コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「尾留川正平」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 日付修正
(同じ利用者による、間の4版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox scientist
{{参照方法|date=2012年9月}}
|name = 尾留川 正平
'''尾留川 正平'''(びるかわ しょうへい、[[1911年]] - [[1978年]][[1月21日]])は、[[日本]]の[[地理学者]]、[[筑波大学]]名誉教授。
|image =
[[岐阜県]][[吉城郡]][[船津町 (岐阜県)|船津町]](現[[飛騨市]])生まれ。[[1941年]]、[[東京文理科大学]]地学科地理学専攻卒。[[1951年]]、同助教授。[[1952年]]、[[東京教育大学]]助教授。[[1953年]]、「裏日本海岸砂丘の地理学的研究 開拓及び土地利用とその因子」で東京教育大[[理学博士]]<ref>{{cite web|url=http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010650514-00|title=裏日本海岸砂丘の地理学的研究 開拓及び土地利用とその因子 尾留川正平|publisher=国立国会図書館|accessdate=2012-09-23}}</ref>。[[1965年]]、教授。[[1972年]] - [[1974年]]、[[日本地理学会]]会長。[[1973年]]、筑波大学教授。[[1975年]]、定年退官、名誉教授。[[1976年]]、[[立正大学]]教授。
|birth_date = [[1911年]][[9月13日]]<ref name="tgr1">地理学研究会 編(1975):1ページ</ref>
|birth_place = {{JPN}}[[岐阜県]][[吉城郡]][[船津町 (岐阜県)|船津町]](現・[[飛騨市|飛驒市]])<ref name="tgr1"/>
|death_date = {{死亡年月日と没年齢|1911|9|13|1978|1|21}}
|death_place = {{JPN}}[[東京都]][[文京区]][[本駒込]]<ref name="rbr1">岸本(1978):3ページ</ref>
|residence =
|citizenship =
|nationality = {{JPN}}
|ethnicity =
|field = [[農業地理学]]
|work_institutions = [[東京文理科大学 (旧制)|東京文理科大学]]、[[東京教育大学]]、[[筑波大学]]、[[立正大学]]
|alma_mater = 東京文理科大学
|doctoral_advisor =
|academic_advisors = [[田中啓爾]]
|doctoral_students = [[服部銈二郎]]、[[高橋伸夫 (地理学者)|高橋伸夫]]、[[斎藤功 (地理学者)|斎藤功]]
|known_for = 村落の開拓過程、農業地域形成論、地域調査論
|influences = [[カール・O・サウアー]]、小田内通敏
|influenced = [[山本正三]]、[[中川浩一]]
|prizes =
|footnotes =
|signature =
}}
'''尾留川 正平'''(びるかわ しょうへい、[[1911年]][[9月13日]]<ref name="tgr1"/> - [[1978年]][[1月21日]])は、[[日本]]の[[地理学者]]。[[筑波大学]][[名誉教授]]<ref name="ajg1">山本(1978):832ページ</ref>。[[日本地理学会]]第14代会長<ref>野間ほか 編著(2012):244ページ</ref>。専門分野は[[農業地理学]]で、村落の開拓過程や農業地域形成論、地域調査論を主な研究テーマとした<ref name="ajg1"/>。


[[岐阜県]][[吉城郡]][[船津町 (岐阜県)|船津町]](現・[[飛騨市|飛驒市]])生まれ<ref name="tgr1"/>。[[1941年]]、[[東京文理科大学 (旧制)|東京文理科大学]][[地学科]]地理学専攻卒<ref name="tgr1"/>。[[1951年]]、同助教授<ref name="tgr1"/>。[[1952年]]、[[東京教育大学]]助教授<ref name="tgr1"/>。[[1953年]]、「裏日本海岸砂丘の地理学的研究 開拓及び土地利用とその因子」で東京教育大[[理学博士]]<ref name="tgr1"/>。[[1965年]]、教授。[[1972年]] - [[1974年]]、[[日本地理学会]]会長<ref name="ajg1"/>。[[1973年]]、筑波大学教授。[[1975年]]、定年退官、名誉教授<ref name="ajg1"/>。[[1976年]]、[[立正大学]]教授<ref name="ajg1"/>。
==著書==

