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「ミカド (オペレッタ)」の版間の差分

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[[ファイル:The_Mikado_Three_Little_Maids.jpg|thumb|right|「ミカド」のポスター。ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹が描かれている。]]
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[[画像:The_Mikado_Three_Little_Maids.jpg|thumb|right|「ミカド」のポスター。ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹が描かれている。]]
{{Portal クラシック音楽}}
{{Portal クラシック音楽}}


'''ミカド''' (''The Mikado; or, The Town of Titipu'' ) は、[[ウィリアム・S・ギルバート]]脚本、[[アーサー・サリヴァン]]作曲による二幕物の[[オペレッタ|喜歌劇]](オペレッタ)作品。[[ギルバート・アンド・サリヴァン]]の14作品のうち9作品目であった。[[1885年]]3月14日に[[イギリス]]の[[ロンドン]]にあるサヴォイ劇場で初演されて672回上演し、当時の歌劇史上2番目の上演回数を誇り、舞台作品の中でもロングラン作品の1つとなった<ref>Gillan, Don. [http://www.dgillan.screaming.net/stage/th-longr.html Longest runs in the theatre up to 1920.]</ref><ref group="n">[[オペレッタ]]『''[[::en:Les Cloches de Corneville|Les Cloches de Corneville]]'' 』が長年トップであったが、1886年に『''[[::en:Dorothy (opera)|Dorothy]]'' 』が開幕してから『ミカド』は第3位に繰り下がった</ref>。1885年の終演までにヨーロッパやアメリカで少なくとも150カンパニーが上演した<ref name=Mencken>[[::en:H. L. Mencken|Mencken, H. L.]] [http://math.boisestate.edu/GaS/mikado/html/mikado_by_mencken.html Article on ''The Mikado'']. ''Baltimore Evening Sun'', 29 November 1910</ref>。現在もサヴォイ劇場でしばしば上演されているだけでなく、アマチュア劇団や学校演劇でも演じられている。様々な言語に翻訳され、歌劇史上最も多く上演される作品の1つとなっている。
'''ミカド''' (The Mikado) は、[[1885年]]3月14日に[[イギリス]]の[[ロンドン]]で初演された[[オペレッタ|喜歌劇]](オペレッタ)作品である。脚本は[[ウィリアム・S・ギルバート]]、作曲は[[アーサー・サリヴァン]]である。


== 概要 ==
== 概要 ==
当時、ロンドンの[[ナイツブリッジ]]で{{仮ンク|日本博覧会|en|Japanese Village, Knightsbridge}}が人気を博し、[[イギリス]]では空前の[[日本]]ブームが起きていた。『ミカド』はこのブームに乗じた一種の[[ジャポニスム]]または[[オリエンタリズム]]である。
当時、ロンドンの[[ナイツブリッジ]]で[[日本村 (ナイツブッジ)|日本展]]が人気を博し、[[イギリス]]では空前の[[日本]]ブームが起きていた。『ミカド』はこのブームに乗じた一種の[[ジャポニスム]]または[[オリエンタリズム]]である。


当時の英国の世相、わけても上流階級や支配階級に対する辛辣な[[風刺]]を含む一方で、作品の舞台を英国からできるだけ遠い「未知の国・日本」に設定することで、「これは遠い国の話で英国とは関係ない」として批判をかわそうとしている。
当時の英国の世相、わけても上流階級や支配階級に対する辛辣な[[風刺]]を含む一方で、作品の舞台を英国からできるだけ遠い「未知の国・日本」に設定することで、「これは遠い国の話で英国とは関係ない」として批判をかわそうとしている。ギルバートは『ミカド』の他、よりソフトではあるが『''[[::en:Princess Ida|Princess Ida]]'' 』、『''[[::en:The Gondoliers|The Gondoliers]]'' 』、『''[[::en:Utopia, Limited|Utopia, Limited]]'' 』、『''[[::en:The Grand Duke|The Grand Duke]]'' 』でも風刺を行なっている。

== 経緯 ==
[[File:The Mikado Chappell Vocal Score cover (c.1895).jpg|upright|1895年頃のヴォーカル・スコア表紙|thumb|left]]
ギルバート・アンド・サリヴァンは[[サヴォイ・オペラ]]のスタンダードである9ヶ月続いたオペラ『''Princess Ida'' 』の直後に『ミカド』を作成した<ref>Traubner, p. 162</ref>。1884年の『''Princess Ida'' 』が1877年以降の彼らの作品の中で初めてチケット売り上げが振るわず、興行主のリチャード・ドイリー・カーテはたとえ打ち切ったとしても彼らの新作がまだできていないことが気になった。1884年3月22日、カーテはギルバート・アンド・サリヴァンに6ヶ月以内に新作を製作させる契約を結んだ<ref>Jacobs, p. 187</ref>。1883年12月、サリヴァンの親友で指揮者のフレデリック・クレイは重度の脳卒中を患い、キャリアに影響が出ていた。また自分の不安定な健康も影響して、よりシリアスな音楽の製作に専念するようになり、サリヴァンはカーテに「これまでのような作品を製作することはもうできない」と告げた<ref>Crowther, Andrew. [http://diamond.boisestate.edu/gas/articles/html/quarrel.html "The Carpet Quarrel Explained"], The Gilbert and Sullivan Archive, 28 June 1997, accessed 6 November 2007</ref><ref>Ainger, p. 226</ref>。この時ギルバートはすでに、魔法の飴を舐めると意志に反して恋に落ちるという新作の脚本に取り掛かっており、サリヴァンの躊躇を聞いて驚いた。彼はサリヴァンに考え直すよう手紙を書いたが、1884年4月2日、「(オペラ製作への)意欲は尽きた」と返事が来た:

{{quote|...理由は一言では言い表せないが音楽への意欲が減退してきている....(シリアスでなく)ユーモラスな状況でなければユーモラスな言葉は出てこない。ドラマティックな状況であれば、それに似たキャラクターになるだろう<ref>Ainger, p. 230</ref>。}}

サリヴァンはギルバートのこの新作には関わることができず、ギルバートはひどく落胆した。さらにこの新作は1877年に彼らが製作したオペラ『''[[::en:The Sorcerer|The Sorcerer]]'' 』に似過ぎていた。サリヴァンはロンドンへ戻り、ギルバートはこの新作を書き直したが、サリヴァンを納得させることはできなかった。行き詰まり、ギルバートは「7年間の音楽、脚本の共同製作-そして高い評判-、金銭的不公平、不快で不調和からくるこれまでの状態も終わりが来た<ref>Ainger, p. 232</ref>。」と愚痴を記した。1884年5月8日、ギルバートは譲歩し、「もし超常現象を取り入れなければきみはまた共に作業してくれるかい。時代遅れでなく、矛盾のない筋で、私の可能な限り誠実に製作するつもりだ」<ref name=Ainger233>Ainger, p. 233</ref>。平行線は終わりを見せ、5月20日、ギルバートはサリヴァンに『ミカド』のあらすじを送った<ref name=Ainger233/>。結局『ミカド』上演まで10ヶ月かかった。サヴォイ劇場にて1877年の『''The Sorcerer'' 』の再演版が一幕物の『''[[::en:Trial by Jury|Trial by Jury]]'' 』(1875年)と共に新作初演までの繋ぎとして上演された。1892年、ギルバートは前述の「魔法の飴」の話をアルフレッド・セリアと共に『''[[::en:The Mountebanks (opera)|The Mountebanks]]'' 』として発表した。

[[File:Japanese3vil.jpg|right|frame|ウィリアム・S・ギルバートが撮影した[[日本村 (ナイツブリッジ)|日本村]]<ref name =exhibition>[http://www.english-heritage.org.uk/server/show/conWebDoc.1613 "The Japanese exhibition, 1885–87"], English Heritage, accessed 29 January 2013</ref>]]
1914年、セリアとブリッジマンはギルバートがいかに着想を得たかを記録した:
{{quote|故郷を1人で離れる決心をしたギルバートは、彼の風変わりなユーモア・センスに合うものを探していた。小さな出来事が彼にアイデアを与えた。ある日、書斎の壁に長年飾ってあった古い日本刀が落ちた。これにより彼の日本への興味が沸き上がった。ちょうどその時、日系企業がイングランドに到着し、[[ナイツブリッジ]]に小さな村を作るところであった<ref>Cellier and Bridgeman, p. 186</ref>。}}

この話は魅力的ではるが、大方作り話とみられている<ref name="Jones 1985, p. 22">Jones (1985), p. 22</ref>。ギルバートは『ミカド』への着想について2回インタビューで答えている。どちらのインタビューでも日本刀について語っているが、2回共落ちたことには言及していない。さらにセリアとブリッジマンの誤解はナイツブリッジでの日本展である[[日本村 (ナイツブリッジ)|日本村]]にもあり<ref name =exhibition>[http://www.english-heritage.org.uk/server/show/conWebDoc.1613 "The Japanese exhibition, 1885–87"], English Heritage, accessed 29 January 2013</ref>、この展示はギルバートが第1幕を仕上げた約2ヶ月後の1885年1月10日に開幕したのである<ref name="Jones 1985, p. 22" /><ref>Jones (2007), p. 687</ref>。ギルバートの学生のブライアン・ジョーンズは彼の記事『刀は落ちていない』で、「彼がこの出来事から着想を得たのは取り消された」と記した<ref>Jones (1985), p. 25</ref>。1952年、レスリー・ベイリーは以下のように語った:

{{quote |ハリントン・ガーデンズの新居の書斎でギルバートがうろうろして回った翌日または翌々日、大きな日本刀が音を立てて壁から落ちた時、行き詰まりに立腹していた。ギルバートはそれを拾い上げた。彼は立ち止まった。彼が後に語ったように「大きなアイデアが浮かんできた」。いつもすぐに主題を掴む彼のジャーナリスト的な考えから、近所で日本の展示が最近開幕したことを思い出した。ギルバートはナイツブリッジの町中をエキゾチックな服装で往来している日本人の男女を見かけていた。現在彼は机に向かい、羽ペンを使って執筆している。彼はあらすじを書き留め始めた<ref>Baily, pp. 235–36</ref>}}

1999年の映画『[[トプシー・ターヴィー]]』ではこの出来事をドラマティックに描いている<ref>{{cite news| title= Topsy-Turvy | url= http://www.time.com/time/printout/0,8816,992991,00.html | date= December 27, 1999 | authorlink= :en:Richard Schickel | first=Richard |last= Schickel| publisher= Time | accessdate= 2011-07-16}}</ref>。しかしたとえ1885年から1887年の日本展がギルバートの『ミカド』着想前の開幕でなくとも、日本とヨーロッパの貿易がこの数十年で上昇し、1860年代から1870年代にかけてイギリスでは[[ジャポニズム]]が流行ったことは事実である。このことで日本を舞台にしたオペラ作品が作り上げられたのだ<ref name=Jones688>Jones (2007), pp. 688–93</ref>。ギルバートは報道関係者に「あなたが期待する、日本を舞台にした作品を作った理由を話すことはできない。魅力あるあらすじ、風景、衣装に価値があり、虫も殺せぬ死刑執行人などが観衆を喜ばせると思う」と語った<ref>[http://www.lyricoperasandiego.com/Education/MikadoGenesis.htm Quoted at Lyricoperasandiego.com]</ref><ref name=Tribune>Gilbert, W. S. "The Evolution of ''The Mikado''", ''New York Daily Tribune'', 9 August 1885</ref>。

1885年の『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙のインタビューでギルバートはレオノラ・ブレアム、ジェシー・ボンド、シビル・グレイについてオペラ『''[[::en:Three Little Maids|Three Little Maids]]'' 』のような「日本人女学生3人組」であると語った。日本村でお茶を出した若い日本人女性がリハーサルに来て3人に日本舞踊を教えたことも明かした<ref name=Tribune/>。1885年2月12日、『ミカド』開幕1ヶ月前の『[[イラストレイテド・ロンドン・ニュース]]』には日本村の開幕と「''three little maids'' による優雅な素晴らしいダンス」との記載がある<ref>''[[::en:Illustrated London News|Illustrated London News]]'', 12 February 1885, p. 143</ref>。タイトル・キャラクターであるミカドは第2幕にしか出てこない。ギルバートは、サリヴァンと共に第2幕のミカドの出演シーンをカットしてソロ1曲としたが、カンパニーのメンバーとリハーサルにいた人々が「一団となってやってきて、私たちに戻すように訴えた」と語った<ref name=Tribune/>。


== 登場人物 ==
== 登場人物 ==
* ミカド([[帝]]): 日本を支配している一番偉い人。彼の好き嫌いがそのまま[[法律]]である。
* ミカド([[帝]]): ([[バス (声域)|バス]]、バス・バリトン) 日本を支配している一番偉い人。彼の好き嫌いがそのまま[[法律]]である。
* ナンキ・プー: 流しの旅芸人に変装している皇太子。
* ナンキ・プー: ([[テノール]]) 流しの旅芸人に変装している皇太子でヤムヤムに恋する
* ココ: ([[バリトン]]) 元来は身分の低い仕立て屋。後にティティプーの[[死刑]]執行[[大臣]] (Lord High Executioner of Titipu) 。ヤムヤムの後見人かつ[[婚約]]者。
* ヤムヤム: ティティプーに住んでいる美しい娘。ココに養われている。
* ココ元来は身分仕立て屋後にティティプーの[[死刑]]執行[[大臣]] (Lord High Executioner of Titipu) 。ヤムヤムの後見人かつ[[婚約]]者
* プーバー(バリトン) ココより位。死刑執行以外の全ての大臣 (Lord High Everything Else) 。
* ピシュ・タッシュ: (バリトン<ref name=Pish/Go group="n">元々ピシュ・タッシュ役に配役された役者が第2幕でのカルテット「''Brightly dawns our wedding day'' 」の低音がうまく歌えなかった。ピシュ・タッシュが歌うはずであった箇所を他の役より低くして下のFにまで下げた。そのため他のバスの登場人物であるゴー・トゥがこの曲に登場し、セリフに突入することになった。ドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーはこのように2人体制を続けたが、楽譜ではこのことには言及していない。他のカンパニーでは一般的に声域が可能であればピシュ・タッシュのみでゴー・トゥを外す。</ref>) プーバーより位の高い[[貴族]]。
* プーバー: ココより位の高い者。死刑執行以外の全ての大臣 (Lord High Everything Else) 。
* ピシュタッシュプーーより位の高い[[貴族]]。
* ゴートゥ(ス<ref name=Pish/Go group="n"/>) 貴族
* ヤムヤム: ([[ソプラノ]]) ティティプーに住んでいる美しい娘。ココ被後見人かつ婚約者。
* カティーシャ: ナンキ・プーの婚約者で年増の醜女。帝の義理の娘になることに野心を燃やす。
* ピッティ・シングとピープ・ボー: ヤムヤムの姉妹。ココに養われている
* ピッティ・シング: ([[メゾソプラノ]]) ヤムヤムの姉妹。ココの被後見人
* ピープ・ボー: (ソプラノ、メゾソプラノ) ヤムヤムの姉妹。ココの被後見人。
* カティーシャ: (コントラルト) ナンキ・プーの婚約者で年増の醜女。帝の義理の娘になることに野心を燃やす。
* その他(コーラスの女学生、貴族、警備員、[[苦力]])


== 劇中の固有名詞 ==
== 劇中の固有名詞 ==
登場人物の名には[[日本語]]と無関係な、あたかも[[中国]]や[[東南アジア]]の[[固有名詞]]を想起させる[[英語]]の[[幼児語]]を用いている。また、物語の舞台「[[日本の首都]]ティティプー」は日本語話者が聞くといかにも架空の街という響きであるが、[[秩父]](チチブ)のことではないかとする見方もある。
登場人物の名には[[日本語]]と無関係な、あたかも[[中国]]や[[東南アジア]]の[[固有名詞]]を想起させる[[英語]]の[[幼児語]]を用いている。


=== 「ティティプー」について ===
[[猪瀬直樹]]の著書『ミカドの肖像』と[[永六輔]]のラジオ番組が秩父説の伝播に一役買ったようである。[[秩父]]説の根拠としては、初演の前年に[[秩父事件]]が英国の新聞でも報道されていたこと、また、事件の前後にも秩父の名は[[絹]]製品の輸出で西ヨーロッパに知られていたことが挙げられる。
物語の舞台「[[日本の首都]]ティティプー」は日本語話者が聞くといかにも架空の街という響きであるが、[[秩父]](チチブ)のことではないかとする見方もある。


なお、今日秩父のローマ字表記は[[ヘボン]]式の''Chichibu''が一般的であるが、19世紀の日本では[[内閣訓令式]]と後に呼ばれることになる転写法を用いた''Titibu''の綴りが一般的だった。これが転じて''Titipu''となったとも見ることが出来る。ちなみに、第二次世界大戦前の日本最大の豪華客船鎌倉丸([[日本郵船]]、17,498gt)は竣工当初「[[秩父丸]]」 (Chichibu Maru) と称していが、[[1938年]]にヘボン式ローマ字綴りが禁止となり、内閣訓令式に基づいたTitibu Maruにローマ字表記を改めたが、titがアメリカの[[スラング]]で[[乳首]]を表す言葉だといこと、翌[[1939年]]に鎌倉丸に改名した
秩父説の根拠としては初演の前年に[[秩父事件]]が英国の新聞でも報道されていたこと、また、事件の前後にも秩父の名は[[絹]]製品の輸出で西ヨーロッパに知られていたことが挙げられる。今日秩父のローマ字表記は[[ヘボン]]式の''Chichibu''が一般的であるが、19世紀の日本では[[日本ローマ字]]を用いた''Titibu''の綴りが一般的だった。これが転じて''Titipu''となったとも見ることが出来る。秩父説の伝播、日本では[[1987年]][[昭和]]62年)に刊行された[[猪瀬直樹]]の著書『ミ肖像』と[[永六輔]]のラジオ番組が一役買ったようである

