「731部隊」の版間の差分
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{{保護}} |
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{{観点|date=2009年7月}} |
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{{軍隊資料 |
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[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121201.JPG|thumb|400px|再建された建物(1号棟)]] |
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|名称 = 関東軍防疫給水部本部(731部隊) |
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[[File:Shiro-ishii.jpg|thumb|200px|石井四郎博士]] |
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|画像 = [[ファイル:Unit_731_-_Complex.jpg|300px]] |
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[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB120762.JPG|thumb|240px|right|731部隊遺跡建物表札]] |
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|画像説明 = 司令部の建物 |
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|創設 = [[1940年]]([[昭和]]15年)[[7月]] |
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|廃止 = [[1945年]](昭和20年) |
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|再編成 = |
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|再廃止 = |
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|国籍 = {{JPN}} |
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|所属 = {{IJARMY}} |
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|規模 = |
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|兵科 = [[兵科#衛生部|衛生部]] |
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|兵種 = [[軍医 (日本)|軍医]]、防疫、[[生物兵器|生物戦]] |
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|人員 = |
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|所在地 = {{MCK}}[[ハルビン市]][[平房区]] |
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|編成地 = |
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|通称号 = 満洲第731部隊 |
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|愛称 = |
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|標語 = |
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|補充担任 = |
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|上級部隊 = [[関東軍]]防疫給水部 |
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|最終上級部隊 = |
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|担当地域 = |
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|最終位置 = {{MCK}}[[ハルビン市]][[平房区]] |
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|主な戦歴 = [[ノモンハン事件]]-[[日中戦争]] |
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{{Infobox civilian attack |
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|title = 731部隊 |
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|image = Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121201.JPG |
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|image_size = 200 |
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|alt = |
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|caption = 再建された建物(1号棟) |
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|location ={{MCK}}、[[ハルビン市]]、[[平房区]] |
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|target = |
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|coordinates = {{coord|45.6|126.63|display=inline,title}} |
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|date = 1940年 – 1945年 |
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|time = |
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|timezone = |
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|type = [[人体実験]] <br/> [[:en:Biological warfare|生物戦争]] <br> [[:en:Chemical warfare|化学戦争]] |
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|fatalities = 人体実験でおよそ3,000人、戦場ではおよそ数万人 |
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|injuries = |
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|victim = |
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|assailants = [[軍医総監]]・[[石井四郎]]<ref name="hata567">{{Harvnb|秦|1999|p=567}}</ref>{{efn|name="suishin"|石井、北野は731部隊のトップとして人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。}} <br/>[[中将]]・[[北野政次]]<ref>『進步と改革』, [[社会主義協会]], [[協同文化社]], 1988年, ISSN 0914-8442</ref><ref>『「満州」 における教育の基礎的研究, 第 4 巻』, 竹中憲一著, 柏書房, 2000 </ref>{{efn|name="suishin"}}<br/>[[防疫給水部]] |
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|weapons = [[生物兵器]]<br/>[[化学兵器]]<br/>[[爆薬]] |
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}} |
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'''731部隊'''(ななさんいちぶたい)は、[[第二次世界大戦]]期の[[大日本帝国陸軍]]に存在した[[研究機関]]のひとつ。 |
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正式名称は'''[[関東軍]][[防疫給水部]]'''(関東軍防疫部から改称)<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230821/k10014169671000.html |title=旧日本軍「731部隊」職員表など公式文書見つかる |access-date=2023-09-03 |publisher=[[NHK]] |date=2023-08-21 |website=NHK NEWSWEB}}</ref>。731部隊の名は、その秘匿名称([[通称号]])である'''満洲第七三一部隊'''の略。なお、[[1941年]]3月に[[通称号]]が導入されるまでは、指揮官であった[[石井四郎]]の苗字を取って'''石井部隊'''と通称された。 |
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[[File:Shiro-ishii.jpg|thumb|250px|初代731部隊長[[石井四郎]](1932年に撮影された陸軍三等軍医正(少佐相当)当時の写真、のち陸軍[[軍医]][[中将]])]] |
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[[満州]]に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の[[感染症]]予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する[[生物兵器]]の研究・開発機関でもあった<ref>『在満兵備充実ニ関スル意見』([[1936年]][[4月23日]]付 [[板垣征四郎]]関東軍[[参謀長]]から[[梅津美治郎]]陸軍次官宛書類)の「其三、在満部隊ノ新設及増強改編」の項目第二十三には「関東軍防疫部の新設増強予定計画の如く昭和十一年度に於いて急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患其他特種の調査研究 '''ならびに細菌戦準備の為関東軍防疫部を新設す''' 又在満部隊の増加等に伴い昭和十三年度の以降其一部を拡充す関東軍防疫部の駐屯地は哈爾賓附近とす」とあり、関東軍防疫給水部の設立目的のひとつが「細菌戦準備」であったことがはっきりと明記されている。</ref>。そのために[[人体実験]]<ref name="morishita">[[山本真]](大分協和病院医師)「[http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm 森下清人(元七三一部隊少年隊2期生)の証言]」[[1991年]]9月。</ref><ref name="HalGold">[[ハル・ゴールド]]「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、[[1997年]]7月。ISBN 978-4-331-50590-8</ref><ref>Peace in こうち「[http://peace-k.eco.to/731butaitokouti/731butaitokoutisyougen1.htm 『731部隊と高知』証言]」</ref>や実戦テストを行っていたという意見もあるが、実際の文書の形での記録証拠は現在までのところ発見されていない。細菌戦研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で、[[陸軍軍医学校]]を中核とし、[[登戸研究所]]等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。 |
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[[満洲]]に拠点を置き、兵士の[[感染症]]予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する[[生物兵器]]の研究・開発機関でもあった{{efn|『在満兵備充実ニ関スル意見』([[1936年]][[4月23日]]付 [[板垣征四郎]]関東軍[[参謀長]]から[[梅津美治郎]]陸軍次官宛書類)の「其三、在満部隊ノ新設及増強改編」の項目第二十三には「関東軍防疫部の新設増強予定計画の如く昭和十一年度に於いて急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患其他特種の調査研究 '''ならびに細菌戦準備の為関東軍防疫部を新設す''' 又在満部隊の増加等に伴い昭和十三年度の以降其一部を拡充す関東軍防疫部の駐屯地は哈爾賓附近とす」とあり、関東軍防疫給水部の設立目的のひとつが「細菌戦準備」であったことがはっきりと明記されている。}}。そのために[[人体実験]]<ref>{{Harvnb|常石|1995|pp=92-133}}</ref>や、[[生物兵器]]の実戦的使用<ref name="hata561">{{Harvnb|秦|1999|p=561}}</ref><ref>{{Harvnb|常石|1995|pp=135-163}}</ref>を行っていたとされる。 |
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== 沿革 == |
== 沿革 == |
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[[1925年]]、[[化学兵器]]と[[細菌兵器]]の使用を禁じる[[ジュネーブ議定書]]が、締結された際、石井四郎は条約で禁止しなければならないほど[[細菌兵器]]が脅威であり、有効であるなら、これを開発しない手はないと考えた。その頃、石井は2年間の長期に渡り海外旅行を行ったが、帰国後に最強諸国が細菌戦の準備を行っており、日本もその準備をしなければ、大きな困難に遭遇すると日本陸軍省や参謀本部幹部らに、説いて回った<ref name="healthnet">{{Cite web|和書|url=https://healthnet.jp/paper/2015%E5%B9%B4/%E7%AC%AC2938%E5%8F%B7%E3%80%802015%E5%B9%B48%E6%9C%8820%E6%97%A5/%E7%89%B9%E9%9B%862%E8%AC%9B%E6%BC%94%E9%8C%B2%E3%80%80731%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%A8%E5%8C%BB%E3%81%AE%E5%80%AB%E7%90%86%E3%80%80%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%86%A8%E5%96%9C/|title=京都府保険医協会「特集(2)講演録 731部隊の戦後と医の倫理 青木冨喜子氏(作家・ジャーナリスト)」|accessdate=2023-8-28}}</ref>。 |
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[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121161.JPG|thumb|250px|left|現存する監視塔。現在は休憩所になっており守衛がいる。外国人の入場にはここでパスポートの提示が必要。]] |
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[[1932年]](昭和7年)8月、[[陸軍軍医学校]]防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満洲への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として'''[[関東軍]]防疫班'''が組織され、翌1933年(昭和8年)秋から[[ハルビン市|ハルビン]]東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた<ref name="hata544546">{{Harvnb|秦|1999|pp=544-546}}</ref>。 |
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[[1936年]](昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 [[板垣征四郎]]によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」<ref>国立公文書館[[アジア歴史資料センター]]「[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090104122511263 在満兵備充実に対する意見]」</ref>で'''関東軍防疫部'''の新設が提案され、同年8月には、[[軍令]]陸甲第7号により正式発足した。[[1940年]]の年間予算は1000万円という高額なものであった<ref name="healthnet"/>。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県[[山武郡]][[芝山町]]加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。このとき同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:[[100部隊|満洲第100部隊]])も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、[[軍人]]65人(うち将校36人)と[[軍属]]105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、[[平房区|平房]](ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した<ref name="hata544546"/>。 |
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[[軍隊]]において防疫や給水は戦力の発揮のために重要な要素である。そのため日本陸軍も、[[陸軍軍医学校]]防疫部を置いて研究を行っていた。[[1932年]](昭和7年)8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として'''[[関東軍]]防疫班'''が組織され、翌1933年(昭和8年)秋から[[ハルビン市|ハルビン]]東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた<ref name="hata544546">秦(1999)、544-546頁。</ref>。 |
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石井の構想したのは「[[パスツール研究所]]」や「[[ロックフェラー研究所]]」のような総合医学研究施設であったが、内地でできないこと([[人体実験]])を行うためには[[満州]]の北端に行けばよいと考えた。京都帝大医学部からは、助教授や講師級の若い優秀な研究者が派遣され、[[石川太刀雄丸]](病理学)、[[岡本耕造]]([[解剖学]])、[[田部井和]]([[チフス]]研究)、[[湊正男]]([[コレラ]]研究)、[[吉村寿人]]([[凍傷]]研究)、[[笠原四郎]]([[ウイルス]]研究)、[[二木秀雄]](結核研究)、[[貴宝院秋夫]]([[天然痘]]研究)、などが石井の元に集められた<ref name="healthnet"/>。 |
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[[1936年]](昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 [[板垣征四郎]]によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」<ref>国立公文書館[[アジア歴史資料センター]]「[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090104122511263 在満兵備充実に対する意見]」</ref>で'''関東軍防疫部'''の新設が提案され、同年8月には、[[軍令]]陸甲第7号により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県[[山武郡]][[芝山町]]加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:[[100部隊|満州第100部隊]])も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、[[軍人]]65人(うち将校36人)と[[軍属]]105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、[[平房区|平房]](ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した<ref name="hata544546"/>。 |
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[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121178a ボイラー楝跡.JPG|thumb| |
[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121178a ボイラー楝跡.JPG|thumb|250px|right|関東軍防疫給水部本部731部隊ボイラー棟建物。[[1945年]][[8月9日]]の[[赤軍|ソ連軍]]の[[満洲]]への侵攻直後、大量の爆薬によって破壊された。[[常石敬一]]は、この破壊は証拠隠滅であったとする。]] |
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[[1940年]](昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は関東軍防疫給水部(通称号:満 |
[[1940年]](昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、[[関東軍]]防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満洲第659部隊)」に改編された。そのうちの本部が「関東軍防疫給水部'''本部'''(通称号:満洲第'''731部隊''')」である。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、[[東京大学]]に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた<ref name="hata544546"/>。[[厚生労働省]]の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だった<ref>{{Cite news | url = http://www.47news.jp/CN/200309/CN2003090401000414.html | title = 731部隊員は3560人 終戦直前、厚労省が集計 | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2003-09-04 | accessdate = 2012-11-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130630082441/http://www.47news.jp/CN/200309/CN2003090401000414.html |archivedate=2013-06-30}}</ref>。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から[[北野政次]]軍医[[少将]]に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている<ref name="hata567"/>。[[浙江省]][[寧波]]、玉山、[[金華]]などの都市への[[チフス菌]]、[[コレラ菌]]の散布が行われたものの成功せず、ペスト菌に感染した[[ノミ]]を寧波や金華に投下して成功、これに満足すると記録フィルムを制作し、軍隊内で大々的に宣伝した。石井はペスト菌を細菌作戦の主要兵器として選択するとペストノミの生産能力の拡大に尽力する。常徳でのペストノミの1000メートル上空からの投下や、[[1942年]]の[[浙かん作戦]]を敢行。この頃、いったん移動により[[東京]]に戻り、[[北野政次]]が2代目隊長に就任するが、[[1945年]]3月には戦況が悪化したため、石井が部隊に戻るが、着任早々、「戦況が悪化しつつあるため、春の終わりか夏には好転を期し、細菌兵器を含む最後の手段を用いなければならない」と熱弁をふるった。同時にペストノミ生産のため、9月末までに300万匹の[[ネズミ]]の増殖を命令した。しかし、8月8日、予想よりもはるかに早く[[ソ連]]が満州に侵攻。起死回生の秘密兵器は使われることはなく、施設の撤収、撤去作業を余儀なくされた<ref name="healthnet"/>。 |
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1945年(昭和20年)8月、[[ソ連対日参戦]]により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。 |