== 経歴 ==
=== 戦前 ===
1911年(明治44年)9月13日、岐阜県吉城郡船津町(現・飛驒市)に生まれる<ref name="tgr1"/>。飛驒の山中に生まれ育ち、山野を歩いて地理学的な見方の基礎を築いた<ref name="ajg2"/>。船津尋常高等小学校高等科を卒業後、[[岐阜師範学校#岐阜県師範学校|岐阜県師範学校]]本科第一部に進み、[[1932年]](昭和7年)に卒業する<ref name="tgr1"/>。同年、母校の船津尋常高等小学校[[訓導]]に着任するが、休職して[[東京高等師範学校]]へ進学する<ref name="tgr1"/>。[[1936年]](昭和11年)に同校文科第4部を卒業、[[地理 (科目)|地理]]・[[歴史教育|歴史]]・[[修身]]・[[教育]]・[[公民 (教科)|公民科]]・[[体操]]の[[教育職員免許状|教員免許状]](師範学校中学校高等女学校)を取得する<ref name="tgr1"/>。地理学と[[歴史学]]を修め、[[田中啓爾]]に師事した<ref name="ajg1"/>。

1936年(昭和11年)[[3月31日]]に[[秋田師範学校#秋田県師範学校|秋田県師範学校]][[教諭]]に着任、[[1939年]](昭和14年)に休職するまで勤務する<ref name="tgr1"/>。この間、[[1938年]](昭和13年)[[3月25日]]に[[婿養子]]として[[由利郡]][[東滝沢村]](現・[[由利本荘市]])の尾留川隆子と[[結婚]]する<ref name="tgr1"/>。教諭として勤務する傍ら、小田内通敏の指導を仰ぎ秋田県を郷土学的に研究し、『綜合郷土研究―秋田県』を1939年(昭和14年)に発刊した<ref name="ajg1"/>。

1941年(昭和16年)[[12月26日]]、東京文理科大学地学科地理学専攻を卒業し、[[東京第一師範学校|東京府女子師範学校]](現・[[東京学芸大学]])と東京府立第二高等女学校(現・[[東京都立竹早高等学校]])の兼任教諭となる<ref name="tgr1"/>。[[卒業論文]]は『綜合郷土研究』の執筆経験を生かして秋田県の[[子吉川]][[流域]]の農業集落を扱った<ref name="ajg1"/>。この研究は[[都市]]と農村の連繋について言及されており、都市と農村の関係を分析する先駆的な業績でもあった<ref>大嶽(1980):589ページ</ref>。[[1943年]](昭和18年)[[4月1日]]、東京府女子師範学校が[[東京第一師範学校]]となったことにより同校教諭となり、立正大学[[講師]]を兼務する<ref name="tgr1"/>。

=== 大塚での教員時代 ===
[[1948年]](昭和23年)[[11月5日]]、母校・東京文理科大学の[[助手]]に採用され、1951年(昭和26年)[[2月28日]]に助教授に昇任する<ref name="tgr1"/>。同年[[12月1日]]から東京教育大学[[理学部]]助教授を兼任することとなり、1952年(昭和27年)[[8月16日]]に東京教育大学助教授を本務、東京文理科大学助教授を兼務に変更、以後[[1962年]](昭和37年)まで兼務状態が続くこととなる<ref name="tgr1"/>。1953年(昭和28年)[[3月27日]]に「裏日本海岸砂丘の地理学的研究」を上梓、東京教育大学理学博士(第24号)の[[学位]]を取得する<ref name="tgr1"/>。この研究は、[[東北地方]]から[[北陸地方]]にかけての[[砂丘]]地帯の開拓過程について、[[気候]]や[[土壌]]などの自然要因と歴史や経済など人文要因の双方から分析したものであり、尾留川の研究の代表作の1つである<ref name="ajg1"/>。

