コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「アルメニア・ソビエト社会主義共和国」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
微調整、修正、内容追加
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
 
(42人の利用者による、間の84版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Expand language
{{基礎情報 過去の国
|langcode = ru
|otherarticle = Армянская Советская Социалистическая Республика
|langcode2 = hy
|otherarticle2 = Հայկական Խորհրդային Սոցիալիստական Հանրապետություն
|langcode3 = en
|otherarticle3 = Armenian Soviet Socialist Republic
|date= 2022年12月
}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = アルメニア
|略名 = アルメニア
|日本語国名 = アルメニア・ソビエト社会主義共和国
|日本語国名 = アルメニア社会主義ソビエト共和国{{smaller|(1920年-1936年)}}<br>アルメニア・ソビエト社会主義共和国{{smaller|(1936年-1990年)}}<br>アルメニア共和国<br>{{smaller|(1990年-1991年)}}
|公式国名 = '''{{Lang|hy|Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետություն}}'''<br /><small>(アルメニア語)</small><br />'''{{Lang|ru|Армянская Советская Социалистическая Республика}}'''<br /><small>(ロシア語)</small>
|公式国名 = '''{{lang|hy|Հայաստանի Սոցիալիստական Խորհրդային Հանրապետություն}}'''<br><small>(アルメニア語)</small><br>'''{{ru|Социалистическая Советская Республика Армения}}'''<small>(ロシア語)</small><br>(1920 ‐ 1936)<br>'''{{lang|hy|Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Ռեսպուբլիկա}}'''<br><small>(アルメニア語)</small><br>'''{{ru|Армянская Советская Социалистическая Республика}}'''<small>(ロシア語)</small><br>(1936 ‐ 1990)<br>'''{{lang|hy|Հայաստանի Հանրապետություն}}'''<br><small>(アルメニア語)</small><br>'''{{ru|Республика Армения}}'''<small>(ロシア語)</small><br>(1990 ‐ 1991)
|建国時期 = 1920年
|建国時期 = [[1920年]]
|亡国時期 = 1991年
|亡国時期 = [[1991年]]
|先代1 = アルメニア民主共和国
|先代1 = アルメニア第一共和国
|先旗1 = Flag of the Democratic Republic of Armenia.svg
|先旗1 = Flag of the First Republic of Armenia.svg
|次代1 = アルメニア
|次代1 = アルメニア
|次旗1 = Flag of Armenia.svg
|次旗1 = Flag of Armenia.svg
|国旗画像 = Flag of Armenian SSR.svg
|国旗画像 = Flag of Armenian SSR.svg
|国旗リンク =
|国旗リンク = [[アルメニア・ソビエト社会主義共和国の国旗|国旗]]
|国旗説明 =
|国旗 = <!-- 初期値125px -->
|国旗幅 =
|国旗縁 =
|国旗縁 =
|国章画像 = Emblem of the Armenian SSR.svg
|国章画像 = Emblem of the Armenian SSR.svg
|国章リンク =
|国章リンク = [[アルメニア・ソビエト社会主義共和国の国章|国章]]
|国章説明 =
|国章 = <!-- 初期値85px -->
|標語 = [[万国の労働者よ、団結せよ!|{{lang|hy|Պրոլետարներ բոլոր երկրների, միացե՜ք}}]]{{hy icon}}<br >''万国の労働者よ、団結せよ!''
|国章幅 =
|標語追記 =
|標語 = {{Lang|hy|Պրոլետարներ բոլոր երկրների, միացե՜ք}}<br />([[アルメニア語]] : [[万国の労働者よ、団結せよ!]])
|国歌 = アルメニア・ソビエト社会主義共和国国歌
|国歌 = [[アルメニア・ソビエト社会主義共和国国歌|{{lang|hy|Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետություն օրհներգ}}]]{{hy icon}}
