コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「マンサ・ムーサ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
WP:EL、カテゴリの追加
m 曖昧さ回避ページガオへのリンクを解消、リンク先をガオ (都市)に変更(DisamAssist使用)
 
(22人の利用者による、間の51版が非表示)
1行目: 1行目:
{{正確性|date=2016年3月|既に問題点が指摘されて久しい、古すぎる研究に基づいて記事が書かれている。}}
{{基礎情報 君主
{{基礎情報 君主
| 人名 = マンサ・ムーサ
| 人名 = マンサ・ムーサ
4行目: 5行目:
| 君主号 = [[マリ帝国]]の王(マンサ)
| 君主号 = [[マリ帝国]]の王(マンサ)
| 画像 = Mansa Musa.jpg
| 画像 = Mansa Musa.jpg
| 画像サイズ = 300px
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 金を手にするマンサ・ムーサ
| 画像説明 = {{仮リンク|カタロニア地図|ca|Atles Català}}に記載された、'''塊'''を手にするマンサ・ムーサ
| 在位 = [[1312年]] - [[1337年]]
| 在位 = [[1312年]] - [[1337年]]?
| 戴冠日 =
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 別号 =
| 全名 = マンサ・カンク・ムーサ
| 全名 = マンサ・カンク・ムーサ
| 出生日 = 不明
| 出生日 = 1280年?
| 生地 =
| 生地 = [[マリ帝国]]
| 死亡日 = 1337年?
| 死亡日 = 1337年?
| 没地 =
| 没地 =
24行目: 25行目:
| 母親 =
| 母親 =
}}
}}
'''マンサ・ムーサ'''は、[[マリ帝国]]の9代目の王{{sfn|赤阪|1987|pp=320-322}}。在位:1312年-1337年?。アラビア語の文献には、マンサー・ムーサー({{rtl翻字併記|ar|منسا موسى|Mansā Mūsā}})の名で記録される。'''現在の価値にして約4000億ドル'''(約40兆円)という'''人類史上最高の総資産'''を保有した。<ref name=courrier>[[クーリエ・ジャポン]],2013年3月号,P13</ref>{{sfn|内藤|2013|pp=11-15}}


'''マンサ・ムーサ'''({{rtl-lang|ar|'''مانسا موسى'''}} {{lang|ar-Latn|Mansā Mūsā}})は、[[マリ帝国]]の10代目王(ンサ)。'''マンサ・サ'''とも表記される。カン・ムーサ(Kankou Musa)、ンゴ・ムーサ(Kango Musa)カンカン・ムーサ一世(Kankan Musa I)とも。この王の時代から[[マンサスレイマン]](Mansa Suleyman,在位:[[1341年]] - [[1360年]])の時代までにマリ帝国は最盛期を誇った。現在の価値にして約4000億ドル(約35兆円)という人類史上最高の総資産を保有した<ref name=courrier>[[クーリエ・ジャポン]],2013年3月号,P13</ref>
[[1324年]]の派手な[[メッカ巡礼]]で著名である。巡礼帰途、立ち寄った[[マムルー朝]]治下の[[イロ]]で金相場を下落させるほど大量の金を惜しみなく分け与えた。この王の時代からマンサスレイマン在位:[[1341年]]-[[1360年]])の時代までにマリ帝国は最盛期を誇った。


==メッカ巡礼==
== 呼び名 ==
ヨーロッパや中東の文献では、歴史的に「'''マンサ・ムーサ'''」という名前で呼ばれる。「マンサ」は[[マリンケ語]]で皇帝あるいは王の中の王を意味する{{sfn|イブン・バットゥータ}}{{sfn|ニアヌ|1992|p=198}}。「ムーサ」は[[旧約聖書]]の預言者[[モーセ]](ムーサー)と同じ、[[セム人]]風の名前である。他に、「カンガ・ムーサ」「カンク・ムーサ」「カンカン・ムーサ」などの呼び名が伝わる。「カンガ・ムーサ」とは、「カンクの息子、ムーサ」を意味し、カンクは母親の名前である。これは当時の[[マンディンカ族]]が[[母系制|母系制社会]]を構築していたことを反映する。他の呼び名としては、マリ=コイ・カンカン・ムーサ、ゴンガ・ムーサ、「マリのライオン」などが存在する{{sfn|Hunwick|1999|p=9}}{{sfn|Bell|1972|pp=224-225}}。
マンサ・ムーサは[[1324年]]の[[メッカ]]巡礼で有名である。豪華なムーサの一行は周辺の国家にマリ帝国の富裕さを知らしめた。一行は[[ニジェール川]]上流の首都[[ニアニ]]からワラタ(現[[ウアラタ]]、[[モーリタニア]])、[[タワト]](現在の[[アルジェリア]]の都市)を通った。途上で訪れた[[カイロ]]では莫大な黄金をばらまいたため、金相場が暴落し10年以上の間[[インフレーション]]が続いたといわれる<ref name=courrier/>。ムーサのメッカ巡礼後にマリを訪れたマムルーク朝の学者[[アル=ウマリー]]([[:en:Chihab al-Umari|en]])はこの様子を次のように表している。「エジプトでの金の価格は彼ら(マンサ・ムーサ一行)が来たあの年(1324年)までは高かった。1ミスカル([[:en:Mithqal|mithqal]]、4.25グラム)の金は25ディルハム(通貨単位)を下回ることはなく、常にそれを上回っていた。しかしその時以来金の価格は下落し現在も下がり続けている。1ミスカルの金の価格は22ディルハムを下回った。そのときから約12年たった今日でもこのような状態であるのは、彼らがエジプトに持ち込み、ばら撒いていった大量の金が原因である」<ref>{{cite web|url=http://www.bu.edu/africa/outreach/materials/handouts/k_o_mali.html|title=Kingdom of Mali|accessdate=2009-09-09|publisher=Boston University|last=Bowman|first=Dorian}}</ref>


== 一次史料 ==
==周辺地域の征服==
[[ファイル:Genealogy kings Mali Empire.svg|サムネイル|upright=2|主に[[イブン・ハルドゥーン]]の年代記に基づいて{{harvtxt|Levtzion|1963}}が推定した[[マリ帝国]]歴代王の系譜図{{sfn|Levtzion|1963|p=353}}]]
マリ帝国は先代の王からの征服事業により支配地域を拡大していった。[[マンサ・サクラ]]([[1285年]] - [[1300年]])の治世での[[ガオ (都市)|ガオ]]征服はその例である。ムーサ自身も西方の[[テクルール]]を征服し、東方は[[ハウサ諸国]]との境界まで領土を拡大した。このような周辺地域の平定により上記の大規模なメッカ巡礼が可能になった。
[[マリ帝国]]の歴史を知るための史料は、[[アラビア人]]や[[ベルベル人]]の著述家が記録した[[歴史書一覧|文献資料]]と並んで、[[オーラル・ヒストリー|口承資料]]が重要である{{sfn|ニアヌ|1992|pp=188-193}}。口承資料は当該地域の歴史を外部からではなく内部から知ることが出来る{{sfn|ニアヌ|1992|pp=188-193}}。