東京教育大学助教授時代は[[1957年]](昭和32年)に[[琉球列島米国民政府]]統治下にあった[[琉球大学]]で3か月間招聘(しょうへい)教授を務めたほか、[[国際地理学連合]]では国際地理学会議組織委員会実務担当委員兼[[幹事]]・地理教育委員会委員・農業類型委員会委員を歴任、日本地理学会常任委員、[[日本学術会議]]地理学研究委員会委員、[[東京地学協会]]評議員、第11回太平洋学術会議組織委員会委員を務めた<ref name="tgr1"/>。また[[1963年]](昭和38年)[[11月12日]]からほぼ1年かけて[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[トルコ]]、[[インド]]、[[マレーシア]]、[[中華民国]]など計20か国を飛び回った<ref name="tgr1"/>。

1965年(昭和40年)4月1日、東京教育大学理学部教授に昇任する<ref name="tgr1"/>。[[山梨大学]]・立正大学・[[金沢大学]]・[[東北大学]]・[[秋田大学]]で講師を務めたほか、[[茗渓会]]理事をはじめ東京教育大学関係の各種役員を経験<ref name="tgr2">地理学研究会 編(1975):1 - 2ページ</ref>、特に東京教育大学の[[筑波研究学園都市]]への移転推進派として活動し、計画立案を主導した<ref name="ajg1"/>。学会関係では日本地理学会・[[人文地理学会]]・[[東北地理学会]]で役員を、[[日本国政府]]関係では[[教育課程審議会]]、自然公園審議会、学術審議会、ナショナルアトラス審議会、大学設置審議会などで委員を務めた<ref name="tgr2"/>。そして1972年(昭和47年)に日本地理学会会長に就任、2年間務めた<ref name="ajg1"/>。東京教育大学時代には[[服部銈二郎]]、[[高橋伸夫 (地理学者)|高橋伸夫]]、[[斎藤功 (地理学者)|斎藤功]]ら計9人に博士号を授与している<ref>東京教育大学理学部地理学教室(1977):24 - 27ページ</ref>。

この頃から[[静岡県]][[下田市]]など[[伊豆半島]]南部を継続的に調査し、死後に山本正三との共著の形で成果が発表された<ref name="ajg2">山本(1978):833ページ</ref>。

=== 晩年 ===
1973年(昭和48年)[[11月1日]]、筑波大学地球科学系教授となり、同年[[11月29日]]から東京教育大学教授を併任することになる<ref name="tgr3">地理学研究会 編(1975):2ページ</ref>。筑波移転後も新大学の構想策定や修士課程設置の審議、教育大の跡地利用などを検討する役員を務め、大学の方向性を定めることに尽力した<ref name="tgr3"/>。1975年(昭和50年)に筑波大学を定年退官、同学の名誉教授第1号となった<ref name="ajg1"/>。筑波大時代の末期には妻に先立たれ、[[病気]]を患いがちとなり、周囲に多くを語らなかったものの淋しさと不自由さを醸し出していたという<ref>岸本(1978):4 - 5ページ</ref>。

1976年(昭和51年)4月、立正大学教授に着任し、後進の育成に努めた<ref name="ajg1"/>。立正大学の正規の教員としては2年弱勤めただけであるが、それまでに30年近く非常勤講師として立正大学の地理教育に携わっていた<ref name="rbr2">岸本(1978):4ページ</ref>。[[1977年]](昭和52年)の秋には嘔吐しながらも伊豆と[[佐渡島]]での[[巡検]]に同行し、佐渡から戻ってすぐ[[東京都立大塚病院]]に入院、[[慶應義塾大学病院]]へ転院して、[[12月31日]]に退院、自宅療養に入った<ref name="rbr1"/>。