ちなみに、第二次世界大戦前の日本最大の豪華客船「[[秩父丸]]」([[日本郵船]]、17,498gt)は、1930年の竣工当初 Chichibu Maru と称し、[[1938年]]にTitibu Maruにローマ字表記を改めたが<ref>1938年に内閣訓令によってヘボン式を排したローマ字表記の統一([[内閣訓令式]])が図られたためである。</ref>、titがアメリカの[[スラング]]で[[乳首]]を表す言葉だということでこれを忌避し、翌[[1939年]]に鎌倉丸に改名した経緯を持つ。


== ストーリー ==
== ストーリー ==
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ココはナンキ・プーに1ヶ月後に死ぬのはやめてほしいと頼む。しかしナンキ・プーはカティーシャと結婚するのがいやなので、生きることを躊躇する。するとピッティ・シングがココとカティーシャとの結婚を提案する。ココ以外が全員賛成する。しかしその後ココもカティーシャを好きになる。ココは帝にナンキ・プーの生存を報告し、自分とカティーシャの結婚のお伺いを立てて許可される。めでたし、めでたしのハッピーエンディング。
ココはナンキ・プーに1ヶ月後に死ぬのはやめてほしいと頼む。しかしナンキ・プーはカティーシャと結婚するのがいやなので、生きることを躊躇する。するとピッティ・シングがココとカティーシャとの結婚を提案する。ココ以外が全員賛成する。しかしその後ココもカティーシャを好きになる。ココは帝にナンキ・プーの生存を報告し、自分とカティーシャの結婚のお伺いを立てて許可される。めでたし、めでたしのハッピーエンディング。


== 挿入歌 ==
== 楽曲 ==
* 序曲(『''Mi-ya Sa-ma'' 』、『''The Sun Whose Rays Are All Ablaze'' 』、『''There is Beauty in the Bellow of the Blast'' 』、『''Braid the Raven Hair'' 』、『''With Aspect Stern and Gloomy Stride'' 』を含む)
=== 第1幕 ===
*1. ''If you want to know who we are'' (男性コーラス)
*2. ''A Wand'ring Minstrel I'' (ナンキ・プー、男性達)
*3. ''Our Great Mikado, virtuous man'' (ピシュタッシュ、男性達)
*4. ''Young man, despair'' (プーバー、ナンキ・プー、ピシュタッシュ)
*4a. ''And I have journeyed for a month'' ([[レチタティーヴォ]])(プーバー、ナンキ・プー)
*5. ''Behold the Lord High Executioner'' (ココ、男性達)
*5a. ''As some day it may happen (I've Got a Little List)'' (ココ、男性達)
*6. ''Comes a train of little ladies'' (少女達)
*7. ''Three little maids from school are we'' (ヤムヤム、ピーボー、ピッティシング、少女達)
*8. ''So please you, Sir, we much regret'' (ヤムヤム、ピーボー、ピッティシング、プーバー、少女達)<ref group="n">オリジナル版はピシュタシュも含まれていたが、出番が減らされた後に削除された。しかし現在もヴォーカル・スコアにはまだ出番が減らされた時のままの楽譜もある。</ref>
*9. ''Were you not to Ko-Ko plighted'' (ヤムヤム、ナンキ・プー)
*10. ''I am so proud'' (プーバー、ココ、ピシュタッシュ)
*11. 第1幕フィナーレ (アンサンブル)
** ''With aspect stern and gloomy stride''
** ''The threatened cloud has passed away''
** ''Your revels cease!'' ... ''Oh fool, that fleest my hallowed joys!''
** ''For he's going to marry Yum-Yum''
** ''The hour of gladness'' ... ''O ni! bikkuri shakkuri to!''
** ''Ye torrents roar!''


=== 第2幕 ===
*12. ''Braid the raven hair'' (ピッティシング、少女達)
*13. ''The sun whose rays are all ablaze'' (ヤムヤム)(当初は第1幕の曲であったが、開幕直後に第2幕に移動された)
*14. ''Brightly dawns our wedding day'' ([[マドリガーレ]]) (ヤムヤム、ピッティシング、ナンキ・プー、ピシュタッシュ)
*15. ''Here's a how-de-do'' (ヤムヤム、ナンキ・プー、ココ)
*16. ''Mi-ya Sa-ma''<ref name=Miya/> ''From every kind of man obedience I expect'' (ミカド、カティーシャ、コーラス)
*17. ''A more humane Mikado'' (ミカド、コーラス) (カットされそうになったが、開幕直前に復活した{{citation needed|date=June 2014}})
*18. ''The criminal cried as he dropped him down'' (ココ、ピッティシング、プーバー、コーラス)
*19. ''See how the Fates their gifts allot'' (ミカド、ピッティシング、プーバー、ココ、カティーシャ)
*20. ''The flowers that bloom in the spring'' (ナンキ・プー、ココ、ヤムヤム、ピッティシング、プーバー)
*21. ''Alone, and yet alive'' (レチタティーヴォ)(カティーシャ)
*22. ''On a tree by a river'' (''Willow, tit-willow'' ) (ココ)
*23. ''There is beauty in the bellow of the blast'' (カティーシャ、ココ)
*24. 第2幕フィナーレ (アンサンブル)
** ''For he's gone and married Yum-Yum''
** ''The threatened cloud has passed away''

== プロダクション ==
『ミカド』はサヴォイ・オペラの中で初演時に最も長く上演され、また最速で再演が決まった作品である。ギルバート・アンド・サリヴァンの次の作品『''[[::en:Ruddigore|Ruddigore]]'' 』は比較的早く閉幕し、『''[[::en:The Yeomen of the Guard|The Yeomen of the Guard]]'' 』が公開されるまで3作品の再演が行なわれ、うち『ミカド』は閉演後たった17ヶ月での再演となった。1891年9月4日、ドイリー・カーテのツアーCカンパニーは[[バルモラル城]]にて''[[::en:Royal Command Performance|Royal Command Performance]]'' として[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]や王室の人々の前で『ミカド』を上演した<ref name=stage>Gillan, Don. [http://www.stagebeauty.net/th-frames.html?http&&&www.stagebeauty.net/th-commnd.html A History of the Royal Command Performance], StageBeauty.net, accessed 16 June 2009</ref>。

『''[[::en:The Grand Duke|The Grand Duke]]'' 』準備中、『ミカド』はまた再演された。『''The Grand Duke'' 』の不成功が確実となったため昼の部に『ミカド』が上演されることになり、3ヶ月後に『''The Grand Duke'' 』が閉幕した後も『ミカド』再演は続いた。1906年から1907年の1年間、リチャード・ドイリー・カーテを亡くした妻のヘレン・カーテはサヴォイのレパートリーを上演したが、日本の皇室関係者が『ミカド』を鑑賞することを念頭に置き、レパートリーとしての上演はしなかった。しかし1908年から1909年の、ヘレンにとっての2度目のレパートリーには『ミカド』が含まれた。1926年、チャールズ・リケッツにより新しい衣装がデザインされ、1982年までこの衣装が使用された<ref>[http://math.boisestate.edu/GaS/carte/1926/index.html Photos of, and information about, the 1926 ''Mikado'' costume designs.]</ref>。

1885年7月27日、[[ブライトン]]で『ミカド』の地方公演が初めて行われ、8月にニューヨークでの初の公式アメリカ・プロダクション上演のためにうち数名が渡米した。それ以降『ミカド』はツアー公演を定期的に行なっていた。1885年からカンパニー解散の1982年までドイリー・カーテは『ミカド』を毎年上演した。

1885年8月にアメリカでドイリー・カーテの公式上演が行なわれたが、非公式で『ミカド』を初上演した''[[::en:H.M.S. Pinafore|H.M.S. Pinafore]]'' は成功を収めて記録的利益を上げ、カーテはいくつかのカンパニーを編成して北米ツアー公演を行なった<ref>Prestige, Colin. "D'Oyly Carte and the Pirates", a [http://kuscholarworks.ku.edu/dspace/handle/1808/5875 paper presented at the International Conference of G&S] held at the [[University of Kansas]], May 1970</ref>。バーレスクや政治的パロディを含むパロディ・プロダクションも上演を行なった<ref>[http://www.library.rochester.edu/index.cfm?PAGE=4146 Information about American productions]</ref>。当時上演権が存在しなかったことから''Pinafore'' 同様の約150の非公式版が登場したがカーテもギルバート・アンド・サリヴァンも何も対策することができなかった<ref name=Mencken/><ref>Gilbert, Sullivan and Carte had tried various techniques for gaining an American copyright that would prevent unauthorised productions. In the case of ''Princess Ida'' and ''The Mikado'', they hired an American, George Lowell Tracy, to create the piano arrangement of the score, hoping that he would obtain rights that he could assign to them. The U.S. courts held, however, that the act of publication made the opera freely available for production by anyone. Jacobs, p. 214 and Ainger, pp. 247, 248 and 251</ref>。1885年11月14日からオーストラリアのシドニーでJ.C.ウリアムソン演出による公式公演が上演された。1886年、カーテは5つのカンパニーを編成して北米で『ミカド』ツアー公演を上演した<ref>Rollins and Witts, p. 59</ref>。

1886年と1887年にもカーテはドイツなどヨーロッパでツアー公演を行なった<ref>Rollins and Witts, pp. 59–64</ref>。1886年9月、ウィーンの批評家[[エドゥアルト・ハンスリック]]は『ミカド』の「類まれなる成功」は脚本や音楽だけでなく「ドイリー・カーテのアーティストたちによるオリジナルのステージ、ユニークさに起因し、エキゾチックな魅力に目と耳が引き寄せられる」と記した<ref>Jacobs, Arthur. [http://www.oxforddnb.com/view/article/32311, "Carte, Richard D'Oyly (1844–1901)"], ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, September 2004, accessed 12 September 2008</ref>。フランス、オランダ、ハンガリー、スペイン、ベルギー、スカンジナビア、ロシアなどでも公式プロダクションによる上演が行なわれた。1880年代から英語圏を中心に、多くのアマチュア・プロダクションが上演を行なっている<ref>Joseph (1994), pp. 81 and 163</ref><ref>Bradley (2005), p. 25</ref>。[[第一次世界大戦]]中、ドイツの''[[::en:Ruhleben internment camp|Ruhleben internment camp]]'' でも上演された<ref>The conductor [[::en:Ernest MacMillan|Ernest MacMillan]], along with other musician internees, recreated the score from memory with the aid of a libretto. See MacMillan, [http://books.google.ca/books?id=Rj3aLxfpFZwC&lpg=PA26&vq=mikado&pg=PA24 pp. 25–27]</ref>。

1962年にギルバートの権利が消滅すると、イングランドでドイリー・カーテ以外のプロのプロダクションで初めて、[[クライヴ・レヴィル]]がココ役で[[サドラーズウェルズ劇場|サドラーズ・ウェルズ・オペラ]]が上演した。それ以降多くのプロのカンパニーが上演しており、1986年にはココ役に[[エリック・アイドル]]、ヤムヤム役にレスリー・ギャレットが配役され、ジョナサン・ミラーの演出で[[イングリッシュ・ナショナル・オペラ]]が上演した。何度も再演しているこのプロダクションは昔の日本ではなく、白と黒の衣装を用いて1920年代の海岸の高級ホテルを舞台にしている。1963年、1982年から1984年、1993年、カナダのストラトフォード・フェスティバルで『ミカド』が何度も上演されている<ref>[http://www.stratfordfestival.ca/about/history.aspx?id=1178 "Production History"], Stratford Festival website, accessed 15 February 2014</ref>。

ギルバート存命中のドイリー・カーテの上演史を以下に示す:

{|class="wikitable"
!劇場!!開幕日!!閉幕日!!上演回数!!詳細
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|nowrap|サヴォイ・シアター||1885年3月14日||1887年1月19日||align=center|672||ロンドン初演
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|ニューヨークの五番通り劇場およびスタンダード劇場||1885年8月19日||1886年4月17日||align=center|250||公式アメリカ・プロダクション。1886年2月にスタンダート劇場で上演した以外は五番通り劇場で上演。
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|ニューヨークの五番通り劇場||1886年11月1日||1886年11月20日||align=center|3週間||ジョン・ステソンのマネージメントのもと、ドイリー・カーテの一部が参加したプロダクション。
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|サヴォイ・シアター||1888年6月7日||nowrap|1888年9月29日||align=center|116||ロンドン第1回再演
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|サヴォイ・シアター||nowrap|1895年11月6日||1896年3月4日||align=center|127||ロンドン第2回再演
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|サヴォイ・シアター||1896年5月27日||1896年7月4日||align=center|6||『''The Grand Duke'' 』の昼公演の振替
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|サヴォイ・シアター||1896年7月11日||1897年2月17日||align=center|226||『''The Grand Duke'' 』の早期閉幕後の振替再演
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|サヴォイ・シアター||1908年4月28日||1909年3月27日||align=center|142||レパートリー・シーズン2回目の6作のうちの1つ。閉幕日はシーズン最終日を示す。
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== 分析 ==
=== 舞台となった日本 ===
オペラ『ミカド』は[[天皇]]を表すミカド(御門、帝、みかど)から名付けられた。文字通りの意味では皇居の「高潔な門」を意味し、隠喩的にその居住者および皇居そのものを表す。19世紀、英語圏でも「ミカド」という言葉は標準的に使用されたが、徐々に使われなくなっていった<ref>Kan'ichi Asakawa. [http://books.google.com/books?id=K1MuAAAAYAAJ&pg=PA25 "Institutions before the Reform"], ''The Early Institutional Life of Japan: A Study in the Reform of 645 A.D.'', Tokyo: Shueisha (1903), p. 25. Quote: "We purposely avoid, in spite of its wide usage in foreign literature, the misleading term ''Mikado''. ... It originally meant not only the Sovereign, but also his house, the court, and even the State, and its use in historical writings causes many difficulties. ... The native Japanese employ the term neither in speech nor in writing."</ref>。オペラで日本の文化、様式、政治を描く限界があり、1880年代にイギリス人が魅了された極東および日本へ向けたジャポニズムに乗じて美しい舞台を使用したフィクションの世界の日本である<ref name=Jones688 />。ギルバートは「オペラのミカドは昔の想像上の皇帝で、既存の機関に属するものではない」と記した<ref>Dark and Grey, p. 101</ref>。「『ミカド』は実際の日本を描いたものではなく、イギリス政府の欠点を描いたものである」<ref>Mairs, Dave. [http://www.yourcanterbury.co.uk/leisure/gilbert_sullivan_the_greatest_show_takes_to_the_road_1_3624361 "Gilbert & Sullivan... the greatest show takes to the road"], ''Your Canterbury'', 2 June 2014</ref>。

海外に舞台を設定することにより、ギルバートはイギリス機関をより鋭く批判できると考えた<ref name = Steinberg>Steinberg, Neil. [http://www.suntimes.com/news/steinberg/2706603-452/mikado-production-opera-chicago-lyric.html "Updated ''Mikado'' promises to be as rousing as ever"]. ''Chicago Sun-Times'', 6 December 2010.</ref>。[[ギルバート・ケイス・チェスタートン]]は[[ジョナサン・スウィフト]]の『[[ガリヴァー旅行記]]』と比較し、「ギルバートはスウィフトがやったように文字通り立ち上がれなくなるほどに現代のイングランドの欠点を追及した。劇中のジョークが1つでも日本に合うかどうかはわからないが。しかし劇中のジョークすべてが英語圏に合っている。イングランドについて、プー・バーはより皮肉的で彼こそが真実をついている」<ref>[http://web.archive.org/web/20061029085114/www.lyricoperasandiego.com/Education/MikadoGenesis.htm "Mikado Genesis"], Lyric Opera San Diego</ref>。このオペラはヴィクトリア朝を極東に重ね合わせ、ギルバートは2国間の貿易開始直後に日本の民族衣装や芸術を集約し、リハーサル期間中、ギルバートはロンドンのナイツブリッジにあった当時人気の日本村を訪れた<ref>Jones (1985), pp. 22–25</ref>。