まず、'''文献資料'''としては、[[マクリーズィー]]、{{仮リンク|シハーブッディーン・アフマド・ブン・ファドルッラー・ウマリー|en|Chihab al-Umari|label=ウマリー}}、アブー・サイード・ウスマーン・ドゥッカーリー、[[イブン・ハルドゥーン]]、[[イブン・バットゥータ]]などがある{{sfn|赤阪|2010|p=198}}。ドゥッカーリーはマリ帝国に35年間住んだ人物である{{sfn|苅谷|2013}}。ウマリーはドゥッカーリーに[[スーダン (地理概念)|西スーダーン]]事情について聞き取りを行った{{sfn|苅谷|2013}}。また、マンサ・ムーサ以前の西スーダーンについては、[[アブー・ウバイド・バクリー|バクリー]]が10 - 11世紀の、[[イドリースィー]]が12 - 13世紀の状況をそれぞれ伝えている{{sfn|ニアヌ|1992|pp=188-193}}。
==建設事業==
敬虔な[[ムスリム|イスラム教徒]]であったムーサは[[トンブクトゥ]]とガオに[[モスク]]や[[マドラサ]]を建設するという大事業に乗り出した。


次に、'''口承資料'''としては、「[[グリオ]]」と呼ばれる民族の歴史や過去の王たちの事績を相伝で伝えることを生業とする吟遊詩人による口頭伝承が利用できる{{sfn|ニアヌ|1992|pp=188-193}}。現在の[[マリ共和国]]南部の[[マンディンゴ地方]]([[ニジェール川]]上流域)には口頭伝承の中心地が数多く存在し、1960年代から1980年代にかけて[[ユネスコ]]により本格的な口承伝承の採録が進められた{{sfn|ニアヌ|1992|pp=188-193}}。しかし、グリオにはいくつかの流派が存在し、細部が異なる場合がある{{sfn|ニアヌ|1992|pp=188-193}}。また、ムーサに関して言えば、口頭伝承がムーサに言及することがまれであるため、詳細な事績があまり明らかでない{{sfn|ニアヌ|1992|p=249}}。
==脚注==
<references />


==外部リンク==
== 巡礼前 ==
[[ファイル:1154 world map by Moroccan cartographer al-Idrisi for king Roger of Sicily.jpg|サムネイル|[[イドリースィー]][[1154年]]製作の世界地図(上が南方向)。世界を取り囲む大洋を示す。]]
[[ファイル:Soumbedioune Boats (5405595088).jpg|サムネイル|現代の[[セネガル]]の[[ピローグ]]と呼ばれる舟]]
イブン・ハルドゥーンのマリ歴代王についての包括的な歴史叙述によると、マンサー・ムーサの祖父はアブー・バクル{{efn|[[サハーバ]]の[[アブー・バクル]]とは無関係(アブー・バクルの子孫を称しているという意味ではない)。}}・ケイタといい、[[オーラル・ヒストリー|口誦で伝えられる歴史]]に記憶されるマリ帝国の開祖、{{仮リンク|スンジャータ・ケイタ|en|Sundiata Keita}}の兄弟であるという。なお、アブー・バクル自身は王に即位することなく、息子でありムーサの父にあたるファガ・ライエも歴史に重要な役割を果たしていない{{sfn|Levtzion|1963|pp=341–347}}。

当時のマリには、王が[[メッカ巡礼]]に行くか、他の難行に挑むかする場合には[[摂政]]を立て、王が戻らない場合には摂政を後継者として指名するという習わしがあった。ムーサもこの習わしを経て王に即位した。[[マムルーク朝]]の学者アル=ウマリーが著した『諸都市の諸王国に関する視覚の諸道 (Masālik al-abṣār fī mamālik al-amṣār) 』によると、前王[[アブバカリ2世|アブーバカリー・ケイタ2世]]が[[大西洋]]の果てを探す探検に出発する際に、ムーサを摂政に立てた。前王は船に乗り込み、海の果てを目指して旅立ったが、二度と戻らなかったという。マンサー・ムーサはメッカ巡礼の帰りに立ち寄った[[カイロ]]で、[[マムルーク朝]]のスルタン・[[ナースィル・ムハンマド|アン=ナースィル・ムハンマド]]からムーサをもてなすよう命じられたカイロの総督[[イブン・アミール・アジブ]]に次のように語ったという{{sfn|ニアヌ|1992|p=217}}。

{{quote|先代の王さまは、大地の周りを取り囲む大洋の果てにたどり着くことなどできるわけがないという常識を信じておられなかった。大洋の果てを探検したいと思いなされ、実際におやりになった。まずは、200艘の舟いっぱいに人を乗り組ませ、また、金と水と物資を数年間は持つようにどっさり積み込んだ船団を人の乗り込む舟とは別に用意された。船団の提督には、大洋の果てにたどり着くか、又は、水と食料が尽きてしまうまで、戻ってくるなとお命じになった。そうして先遣隊が出発した。ところがいつまで経っても、一艘も帰ってこない。何ヶ月も過ぎた頃、ようやく一艘だけが戻った。舟の頭は訊問に答えて、「おお、陛下、私どもはずっと航海を続けた末に、大海の中ほどを巨大な川が流れているところに出くわしました。私どもの舟はしんがりを務めておりましたが、前にいた舟は皆、大渦巻に飲み込まれて沈んでしまい、二度と浮かび上がってきませんでした。私はこの流れから逃げて引き返したのでございます。」と述べた。しかしながら、王さまは船頭の言葉に信を置かれなかった。今度は2000艘の舟いっぱいに人を乗り組ませ、王さま自身も乗り組まれた。水と物資も先遣隊より多く1000艘の舟に積み込んだ。そして、不在の間の統治を朕に任せ、配下の者どもと共に旅立たれたのである。しかしながら今までのところお戻りになったことはない。生きていらっしゃるのかどうかも分からない。|Gaudefroy-Demombynes (1924) による仏訳の英訳の日本語訳{{efn|原文はアラビア語。原文からの英訳はほかにも、Levtzion & Hopkins 1981, pp268-269. により提供されている。この引用部分については、[http://www.muslimheritage.com/article/echos-what-lies-behind-ocean-fogs-muslim-historical-narratives Echos of What Lies Behind the 'Ocean of Fogs' in Muslim Historical Narratives] も参照されたい。}}。}}

また、ムーサがメッカ巡礼に行って留守の間には、やはりこの習わしにしたがって、ムーサの息子でマリ王国の次代の王となったマガン・ケイタが摂政に立てられていた{{sfn|Levtzion|1963|p=347}}。

ムーサは帝位につくと間もなく、将軍サラン・マンディアンの補佐を受けた。マンサ・サクラ以後、2代又は3代続けて非力な王が続き、帝国の威光が陰りを見せていたが、サラン・マンディアンはガオを征服し、略奪や反乱を繰り返す[[トゥアレグ族|サハラの遊牧民]]を従わせ、ニジェール川湾曲部と西スーダーンのサヘル全域にわたる広大な地域においてマリ帝国の権威を再強化した{{sfn|ニアヌ|1992|p=215}}。