1978年(昭和53年)1月21日午前、[[食道癌]]のため[[東京都]][[文京区]][[本駒込]]の自宅にて逝去、66歳で生涯を閉じた<ref name="rbr1"/>。逝去する当日にも立正大の大学院生を自宅に招いて指導を行っていた<ref name="ajg2"/>。当日は立正大学の大学院入試が行われており、尾留川は出席を希望していたが叶わなかった<ref>岸本(1978):3 - 4ページ</ref>。日本地理学会会長として行った講演でその一端が示された農業地域形成の実証的研究は、未完に終わった<ref name="ajg2"/>。また[[中川浩一]]・朝倉隆太郎と共同で[[明治]]以降の地理教育史をまとめる作業も進めている途中であった<ref>中川(1978):55 - 56ページ</ref>。

== 人物 ==
努力家と評され、極めて周到で緻密、自分に厳しい性格であったという<ref name="rbr2"/>。記憶力に優れ、発想力も豊かであった<ref name="rbr2"/>。また多趣味な人物であり、[[漁具]]・[[履物]]などの[[民具]]収集を好み、食への関心も高かった<ref name="ajg2"/>。自身についてはあまり語りたがらない人物であった<ref>岸本(1978):5ページ</ref>。中川浩一の卒業論文と[[修士論文]]の指導を行い、中川の[[結婚式]]では仲人を務めている<ref>中川(1978):55ページ</ref>。

=== 研究姿勢 ===
田中啓爾から指導を受け、大塚の地理学、いわゆる地誌学派に属した<ref name="ajg1"/>。このため[[フィールドワーク]]を重視し、地域調査の理論にも関心を払った<ref name="ajg2"/>。実体験から思考することと、先行研究をよく吟味することの双方を重視し、学生にもそのように指導した<ref name="ajg2"/>。

また小田内通敏からも大きな影響を受けており、文化生態学的なアプローチを導入した<ref name="ajg2"/>。日本国外では[[カール・O・サウアー]]の研究に強く惹かれていた<ref name="ajg2"/>。

長年に渡り[[青野寿郎|青野壽郎]]の側近として青野を支え、共同で『日本地誌』シリーズの編集に当たった<ref>山本(1992):218ページ</ref>。また[[中等教育]]向けの[[教科書]]や[[地図帳]]の執筆も共同で行い、[[地理教育]]にも大きな影響を与えた<ref name="ajg2"/>。[[学校図書]]から出版された[[中学校]]向け教科書では従来の本文を執筆してから図版を用意する体制を逆にするという提案を行い、3色刷りも採用されたことから、採択部数の急増につながった<ref>中川(1978):57 - 58ページ</ref>。

== 主な著作 ==

=== 著書 ===
*『世界の農牧業と農村生活』目黒書店 1948 
*『世界の農牧業と農村生活』目黒書店 1948 
*『食糧の生産と消費』金星堂 1950 新制人文地理双書
*『食糧の生産と消費』金星堂 1950 新制人文地理双書
13行目: 73行目:
*『砂丘の開拓と土地利用』二宮書店 1981 
*『砂丘の開拓と土地利用』二宮書店 1981 


==共編著==
=== 共編著 ===
*『小学社会科日本の地理』[[小山保郎]]共著 文英堂 1954
*『小学社会科日本の地理』[[小山保郎]]共著 文英堂 1954
*『新地理学講座 第6巻 経済地理』編 朝倉書店 1955
*『新地理学講座 第6巻 経済地理』編 朝倉書店 1955
*『高等地図帳』[[青野寿郎]]共著 二宮書店 1962 
*『高等地図帳』青野寿郎共著 二宮書店 1962 
*『朝倉地理学講座 第2 地理学研究法』編 朝倉書店 1966  
*『朝倉地理学講座 第2 地理学研究法』編 朝倉書店 1966  
*『日本の文化地理 第9巻 愛知・岐阜』編 講談社 1969
*『日本の文化地理 第9巻 愛知・岐阜』編 講談社 1969
25行目: 85行目:
*『沿岸集落の生態 南伊豆における沿岸集落の地理学的研究』[[山本正三]]共編著 二宮書店 1978
*『沿岸集落の生態 南伊豆における沿岸集落の地理学的研究』[[山本正三]]共編著 二宮書店 1978