1945年(昭和20年)8月、[[ソ連対日参戦]]により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。敗戦に際して、軍は関連文書の処分を命じ、[[証拠隠滅]]を図った<ref name=":0" />。 |
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[[大本営]]参謀だった[[朝枝繁春]]によると、朝枝は8月10日に満洲に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきた[[赤軍|ソ連軍]]の捕虜となり、[[ハバロフスク裁判]]で[[戦争犯罪]]人として訴追された<ref name="hata578579">{{Harvnb|秦|1999|pp=578-579}}</ref>。 |
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== 軍組織における位置 == |
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沿革の通り、731部隊は陸軍軍医学校防疫研究室の下部組織としての性格を有していた。 |
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戦後、部隊に所属していた医師たちは、アメリカに研究資料などを提供する見返りとして、戦犯免責を受けた<ref name=":0" />。また、元隊員の越定男によると、隊員たちは、「郷里に帰ったのちも、七三一に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと」「あらゆる公職には就かぬこと」「隊員相互の連絡は厳禁する」ことを申し渡された{{Sfn|越|1983|p=173}}。 |
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従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする者も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった[[陸軍軍医学校]]防疫研究室(または陸軍[[防疫給水部]]、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部([[北京]]の甲1855部隊)、中支那防疫給水部([[南京]]の栄1644部隊)、南支那防疫給水部([[広東]]の波8604部隊)、南方軍防疫給水部([[シンガポール]]の岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。731部隊は、そのうちの関東軍防疫給水部(満州第659部隊)の主力部隊で、最大級の設備を有してはいたが、研究全体の中心ではなく実験・検証施設であったにすぎないとする。 |
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== 戦後の状況 == |
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[[2018年]]4月、[[国立公文書館]]に保管されていた、1945年1月現在の所属全3605人(軍医52人、技師49人、看護婦38人、衛生1117人他)の氏名・階級・当時の連絡先が記された名簿が開示された<ref>[https://web.archive.org/web/20180415190747/https://this.kiji.is/358138461343188065 「731部隊」隊員らの実名開示 3607人分、公文書館] 共同通信2018年4月15日</ref>。 |
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[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB120760.JPG|thumb|300px|right|中国語と英語で書かれている731部隊本部建物説明。]] |
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[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121182.JPG|thumb|300px|right|6号棟跡]] |
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[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121168.JPG|thumb|300px|right|煉獄門と書かれた建物]] |
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[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121165.JPG|thumb|300px|right|建物内部は資料館になっておりさまざまな証拠資料が展示されている。]] |
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[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121186.JPG|thumb|300px|right|1号棟右側]] |
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[[2020年]]6月19日、[[西山勝夫]]・滋賀医科大学名誉教授のグループが国立公文書館で、1950年から51年にかけて政府が作成した関連公文書「関東軍防疫給水部部隊概況」を発見。開示された41枚の文書には、林口・牡丹江・孫呉・ハイラルの4支部に関する「細部調査票」「行動群経過要図」などが含まれている。一方で本部と大連支部の細部調査票と行動群経過要図が含まれていなかったとのこと。またこれにより、作成時点での全隊員数は3262人と判明したという<ref>[https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/285364 731部隊、詳細な隊員情報や組織機構が判明 70年前の公文書を新発見] 京都新聞2020年6月22日</ref>。 |
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本部隊の活動実態については、長い間情報が不足し不明のままであった。その理由は、当時から高い機密性が保たれていたこと、部隊の解散にあたって厳しいかん口令が敷かれたこと、終戦後の[[アメリカ軍]]との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪が不問に付されたこと、および、関係者の多くが戦後[[医学]]界の中枢を構成したことなどである。戦後、[[ハバロフスク裁判]]で、本部隊が[[ペスト]]・[[コレラ]]・[[性病]]などの[[生物兵器]]、[[糜爛|びらん]]性・[[腐食]]性の毒ガスを用いた[[化学兵器]]の研究に携わっていた特別の部隊であったと認定された。近年になり米国の公文書が機密指定解除されて研究されたが、その中からは731部隊で非人道的な実験が行われた記録はまだ発見されていない<ref name="chronicle">http://megalodon.jp/2008-0815-0905-55/chronicle.com/free/v53/i20/20a00901.htm Release of Archives Helps Fill Gap in Files on Wartime Atrocities - Research - The Chronicle of Higher Education Jan 19 2007</ref>。 |
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=== 「職員表」など公式文書の発見 === |
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=== 防疫活動 === |
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2023年8月、関東軍が1940年9月に作成した、731部隊の「職員表」などを含む報告書が国立公文書館に残されていたと報道された<ref name=":0" />。これまで知られていなかった人たちの名前も含まれているという<ref name=":0" />。 |
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表向きの看板とする見方もあるものの、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり、731部隊においても731部隊第三部が担当し成果を挙げている。 |
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== 防疫活動 == |
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[[1939年]](昭和14年)に発生した[[ノモンハン事件]]では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した[[石井式濾水機]]などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、[[消化器]]系[[伝染病]]の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、[[第6軍 (日本軍)|第6軍]]配属防疫給水部は、第6軍司令官だった[[荻洲立兵]]中将から[[衛生兵|衛生部隊]]としては史上初となる[[感状]]の授与を受け、石井大佐には[[金鵄勲章]]と[[陸軍技術有功章]]が贈られた。 |
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[[1939年]](昭和14年)に発生した[[ノモンハン事件]]では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した[[石井式濾水機]]などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、[[消化器]]系[[伝染病]]の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、[[第6軍 (日本軍)|第6軍]]配属防疫給水部は、第6軍司令官だった[[荻洲立兵]]中将から[[衛生兵|衛生部隊]]としては史上初となる[[感状]]の授与を受け、石井大佐には[[金鵄勲章]]と[[陸軍技術有功章]]が贈られた。一方で、ノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある<ref>{{Harvnb|秦|1999|pp=556-558}}</ref>。 |
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== 生物兵器の開発と実戦的使用 == |
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1940年(昭和15年)11月に満州国の[[新京]]でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動している。流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めた。この点について[[シェルダン・ハリス]]([[:en:Sheldon H. Harris|en]])などは、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったと主張している<ref name="Harris">[[シェルダン・ハリス|シェルダン・H・ハリス]]([[:en:Sheldon H. Harris|en]]) 『死の工場―隠蔽された731部隊』 柏書房、1999年。</ref><ref>解学詩 「新京ペスト謀略・1940年」『戦争と疫病―731部隊のもたらしたもの』 本の友社、1997年。</ref>。しかし、[[常石敬一]]は、これらの自作自演説には確かな証拠がなく、むしろ疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病であったと結論付けている<ref name="tuneisi157">常石(2005年)、157-158頁。</ref>。また、常石は、ハリスについて、731部隊と[[100部隊]]を混同していること、『[[悪魔の飽食|続・悪魔の飽食]]』で問題になった731部隊とは無関係の写真を著書に掲載していることなどを指摘し、その著作の信頼性を疑問視している<ref>常石(2005年)、171頁。</ref>。なお、当時の満州はペスト蔓延地で、1909年の大流行の際には「国際ペスト会議」を設置しての対策が行われ、日本からも[[北里柴三郎]]が出席している<ref>常石(2005年)、104頁。</ref>。 |
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{{See|生物兵器|化学兵器}} |
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{{仮リンク|第一次世界大戦における化学兵器の使用|en|Chemical weapons in World_War I|preserve=1}}を受け、1925年の[[ジュネーヴ議定書 (1925年)|ジュネーヴ議定書]]では戦争時における[[化学兵器]]・[[生物兵器]](細菌兵器)の使用禁止が規定された。ただし、開発・生産・貯蔵といった行為は禁止項目ではなかった。 |
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このような背景もあり、[[常石敬一]]や[[秦郁彦]]によれば、731部隊は単に生物兵器の研究を行っていただけではなく、生物兵器を実戦で使用していた<ref name="hata561"/><ref name=t135/>。731部隊ではペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われ、寧波、常徳、浙贛(ズイガン)などで実際にペスト菌が散布されたと常石は述べている<ref name="t135">{{Harvnb|常石|1995|pp=135-163}}</ref>。 |
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=== 生物兵器開発 === |
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731部隊は、[[生物兵器]]の開発に重要な役割を果たしていたのではないかとも言われる。当時、生物兵器の「使用」を禁止する1925年の[[ジュネーヴ議定書 (1925年)|ジュネーヴ議定書]]が成立していたが、日本は同条約を批准していなかった([[1970年]]批准)。また、そもそも同条約では、生物兵器の「研究開発」や「生産」「保有」は禁止されていなかった。 |
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731部隊の傭人として3年間勤務した鶴田兼敏は、[[ノモンハン事件]]での生物戦での実体験について、細菌の培養液を入れたガソリン缶をトラックに積んで輸送したこと、中身を河に流す際の事故により鶴田の内務班の班長だった[[軍曹]]が培養液を浴び、腸チフスで死亡したことなどを語っている<ref>{{Harvnb|常石|1995|p=139}}</ref>。 |
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日本が生物兵器の利用を真剣に検討し始めたのは、731部隊の部隊長などをつとめた[[石井四郎]]軍医の働きかけによると言われる。石井は、1928年から1930年にかけて[[ドイツ]]などヨーロッパ各地や[[アメリカ合衆国]]などを視察・研究にまわり、帰国後に生物兵器の有用性を陸軍上層部に訴えるようになった。石井の主張は、細菌を使った生物兵器は資源の乏しい日本にとって[[コストパフォーマンス]]に優れた[[兵器]]であり、また世界各国も生物兵器の研究にすでに着手しているというものであった。1932年の陸軍軍医学校への防疫研究室の設置も、石井の働きかけによるとされる。 |
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=== 元部隊員への尋問・関連論文 === |
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731部隊が生物兵器開発に関与したとする説によると、ペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われていたという。終戦直後にアメリカ軍が元部隊員に行った尋問の記録とされる「田中淳雄少佐尋問録」によると、1943年に防疫研究の余暇を使ってノミ増殖の研究を命ぜられたものの、大量増殖は不可能であるとの結論になっている。 |
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戦後のサンダースやトンプソンによる調査において、[[田中淳雄]]少佐は、1943年に防疫研究の余暇を使ってペストノミの増殖の研究を命ぜられたものの、ペストノミの増殖に不可欠な白ネズミが不足していたことから、ペストノミの大量増殖は不可能であったと供述している<ref>「田中淳雄少佐尋問録」1945年10月30日</ref>。 |
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その後、1947年に米軍の細菌戦研究機関キャンプ・デトリック(現[[フォート・デトリック]])の[[ノーバート・フェル]]博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、[[日中戦争]](支那事変)において、[[浙カン作戦|浙贛作戦]](1942年)などで12回の生物兵器の使用があったとする。また、ペスト菌汚染された蚤を空中散布した、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者も複数存在する<ref>{{Harvnb|秦|1999|pp=565-566}}</ref>。 |
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ただし、東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定している<ref>http://www.anti731saikinsen.net/saiban/1shin/</ref>。 |
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サンダース、トンプソンによる調査において元隊員が人体実験や細菌戦について語らなかった理由について、トンプソンは、開示する情報の量と質が事前に指示されていたのでは無いかと推測しつつ、生物戦、特に攻撃面の研究・開発の規模について小さく見せたいという意図があったのであろうと述べている<ref>常石敬一 『標的・イシイ 731部隊と米軍諜報活動』 大月書店 1984年 328頁 {{ISBN2|978-4272520091}}</ref>。 |
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=== 人体実験 === |
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731部隊では、生物兵器の開発や治療法の研究などの目的で、本人の同意に基づかない不当な[[人体実験]]も行われていたとする説がある。一方で、文献資料がほとんど存在しないことから、人体実験がされていたことを疑問視する見解もある。また、「731部隊で行われた人体実験」として流布されている中には、科学的にありえない内容も多いとの指摘がある。 |
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==== 金子順一論文 ==== |
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人体実験が行われていたとする説によると、被験者とされたのは[[捕虜]]やスパイ容疑者として拘束された[[朝鮮人]]、[[中国人]]、[[モンゴル人]]、[[アメリカ人]]、[[ロシア人]]等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称されていたという。その人数は、終戦後に[[ソビエト連邦|ソ連]]が行った[[ハバロフスク裁判]]での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言によると3,000人以上とされるが<ref>小俣和一郎「検証 人体実験 731部隊・ナチ医学」第三文明社、2003年、p.82。ISBN 4-476-03255-9</ref>、{{要出典範囲|ハバロフスク裁判では石井四郎中将が無罪とされているため証言の信用性は疑問である|date=2013年7月}}。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700 - 800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある<ref>秦(1999)、552頁。</ref>。終戦時には、生存していた40-50人の「マルタ」が[[証拠隠滅]]のために殺害されたという<ref name="hata578579"/>。 |
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1940年の新京や農安でのペストの大流行が、731部隊の細菌散布により起きたとする元731部隊所属の金子順一軍医の「[http://www.anti731saikinsen.net/img/nicchu/bunken/kaneko/kaneko.pdf 論文集(昭和19年)]」が、2011年に日本の国立国会図書館関西部で発見された<ref name=anti731saikinsen>[http://www.anti731saikinsen.net/nicchu/bunken/kanekokaisetu.html 細菌戦の新発見資料について]</ref><ref>朝日新聞2011.10.15. 東京新聞2011.10.16.</ref><ref name=mth>[[松村高夫]]「[http://avic.doc-net.or.jp/siryou/20128matumura.pdf 旧日本軍による細菌兵器攻撃の事実]」月刊保団連2012.8.No.1102,全国保険医団体連合会,</ref><ref name=wata/>。論文では、1940年6月4日に日本軍が農安(吉林省)でノミ5グラムをまき、1次感染8人、2次感染607人の患者が発生し、同年10月27日には寧波で2キロ軍機から投下し、1次・2次感染合計1554人、41年11月4日には常徳に1.6キロ投下し、2810人を感染させ、6つケースの細菌戦では感染者は計2万5946人に上ったと報告している。また、投下した年月日はこれまで判明していたものと一致している<ref name=anti731saikinsen />。 |
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また金子論文は、太平洋や東南アジアでペスト菌を撒くことを想定し、地域や季節による効果を試算した研究内容を記述している<ref name=anti731saikinsen />。これらの計画は初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員が[[マリアナ諸島]]に派遣されたとする秦郁彦の説もある<ref>{{Harvnb|秦|1999|pp=571-576}}</ref>。 |
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こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、元部隊員など関係者の証言である<ref name="morishita"/><ref name="HalGold"/>。例えば、元731部隊員で[[中国帰還者連絡会]](中帰連)会員の[[篠塚良雄]]([[:en:Yoshio Shinozuka]])は、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」というところに配属され、細菌を生きている人へ移すという人体実験を行ったことを、2007年にアメリカ、イギリス、中国などの歴史番組のインタビューで答えた。TBSのインタビューでは、「マルタへの人体実験はマルタが死亡するまで繰り返し行われたため、マルタの激しい抵抗にあうことが少なくなかった。」と語っている<ref>http://www.youtube.com/watch?v=3WohIFGBa6Q</ref>。さらに篠塚は、ペストに感染してしまった日本人同僚の生体解剖に自ら立会い、強姦されて生まれたと考えられる女性マルタの子供を目撃した、などの証言をしている<ref>http://www.youtube.com/watch?v=3WohIFGBa6Q</ref>。篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている<ref>篠塚良雄「[http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/07/sinoduka_nyuukoku.htm アメリカ・カナダの入国を拒否されて]」『中帰連』第7号、1998年12月。</ref>。ただし、中帰連関係者などの証言については、[[撫順戦犯管理所]]での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定([[自己批判]])させられた者の証言であることから、信憑性を疑問視する見方もある<ref>[[田辺敏雄]]『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』自由社</ref>。 |
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2012年6月15日[[衆議院]][[外務委員会]]で[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]の[[服部良一 (政治家)|服部良一]]議員は金子論文について質問すると、玄葉大臣は時間経過などを考えれば政府調査で事実関係が断定できるか難しく、今後の歴史学者の研究を踏まえていきたいと答弁した<ref name=mth/>。 |