ギルバートは舞台装置、衣装、役者の所作などについて本物を追い求めた。ついにギルバートはナイツブリッジの日本村の日本人数名と演出へのアドバイスと役者への指導の契約を結んだ。開幕公演では彼らへの感謝が述べられた<ref>Allen, p. 239</ref>。サリヴァンは楽曲に[[明治時代]]に作曲された日本の軍歌行進曲『[[宮さん宮さん|トンヤレ節]]』を基にした『ミヤサマ』を取り入れた<ref name=Miya>Seeley, Paul. (1985) "The Japanese March in ''The Mikado''", ''The Musical Times'', '''126'''(1710) pp. 454–56.</ref><ref>[http://www.qsulis.demon.co.uk/Website_Louise_Gold/MIYA_SAMA.htm this translation]. Daniel Kravetz wrote in ''The Palace Peeper'', December 2007, p. 3, that the song was composed in 1868 by Masujiro Omura, with words by Yajiro Shinagawa.</ref><ref>[http://www.geocities.jp/general_sasaki/historia-miyasan-eng.html "Historia Miya San"]. General Sasaki gives historical information about "Ton-yare Bushi" and includes Midi files and a translation. Here is a [http://www.youtube.com/watch?v=DVc-UNU48g0 YouTube version of the Japanese song].</ref>。[[ジャコモ・プッチーニ]]は後に『[[蝶々夫人]]』の『''Yamadori, ancor le pene'' 』に同曲を組み込んだ。登場人物の名前は日本人の名前ではなく、多くの場合英語の[[幼児語]]や単なる音が用いられている。例えば可愛らしい若い女性(''pretty young thing'' )はピティ・シング(''Pitti-Sing'' )、美しいヒロインは美味しいことを表す幼児語のヤムヤム(''Yum-Yum'' )、横柄な公人はプーバー<ref group="n">このキャラクターはジェイムス・プランシェの『''The Sleeping Beauty in the Wood'' 』(1840年)の''Great-Grand-Lord-High-Everything'' である''Baron Factotum'' に由来する。</ref>とピシュ・タシュ<ref group="n">''Bab Ballad''の『''King Borriah Bungalee Boo'' 』(1866年)の登場人物で横柄な''Pish-Tush-Pooh-Bah'' を2つに分けたものである。ピシュ、タシュ、プー、バーの4つ共侮辱的な語句である。</ref>、主人公はハンカチを表す幼児語のナンキ・プーである.<ref>[http://www.ppt.org/documents/SG2901TheMikado.pdf "A Study Guide to the production of ''The Mikado''"], [[::en:Pittsburgh Public Theater|Pittsburgh Public Theater]], p. 13</ref><ref>Munich, Adrienne. [http://books.google.com/?id=9nkgn8EhDTgC&pg=PA123 ''Queen Victoria's Secrets''], 1998, ISBN 978-0-231-10481-4</ref><ref>Seay, James L. [http://pamphletpress.org/index.cfm?sec=7&story_id=69 "For Tricks that Are Dark"], Pamphlet Press</ref>。死刑執行人のココは[[ジャック・オッフェンバック]]の『''[[::en:Ba-ta-clan|Ba-ta-clan]]'' 』の悪役''Ko-Ko-Ri-Ko'' の名に似ている<ref>Faris, p. 53</ref>。

長年日本人にとって『ミカド』に対しては複雑な心境であった。何人かの日本人の批評家はこのタイトル・キャラクターの描写は[[明治天皇]]への冒涜と考えた。当時日本の劇場は天皇を描写することを禁じていた<ref>[http://pamphletpress.org/index.cfm?sec=7&story_id=69 Review of ''The Mikado'' discussing reception by the Japanese]</ref>。1886年、[[小松宮彰仁親王]]はロンドン公演を鑑賞し、気を悪くすることはなかった<ref>[http://www.goreyography.com/east/shibata.htm "Edward Gorey in Japan; Translation or Transformation: A Chat with Motoyuki Shibata"], Goreyography (2008)</ref>。1907年、[[伏見宮貞愛親王]]が来訪した際、イギリス政府は彼の気を悪くすることを恐れて6週間『ミカド』上演を禁止した<ref group="n">これによりリチャード・ドイリー・カーテの2番目の妻でカンパニー責任者ヘレン・カーテはギルバート・アンド・サリヴァンのレパートリー・シーズンから常に人気のこの作品を外すことにした。See Wilson and Lloyd, p. 83</ref>が、滞在中に『ミカド』鑑賞を望んでいたために裏目に出た<ref>[http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9804E1DE133EE033A25754C0A9639C946697D6CF "London Greets Fushimi; He Visits King Edward&nbsp;– Wants to Hear "The Mikado""], ''The New York Times'', 7 May 1907</ref><ref>{{cite journal | first=Goodman | last=Andrew | title=The Fushimi incident: theatre censorship and The Mikado | work=Journal of Legal History | volume=1 | year=1980 | pages=297–302}} Cass; Routledge</ref>。伏見宮滞在を取材していた日本人ジャーナリストは禁じられたこの演目を鑑賞し、「深く愉快に期待を裏切られた」。故国を実際に侮辱されるものと構えていたが、「快活な音楽でとても楽しかった」<ref>{{cite book | last=Adair Fitz-Gerald | first=S. J. | title=The Story of the Savoy Opera in Gilbert and Sullivan's Day | page=212 | publisher=D. Appleton and Company | year=1925}}</ref>。

[[第二次世界大戦]]後、『ミカド』は日本で多数上演されるようになった<!-- DID [[J. C. Williamson]] perform The Mikado during its tour of Japan in the 1920s? -->。1946年、東京のアーニー・パイル劇場でピアニストの[[ホルヘ・ボレット]]の指揮により日本初の公演が米軍に向けて上演された。豪華な舞台装置と衣装で、主な登場人物は女性コーラス同様アメリカ人、カナダ人、イギリス人であったが、男性コーラスと女性ダンサーは日本人であった<ref>[http://math.boisestate.edu/GaS/mikado/html/mikado_japan.html Article about the 1946 ''Mikado'' in Japan]</ref>。1947年、[[ダグラス・マッカーサー]]元帥は全日本人キャストの東京プロダクションによる大規模な公演を禁じた<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,855746,00.html "Japan: No ''Mikado'', Much Regret",] ''Time Magazine'', 16 June 1947</ref>が、日本国内の他のプロダクションは上演することができた。例えば1970年、第8陸軍特別部隊主催で東京のアーニー・パイル劇場にて上演された<ref>[http://nla.gov.au/nla.cat-vn319034 "Ernie Pyle Theater Tokyo presents Gilbert and Sullivan's ''The Mikado''",] ''Japan Times'', 5 February 1970</ref>。

2001年、[[埼玉県]][[秩父市]]において''Tokyo Theatre Company'' の名で『ミカド』日本語版が上演された<ref name="tkyt">[http://www.tkyt.com/mikado/buxton/e/mikado1.html Sumiko Enbutsu: ''The Mikado in the Town of Chichibu'']</ref><ref>Brooke, James. [http://www.nytimes.com/2003/04/03/international/asia/03JAPA.html "Japanese Hail ''The Mikado'', Long-Banned Imperial Spoof",] ''The New York Times'', 3 April 2003, accessed 15 July 2014</ref>。秩父市民はギルバートが「秩父」から「ティティプー」と名付けたと考えているが、これに関する確固たる根拠はない<ref>[http://infoweb.newsbank.com/iw-search/we/InfoWeb?p_action=doc&p_topdoc=1&p_docnum=1&p_sort=YMD_date:D&p_product=UKNB&p_text_direct-0=document_id=(%200F91F521345405FA%20)&p_docid=0F91F521345405FA&p_theme=aggdocs&p_queryname=0F91F521345405FA&f_openurl=yes&p_nbid=F59Q58URMTI3NTkxOTU3OS45NDE1MjY6MTo4OnJmLTE5MDc0&&p_multi=LTIB "The Mikado&nbsp;– Diary"]. ''The Times'', 23 July 1992</ref>。[[永六輔]]はナイツブリッジの日本村にいた秩父出身者がギルバートに日本を舞台にしたオペラの着想を与えたと確信している<ref name="tkyt"/><ref>See [http://www4.ncsu.edu/~fljpm/chron/jc34.meiji.prm.html this link] and [http://web.archive.org/web/20070709143133/http://www.gs-festival.co.uk/newsletter-Jan06.pdf this one].</ref>。[[翻字]]の[[ローマ字]]での「Chichibu」は現在よく見かけるが、19世紀では訓令式の「Titibu」が一般的であった。そのため公開当時の1884年のロンドンでの報道では「Titibu」が使用され、オペラでも使われるようになった。日本人研究者は、ギルバートは以前に19世紀に貿易が盛んであった秩父絹のことを聞いたことがあったのではないかと判断した。いずれにせよ『ミカド』の都市名は日本でもこのままで上演された。2006年8月、イングランドで行われた国際ギルバート・アンド・サリヴァン祭において『チチブ・ミカド』が上演され<ref name="JpSoc">Sean Curtin. [http://www.japansociety.org.uk/2217/the-chichibu-mikado/ ''The Chichibu Mikado'']. The Japan Society.</ref>、2007年、同カンパニーが来日ツアー公演を行なった。

1990年代より、アジア系アメリカ人コミュニティから「単純化された東洋のステレオタイプ」として批判されるようになった<ref>Kai-Hwa Wang, Frances. [http://www.nbcnews.com/news/asian-america/stereotypes-mikado-stir-controversy-seattle-n157306 "Stereotypes in ''The Mikado'' Stir Controversy in Seattle"], NBC news, 17 July 2014</ref>。2014年、[[ワシントン州]][[シアトル]]での公演後、この批判は全米で高まり、ギルバートの伝記作家のアンドリュー・クロウサーは『ミカド』について「どの登場人物も人種的に差別するものではなく、イギリス人となんら変わりはない。このオペラのポイントは表面上は日本だが、ファンタジーの日本を通して描かれるイギリスの文化である」と記した<ref name=CrowtherSensitivity>Crowther, Andrew. [http://andrewcrowther.co.uk/blog.html "The Mikado and Racism"], Andrew Crowther: Playwright and Biographer, 20 July 2014</ref>。例えば『ミカド』冒頭部、いちゃつきの罪は日本の法律に反するというのは、イギリスの保守性を表現している<ref name=CrowtherSensitivity/>。しかしクロウサーはプロダクション・デザインや伝統的な舞台はしばしば「侮辱したわけではなくとも無神経に映ることもある。より神経を尖らせれば回避不能ではないかもしれない。ギルバート・アンド・サリヴァンは愚かさと愉快さ、そして権力への嘲笑、世の中の不条理を描いているのだ」と記した<ref name=CrowtherSensitivity/>。他のコメンテイターは政治的意味合いからこれらの批判を退けた<ref>Levin, Michael. [http://www.huffingtonpost.com/michaellevin/who-the-hell-put-these-pe_b_5684638.html?utm_hp_ref=arts&ir=Arts "Who the Hell Put These People in Charge of Popular Culture?"], ''Huffington Post'', 16 August 2014</ref>。1ヶ月後、シアトルで行われた公開討論会には多くの人々が訪れ、『ミカド』はそのスタイルを変えるべきではないが、製作者と演者はこういった問題があることを知っておかなければならない、と結論づいた<ref>Kiley, Brendan. [http://slog.thestranger.com/slog/archives/2014/08/19/last-nights-polite-but-necessary-discussion-at-the-seattle-rep-about-race-theater-and-the-mikado-controversy "Last Night's Polite But Necessary Discussion at the Seattle Rep About Race, Theater, and the Mikado Controversy"], TheStranger.com, August 19, 2014</ref>。

=== 現代的な台詞、言い回し ===
[[File:BarringPooh.jpg|right|thumb|プーバーを演じる''[[::en:Rutland Barrington|Rutland Barrington]]'']]
現代のプロダクションでは『ミカド』の台詞や言い回しを現代的に変更している。例えば劇中の2曲で「[[ニガー]]」という言葉が出てきていた。『''As some day it may happen'' 』で「ニガーのセレナーデ歌手とその人種の他の者」というココの歌詞があった。『''A more humane Mikado'' 』では派手な女性が「クルミの汁でニガーのように一生黒い顔にする」罰を受けることになっていた<ref name=Dover41>Gilbert (1992) p. 41, note 1</ref>。これらの表現はヴィクトリア朝時代、濃い肌色の俳優が演じるよりも白人俳優が顔を黒く塗る[[ミンストレル・ショー]]が人気があったことに由来している<ref name=Dover9>Gilbert (1992), [http://books.google.com/books?id=ZgVUqbK-_1EC&pg=PA9 p. 9, note 1]</ref>。20世紀に入るまで「ニガー」という言葉は差別的ではなかった<ref name=Pullum>Pullum, Geoffrey. [http://chronicle.com/blogs/linguafranca/2014/05/19/the-politics-of-taboo-words/ "The Politics of Taboo Words"], ''The Chronicle of Higher Education'', 19 May 2014</ref>。1947年のドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーのアメリカ・ツアー公演で観客から抗議があり、カーテの息子でカンパニーのオーナーであるルパート・ドイリー・カーテは作家のA・P・ハーバートに代替案の考案を依頼した。それ以降オペラの脚本および楽譜が変更された<ref name=B572>Bradley (1996) p. 572.</ref><ref group="n">ココの曲は「ニガーのセレナーデ歌手」から「バンジョー・セレナーデ歌手」に(Dover, p. 9; and Green, p. 416)、ミカドの女性への罰は強面にすることになった(Bradley (1996) p. 623; and Green p. 435).</ref>。

[[ジョージ・エリオット]]により風刺された浮ついた恋愛小説作家の描写で「女性小説家」を表していた<ref>Eliot, George. [http://faculty.winthrop.edu/kosterj/engl618/readings/theory/eliotsillynovels.pdf "Silly Novels by Lady Novelists"] (1896).</ref>。「男(''guy'' )のような恰好をした田舎から出てきた女性」という歌詞の「''guy'' 」は[[ガイ・フォークス・ナイト]]に登場する人形を表しており、そのためカカシのような恰好をした品のない女性ということになっている<ref>Benford, Chapter IX</ref>。1908年の再演ではギルバートは「女性小説家」を変更することに同意した<ref name=B572/><ref>Baily, Lesley. ''Gilbert and Sullivan and their world'' (1973), Thames and Hudson, p. 117</ref>。現代の価値観において差別的と考えられるようになった言葉は、観客からの抗議を避けるため現代のプロダクションでは修正を加えている<ref>Rahim, Sameer. [http://www.telegraph.co.uk/culture/music/opera/9841816/The-opera-novice-The-Mikado-by-Gilbert-and-Sullivan.html "The opera novice: ''The Mikado'' by Gilbert & Sullivan"], ''The Telegraph'', 1 February 2013, accessed 13 May 2014; Tommasini, Anthony. [http://www.nytimes.com/1998/01/10/arts/music-review-mikado-survives-some-updating.html "''Mikado'' Survives Some Updating"], ''The New York Times'', 10 January 1998, accessed 20 May 2014</ref>。変更はしばしば行われ、時事問題を扱ったジョークを取り入れている<ref>[http://arts.independent.co.uk/music/reviews/article54927.ece ''The Independent'' review of 2004 London ''Mikado'']</ref>。ココを演じたことで知られる歌手のリチャード・スアートは主に自分の役で行われた歌詞の変更の記述を含む書籍を出版した<ref>Suart, Richard. [http://www.amazon.co.uk/dp/184368036X ''They'd None of 'em Be Missed'']. Pallas Athene Arts, 2008 ISBN 978-1-84368-036-9</ref>。

=== 長期的な人気 ===
『ミカド』はサヴォイ・オペラの中でも最も多く上演される作品となり<ref>Wilson and Lloyd, p. 37</ref>、多数の言語に翻訳されている。またミュージカル史上最も多く上演される作品の1つとなっている<ref>[http://www.musicals101.com/gilbert3.htm See here] [http://www.libertystory.net/LSARTSGILBERT.htm and here]</ref>。2010年、シカゴ・リリック・オペラは『ミカド』について「過去125年間、継続的に上演されて」おり、「元来のユーモアと旋律の美しさ」を兼ね備えていると記した<ref name=Steinberg/>。

『ミカド』は他の作曲家からも称賛されている。[[エセル・スマイス]]はサリヴァンについて「ある日彼は『''[[::en:The Golden Legend (cantata)|The Golden Legend]]'' 』のフルスコアをくださり、「これまでで最高の出来だと思わないかい」と言うので私は『ミカド』が最高傑作だと答えると彼は「酷い」と叫んだ。彼は笑いながらもがっかりしていた」と記した<ref>Smythe, Dame Ethel. ''Impressions that Remained'', 1923, Quoted in Baily, p. 292</ref>。