<br />''アルメニア・ソビエト社会主義共和国国歌''<br />(歌詞付き)<br />{{Center| [[ファイル:Anthem of the Armenian Soviet Socialist Republic.ogg]]}}<br />(演奏のみ)<br />{{Center| [[File:Anthem of the Armenian Soviet Socialist Republic (Instrumental).ogg]]}}
|国歌追記 =
|国歌追記 =
|位置画像 = Armenian SSR map.svg
|位置画像 = Soviet Union - Armenian SSR.svg
|位置画像説明 =
|位置画像説明 = アルメニア・ソビエト社会主義共和国の位置
|位置画像幅 = 290
|公用語 = [[アルメニア語]]<br />[[ロシア語]]
|公用語 = [[アルメニア語]]<br />[[ロシア語]]
|首都 = [[エレバン|エレヴァン]]
|首都 = [[エレヴァン]]
|元首等肩書 = [[アルメニアの大統領一覧|アルメニア共産党第一書記]]
|最高指導者等肩書 = {{仮リンク|アルメニア共産党 (ソビエト連邦)|en|Communist Party of Armenia (Soviet Union)|label=アルメニア共産党}}第一書記
|元首等年代始1 = 1991
|最高指導者等年代始1 = 1920
|元首等年代終1 = 1991
|最高指導者等年代終1 = 1921
|元首等氏名1 = [[:en:Aram Gasparovich Sarkisyan|アラム・ガスパロィチサルキシャン]]
|最高指導者等氏名1 = [[ォルクアリハニャン]]
|最高指導者等年代始2 = 1991年5月14日
|首相等肩書 = [[:en:Prime Minister of Armenia|首相]]
|首相等年代始1 = 1990年
|最高指導者等年代終2 = 9月7日
|最高指導者等氏名2 = {{仮リンク|アラム・G・サルキシャン|en|Aram G. Sargsyan}}
|首相等年代終1 = 1991年
|元首等肩書= [[アルメニアの大統領一覧|国家元首]]
|首相等氏名1 = [[:en:Vazgen Manukyan|ヴァズゲン・ミハイロヴィチ・マヌキャン]]
|元首等年代始1 = 1920年
|元首等年代終1 = 1921年
|元首等氏名1 = [[サルキス・カシヤン]]
|元首等年代始2 = 1990年
|元首等年代終2 = 1991年
|元首等氏名2 = [[レヴォン・テル=ペトロシャン]]
|首相等肩書 = 首相{{Efn|[[アルメニアの首相#人民会議議長|人民委員会議長]](1921年 - 1946年)、[[アルメニアの首相#閣僚会議議長|閣僚会議議長]](1946年 - 1991年)}}
|首相等年代始1 = 1921年
|首相等年代終1 = 1922年
|首相等氏名1 = [[アレクサンドル・ミャスニコフ]]
|首相等年代始2 = 1990年
|首相等年代終2 = 1991年
|首相等氏名2 = [[ワズゲン・マヌキャン]]
|面積測定時期1 = 1989年
|面積測定時期1 = 1989年
|面積値1 = 29,800
|面積値1 = 29,800
|人口測定時期1 = 1989年
|面積測定時期2 =
|人口1 = 3,287,700
|面積2 =
|人口測定時期1 = 1920年
|人口値1 = 780,000
|人口測定時期2 = 1989年
|人口値2 = 3,287,700
|変遷1 = 成立
|変遷1 = 成立
|変遷年月日1 = [[1920年]][[1129]]
|変遷年月日1 = 1920年123
|変遷2 = [[ソビエト連邦]]より[[独立]]
|変遷2 = [[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]]を構成
|変遷年月日2 = [[1991]][[921]]
|変遷年月日2 = 1922312
|変遷3 = ザカフカース連邦から分離
|変遷年月日3 = 1936年12月5日
|変遷4 = [[ソビエト連邦の崩壊]]により独立
|変遷年月日4 = 1991年9月23日
|通貨 = [[ソビエト連邦ルーブル]]
|通貨 = [[ソビエト連邦ルーブル]]
|通貨追記 =
|時間帯 =
|時間帯 =
|夏時間 =
|夏時間 =
47行目: 79行目:
|ccTLD =
|ccTLD =
|ccTLD追記 =
|ccTLD追記 =
|国際電話番号 =
|国際電話番号 = +7 885
|国際電話番号追記 =
|国際電話番号追記 =
|注記 =
|注記 = 註1 : [[首相]]の肩書は[[1946年]]までは[[人民委員会議議長]]、それ以降は[[閣僚評議会議長]]である。
|現在 = {{ARM}}
}}
}}
{{アルメニアの歴史}}
'''アルメニア・ソビエト社会主義共和国'''(アルメニア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、{{翻字併記|hy|'''Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետություն'''|''Haykakan Sovetakan Soc’ialistakan Hanrapetut’yun''}}; {{翻字併記|ru|'''Армянская Советская Социалистическая Республика'''|''Armjanskaja Sovetskaja Sotsialističeskaja Respublika''}})は、[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]の構成共和国のひとつ。