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同じく元731部隊少年隊の2期生だった[[森下清人]]は、1991年9月に大分協和病院で行われたインタビューにおいて、感染実験の直後に死亡したとするマルタの様子について、「まず(菌を)打ってから3、4時間後に顔の色がわるくなったね。それから座りこんだね、それでひざまづいて頭をかかえて、それが約30分くらい続きましたですね。それから横になって、背伸びして、またうつ伏になって、仰向けになったりして。早かったですね。」と語っている<ref>http://www3.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm</ref>。 |
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=== ペスト菌攻撃とされる事例 === |
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また、731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていたという[[大川福松]]は2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席、「毎日2~3体、生きた人を解剖し(中略)多い時は1日5体を解剖した。実験の対象は名前ではなく、番号で呼ばれていた。」と証言した<ref>2007年4月9日 読売新聞 |
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==== 寧波 ==== |
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</ref>。さらに、子持ちの慰安婦を解剖したこともあったといい、「子どもが泣いている前で母親が死んでいった。子どもはどうするのかと思っていると、凍傷(の実験台になった)。それをざんごうに放り込んで埋める。本当に悲惨なことがたくさんあった。」と回想している<ref>2007年4月9日 読売新聞</ref>。 |
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1940年10月27日早朝に行われた[[寧波]]へのペスト菌攻撃は、低空飛行の飛行機から細菌をまく方法で行われた。この時使われたノミは、ペスト菌を持つネズミの血を吸い「ペストノミ」となったものだった。ノミだけではうまく目的地点に到達しない恐れがあり、また着地のショックを和らげる必要もあって、穀物や綿にまぶして投下した。11月3日までに37人が死亡し、華美病院の丁立成院長が、犠牲者の症状をペスト菌であると宣言している<ref>{{Harvnb|常石|1995|pp=143-144}}</ref>。 |
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==== 満洲新京 ==== |
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一方で、人体実験に関わる部隊の活動や証言を裏付ける文献資料はほとんど確認されていない。近年になり731部隊関係の米国の公文書が機密指定解除されたため調査が行われたが、その中からは非人道的な実験が行われた記録は発見されなかった<ref name="chronicle">http://megalodon.jp/2008-0815-0905-55/chronicle.com/free/v53/i20/20a00901.htm Release of Archives Helps Fill Gap in Files on Wartime Atrocities - Research - The Chronicle of Higher Education Jan 19 2007</ref>。ニューヨーク在住の[[ノンフィクション作家]]である[[青木冨貴子]]によって石井四郎が終戦後に書いた手記が発見されており、それには戦後の石井の行動の克明な記録に加えて、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていたが、その中にも非人道的な活動を明示する内容は無かった<ref>青木冨貴子「731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く」新潮社(新潮文庫)、2005年。ISBN 4-10-373205-9。もっとも、青木は、隠語の一部が人体実験などを表しているのではないかと疑っている。</ref>。 |
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1940年(昭和15年)11月に満洲国の[[新京]]でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動し、流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めたとされる。しかし、この点について{{仮リンク|シェルダン・ハリス|en|Sheldon H. Harris}}や解学詩は、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったと述べている<ref name="Harris">シェルダン・ハリス『死の工場―隠蔽された731部隊』柏書房、1999年。{{ISBN2|978-4760117826}}</ref><ref>解学詩 「新京ペスト謀略・1940年」『戦争と疫病―731部隊のもたらしたもの』 本の友社、1997年。{{ISBN2|978-4894390737}}</ref>。 |
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また、森村誠一『続・悪魔の飽食』などに「731部隊によって生体解剖される中国人の犠牲者」として紹介された写真は、『山東省動乱記念写真帖』(青島新報、1928年)に掲載された[[済南事件]]被害者の検死中の写真であり、731部隊とは無関係であった。 |
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常石敬一は、新京や農安で発生したペスト流行については日本軍の細菌攻撃説には確かな証拠がなく、疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病だったのではないかと述べていた<ref name="tuneisi157">常石敬一 『戦場の疫学』 海鳴社、2005年、157-158頁。</ref>。 |
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わずかに確認されている文献史料としては、まず、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いについての特例措置に関するものがあり、これが731部隊に移送されて人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている<ref>秦(1999)、550-551頁。</ref>。1938年1月26日に関東軍の各[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」(関憲警第58号)では、スパイ容疑者や[[思想犯]]、[[匪賊]]、[[アヘン]]中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソ連のスパイ(ソ連の諜報員の略で「ソ諜」「蘇諜」等と表記)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している<ref>あいち・平和のための戦争展「[http://members.at.infoseek.co.jp/sensouten/html/3f02_a.html][http://members.at.infoseek.co.jp/sensouten/html/3f02_b.html][http://members.at.infoseek.co.jp/sensouten/html/3f02_c.html] </ref><ref>中国黒龍江省档案館・中国黒龍江省人民対外友好協会・日本ABC企画委員会編『七三一部隊 罪行鉄証 関東憲兵隊「特移扱」文書』「[http://members2.jcom.home.ne.jp/wa-chiyoko/book_photo02.html][http://members2.jcom.home.ne.jp/wa-chiyoko/book_photo03.html]</ref>。{{要出典範囲|もっとも、「特移扱」とされた人物がいたとしても731部隊に移送されたと解釈する根拠はないとの批判がある。|date=2013年10月}} |
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しかし、[[#金子順一論文|2011年の金子論文発見]]により、ジャーナリストの[[渡辺延志]]は、新京でのペスト流行は新京から60キロの農安で始まった731部隊の細菌攻撃に端を発しており、農安から持ち込まれた犬が入院していた新京の日本人経営の犬猫病院を起点として、ペスト菌が拡大していったと述べている<ref name=wata>渡辺、{{PDFlink|[http://avic.doc-net.or.jp/siryou/20125watanabe.pdf 731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告―石井機関の枢要金子軍医の論文集発見]}}、『[[世界 (雑誌)|世界]]』830号岩波書店、2012年。</ref>。 |
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また、現存する731部隊の医学的成果を[[常石敬一]]が分析したところによると、「猿」を使った[[腎症候性出血熱|流行性出血熱]](孫呉熱)の病原ウイルス特定と、[[凍傷]]治療法<ref>[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090417201180008 「凍傷ニ就テ(第15回満州医学会哈爾濱支部特別講演)」満州第731部隊陸軍技師 吉村寿人] 国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵</ref>の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという<ref>秦(1999)、552-553頁。</ref>。{{要出典範囲|この分析に対しては、実際に見つかっている資料の限りでは通常の検体を使ったウイルス特定でしかないとの批判もある。|date=2013年10月}} |
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==== 常徳 ==== |
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{{要出典範囲|date=2013年10月11日|物証としては、石川太刀雄丸が1943年に日本本土に持ち帰った病理標本だけであるが、人体実験の証拠には至らないことが判明している}}。 |
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1941年11月4日に常徳で行われた同様のペスト菌攻撃は、散布の効果が薄かった。これは、中国側が寧波での経験を生かし、日本機が菌を散布した後に衛生担当者がただちにまかれたものを収集し、破棄したからである。結果として中国側は死者数を一桁に抑えられた<ref>{{Harvnb|常石|1995|p=148}}</ref>。 |
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==== 浙贛 ==== |
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なお、731部隊で人体実験が行われたとの説が一般に広まるきっかけとなった森村誠一『悪魔の飽食』は、「ノンフィクション」と称したフィクション作品である。同書では行われた人体実験の内容と称して、「注射針で体液を吸い出してミイラにする」、「人間が入るほどの[[遠心分離器]]で体液を全て搾り出す」、「真空にほうり込み、内臓が口、肛門、耳、目などからはみ出し破れる」等、現代の最先端科学でも不可能な手法や物理的にありえない現象が数多く登場している上に、全て匿名証言の形式で記載されているため、その内容は事実に反する点も多いとする批判もある。 |
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一方で、同1941年に行われた浙贛への細菌攻撃では、1万人以上の被害が出た。[[コレラ]]患者を中心に1700人以上が死亡したものの、犠牲者はすべて日本兵だった。被害にあった日本兵は上官から、「これは中国による生物兵器攻撃だ」と教えられたと供述している<ref>{{Harvnb|常石|1995|p=149}}</ref>。 |
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== 人体実験 == |
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[[File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121177.JPG|thumb|260px|「四方楼」。ロ字型の建物で15,000㎡ある細菌実験、生産の主要的建築があった場所で1945年8月に日本軍により爆破され地下基礎部分のみ現存する。]] |
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生物兵器について、単なる研究だけではなく、実戦使用を行っていたのではないかとの説もある<ref name="hata561">秦(1999)、561頁。</ref>。[[日中戦争]]に関しては、1947年に米軍の細菌戦研究機関[[フォート・デトリック]]([[:en:Fort Detrick|en]])の[[ノーバート・フェル]]博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、[[浙カン作戦|浙贛作戦]](1942年)などで12回の使用があったとする<ref name="hata561" />。ペスト菌汚染された蚤を空中散布したとか、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者がいる<ref>秦(1999)、565-566頁。</ref>。しかし、化学兵器の実戦例とは異なって、生物兵器使用については公式[[報告書]]といった文献史料は確認されていない<ref name="hata561" />。前述のように1940年の新京でのペスト流行を731部隊と結び付ける者もあるが<ref name="Harris" />、証拠が無い憶測で、自然流行と見る方が妥当と言われる<ref name="tuneisi157" />。 |
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常石敬一や秦郁彦によれば、731部隊では生物兵器の開発や治療法の研究などの目的で、本人の同意に基づかない不当な人体実験が行われていた。[[石井四郎]]は医学研究において「内地でできないこと」があり、それを実行するために作ったのがハルビンの研究施設であった、と戦後に語っており、この「(日本)内地でできないこと」とは主に[[人体実験]]を指していると常石敬一は述べている<ref>{{Harvnb|常石|1995|p=101}}</ref>。 |
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元陸軍軍医学校防疫研究室の責任者で、石井四郎の右腕といわれた[[内藤良一]](のちの「[[ミドリ十字]]」の設立者)は、戦後のニール・スミス中尉による尋問で次のように証言している。 |
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また、[[ノモンハン事件]]においても、給水業務の傍ら、実験的な細菌戦が試みられていたとする説がある。第二次世界大戦後にソ連が行った[[ハバロフスク裁判]]で「血判状など作戦関係の書類を見かけた」との供述があったとされるほか、実行に加わったとする元隊員の証言が1989年になって発表されている。これらの証言によるとチフス菌の培養液をドラム缶で運んで川に流したとされるが、科学的には加害効果がとうてい期待できないことから、研究者の常石敬一や[[秦郁彦]]は[[デモンストレーション]]にすぎないとしている。なお、前述のノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある<ref>秦(1999)、556-558頁。</ref>。 |
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<blockquote> |
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「石井がハルビンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。(中略)石井はハルビンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルビンでは何の妨害もなく捕虜を入手することが可能でした。」さらに、細菌部隊のアイデアは石井ひとりのものだったとし、「日本の細菌学者のほとんどは何らかの形で石井の研究に関わっていました。(中略)石井はほとんどの大学を動員して部隊の研究に協力させていた」 |
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</blockquote> |
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=== 実験材料「マルタ」と呼ばれた人々 === |
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元731部隊員の複数の証言によれば、人体実験の被験者は主に[[捕虜]]やスパイ容疑者として拘束された[[朝鮮人]]、[[中国人]]、[[モンゴル人]]、[[アメリカ人]]、[[ロシア人]]等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称され、その中には、一般市民、女性や子供が含まれていたという<ref>郡司陽子『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店)</ref>。 |
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マルタの人数は、終戦後に[[ソビエト連邦|ソ連]]が行った[[ハバロフスク裁判]]での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言によると3,000人以上とされる<ref>小俣和一郎「検証 人体実験 731部隊・ナチ医学」第三文明社、2003年、p.82。{{ISBN2|4-476-03255-9}}</ref>。731部隊の「ロ号棟」で衛生[[伍長]]をしていた[[大川福松]]は、2007年に、一日に2〜3体、多い時は1日5体を生体解剖したと証言している<ref>2007年4月8日大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」での発言、2007年4月9日 読売新聞</ref>。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする[[胡桃沢正邦]]技手は多くても700 - 800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある<ref>{{Harvnb|秦|1999|p=552}}</ref>。 |
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このほか、[[太平洋戦争]]中の[[サイパンの戦い]]などに際しても、島の利用を妨害するための細菌汚染が[[大本営]]などで計画され、731部隊や石井四郎も関わっていたとする説もある。初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員が[[マリアナ諸島]]に派遣されたとする説もある<ref>秦(1999)、571-576頁。</ref>。 |
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終戦時には、生存していた40-50人の「マルタ」が[[証拠隠滅]]のために殺害されたという<ref name="hata578579" />。 |
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東京地方裁判所は、2002年8月27日、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定している<ref>http://www.anti731saikinsen.net/saiban/1shin/</ref>。 |
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こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、後述するいくつかの文書資料および元部隊員など関係者の証言であるが、証言の中にはソビエト連邦や中華人民共和国政府の捕虜となっていた時期に供述書として提供されたものもある(ただし全ての証言がそうというわけではなく、捕虜となった経歴が確認されない人物の証言もある)。このうち日本人捕虜の「認罪」過程については、[[撫順戦犯管理所|中華人民共和国政府による洗脳]]として供述書の信憑性に注意すべきであるという指摘もある<ref>秦郁彦「『世界』が持ち上げる「撫順戦犯裁判」認罪書 の読みかた」『[[諸君!]]』1998年5月号([[文藝春秋]])</ref>。 |
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== アメリカ軍 との取引 == |
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{{言葉を濁さない|date=2012年10月}} |
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終戦時に特別列車で日本に帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は連合国軍による[[戦犯]]追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。 |
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=== 細菌学的実験 === |
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[[1947年]]1月、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]ソ連側検事の[[ヴァシリエフ]]少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった[[柄沢十三夫]]少佐を尋問し、アメリカやイギリスなどが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 |
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元731部隊員で中国の[[撫順戦犯管理所]]に1956年まで拘留され<ref>「[http://uketugukaiiwate.jimdo.com/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4%EF%BC%91-%E6%92%AB%E9%A0%86%E3%81%AE%E5%A5%87%E8%B9%9F/%E8%A8%BC%E8%A8%80-%E7%AF%A0%E5%A1%9A%E8%89%AF%E9%9B%84%E3%81%95%E3%82%93-%E5%8D%83%E8%91%89/ 証言集会:元731部隊 人体実験の事実から学ぶ 証言者 元731部隊少年隊 篠塚良雄]」2008年9月14日、[[撫順の奇蹟を受け継ぐ会]]岩手支部([https://archive.is/20150305023218/http://uketugukaiiwate.jimdo.com/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4%EF%BC%91-%E6%92%AB%E9%A0%86%E3%81%AE%E5%A5%87%E8%B9%9F/%E8%A8%BC%E8%A8%80-%E7%AF%A0%E5%A1%9A%E8%89%AF%E9%9B%84%E3%81%95%E3%82%93-%E5%8D%83%E8%91%89/ アーカイブ])</ref>、帰国後は[[中国帰還者連絡会]](中帰連)会員として活動してきた<ref name="sino">篠塚良雄「[http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/07/sinoduka_nyuukoku.htm アメリカ・カナダの入国を拒否されて]」『中帰連』第7号、1998年12月。</ref>[[篠塚良雄]]は、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」に配属され、ペスト患者の生体解剖に関わったと主張している<ref>篠塚良雄、高柳美知子『日本にも戦争があった 731部隊元少年隊員の告白』新日本出版社、2007年、80-84頁 </ref>。篠塚は帰国後、[[高柳美知子]]との共著の中で、中国人マルタの生体解剖の様子を語っている<ref>篠塚良雄、高柳美知子『日本にも戦争があった 731部隊元少年隊員の告白』新日本出版社、2007年、80-84頁</ref>。生体実験では、日本人が犠牲になることもあったという。篠塚はペストに感染した友人の少年隊員であった平川三雄の生体解剖に立会ったとも語っている <ref>篠塚良雄、高柳美知子『日本にも戦争があった 731部隊元少年隊員の告白』新日本出版社、2007年、90-95頁</ref>。 |
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一方、[[田辺敏雄]]は、こういった中帰連関係者などの証言について、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定([[自己批判]])させられた者の証言であるとして、信憑性を疑問視している<ref name="tanabe">[[田辺敏雄]]『検証 旧日本軍の「悪行」 ―歪められた歴史像を見直す―』[[自由社]] {{要ページ番号|date=2021年10月24日}}</ref>。 |
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同年2月10日に、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)内のアメリカ政府の関係者は本国政府に対して「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しアメリカ政府は「アメリカ人の専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。 |