== メッカ巡礼 ==
[[ファイル:Map of Trans-Saharan Trade from 13th to Early 15th Century.JPG|サムネイル|400ピクセル|13世紀 - 15世紀初頭の[[マリ帝国]]と[[サハラ交易]]路]]
マンサ・ムーサは[[1324年]]の[[メッカ]]巡礼で有名である。このとき、'''10トンを越える黄金'''をラクダで運ばせたという<ref>「改訂版 世界の民族地図」p241 高崎通浩著 1997年12月20日初版第1刷発行</ref>。

豪華なムーサの一行は周辺の国家にマリ帝国の富裕さを知らしめた。一行は[[ニジェール川]]上流の首都[[ニアニ]]からワラタ(現[[ウアラタ]]、[[モーリタニア]])、[[タワト]](現在の[[アルジェリア]]の都市)を通った。途上で訪れた[[カイロ]]では莫大な黄金をばらまいたため金相場が暴落し、10年以上の間[[インフレーション]]が続いたといわれる<ref name=courrier/>{{sfn|内藤|2013|pp=11-15}}。ムーサのメッカ巡礼後にマリを訪れたマムルーク朝の学者{{仮リンク|シハーブ・アッ=ディーン・アブー・アル=アッバース・アフマド・イブン・ファドル・アッラーフ・アル=ウマリー|en|Chihab al-Umari|label=アル=ウマリー|fixme=1}}はこの様子を次のように表している。「エジプトでの金の価格は彼ら(マンサ・ムーサ一行)が来たあの年(1324年)までは高かった。1{{仮リンク|ミスカール|en|Mithqal}}(4.25グラム)の金は25[[ディルハム]](通貨単位)を下回ることはなく、常にそれを上回っていた。しかしその時以来金の価格は下落し現在も下がり続けている。1ミスカルの金の価格は22ディルハムを下回った。そのときから約12年たった今日でもこのような状態であるのは、彼らがエジプトに持ち込み、ばら撒いていった大量の金が原因である」{{sfn|内藤|2013|pp=11-15}}

グリオが伝える口頭伝承によれば、王は全ての交易都市と地方から特別な寄付を徴収し、おびただしい従者を従えてニアニを出発したという{{sfn|ニアヌ|1992|p=215}}。また、16世紀初頭に[[マフムード・カティ]]が述べたところによると「皇帝の隊列の先頭がトンブクトゥについたとき、皇帝はまだ宮廷に留まっていた」と文書に記録された伝承があるという{{sfn|ニアヌ|1992|p=215}}。

ムーサの一行は家臣6万人、奴隷1万2千人以上からなっていたと報告されている。奴隷はそれぞれが4ポンドの重さの金の延べ棒を持っていた。家臣たちは絹の服を着て黄金の杖を持ち、旅荷を持たせた馬の隊商を連れていた。ムーサはこの巡礼の旅に必要な一切の費用を出し、お供や家畜らの食料を賄ったとされている{{sfn|Goodwin|1957|p=110}}。

このような豪勢な巡礼の旅を可能にした一つの要素としては、マリ帝国による周辺地域の征服がある。マリ帝国は先代の王からの征服事業により支配地域を拡大していった。[[マンサ・サクラ]]([[1285年]] - [[1300年]])の治世での[[ガオ (都市)|ガオ]]征服はその例である。ムーサ自身も西方の[[テクルール]]を征服し、東方は[[ハウサ諸国]]との境界まで領土を拡大した。このような周辺地域の平定により上記の大規模なメッカ巡礼が可能になった。

[[アル=マクリーズィー]]は、ムーサの外見について、次のように書き残している。

{{quote|彼は褐色の肌をした青年で、好感の持てる顔立ちをし、[[マーリク派]]の典礼に通じていて体格もりっぱであった。彼はすばらしい装束をして馬に乗り、取り巻きたちの真ん中に姿を見せ、一万人を下らない臣下を従えていた。そして目を見張るばかりに美しく見事な贈物や下賜品をもたらした。|[[アル=マクリーズィー]]{{sfn|ニアヌ|1992|pp=215-216}}{{efn|原文アラビア語。J.Cuoq. 1975, pp.91-92. の元木(1992)による日本語訳を引用。}}}}

また、{{仮リンク|マフムード・カティ|fr|Mahmud Kati}}は、『{{仮リンク|探求者の年代記|en|Tarikh al-fattash}}』に次のように書き残している。

{{quote
|[[地中海]]から[[インダス川]]に至る広大な地域から、忠実な信者たちがメッカの町にやってくる。皆の目的は一つ、[[イスラーム]]の聖なる神殿、[[メッカ]]の[[カーバ神殿]]で共に礼拝することである。西スーダーンはマリの[[スルタン]]、マンサ・ムーサもそのような旅行者の一人だった。彼は自分と従者たちが敢行する長い旅路に向けて念入りに準備した。そして、自らの信仰心を満たすためだけでなく、知識人や指導者を招いて自分の王国が[[ムハンマド|預言者]]の教えをもっと学べるようにするために巡礼の旅を行うと心に決めた。
|[[マフムード・カティ]]『[[探求者の年代記]]』
}}

== 巡礼後の治世 ==
メッカから帰る長い旅の途中の[[1325年]]にムーサは、サグマンディア将軍に率いられた自国の軍勢が[[ニジェール川]]沿いの交易都市[[ガオ (都市)|ガオ]]を再び占領したという知らせを耳にした。ガオは元は[[ソンガイ王国]]の都のあった重要な交易都市であり、{{仮リンク|マンサー・サークーラ|fr|Sakoura}}による遠征以来、マリ王国の版図に組み入れられていたが、たびたび反乱を起こしていた。ムーサは遠回りしてガオに立ち寄り、ガオの王ヤシボ(又はアシバイ)の二人の息子、[[アリー・コロン]]とスライマーン・ナル(又はネーリ)を人質として受け取った。ムーサは二人を自分の宮廷に連れて帰り、そこで教育を施した{{sfn|Delafosse|1912|pp=72-74|ps= (volume.2 l'histore)}}{{efn|二人の兄弟は[[1335年]]に逃亡しガオ王国を再興した([[ソンニ王朝]])とされるが{{sfn|Delafosse|1912|p=73|ps= (volume.2 l'histore)}}異説もあり、Charles Monteil は1335年ではなくむしろ[[1275年]]であるとしている<ref>Jean Rouch [https://books.google.fr/books?id=_f83B1AIYD4C&pg=PA85 ''Les Songhay'' ] L'Harmattan, 2007 {{ISBN2|2747586154|9782747586153}}</ref>。}}。