==翻訳==
=== 翻訳 ===
*ヘンリー・トーマス「地理学」『科学十講 上巻』[[藤岡由夫]]監修 評論社 1950
* ヘンリー・トーマス「地理学」『科学十講 上巻』[[藤岡由夫]]監修 評論社 1950

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* 大嶽幸彦(1980)"日本人地理学者による都市・農村論の研究―特に農村地域からのアプローチに関して―"[[地理学評論]](日本地理学会).'''53'''(9):589-593.
* 岸本実(1978)"尾留川正平教授の逝去を悼む"立正大学文学部論叢.'''61''':3-6.
* 地理学研究会 編(1975)"尾留川正平先生略歴・著作目録"東京教育大学地理学研究報告.'''XIX''':1-10.
* 東京教育大学理学部地理学教室(1977)"東京文理科大学・東京教育大学地理学関係学位授与者一覧"東京教育大学地理学研究報告.'''XXI''':23-27.
* 中川浩一(1978)"尾留川正平先生と地理教育"[[新地理]]([[日本地理教育学会]]).'''26'''(1):55-62.
* 野間晴雄・香川貴志・土平博・河角龍典・小原丈明 編著『ジオ・パルNEO 地理学・地域調査便利帖』海青社、2012年3月31日、262p. ISBN 978-4-86099-265-1
* 山本正三(1978)"尾留川正平先生の逝去を悼む"地理学評論(日本地理学会).'''51'''(11):832-833.
* 山本正三(1992)"青野壽郎先生の逝去を悼む"地理学評論(日本地理学会).'''65A'''(3):217-218.

== 関連項目 ==
* [[日本の地理学者の一覧]]
* [[岐阜県出身の人物一覧]]
* [[東京教育大学の人物一覧]]
* [[筑波大学の人物一覧]]
* [[筑波移転反対闘争]]


== 外部リンク ==
==出典・脚注==
{{Normdaten|VIAF=256110762|NDL=00004553|CINII=DA00818487}}
<references />
==参考==
*『砂丘の開拓と土地利用』著者紹介 
*読売新聞訃報 


{{デフォルトソート:ひるかわ しようへい}}
{{デフォルトソート:ひるかわ しようへい}}
[[Category:日本の地理学者]]
[[Category:日本の地理学者]]
[[Category:日本地理学会会長]]
[[Category:日本の初等教育の教員]]
[[Category:日本の中等教育の教員]]
[[Category:東京教育大学の教員]]
[[Category:東京教育大学の教員]]
[[Category:琉球大学の教員]]
[[Category:筑波大学の教員]]
[[Category:筑波大学の教員]]
[[Category:立正大学の教員]]
[[Category:立正大学の教員]]
[[Category:東京教育大学出身の人物]]
[[Category:1911年生]]
[[Category:1911年生]]
[[Category:1978年没]]
[[Category:1978年没]]
[[Category:岐阜県出身の人物]]

2014年12月21日 (日) 06:38時点における版

尾留川 正平
生誕 1911年9月13日[1]
日本の旗 日本岐阜県吉城郡船津町(現・飛驒市[1]
死没 (1978-01-21) 1978年1月21日(66歳没)
日本の旗 日本東京都文京区本駒込[2]
国籍 日本の旗 日本
研究分野 農業地理学
研究機関 東京文理科大学東京教育大学筑波大学立正大学
出身校 東京文理科大学
指導教員 田中啓爾
博士課程
指導学生
服部銈二郎高橋伸夫斎藤功
主な業績 村落の開拓過程、農業地域形成論、地域調査論
影響を
受けた人物
カール・O・サウアー、小田内通敏
影響を
与えた人物
山本正三中川浩一
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