== 録音、録画 ==
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|[[Image:Gnome-speakernotes.png|30px]]
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|colspan="2"|[[Image:1914 - Edison Light Opera Company - Favorite airs from The Mikado (restored).ogg|noicon|150px]]
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=== アルバム ===
*1. "If you want to know who we are" (ナンキ・プー他)
『ミカド』はギルバート・アンド・サリヴァンの作品の中でも最も多く録音されているオペラである<ref name=Discography>Shepherd, Marc. [http://gasdisc.oakapplepress.com/mik.htm "Recordings of ''The Mikado''"], Gilbert & Sullivan Discography, 13 July 2009, accessed 6 June 2012</ref>。中でも1926年にドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーによるアルバムが最高傑作とされている。現代の作品の中では1992年のマッケラス/テラークのアルバムが好評を博している<ref name=Discography/>。
*2. "A Wand'ring Minstrel I" (ナンキ・プー他)
*3. "Our Great Mikado, virtuous man" (ピシュタッシュ他)
*4. "Young man, despair" (プーバー、ナンキ・プー、ピシュタッシュ)
*4a. "And I have journeyed for a month" (ナンキ・プー、プーバー)
*5. "Behold the Lord High Executioner" (ココ他)
*5a. "As some day it may happen" (ココ他)
*6. "Comes a train of little ladies" (女性コーラス)
*7. "Three little maids from school are we" (ヤムヤム、ピーボー、ピッティシング他)
*8. "So please you, Sir, we much regret" (ヤムヤム、ピーボー、ピッティシング、プーバー他)
*9. "Were you not to Ko-Ko plighted" (ヤムヤム、ナンキ・プー)
*10. "I am so proud" (プーバー、ココ、ピシュタッシュ)
*11. "With aspect stern and gloomy stride" (合唱)
*12. "Braid the raven hair" (ピッティシング他)
*13. "The sun whose rays are all ablaze" (ヤムヤム)
*14. "Brightly dawns our wedding day" (ヤムヤム、ピッティシング、ナンキ・プー、ピシュタッシュ)
*15. "Here's a how-de-do" (ヤムヤム、ナンキ・プー、ココ)
*16. "Mi-ya Sa-ma" (ミカド、カティーシャ他)
*17. "A more humane Mikado" (ミカド他)
*18. "The criminal cried as he dropped him down" (ココ、ピッティシング、プーバー他)
*19. "See how the Fates their gifts allot" (ミカド、ピッティシング、プーバー、ココ、カティーシャ)
*20. "The flowers that bloom in the spring" (ナンキ・プー、ココ、ヤムヤム、ピッティシング、プーバー)
*21. "Alone, and yet alive" (カティーシャ)
*22. "Willow, tit-willow" (ココ)
*23. "There is beauty in the bellow of the blast" (カティーシャ、ココ)
*24. "For he's gone and married Yum-Yum" (合唱)


;主なアルバム
== 録音 ==
* 1926年、ドイリー・カーテ-指揮:ハリー・ノリス<ref>Shepherd, Marc. [http://www.cris.com/~oakapple/gasdisc/mik1926.htm Review of the 1926 recording], Gilbert & Sullivan Discography, accessed 6 June 2012</ref>
[http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/0/0d/Three_little_maids_Performed_by_the_dwsChorale.ogg Three little Maids from school ]
* 1936年、ドイリー・カーテ-指揮:イシドア・ゴドフリー<ref>Shepherd, Marc. [http://www.cris.com/~oakapple/gasdisc/mik1936.htm Review of the 1936 recording], Gilbert & Sullivan Discography, accessed 6 June 2012</ref>
* 1950年、ドイリー・カーテ-ニュー・プロムナード・オーケストラ、指揮:イシドア・ゴドフリー<ref>Shepherd, Marc. [http://www.cris.com/~oakapple/gasdisc/mik1950.htm Review of the 1950 recording], Gilbert & Sullivan Discography, accessed 6 June 2012</ref>
* 1957年、ドイリー・カーテ-ニュー・シンフォニー・オーケストラ・オブ・ロンドン、指揮:イシドア・ゴドフリー<ref>Shepherd, Marc. [http://www.cris.com/~oakapple/gasdisc/mik1957.htm Review of the 1957 recording], Gilbert & Sullivan Discography, accessed 6 June 2012</ref>
* 1984年、 ストラドフォード・フェスティバル-指揮:バートホールド・キャリア<ref>Shepherd, Marc. [http://www.cris.com/~oakapple/gasdisc/mikstrat.htm Review of the 1984 Stratford recording], Gilbert & Sullivan Discography, accessed 6 June 2012</ref>
* 1990年、ニュー・ドイリー・カーテ-指揮:ジョン・プライス・ジョーンズ<ref>Shepherd, Marc. [http://www.cris.com/~oakapple/gasdisc/mikndoc.htm Review of the 1990 recording], Gilbert & Sullivan Discography, accessed 6 June 2012</ref>
* 1992年、マッケラス/テラーク-ウェルシュ・ナショナル・オペラ、指揮:[[チャールズ・マッケラス]]<ref>Shepherd, Marc. [http://www.cris.com/~oakapple/gasdisc/mikmack.htm Review of the 1992 recording], Gilbert & Sullivan Discography, accessed 6 June 2012</ref>

=== 映画、ビデオ ===
『ミカド』使用曲12曲の音楽ビデオがイングランドで製作され、『''Highlights from The Mikado'' 』として出版された。初版は1906年、[[ゴーモン]]社による。第2版は1907年7月、ウォルタドー社により、ココ役はジョージ・ソーンが演じた。どちらも''[[::en:Phonoscène|Phonoscène]]'' で収録された<ref>[[::en:Rick Altman|Altman, Rick]] ''Silent Film Sound'', Columbia University Press (2005), p. 159, ISBN 978-0-231-11662-6</ref>。

1926年、ドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーは『ミカド』からの抜粋で短いプロモーション映像を製作した。ミカド役にダレル・ファンコート、ココ役にヘンリー・リットン、プーバー役にレオ・シェフィールド、ヤムヤム役にエルシー・グリフィン、カティシャ役にバーサ・ルイスなど当たり役揃いであった<ref>[http://www.cris.com/~oakapple/gasdisc/mik1926f.htm Information about the 1926 film from the G&S Discography]</ref><ref group="n">1907年、ジョージ・ソーンの『''Tit-Willow'' 』などがイギリス初の''[[::en:Phonoscène|Phonoscène]]'' として[[バッキンガム宮殿]]で上映された。</ref><ref>See Schmitt, Thomas. ''The Genealogy of Clip Culture'', in Henry Keazor and Thorsten Wübbena (eds.) ''Rewind, Play, Fast Forward: The Past, Present and Future of the Music Video'', transcript Verlag (2010), pp. 45 et seq., ISBN 978-3-8376-1185-4</ref>

1939年、[[ユニバーサル・ピクチャーズ]]が90分間の映画版『''[[::en:The Mikado (1939 film)|The Mikado]]'' 』を公開した。[[テクニカラー]]で製作され、ココ役にマーティン・グリーン、プーバー役にシドニー・グランヴィル、ナンキプー役にアメリカの歌手ケニー・ベイカー、ヤムヤムにジーン・コリーが配役された。他の主な登場人物やコーラスはドイリー・カーテのメンバーが担当した。指揮はドイリー・カーテの元音楽監督の[[ジェフリー・トイ]]が務め、プロデューサーも兼ねた。映画化に際し、音楽では多くのカットや追加、新たなシーンの追加が行われた。ヴィクター・シャージンガーが監督し、ウイリアム・V・スコールが[[アカデミー撮影賞]]にノミネートされた<ref>[http://math.boisestate.edu/GaS/museum/mikado/1938film/book/default.html Cinegram of the 1939 ''Mikado'' film containing photos, cast biographies and other information]</ref><ref>Shepherd, Marc. [http://www.cris.com/~oakapple/gasdisc/mikfilm.htm "The Technicolor ''Mikado'' Film (1939)",] ''A Gilbert and Sullivan Discography'' (2001), accessed 20 November 2009</ref>。芸術監督および衣装デザインはマーセル・ヴァーテが務めた<ref>Galbraith IV, Stuart. [http://www.dvdtalk.com/reviews/47234/mikado-the/ "The Mikado (Blu-ray)"]. DVDTalk, 27 March 2011</ref>。『''The Sun Whose Rays Are All Ablaze'' 』は窓辺でナンキプーがヤムヤムへの想いを歌う新しいシーンと、元々あったシーンの2回演奏されるなど、様々な改訂が行われた。新たなプロローグでは変装したナンキプーが追加され、第2幕の音楽は多くカットされた。

1966年、ドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーは舞台版に近い『''[[::en:The Mikado (1967 film)|The Mikado]]'' 』を製作した。1965年の[[ローレンス・オリヴィエ]]主演映画『''[[::en:Othello (1965 film)|Othello]]'' 』の監督により、『''Othello'' 』のようにスタジオよりも主に舞台上で撮影が行われた。ジョン・リード、ケネス・スタンフォード、ヴァレリー・マスターソン、フィリップ・ポッター、ドナルド・アダムス、クリステン・パルマー、ペギー・アン・ジョーンズが出演し、イシドア・ゴドフリーが指揮した<ref>[http://math.boisestate.edu/gas/mikado/docimages/docalbum8.html Photos from the 1966 film]</ref>。『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙は映像技術や演奏を批判し「出演者がそこそこよい演技をしたとしても、この『ミカド』は観るのに値しない。ただ演技だけが映り、その魅力は映らなかった」と記した<ref>Sullivan, Dan. [http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9B06E5DB1F3BE63ABC4D52DFB566838C679EDE "The Mikado (1967)"]. ''The New York Times'', 15 March 1967, accessed 22 March 2010</ref>。

1972年、''[[::en:Gilbert and Sullivan for All|Gilbert and Sullivan for All]]'' 、1982年、ブレント・ウォーカーの映像<ref>Shepherd, Marc. [http://gasdisc.oakapplepress.com/mikwalk.htm "The Brent Walker Mikado (1982)",] ''A Gilbert and Sullivan Discography'', 5 April 2009</ref>、好評を博した1984年のストラトフォード・フェスティバルおよび1986年のイングリッシュ・ナショナル・オペラ版(短編)などのビデオ収録も行われた<ref>[http://www.gsfestivals.org/shop/professional-shows "Professional Shows from the Festival"], Musical Collectibles catalogue website, accessed 15 October 2012</ref>。

== 他のプロダクション等 ==
『ミカド』を基にした児童書『''The Story of The Mikado'' 』が出版され、ギルバートの最後の著作となった<ref>Gilbert (1921), preface by [[::en:Rupert D'Oyly Carte|Rupert D'Oyly Carte]], p. vii: "But the evidence of never-failing popularity which recent revivals of the Savoy Operas have afforded suggests that this last literary work of Sir W. S. Gilbert should no longer be withheld [due to wartime shortages] from the public".</ref>。読者の年齢に合わせていくつかの変更を加え、簡潔な語り口で執筆された。例えば歌詞の「''society offenders'' 」(反社会的勢力)は「''inconvenient people'' 」(迷惑な人々)に置き換えられた。

1961年までドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーはイギリスでの『ミカド』および他のギルバート・アンド・サリヴァン作品の権利を所有していた。許可を受けたプロダクションが上演する際、音楽も台詞も変えることはできなかった。1961年以降、ギルバート・アンド・サリヴァンの作品は[[パブリックドメイン]]となり、様々なタイプの作品が出現するようになった<ref>Fishman, Stephen, ''The Public Domain: How to Find Copyright-Free Writings, Music, Art & More''. Ch. 1, § A.4.a. Nolo Press. 3rd ed. 2006.</ref>。主な作品を以下に示す:
* ''Mikado March'' (1885年) [[ジョン・フィリップ・スーザ]]作曲の行進曲。
* ''The Jazz Mikado'' (1927年) [[ベルリン]]で上演。
* ''[[::en:The Swing Mikado|The Swing Mikado]]'' 1938年、シカゴで初演され、出演者全員黒人で[[スウィング・ジャズ]]で上演された。
* ''[[::en:The Hot Mikado (1939 production)|The Hot Mikado]]'' (1939年) [[ブロードウェイ・ミュージカル|ブロードウェイ]]にて出演者全員黒人で[[ジャズ]]およびスウィングで上演された。
* ''[[::en:The Bell Telephone Hour|The Bell Telephone Hour]]''版 (1960年) マーティン・グリーン演出で、ココ役に[[グルーチョ・マルクス]]、プーバー役に[[スタンリー・ホロウェイ]]、カティシャ役にヘレン・トロウベルが配役された。
* ''[[::en:The Cool Mikado|The Cool Mikado]]'' 1962年、[[マイケル・ウィナー]]監督によるイギリスのミュージカル映画。1960年代のポップ・ミュージックを使用し、日本を舞台にしたギャングのコメディに作り替えた。
* ''[[::en:The Black Mikado|The Black Mikado]]'' (1975年) カリブ海のある島を舞台に鮮やかでセクシーな作品<ref>[http://www.cris.com/~oakapple/gasdisc/mikblack.htm ''The Black Mikado'' recording information]</ref>。
* ''Tokyo Theatre Company'' による埼玉県秩父市版<ref name="JpSoc" />
* ''Metropolitan Mikado'' ネッド・シャーリンとアリステア・ビートンによる政治風刺で1985年、ロンドンのクイーン・エリザベス・ホールで初演された。
* ''[[::en:Hot Mikado|Hot Mikado]]'' (1986年) [[ワシントンD.C.]]で初演されたジャズとスウィングによる作品で、その後度々再演されている。
* ''[[::en:Essgee Entertainment|Essgee Entertainment]]'' による、1995年の[[オーストラリア]]および[[ニュージーランド]]版<ref>[http://essgee.com/html/MIKindex.html Information about Essgee's ''Mikado'']</ref>

== ポピュラー・カルチャー ==
映画、テレビ、舞台、広告媒体などの様々なメディアにおいて、パロディや模倣が行なわれている。『ミカド』そのものや使用曲、台詞が英語圏でよく使用されている。主なものを以下に示す:

1960年、ギルバート・アンド・サリヴァンの長年のファンであるグルーチョ・マルクスはテレビ版『ミカド』にココ役で出演した。これまでココ役を演じた主な著名人は[[イングリッシュ・ナショナル・オペラ]]版『ミカド』の[[エリック・アイドル]]、ビル・オーディ、全米ツアーでの[[ダドリー・ムーア]]など。

1966年から1970年、[[サンフランシスコ]]沿岸部で少なくとも5名が殺害された[[ゾディアック事件]]において、警察への手紙に『ミカド』からの引用が使用された。

2004年、『''[[::en:VeggieTales|VeggieTales]]'' 』のエピソード『''[[::en:Sumo of the Opera|Sumo of the Opera]]'' 』で『ミカド』がパロディされ、使用曲の多くでサリヴァンがクレジットされた。

2007年、ロサンゼルスの[[アジア系アメリカ人]]による劇団''[[::en:Lodestone Theatre Ensemble|Lodestone Theatre Ensemble]]'' による『ミカド・プロジェクト』がドリス・ベイズリー、日系4世のケン・ナガサキ出演で上演された。人種差別とされた『ミカド』の修正版に取り組んでいるフィクションのアジア系アメリカ劇団が資金集めをするという前提の[[脱構築]]作品である<ref>[http://www.lodestonetheatre.org/2006Mikado.html ''The Mikado Project''], LodestoneTheatre.org, accessed 2 October 2010</ref>。2010年、チル・コン監督によりこの作品は映画化された<ref>Heymont, George. [http://www.huffingtonpost.com/george-heymont/the-mikado-project-troubl_b_851865.html "The Mikado Project (Trouble In Titipu)"], ''The Huffington Post'', 21 April 2011, accessed 14 March 2012</ref>。

1934年の[[グラディス・ミッチェル]]作の探偵小説『''Death at the Opera'' 』は『ミカド』製作過程を舞台にしている<ref>Mitchell, Gladys. ''Death at the Opera'', Grayson & Grayson (London:1934), ASIN: B0026QP6BO</ref>。

1978年の映画『[[ファール・プレイ]]』のクライマックスに『ミカド』が登場する。

1998年、テレビ番組『[[ミレニアム (テレビドラマ)|ミレニアム]]』第2シーズンのエピソード『''The Mikado'' 』でゾディアック事件が扱われている<ref>[http://millennium-thisiswhoweare.net/cmeacg/episode.php?mlm_code=213 "''Millennium'' Episode Profile of 'The Mikado'"]. Millennium-This Is Who We Are, Graham P. Smith, accessed 16 August 2010</ref>。

2010年、テレビのシットコム『[[ママと恋に落ちるまで]]』のエピソード『''[[::en:Robots Versus Wrestlers|Robots Versus Wrestlers]]'' 』で、[[マンハッタン]]のペントハウスで行われた社交パーティで、マーシャルがふざけてアンティークの[[銅鑼]]を叩く。主催者は「キミ、この鐘はウィリアム・S・ギルバートが1885年の『ミカド』初演で打って以来誰も打ったことのない500年ものの貴重品だよ」と叱る。マーシャルは「彼の妻の500年ものの貴重品はウィリアム・S・ギルバートがロンドン初演で打って以来打たれていない」と冗談を言う<ref>{{cite web| date = 2010-05-10 | author = Donna Bowman| title = How I Met Your Mother "Robots Vs. Wrestlers"| url = http://www.avclub.com/articles/robots-vs-wrestlers,41021/ | work = [[::en:The AV Club|The AV Club]] | publisher = [[::en:The Onion|The Onion]] | accessdate = 2010-05-12}}</ref>。

1880年代初頭、様々な商品の宣伝として『ミカド』の[[トレーディングカード]]が製作された<ref>{{cite web | url=http://math.boisestate.edu/GaS/mikado/advertising/coates.html | title=Mikado-themed advertising cards | publisher=The Gilbert and Sullivan Archive | year=2007| accessdate=2007-08-13}}</ref>。

デニー・オニールとデニス・コウワンによるスーパーヒーロー・コミック『''[[::en:Question (comics)|The Question]]'' 』に極悪自警団員''[[::en:The Mikado (comics)|The Mikado]]'' が登場する。日本人の仮面をかぶり、「犯人に見合った罰」として殺人を犯す<ref>''Who's Who in the DC Universe'', update 1987, vol. 4, p.8</ref>。また、1893年に日本に輸出されたアメリカ製機関車''[[::en:2-8-2|2-8-2]]'' の名前も登場する。