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長野県出身の少年隊員であった清水英男は14歳の時に防疫給水部に配属され、ホルマリン漬けにされたマルタの人体標本を上官に見せられ、証拠隠滅のため火葬されたマルタの遺骨を川に遺棄する作業に従事したという<ref>{{cite|title=94歳の元少年隊員が目撃した「731部隊の大罪」…「頭部のホルマリン漬け」「少年隊員への人体実験」「遺骨は川に遺棄」|url=https://gendai.media/articles/-/135294?imp=0|date=2024-08-11|accessdate=2024-11-06|publisher=週刊現代}}</ref><ref>{{cite|title=「この世の地獄だった」 731部隊元少年隊員を独占取材|url=https://jp.news.cn/20230814/b75e16c7ff594e66b695016c7587c74a/c.html|date=2023-08-14|accessdate=2024-11-06|publisher=新華社}}</ref>。 |
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石井は再度のGHQ内のアメリカ人による尋問に対し、「人体実験の資料はなくなった」と主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年{{いつ|date=2012年10月}}{{要出典範囲|date=2012年10月|アメリカで公開された資料}}によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いた[[エドウィン・V・ヒル]]博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。 |
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=== 生理学的実験 === |
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この様なアメリカ政府との取引が行われた結果、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連による[[ハバロフスク裁判]]では訴追が行われている。 |
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731部隊では、ガス壊疽実験、凍傷実験、銃弾実験などのように、人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえることができるのか、あるいはそこからどのように治療すれば回復させることができるのか、といった生理学的な研究も頻繁に行われた。こういった実験は、731部隊以外の陸軍病院などでも行われた<ref name="t155">{{Harvnb|常石|1995|p=155}}</ref>。 |
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元731部隊員の[[越定男]]によれば、731部隊で最も熱心に行われた人体実験は、ガラスで覆われた部屋で行われたガス実験だった{{Sfn|越|1983|p=82}}。越は、ガス実験に立ち会った時の様子を著書に記している{{Sfn|越|1983|pp=83-86}}。マルタとして、ここに運び込まれたのは、30歳代で中国人が多く、次にロシア人が多かった{{Sfn|越|1983|p=83}}。ここで使われたガスは、[[イペリット]]、[[ホスゲン]]、[[ルイサイト]]、[[青酸ガス]]、[[一酸化炭素]]ガスなどだった{{Sfn|越|1983|p=83}}。 |
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== 日本国への賠償請求 == |
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731部隊の印刷部員だった[[上園直二]]は、白系ロシア人の男性2名が裸で冷凍室に入れられ、死亡する過程を撮影されている光景を目にした、という証言をしている<ref>Williams P, Wallace D. Unit 731: Japan's Secret Biological Warfare in World War II. New York: The Free Press 1989. (西里扶甬子訳『七三一部隊の生物兵器とアメリカ--バイオテロの系譜』かもがわ出版、2003 {{ISBN2|978-4876997657}})</ref>。 |
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731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた[[大川福松]]は、2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、子持ちの[[慰安婦]]を解剖したこと、母が死んだ後にその子どもは凍傷の実験台に使用したことなどを回想している<ref>2007年4月9日 読売新聞</ref>。 |
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1935年から1936年にかけて背陰河の東郷部隊に傭人として勤めた[[栗原義雄]]は、水だけを飲ませて何日生きられるかという耐久実験をやらされた<ref>常石敬一編訳『標的・イシイ』大月書店、1984、162頁</ref>として、回想を語っている。 |
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=== 細菌爆弾の効果測定 === |
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常石によれば、マルタを使用した安達実験場での爆弾実験は、新型爆弾の開発が追い込みにかかる1943年末以降に活発化した<ref name"t155">{{Harvnb|常石|1995|p=155}}</ref>。炭疽菌爆弾の場合、マルタは榴流弾の弾子で負傷し、血だらけとなる。マルタは担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどのように死んでいくかが観察された。多くの場合、全員が感染し、数週間以内に死亡している。最後には内臓のどの部分が最もダメージを受けたかを明らかにするために、解剖された<ref name="t156">{{Harvnb|常石|1995|p=156}}</ref>。 |
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石井部隊長の私設秘書的存在として活動していた[[郡司陽子]]は、同じく731部隊の隊員であった弟から、安達実験場での細菌爆弾の効果測定にマルタが使用されていたという証言を聞き出している<ref>群司陽子『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店。94-97頁</ref>。 |
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=== 性病実験と女性マルタ === |
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<!--731部隊では、性病実験も頻繁に行われた。戦時中の性病治療法は極めて限られており、主な方法は注射しかなかったが、性病の蔓延は陸軍内部で深刻なほど拡大していた。例えばシベリアでは、多くの日本兵が現地のロシア人女性を強姦したために性病が蔓延し、1個[[師団]]相当の兵力が失われたとされ、軍紀が乱れる大きな原因となった<ref>{{Harvnb|ゴールド|2002|p=182}}</ref>。司令部は、731部隊がこの問題を解決するよう期待したのである。 |
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--><!--権威の確認できないフリージャーナリストによる著作が出典であり「信頼できる情報源」として疑義あり--> |
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ジャーナリストである[[西野瑠美子]]がある元隊員にインタビューしたとする報告によれば、当初731部隊では注射で女性マルタに梅毒を感染させていたが、現実に即した実験結果が得られなかったため、マルタを強制して性行為を行わせることで梅毒を感染させ、梅毒にかかった男女を小部屋に入れて再び性行為を強制したという。性行為に立ち会ったと称する元隊員は白衣を着た複数の人間の監視のもとで性行為が強制されたことなどを語っている<ref>西野、「731部隊のはなし」1994年、118頁</ref>。 |
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=== 証拠隠滅とマルタの殺害 === |
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1945年8月9日のソ連軍の満洲への侵攻直後、731部隊の施設建物が大量の爆薬によって破壊された。常石敬一は、この破壊は証拠隠滅であったとする<ref name="t166">{{Harvnb|常石|1995|p=166}}</ref>。秦郁彦は、終戦時には、生存していた40~50人のマルタが証拠隠滅のために殺害されたと推測している<ref name="hata578579"/>。 |
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元隊員の越定男によれば、棟に青酸ガスを噴出させて殺害したり、直接手を下さずに確実に殺すため、銃で脅しながら、互いに向かい合わせ、首にロープを巻き、その中央に棒を差し込んで、互いにねじらせたりした{{Sfn|越|1983|p=154}}。その他いろいろな方法で殺害した{{Sfn|越|1983|p=154}}。 |
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731部隊が証拠隠滅を急いだのはマルタだけではなかった。1棟2階の「陳列室」をはじめ第一部各課研究班には、ホルマリン容器に入った生首、腕、胴体、脚部、各種内臓の標本が、伝染病の種類や病状ごとに計1000個ほど保存されており、これらは夜陰に乗じて松花江に投げ捨てられたという。さらに、増産を重ねてきた各種細菌のストック、夥しい数のネズミ、数億匹のノミ、解剖記録、病理記録、細菌培養記録などは掘った穴に集められ、重油で焼却されている。その後、施設建物が大量の爆薬によって破壊された。この時の爆破の煙はハルビン市内からも見えたと言われている<ref name="t166"/>。 |
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== 戦後 == |
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=== アメリカ合衆国による731部隊調査 === |
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アメリカ合衆国は、日本の敗戦直後から4次にわたって細菌戦専門家による731部隊調査団を派遣した<ref name="#1">{{Harvnb|松村|2013}}</ref><ref name="#2">{{Harvnb|松村、金平|1991}}</ref>。調査はすべて、[[連合国軍最高司令官]][[ダグラス・マッカーサー]]と[[連合国軍最高司令官総司令部]][[参謀第2部]]部長[[チャールズ・ウィロビー]]の全面的な協力のもとで進められ、報告書(レポート)が[[アメリカ国防総省]]あてに提出された<ref name="#1"/>。 |
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*第1次 - 責任者[[マレー・サンダース]]、1945年11月1日付「サンダース・レポート」、部隊組織や実験内容を詳述、人体実験への言及なし<ref name="#1"/><ref name="#2"/><ref name="SelectDocuments">[https://www.archives.gov/files/iwg/japanese-war-crimes/select-documents.pdf Select Documents on Japanese War Crimes and Japanese Biological Warfare, 1934-2006]. アメリカ国立公文書記録管理局. 2021年12月31日閲覧。</ref> |
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*第2次 - 責任者アーヴォ・トンプソン(Arvo T. Thompson)、1946年5月31日付「トンプソン・レポート」、部隊組織や実験内容を詳述、人体実験への言及なし<ref name="#1"/><ref name="#2"/><ref name="SelectDocuments" /> |
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*第3次 - 責任者ノーバート・フェル(Norbert H. Fell)、1947年6月20日付「フェル・レポート」、人体実験への言及あり<ref name="#1"/><ref name="#2"/><ref name="SelectDocuments" /> |
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*第4次 - 責任者エドウィン・ヒル(Edwin V. Hill)、1947年12月12日付「ヒル・レポート」、人体実験への言及あり<ref name="#1"/><ref name="#2"/><ref name="SelectDocuments" /> |
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ウィリアムズとワラスは、731部隊の実験データの多くは元隊員たちが密かに持ち帰ったため、最終的にはアメリカ軍の戦後の生物兵器開発に生かされたと述べている。また、人体実験に手を染めたものの、[[ハバロフスク裁判]]を免れた軍医たちは連合国から戦犯として裁かれることなく、大学医学部や国立研究所や各地の病院に職を得たと述べている<ref>Williams & Wallace 1989, Chap.17</ref>。 |
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常石敬一が編訳した米軍資料によれば、アメリカ政府は、日本の生物戦研究情報は国家の安全にとって価値があり、他国に入手されないためにも「戦犯」裁判にかけるべきではない、と結論したという<ref> State-War-Navy Coordinating Subcommittee for the Far East 1947. 常石編訳 1984年、416頁</ref>。 |
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=== ハバロフスク裁判 === |
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{{See|ハバロフスク裁判}} |
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==== 柄沢十三夫証言 ==== |
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731部隊の実験データに強い関心を示していたソ連は、[[ハバロフスク裁判]]で731部隊の第4部細菌製造部第1班班長であった[[柄沢十三夫]]少佐を厳しく[[尋問]]し、柄沢は1946年9月26日から30日までの間に、731部隊の編成と責任者、研究内容、設備、人体実験の事実、中華民国での細菌兵器使用、寧波と常徳で行われたペストノミ攻撃の事実を認め、総指揮者が石井四郎であったと証言した<ref name="aoki370">{{Harvnb|青木|2008|p=370}}</ref>。また、ハバロフスク裁判の判決準備書面で、安達付近演習場にてで昭和18年~19年に行われた炭疽菌爆弾の人体実験、動物実験について述べている<ref name="t155"/>。 |
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==== 川島清証言 ==== |
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また、柄沢の上司だった[[川島清 (軍人)|川島清]]軍医少将(731部隊第4部長)も、飛行機によるペストノミの散布、ペストノミの入った陶磁器製爆弾の投下、天皇の命令書、部隊の資金と出資、マルタの供給と受領の仕組みなどについて供述した<ref name="aoki370"/>。川島によれば、実験の犠牲者は3,000人以上とされる<ref>[[小俣和一郎]]「検証 人体実験 731部隊・ナチ医学」第三文明社、2003年、p.82。{{ISBN2|4-476-03255-9}}</ref>。 |
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==== 倉員サトル証言 ==== |
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731部隊の憲兵班の曹長であった倉員サトルは、ハバロフスク裁判において、1940年に吉村研究員が[[凍傷]]実験を自分に見せてくれた時の様子について、手の指が全く欠けていたり手が黒くなっている中国人被実験者らを目にしたと証言している<ref>(公判書類 1950: 480)</ref>。 |
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=== 厚生省 === |
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2019年11月に[[国立公文書館]]が開示決定した公文書の中に、1950年9月に[[厚生省]][[復員局]]留守業務第3課(当時)が取り残された軍医や軍人の状況を把握するために作成した文書「業務通報(B)第50号 関東防疫給水部」が、2020年2月6日までに西山勝夫・滋賀医大名誉教授によって発見された。文書の中に、本部第一部が細菌研究と第四部が細菌生産など部隊構成や敗走経路から帰国するまでの経路、抑留された人数なども書かれていた<ref>{{Cite web|和書|title=細菌戦「731部隊」の新資料発見 「ないはず」の戦後公文書 細菌生産を明記|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/155056|website=[[京都新聞]]|accessdate=2020-02-08|language=ja}}</ref>。 |
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=== 朝鮮戦争における細菌戦 === |
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北朝鮮、ソ連、中国は、[[朝鮮戦争]]でアメリカが日本軍の731部隊のデータをもとに細菌戦を実施し、また石井四郎も従軍したと主張した<ref name=nak/>。 |
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一方、キャサリン・ウエザースビー(Kathryn Weathersby)は、米軍が朝鮮戦争で細菌戦を行ったというのは、北朝鮮、ソ連、中国による捏造であり[[プロパガンダ]]であるとした<ref name=nak>中嶋啓明「[https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2004-03.pdf 朝鮮戦争における米軍の細菌戦被害の実態 ─現地調査報告]」[[大阪経済法科大学]]アジア太平洋研究センター年報 (1), 15-22, 2003 </ref>。メリーランド大学のミルトン・ライテンバーグは、1998年にソ連共産党中央委員会の文書を入手し、そこに「米国人に対する非難は架空のものだ」と書かれていることを明らかにした<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASQ3K5PXVQ3HUHBI01D.html ウソを意図的に流すロシア 生物兵器をめぐるプロパガンダと長い歴史]朝日新聞、2022年3月18日</ref>。 |
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=== 日本国への賠償請求 === |
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{{Main|731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟}} |
{{Main|731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟}} |
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1997年に[[中華人民共和国]]の180名が、[[ハーグ陸戦条約]]3条違反などにもとづき細菌戦の被害者への謝罪と賠償を日本政府に求める裁判を日本で起こした([[731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟]])。 |
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2002年、[[東京地方裁判所]]は、ハーグ陸戦条約が個人に国際法主体性を認めておらず、また[[日中平和友好条約]]で[[日中共同声明]]の「戦争賠償の請求放棄」原則が確認されて国際法上は国家責任は決着した、補償法令の立法不作為も認められないなどとして請求を棄却し、原告側が敗訴した<ref name="731hank">[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/795/005795_hanrei.pdf 東京地方裁判所平成14年8月27日判決]</ref>。他方、東京地方裁判所は細菌戦の事実関係について、当該訴訟では原告側の立証活動だけで被告側による反証活動がされていないという制約があり、複雑な歴史的事実であるから歴史の審判に耐え得る事実の認定は学問的な考察と議論に待つほかはないとしたうえで、当該裁判所の[[事実認定]]としては731部隊や中支那防疫給水部(1644部隊)が1940年から1942年にかけてペスト感染したノミを散布したり、コレラ菌を井戸に入れるなど細菌兵器の実戦使用(細菌戦)があったと判断<ref name="731hank" />、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した'''事実を認定'''した<ref>{{Cite news |title=Japan guilty of germ warfare against thousands of Chinese |url=https://www.theguardian.com/world/2002/aug/28/artsandhumanities.japan |work=The Guardian |date=2002-08-28 |access-date=2024-07-10 |issn=0261-3077 |language=en-GB |first=Jonathan |last=Watts}}</ref>。しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。 |
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この訴訟の結果は、人体実験等の存否にかかわらず、日中戦争を含む第二次世界大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国(この場合は[[中華民国]]と中華人民共和国)との間で[[条約]]・[[協定]]等が締結、履行された事により解決し、[[国際法]]上も日本の国家責任については決着していることから、請求棄却判決により原告敗訴となった。その後に提起された同種の訴訟も、全て原告の請求が棄却された。 |
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2005年の[[控訴審]]判決でも[[東京高等裁判所]]は細菌戦はあったとしつつも賠償請求は棄却するという原審判断を踏襲した<ref>東京高等裁判所平成17年7月19日判決</ref>。2007年には[[最高裁判所]]が原告による[[上告]]および[[上告受理の申立て]]を棄却したため、上記の地裁・高裁判断に基づく賠償請求棄却、すなわち原告側の敗訴が確定した<ref>最高裁判所平成19年5月9日決定</ref>。 |
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== 関東軍防疫給水部 == |
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=== 組織 === |
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* 関東軍組織図 |
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* 防疫給水部組織表 |
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== 旧陸軍軍医学校跡地で発見された人骨との関連 == |
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* [[関東軍]]防疫給水部([[通称号]]:満州第691部隊) |
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[[1989年]]7月に東京都新宿区戸山の旧[[陸軍軍医学校]]跡地に建設予定の[[国立感染症研究所]]建設現場で、四肢が様々な位置で切断された形跡が残った大量の人骨が発見された<ref name=nk>日本経済新聞2011/2/21付「旧陸軍軍医学校跡地、謎の人骨を発掘調査 厚労省」</ref>。人骨の身元は不明だが、731部隊の犠牲者の可能性があるとして市民団体は政府調査を要求した<ref name=nk/>。 |
|||
** 関東軍防疫給水部本部(通称号:満州第731部隊) |
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** [[牡丹江]]支部(通称号:満州第643部隊) |
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** [[林口県|林口]]支部(通称号:満州第162部隊) |
|||
** [[孫呉]]支部(通称号:満州第673部隊) |
|||
** [[海拉爾]]支部(通称号:満州第543部隊) |
|||