尾留川 正平(びるかわ しょうへい、1911年9月13日[1] - 1978年1月21日)は、日本地理学者筑波大学名誉教授[3]日本地理学会第14代会長[4]。専門分野は農業地理学で、村落の開拓過程や農業地域形成論、地域調査論を主な研究テーマとした[3]

岐阜県吉城郡船津町(現・飛驒市)生まれ[1]1941年東京文理科大学地学科地理学専攻卒[1]1951年、同助教授[1]1952年東京教育大学助教授[1]1953年、「裏日本海岸砂丘の地理学的研究 開拓及び土地利用とその因子」で東京教育大理学博士[1]1965年、教授。1972年 - 1974年日本地理学会会長[3]1973年、筑波大学教授。1975年、定年退官、名誉教授[3]1976年立正大学教授[3]

経歴

戦前

1911年(明治44年)9月13日、岐阜県吉城郡船津町(現・飛驒市)に生まれる[1]。飛驒の山中に生まれ育ち、山野を歩いて地理学的な見方の基礎を築いた[5]。船津尋常高等小学校高等科を卒業後、岐阜県師範学校本科第一部に進み、1932年(昭和7年)に卒業する[1]。同年、母校の船津尋常高等小学校訓導に着任するが、休職して東京高等師範学校へ進学する[1]1936年(昭和11年)に同校文科第4部を卒業、地理歴史修身教育公民科体操教員免許状(師範学校中学校高等女学校)を取得する[1]。地理学と歴史学を修め、田中啓爾に師事した[3]

1936年(昭和11年)3月31日秋田県師範学校教諭に着任、1939年(昭和14年)に休職するまで勤務する[1]。この間、1938年(昭和13年)3月25日婿養子として由利郡東滝沢村(現・由利本荘市)の尾留川隆子と結婚する[1]。教諭として勤務する傍ら、小田内通敏の指導を仰ぎ秋田県を郷土学的に研究し、『綜合郷土研究―秋田県』を1939年(昭和14年)に発刊した[3]

1941年(昭和16年)12月26日、東京文理科大学地学科地理学専攻を卒業し、東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)と東京府立第二高等女学校(現・東京都立竹早高等学校)の兼任教諭となる[1]卒業論文は『綜合郷土研究』の執筆経験を生かして秋田県の子吉川流域の農業集落を扱った[3]。この研究は都市と農村の連繋について言及されており、都市と農村の関係を分析する先駆的な業績でもあった[6]1943年(昭和18年)4月1日、東京府女子師範学校が東京第一師範学校となったことにより同校教諭となり、立正大学講師を兼務する[1]

大塚での教員時代

1948年(昭和23年)11月5日、母校・東京文理科大学の助手に採用され、1951年(昭和26年)2月28日に助教授に昇任する[1]。同年12月1日から東京教育大学理学部助教授を兼任することとなり、1952年(昭和27年)8月16日に東京教育大学助教授を本務、東京文理科大学助教授を兼務に変更、以後1962年(昭和37年)まで兼務状態が続くこととなる[1]。1953年(昭和28年)3月27日に「裏日本海岸砂丘の地理学的研究」を上梓、東京教育大学理学博士(第24号)の学位を取得する[1]。この研究は、東北地方から北陸地方にかけての砂丘地帯の開拓過程について、気候土壌などの自然要因と歴史や経済など人文要因の双方から分析したものであり、尾留川の研究の代表作の1つである[3]

東京教育大学助教授時代は1957年(昭和32年)に琉球列島米国民政府統治下にあった琉球大学で3か月間招聘(しょうへい)教授を務めたほか、国際地理学連合では国際地理学会議組織委員会実務担当委員兼幹事・地理教育委員会委員・農業類型委員会委員を歴任、日本地理学会常任委員、日本学術会議地理学研究委員会委員、東京地学協会評議員、第11回太平洋学術会議組織委員会委員を務めた[1]。また1963年(昭和38年)11月12日からほぼ1年かけてアメリカ合衆国イギリストルコインドマレーシア中華民国など計20か国を飛び回った[1]