1888年、エド・J・スミスは舞台版パロディ『''The Capitalist; or, The City of [[::en:Fort Worth|Fort Worth.]]'' 』を執筆した。2幕物で[[テキサス州]][[フォートワース]]での地元銀行と鉄道による投資支援を描き、登場人物の名はヤンキー・ドゥ、ココナッツ、バイ・ガム、ピーカブーである<ref>Smith, Ed. [http://digitalcollections.baylor.edu/cdm/ref/collection/07texas-pro/id/1002 "The Capitalist; or, The City of Fort Worth (The Texas Mikado)''"], Baylor University Libraries Digital Collections, accessed 9 November 2012</ref>。

=== 台詞からの引用 ===
第1幕の曲『''I am so proud'' 』の歌詞「''A [[::en:short, sharp shock|short, sharp shock]]'' 」(一時的な厳しい罰)のフレーズは様々な書籍や曲に使われるようになった。[[ピンク・フロイド]]のアルバム『[[狂気 (アルバム)|狂気]]』の曲や、政治の声明で最もよく知られている。第2幕の曲の歌詞「''Let the punishment fit the crime'' 」(犯人に見合った罰を与える)はギルバートが作成するずっと前から似たような言葉は存在しており、このコンセプトはしばしば使用され、特にイギリス政治のディベートで言及される<ref name=Green>Green, Edward. [http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/3634126.stm "Ballads,songs and speeches",] ''BBC News'', 20 September 2004, accessed 30 September 2009</ref><ref>[http://keithwiley.com/mindRamblings/deathPenalty.shtml Keith Wiley webpage], referring to the Code of [[::en:Hammurabi|Hammurabi]]</ref>。例えばテレビ・シリーズ『[[私立探偵マグナム]]』第80話『''Let the Punishment Fit the Crime'' 』。ヒギンズは邸宅で披露する、『ミカド』の曲の指揮の準備をする。このエピソードでは『''Three Little Maids From School'' 』など『ミカド』の使用曲からいくつかの曲が登場する<ref>See [[::en:List of Magnum, P.I. episodes|Wikipedia List of Magnum, P.I. episodes]] and [http://www.tv.com/magnum-p.i./let-the-punishment-fit-the-crime/episode/16074/summary.html TV.com Magnum, P.I. Episode Guide]</ref>。『''[[::en:Dad's Army|Dad's Army]]'' 』のエピソード『''A Soldier's Farewell'' 』でも『ミカド』の台詞や曲が登場する。1961年の映画『[[罠にかかったパパとママ]]』ではキャンプのリーダーが、双子を離れのキャビンに行かせる前に『ミカド』から引用したフレーズを語る。

プーバーの名は英語で、多くの役職を兼ね横柄で尊大ぶった人物を表す言葉として「''pooh-bah'' 」が使われるようになった<ref>[http://dictionary.oed.com/cgi/display/50183954?keytype=ref&ijkey=NXEOzwtdBgGCI "Pooh Bah"] at the ''Oxford English Dictionary'', accessed 7 December 2009 (subscription required)</ref>。[[P・G・ウッドハウス]]の小説『''[[::en:Something Fresh|Something Fresh]]'' 』でも多くの役職を兼ねている人物がプーバーと呼ばれている<ref group="n">他にラブ・バトラーの伝記でも政界での役職を兼任していた頃を「プーバー時代」と呼んだ。</ref>。2009年12月、BBCの『''Radio 4's Today'' 』の司会者であるジェイムス・ナウティは''Secretary of State for Business, First Secretary of State, Lord President of the Council, President of the Board of Trade, and Church Commissioner'' などの州の役職、35の閣内委員会や分科委員会に就いているイギリスの政治家[[ピーター・マンデルソン]]にプーバーを重ねた。マンデルソンはプーバーを知らなかったが、『[[デイリー・テレグラフ]]』の劇場評論家のチャールズ・スペンサーは彼を「英国政界の偉大なるプーバー」と表した<ref>Beckford, Martin. [http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/politics/labour/6719480/Lord-Mandelson-likened-to-Pooh-Bah-Lord-High-Everything-Else-in-The-Mikado.html "Lord Mandelson likened to Pooh-Bah, Lord High Everything Else in ''The Mikado''",] ''The Daily Telegraph'', 3 December 2009</ref>。アメリカでは特に、肩書だけは尊大だが権限に限りがある者のことを「プーバー」を呼ぶ<ref name="mikado">{{cite web| url = http://www.merriam-webster.com/dictionary/pooh-bah| title = pooh-bah – Definition| accessdate = 2009-06-14| work = Merriam-Webster Online Dictionary | publisher = Merriam-Webster Online}}</ref>。「グランド・プーバー」という言葉は『[[原始家族フリントストーン]]』、『[[ハッピーデイズ (テレビドラマ)|ハッピー・デイズ]]』などのテレビ番組や他のメディアで、[[フリーメイソン]]、シュライナー、エルクス・クラブなどでの高い地位の者を表している<ref>[http://freemasonry.bcy.ca/fiction/fraternities/buffaloes.html "Loyal Order of Water Buffaloes"], Grand Lodge Freemasonry site, 8 April 2004, accessed 14 September 2009. See also {{cite web| url = http://kol.coldfront.net/thekolwiki/index.php/The_Grand_Poo-Bah| title = The Grand Poo-Bah| accessdate = 5 May 2010| work = The KoL Wiki | publisher = Coldfront L.L.C}}</ref>。

=== 曲の引用 ===
上記の台詞の引用に加え、政治家はしばしば『ミカド』使用曲のフレーズをしばしば引用する。保守派のピーター・ライリーは抗議の際「『''Little List'' 』がある」として「''sponging socialists'' 」、「''young ladies who get pregnant just to jump the housing queue'' 」などと語った<ref name=Green/>。

『ミカド』使用曲の多くがブロードウエイ作品、映画、コメディ、アルバム、テレビ番組で使用されている。例えば1968年の映画『[[プロデューサーズ]]』では、劇中のミュージカル『''Springtime for Hitler'' 』のオーディション参加者がナンキプーの曲『''A wand'ring minstrel I'' 』で受験するが、すぐに落選する。1966年の『[[バットマン]]』のエピソード『''The Minstrel's Shakedown'' 』で悪役が『''A wand'ring minstrel I'' 』を歌い、自身が''The Minstrel'' (ミンストレル)であることに気付く。『[[ドラ猫大将]]』のエピソード『''All That Jazz'' 』でディビィ警官がトップ・キャットにその美声を聞かせるようリクエストされて『''A wand'ring minstrel I'' 』を歌う。2006年の映画『[[BRICK ブリック]]』で魔性の女ローラ(ノラ・ゼヘットナー)がピアノを弾きながら『''The Sun Whose Rays are All Ablaze'' 』を語り口調で演奏する。『''[[::en:Blackadder Goes Forth|Blackadder Goes Forth]]'' 』第1話の冒頭で『''A Wand'ring Minstrel I'' 』が蓄音機から流れ、エピソード『''Speckled Jim'' 』では''Captain Blackadder'' が一節を口ずさむ。映画『[[リトル・ショップ・オブ・ホラーズ]]』のポスターには「''The Flowers that Bloom in the Spring, Tra la!'' 」の「''bloom'' 」を「''kill'' 」に変えた一文が掲載されている<ref>Stone, Martin. [http://mondomusicals.blogspot.com/2008/02/little-shop-of-horrors-screen-to-stage.html "Little Shop of Horrors&nbsp;– Screen to Stage"]. Mondo Musicals! 14 February 2008, accessed 6 April 2010</ref>。リチャード・トンプソンとジュディス・オウエンはアルバム『''[[::en:1000 Years of Popular Music|1000 Years of Popular Music]]'' 』に『''There Is Beauty in the Bellow of the Blast'' 』を収録している。トンプソンは「オペラ協会によると、最後に若者が結婚するだけでなく、少なくとも1組の老カップルも結婚する」と語った<ref>{{Cite web |url=http://www.richardthompson-music.com/song_o_matic.asp?id=436 |title=Song-o-matic – There is Beauty |accessdate=2011-01-15 |work=BeesWeb – the official site of Richard Thompson}}</ref>。

1981年の映画『[[炎のランナー]]』でハロルド・エイブラハムズが''Three Little Maids'' の1人の服装をしている未来の妻に初めて会った時に『''Three Little Maids'' 』が流れる。『[[チアーズ (テレビドラマ)|チアーズ]]』のフレイジャー・クレインと[[ジョン・クリーズ]](これにより[[エミー賞]]受賞)によるエピソード『''Simon Says'' 』、スピンオフ『[[そりゃないぜ!? フレイジャー]]』のエピソード『''Leapin' Lizards'' 』、『[[エンジェル (テレビドラマ)|エンジェル]]』のエピソード『''Hole in the World'' 』、『[[ザ・シンプソンズ]]』のエピソード『''[[::en:Cape Feare|Cape Feare]]'' 』<ref>Jean, Al. (2004). Commentary for "Cape Feare", in ''The Simpsons: The Complete Fifth Season'' [DVD]. 20th Century Fox</ref>、『''[[::en:Alvin and the Chipmunks (TV series)|Alvin and the Chipmunks]]'' 』の1984年のエピソード『''Maids in Japan'' 』<ref>[http://www.dvdizzy.com/alvinandthechipmunks-alvinnn.html "Alvin and the Chipmunks:The ALVINNN!!! Edition - 2-Disc Collector's Set DVD Review"], dvdizzy.com, accessed 21 April 2012</ref>、『[[スイートライフ]]』のエピソード『''Lost In Translation'' 』、『[[アニマニアックス]]Vol. 1』のエピソード『''Hello Nice Warners'' 』など多くのテレビ番組でこの曲が使用されている。アメリカの政治風刺グループ''[[::en:Capitol Steps|Capitol Steps]]'' は『''Three Little Kurds from School Are We'' 』として[[イラク]]情勢を風刺した。1963年、テレビ番組『''[[::en:The Dinah Shore Chevy Show|Dinah Shore Show]]'' 』で[[ダイナ・ショア]]が[[ジョーン・サザーランド]]と[[エラ・フィッツジェラルド]]と共に『''Three Little Maids'' 』を歌った<ref>[http://www.tv.com/shows/the-dinah-shore-chevy-show/march-17-1963-980728/ "''The Dinah Shore Chevy Show'', March 17, 1963 (Season 7, episode 7)"], TV.com, accessed 21 April 2012</ref>。

アラン・シャーマンによる、悲しい最期を遂げる美声で歌う[[イディッシュ語]]訛りの鳥についてのコミック・ソング『''The Bronx Bird Watcher'' 』などで『''Tit-Willow'' (''On a tree by a river'' )』が引用されている<ref>Sherman, Allan. ''[[::en:My Son, the Celebrity|My Son, the Celebrity]]'' (1963) [[Warner Bros. Records]]</ref>。『ディック・キャヴェット・ショー』でグルーチョ・マルクスとキャヴェットが『''Tit-Willow'' (''On a tree by a river'' )』を歌った。グルーチョは曲の途中で「''obdurate'' 」(冷酷な)という言葉の意味を観客に尋ねた。1976年11月22日放送の『[[マペット・ショー]]』第1シーズンで犬のロルフと鷲のサムが『''Tit-Willow'' (''On a tree by a river'' )』を歌った。映画『''[[::en:Whoever Slew Auntie Roo?|Whoever Slew Auntie Roo?]]'' 』で''Auntie Roo'' ([[シェリー・ウィンタース]])が殺される直前に『''Tit-Willow'' (''On a tree by a river'' )』を歌う<ref>Shimon, Darius Drewe. [http://www.britmovie.co.uk/2009/12/21/whoever-slew-auntie-roo-1971/ "Whoever Slew Auntie Roo? (1971)"], Britmovie.co.uk, 21 December 2009</ref>。1976年、[[ジョン・ウェイン]]最後の映画『[[ラスト・シューティスト]]』でJ・B・ブックス(ウェイン)が癌ではなく銃撃戦で亡くなる直前、ロジャース夫人([[ローレン・バコール]])と共に『''Tit-Willow'' 』の一節を歌う<ref>[http://www.imdb.com/title/tt0075213/soundtrack Soundtrack for ''The Shootist''], Internet Movie Database</ref>。

シャーマンはまた精神科医の助けを必要とするある人物の理由を語る『''You Need an Analyst'' 』に『''Little List'' 』を引用している<ref>Sherman, Allan. ''[[::en:Allan in Wonderland|Allan in Wonderland]]'' (1964) Warner Bros. Records</ref>。子供向けテレビ番組『''[[::en:Eureeka's Castle|Eureeka's Castle]]'' 』のクリスマス・スペシャル『''Just Put it on the List'' 』で双子のボグとカグマイアはこの曲に乗せてクリスマスに何が欲しいかを語る。2008年、リチャード・スチュアートとA.S.H.スミスは『ミカド』の歴史と、イングリッシュ・ナショナル・オペラでココ役を演じてきたスチュアートによる『''Little List'' 』の20年間のパロディを掲載した書籍『''They'd none of 'em be missed'' 』を出版した<ref>[http://www.pallasathene.co.uk/ Suart, Richard and Smyth, A.S.H. ''They’d none of ‘em be missed'',] (2008) Pallas Athene. ISBN 978-1-84368-036-9.</ref>。[[ロバート・A・ハインライン]]の[[ヒューゴー賞]]受賞作『[[異星の客]]』でヴァレンタイン・マイケル・スミスの物体(人間を含む)を消す力を発見したジュバル・ハーショーは「''I've got a little list... they'd none of them be missed.'' 」(私は''Little List'' を手に入れた。またとないものだ)と呟く。

テレビ・ドラマ『''[[::en:Endeavour (TV series)|Endeavour]]'' 』第1シーズン第2話『''Fugue'' 』、2013年4月21日に放送開始した[[英国放送協会|BBC]]『''[[::en:Inspector Morse (TV series)|Inspector Morse]]'' 』でも『''List song'' 』が重要な役割を担っている。
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== 備考 ==
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戦後の演出では登場人物たちが背広に眼鏡といった、[[ステレオタイプ]]の「日本人サラリーマンの格好」をしている舞台もある。舞台衣装に使われた色は[[ミカドイエロー]]と呼ばるようになった。
戦後の演出では登場人物たちが背広に眼鏡といった、[[ステレオタイプ]]の「日本人サラリーマンの格好」をしている舞台もある。舞台衣装に使われた色は[[ミカドイエロー]]と呼ばるようになった。


== 脚注 ==
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;註釈
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;出典
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2015年1月21日 (水) 11:40時点における版

「ミカド」のポスター。ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹が描かれている。

ミカド (The Mikado; or, The Town of Titipu ) は、ウィリアム・S・ギルバート脚本、アーサー・サリヴァン作曲による二幕物の喜歌劇(オペレッタ)作品。ギルバート・アンド・サリヴァンの14作品のうち9作品目であった。1885年3月14日にイギリスロンドンにあるサヴォイ劇場で初演されて672回上演し、当時の歌劇史上2番目の上演回数を誇り、舞台作品の中でもロングラン作品の1つとなった[1][n 1]。1885年の終演までにヨーロッパやアメリカで少なくとも150カンパニーが上演した[2]。現在もサヴォイ劇場でしばしば上演されているだけでなく、アマチュア劇団や学校演劇でも演じられている。様々な言語に翻訳され、歌劇史上最も多く上演される作品の1つとなっている。

概要

当時、ロンドンのナイツブリッジ日本展が人気を博し、イギリスでは空前の日本ブームが起きていた。『ミカド』はこのブームに乗じた一種のジャポニスムまたはオリエンタリズムである。

当時の英国の世相、わけても上流階級や支配階級に対する辛辣な風刺を含む一方で、作品の舞台を英国からできるだけ遠い「未知の国・日本」に設定することで、「これは遠い国の話で英国とは関係ない」として批判をかわそうとしている。ギルバートは『ミカド』の他、よりソフトではあるが『[[::en:Princess Ida|Princess Ida]] 』、『[[::en:The Gondoliers|The Gondoliers]] 』、『[[::en:Utopia, Limited|Utopia, Limited]] 』、『[[::en:The Grand Duke|The Grand Duke]] 』でも風刺を行なっている。

経緯

1895年頃のヴォーカル・スコア表紙

ギルバート・アンド・サリヴァンはサヴォイ・オペラのスタンダードである9ヶ月続いたオペラ『Princess Ida 』の直後に『ミカド』を作成した[3]。1884年の『Princess Ida 』が1877年以降の彼らの作品の中で初めてチケット売り上げが振るわず、興行主のリチャード・ドイリー・カーテはたとえ打ち切ったとしても彼らの新作がまだできていないことが気になった。1884年3月22日、カーテはギルバート・アンド・サリヴァンに6ヶ月以内に新作を製作させる契約を結んだ[4]。1883年12月、サリヴァンの親友で指揮者のフレデリック・クレイは重度の脳卒中を患い、キャリアに影響が出ていた。また自分の不安定な健康も影響して、よりシリアスな音楽の製作に専念するようになり、サリヴァンはカーテに「これまでのような作品を製作することはもうできない」と告げた[5][6]。この時ギルバートはすでに、魔法の飴を舐めると意志に反して恋に落ちるという新作の脚本に取り掛かっており、サリヴァンの躊躇を聞いて驚いた。彼はサリヴァンに考え直すよう手紙を書いたが、1884年4月2日、「(オペラ製作への)意欲は尽きた」と返事が来た:

