上の水田を開発した[11]。その後、天水田にも灌漑用水を引くなどの功績を王府から讃えられ、親雲上らに爵位を与えた[28]。
明治から現在
琉球処分後、現在の桃原地区に那覇・首里からの人々が集まり、さらに平安座・浜比嘉島の島民も開墾者として入植し、新しく集落を形成した[29]。戦前の宮城地区は山原船が多く集結した平安座島へ赴き、交易を行っていた[14]。沖縄戦前後の時期における池味地区は、フィリピンや南米への移住者30世帯を送り出した[26]。
アメリカ資本の石油会社ガルフ・オイル社は沖縄へ進出すべく、1966年(昭和41年)10月までに金武湾周辺地域を石油備蓄基地(CTS:Central Terminal Station [30])の建設候補地の1つとして挙げていた。当初の計画では、宮城島に石油基地、伊計島に製油所を建設する予定であった。伊計島では誘致に概ね賛成であったが、宮城島では賛成派と反対派が二分した。島内反対派は1967年(昭和42年)3月16日に「宮城島を守る会」を、賛成派は「工場誘致促進委員会」を結成した。5月8日の与那城村会議ではガルフ社誘致が議題となり、全会一致で誘致の早期実現に関する要請決議を行い、7月1日に「石油事業誘致特別委員会」を設置した。しかし、7月19日に宮城島内で賛成・反対派よる傷害事件が発生するなど、両者は益々対立した。元々島内の賛成派は反対派よりも多数であったが、反対派が所有する土地が建設予定地の半分以上を占め、さらに賛成・反対派の所有地が点在し、用地取得が困難であった。その上再三に亘って、反対派への説得を行ったが誘致の支持は得られず、結局宮城島でのCTS計画は頓挫した。その後、隣の平安座島へのCTS建設が決定した。[31]
ガルフ社撤退後の1971年(昭和46年)に、アラビア石油も宮城島に石油基地建設を計画していたが、「宮城島を守る会」の反対運動により再び阻止された[32]。1989年(平成元年)にリゾート開発の構想が浮上したが、建設予定地が土地改良事業の整備予定地であったことから、またしても反対運動により計画は中止となった[33]。互いに隣接する島で同じ土地所有形式を持ちながらも、農業を主な産業とする宮城島と、十分な農地に恵まれない平安座島の両島には、地理的な条件は勿論、経済・社会的にも相違が見受けられる[34]。
産業
戦前において、上原地区ではサツマイモや大麦・豆類が栽培され[15]、池味では牛などの畜産業で有名であった[35][36]。1963年(昭和38年)の大干ばつにより、島内で行われた稲作は廃れ、それ以降はサトウキビを主に生産している[14][15][26]。島内に製糖工場が建設される前の昭和初期は、サトウキビは黒砂糖に加工され、仲買人により島外に運ばれた[37]。そして、1929年(昭和4年)に上原地区で組合が発足し、小規模の製糖工場が設営された[37]。1932年(昭和7年)の宮城島における砂糖生産高は当時の与那城村全体の3分の1以上を占めていた[38]。現在でも、サトウキビを主要とした農業が中心で、他に紅芋や葉タバコの栽培も行われている[12]。
1981年(昭和56年)の桃原漁港における漁獲高は約98トンで、当時の与那城村内で最も多く[29]、タイやイカが水揚げされた[39]。ほかに池味漁港の1981年(昭和56年)における漁獲高は約50トンで、主にアジが獲れた[27]。
交通
戦前はマツの木で作られた小舟で、船頭2人で約10人の乗客を漕いで沖縄本島を行き来していた[14]。また干潮時には宮城島から平安座島を経て、本島の勝連半島まで干潟が出現し、そこを徒歩で往来していた[14]。本島と架橋する1975年(昭和50年)以前は、5トンの定期船が池味港と本島の屋慶名港の間を運航していた[14]。さらに伊計島との架橋以前も池味港から渡し船が出入りし、宮城島の玄関口として栄えた[35]。1982年(昭和57年)に伊計大橋が完成し、沖縄本島の勝連半島と平安座・宮城・伊計の3島が連結したことになる[40][41]。島南部の桃原地区のみ他の集落より離れている為、かつては標高約100mの台地を上って、学校のある宮城地区まで約3kmの道のりを歩く術しか無く、陸上交通は不便であった[29]。しかし、現在では台地の周縁を沿うように道路が整備されている[7]。
出典
- ^ 加藤(2010年)p.338
- ^ a b 『島嶼大事典』「宮城島」(1991年)p.496
- ^ a b 『角川日本地名大辞典』「宮城島」(1991年)p.667
- ^ “平成25年 全国都道府県市区町村別面積調 島面積” (PDF). 国土地理院 (2013年10月1日). 2014年3月6日閲覧。
- ^ 『角川日本地名大辞典』「宮城島」(1991年)pp.667 - 668
- ^ 『島嶼大事典』「宮城島」(1995年)p.190
- ^ a b c d e f g h 『日本歴史地名大系』「宮城島」(2002年)p.414中段
- ^ a b c 『角川日本地名大辞典』「宮城島」(1991年)p.668
- ^ a b 『角川日本地名大辞典』「平宮」(1991年)p.604
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- ^ a b c d e f 『角川日本地名大辞典』「宮城」<与那城村>〔近代〕(1991年)p.667
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- ^ 松井編『開発と環境の文化学』(2002年)p.225
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- ^ 松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.20
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- ^ 松井編『開発と環境の文化学』(2002年)p.275
- ^ a b 『日本歴史地名大系』「池味村」(2002年)p.415中段
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参考文献
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- 沖繩大百科事典刊行事務局 『沖繩大百科事典 上・中・下巻』 沖縄タイムス、1983年。
- 平凡社地方資料センター 『日本歴史地名大系第四八巻 沖縄県の地名』 平凡社、2002年。ISBN 4-582-49048-4
- 加藤庸二 『原色 日本島図鑑』 新星出版社、2010年。ISBN 978-4-405-07130-8
- 財団法人日本離島センター編 『日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス) 第2版』 財団法人日本離島センター、2004年。ISBN 4-931230-22-9
- 日外アソシエーツ編 『島嶼大事典』 日外アソシエーツ、1991年。ISBN 4-8169-1113-8
- 菅田正昭編集 『日本の島事典』 三交社、1995年。ISBN 4-87919-554-5
- 松井健一編 『開発と環境の文化学 沖縄地域社会変動の諸契機』 榕樹書林、2002年。ISBN 4-9477667-87-7
- 松井健一編 『島の生活世界と開発 3 沖縄列島 シマの自然と伝統のゆくえ』 東京大学出版会、2004年。ISBN 4-13-034173-1