** [[大連]]支部(通称号:満州第319部隊) |
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[[1992年]]4月、札幌学院大学教授の[[佐倉朔]]が人骨に関する鑑定結果を出し、骨に人為的加工や銃撃または斬撃または切断の跡が残っているものがあったこと、また1890年~1940年頃に埋められたものであったことなどを記した<ref>{{Harvnb|常石|1995|p=107}}</ref>。 |
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=== 関東軍防疫給水部長 === |
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:* 1940年8月23日まで関東軍防疫部長 |
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:* 階級は就任時。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する。 |
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* 石井四郎 軍医中佐(1936年8月1日~1942年8月1日) |
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* [[北野政次]] 軍医少将(1942年8月1日~1945年3月1日)==[[日本学術会議]]南極特別委員・[[文部省百日咳研究会]]。 |
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* 石井四郎 軍医中将(1945年3月1日~終戦)==>新宿区若松町で旅館経営。 |
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この鑑定結果から「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(人骨の会)」代表常石敬一は、凍傷や壊死など、四肢の切断を必要とする手術の練習台に、これらの人骨が使用されたのではないかと主張している<ref>{{Harvnb|常石|1995|p=113}}</ref>。また、新宿区が遺骨焼却予算を計上したため、焼却差止住民訴訟が起こされたが、2000年に敗訴確定(人骨焼却差止住民訴訟事件)<ref>[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/605/052605_hanrei.pdf 人骨焼却差止請求事件判決]</ref>。 |
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=== 関東軍防疫給水部本部(満州:第731部隊) === |
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第731部隊の組織構成は、以下のとおりであった。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する。 |
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* 総務部 |
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** [[副官]]室 |
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** 調査課 |
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*** 翻訳班 |
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*** 印刷班 |
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*** 写真班 |
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*** 兵要地誌班 |
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*** 調査班 |
|||
*** 図書班 |
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** 人事課 |
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** 庶務課 |
|||
*** 労務班 |
|||
*** 庶務室 |
|||
*** 食堂 |
|||
*** [[酒保]] |
|||
*** 学校 |
|||
** 企画課 |
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** 経理課 |
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** 管理課 |
|||
*** 建設班 |
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*** 工務班 |
|||
*** 動力班 |
|||
*** 運輸班 |
|||
*** 電話班 |
|||
** 軍需課 |
|||
* 第一部([[細菌]]研究/部長:[[菊池斉]]、[[北川正隆]]) |
|||
** 第一課([[チフス]]研究) |
|||
*** 田部班(班長:[[田部井和]]==>[[京都大学]]細菌学教授・[[兵庫県立医科大学]]教授) |
|||
** 第二課([[コレラ]]研究) |
|||
*** 湊班(班長:[[湊正男]]==>[[京都大学]]教授) |
|||
** 第三課(生理・マルタ管理) |
|||
*** 吉田班(健康診断) |
|||
*** 宮川班([[X線撮影|レントゲン]]/班長:[[宮川正]]==>[[埼玉医科大学]]教授) |
|||
*** 在田班(レントゲン) |
|||
*** 栗秋班(薬理) |
|||
*** 草味班(薬理研究/班長:[[草味正夫]]==>[[昭和薬科大学]]教授) |
|||
*** 石井班(捕虜入出管理) |
|||
*** 蓬田班(捕虜入出管理) |
|||
*** 志村班 |
|||
*** 特別班(特設監獄) |
|||
** 第四課([[赤痢]]研究) |
|||
*** 江島班(班長:[[江島真平]]==>[[国立予防衛生研究所]]) |
|||
** 第五課([[ペスト]]研究) |
|||
*** 高橋班(班長:[[高橋正彦]]) |
|||
** 第六課([[病理]]研究/課長:[[河本耕造]]) |
|||
*** 石川班(班長:[[石川太刀雄丸]]==>[[金沢大学]]医学部長・金沢大学癌研究所所長・[[日本学術会議]]会員) |
|||
*** 岡本班(班長:[[岡本耕造]]==>[[京都大学]]医学部長・[[近畿大学]]医学部長) |
|||
** 第七課 |
|||
** 第八課([[リケッチア]]・[[ノミ]]研究/課長:[[笠原四郎]]) |
|||
*** 野口班(班長:[[野口圭一]]==>[[ミドリ十字]]) |
|||
** 第九課(水棲昆虫研究) |
|||
*** 田中班(班長:田中英雄==>[[大阪市立大学]]医学部長) |
|||
** 第十課([[血清]]研究/課長:[[秋元涛恵美]]) |
|||
*** 内海班(血清研究/班長:内海薫) |
|||
*** 小滝班([[ツベルクリン]]/班長:[[小滝秀雄]]) |
|||
** 第十一課([[病原菌]]研究) |
|||
*** 肥野藤班([[脾脱疽]]/班長:[[肥野藤信三]]==>[[長崎医科大学]]、肥野藤病院院長) |
|||
*** 太田班([[炭疽]]研究/班長:[[太田澄]]) |
|||
*** 樋渡班([[脾脱疽]]/班長:[[樋渡喜一]]==>[[茨城県衛生研究所]]、樋渡病院院長) |
|||
*** 降旗班([[ペスト]]研究/班長:[[降旗武臣]]) |
|||
*** 金沢班(班長:[[金沢謙一]]) |
|||
*** 貴宝院班([[天然痘]]研究/班長:[[貴宝院秋雄]]==>[[京都微生物研究所]] |
|||
*** 二木班([[結核]]研究/班長:[[二木秀雄]]==>[[ミドリ十字]]共同設立者) |
|||
** 所属課不詳 |
|||
*** 笠原班([[ウイルス]]研究/班長:[[笠原四郎]]==>[[北里研究所]]) |
|||
*** 吉村班([[凍傷]]研究/班長:[[吉村寿人]]==>[[京都府立医科大学]]学長・[[日本学術会議]]南極特別委員・[[生気象学会]]会長) |
|||
* 流行性出血熱研究班(班員:[[所安夫]]==>[[東京大学]]教授・[[帝京大学]]教授・熱海所記念病院) |
|||
* 第二部(実施研究) |
|||
** 八木沢班([[植物菌]]研究/班長:[[八木沢行正]]==>[[国立予防衛生研究所]]・[[日本抗生物質学術協議会]]理事) |
|||
** 焼成班(爆弾製造) |
|||
** 気象班 |
|||
** 航空班 |
|||
** 無線班 |
|||
** 田中班(ペスト蚤増産研究/班長:田中英雄==>京都大学講師、[[大阪市立大学]]医学部長) |
|||
** 篠田班(昆虫研究/班長:[[篠田統]]==>京都大学理学部、大阪教育大教授) |
|||
** 安達実験場 |
|||
* 第三部(防疫給水) |
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** 庶務課 |
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** 第一課(検索) |
|||
** 第二課(毒物検知/課長:[[川島三徳]]) |
|||
** 第三課 |
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*** 濾水班 |
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*** 給水班 |
|||
*** 運輸班 |
|||
*** 工作班(濾水機) |
|||
*** 濾水機・弾筒製造窯 |
|||
* 第四部([[細菌]]製造/部長:[[川島清]] 軍医少将==>ハバロフスク裁判被告、八街少年院医師) |
|||
** 第一課(培養生産/課長:[[柄沢十三夫]] 軍医少佐、[[鈴木啓之]]) |
|||
*** 野口班(ペスト・脾脱疽/班長:[[野口圭一]]) |
|||
** 第二課 |
|||
** 第三課([[乾燥菌]]・[[ワクチン]]/課長:[[三谷恒夫]]) |
|||
** 第四課(ワクチン/課長:[[小滝秀雄]]) |
|||
*** 有田班([[発疹チフス]]・ワクチン/班長:[[有田正義]]) |
|||
*** 植村班([[瓦斯壊疽]]・脾脱疽/班長:[[植村肇]]==>文部省保健教育課) |
|||
** 所属課不詳 |
|||
*** 朝比奈班([[発疹チフス]]・ワクチン/班長:[[朝比奈正二郎]]==>[[国立予防衛生研究所]]) |
|||
*** 細菌戦研究班(班員:[[園口忠男]]==>[[陸上自衛隊衛生学校]]副校長、[[増田美保]]==>[[防衛大学校]]教授) |
|||
* 教育部(隊員教育/部長:[[西俊英]] 軍医中佐) |
|||
** 庶務課 |
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** 教育課 |
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** 衛生兵 |
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** 炊事班 |
|||
** 診療所 |
|||
** 錬成隊 |
|||
** 少年隊 |
|||
* 資材部(実験用資材) |
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** 庶務課 |
|||
** 第一課(薬品合成) |
|||
*** 山口班(細菌弾/班長:[[山口一季]]==>[[国立衛生試験所]]) |
|||
*** 堀口班(ガラス/班長:[[堀口鉄夫]]==>[[国立予防衛生研究所]]) |
|||
** 第二課(購買補給) |
|||
** 第三課(濾水機) |
|||
** 第四課(倉庫) |
|||
** 第五課(兵器保管) |
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** 第六課(動物飼育) |
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* 診療部(付属病院) |
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** 伝染病棟 |
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** 診療室 |
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** 家族診療所 |
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* 憲兵室 |
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** 保機隊 |
|||
2001年の厚労省調査報告では、陸軍軍医学校関係者368人への聞き取り調査によって、標本類また医学教育用に集められたもので、戦死者等から作成された可能性はあるが、731部隊によるものを否定する回答もあり、確定できなかった<ref>[http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9073/zinkotuhp/koseiplan.htm 厚生労働省、記者会見用の報告と今後の方針「戸山研究庁舎建設時に発見された人骨の由来調査について」]平成13年6月14日。軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会HP([https://archive.is/20160714155224/http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9073/zinkotuhp/koseiplan.htm アーカイブ])</ref>。 |
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=== 支部 === |
|||
* 牡丹江支部(満州第643部隊;支部長:[[尾上正男]] 軍医少佐) |
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** 総務課 |
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** 経理課 |
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** 第一課 |
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** 第二課 |
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** 第三課 |
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** 資材課 |
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** 教育課 |
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* 林口支部(満州第162部隊) |
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** 総務課 |
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** 第一課 |
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** 第二課 |
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** 資材課 |
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** 教育課 |
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* 孫呉支部(満州第673部隊;支部長:[[西俊英]] 軍医中佐) |
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** 総務課 |
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** 第一課 |
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** 第二課 |
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** 資材課 |
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** 教育課 |
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* 海拉爾支部(満州第543部隊;支部長:[[安東洪次]]==>[[東京大学]]伝染病研究所教授・[[実験動物中央研究所]]所長、[[春日忠善]]==>[[北里研究所]]・[[文部省百日咳研究会]]) |
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** 総務課 |
|||
** 第一課 |
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** 第二課 |
|||
** 資材課 |
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** 教育課 |
|||
* 大連支部(満州第319部隊) |
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** 総務部 |
|||
** 研究部 |
|||
** 製造部 |
|||
2011年、厚労省が初の発掘調査を行った<ref name=nk/>。 |
|||
== 脚注 == |
|||
{{Reflist}} |
|||
2016年、人骨の会代表常石敬一らは[[ミトコンドリアDNA]]の鑑定などを厚労省に要望した<ref>[http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9073/zinkotuhp/newspic/news179.html 人骨ニュース]179号、2016年3月29日、軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会([https://archive.is/20160714155225/http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9073/zinkotuhp/newspic/news179.html アーカイブ])</ref>。 |
|||
== 参考文献 == |
|||
{{参照方法|section=1|date=2010年10月}} |
|||
<!--著者名50音順--> |
|||
== 人体実験を裏付ける資料とその真偽 == |
|||
=== 書籍 === |
|||
=== 日本 === |
|||
* [[青木冨貴子]] 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2005年 ISBN 978-4-10-373205-1(文庫 2008年 ISBN 978-4-10-133751-7) |
|||
確認されている文献史料としては、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いについての特例措置に関するものがあり、これが731部隊に移送されて人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている<ref>{{Harvnb|秦|1999|pp=550-551}}</ref>。1938年1月26日に関東軍の各[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」(関憲警第58号)では、スパイ容疑者や[[思想犯]]、[[匪賊]]、[[アヘン]]中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソ連のスパイ(ソ連の諜報員の略で「ソ諜」「蘇諜」等と表記)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している<ref>中国黒龍江省档案館・中国黒龍江省人民対外友好協会・日本ABC企画委員会編『七三一部隊 罪行鉄証 関東憲兵隊「特移扱」文書』「[http://members2.jcom.home.ne.jp/wa-chiyoko/book_photo02.html][http://members2.jcom.home.ne.jp/wa-chiyoko/book_photo03.html]</ref>。 |
|||
* 軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(編) 『日本医学アカデミズムと七三一部隊』 風社新、1990年。新装版:樹花舎、1993年 |
|||
* 近藤昭二(編) 『731部隊・細菌戦資料集成』CD-ROM 柏書房、2003年 ISBN 4-7601-2404-7 |
|||
* 田中明、松村高夫(編)『十五年戦争極秘資料集29 七三一部隊作成資料』 不二出版、1991年 |
|||
** 「731部隊員作成による人体実験-きい弾(イペリット弾)曝射実験や破傷風菌接種実験-における被験体経過観察報告書」などを収載 |
|||
* [[田辺敏雄]] 『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』 自由社、2002年 ISBN 4-915237-36-2 |
|||
* [[常石敬一]] 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年 ISBN 4-06-149265-9 |
|||
* 同上 『医学者たちの組織犯罪―関東軍第七三一部隊』 朝日文庫 1999年 ISBN 4-02-261270-3 |
|||
* 同上 『戦場の疫学』 海鳴社 2005年 ISBN 4875252269 |
|||
* 同上 『謀略のクロスロード 帝銀事件捜査と731部隊』 日本評論社 2002年 ISBN 4-535-58337-4 |
|||
* [[秦郁彦]] 『昭和史の謎を追う (上)』 文春文庫、1999年 ISBN 4-16-745304-5 |
|||
* [[森村誠一]] 『[[悪魔の飽食]] 新版』 角川文庫、1983年 ISBN 4-04-136565-1 |
|||
[[松村高夫]]によれば、[[吉村寿人]]による第15回満洲医学会ハルビン支部の特別講演(1941年10月26日)の記録『凍傷ニ就テ』は文書で残されたものとしては数少ない同部隊の人体実験の記録とのことであり、その中に記された「実験1」では零下20度で手を冷却して凍傷の発生を見ているほか、「実験5」では「絶食3日後」や「一昼夜不眠」などの前準備の後に「血管反応ノ状況ヲ観察シ」て抗凍傷指数を算出、「実験6」でも「苦力101名ニツキ抗凍傷指数ヲ求メ」ているという。<ref name="#3">{{Harvnb|松村|1998}}</ref>この『凍傷ニ就テ』は[[国立公文書館]][[アジア歴史資料センター]]にてインターネット公開されている。<ref>[https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A03032007200 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03032007200、凍傷ニ就テ(第15回満洲医学会哈爾濱支部特別講演)(国立公文書館)]. 2022年1月3日閲覧。</ref> |
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=== その他 === |
|||
* [[小泉純一郎]]([[内閣総理大臣]])「[http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b157024.htm 衆議院議員川田悦子君提出七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問に対する答弁書]」 2003年10月10日 ([[川田悦子]] 「[http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a157024.htm 七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書]」 2003年10月3日提出への応答) |
|||
同じく松村高夫によれば、同部隊診療部の永山太郎、池田苗夫、荒木三郎による報告書『破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ』は[[破傷風]]毒素と芽胞を人間の足背部に接種して発症時の筋肉の電位変化を測定したという内容で、対象とされた14名が全員死亡していることが報告書に十字で示されているという。また『きい弾射撃ニ因ル皮膚障害並一般臨床的症状観察』には、1940年9月7日から10日にかけて行われた、被験者16人を野外に配置して彼らに向けてイペリット弾を発射して生じた症状を観察する実験内容が記載されているという。<ref name="#3"/><ref name="#1"/> |
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秦郁彦によれば、現存する731部隊の医学的成果を分析したところによると、「猿」を使った[[腎症候性出血熱|流行性出血熱]](孫呉熱)の病原ウイルス特定と、凍傷治療法の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという<ref>{{Harvnb|秦|1999|pp=552-553}}</ref>。 |
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=== アメリカ === |