...理由は一言では言い表せないが音楽への意欲が減退してきている....(シリアスでなく)ユーモラスな状況でなければユーモラスな言葉は出てこない。ドラマティックな状況であれば、それに似たキャラクターになるだろう[7]

サリヴァンはギルバートのこの新作には関わることができず、ギルバートはひどく落胆した。さらにこの新作は1877年に彼らが製作したオペラ『[[::en:The Sorcerer|The Sorcerer]] 』に似過ぎていた。サリヴァンはロンドンへ戻り、ギルバートはこの新作を書き直したが、サリヴァンを納得させることはできなかった。行き詰まり、ギルバートは「7年間の音楽、脚本の共同製作-そして高い評判-、金銭的不公平、不快で不調和からくるこれまでの状態も終わりが来た[8]。」と愚痴を記した。1884年5月8日、ギルバートは譲歩し、「もし超常現象を取り入れなければきみはまた共に作業してくれるかい。時代遅れでなく、矛盾のない筋で、私の可能な限り誠実に製作するつもりだ」[9]。平行線は終わりを見せ、5月20日、ギルバートはサリヴァンに『ミカド』のあらすじを送った[9]。結局『ミカド』上演まで10ヶ月かかった。サヴォイ劇場にて1877年の『The Sorcerer 』の再演版が一幕物の『[[::en:Trial by Jury|Trial by Jury]] 』(1875年)と共に新作初演までの繋ぎとして上演された。1892年、ギルバートは前述の「魔法の飴」の話をアルフレッド・セリアと共に『[[::en:The Mountebanks (opera)|The Mountebanks]] 』として発表した。

ウィリアム・S・ギルバートが撮影した日本村[10]

1914年、セリアとブリッジマンはギルバートがいかに着想を得たかを記録した:

故郷を1人で離れる決心をしたギルバートは、彼の風変わりなユーモア・センスに合うものを探していた。小さな出来事が彼にアイデアを与えた。ある日、書斎の壁に長年飾ってあった古い日本刀が落ちた。これにより彼の日本への興味が沸き上がった。ちょうどその時、日系企業がイングランドに到着し、ナイツブリッジに小さな村を作るところであった[11]

この話は魅力的ではるが、大方作り話とみられている[12]。ギルバートは『ミカド』への着想について2回インタビューで答えている。どちらのインタビューでも日本刀について語っているが、2回共落ちたことには言及していない。さらにセリアとブリッジマンの誤解はナイツブリッジでの日本展である日本村にもあり[10]、この展示はギルバートが第1幕を仕上げた約2ヶ月後の1885年1月10日に開幕したのである[12][13]。ギルバートの学生のブライアン・ジョーンズは彼の記事『刀は落ちていない』で、「彼がこの出来事から着想を得たのは取り消された」と記した[14]。1952年、レスリー・ベイリーは以下のように語った:

ハリントン・ガーデンズの新居の書斎でギルバートがうろうろして回った翌日または翌々日、大きな日本刀が音を立てて壁から落ちた時、行き詰まりに立腹していた。ギルバートはそれを拾い上げた。彼は立ち止まった。彼が後に語ったように「大きなアイデアが浮かんできた」。いつもすぐに主題を掴む彼のジャーナリスト的な考えから、近所で日本の展示が最近開幕したことを思い出した。ギルバートはナイツブリッジの町中をエキゾチックな服装で往来している日本人の男女を見かけていた。現在彼は机に向かい、羽ペンを使って執筆している。彼はあらすじを書き留め始めた[15]

1999年の映画『トプシー・ターヴィー』ではこの出来事をドラマティックに描いている[16]。しかしたとえ1885年から1887年の日本展がギルバートの『ミカド』着想前の開幕でなくとも、日本とヨーロッパの貿易がこの数十年で上昇し、1860年代から1870年代にかけてイギリスではジャポニズムが流行ったことは事実である。このことで日本を舞台にしたオペラ作品が作り上げられたのだ[17]。ギルバートは報道関係者に「あなたが期待する、日本を舞台にした作品を作った理由を話すことはできない。魅力あるあらすじ、風景、衣装に価値があり、虫も殺せぬ死刑執行人などが観衆を喜ばせると思う」と語った[18][19]

1885年の『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙のインタビューでギルバートはレオノラ・ブレアム、ジェシー・ボンド、シビル・グレイについてオペラ『[[::en:Three Little Maids|Three Little Maids]] 』のような「日本人女学生3人組」であると語った。日本村でお茶を出した若い日本人女性がリハーサルに来て3人に日本舞踊を教えたことも明かした[19]。1885年2月12日、『ミカド』開幕1ヶ月前の『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』には日本村の開幕と「three little maids による優雅な素晴らしいダンス」との記載がある[20]。タイトル・キャラクターであるミカドは第2幕にしか出てこない。ギルバートは、サリヴァンと共に第2幕のミカドの出演シーンをカットしてソロ1曲としたが、カンパニーのメンバーとリハーサルにいた人々が「一団となってやってきて、私たちに戻すように訴えた」と語った[19]

登場人物

  • ミカド(): (バス、バス・バリトン) 日本を支配している一番偉い人。彼の好き嫌いがそのまま法律である。
  • ナンキ・プー: (テノール) 流しの旅芸人に変装している皇太子でヤムヤムに恋する。
  • ココ: (バリトン) 元来は身分の低い仕立て屋。後にティティプーの死刑執行大臣 (Lord High Executioner of Titipu) 。ヤムヤムの後見人かつ婚約者。
  • プーバー: (バリトン) ココより位の高い者。死刑執行以外の全ての大臣 (Lord High Everything Else) 。
  • ピシュ・タッシュ: (バリトン[n 2]) プーバーより位の高い貴族
  • ゴー・トゥ: (バス[n 2]) 貴族
  • ヤムヤム: (ソプラノ) ティティプーに住んでいる美しい娘。ココ被後見人かつ婚約者。
  • ピッティ・シング: (メゾソプラノ) ヤムヤムの姉妹。ココの被後見人。
  • ピープ・ボー: (ソプラノ、メゾソプラノ) ヤムヤムの姉妹。ココの被後見人。
  • カティーシャ: (コントラルト) ナンキ・プーの婚約者で年増の醜女。帝の義理の娘になることに野心を燃やす。
  • その他(コーラスの女学生、貴族、警備員、苦力)

劇中の固有名詞

登場人物の名には日本語と無関係な、あたかも中国東南アジア固有名詞を想起させる英語幼児語を用いている。

「ティティプー」について

物語の舞台「日本の首都ティティプー」は日本語話者が聞くといかにも架空の街という響きであるが、秩父(チチブ)のことではないかとする見方もある。

秩父説の根拠としては、初演の前年に秩父事件が英国の新聞でも報道されていたこと、また、事件の前後にも秩父の名は製品の輸出で西ヨーロッパに知られていたことが挙げられる。今日秩父のローマ字表記はヘボン式のChichibuが一般的であるが、19世紀の日本では日本式ローマ字を用いたTitibuの綴りが一般的だった。これが転じてTitipuとなったとも見ることが出来る。秩父説の伝播には、日本では1987年昭和62年)に刊行された猪瀬直樹の著書『ミカドの肖像』と永六輔のラジオ番組が一役買ったようである。

ちなみに、第二次世界大戦前の日本最大の豪華客船「秩父丸」(日本郵船、17,498gt)は、1930年の竣工当初 Chichibu Maru と称し、1938年にTitibu Maruにローマ字表記を改めたが[21]、titがアメリカのスラング乳首を表す言葉だということでこれを忌避し、翌1939年に鎌倉丸に改名した経緯を持つ。

ストーリー

日本の都ティティプーの死刑執行大臣ココの屋敷に一人の見知らぬ旅芸人がやってきた。彼の名はナンキ・プー。身分を隠しているが、実は日本の若くハンサムな皇太子である。彼は父の帝(みかど)が決めた年増で醜女のカティーシャとの結婚から逃れるため、家出して流しの旅芸人に身をやつしていたのだった。そこで皇太子は美しい娘ヤムヤムと出会い恋に落ちる。しかし、ヤムヤムは彼女の後見人であるココと婚約していることを知り、大いに落胆する。ココはもともと服の仕立て屋で身分が低かったのだが、貴族のピシュ・タッシュへの賄賂が功を奏し死刑執行大臣に昇進したばかりであった。

ここで事件が起きる。ココとヤムヤムが「いちゃつきの罪」で死刑を宣告されてしまう。しかしココは自身が死刑執行大臣であるため死刑執行は不可能である。この法律は代わりに死刑になる者が見つかれば助かるというものであった。そんな折、皇太子ナンキ・プーはあの美しいヤムヤムが死刑になると聞き、絶望のあまり自殺を考える。それを聞いたココは、しめたとばかりにナンキ・プーに死刑の代役を依頼する。ナンキ・プーが死刑の代役を引き受ければヤムヤムは命が助かるが、それでは同時にココも助かってしまう。そうなるとナンキ・プーとしては、自分の死後に二人が結婚するのが面白くない。そこでナンキ・プーはココに条件を一つ出す。「1ヶ月間はヤムヤムを自分の花嫁にすること」という条件である。ココは自分が助かるので大喜びで受諾する。

悲劇のヒロインとなったヤムヤムだが気を取り直し、ナンキ・プーとの1ヶ月間の新婚生活を徹底的に楽しむことにする。しかしその矢先、帝の定めた法律では「夫が死刑になった場合は妻は生きたまま埋葬される」という条項があることを知る。それだけは御免こうむりたいヤムヤムはナンキ・プーとの結婚に躊躇する。

一方、帝は近ごろ死刑執行が少ないと怒り、早く死刑を執行するようココ大臣に命じる。そこにナンキ・プーの許婚であるカティーシャが彼を追ってやってくる。カティーシャは死刑名簿の中にナンキ・プーの名前を見つけたので止めに入る。しかしヤムヤムとの色恋沙汰を知り憤慨したカティーシャは、今度は逆にナンキ・プーを死刑にしようと画策するが、ティティプーの民衆から追い出されてしまう。

プーバーとココは死刑をするのがいやなので、「既にナンキ・プーを死刑に処した」と嘘をつくことにした。そこへ帝がティティプーの街を来訪。ココ、プーバー、ピッティ・シングの三人は死刑執行の話をでっちあげて帝を納得させる。カティーシャから皇太子が街に来ていると聞いていた帝は皆に尋ねる。その皇太子の名がナンキ・プーであることを初めて知り、民衆は驚く。皇太子が死刑になったと聞いた帝は怒り心頭に発し、ティティプー市民全員を死刑にすると宣告する。街はパニックと化す。

ココはナンキ・プーに1ヶ月後に死ぬのはやめてほしいと頼む。しかしナンキ・プーはカティーシャと結婚するのがいやなので、生きることを躊躇する。するとピッティ・シングがココとカティーシャとの結婚を提案する。ココ以外が全員賛成する。しかしその後ココもカティーシャを好きになる。ココは帝にナンキ・プーの生存を報告し、自分とカティーシャの結婚のお伺いを立てて許可される。めでたし、めでたしのハッピーエンディング。

楽曲

  • 序曲(『Mi-ya Sa-ma 』、『The Sun Whose Rays Are All Ablaze 』、『There is Beauty in the Bellow of the Blast 』、『Braid the Raven Hair 』、『With Aspect Stern and Gloomy Stride 』を含む)

第1幕

  • 1. If you want to know who we are (男性コーラス)
  • 2. A Wand'ring Minstrel I (ナンキ・プー、男性達)
  • 3. Our Great Mikado, virtuous man (ピシュタッシュ、男性達)
  • 4. Young man, despair (プーバー、ナンキ・プー、ピシュタッシュ)
  • 4a. And I have journeyed for a month (レチタティーヴォ)(プーバー、ナンキ・プー)
  • 5. Behold the Lord High Executioner (ココ、男性達)
  • 5a. As some day it may happen (I've Got a Little List) (ココ、男性達)
  • 6. Comes a train of little ladies (少女達)
  • 7. Three little maids from school are we (ヤムヤム、ピーボー、ピッティシング、少女達)
  • 8. So please you, Sir, we much regret (ヤムヤム、ピーボー、ピッティシング、プーバー、少女達)[n 3]
  • 9. Were you not to Ko-Ko plighted (ヤムヤム、ナンキ・プー)
  • 10. I am so proud (プーバー、ココ、ピシュタッシュ)
  • 11. 第1幕フィナーレ (アンサンブル)
    • With aspect stern and gloomy stride
    • The threatened cloud has passed away
    • Your revels cease! ... Oh fool, that fleest my hallowed joys!
    • For he's going to marry Yum-Yum
    • The hour of gladness ... O ni! bikkuri shakkuri to!
    • Ye torrents roar!

第2幕

  • 12. Braid the raven hair (ピッティシング、少女達)
  • 13. The sun whose rays are all ablaze (ヤムヤム)(当初は第1幕の曲であったが、開幕直後に第2幕に移動された)
  • 14. Brightly dawns our wedding day (マドリガーレ) (ヤムヤム、ピッティシング、ナンキ・プー、ピシュタッシュ)
  • 15. Here's a how-de-do (ヤムヤム、ナンキ・プー、ココ)
  • 16. Mi-ya Sa-ma[22] From every kind of man obedience I expect (ミカド、カティーシャ、コーラス)
  • 17. A more humane Mikado (ミカド、コーラス) (カットされそうになったが、開幕直前に復活した[要出典])
  • 18. The criminal cried as he dropped him down (ココ、ピッティシング、プーバー、コーラス)
  • 19. See how the Fates their gifts allot (ミカド、ピッティシング、プーバー、ココ、カティーシャ)
  • 20. The flowers that bloom in the spring (ナンキ・プー、ココ、ヤムヤム、ピッティシング、プーバー)
  • 21. Alone, and yet alive (レチタティーヴォ)(カティーシャ)
  • 22. On a tree by a river (Willow, tit-willow ) (ココ)
  • 23. There is beauty in the bellow of the blast (カティーシャ、ココ)
  • 24. 第2幕フィナーレ (アンサンブル)
    • For he's gone and married Yum-Yum
    • The threatened cloud has passed away

プロダクション

『ミカド』はサヴォイ・オペラの中で初演時に最も長く上演され、また最速で再演が決まった作品である。ギルバート・アンド・サリヴァンの次の作品『[[::en:Ruddigore|Ruddigore]] 』は比較的早く閉幕し、『[[::en:The Yeomen of the Guard|The Yeomen of the Guard]] 』が公開されるまで3作品の再演が行なわれ、うち『ミカド』は閉演後たった17ヶ月での再演となった。1891年9月4日、ドイリー・カーテのツアーCカンパニーはバルモラル城にて[[::en:Royal Command Performance|Royal Command Performance]] としてヴィクトリア女王や王室の人々の前で『ミカド』を上演した[23]

[[::en:The Grand Duke|The Grand Duke]] 』準備中、『ミカド』はまた再演された。『The Grand Duke 』の不成功が確実となったため昼の部に『ミカド』が上演されることになり、3ヶ月後に『The Grand Duke 』が閉幕した後も『ミカド』再演は続いた。1906年から1907年の1年間、リチャード・ドイリー・カーテを亡くした妻のヘレン・カーテはサヴォイのレパートリーを上演したが、日本の皇室関係者が『ミカド』を鑑賞することを念頭に置き、レパートリーとしての上演はしなかった。しかし1908年から1909年の、ヘレンにとっての2度目のレパートリーには『ミカド』が含まれた。1926年、チャールズ・リケッツにより新しい衣装がデザインされ、1982年までこの衣装が使用された[24]

1885年7月27日、ブライトンで『ミカド』の地方公演が初めて行われ、8月にニューヨークでの初の公式アメリカ・プロダクション上演のためにうち数名が渡米した。それ以降『ミカド』はツアー公演を定期的に行なっていた。1885年からカンパニー解散の1982年までドイリー・カーテは『ミカド』を毎年上演した。

1885年8月にアメリカでドイリー・カーテの公式上演が行なわれたが、非公式で『ミカド』を初上演した[[::en:H.M.S. Pinafore|H.M.S. Pinafore]] は成功を収めて記録的利益を上げ、カーテはいくつかのカンパニーを編成して北米ツアー公演を行なった[25]。バーレスクや政治的パロディを含むパロディ・プロダクションも上演を行なった[26]。当時上演権が存在しなかったことからPinafore 同様の約150の非公式版が登場したがカーテもギルバート・アンド・サリヴァンも何も対策することができなかった[2][27]。1885年11月14日からオーストラリアのシドニーでJ.C.ウリアムソン演出による公式公演が上演された。1886年、カーテは5つのカンパニーを編成して北米で『ミカド』ツアー公演を上演した[28]