[[ファイル:Mosqueetombou 01.JPG|サムネイル|マンサ・ムーサの治世に建てられたと伝えられる{{仮リンク|ジンガレー・ベル|en|Djinguereber Mosque}}]]
[[ファイル:MossiCavalry.jpg|サムネイル|敵陣の奥深くまで侵入する[[モシ王国]]の騎兵は精強なマリ帝国軍にとっても手強い襲撃者だった]]
敬虔な[[ムスリム|イスラム教徒]]であったムーサは、[[トンブクトゥ]]や[[ガオ (都市)|ガオ]]に数多くの[[モスク]]や[[マドラサ]]、[[マスジド]]を建設した{{sfn|African Legends}}。[[UNESCO]]の[[世界遺産]]にも含まれる有名なトンブクトゥの{{仮リンク|ジンガレー・ベル|en|Djinguereber Mosque}}は、ムーサが[[アル=アンダルス]]生まれの文人[[アブー・イスハーク・サーヒリー]]をエジプトから招聘して建設させたと伝えられており、元はマドラサであった{{sfn|赤阪|2010|pp=244-248}}{{sfn|De Villiers|Hirtle|2007|p=70}}。同じく世界遺産に登録されている{{仮リンク|サンコーレ・マドラサ|en|Sankore Madrasah}}は、最盛期には2万5千人の学生を抱えていた{{sfn|赤阪|2010|pp=244-248}}。なお、[[ジェンネ]]の大モスク([[泥のモスク]])もマンサ・ムーサにより建設されたものと誤解されることがあるが、これは[[1907年]]に再建されたものである。

また、イブン・ハルドゥーンが伝えるところによると、「ムーサは[[ニアニ]]の王宮の内側に、広く臣民の声を聴くための建物を建設することを欲したという。サヒリーはこれに応えて才能のすべてを傾けて見事な接見の間を建設した。王の希望通りに[[漆喰]]で塗装され石のタイルで覆われたその建物には、色とりどりの[[アラベスク]]で装飾されたドームがそびえていた。また、上の階の窓は銀で装飾が施されており、下の階の窓は金で装飾されていた。マリ帝国では建築学が知られていなかったのでムーサはことのほか喜び、サヒリーに褒美として1万2000[[ミスカール]]の砂金を与えた」という。しかしながら、19世紀にヨーロッパから植民者たちがやってきた頃にはこのような壮麗な王宮は失われていた。ムーサの時代から19世紀に至るまでこの地方では練り土に藁を混ぜたものを建築の材料に使っていたので、王宮は長年の雨の作用で元の土塊へと戻っていたものと推定されている{{sfn|ニアヌ|1992|pp=216-218}}。

この時期に、マリの主要な都市群は、一歩進んだ都市生活が営まれていた。都市文明の萌芽がみられ、マリ帝国の全盛期には少なくとも400もの町を版図に加え、ニジェール川デルタの中では人口密度が非常に高まった{{sfn|De Villiers|Hirtle|2007|p=74}}。当時の人口はきわめて多く、マリ帝国全体で4000〜5000万人、首都のニアニで約10万人くらいだったと推定されている{{sfn|宇佐見|1996||pp=57-58}}。[[トンブクトゥ]]は、すぐに交易、文化、イスラームの中心となった。[[ハウサ諸国]]、エジプト、その他のアフリカの王国から商人たちによって商品が持ち込まれ、大学が創設された。イスラームの教えが交易所と大学を介して広がったことによって、トンブクトゥはイスラーム諸学の中心となった{{sfn|De Villiers|Hirtle|2007|p=74}}。

マリ帝国の繁栄の噂はすぐに地中海を越えて南ヨーロッパにまで伝わり、[[ヴェネツィア]]、[[グラナダ]]、[[ジェノバ]]の商人たちは黄金を手に入れられる交易場所としてトンブクトゥを自分たちの地図の中に書き入れた{{sfn|De Villiers|Hirtle|2007|pp=87-88}}。

トンブクトゥにあるサンコーレ大学は、ムーサの治世下において、イスラーム法学者、天文学者、占星術師などを中東や北アフリカから招聘し、一大文化中心となった{{sfn|Goodwin|1957|p=111}}。

トンブクトゥは[[1330年]]に[[モシ王国]]に攻め込まれ、征服された。ガオはすでにムーサの将軍により陥落させていたので、ムーサはすぐにトンブクトゥを奪還し、敵の侵入に備えて石造りの城壁を町に張り巡らし、常備軍を常駐させることにした{{sfn|De Villiers|Hirtle|2007|pp=80-81}}。

[[ファイル:Mansamoussa.jpg|サムネイル|150ピクセル|マリ共和国独立50周年の年にマンサ・ムーサを記念して発行された金貨]]
マンサ・ムーサがいつ亡くなったかについてはよくわかっていない。マリ帝国の歴史を記録したアラブの学者や現代の歴史研究者の間でも見解の相違がみられる。ムーサの跡を継いだマンサ・マガンとマンサ・スレイマーンの治世と、25年間と記録されているムーサの治世とを比較した場合、ムーサは[[1332年]]に亡くなったと計算できる{{sfn|Levtzion|1963|pp=349–350}}。また別の記録によると、ムーサは息子のマガンに王位を譲ると宣言したあと、[[1325年]]の[[メッカ巡礼]]から帰ってきたすぐ後に亡くなったという{{sfn|Bell|1972|p=224}}。その一方で、[[イブン・ハルドゥーン]]が記した注釈によると、マリーン朝のスルタン・[[アブー・アルハサン・アリー]]がザイヤーン朝の首都[[トレムセン]]を攻略した[[1337年]]に、ムーサがこれを祝賀する使節を寄越してきており、この時点で彼はまだ生きていたと考えられる{{sfn|Levtzion|1963|pp=349–350}}{{sfn|Bell|1972|pp=224–225}}。

マンサ・ムーサの没後の評価はさまざまである。イスラーム圏では彼のメッカ巡礼と彼が建設したトンブクトゥの繁栄により、その名前が黄金伝説とともに長く記憶された。その一方で、口頭伝承がムーサに言及することはまれである。これは長期にわたる研究の結果、マンサ・ムーサが帝国の富を浪費しマンデの伝統から逸脱した人物と考えられたからであるとわかった{{sfn|ニアヌ|1992|p=249}}{{sfn|宇佐見|1996|pp=57-58}}。

このようなイスラーム圏中央からの視点、伝統社会からの視点から離れて、[[ギニア]]の歴史学者D.T.ニアヌは、ムーサがカイロやメッカに西アフリカからの巡礼者や旅人が泊まれる宿泊所や外交使節が滞在できる大使館を建設したことを指摘する。

また、マンサ・ムーサを、マリ共和国という近代国家を一つにまとめあげる国家統合のシンボルとして捉える考えもある。一例を挙げると、2010年9月22日、マリ独立50周年の機会にマリの実業家{{仮リンク|アリウ・ブバカル・ジャロ|fr|Aliou Boubacar Diallo}}は、マンサ・ムーサを記念する24金35グラム、8ミスカールの金貨をデザインした。彼は「マリは栄光の歴史とユニークな文化を持っているということ、とりわけ、マンサ・ムーサ王の治世にそうであったということを、思い起こしてもらいたいという、幸福で豊かな発展に値する国へのメッセージを込めて、この金貨をデザインした」と述べた<ref>{{cite web|language=French|title=Une pièce d’or pour célébrer le cinquantenaire du Mali|url=http://www.lesafriques.com/actualite/une-piece-d-or-pour-celebrer-le-cinquantenaire-du-mali.html?Itemid=89?articleid=25791|date=2010-07-15|accessdate=2015-11-11}}</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}