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731部隊が行った人体実験("human experimentation")の記録は、既に機密指定解除されたアメリカ政府や軍の公文書より発見されている<ref name="SelectDocuments" /><ref name="chronicle">[https://megalodon.jp/2008-0815-0905-55/chronicle.com/free/v53/i20/20a00901.htm Release of Archives Helps Fill Gap in Files on Wartime Atrocities - Research - The Chronicle of Higher Education Jan 19 2007]. ニュースサイト「[[The Chronicle of Higher Education]]」の2007年1月19日付け記事. 2008年8月15日時点の[http://chronicle.com/free/v53/i20/20a00901.htm オリジナル](リンク切れ)よりアーカイブ。2021年12月31日閲覧。</ref><ref name="NationalArchives">[https://web.archive.org/web/20070210002004/http://archives.gov/press/press-releases/2007/nr07-47.html 100,000 Pages Declassified in Search for Japanese War Crimes Records]. アメリカ国立公文書記録管理局の2007年1月12日付けのプレスリリース. 2007年2月10日時点の[https://www.archives.gov/press/press-releases/2007/nr07-47.html オリジナル](リンク切れ)よりアーカイブ。2021年12月31日閲覧。</ref>。それらの文書は[[アメリカ国立公文書記録管理局]]で公開されており<ref name="SelectDocuments" /><ref name="chronicle" /><ref name="NationalArchives" />、731部隊が行った人体実験を研究する者にとって基礎的な資料となっている<ref name="NationalArchives" />。一方、ナチスの戦争犯罪に関する調査が800万ページにも及んだのに対し日本の戦争犯罪に対する調査が僅か10万ページと極端に少なかったことから、多くの知識人は、米国には依然として日本の戦争犯罪に関する膨大な資料が眠っていると疑っている<ref name="chronicle" />。ただし、そのような資料は今のところ見つかっておらず、近年になって新たに機密指定解除された一連の公文書からも、前述のサンダース、トンプソン、フェル、ヒルらによるレポート等の既に公開されている記録は確認されたものの<ref name="SelectDocuments" />、それ以上の新たな記録は見つからなかった<ref name="chronicle" />。日本の戦争犯罪に関する資料がナチスの戦争犯罪に関する資料に比べて極端に少ないことについて、{{仮リンク|米陸軍戦史センター|en|United States Army Center of Military History}}(CMH)の元主任研究員エドワード・ドリューは、「終戦直前の1945年8月12日からアメリカ軍の一部が日本に上陸する8月28日までの間に、主要な記録の多くが日本当局により隠滅されたため」と述べている<ref name="chronicle" />。また、[[コロンビア大学]]教授の[[キャロル・グラック]](日本近代史専攻)は、アメリカの、日本軍の[[満洲]]での初期の軍事行動に対する関心が終戦時と比べて低かったこと、そして[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]がヨーロッパにおける[[ホロコースト]]の資料作成を優先したのに比べ、[[Office of Strategic Services|戦略諜報局]]([[CIA]]の前身)が日本軍の満洲での初期の軍事行動に対して徹底的な調査を行わなかったからであると述べている<ref name="chronicle" />。[[ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班|IWG]]報告書の作成に携わった人たちは、731部隊に関する記録については既に機密解除されて公開されているので、今後のリリースには含まれていないだろうと述べている<ref name="chronicle" />。エドワード・ドリューは、731部隊については既に多くの記録が機密解除されて入手可能となっているにもかかわらず、歴史家、研究者、関係当事者が十分に活用できていないことが問題だ、と述べている<ref name="chronicle" />。そのため、[[2007年]]のIWG報告書の作成プロジェクトでは、新たな資料の発掘よりも、そのような既に公開済みの資料を見つけやすくし、よりアクセスしやすくするためのガイドの作成が優先事項とされた<ref name="chronicle" />。作成されたガイドは、日本の戦争犯罪に関する報告書の添付CD-ROMに収録されている<ref name="chronicle" /><ref name="NationalArchives" />。 |
|||
その他の文書としては、アメリカ、ユタ州の[[ダグウェイ細菌戦実験場]]で、731部隊による人体実験の数百ページに及ぶ詳細なデータ「[[ダグウェイ文書]]」が1991年に発見されている。この「[[ダグウェイ文書]]」には、炭疽菌について400ページ余にわたり、30例の解剖所見の人体模型図入りの記録、さらに心臓、肺、扁桃、気管支、肝臓、胃というように18の臓器ごとの顕微鏡写真入りの記録が記載されている<ref>{{Harvnb|松村|2008|p=331}}</ref>。 |
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=== 中国 === |
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原正義は、[[1928年]]の[[済南事件]]での日本人犠牲者の遺体を済南病院で検視している写真(『山東省動乱記念写真帖』〈昭和3年、青島新報 1928〉に掲載)が、731部隊が中国人に細菌人体実験をしている写真として『日本侵華図片史料集』や吉林省博物館、[[粟屋憲太郎]]の論文などで誤用・転用されていることを指摘している<ref>『朝日ジャーナル』(昭和59年11月2日号</ref><ref name="haratd">原正義「済南事件邦人被害者の写真(イラスト)を七三一部隊細菌戦人体実験として宣伝する中国教科書」『動向』1999年10月号、pp.40-45.動向社</ref>。 |
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== 旧址 == |
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現在[[侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館]]として整備されている。 |
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{{Gallery |
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|title=731部隊旧址 |
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|footer= |
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|width=80 |
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|height=70 |
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|lines=2 |
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|File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB120760.JPG|中国語と英語で書かれている731部隊本部建物説明。 |
|||
|File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121182.JPG|6号棟跡 |
|||
|File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121168.JPG|煉獄門と書かれた建物 |
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|File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121165.JPG|建物内部は現在資料館。 |
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|File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121186.JPG|1号棟右側 |
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|File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB120762.JPG|731部隊遺跡建物表札 |
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|File:Building on the site of the Harbin bioweapon facility of Unit 731 関東軍防疫給水部本部731部隊(石井部隊)日軍第731部隊旧址 PB121161.JPG|元監視塔 |
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}} |
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== 関連作品 == |
== 関連作品 == |
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=== テレビドキュメンタリー === |
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=== 音楽 === |
|||
* 『テレビルポルタージュ 魔の731部隊』(日本、[[TBS]]、[[吉永春子]]ディレクター、1975年8月10日)<ref>米倉律「「戦争加害」という主題の形成 ─ 1970 年代におけるテレビの「8月ジャーナリズム」を中心に─」『ジャーナリズム&メディア』第13号、日本大学法学部新聞学研究所、2019年9月、 209-225頁</ref> |
|||
* [[池辺晋一郎]] 混声合唱組曲『悪魔の飽食』、1984年。原詩は森村誠一。 |
|||
* 『テレビルポルタージュ 続魔の731部隊』(日本、TBS、吉永春子ディレクター、1976年8月15日)<ref>同上</ref> |
|||
* [[スレイヤー]] 米国の[[スラッシュメタル]][[バンド]]。2009年発売の[[アルバム]]・『[[血塗ラレタ世界]]』収録の「ユニット731」。 |
|||
* 『[[驚きももの木20世紀]] 闇に消えた七三一部隊 石井四郎の罪と罰』(日本、[[テレビ朝日]]、1999年4月23日)<ref>{{Cite web|url=http://www.ef-1.co.jp/program/asahi-housou/|title=制作番組|えふぶんの壱|accessdate=2022-12-11}}</ref> |
|||
* 『[[知ってるつもり?!]] 「731部隊と医学者たち」』(日本、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、2000年3月5日) |
|||
* 『[[NHKスペシャル]] 731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~』(日本、[[NHK]]、2017年8月13日)<ref>{{Cite web|url=https://www.nhk.or.jp/special/detail/20170813.html |title=731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~ |access-date=2023-09-03 |publisher=NHK |website=NHKスペシャル}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009050802_00000 |title=NHKスペシャル 731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~ |access-date=2023-09-03 |publisher=NHK |website=NHKアーカイブス}}</ref> |
|||
* 『[[BS1スペシャル]] 「731部隊(前編) 人体実験はこうして拡大した」「731部隊(後編) 隊員たちの素顔」』(日本、NHK、2018年1月21日)<ref>{{Cite web|url=https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018084483SA000/ |title=BS1スペシャル 「731部隊(前編) 人体実験はこうして拡大した」 |access-date=2023-09-03 |publisher=NHK |website=NHKオンデマンド}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018084484SA000/ |title=BS1スペシャル 「731部隊(後編) 隊員たちの素顔」 |access-date=2023-09-03 |publisher=NHK |website=NHKオンデマンド}}</ref> |
|||
* 『NHKスペシャル [[未解決事件 (NHKスペシャル)|未解決事件]] 「File.09 松本清張と帝銀事件」』(日本、NHK、2022年12月29日・30日) |
|||
* 『[[報道特集_(TBS)|報道特集]] 「731部隊 14歳の証言」』(日本、TBS、2024年4月13日)<ref>{{Cite web |url=https://www.tbs.co.jp/houtoku/archive/20240413_2.html |title=特集アーカイブ|TBSテレビ:報道特集 |accessdate=2024-05-02 |publisher=TBSテレビ |website=報道特集公式サイト}}</ref> |
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* 『ドキュメンタリー「解放区」 「標本室 731部隊 細菌戦と少年たち」』(日本、TBS、2024年10月21日)<ref>{{Cite web |url=https://www.tbs.co.jp/kaihou-ku/archive/20241020.html |title=標本室 731部隊 細菌戦と少年たち|TBSテレビ:ドキュメンタリー「解放区」 |accessdate=2024-10-21 |publisher=TBSテレビ |website=ドキュメンタリー「解放区」公式サイト}}公式サイトでは「10月20日放送」と記載されているが深夜の放送であるため実際に放送されたのは日付が変わった10月21日。</ref> |
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=== 小説 === |
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*『細菌』(日本、[[吉村昭]]著、1970年 後に『蚤と爆弾』と改題) |
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*『凍河』(日本、[[五木寛之]]著、1976年) |
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*『新・人間の証明』(日本、[[森村誠一]]著、1982年) |
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*『[[湖の女たち]]』(日本、[[吉田修一]]著、2020年) |
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=== 映画 === |
=== 映画 === |
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* 『[[凍河]]』(日本、[[斎藤耕一]]監督、1976年) |
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* 『[[黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌]]』(香港、[[牟敦芾]]監督、1988年) |
* 『[[黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌]]』(香港、[[牟敦芾]]監督、1988年) |
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* 『黒い太陽七三一II 悪魔の生態実験室』(香港、ゴッドフリー・ホー監督、1992年)※DVD邦題:黒い太陽 恐怖の細菌部隊731 殺人工場 |
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* 『黒い太陽七三一III 石井細菌部隊の最期』(香港、ゴッドフリー・ホー監督、1993年)※DVD邦題:黒い太陽 恐怖の細菌部隊731 II 死亡列車 |
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* 『[[スパイの妻#映画版|スパイの妻〈劇場版〉]]』(日本、[[黒沢清]]監督、2020年) |
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* 『[[湖の女たち]]』(日本、[[大森立嗣]]監督、2024年) |
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=== テレビドラマ === |
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* 「[[731 (X-ファイルのエピソード)|731]]」 米国のテレビドラマ『[[X-ファイル]]』のエピソード。 |
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* 『[[妖魔夜行]]/魔獣めざめる』(日本、[[山本弘]]著者、1996年) |
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* 『[[スパイの妻]]』 2020年の日本・[[日本放送協会|NHK]]のテレビドラマ。 |
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=== 舞台 === |
=== 舞台 === |
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* 『 |
* 『エッグ』(日本、[[野田秀樹]]監督、2012年) |
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=== マンガ === |
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* 『[[龍-RON-]]』(日本、[[村上もとか]]著、1991年 - 2006年) |
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* 『極東事変』(日本、大上明久利著、2019年) |
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=== 音楽 === |
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* [[長渕剛]] 1983年発売のアルバム『[[HEAVY GAUGE (長渕剛のアルバム)|HEAVY GAUGE]]』収録の「冷たい外国人」。 |
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* [[池辺晋一郎]] 混声合唱組曲『悪魔の飽食』、1984年。原詩は森村誠一。 |
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* [[スレイヤー]] 米国の[[スラッシュメタル]][[バンド (音楽)|バンド]]。2009年発売のアルバム『[[血塗ラレタ世界]]』収録の「ユニット731」。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{Commonscat|Unit 731}} |
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* [[悪魔の飽食]] |
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* [[登戸研究所]] |
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* [[731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟]] |
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* [[100部隊]] |
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* [[516部隊]] |
* [[516部隊]] |
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* [[帝銀事件]] |
* [[帝銀事件]] |
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* [[BC級戦犯]] |
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* [[ハバロフスク裁判]] |
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* [[ペーパークリップ作戦]] |
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* [[IG・ファルベンインドゥストリー]] |
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* [[薬害エイズ事件]] |
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* [[百人斬り競争]] |
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* [[日本薬理学会]] |
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* [[慶松勝左衛門]]([[同仁会]]){{efn|同仁会は日本の医学・医療を中国およびアジア諸国に普及することを目的に、一九〇二年六月に設立された医療事業団体である。一九四六年二月、連合軍総司令部指令に基づく日本政府の「政党・協会・団体結成禁止令」による解散までの四十余年間、中国で病院経営・難民救済・文化交流など、幅広い活動を行っていた<ref>ディン・レイ『[https://web.archive.org/web/20230529002219/http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/98ding1.htm 近代日本の対中医療・文化活動 -同仁会研究(一)]』。</ref>。}} |
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== 参考文献 ==<!--著者名50音順--> |
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* {{Cite book|和書| author=青木冨貴子|authorlink=青木冨貴子 | title = 731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く | publisher = [[新潮社]] | year = 2005 | isbn = 978-4-10-373205-1 }} |
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** {{Cite book|和書| author = 青木冨貴子 | title = 731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く | series = [[新潮文庫]] | publisher = [[新潮社]] | year = 2008-01 | isbn = 978-4-10-133751-7 | ref = {{SfnRef|青木|2008}} }} |
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* 加藤哲郎『「飽食した悪魔』の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』花伝社、2017年 {{ISBN2|978-4763408099}} |
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* {{Citation|和書|date=1983-09-05|title=日の丸は紅い泪に〈第731部隊員告白記〉|author=越定男|edition=第5刷|publisher=[[教育史料出版会]]|id={{NDLJP|12227487}}|ref={{SfnRef|越|1983}}}}{{要登録}} |
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* 常石敬一 『医学者たちの組織犯罪―関東軍第七三一部隊』 [[朝日文庫]] 1999年 {{ISBN2|4-02-261270-3}} |
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* 常石敬一 『謀略のクロスロード [[帝銀事件]]捜査と731部隊』 [[日本評論社]] 2002年 {{ISBN2|4-535-58337-4}} |
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* シェルダン・ハリス(近藤昭二訳)『死の工場 隠蔽された731部隊』柏書房、1999年 {{ISBN2|978-4760117826}} |
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*:常石敬一は、シェルダン・ハリスについて、731部隊と[[100部隊]]を混同していること、『[[悪魔の飽食]]』でも問題になった731部隊とは無関係の写真を著書に掲載していることなどを指摘し、ハリスの著作の信頼性を疑問視している<ref>常石(2005年)、171頁。</ref> |