1886年と1887年にもカーテはドイツなどヨーロッパでツアー公演を行なった[29]。1886年9月、ウィーンの批評家エドゥアルト・ハンスリックは『ミカド』の「類まれなる成功」は脚本や音楽だけでなく「ドイリー・カーテのアーティストたちによるオリジナルのステージ、ユニークさに起因し、エキゾチックな魅力に目と耳が引き寄せられる」と記した[30]。フランス、オランダ、ハンガリー、スペイン、ベルギー、スカンジナビア、ロシアなどでも公式プロダクションによる上演が行なわれた。1880年代から英語圏を中心に、多くのアマチュア・プロダクションが上演を行なっている[31][32]第一次世界大戦中、ドイツの[[::en:Ruhleben internment camp|Ruhleben internment camp]] でも上演された[33]

1962年にギルバートの権利が消滅すると、イングランドでドイリー・カーテ以外のプロのプロダクションで初めて、クライヴ・レヴィルがココ役でサドラーズ・ウェルズ・オペラが上演した。それ以降多くのプロのカンパニーが上演しており、1986年にはココ役にエリック・アイドル、ヤムヤム役にレスリー・ギャレットが配役され、ジョナサン・ミラーの演出でイングリッシュ・ナショナル・オペラが上演した。何度も再演しているこのプロダクションは昔の日本ではなく、白と黒の衣装を用いて1920年代の海岸の高級ホテルを舞台にしている。1963年、1982年から1984年、1993年、カナダのストラトフォード・フェスティバルで『ミカド』が何度も上演されている[34]

ギルバート存命中のドイリー・カーテの上演史を以下に示す:

劇場 開幕日 閉幕日 上演回数 詳細
サヴォイ・シアター 1885年3月14日 1887年1月19日 672 ロンドン初演
ニューヨークの五番通り劇場およびスタンダード劇場 1885年8月19日 1886年4月17日 250 公式アメリカ・プロダクション。1886年2月にスタンダート劇場で上演した以外は五番通り劇場で上演。
ニューヨークの五番通り劇場 1886年11月1日 1886年11月20日 3週間 ジョン・ステソンのマネージメントのもと、ドイリー・カーテの一部が参加したプロダクション。
サヴォイ・シアター 1888年6月7日 1888年9月29日 116 ロンドン第1回再演
サヴォイ・シアター 1895年11月6日 1896年3月4日 127 ロンドン第2回再演
サヴォイ・シアター 1896年5月27日 1896年7月4日 6 The Grand Duke 』の昼公演の振替
サヴォイ・シアター 1896年7月11日 1897年2月17日 226 The Grand Duke 』の早期閉幕後の振替再演
サヴォイ・シアター 1908年4月28日 1909年3月27日 142 レパートリー・シーズン2回目の6作のうちの1つ。閉幕日はシーズン最終日を示す。

分析

舞台となった日本

オペラ『ミカド』は天皇を表すミカド(御門、帝、みかど)から名付けられた。文字通りの意味では皇居の「高潔な門」を意味し、隠喩的にその居住者および皇居そのものを表す。19世紀、英語圏でも「ミカド」という言葉は標準的に使用されたが、徐々に使われなくなっていった[35]。オペラで日本の文化、様式、政治を描く限界があり、1880年代にイギリス人が魅了された極東および日本へ向けたジャポニズムに乗じて美しい舞台を使用したフィクションの世界の日本である[17]。ギルバートは「オペラのミカドは昔の想像上の皇帝で、既存の機関に属するものではない」と記した[36]。「『ミカド』は実際の日本を描いたものではなく、イギリス政府の欠点を描いたものである」[37]

海外に舞台を設定することにより、ギルバートはイギリス機関をより鋭く批判できると考えた[38]ギルバート・ケイス・チェスタートンジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』と比較し、「ギルバートはスウィフトがやったように文字通り立ち上がれなくなるほどに現代のイングランドの欠点を追及した。劇中のジョークが1つでも日本に合うかどうかはわからないが。しかし劇中のジョークすべてが英語圏に合っている。イングランドについて、プー・バーはより皮肉的で彼こそが真実をついている」[39]。このオペラはヴィクトリア朝を極東に重ね合わせ、ギルバートは2国間の貿易開始直後に日本の民族衣装や芸術を集約し、リハーサル期間中、ギルバートはロンドンのナイツブリッジにあった当時人気の日本村を訪れた[40]

ギルバートは舞台装置、衣装、役者の所作などについて本物を追い求めた。ついにギルバートはナイツブリッジの日本村の日本人数名と演出へのアドバイスと役者への指導の契約を結んだ。開幕公演では彼らへの感謝が述べられた[41]。サリヴァンは楽曲に明治時代に作曲された日本の軍歌行進曲『トンヤレ節』を基にした『ミヤサマ』を取り入れた[22][42][43]ジャコモ・プッチーニは後に『蝶々夫人』の『Yamadori, ancor le pene 』に同曲を組み込んだ。登場人物の名前は日本人の名前ではなく、多くの場合英語の幼児語や単なる音が用いられている。例えば可愛らしい若い女性(pretty young thing )はピティ・シング(Pitti-Sing )、美しいヒロインは美味しいことを表す幼児語のヤムヤム(Yum-Yum )、横柄な公人はプーバー[n 4]とピシュ・タシュ[n 5]、主人公はハンカチを表す幼児語のナンキ・プーである.[44][45][46]。死刑執行人のココはジャック・オッフェンバックの『[[::en:Ba-ta-clan|Ba-ta-clan]] 』の悪役Ko-Ko-Ri-Ko の名に似ている[47]

長年日本人にとって『ミカド』に対しては複雑な心境であった。何人かの日本人の批評家はこのタイトル・キャラクターの描写は明治天皇への冒涜と考えた。当時日本の劇場は天皇を描写することを禁じていた[48]。1886年、小松宮彰仁親王はロンドン公演を鑑賞し、気を悪くすることはなかった[49]。1907年、伏見宮貞愛親王が来訪した際、イギリス政府は彼の気を悪くすることを恐れて6週間『ミカド』上演を禁止した[n 6]が、滞在中に『ミカド』鑑賞を望んでいたために裏目に出た[50][51]。伏見宮滞在を取材していた日本人ジャーナリストは禁じられたこの演目を鑑賞し、「深く愉快に期待を裏切られた」。故国を実際に侮辱されるものと構えていたが、「快活な音楽でとても楽しかった」[52]

第二次世界大戦後、『ミカド』は日本で多数上演されるようになった。1946年、東京のアーニー・パイル劇場でピアニストのホルヘ・ボレットの指揮により日本初の公演が米軍に向けて上演された。豪華な舞台装置と衣装で、主な登場人物は女性コーラス同様アメリカ人、カナダ人、イギリス人であったが、男性コーラスと女性ダンサーは日本人であった[53]。1947年、ダグラス・マッカーサー元帥は全日本人キャストの東京プロダクションによる大規模な公演を禁じた[54]が、日本国内の他のプロダクションは上演することができた。例えば1970年、第8陸軍特別部隊主催で東京のアーニー・パイル劇場にて上演された[55]

2001年、埼玉県秩父市においてTokyo Theatre Company の名で『ミカド』日本語版が上演された[56][57]。秩父市民はギルバートが「秩父」から「ティティプー」と名付けたと考えているが、これに関する確固たる根拠はない[58]永六輔はナイツブリッジの日本村にいた秩父出身者がギルバートに日本を舞台にしたオペラの着想を与えたと確信している[56][59]翻字ローマ字での「Chichibu」は現在よく見かけるが、19世紀では訓令式の「Titibu」が一般的であった。そのため公開当時の1884年のロンドンでの報道では「Titibu」が使用され、オペラでも使われるようになった。日本人研究者は、ギルバートは以前に19世紀に貿易が盛んであった秩父絹のことを聞いたことがあったのではないかと判断した。いずれにせよ『ミカド』の都市名は日本でもこのままで上演された。2006年8月、イングランドで行われた国際ギルバート・アンド・サリヴァン祭において『チチブ・ミカド』が上演され[60]、2007年、同カンパニーが来日ツアー公演を行なった。

1990年代より、アジア系アメリカ人コミュニティから「単純化された東洋のステレオタイプ」として批判されるようになった[61]。2014年、ワシントン州シアトルでの公演後、この批判は全米で高まり、ギルバートの伝記作家のアンドリュー・クロウサーは『ミカド』について「どの登場人物も人種的に差別するものではなく、イギリス人となんら変わりはない。このオペラのポイントは表面上は日本だが、ファンタジーの日本を通して描かれるイギリスの文化である」と記した[62]。例えば『ミカド』冒頭部、いちゃつきの罪は日本の法律に反するというのは、イギリスの保守性を表現している[62]。しかしクロウサーはプロダクション・デザインや伝統的な舞台はしばしば「侮辱したわけではなくとも無神経に映ることもある。より神経を尖らせれば回避不能ではないかもしれない。ギルバート・アンド・サリヴァンは愚かさと愉快さ、そして権力への嘲笑、世の中の不条理を描いているのだ」と記した[62]。他のコメンテイターは政治的意味合いからこれらの批判を退けた[63]。1ヶ月後、シアトルで行われた公開討論会には多くの人々が訪れ、『ミカド』はそのスタイルを変えるべきではないが、製作者と演者はこういった問題があることを知っておかなければならない、と結論づいた[64]

現代的な台詞、言い回し

Rutland Barrington]]

現代のプロダクションでは『ミカド』の台詞や言い回しを現代的に変更している。例えば劇中の2曲で「ニガー」という言葉が出てきていた。『As some day it may happen 』で「ニガーのセレナーデ歌手とその人種の他の者」というココの歌詞があった。『A more humane Mikado 』では派手な女性が「クルミの汁でニガーのように一生黒い顔にする」罰を受けることになっていた[65]。これらの表現はヴィクトリア朝時代、濃い肌色の俳優が演じるよりも白人俳優が顔を黒く塗るミンストレル・ショーが人気があったことに由来している[66]。20世紀に入るまで「ニガー」という言葉は差別的ではなかった[67]。1947年のドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーのアメリカ・ツアー公演で観客から抗議があり、カーテの息子でカンパニーのオーナーであるルパート・ドイリー・カーテは作家のA・P・ハーバートに代替案の考案を依頼した。それ以降オペラの脚本および楽譜が変更された[68][n 7]

ジョージ・エリオットにより風刺された浮ついた恋愛小説作家の描写で「女性小説家」を表していた[69]。「男(guy )のような恰好をした田舎から出てきた女性」という歌詞の「guy 」はガイ・フォークス・ナイトに登場する人形を表しており、そのためカカシのような恰好をした品のない女性ということになっている[70]。1908年の再演ではギルバートは「女性小説家」を変更することに同意した[68][71]。現代の価値観において差別的と考えられるようになった言葉は、観客からの抗議を避けるため現代のプロダクションでは修正を加えている[72]。変更はしばしば行われ、時事問題を扱ったジョークを取り入れている[73]。ココを演じたことで知られる歌手のリチャード・スアートは主に自分の役で行われた歌詞の変更の記述を含む書籍を出版した[74]

長期的な人気

『ミカド』はサヴォイ・オペラの中でも最も多く上演される作品となり[75]、多数の言語に翻訳されている。またミュージカル史上最も多く上演される作品の1つとなっている[76]。2010年、シカゴ・リリック・オペラは『ミカド』について「過去125年間、継続的に上演されて」おり、「元来のユーモアと旋律の美しさ」を兼ね備えていると記した[38]

『ミカド』は他の作曲家からも称賛されている。エセル・スマイスはサリヴァンについて「ある日彼は『[[::en:The Golden Legend (cantata)|The Golden Legend]] 』のフルスコアをくださり、「これまでで最高の出来だと思わないかい」と言うので私は『ミカド』が最高傑作だと答えると彼は「酷い」と叫んだ。彼は笑いながらもがっかりしていた」と記した[77]

録音、録画

"Favorite airs from The Mikado" (1914)

アルバム

『ミカド』はギルバート・アンド・サリヴァンの作品の中でも最も多く録音されているオペラである[78]。中でも1926年にドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーによるアルバムが最高傑作とされている。現代の作品の中では1992年のマッケラス/テラークのアルバムが好評を博している[78]

主なアルバム
  • 1926年、ドイリー・カーテ-指揮:ハリー・ノリス[79]
  • 1936年、ドイリー・カーテ-指揮:イシドア・ゴドフリー[80]
  • 1950年、ドイリー・カーテ-ニュー・プロムナード・オーケストラ、指揮:イシドア・ゴドフリー[81]
  • 1957年、ドイリー・カーテ-ニュー・シンフォニー・オーケストラ・オブ・ロンドン、指揮:イシドア・ゴドフリー[82]
  • 1984年、 ストラドフォード・フェスティバル-指揮:バートホールド・キャリア[83]
  • 1990年、ニュー・ドイリー・カーテ-指揮:ジョン・プライス・ジョーンズ[84]
  • 1992年、マッケラス/テラーク-ウェルシュ・ナショナル・オペラ、指揮:チャールズ・マッケラス[85]

映画、ビデオ

『ミカド』使用曲12曲の音楽ビデオがイングランドで製作され、『Highlights from The Mikado 』として出版された。初版は1906年、ゴーモン社による。第2版は1907年7月、ウォルタドー社により、ココ役はジョージ・ソーンが演じた。どちらも[[::en:Phonoscène|Phonoscène]] で収録された[86]

1926年、ドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーは『ミカド』からの抜粋で短いプロモーション映像を製作した。ミカド役にダレル・ファンコート、ココ役にヘンリー・リットン、プーバー役にレオ・シェフィールド、ヤムヤム役にエルシー・グリフィン、カティシャ役にバーサ・ルイスなど当たり役揃いであった[87][n 8][88]

1939年、ユニバーサル・ピクチャーズが90分間の映画版『[[::en:The Mikado (1939 film)|The Mikado]] 』を公開した。テクニカラーで製作され、ココ役にマーティン・グリーン、プーバー役にシドニー・グランヴィル、ナンキプー役にアメリカの歌手ケニー・ベイカー、ヤムヤムにジーン・コリーが配役された。他の主な登場人物やコーラスはドイリー・カーテのメンバーが担当した。指揮はドイリー・カーテの元音楽監督のジェフリー・トイが務め、プロデューサーも兼ねた。映画化に際し、音楽では多くのカットや追加、新たなシーンの追加が行われた。ヴィクター・シャージンガーが監督し、ウイリアム・V・スコールがアカデミー撮影賞にノミネートされた[89][90]。芸術監督および衣装デザインはマーセル・ヴァーテが務めた[91]。『The Sun Whose Rays Are All Ablaze 』は窓辺でナンキプーがヤムヤムへの想いを歌う新しいシーンと、元々あったシーンの2回演奏されるなど、様々な改訂が行われた。新たなプロローグでは変装したナンキプーが追加され、第2幕の音楽は多くカットされた。

1966年、ドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーは舞台版に近い『[[::en:The Mikado (1967 film)|The Mikado]] 』を製作した。1965年のローレンス・オリヴィエ主演映画『[[::en:Othello (1965 film)|Othello]] 』の監督により、『Othello 』のようにスタジオよりも主に舞台上で撮影が行われた。ジョン・リード、ケネス・スタンフォード、ヴァレリー・マスターソン、フィリップ・ポッター、ドナルド・アダムス、クリステン・パルマー、ペギー・アン・ジョーンズが出演し、イシドア・ゴドフリーが指揮した[92]。『ニューヨーク・タイムズ』紙は映像技術や演奏を批判し「出演者がそこそこよい演技をしたとしても、この『ミカド』は観るのに値しない。ただ演技だけが映り、その魅力は映らなかった」と記した[93]

1972年、[[::en:Gilbert and Sullivan for All|Gilbert and Sullivan for All]] 、1982年、ブレント・ウォーカーの映像[94]、好評を博した1984年のストラトフォード・フェスティバルおよび1986年のイングリッシュ・ナショナル・オペラ版(短編)などのビデオ収録も行われた[95]

他のプロダクション等

『ミカド』を基にした児童書『The Story of The Mikado 』が出版され、ギルバートの最後の著作となった[96]。読者の年齢に合わせていくつかの変更を加え、簡潔な語り口で執筆された。例えば歌詞の「society offenders 」(反社会的勢力)は「inconvenient people 」(迷惑な人々)に置き換えられた。

1961年までドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーはイギリスでの『ミカド』および他のギルバート・アンド・サリヴァン作品の権利を所有していた。許可を受けたプロダクションが上演する際、音楽も台詞も変えることはできなかった。1961年以降、ギルバート・アンド・サリヴァンの作品はパブリックドメインとなり、様々なタイプの作品が出現するようになった[97]。主な作品を以下に示す:

  • Mikado March (1885年) ジョン・フィリップ・スーザ作曲の行進曲。
  • The Jazz Mikado (1927年) ベルリンで上演。
  • [[::en:The Swing Mikado|The Swing Mikado]] 1938年、シカゴで初演され、出演者全員黒人でスウィング・ジャズで上演された。
  • [[::en:The Hot Mikado (1939 production)|The Hot Mikado]] (1939年) ブロードウェイにて出演者全員黒人でジャズおよびスウィングで上演された。
  • [[::en:The Bell Telephone Hour|The Bell Telephone Hour]]版 (1960年) マーティン・グリーン演出で、ココ役にグルーチョ・マルクス、プーバー役にスタンリー・ホロウェイ、カティシャ役にヘレン・トロウベルが配役された。
  • [[::en:The Cool Mikado|The Cool Mikado]] 1962年、マイケル・ウィナー監督によるイギリスのミュージカル映画。1960年代のポップ・ミュージックを使用し、日本を舞台にしたギャングのコメディに作り替えた。
  • [[::en:The Black Mikado|The Black Mikado]] (1975年) カリブ海のある島を舞台に鮮やかでセクシーな作品[98]
  • Tokyo Theatre Company による埼玉県秩父市版[60]
  • Metropolitan Mikado ネッド・シャーリンとアリステア・ビートンによる政治風刺で1985年、ロンドンのクイーン・エリザベス・ホールで初演された。
  • [[::en:Hot Mikado|Hot Mikado]] (1986年) ワシントンD.C.で初演されたジャズとスウィングによる作品で、その後度々再演されている。
  • [[::en:Essgee Entertainment|Essgee Entertainment]] による、1995年のオーストラリアおよびニュージーランド[99]