== 参考文献 ==
*{{cite journal | last=Bell | first=Nawal Morcos | year=1972 | title=The age of Mansa Musa of Mali: Problems in succession and chronology | journal= [[:en:International Journal of African Historical Studies|International Journal of African Historical Studies]] | volume=5 | pages=221–234 | jstor=217515}}.
*{{cite book
|last=De Villiers
|first=Marq
|authorlink=:en:Marq De Villers
|last2=Hirtle
|first2=Sheila
|title=Timbuktu: Sahara’s Fabled City of Gold
|publisher=Walker and Company
|location=New York
|date=2007
|ref=harv
}}
*{{cite journal | last=Goodwin | first=A.J.H. | year=1957 | title=The Medieval Empire of Ghana | journal=[[:en:South African Archaeological Bulletin|South African Archaeological Bulletin]]| volume=12| pages=108–112| jstor=3886971}}.
*{{cite book | last=Hunwick | first= John O.| authorlink= :en:John Hunwick | title= Timbuktu and the Songhay Empire: Al-Sadi's Tarikh al-Sudan down to 1613 and other contemporary documents | publisher=Brill| place=Leiden | year=1999 | isbn=90-04-11207-3 }}.
*{{cite journal | last=Levtzion | first=Nehemia | year=1963 | title=The thirteenth- and fourteenth-century kings of Mali | journal=[[:en:Journal of African History|Journal of African History]] | volume=4 | pages=341–353 | jstor=180027 | doi=10.1017/s002185370000428x}}.
*{{cite book | last=Levtzion | first=Nehemia | title=Ancient Ghana and Mali | publisher=Methuen | place=London | year=1973 | isbn=0-8419-0431-6}}.
*{{cite book | editor1-last=Levtzion | editor1-first=Nehemia | editor2-last=Hopkins | editor2-first=John F.P. |title=Corpus of Early Arabic Sources for West Africa | publisher=Marcus Weiner Press | place=New York, NY | year=2000 | isbn=1-55876-241-8}}. First published in 1981.
*{{cite journal
|last=Delafosse
|year=1912
|first=Maurice
|authorlink=モリス・ドゥラフォス
|title=Haut-Sénégal-Niger: Le Pays, les Peuples, les Langues; l'Histoire; les Civilizations. 3 Vols
|publisher=Émile Larose
|location=Paris
|language=French
|ref=harv
}} Gallica: Volume 1, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k103554s Le Pays, les Peuples, les Langues]; Volume 2, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1035644 L'Histoire]; Volume 3, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k103565h Les Civilisations].
*{{cite web
|language=en
|url=http://www.africanholocaust.net/africanlegends.htm#mansa
|title=Mansa Musa
|editor=Maafa: African Holocaust
|accessdate=2015-05-11
|ref=harv
}}
*{{cite book |和書
|author=[[イブン・バットゥータ]]
|title=[[三大陸周遊記]]抄
|series=[[中公文庫]]
|translator=[[前嶋信次]]
|publisher=[[中央公論新社]]
|date=2004-03-25
|isbn=412204345X
|ref=harv
}}
*{{cite book |和書
|title=世界の歴史〈24〉―アフリカの民族と社会
|series=[[中公文庫]]
|date=2010-02
|author=[[福井勝義]]
|author2=[[大塚和夫]]
|author3=[[赤阪賢]]
|publisher=[[中央公論新社]]
|ISBN=978-4122052895
|ref=harv
}}
*{{cite book |和書
|title=アフリカ史の意味
|date=1996-09-25
|author=[[宇佐見久美子]]
|publisher=[[山川出版社]]
|series=[[世界史リブレット]]
|ISBN=4-634-34140-9
|ref=harv
}}
*{{cite book |和書
|title=マリ近現代史
|author=[[内藤陽介]]
|date=2013-05-05
|publisher=[[彩流社]]
|ISBN=978-4-7791-1888-3
|ref=harv
}}
*{{cite journal |和書
|title=マンデ、王国形成の先駆者たち
|author=[[赤阪賢]]
|editor=[[川田順造]]
|journal=黒人アフリカの歴史世界(民族の世界史12)
|date=1987-02-28
|publisher=[[山川出版社]]
|isbn=4-634-44120-9
|ref=harv
}}
*{{cite book |和書
|title=ユネスコ・アフリカの歴史日本語版第四巻一二世紀から一六世紀までのアフリカ上
|author=D.T.ニアヌ
|editor=D.T.ニアヌ
|at=第6章マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張
|translator=元木淳子
|date=1992-09-20
|publisher=[[同朋舎出版]]
|ISBN=4-8104-1096-X
|ref=harv
}}
*{{cite journal
|journal=Journal of Asian and African Studies
|volume=No.86
|year=2013
|title=14世紀のスーダーン西部の金産地を巡る情報操作 マンサー・ムーサーの語りの分析を中心に
|author=[[苅谷康太]]
|ref=harv
}}

== 外部リンク ==
{{Commonscat|Mansa Musa}}
*[http://www.history.com/classroom/unesco/timbuktu/mansamoussa.html History Channel: Mansa Moussa: Pilgrimage of Gold]
*[http://www.history.com/classroom/unesco/timbuktu/mansamoussa.html History Channel: Mansa Moussa: Pilgrimage of Gold]
*[http://www.bu.edu/africa/outreach/materials/handouts/k_o_mali.html Al-Umari's description of Mansa Musa's 1324 visit to Cairo]
*[http://www.bu.edu/africa/outreach/materials/handouts/k_o_mali.html Al-Umari's description of Mansa Musa's 1324 visit to Cairo]
*[http://www.isidore-of-seville.com/mansa/ Sondiata and Mansa Musa on the Web]
*[https://web.archive.org/web/20050307020420/http://www.isidore-of-seville.com/mansa/ Sondiata and Mansa Musa on the Web]
*[http://www.africanholocaust.net/africanlegends.htm#mansa African Legends page]
*[http://www.africanholocaust.net/africanlegends.htm#mansa African Legends page]
*[http://www.africanevents.com/Essay-Habeeb-MansaMusa.htm African Events Mansa Musa page]
*[https://web.archive.org/web/20101205162545/http://africanevents.com/Essay-Habeeb-MansaMusa.htm African Events Mansa Musa page]
*[http://www.blackhistorypages.net/pages/mansamusa.php Mansa Musa], from Black History Pages
*[http://www.blackhistorypages.net/pages/mansamusa.php Mansa Musa], from Black History Pages


{{先代次代|マリ帝国の王|'''10代目'''<br >マンサ・ムーサ<br />1312年 - 1337年|[[アブバカリ2世]]|[[マガン2世]]}}
{{先代次代|マリ帝国の王|'''9代目'''<br >マンサ・ムーサ<br />1312年 - 1337年|[[アブバカリ2世]]|[[マガン2世]]}}
{{normdaten}}

{{People-stub}}
{{ML-stub}}


{{DEFAULTSORT:まんさ むさ}}
{{DEFAULTSORT:まんさ さ}}
[[Category:マリ帝国の君主]]
[[Category:西アフリカ史]]
[[Category:西アフリカ史]]
[[Category:イスラム史の人物]]
[[Category:イスラム史の人物]]
[[Category:14世紀生]]
[[Category:14世紀没]]
[[Category:14世紀没]]

2024年5月7日 (火) 09:44時点における最新版

マンサ・ムーサ
Mansa Musa
マリ帝国の王(マンサ)
カタロニア地図カタルーニャ語版に記載された、金塊を手にするマンサ・ムーサ
在位 1312年 - 1337年?