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* 篠塚良雄、高柳美知子『日本にも戦争があった 七三一部隊元少年隊員の告白』[[新日本出版社]]、2007年 {{ISBN2|978-4406031028}} |
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* 田中明、松村高夫(編)『十五年戦争極秘資料集29 七三一部隊作成資料』不二出版、1991年(731部隊員作成による人体実験-きい弾(イペリット弾)曝射実験や破傷風菌接種実験-における被験体経過観察報告書(前述の『きい弾射撃ニ因ル皮膚障害並一般臨床的症状観察』および『破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ』)などを収載) {{ISBN2|978-4835010298}} |
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* 田辺敏雄 『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』 [[自由社]]、2002年 {{ISBN2|4-915237-36-2}} |
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* [[西野瑠美子]] 『731部隊のはなし』[[明石書店]]、1994年 {{ISBN2|978-4750306063}} |
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* {{Cite book|和書| author = 秦郁彦 | title = 昭和史の謎を追う (上) | series = [[文春文庫]] | year = 1999-12 | isbn = 4-16-745304-5 | ref = {{SfnRef|秦|1999}} }} |
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<!--* {{Cite book|和書| author = ハル・ゴールド | translator = 浜田徹 | title = 証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡 | publisher = [[廣済堂出版]] | year = 1997-07 | isbn = 978-4-331-50590-8 | ref = {{SfnRef|ゴールド|1997}} }} |
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** {{Cite book|和書| author = ハル・ゴールド | translator = 浜田徹 | title = 証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡 | series = 廣済堂文庫 | publisher = [[廣済堂出版]] | year = 2002-02 | isbn = 978-4331653159 | ref = {{SfnRef|ゴールド|2002}} }}--><!--権威の確認できないジャーナリストによる著作典であり「信頼できる情報源」として疑義あり--> |
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* {{Cite journal|和書|author=松村高夫|author2=[[金平茂紀]]|year=1991-07|title=『ヒル・レポート』(上) : 731部隊の人体実験に関するアメリカ側調査報告(1947年)|journal=三田学会雑誌|volume=84|issue=2|page=286-287|publisher=慶應義塾経済学会|doi=10.14991/001.19910701-0286| ref = {{SfnRef|松村、金平|1991}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=松村高夫 |date=1998-07|title=731部隊と細菌戦 : 日本現代史の汚点|journal=三田学会雑誌|volume=91|issue=2|page=239-260|publisher=慶應義塾経済学会|doi=10.14991/001.19980701-0071| ref = {{SfnRef|松村|1998}} }} |
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* {{Cite book|和書| author = 松村高夫 | title = 日本帝国主義下の植民地労働史 | publisher = 不二出版 | year = 2008 | isbn = 978-4835057569 | ref = {{SfnRef|松村|2008}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=松村高夫 |date=2013-04|title=731部隊による細菌戦と戦時・戦後医学|journal=三田学会雑誌|volume=106|issue=1|page=31-68|publisher=慶應義塾経済学会|doi=10.14991/001.20130401-0031| ref = {{SfnRef|松村|2013}} }} |
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* [[森村誠一]] 『[[悪魔の飽食]] 新版』 [[角川文庫]]、1983年 {{ISBN2|4-04-136565-1}} |
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:※ [[下里正樹]]との共同取材に基づくが、秦郁彦は[[ノンフィクション]]作品としては問題点があると述べている<ref>{{Harvnb|秦|1999|p=538}}</ref>。中川八洋は、戦後も[[冷戦]]下で日本やアメリカと対峙したソ連による「プロパガンダ小説」であると主張した<ref>『悪魔の飽食』は旧ソ連のプロパガンダだった 中川八洋 「[[正論 (雑誌)|正論]]」平成14年11月号 276-287頁</ref>(指摘されている問題点については当該項目を参照)。 |
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* 渡辺延志 「731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告―石井機関の枢要金子軍医の論文集発見」『世界』830号、[[岩波書店]],2012年。http://avic.doc-net.or.jp/siryou/20125watanabe.pdf |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|3}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{Kotobank}} |
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* [[松村高夫]] 『[http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/224.html 731部隊と細菌戦に関する鑑定書]』 2001年2月5日 [[慶應義塾大学]][[名誉教授]] |
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* 「[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b157024.htm 衆議院議員川田悦子君提出七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問に対する答弁書]」(2003年10月10日送付) - 衆議院 |
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* 土屋貴志 『[http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/doshisha/index.html 同志社大学文学部「倫理学特論」講義ノート目次]』 [[大阪市立大学]][[文学部]][[准教授]] |
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** 「[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a157024.htm 七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書]」(2003年10月3日提出) - 衆議院 |
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** 『[http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/doshisha/1-10.html 10. 日本の医学犯罪(1)概説]』 |
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** 『[http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/doshisha/1-11.html 11. 日本の医学犯罪(2)生物兵器の使用]』 |
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** 『[http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/doshisha/1-12.html 12. 日本の医学犯罪(3)軍医の訓練(「手術演習」)]』 |
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** 『[http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/doshisha/1-13.html 13. 日本の医学犯罪(4)研究(人体実験)]』 |
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* 山本真-大分協和病院医師(編) 森下清人-元七三一部隊少年隊2期生(回答) 『[http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm 七三一部隊元隊員証言記録]』 1991年9月インタビュー |
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* [http://www.archives.gov/press/press-releases/2007/nr07-47.html 100,000 Pages Declassified in Search for Japanese War Crimes Records] |
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2024年12月1日 (日) 15:44時点における最新版
関東軍防疫給水部本部(731部隊) | |
---|---|
司令部の建物 | |
創設 | 1940年(昭和15年)7月 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 日本 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
兵科 | 衛生部 |
兵種/任務 | 軍医、防疫、生物戦 |
所在地 | 満洲国ハルビン市平房区 |
通称号/略称 | 満洲第731部隊 |
上級単位 | 関東軍防疫給水部 |
最終位置 | 満洲国ハルビン市平房区 |
戦歴 | ノモンハン事件-日中戦争 |
731部隊 | |
---|---|
再建された建物(1号棟) | |
場所 | 満洲国、ハルビン市、平房区 |
座標 | 北緯45度36分 東経126度38分 / 北緯45.6度 東経126.63度座標: 北緯45度36分 東経126度38分 / 北緯45.6度 東経126.63度 |
日付 | 1940年 – 1945年 |
攻撃手段 |
人体実験 生物戦争 化学戦争 |
武器 |
生物兵器 化学兵器 爆薬 |
死亡者 | 人体実験でおよそ3,000人、戦場ではおよそ数万人 |
攻撃者 |
軍医総監・石井四郎[1][注釈 1] 中将・北野政次[2][3][注釈 1] 防疫給水部 |
731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。
正式名称は関東軍防疫給水部(関東軍防疫部から改称)[4]。731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満洲第七三一部隊の略。なお、1941年3月に通称号が導入されるまでは、指揮官であった石井四郎の苗字を取って石井部隊と通称された。
満洲に拠点を置き、兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった[注釈 2]。そのために人体実験[5]や、生物兵器の実戦的使用[6][7]を行っていたとされる。
沿革
1925年、化学兵器と細菌兵器の使用を禁じるジュネーブ議定書が、締結された際、石井四郎は条約で禁止しなければならないほど細菌兵器が脅威であり、有効であるなら、これを開発しない手はないと考えた。その頃、石井は2年間の長期に渡り海外旅行を行ったが、帰国後に最強諸国が細菌戦の準備を行っており、日本もその準備をしなければ、大きな困難に遭遇すると日本陸軍省や参謀本部幹部らに、説いて回った[8]。
1932年(昭和7年)8月、陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満洲への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた[9]。
1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」[10]で関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。1940年の年間予算は1000万円という高額なものであった[8]。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。このとき同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満洲第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した[9]。
石井の構想したのは「パスツール研究所」や「ロックフェラー研究所」のような総合医学研究施設であったが、内地でできないこと(人体実験)を行うためには満州の北端に行けばよいと考えた。京都帝大医学部からは、助教授や講師級の若い優秀な研究者が派遣され、石川太刀雄丸(病理学)、岡本耕造(解剖学)、田部井和(チフス研究)、湊正男(コレラ研究)、吉村寿人(凍傷研究)、笠原四郎(ウイルス研究)、二木秀雄(結核研究)、貴宝院秋夫(天然痘研究)、などが石井の元に集められた[8]。
1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満洲第659部隊)」に改編された。そのうちの本部が「関東軍防疫給水部本部(通称号:満洲第731部隊)」である。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた[9]。厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だった[11]。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている[1]。浙江省寧波、玉山、金華などの都市へのチフス菌、コレラ菌の散布が行われたものの成功せず、ペスト菌に感染したノミを寧波や金華に投下して成功、これに満足すると記録フィルムを制作し、軍隊内で大々的に宣伝した。石井はペスト菌を細菌作戦の主要兵器として選択するとペストノミの生産能力の拡大に尽力する。常徳でのペストノミの1000メートル上空からの投下や、1942年の浙かん作戦を敢行。この頃、いったん移動により東京に戻り、北野政次が2代目隊長に就任するが、1945年3月には戦況が悪化したため、石井が部隊に戻るが、着任早々、「戦況が悪化しつつあるため、春の終わりか夏には好転を期し、細菌兵器を含む最後の手段を用いなければならない」と熱弁をふるった。同時にペストノミ生産のため、9月末までに300万匹のネズミの増殖を命令した。しかし、8月8日、予想よりもはるかに早くソ連が満州に侵攻。起死回生の秘密兵器は使われることはなく、施設の撤収、撤去作業を余儀なくされた[8]。
1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。敗戦に際して、軍は関連文書の処分を命じ、証拠隠滅を図った[4]。
大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満洲に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追された[12]。
戦後、部隊に所属していた医師たちは、アメリカに研究資料などを提供する見返りとして、戦犯免責を受けた[4]。また、元隊員の越定男によると、隊員たちは、「郷里に帰ったのちも、七三一に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと」「あらゆる公職には就かぬこと」「隊員相互の連絡は厳禁する」ことを申し渡された[13]。
戦後の状況
2018年4月、国立公文書館に保管されていた、1945年1月現在の所属全3605人(軍医52人、技師49人、看護婦38人、衛生1117人他)の氏名・階級・当時の連絡先が記された名簿が開示された[14]。
2020年6月19日、西山勝夫・滋賀医科大学名誉教授のグループが国立公文書館で、1950年から51年にかけて政府が作成した関連公文書「関東軍防疫給水部部隊概況」を発見。開示された41枚の文書には、林口・牡丹江・孫呉・ハイラルの4支部に関する「細部調査票」「行動群経過要図」などが含まれている。一方で本部と大連支部の細部調査票と行動群経過要図が含まれていなかったとのこと。またこれにより、作成時点での全隊員数は3262人と判明したという[15]。
「職員表」など公式文書の発見
2023年8月、関東軍が1940年9月に作成した、731部隊の「職員表」などを含む報告書が国立公文書館に残されていたと報道された[4]。これまで知られていなかった人たちの名前も含まれているという[4]。
防疫活動
1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功章が贈られた。一方で、ノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある[16]。
生物兵器の開発と実戦的使用
第一次世界大戦における化学兵器の使用を受け、1925年のジュネーヴ議定書では戦争時における化学兵器・生物兵器(細菌兵器)の使用禁止が規定された。ただし、開発・生産・貯蔵といった行為は禁止項目ではなかった。
このような背景もあり、常石敬一や秦郁彦によれば、731部隊は単に生物兵器の研究を行っていただけではなく、生物兵器を実戦で使用していた[6][17]。731部隊ではペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われ、寧波、常徳、浙贛(ズイガン)などで実際にペスト菌が散布されたと常石は述べている[17]。
731部隊の傭人として3年間勤務した鶴田兼敏は、ノモンハン事件での生物戦での実体験について、細菌の培養液を入れたガソリン缶をトラックに積んで輸送したこと、中身を河に流す際の事故により鶴田の内務班の班長だった軍曹が培養液を浴び、腸チフスで死亡したことなどを語っている[18]。
元部隊員への尋問・関連論文
戦後のサンダースやトンプソンによる調査において、田中淳雄少佐は、1943年に防疫研究の余暇を使ってペストノミの増殖の研究を命ぜられたものの、ペストノミの増殖に不可欠な白ネズミが不足していたことから、ペストノミの大量増殖は不可能であったと供述している[19]。
その後、1947年に米軍の細菌戦研究機関キャンプ・デトリック(現フォート・デトリック)のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、日中戦争(支那事変)において、浙贛作戦(1942年)などで12回の生物兵器の使用があったとする。また、ペスト菌汚染された蚤を空中散布した、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者も複数存在する[20]。
サンダース、トンプソンによる調査において元隊員が人体実験や細菌戦について語らなかった理由について、トンプソンは、開示する情報の量と質が事前に指示されていたのでは無いかと推測しつつ、生物戦、特に攻撃面の研究・開発の規模について小さく見せたいという意図があったのであろうと述べている[21]。
金子順一論文
1940年の新京や農安でのペストの大流行が、731部隊の細菌散布により起きたとする元731部隊所属の金子順一軍医の「論文集(昭和19年)」が、2011年に日本の国立国会図書館関西部で発見された[22][23][24][25]。論文では、1940年6月4日に日本軍が農安(吉林省)でノミ5グラムをまき、1次感染8人、2次感染607人の患者が発生し、同年10月27日には寧波で2キロ軍機から投下し、1次・2次感染合計1554人、41年11月4日には常徳に1.6キロ投下し、2810人を感染させ、6つケースの細菌戦では感染者は計2万5946人に上ったと報告している。また、投下した年月日はこれまで判明していたものと一致している[22]。
また金子論文は、太平洋や東南アジアでペスト菌を撒くことを想定し、地域や季節による効果を試算した研究内容を記述している[22]。これらの計画は初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする秦郁彦の説もある[26]。
2012年6月15日衆議院外務委員会で社民党の服部良一議員は金子論文について質問すると、玄葉大臣は時間経過などを考えれば政府調査で事実関係が断定できるか難しく、今後の歴史学者の研究を踏まえていきたいと答弁した[24]。
ペスト菌攻撃とされる事例
寧波
1940年10月27日早朝に行われた寧波へのペスト菌攻撃は、低空飛行の飛行機から細菌をまく方法で行われた。この時使われたノミは、ペスト菌を持つネズミの血を吸い「ペストノミ」となったものだった。ノミだけではうまく目的地点に到達しない恐れがあり、また着地のショックを和らげる必要もあって、穀物や綿にまぶして投下した。11月3日までに37人が死亡し、華美病院の丁立成院長が、犠牲者の症状をペスト菌であると宣言している[27]。
満洲新京
1940年(昭和15年)11月に満洲国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動し、流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めたとされる。しかし、この点についてシェルダン・ハリスや解学詩は、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったと述べている[28][29]。
常石敬一は、新京や農安で発生したペスト流行については日本軍の細菌攻撃説には確かな証拠がなく、疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病だったのではないかと述べていた[30]。
しかし、2011年の金子論文発見により、ジャーナリストの渡辺延志は、新京でのペスト流行は新京から60キロの農安で始まった731部隊の細菌攻撃に端を発しており、農安から持ち込まれた犬が入院していた新京の日本人経営の犬猫病院を起点として、ペスト菌が拡大していったと述べている[25]。
常徳
1941年11月4日に常徳で行われた同様のペスト菌攻撃は、散布の効果が薄かった。これは、中国側が寧波での経験を生かし、日本機が菌を散布した後に衛生担当者がただちにまかれたものを収集し、破棄したからである。結果として中国側は死者数を一桁に抑えられた[31]。
浙贛
一方で、同1941年に行われた浙贛への細菌攻撃では、1万人以上の被害が出た。コレラ患者を中心に1700人以上が死亡したものの、犠牲者はすべて日本兵だった。被害にあった日本兵は上官から、「これは中国による生物兵器攻撃だ」と教えられたと供述している[32]。
人体実験
常石敬一や秦郁彦によれば、731部隊では生物兵器の開発や治療法の研究などの目的で、本人の同意に基づかない不当な人体実験が行われていた。石井四郎は医学研究において「内地でできないこと」があり、それを実行するために作ったのがハルビンの研究施設であった、と戦後に語っており、この「(日本)内地でできないこと」とは主に人体実験を指していると常石敬一は述べている[33]。
元陸軍軍医学校防疫研究室の責任者で、石井四郎の右腕といわれた内藤良一(のちの「ミドリ十字」の設立者)は、戦後のニール・スミス中尉による尋問で次のように証言している。
「石井がハルビンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。(中略)石井はハルビンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルビンでは何の妨害もなく捕虜を入手することが可能でした。」さらに、細菌部隊のアイデアは石井ひとりのものだったとし、「日本の細菌学者のほとんどは何らかの形で石井の研究に関わっていました。(中略)石井はほとんどの大学を動員して部隊の研究に協力させていた」
実験材料「マルタ」と呼ばれた人々
元731部隊員の複数の証言によれば、人体実験の被験者は主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称され、その中には、一般市民、女性や子供が含まれていたという[34]。
マルタの人数は、終戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言によると3,000人以上とされる[35]。731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は、2007年に、一日に2〜3体、多い時は1日5体を生体解剖したと証言している[36]。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700 - 800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある[37]。
終戦時には、生存していた40-50人の「マルタ」が証拠隠滅のために殺害されたという[12]。
こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、後述するいくつかの文書資料および元部隊員など関係者の証言であるが、証言の中にはソビエト連邦や中華人民共和国政府の捕虜となっていた時期に供述書として提供されたものもある(ただし全ての証言がそうというわけではなく、捕虜となった経歴が確認されない人物の証言もある)。このうち日本人捕虜の「認罪」過程については、中華人民共和国政府による洗脳として供述書の信憑性に注意すべきであるという指摘もある[38]。