ポピュラー・カルチャー

映画、テレビ、舞台、広告媒体などの様々なメディアにおいて、パロディや模倣が行なわれている。『ミカド』そのものや使用曲、台詞が英語圏でよく使用されている。主なものを以下に示す:

1960年、ギルバート・アンド・サリヴァンの長年のファンであるグルーチョ・マルクスはテレビ版『ミカド』にココ役で出演した。これまでココ役を演じた主な著名人はイングリッシュ・ナショナル・オペラ版『ミカド』のエリック・アイドル、ビル・オーディ、全米ツアーでのダドリー・ムーアなど。

1966年から1970年、サンフランシスコ沿岸部で少なくとも5名が殺害されたゾディアック事件において、警察への手紙に『ミカド』からの引用が使用された。

2004年、『[[::en:VeggieTales|VeggieTales]] 』のエピソード『[[::en:Sumo of the Opera|Sumo of the Opera]] 』で『ミカド』がパロディされ、使用曲の多くでサリヴァンがクレジットされた。

2007年、ロサンゼルスのアジア系アメリカ人による劇団[[::en:Lodestone Theatre Ensemble|Lodestone Theatre Ensemble]] による『ミカド・プロジェクト』がドリス・ベイズリー、日系4世のケン・ナガサキ出演で上演された。人種差別とされた『ミカド』の修正版に取り組んでいるフィクションのアジア系アメリカ劇団が資金集めをするという前提の脱構築作品である[100]。2010年、チル・コン監督によりこの作品は映画化された[101]

1934年のグラディス・ミッチェル作の探偵小説『Death at the Opera 』は『ミカド』製作過程を舞台にしている[102]

1978年の映画『ファール・プレイ』のクライマックスに『ミカド』が登場する。

1998年、テレビ番組『ミレニアム』第2シーズンのエピソード『The Mikado 』でゾディアック事件が扱われている[103]

2010年、テレビのシットコム『ママと恋に落ちるまで』のエピソード『[[::en:Robots Versus Wrestlers|Robots Versus Wrestlers]] 』で、マンハッタンのペントハウスで行われた社交パーティで、マーシャルがふざけてアンティークの銅鑼を叩く。主催者は「キミ、この鐘はウィリアム・S・ギルバートが1885年の『ミカド』初演で打って以来誰も打ったことのない500年ものの貴重品だよ」と叱る。マーシャルは「彼の妻の500年ものの貴重品はウィリアム・S・ギルバートがロンドン初演で打って以来打たれていない」と冗談を言う[104]

1880年代初頭、様々な商品の宣伝として『ミカド』のトレーディングカードが製作された[105]

デニー・オニールとデニス・コウワンによるスーパーヒーロー・コミック『[[::en:Question (comics)|The Question]] 』に極悪自警団員[[::en:The Mikado (comics)|The Mikado]] が登場する。日本人の仮面をかぶり、「犯人に見合った罰」として殺人を犯す[106]。また、1893年に日本に輸出されたアメリカ製機関車[[::en:2-8-2|2-8-2]] の名前も登場する。

1888年、エド・J・スミスは舞台版パロディ『The Capitalist; or, The City of [[::en:Fort Worth|Fort Worth.]] 』を執筆した。2幕物でテキサス州フォートワースでの地元銀行と鉄道による投資支援を描き、登場人物の名はヤンキー・ドゥ、ココナッツ、バイ・ガム、ピーカブーである[107]

台詞からの引用

第1幕の曲『I am so proud 』の歌詞「A [[::en:short, sharp shock|short, sharp shock]] 」(一時的な厳しい罰)のフレーズは様々な書籍や曲に使われるようになった。ピンク・フロイドのアルバム『狂気』の曲や、政治の声明で最もよく知られている。第2幕の曲の歌詞「Let the punishment fit the crime 」(犯人に見合った罰を与える)はギルバートが作成するずっと前から似たような言葉は存在しており、このコンセプトはしばしば使用され、特にイギリス政治のディベートで言及される[108][109]。例えばテレビ・シリーズ『私立探偵マグナム』第80話『Let the Punishment Fit the Crime 』。ヒギンズは邸宅で披露する、『ミカド』の曲の指揮の準備をする。このエピソードでは『Three Little Maids From School 』など『ミカド』の使用曲からいくつかの曲が登場する[110]。『[[::en:Dad's Army|Dad's Army]] 』のエピソード『A Soldier's Farewell 』でも『ミカド』の台詞や曲が登場する。1961年の映画『罠にかかったパパとママ』ではキャンプのリーダーが、双子を離れのキャビンに行かせる前に『ミカド』から引用したフレーズを語る。

プーバーの名は英語で、多くの役職を兼ね横柄で尊大ぶった人物を表す言葉として「pooh-bah 」が使われるようになった[111]P・G・ウッドハウスの小説『[[::en:Something Fresh|Something Fresh]] 』でも多くの役職を兼ねている人物がプーバーと呼ばれている[n 9]。2009年12月、BBCの『Radio 4's Today 』の司会者であるジェイムス・ナウティはSecretary of State for Business, First Secretary of State, Lord President of the Council, President of the Board of Trade, and Church Commissioner などの州の役職、35の閣内委員会や分科委員会に就いているイギリスの政治家ピーター・マンデルソンにプーバーを重ねた。マンデルソンはプーバーを知らなかったが、『デイリー・テレグラフ』の劇場評論家のチャールズ・スペンサーは彼を「英国政界の偉大なるプーバー」と表した[112]。アメリカでは特に、肩書だけは尊大だが権限に限りがある者のことを「プーバー」を呼ぶ[113]。「グランド・プーバー」という言葉は『原始家族フリントストーン』、『ハッピー・デイズ』などのテレビ番組や他のメディアで、フリーメイソン、シュライナー、エルクス・クラブなどでの高い地位の者を表している[114]

曲の引用

上記の台詞の引用に加え、政治家はしばしば『ミカド』使用曲のフレーズをしばしば引用する。保守派のピーター・ライリーは抗議の際「『Little List 』がある」として「sponging socialists 」、「young ladies who get pregnant just to jump the housing queue 」などと語った[108]

『ミカド』使用曲の多くがブロードウエイ作品、映画、コメディ、アルバム、テレビ番組で使用されている。例えば1968年の映画『プロデューサーズ』では、劇中のミュージカル『Springtime for Hitler 』のオーディション参加者がナンキプーの曲『A wand'ring minstrel I 』で受験するが、すぐに落選する。1966年の『バットマン』のエピソード『The Minstrel's Shakedown 』で悪役が『A wand'ring minstrel I 』を歌い、自身がThe Minstrel (ミンストレル)であることに気付く。『ドラ猫大将』のエピソード『All That Jazz 』でディビィ警官がトップ・キャットにその美声を聞かせるようリクエストされて『A wand'ring minstrel I 』を歌う。2006年の映画『BRICK ブリック』で魔性の女ローラ(ノラ・ゼヘットナー)がピアノを弾きながら『The Sun Whose Rays are All Ablaze 』を語り口調で演奏する。『[[::en:Blackadder Goes Forth|Blackadder Goes Forth]] 』第1話の冒頭で『A Wand'ring Minstrel I 』が蓄音機から流れ、エピソード『Speckled Jim 』ではCaptain Blackadder が一節を口ずさむ。映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』のポスターには「The Flowers that Bloom in the Spring, Tra la! 」の「bloom 」を「kill 」に変えた一文が掲載されている[115]。リチャード・トンプソンとジュディス・オウエンはアルバム『[[::en:1000 Years of Popular Music|1000 Years of Popular Music]] 』に『There Is Beauty in the Bellow of the Blast 』を収録している。トンプソンは「オペラ協会によると、最後に若者が結婚するだけでなく、少なくとも1組の老カップルも結婚する」と語った[116]

1981年の映画『炎のランナー』でハロルド・エイブラハムズがThree Little Maids の1人の服装をしている未来の妻に初めて会った時に『Three Little Maids 』が流れる。『チアーズ』のフレイジャー・クレインとジョン・クリーズ(これによりエミー賞受賞)によるエピソード『Simon Says 』、スピンオフ『そりゃないぜ!? フレイジャー』のエピソード『Leapin' Lizards 』、『エンジェル』のエピソード『Hole in the World 』、『ザ・シンプソンズ』のエピソード『[[::en:Cape Feare|Cape Feare]][117]、『[[::en:Alvin and the Chipmunks (TV series)|Alvin and the Chipmunks]] 』の1984年のエピソード『Maids in Japan[118]、『スイートライフ』のエピソード『Lost In Translation 』、『アニマニアックスVol. 1』のエピソード『Hello Nice Warners 』など多くのテレビ番組でこの曲が使用されている。アメリカの政治風刺グループ[[::en:Capitol Steps|Capitol Steps]] は『Three Little Kurds from School Are We 』としてイラク情勢を風刺した。1963年、テレビ番組『[[::en:The Dinah Shore Chevy Show|Dinah Shore Show]] 』でダイナ・ショアジョーン・サザーランドエラ・フィッツジェラルドと共に『Three Little Maids 』を歌った[119]

アラン・シャーマンによる、悲しい最期を遂げる美声で歌うイディッシュ語訛りの鳥についてのコミック・ソング『The Bronx Bird Watcher 』などで『Tit-Willow (On a tree by a river )』が引用されている[120]。『ディック・キャヴェット・ショー』でグルーチョ・マルクスとキャヴェットが『Tit-Willow (On a tree by a river )』を歌った。グルーチョは曲の途中で「obdurate 」(冷酷な)という言葉の意味を観客に尋ねた。1976年11月22日放送の『マペット・ショー』第1シーズンで犬のロルフと鷲のサムが『Tit-Willow (On a tree by a river )』を歌った。映画『[[::en:Whoever Slew Auntie Roo?|Whoever Slew Auntie Roo?]] 』でAuntie Roo (シェリー・ウィンタース)が殺される直前に『Tit-Willow (On a tree by a river )』を歌う[121]。1976年、ジョン・ウェイン最後の映画『ラスト・シューティスト』でJ・B・ブックス(ウェイン)が癌ではなく銃撃戦で亡くなる直前、ロジャース夫人(ローレン・バコール)と共に『Tit-Willow 』の一節を歌う[122]

シャーマンはまた精神科医の助けを必要とするある人物の理由を語る『You Need an Analyst 』に『Little List 』を引用している[123]。子供向けテレビ番組『[[::en:Eureeka's Castle|Eureeka's Castle]] 』のクリスマス・スペシャル『Just Put it on the List 』で双子のボグとカグマイアはこの曲に乗せてクリスマスに何が欲しいかを語る。2008年、リチャード・スチュアートとA.S.H.スミスは『ミカド』の歴史と、イングリッシュ・ナショナル・オペラでココ役を演じてきたスチュアートによる『Little List 』の20年間のパロディを掲載した書籍『They'd none of 'em be missed 』を出版した[124]ロバート・A・ハインラインヒューゴー賞受賞作『異星の客』でヴァレンタイン・マイケル・スミスの物体(人間を含む)を消す力を発見したジュバル・ハーショーは「I've got a little list... they'd none of them be missed. 」(私はLittle List を手に入れた。またとないものだ)と呟く。

テレビ・ドラマ『[[::en:Endeavour (TV series)|Endeavour]] 』第1シーズン第2話『Fugue 』、2013年4月21日に放送開始したBBC[[::en:Inspector Morse (TV series)|Inspector Morse]] 』でも『List song 』が重要な役割を担っている。

備考

設定では登場人物は全員日本人であるが、その名称は日本人らしいものではなく、英語の幼児語が関係している。例えば「ナンキ・プー」はハンカチを表す幼児語といった具合。設定や演出の段階で日本と中国を大きく混同している部分がしばしば見受けられ、劇中では帝が中国の皇帝のように振舞ったり、中国風の衣装を着た踊り子が登場したりする。

ナンキ・プーが三味線ギターのように持ち、素手で弾く場面がある。

戦前、天皇をからかっているという理由で、在連合王国日本国大使館が英国外務省に抗議し、上演禁止を要請したという噂もあるが、真偽のほどは定かではない。日本国内では、外国人向けのホテルなどで題名を伏せたり見張りつきで上演したという話も残っている。公式な日本初演は1946年8月12日アーニーパイル劇場で、指揮は当時連合軍将校として日本に赴任していたピアニストホルヘ・ボレット

1907年伏見宮博恭王日露戦争の際の英国の協力への返礼のため国賓として訪英した折、英国政府はロンドン中の劇場ミュージック・ホールに対して喜歌劇『ミカド』の上演および抜粋の演奏を禁止した。が、当の伏見宮はロンドンではやりの、しかも日本を舞台にした喜歌劇を聴けなかったことを残念がったという。また、皮肉なことに、随行した日本海軍軍楽隊が、こともあろうに禁じられた筈の『ミカド』に使われた「トコトンヤレ節」をテムズ川で演奏したという逸話も残っている。

戦後の演出では登場人物たちが背広に眼鏡といった、ステレオタイプの「日本人サラリーマンの格好」をしている舞台もある。舞台衣装に使われた色はミカドイエローと呼ばるようになった。

脚注

註釈
  1. ^ オペレッタ[[::en:Les Cloches de Corneville|Les Cloches de Corneville]] 』が長年トップであったが、1886年に『[[::en:Dorothy (opera)|Dorothy]] 』が開幕してから『ミカド』は第3位に繰り下がった
  2. ^ a b 元々ピシュ・タッシュ役に配役された役者が第2幕でのカルテット「Brightly dawns our wedding day 」の低音がうまく歌えなかった。ピシュ・タッシュが歌うはずであった箇所を他の役より低くして下のFにまで下げた。そのため他のバスの登場人物であるゴー・トゥがこの曲に登場し、セリフに突入することになった。ドイリー・カーテ・オペラ・カンパニーはこのように2人体制を続けたが、楽譜ではこのことには言及していない。他のカンパニーでは一般的に声域が可能であればピシュ・タッシュのみでゴー・トゥを外す。
  3. ^ オリジナル版はピシュタシュも含まれていたが、出番が減らされた後に削除された。しかし現在もヴォーカル・スコアにはまだ出番が減らされた時のままの楽譜もある。
  4. ^ このキャラクターはジェイムス・プランシェの『The Sleeping Beauty in the Wood 』(1840年)のGreat-Grand-Lord-High-Everything であるBaron Factotum に由来する。
  5. ^ Bab Balladの『King Borriah Bungalee Boo 』(1866年)の登場人物で横柄なPish-Tush-Pooh-Bah を2つに分けたものである。ピシュ、タシュ、プー、バーの4つ共侮辱的な語句である。
  6. ^ これによりリチャード・ドイリー・カーテの2番目の妻でカンパニー責任者ヘレン・カーテはギルバート・アンド・サリヴァンのレパートリー・シーズンから常に人気のこの作品を外すことにした。See Wilson and Lloyd, p. 83
  7. ^ ココの曲は「ニガーのセレナーデ歌手」から「バンジョー・セレナーデ歌手」に(Dover, p. 9; and Green, p. 416)、ミカドの女性への罰は強面にすることになった(Bradley (1996) p. 623; and Green p. 435).
  8. ^ 1907年、ジョージ・ソーンの『Tit-Willow 』などがイギリス初の[[::en:Phonoscène|Phonoscène]] としてバッキンガム宮殿で上映された。
  9. ^ 他にラブ・バトラーの伝記でも政界での役職を兼任していた頃を「プーバー時代」と呼んだ。
出典
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  20. ^ [[::en:Illustrated London News|Illustrated London News]], 12 February 1885, p. 143
  21. ^ 1938年に内閣訓令によってヘボン式を排したローマ字表記の統一(内閣訓令式)が図られたためである。
  22. ^ a b Seeley, Paul. (1985) "The Japanese March in The Mikado", The Musical Times, 126(1710) pp. 454–56.
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  26. ^ Information about American productions
  27. ^ Gilbert, Sullivan and Carte had tried various techniques for gaining an American copyright that would prevent unauthorised productions. In the case of Princess Ida and The Mikado, they hired an American, George Lowell Tracy, to create the piano arrangement of the score, hoping that he would obtain rights that he could assign to them. The U.S. courts held, however, that the act of publication made the opera freely available for production by anyone. Jacobs, p. 214 and Ainger, pp. 247, 248 and 251
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  33. ^ The conductor [[::en:Ernest MacMillan|Ernest MacMillan]], along with other musician internees, recreated the score from memory with the aid of a libretto. See MacMillan, pp. 25–27
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