1965年(昭和40年)4月1日、東京教育大学理学部教授に昇任する[1]山梨大学・立正大学・金沢大学東北大学秋田大学で講師を務めたほか、茗渓会理事をはじめ東京教育大学関係の各種役員を経験[7]、特に東京教育大学の筑波研究学園都市への移転推進派として活動し、計画立案を主導した[3]。学会関係では日本地理学会・人文地理学会東北地理学会で役員を、日本国政府関係では教育課程審議会、自然公園審議会、学術審議会、ナショナルアトラス審議会、大学設置審議会などで委員を務めた[7]。そして1972年(昭和47年)に日本地理学会会長に就任、2年間務めた[3]。東京教育大学時代には服部銈二郎高橋伸夫斎藤功ら計9人に博士号を授与している[8]

この頃から静岡県下田市など伊豆半島南部を継続的に調査し、死後に山本正三との共著の形で成果が発表された[5]

晩年

1973年(昭和48年)11月1日、筑波大学地球科学系教授となり、同年11月29日から東京教育大学教授を併任することになる[9]。筑波移転後も新大学の構想策定や修士課程設置の審議、教育大の跡地利用などを検討する役員を務め、大学の方向性を定めることに尽力した[9]。1975年(昭和50年)に筑波大学を定年退官、同学の名誉教授第1号となった[3]。筑波大時代の末期には妻に先立たれ、病気を患いがちとなり、周囲に多くを語らなかったものの淋しさと不自由さを醸し出していたという[10]

1976年(昭和51年)4月、立正大学教授に着任し、後進の育成に努めた[3]。立正大学の正規の教員としては2年弱勤めただけであるが、それまでに30年近く非常勤講師として立正大学の地理教育に携わっていた[11]1977年(昭和52年)の秋には嘔吐しながらも伊豆と佐渡島での巡検に同行し、佐渡から戻ってすぐ東京都立大塚病院に入院、慶應義塾大学病院へ転院して、12月31日に退院、自宅療養に入った[2]

1978年(昭和53年)1月21日午前、食道癌のため東京都文京区本駒込の自宅にて逝去、66歳で生涯を閉じた[2]。逝去する当日にも立正大の大学院生を自宅に招いて指導を行っていた[5]。当日は立正大学の大学院入試が行われており、尾留川は出席を希望していたが叶わなかった[12]。日本地理学会会長として行った講演でその一端が示された農業地域形成の実証的研究は、未完に終わった[5]。また中川浩一・朝倉隆太郎と共同で明治以降の地理教育史をまとめる作業も進めている途中であった[13]

人物

努力家と評され、極めて周到で緻密、自分に厳しい性格であったという[11]。記憶力に優れ、発想力も豊かであった[11]。また多趣味な人物であり、漁具履物などの民具収集を好み、食への関心も高かった[5]。自身についてはあまり語りたがらない人物であった[14]。中川浩一の卒業論文と修士論文の指導を行い、中川の結婚式では仲人を務めている[15]

研究姿勢

田中啓爾から指導を受け、大塚の地理学、いわゆる地誌学派に属した[3]。このためフィールドワークを重視し、地域調査の理論にも関心を払った[5]。実体験から思考することと、先行研究をよく吟味することの双方を重視し、学生にもそのように指導した[5]

また小田内通敏からも大きな影響を受けており、文化生態学的なアプローチを導入した[5]。日本国外ではカール・O・サウアーの研究に強く惹かれていた[5]

長年に渡り青野壽郎の側近として青野を支え、共同で『日本地誌』シリーズの編集に当たった[16]。また中等教育向けの教科書地図帳の執筆も共同で行い、地理教育にも大きな影響を与えた[5]学校図書から出版された中学校向け教科書では従来の本文を執筆してから図版を用意する体制を逆にするという提案を行い、3色刷りも採用されたことから、採択部数の急増につながった[17]