細菌学的実験
元731部隊員で中国の撫順戦犯管理所に1956年まで拘留され[39]、帰国後は中国帰還者連絡会(中帰連)会員として活動してきた[40]篠塚良雄は、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」に配属され、ペスト患者の生体解剖に関わったと主張している[41]。篠塚は帰国後、高柳美知子との共著の中で、中国人マルタの生体解剖の様子を語っている[42]。生体実験では、日本人が犠牲になることもあったという。篠塚はペストに感染した友人の少年隊員であった平川三雄の生体解剖に立会ったとも語っている [43]。
一方、田辺敏雄は、こういった中帰連関係者などの証言について、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定(自己批判)させられた者の証言であるとして、信憑性を疑問視している[44]。
長野県出身の少年隊員であった清水英男は14歳の時に防疫給水部に配属され、ホルマリン漬けにされたマルタの人体標本を上官に見せられ、証拠隠滅のため火葬されたマルタの遺骨を川に遺棄する作業に従事したという[45][46]。
生理学的実験
731部隊では、ガス壊疽実験、凍傷実験、銃弾実験などのように、人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえることができるのか、あるいはそこからどのように治療すれば回復させることができるのか、といった生理学的な研究も頻繁に行われた。こういった実験は、731部隊以外の陸軍病院などでも行われた[47]。
元731部隊員の越定男によれば、731部隊で最も熱心に行われた人体実験は、ガラスで覆われた部屋で行われたガス実験だった[48]。越は、ガス実験に立ち会った時の様子を著書に記している[49]。マルタとして、ここに運び込まれたのは、30歳代で中国人が多く、次にロシア人が多かった[50]。ここで使われたガスは、イペリット、ホスゲン、ルイサイト、青酸ガス、一酸化炭素ガスなどだった[50]。
731部隊の印刷部員だった上園直二は、白系ロシア人の男性2名が裸で冷凍室に入れられ、死亡する過程を撮影されている光景を目にした、という証言をしている[51]。
731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は、2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、子持ちの慰安婦を解剖したこと、母が死んだ後にその子どもは凍傷の実験台に使用したことなどを回想している[52]。
1935年から1936年にかけて背陰河の東郷部隊に傭人として勤めた栗原義雄は、水だけを飲ませて何日生きられるかという耐久実験をやらされた[53]として、回想を語っている。
細菌爆弾の効果測定
常石によれば、マルタを使用した安達実験場での爆弾実験は、新型爆弾の開発が追い込みにかかる1943年末以降に活発化した[54]。炭疽菌爆弾の場合、マルタは榴流弾の弾子で負傷し、血だらけとなる。マルタは担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどのように死んでいくかが観察された。多くの場合、全員が感染し、数週間以内に死亡している。最後には内臓のどの部分が最もダメージを受けたかを明らかにするために、解剖された[55]。
石井部隊長の私設秘書的存在として活動していた郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟から、安達実験場での細菌爆弾の効果測定にマルタが使用されていたという証言を聞き出している[56]。
性病実験と女性マルタ
ジャーナリストである西野瑠美子がある元隊員にインタビューしたとする報告によれば、当初731部隊では注射で女性マルタに梅毒を感染させていたが、現実に即した実験結果が得られなかったため、マルタを強制して性行為を行わせることで梅毒を感染させ、梅毒にかかった男女を小部屋に入れて再び性行為を強制したという。性行為に立ち会ったと称する元隊員は白衣を着た複数の人間の監視のもとで性行為が強制されたことなどを語っている[57]。
証拠隠滅とマルタの殺害
1945年8月9日のソ連軍の満洲への侵攻直後、731部隊の施設建物が大量の爆薬によって破壊された。常石敬一は、この破壊は証拠隠滅であったとする[58]。秦郁彦は、終戦時には、生存していた40~50人のマルタが証拠隠滅のために殺害されたと推測している[12]。
元隊員の越定男によれば、棟に青酸ガスを噴出させて殺害したり、直接手を下さずに確実に殺すため、銃で脅しながら、互いに向かい合わせ、首にロープを巻き、その中央に棒を差し込んで、互いにねじらせたりした[59]。その他いろいろな方法で殺害した[59]。
731部隊が証拠隠滅を急いだのはマルタだけではなかった。1棟2階の「陳列室」をはじめ第一部各課研究班には、ホルマリン容器に入った生首、腕、胴体、脚部、各種内臓の標本が、伝染病の種類や病状ごとに計1000個ほど保存されており、これらは夜陰に乗じて松花江に投げ捨てられたという。さらに、増産を重ねてきた各種細菌のストック、夥しい数のネズミ、数億匹のノミ、解剖記録、病理記録、細菌培養記録などは掘った穴に集められ、重油で焼却されている。その後、施設建物が大量の爆薬によって破壊された。この時の爆破の煙はハルビン市内からも見えたと言われている[58]。
戦後
アメリカ合衆国による731部隊調査
アメリカ合衆国は、日本の敗戦直後から4次にわたって細菌戦専門家による731部隊調査団を派遣した[60][61]。調査はすべて、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部部長チャールズ・ウィロビーの全面的な協力のもとで進められ、報告書(レポート)がアメリカ国防総省あてに提出された[60]。
- 第1次 - 責任者マレー・サンダース、1945年11月1日付「サンダース・レポート」、部隊組織や実験内容を詳述、人体実験への言及なし[60][61][62]
- 第2次 - 責任者アーヴォ・トンプソン(Arvo T. Thompson)、1946年5月31日付「トンプソン・レポート」、部隊組織や実験内容を詳述、人体実験への言及なし[60][61][62]
- 第3次 - 責任者ノーバート・フェル(Norbert H. Fell)、1947年6月20日付「フェル・レポート」、人体実験への言及あり[60][61][62]
- 第4次 - 責任者エドウィン・ヒル(Edwin V. Hill)、1947年12月12日付「ヒル・レポート」、人体実験への言及あり[60][61][62]
ウィリアムズとワラスは、731部隊の実験データの多くは元隊員たちが密かに持ち帰ったため、最終的にはアメリカ軍の戦後の生物兵器開発に生かされたと述べている。また、人体実験に手を染めたものの、ハバロフスク裁判を免れた軍医たちは連合国から戦犯として裁かれることなく、大学医学部や国立研究所や各地の病院に職を得たと述べている[63]。
常石敬一が編訳した米軍資料によれば、アメリカ政府は、日本の生物戦研究情報は国家の安全にとって価値があり、他国に入手されないためにも「戦犯」裁判にかけるべきではない、と結論したという[64]。
ハバロフスク裁判
柄沢十三夫証言
731部隊の実験データに強い関心を示していたソ連は、ハバロフスク裁判で731部隊の第4部細菌製造部第1班班長であった柄沢十三夫少佐を厳しく尋問し、柄沢は1946年9月26日から30日までの間に、731部隊の編成と責任者、研究内容、設備、人体実験の事実、中華民国での細菌兵器使用、寧波と常徳で行われたペストノミ攻撃の事実を認め、総指揮者が石井四郎であったと証言した[65]。また、ハバロフスク裁判の判決準備書面で、安達付近演習場にてで昭和18年~19年に行われた炭疽菌爆弾の人体実験、動物実験について述べている[47]。
川島清証言
また、柄沢の上司だった川島清軍医少将(731部隊第4部長)も、飛行機によるペストノミの散布、ペストノミの入った陶磁器製爆弾の投下、天皇の命令書、部隊の資金と出資、マルタの供給と受領の仕組みなどについて供述した[65]。川島によれば、実験の犠牲者は3,000人以上とされる[66]。
倉員サトル証言
731部隊の憲兵班の曹長であった倉員サトルは、ハバロフスク裁判において、1940年に吉村研究員が凍傷実験を自分に見せてくれた時の様子について、手の指が全く欠けていたり手が黒くなっている中国人被実験者らを目にしたと証言している[67]。
厚生省
2019年11月に国立公文書館が開示決定した公文書の中に、1950年9月に厚生省復員局留守業務第3課(当時)が取り残された軍医や軍人の状況を把握するために作成した文書「業務通報(B)第50号 関東防疫給水部」が、2020年2月6日までに西山勝夫・滋賀医大名誉教授によって発見された。文書の中に、本部第一部が細菌研究と第四部が細菌生産など部隊構成や敗走経路から帰国するまでの経路、抑留された人数なども書かれていた[68]。
朝鮮戦争における細菌戦
北朝鮮、ソ連、中国は、朝鮮戦争でアメリカが日本軍の731部隊のデータをもとに細菌戦を実施し、また石井四郎も従軍したと主張した[69]。
一方、キャサリン・ウエザースビー(Kathryn Weathersby)は、米軍が朝鮮戦争で細菌戦を行ったというのは、北朝鮮、ソ連、中国による捏造でありプロパガンダであるとした[69]。メリーランド大学のミルトン・ライテンバーグは、1998年にソ連共産党中央委員会の文書を入手し、そこに「米国人に対する非難は架空のものだ」と書かれていることを明らかにした[70]。
日本国への賠償請求
1997年に中華人民共和国の180名が、ハーグ陸戦条約3条違反などにもとづき細菌戦の被害者への謝罪と賠償を日本政府に求める裁判を日本で起こした(731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟)。
2002年、東京地方裁判所は、ハーグ陸戦条約が個人に国際法主体性を認めておらず、また日中平和友好条約で日中共同声明の「戦争賠償の請求放棄」原則が確認されて国際法上は国家責任は決着した、補償法令の立法不作為も認められないなどとして請求を棄却し、原告側が敗訴した[71]。他方、東京地方裁判所は細菌戦の事実関係について、当該訴訟では原告側の立証活動だけで被告側による反証活動がされていないという制約があり、複雑な歴史的事実であるから歴史の審判に耐え得る事実の認定は学問的な考察と議論に待つほかはないとしたうえで、当該裁判所の事実認定としては731部隊や中支那防疫給水部(1644部隊)が1940年から1942年にかけてペスト感染したノミを散布したり、コレラ菌を井戸に入れるなど細菌兵器の実戦使用(細菌戦)があったと判断[71]、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した[72]。しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
2005年の控訴審判決でも東京高等裁判所は細菌戦はあったとしつつも賠償請求は棄却するという原審判断を踏襲した[73]。2007年には最高裁判所が原告による上告および上告受理の申立てを棄却したため、上記の地裁・高裁判断に基づく賠償請求棄却、すなわち原告側の敗訴が確定した[74]。
旧陸軍軍医学校跡地で発見された人骨との関連
1989年7月に東京都新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地に建設予定の国立感染症研究所建設現場で、四肢が様々な位置で切断された形跡が残った大量の人骨が発見された[75]。人骨の身元は不明だが、731部隊の犠牲者の可能性があるとして市民団体は政府調査を要求した[75]。
1992年4月、札幌学院大学教授の佐倉朔が人骨に関する鑑定結果を出し、骨に人為的加工や銃撃または斬撃または切断の跡が残っているものがあったこと、また1890年~1940年頃に埋められたものであったことなどを記した[76]。
この鑑定結果から「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(人骨の会)」代表常石敬一は、凍傷や壊死など、四肢の切断を必要とする手術の練習台に、これらの人骨が使用されたのではないかと主張している[77]。また、新宿区が遺骨焼却予算を計上したため、焼却差止住民訴訟が起こされたが、2000年に敗訴確定(人骨焼却差止住民訴訟事件)[78]。
2001年の厚労省調査報告では、陸軍軍医学校関係者368人への聞き取り調査によって、標本類また医学教育用に集められたもので、戦死者等から作成された可能性はあるが、731部隊によるものを否定する回答もあり、確定できなかった[79]。
2011年、厚労省が初の発掘調査を行った[75]。
2016年、人骨の会代表常石敬一らはミトコンドリアDNAの鑑定などを厚労省に要望した[80]。
人体実験を裏付ける資料とその真偽
日本
確認されている文献史料としては、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いについての特例措置に関するものがあり、これが731部隊に移送されて人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている[81]。1938年1月26日に関東軍の各憲兵隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」(関憲警第58号)では、スパイ容疑者や思想犯、匪賊、アヘン中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソ連のスパイ(ソ連の諜報員の略で「ソ諜」「蘇諜」等と表記)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している[82]。
松村高夫によれば、吉村寿人による第15回満洲医学会ハルビン支部の特別講演(1941年10月26日)の記録『凍傷ニ就テ』は文書で残されたものとしては数少ない同部隊の人体実験の記録とのことであり、その中に記された「実験1」では零下20度で手を冷却して凍傷の発生を見ているほか、「実験5」では「絶食3日後」や「一昼夜不眠」などの前準備の後に「血管反応ノ状況ヲ観察シ」て抗凍傷指数を算出、「実験6」でも「苦力101名ニツキ抗凍傷指数ヲ求メ」ているという。[83]この『凍傷ニ就テ』は国立公文書館アジア歴史資料センターにてインターネット公開されている。[84]
同じく松村高夫によれば、同部隊診療部の永山太郎、池田苗夫、荒木三郎による報告書『破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ』は破傷風毒素と芽胞を人間の足背部に接種して発症時の筋肉の電位変化を測定したという内容で、対象とされた14名が全員死亡していることが報告書に十字で示されているという。また『きい弾射撃ニ因ル皮膚障害並一般臨床的症状観察』には、1940年9月7日から10日にかけて行われた、被験者16人を野外に配置して彼らに向けてイペリット弾を発射して生じた症状を観察する実験内容が記載されているという。[83][60]
秦郁彦によれば、現存する731部隊の医学的成果を分析したところによると、「猿」を使った流行性出血熱(孫呉熱)の病原ウイルス特定と、凍傷治療法の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという[85]。
アメリカ
731部隊が行った人体実験("human experimentation")の記録は、既に機密指定解除されたアメリカ政府や軍の公文書より発見されている[62][86][87]。それらの文書はアメリカ国立公文書記録管理局で公開されており[62][86][87]、731部隊が行った人体実験を研究する者にとって基礎的な資料となっている[87]。一方、ナチスの戦争犯罪に関する調査が800万ページにも及んだのに対し日本の戦争犯罪に対する調査が僅か10万ページと極端に少なかったことから、多くの知識人は、米国には依然として日本の戦争犯罪に関する膨大な資料が眠っていると疑っている[86]。ただし、そのような資料は今のところ見つかっておらず、近年になって新たに機密指定解除された一連の公文書からも、前述のサンダース、トンプソン、フェル、ヒルらによるレポート等の既に公開されている記録は確認されたものの[62]、それ以上の新たな記録は見つからなかった[86]。日本の戦争犯罪に関する資料がナチスの戦争犯罪に関する資料に比べて極端に少ないことについて、米陸軍戦史センター(CMH)の元主任研究員エドワード・ドリューは、「終戦直前の1945年8月12日からアメリカ軍の一部が日本に上陸する8月28日までの間に、主要な記録の多くが日本当局により隠滅されたため」と述べている[86]。また、コロンビア大学教授のキャロル・グラック(日本近代史専攻)は、アメリカの、日本軍の満洲での初期の軍事行動に対する関心が終戦時と比べて低かったこと、そして連合軍がヨーロッパにおけるホロコーストの資料作成を優先したのに比べ、戦略諜報局(CIAの前身)が日本軍の満洲での初期の軍事行動に対して徹底的な調査を行わなかったからであると述べている[86]。IWG報告書の作成に携わった人たちは、731部隊に関する記録については既に機密解除されて公開されているので、今後のリリースには含まれていないだろうと述べている[86]。エドワード・ドリューは、731部隊については既に多くの記録が機密解除されて入手可能となっているにもかかわらず、歴史家、研究者、関係当事者が十分に活用できていないことが問題だ、と述べている[86]。そのため、2007年のIWG報告書の作成プロジェクトでは、新たな資料の発掘よりも、そのような既に公開済みの資料を見つけやすくし、よりアクセスしやすくするためのガイドの作成が優先事項とされた[86]。作成されたガイドは、日本の戦争犯罪に関する報告書の添付CD-ROMに収録されている[86][87]。
その他の文書としては、アメリカ、ユタ州のダグウェイ細菌戦実験場で、731部隊による人体実験の数百ページに及ぶ詳細なデータ「ダグウェイ文書」が1991年に発見されている。この「ダグウェイ文書」には、炭疽菌について400ページ余にわたり、30例の解剖所見の人体模型図入りの記録、さらに心臓、肺、扁桃、気管支、肝臓、胃というように18の臓器ごとの顕微鏡写真入りの記録が記載されている[88]。
中国
原正義は、1928年の済南事件での日本人犠牲者の遺体を済南病院で検視している写真(『山東省動乱記念写真帖』〈昭和3年、青島新報 1928〉に掲載)が、731部隊が中国人に細菌人体実験をしている写真として『日本侵華図片史料集』や吉林省博物館、粟屋憲太郎の論文などで誤用・転用されていることを指摘している[89][90]。
旧址
現在侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館として整備されている。
関連作品
テレビドキュメンタリー
- 『テレビルポルタージュ 魔の731部隊』(日本、TBS、吉永春子ディレクター、1975年8月10日)[91]
- 『テレビルポルタージュ 続魔の731部隊』(日本、TBS、吉永春子ディレクター、1976年8月15日)[92]
- 『驚きももの木20世紀 闇に消えた七三一部隊 石井四郎の罪と罰』(日本、テレビ朝日、1999年4月23日)[93]
- 『知ってるつもり?! 「731部隊と医学者たち」』(日本、日本テレビ、2000年3月5日)
- 『NHKスペシャル 731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~』(日本、NHK、2017年8月13日)[94][95]
- 『BS1スペシャル 「731部隊(前編) 人体実験はこうして拡大した」「731部隊(後編) 隊員たちの素顔」』(日本、NHK、2018年1月21日)[96][97]
- 『NHKスペシャル 未解決事件 「File.09 松本清張と帝銀事件」』(日本、NHK、2022年12月29日・30日)
- 『報道特集 「731部隊 14歳の証言」』(日本、TBS、2024年4月13日)[98]
- 『ドキュメンタリー「解放区」 「標本室 731部隊 細菌戦と少年たち」』(日本、TBS、2024年10月21日)[99]
小説
- 『細菌』(日本、吉村昭著、1970年 後に『蚤と爆弾』と改題)
- 『凍河』(日本、五木寛之著、1976年)
- 『新・人間の証明』(日本、森村誠一著、1982年)
- 『湖の女たち』(日本、吉田修一著、2020年)
映画
- 『凍河』(日本、斎藤耕一監督、1976年)
- 『黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌』(香港、牟敦芾監督、1988年)
- 『黒い太陽七三一II 悪魔の生態実験室』(香港、ゴッドフリー・ホー監督、1992年)※DVD邦題:黒い太陽 恐怖の細菌部隊731 殺人工場
- 『黒い太陽七三一III 石井細菌部隊の最期』(香港、ゴッドフリー・ホー監督、1993年)※DVD邦題:黒い太陽 恐怖の細菌部隊731 II 死亡列車
- 『スパイの妻〈劇場版〉』(日本、黒沢清監督、2020年)
- 『湖の女たち』(日本、大森立嗣監督、2024年)
テレビドラマ
舞台
- 『エッグ』(日本、野田秀樹監督、2012年)
マンガ
音楽
- 長渕剛 1983年発売のアルバム『HEAVY GAUGE』収録の「冷たい外国人」。
- 池辺晋一郎 混声合唱組曲『悪魔の飽食』、1984年。原詩は森村誠一。
- スレイヤー 米国のスラッシュメタルバンド。2009年発売のアルバム『血塗ラレタ世界』収録の「ユニット731」。
関連項目
参考文献
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- 青木冨貴子『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』新潮社〈新潮文庫〉、2008年1月。ISBN 978-4-10-133751-7。
- 加藤哲郎『「飽食した悪魔』の戦後 731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』花伝社、2017年 ISBN 978-4763408099
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- 常石敬一 『医学者たちの組織犯罪―関東軍第七三一部隊』 朝日文庫 1999年 ISBN 4-02-261270-3
- 常石敬一 『戦場の疫学』 海鳴社 2005年 ISBN 4875252269
- 常石敬一 『謀略のクロスロード 帝銀事件捜査と731部隊』 日本評論社 2002年 ISBN 4-535-58337-4
- 常石敬一 『標的・イシイ 731部隊と米軍諜報活動』 大月書店 1984年 ISBN 978-4272520091
- 近藤昭二(編) 『731部隊・細菌戦資料集成』 CD-ROM 柏書房、2003年 ISBN 4-7601-2404-7
- シェルダン・ハリス(近藤昭二訳)『死の工場 隠蔽された731部隊』柏書房、1999年 ISBN 978-4760117826
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- 田中明、松村高夫(編)『十五年戦争極秘資料集29 七三一部隊作成資料』不二出版、1991年(731部隊員作成による人体実験-きい弾(イペリット弾)曝射実験や破傷風菌接種実験-における被験体経過観察報告書(前述の『きい弾射撃ニ因ル皮膚障害並一般臨床的症状観察』および『破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ』)などを収載) ISBN 978-4835010298
- 田辺敏雄 『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』 自由社、2002年 ISBN 4-915237-36-2
- 西野瑠美子 『731部隊のはなし』明石書店、1994年 ISBN 978-4750306063
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う (上)』〈文春文庫〉1999年12月。ISBN 4-16-745304-5。
- 松村高夫、金平茂紀「『ヒル・レポート』(上) : 731部隊の人体実験に関するアメリカ側調査報告(1947年)」『三田学会雑誌』第84巻第2号、慶應義塾経済学会、1991年7月、286-287頁、doi:10.14991/001.19910701-0286。
- 松村高夫「731部隊と細菌戦 : 日本現代史の汚点」『三田学会雑誌』第91巻第2号、慶應義塾経済学会、1998年7月、239-260頁、doi:10.14991/001.19980701-0071。
- 松村高夫『日本帝国主義下の植民地労働史』不二出版、2008年。ISBN 978-4835057569。
- 松村高夫「731部隊による細菌戦と戦時・戦後医学」『三田学会雑誌』第106巻第1号、慶應義塾経済学会、2013年4月、31-68頁、doi:10.14991/001.20130401-0031。
- 森村誠一 『悪魔の飽食 新版』 角川文庫、1983年 ISBN 4-04-136565-1
- ※ 下里正樹との共同取材に基づくが、秦郁彦はノンフィクション作品としては問題点があると述べている[102]。中川八洋は、戦後も冷戦下で日本やアメリカと対峙したソ連による「プロパガンダ小説」であると主張した[103](指摘されている問題点については当該項目を参照)。
- 渡辺延志 「731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告―石井機関の枢要金子軍医の論文集発見」『世界』830号、岩波書店,2012年。http://avic.doc-net.or.jp/siryou/20125watanabe.pdf
脚注
注釈
- ^ a b 石井、北野は731部隊のトップとして人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。
- ^ 『在満兵備充実ニ関スル意見』(1936年4月23日付 板垣征四郎関東軍参謀長から梅津美治郎陸軍次官宛書類)の「其三、在満部隊ノ新設及増強改編」の項目第二十三には「関東軍防疫部の新設増強予定計画の如く昭和十一年度に於いて急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患其他特種の調査研究 ならびに細菌戦準備の為関東軍防疫部を新設す 又在満部隊の増加等に伴い昭和十三年度の以降其一部を拡充す関東軍防疫部の駐屯地は哈爾賓附近とす」とあり、関東軍防疫給水部の設立目的のひとつが「細菌戦準備」であったことがはっきりと明記されている。
- ^ 同仁会は日本の医学・医療を中国およびアジア諸国に普及することを目的に、一九〇二年六月に設立された医療事業団体である。一九四六年二月、連合軍総司令部指令に基づく日本政府の「政党・協会・団体結成禁止令」による解散までの四十余年間、中国で病院経営・難民救済・文化交流など、幅広い活動を行っていた[100]。
出典
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外部リンク
- 『731部隊』 - コトバンク
- 「衆議院議員川田悦子君提出七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問に対する答弁書」(2003年10月10日送付) - 衆議院
- 「七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書」(2003年10月3日提出) - 衆議院