全名 マンサ・カンク・ムーサ
出生 1280年?
マリ帝国
死去 1337年?
子女 マガン2世
王朝 ケイタ朝
父親 Faga Laye
テンプレートを表示

マンサ・ムーサは、マリ帝国の9代目の王[1]。在位:1312年-1337年?。アラビア語の文献には、マンサー・ムーサー(アラビア語: منسا موسى‎, ラテン文字転写: Mansā Mūsā)の名で記録される。現在の価値にして約4000億ドル(約40兆円)という人類史上最高の総資産を保有した。[2][3]

1324年の派手なメッカ巡礼で著名である。巡礼の帰途、立ち寄ったマムルーク朝治下のカイロで、金相場を下落させるほど大量の金を惜しみなく分け与えた。この王の時代からマンサ・スレイマン(在位:1341年-1360年)の時代までにマリ帝国は最盛期を誇った。

呼び名

[編集]

ヨーロッパや中東の文献では、歴史的に「マンサ・ムーサ」という名前で呼ばれる。「マンサ」はマリンケ語で皇帝あるいは王の中の王を意味する[4][5]。「ムーサ」は旧約聖書の預言者モーセ(ムーサー)と同じ、セム人風の名前である。他に、「カンガ・ムーサ」「カンク・ムーサ」「カンカン・ムーサ」などの呼び名が伝わる。「カンガ・ムーサ」とは、「カンクの息子、ムーサ」を意味し、カンクは母親の名前である。これは当時のマンディンカ族母系制社会を構築していたことを反映する。他の呼び名としては、マリ=コイ・カンカン・ムーサ、ゴンガ・ムーサ、「マリのライオン」などが存在する[6][7]

一次史料

[編集]
主にイブン・ハルドゥーンの年代記に基づいてLevtzion (1963)が推定したマリ帝国歴代王の系譜図[8]

マリ帝国の歴史を知るための史料は、アラビア人ベルベル人の著述家が記録した文献資料と並んで、口承資料が重要である[9]。口承資料は当該地域の歴史を外部からではなく内部から知ることが出来る[9]

まず、文献資料としては、マクリーズィーウマリー英語版、アブー・サイード・ウスマーン・ドゥッカーリー、イブン・ハルドゥーンイブン・バットゥータなどがある[10]。ドゥッカーリーはマリ帝国に35年間住んだ人物である[11]。ウマリーはドゥッカーリーに西スーダーン事情について聞き取りを行った[11]。また、マンサ・ムーサ以前の西スーダーンについては、バクリーが10 - 11世紀の、イドリースィーが12 - 13世紀の状況をそれぞれ伝えている[9]

次に、口承資料としては、「グリオ」と呼ばれる民族の歴史や過去の王たちの事績を相伝で伝えることを生業とする吟遊詩人による口頭伝承が利用できる[9]。現在のマリ共和国南部のマンディンゴ地方ニジェール川上流域)には口頭伝承の中心地が数多く存在し、1960年代から1980年代にかけてユネスコにより本格的な口承伝承の採録が進められた[9]。しかし、グリオにはいくつかの流派が存在し、細部が異なる場合がある[9]。また、ムーサに関して言えば、口頭伝承がムーサに言及することがまれであるため、詳細な事績があまり明らかでない[12]

巡礼前

[編集]
イドリースィー1154年製作の世界地図(上が南方向)。世界を取り囲む大洋を示す。
現代のセネガルピローグと呼ばれる舟

イブン・ハルドゥーンのマリ歴代王についての包括的な歴史叙述によると、マンサー・ムーサの祖父はアブー・バクル[注釈 1]・ケイタといい、口誦で伝えられる歴史に記憶されるマリ帝国の開祖、スンジャータ・ケイタの兄弟であるという。なお、アブー・バクル自身は王に即位することなく、息子でありムーサの父にあたるファガ・ライエも歴史に重要な役割を果たしていない[13]

当時のマリには、王がメッカ巡礼に行くか、他の難行に挑むかする場合には摂政を立て、王が戻らない場合には摂政を後継者として指名するという習わしがあった。ムーサもこの習わしを経て王に即位した。マムルーク朝の学者アル=ウマリーが著した『諸都市の諸王国に関する視覚の諸道 (Masālik al-abṣār fī mamālik al-amṣār) 』によると、前王アブーバカリー・ケイタ2世大西洋の果てを探す探検に出発する際に、ムーサを摂政に立てた。前王は船に乗り込み、海の果てを目指して旅立ったが、二度と戻らなかったという。マンサー・ムーサはメッカ巡礼の帰りに立ち寄ったカイロで、マムルーク朝のスルタン・アン=ナースィル・ムハンマドからムーサをもてなすよう命じられたカイロの総督イブン・アミール・アジブに次のように語ったという[14]

先代の王さまは、大地の周りを取り囲む大洋の果てにたどり着くことなどできるわけがないという常識を信じておられなかった。大洋の果てを探検したいと思いなされ、実際におやりになった。まずは、200艘の舟いっぱいに人を乗り組ませ、また、金と水と物資を数年間は持つようにどっさり積み込んだ船団を人の乗り込む舟とは別に用意された。船団の提督には、大洋の果てにたどり着くか、又は、水と食料が尽きてしまうまで、戻ってくるなとお命じになった。そうして先遣隊が出発した。ところがいつまで経っても、一艘も帰ってこない。何ヶ月も過ぎた頃、ようやく一艘だけが戻った。舟の頭は訊問に答えて、「おお、陛下、私どもはずっと航海を続けた末に、大海の中ほどを巨大な川が流れているところに出くわしました。私どもの舟はしんがりを務めておりましたが、前にいた舟は皆、大渦巻に飲み込まれて沈んでしまい、二度と浮かび上がってきませんでした。私はこの流れから逃げて引き返したのでございます。」と述べた。しかしながら、王さまは船頭の言葉に信を置かれなかった。今度は2000艘の舟いっぱいに人を乗り組ませ、王さま自身も乗り組まれた。水と物資も先遣隊より多く1000艘の舟に積み込んだ。そして、不在の間の統治を朕に任せ、配下の者どもと共に旅立たれたのである。しかしながら今までのところお戻りになったことはない。生きていらっしゃるのかどうかも分からない。
Gaudefroy-Demombynes (1924) による仏訳の英訳の日本語訳[注釈 2]