主な著作

著書

  • 『世界の農牧業と農村生活』目黒書店 1948 
  • 『食糧の生産と消費』金星堂 1950 新制人文地理双書
  • 『日本地理の新研究 中学社会科』文英堂 1957
  • 『人文地理』学術図書出版社 1958 
  • 『少年少女地理 日本の国土 6 東北地方』偕成社 1963
  • 『新しい世界地理 5 西ヨーロッパの国々』偕成社 1966
  • 『農業地域形成の研究』二宮書店 1979
  • 『砂丘の開拓と土地利用』二宮書店 1981 

共編著

  • 『小学社会科日本の地理』小山保郎共著 文英堂 1954
  • 『新地理学講座 第6巻 経済地理』編 朝倉書店 1955
  • 『高等地図帳』青野寿郎共著 二宮書店 1962 
  • 『朝倉地理学講座 第2 地理学研究法』編 朝倉書店 1966  
  • 『日本の文化地理 第9巻 愛知・岐阜』編 講談社 1969
  • 『日本の文化地理 第4巻 茨城・栃木・群馬』編 講談社 1971 
  • 『現代地図帳』青野寿郎共著 二宮書店 1973 
  • 『日本地誌 第21巻 大分県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県』青野寿郎と責任編集 二宮書店 1975
  • 『日本地誌 第13巻 近畿地方総論・三重県・滋賀県・奈良県』青野寿郎と責任編集 二宮書店 1976 
  • 『沿岸集落の生態 南伊豆における沿岸集落の地理学的研究』山本正三共編著 二宮書店 1978

翻訳

  • ヘンリー・トーマス「地理学」『科学十講 上巻』藤岡由夫監修 評論社 1950

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 地理学研究会 編(1975):1ページ
  2. ^ a b c 岸本(1978):3ページ
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 山本(1978):832ページ
  4. ^ 野間ほか 編著(2012):244ページ
  5. ^ a b c d e f g h i j 山本(1978):833ページ
  6. ^ 大嶽(1980):589ページ
  7. ^ a b 地理学研究会 編(1975):1 - 2ページ
  8. ^ 東京教育大学理学部地理学教室(1977):24 - 27ページ
  9. ^ a b 地理学研究会 編(1975):2ページ
  10. ^ 岸本(1978):4 - 5ページ
  11. ^ a b c 岸本(1978):4ページ
  12. ^ 岸本(1978):3 - 4ページ
  13. ^ 中川(1978):55 - 56ページ
  14. ^ 岸本(1978):5ページ
  15. ^ 中川(1978):55ページ
  16. ^ 山本(1992):218ページ
  17. ^ 中川(1978):57 - 58ページ

参考文献

  • 大嶽幸彦(1980)"日本人地理学者による都市・農村論の研究―特に農村地域からのアプローチに関して―"地理学評論(日本地理学会).53(9):589-593.
  • 岸本実(1978)"尾留川正平教授の逝去を悼む"立正大学文学部論叢.61:3-6.
  • 地理学研究会 編(1975)"尾留川正平先生略歴・著作目録"東京教育大学地理学研究報告.XIX:1-10.
  • 東京教育大学理学部地理学教室(1977)"東京文理科大学・東京教育大学地理学関係学位授与者一覧"東京教育大学地理学研究報告.XXI:23-27.
  • 中川浩一(1978)"尾留川正平先生と地理教育"新地理日本地理教育学会).26(1):55-62.
  • 野間晴雄・香川貴志・土平博・河角龍典・小原丈明 編著『ジオ・パルNEO 地理学・地域調査便利帖』海青社、2012年3月31日、262p. ISBN 978-4-86099-265-1
  • 山本正三(1978)"尾留川正平先生の逝去を悼む"地理学評論(日本地理学会).51(11):832-833.
  • 山本正三(1992)"青野壽郎先生の逝去を悼む"地理学評論(日本地理学会).65A(3):217-218.

関連項目

外部リンク