また、ムーサがメッカ巡礼に行って留守の間には、やはりこの習わしにしたがって、ムーサの息子でマリ王国の次代の王となったマガン・ケイタが摂政に立てられていた[15]

ムーサは帝位につくと間もなく、将軍サラン・マンディアンの補佐を受けた。マンサ・サクラ以後、2代又は3代続けて非力な王が続き、帝国の威光が陰りを見せていたが、サラン・マンディアンはガオを征服し、略奪や反乱を繰り返すサハラの遊牧民を従わせ、ニジェール川湾曲部と西スーダーンのサヘル全域にわたる広大な地域においてマリ帝国の権威を再強化した[16]

メッカ巡礼

[編集]
13世紀 - 15世紀初頭のマリ帝国サハラ交易

マンサ・ムーサは1324年メッカ巡礼で有名である。このとき、10トンを越える黄金をラクダで運ばせたという[17]

豪華なムーサの一行は周辺の国家にマリ帝国の富裕さを知らしめた。一行はニジェール川上流の首都ニアニからワラタ(現ウアラタモーリタニア)、タワト(現在のアルジェリアの都市)を通った。途上で訪れたカイロでは莫大な黄金をばらまいたため金相場が暴落し、10年以上の間インフレーションが続いたといわれる[2][3]。ムーサのメッカ巡礼後にマリを訪れたマムルーク朝の学者アル=ウマリー英語版はこの様子を次のように表している。「エジプトでの金の価格は彼ら(マンサ・ムーサ一行)が来たあの年(1324年)までは高かった。1ミスカール英語版(4.25グラム)の金は25ディルハム(通貨単位)を下回ることはなく、常にそれを上回っていた。しかしその時以来金の価格は下落し現在も下がり続けている。1ミスカルの金の価格は22ディルハムを下回った。そのときから約12年たった今日でもこのような状態であるのは、彼らがエジプトに持ち込み、ばら撒いていった大量の金が原因である」[3]

グリオが伝える口頭伝承によれば、王は全ての交易都市と地方から特別な寄付を徴収し、おびただしい従者を従えてニアニを出発したという[16]。また、16世紀初頭にマフムード・カティが述べたところによると「皇帝の隊列の先頭がトンブクトゥについたとき、皇帝はまだ宮廷に留まっていた」と文書に記録された伝承があるという[16]

ムーサの一行は家臣6万人、奴隷1万2千人以上からなっていたと報告されている。奴隷はそれぞれが4ポンドの重さの金の延べ棒を持っていた。家臣たちは絹の服を着て黄金の杖を持ち、旅荷を持たせた馬の隊商を連れていた。ムーサはこの巡礼の旅に必要な一切の費用を出し、お供や家畜らの食料を賄ったとされている[18]

このような豪勢な巡礼の旅を可能にした一つの要素としては、マリ帝国による周辺地域の征服がある。マリ帝国は先代の王からの征服事業により支配地域を拡大していった。マンサ・サクラ1285年 - 1300年)の治世でのガオ征服はその例である。ムーサ自身も西方のテクルールを征服し、東方はハウサ諸国との境界まで領土を拡大した。このような周辺地域の平定により上記の大規模なメッカ巡礼が可能になった。

アル=マクリーズィーは、ムーサの外見について、次のように書き残している。

彼は褐色の肌をした青年で、好感の持てる顔立ちをし、マーリク派の典礼に通じていて体格もりっぱであった。彼はすばらしい装束をして馬に乗り、取り巻きたちの真ん中に姿を見せ、一万人を下らない臣下を従えていた。そして目を見張るばかりに美しく見事な贈物や下賜品をもたらした。

また、マフムード・カティフランス語版は、『探求者の年代記英語版』に次のように書き残している。

地中海からインダス川に至る広大な地域から、忠実な信者たちがメッカの町にやってくる。皆の目的は一つ、イスラームの聖なる神殿、メッカカーバ神殿で共に礼拝することである。西スーダーンはマリのスルタン、マンサ・ムーサもそのような旅行者の一人だった。彼は自分と従者たちが敢行する長い旅路に向けて念入りに準備した。そして、自らの信仰心を満たすためだけでなく、知識人や指導者を招いて自分の王国が預言者の教えをもっと学べるようにするために巡礼の旅を行うと心に決めた。

巡礼後の治世

[編集]

メッカから帰る長い旅の途中の1325年にムーサは、サグマンディア将軍に率いられた自国の軍勢がニジェール川沿いの交易都市ガオを再び占領したという知らせを耳にした。ガオは元はソンガイ王国の都のあった重要な交易都市であり、マンサー・サークーラフランス語版による遠征以来、マリ王国の版図に組み入れられていたが、たびたび反乱を起こしていた。ムーサは遠回りしてガオに立ち寄り、ガオの王ヤシボ(又はアシバイ)の二人の息子、アリー・コロンとスライマーン・ナル(又はネーリ)を人質として受け取った。ムーサは二人を自分の宮廷に連れて帰り、そこで教育を施した[20][注釈 4]

マンサ・ムーサの治世に建てられたと伝えられるジンガレー・ベル英語版
敵陣の奥深くまで侵入するモシ王国の騎兵は精強なマリ帝国軍にとっても手強い襲撃者だった

敬虔なイスラム教徒であったムーサは、トンブクトゥガオに数多くのモスクマドラサマスジドを建設した[23]UNESCO世界遺産にも含まれる有名なトンブクトゥのジンガレー・ベル英語版は、ムーサがアル=アンダルス生まれの文人アブー・イスハーク・サーヒリーをエジプトから招聘して建設させたと伝えられており、元はマドラサであった[24][25]。同じく世界遺産に登録されているサンコーレ・マドラサ英語版は、最盛期には2万5千人の学生を抱えていた[24]。なお、ジェンネの大モスク(泥のモスク)もマンサ・ムーサにより建設されたものと誤解されることがあるが、これは1907年に再建されたものである。

また、イブン・ハルドゥーンが伝えるところによると、「ムーサはニアニの王宮の内側に、広く臣民の声を聴くための建物を建設することを欲したという。サヒリーはこれに応えて才能のすべてを傾けて見事な接見の間を建設した。王の希望通りに漆喰で塗装され石のタイルで覆われたその建物には、色とりどりのアラベスクで装飾されたドームがそびえていた。また、上の階の窓は銀で装飾が施されており、下の階の窓は金で装飾されていた。マリ帝国では建築学が知られていなかったのでムーサはことのほか喜び、サヒリーに褒美として1万2000ミスカールの砂金を与えた」という。しかしながら、19世紀にヨーロッパから植民者たちがやってきた頃にはこのような壮麗な王宮は失われていた。ムーサの時代から19世紀に至るまでこの地方では練り土に藁を混ぜたものを建築の材料に使っていたので、王宮は長年の雨の作用で元の土塊へと戻っていたものと推定されている[26]

この時期に、マリの主要な都市群は、一歩進んだ都市生活が営まれていた。都市文明の萌芽がみられ、マリ帝国の全盛期には少なくとも400もの町を版図に加え、ニジェール川デルタの中では人口密度が非常に高まった[27]。当時の人口はきわめて多く、マリ帝国全体で4000〜5000万人、首都のニアニで約10万人くらいだったと推定されている[28]トンブクトゥは、すぐに交易、文化、イスラームの中心となった。ハウサ諸国、エジプト、その他のアフリカの王国から商人たちによって商品が持ち込まれ、大学が創設された。イスラームの教えが交易所と大学を介して広がったことによって、トンブクトゥはイスラーム諸学の中心となった[27]

マリ帝国の繁栄の噂はすぐに地中海を越えて南ヨーロッパにまで伝わり、ヴェネツィアグラナダジェノバの商人たちは黄金を手に入れられる交易場所としてトンブクトゥを自分たちの地図の中に書き入れた[29]

トンブクトゥにあるサンコーレ大学は、ムーサの治世下において、イスラーム法学者、天文学者、占星術師などを中東や北アフリカから招聘し、一大文化中心となった[30]

トンブクトゥは1330年モシ王国に攻め込まれ、征服された。ガオはすでにムーサの将軍により陥落させていたので、ムーサはすぐにトンブクトゥを奪還し、敵の侵入に備えて石造りの城壁を町に張り巡らし、常備軍を常駐させることにした[31]

マリ共和国独立50周年の年にマンサ・ムーサを記念して発行された金貨

マンサ・ムーサがいつ亡くなったかについてはよくわかっていない。マリ帝国の歴史を記録したアラブの学者や現代の歴史研究者の間でも見解の相違がみられる。ムーサの跡を継いだマンサ・マガンとマンサ・スレイマーンの治世と、25年間と記録されているムーサの治世とを比較した場合、ムーサは1332年に亡くなったと計算できる[32]。また別の記録によると、ムーサは息子のマガンに王位を譲ると宣言したあと、1325年メッカ巡礼から帰ってきたすぐ後に亡くなったという[33]。その一方で、イブン・ハルドゥーンが記した注釈によると、マリーン朝のスルタン・アブー・アルハサン・アリーがザイヤーン朝の首都トレムセンを攻略した1337年に、ムーサがこれを祝賀する使節を寄越してきており、この時点で彼はまだ生きていたと考えられる[32][7]

マンサ・ムーサの没後の評価はさまざまである。イスラーム圏では彼のメッカ巡礼と彼が建設したトンブクトゥの繁栄により、その名前が黄金伝説とともに長く記憶された。その一方で、口頭伝承がムーサに言及することはまれである。これは長期にわたる研究の結果、マンサ・ムーサが帝国の富を浪費しマンデの伝統から逸脱した人物と考えられたからであるとわかった[12][28]

このようなイスラーム圏中央からの視点、伝統社会からの視点から離れて、ギニアの歴史学者D.T.ニアヌは、ムーサがカイロやメッカに西アフリカからの巡礼者や旅人が泊まれる宿泊所や外交使節が滞在できる大使館を建設したことを指摘する。

また、マンサ・ムーサを、マリ共和国という近代国家を一つにまとめあげる国家統合のシンボルとして捉える考えもある。一例を挙げると、2010年9月22日、マリ独立50周年の機会にマリの実業家アリウ・ブバカル・ジャロフランス語版は、マンサ・ムーサを記念する24金35グラム、8ミスカールの金貨をデザインした。彼は「マリは栄光の歴史とユニークな文化を持っているということ、とりわけ、マンサ・ムーサ王の治世にそうであったということを、思い起こしてもらいたいという、幸福で豊かな発展に値する国へのメッセージを込めて、この金貨をデザインした」と述べた[34]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ サハーバアブー・バクルとは無関係(アブー・バクルの子孫を称しているという意味ではない)。
  2. ^ 原文はアラビア語。原文からの英訳はほかにも、Levtzion & Hopkins 1981, pp268-269. により提供されている。この引用部分については、Echos of What Lies Behind the 'Ocean of Fogs' in Muslim Historical Narratives も参照されたい。
  3. ^ 原文アラビア語。J.Cuoq. 1975, pp.91-92. の元木(1992)による日本語訳を引用。
  4. ^ 二人の兄弟は1335年に逃亡しガオ王国を再興した(ソンニ王朝)とされるが[21]異説もあり、Charles Monteil は1335年ではなくむしろ1275年であるとしている[22]

出典

[編集]
  1. ^ 赤阪 1987, pp. 320–322.
  2. ^ a b クーリエ・ジャポン,2013年3月号,P13
  3. ^ a b c 内藤 2013, pp. 11–15.
  4. ^ イブン・バットゥータ.
  5. ^ ニアヌ 1992, p. 198.
  6. ^ Hunwick 1999, p. 9.
  7. ^ a b Bell 1972, pp. 224–225.
  8. ^ Levtzion 1963, p. 353.
  9. ^ a b c d e f ニアヌ 1992, pp. 188–193.
  10. ^ 赤阪 2010, p. 198.
  11. ^ a b 苅谷 2013.
  12. ^ a b ニアヌ 1992, p. 249.
  13. ^ Levtzion 1963, pp. 341–347.
  14. ^ ニアヌ 1992, p. 217.
  15. ^ Levtzion 1963, p. 347.
  16. ^ a b c ニアヌ 1992, p. 215.
  17. ^ 「改訂版 世界の民族地図」p241 高崎通浩著 1997年12月20日初版第1刷発行
  18. ^ Goodwin 1957, p. 110.
  19. ^ ニアヌ 1992, pp. 215–216.
  20. ^ Delafosse 1912, pp. 72–74(volume.2 l'histore)
  21. ^ Delafosse 1912, p. 73(volume.2 l'histore)
  22. ^ Jean Rouch Les Songhay L'Harmattan, 2007 ISBN 2747586154, 9782747586153
  23. ^ African Legends.
  24. ^ a b 赤阪 2010, pp. 244–248.
  25. ^ De Villiers & Hirtle 2007, p. 70.
  26. ^ ニアヌ 1992, pp. 216–218.
  27. ^ a b De Villiers & Hirtle 2007, p. 74.
  28. ^ a b 宇佐見 1996, pp. 57–58.
  29. ^ De Villiers & Hirtle 2007, pp. 87–88.
  30. ^ Goodwin 1957, p. 111.
  31. ^ De Villiers & Hirtle 2007, pp. 80–81.
  32. ^ a b Levtzion 1963, pp. 349–350.
  33. ^ Bell 1972, p. 224.
  34. ^ Une pièce d’or pour célébrer le cinquantenaire du Mali” (French) (2010年7月15日). 2015年11月11日閲覧。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
先代
アブバカリ2世
マリ帝国の王
9代目
マンサ・ムーサ
1312年 - 1337年
次代
マガン2世