'''アルメニア・ソビエト社会主義共和国'''(アルメニア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、{{lang-hy|Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետություն}}、{{lang-ru|Армянская Советская Социалистическая Республика}})は、[[1920年]]に[[アルメニア第一共和国]]を倒して成立した[[社会主義]]共和国である。[[1922年]]に[[グルジア・ソビエト社会主義共和国|グルジア]]・[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン]]とともに[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]]を介して[[ソビエト連邦構成共和国]]となり、[[1936年]]にその2国と分離してからも[[1991年]]の[[ソビエト連邦の崩壊]]まで存在した。[[アルメニアの歴史|アルメニア史]]においては、それまで[[農業国]]であった[[アルメニア]]が[[工業国]]への転換を果たした時代でもある。ソ連から独立を宣言したのは1991年のことであるが、[[1995年]]の{{仮リンク|アルメニアの憲法|label=憲法|fr|Constitution de la République d'Arménie}}改正まではソビエト国家の機構を保持したままであった。

== 歴史 ==
=== 共産化(レーニン時代) ===
[[File:11thRedArmyYerevan.jpg|thumb|left|240px|エレヴァンに進駐する赤軍[[第11軍 (ロシア内戦)|第11軍]](1920年)]]
[[1828年]]から[[1917年]]の[[ロシア革命]]に至るまで、[[アルメニア]]は{{仮リンク|エリヴァニ県|ru|Эриванская губерния}}として[[ロシア帝国]]の一部に組み込まれていた。[[2月革命 (1917年)|二月革命]]後、[[南カフカース]]では[[社会民主主義]]勢力が台頭し、3国はそれぞれ[[グルジア]]の[[メンシェヴィキ]]、[[アゼルバイジャン]]の[[ミュサヴァト党]]、アルメニアの[[ダシュナク党]]の指導の下に共同して[[ザカフカース民主連邦共和国]]を形成、ロシア帝国からの独立を果たした<ref name="北116">北川ほか(2006) 116頁</ref>。しかし、翌[[1918年]]3月の[[オスマン軍]]の侵入によって連邦は崩壊し、5月にグルジアは[[ドイツ軍]]の保護下で、アゼルバイジャンはオスマン軍の影響下で、そしてアルメニアはダシュナク党の指導下でそれぞれ個別に独立を宣言した<ref name="北116"/>。

ところが、こうして独立した[[アルメニア第一共和国]]も、オスマン帝国の後を継いだ[[トルコ共和国]]との[[アルメニア・トルコ戦争]]で疲弊したところを[[赤軍]]に侵攻され、短期間のうちに[[共産主義]]勢力へ権力を移譲した。[[エレヴァン]]に暫定軍事革命員会が発足したのは、[[1920年]]12月3日午前0時のことである(この委員会は5人の[[共産主義者]]と2人の左派ダシュナク党員からなっていた)<ref>中島、バグダサリヤン(2009) 93頁</ref>。続く[[1921年]]から翌年までに1,400人の元第一共和国軍将校が逮捕され、[[リャザン]]の収容所へ送られた<ref name="Melkonian6">{{lang|en|Melkonian 2010, p. 6.}}</ref>。

1921年、トルコとアルメニア、[[グルジア・ソビエト社会主義共和国|グルジア]]、[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン]]の各ソビエト共和国の間で[[カルス条約]]が結ばれ、これによってトルコは[[アジャリア]]を手放す代わりに[[カルス県|カルス地方]]を得ることが定められた<ref name="吉ブ41">吉村(2009) 41-42頁</ref>。この時にトルコ側に割譲された地域の中には、[[中世]]アルメニアの[[首都]]であった[[アニ (トルコ)|アニ]]や、[[アルメニア人]]の精神的シンボルである[[アララト山]]が含まれていた<ref name="吉ブ41" />。さらにその後、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア・ソビエト連邦共和国]][[民族問題人民委員]]であった[[ヨシフ・スターリン]]は、[[ナヒチェヴァン自治共和国|ナヒチェヴァン]]と[[ナゴルノ・カラバフ]]もアゼルバイジャンの領土とすると決定した<ref name="Mato">{{lang|en|Matossian 1962, p. 30.}}</ref>。この2つの地域はどちらも、1920年にボリシェヴィキがアルメニアの領土であると保証していたはずのものであった<ref name="Mato" /><ref>中島、バグダサリヤン(2009) 153頁</ref>。

[[1922年]]3月12日から[[1936年]]12月5日までの間、アルメニアはグルジアとアゼルバイジャンと共に[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]]を構成した。この頃のアルメニア革命委員会は[[サルキス・カシヤン]]やアヴィス・ヌリジャニャンといった、若く経験の浅い急進的共産主義者によって率いられていた。彼らのとった政策は、国家の厳しい情勢や紛争による人民の疲弊を考慮しない、威圧的な手法によるものであった<ref>{{lang|en|Suny 1993, p. 139.}}</ref>。ソビエト・アルメニアの歴史家であるバグラット・ボリヤンは[[1929年]]に次のように書いている<ref>アレム(1986) 81頁</ref>。
{{quotation|革命委員会は、手加減せず断固として、社会層の区別も無視し、農民の一般的経済状態も、心理状態も考慮することなく、[[徴発]]にとりかかった。徴発は無秩序なやり方で行なわれた。極端な暴力を使って実施されたのである。組織的でなく、方針もなく、国の特殊な条件を考えることなく、革命委員会は徴用人に命令を下し、とくに都市住民への食糧供給と農民の食糧の貯蔵を国有化する命令を発した。混乱したやり方のなかであらゆるものが集められた。軍服、職人の道具、蜜蜂籠、下着類、衣類、家具、等々。}}
地元の[[チェーカー]]によって引き起こされたこのような徴発行動と[[テロ]]に対して、共和国の元指導者たちに率いられたアルメニア人たちは、1921年2月に反乱を起こし、エレバンから共産勢力を一度は追放している<ref name="HU">吉村(2004) 3頁</ref>。しかし、グルジアを支配していた赤軍が呼び戻され、反乱は鎮圧された<ref name="HU"/>。

やがて[[モスクワ]]は、それらの強硬な政策が地元住民との乖離を招いていると気付き、よりアルメニア人の心情に通じた経験豊富な穏健派の[[アレクサンドル・ミャスニコフ]]を現地に派遣した<ref name="ԴՄՀ">[http://www.encyclopedia.am/pages.php?bId=1&hId=1341 {{lang|hy|ՀԱՅԿԱԿԱՆ ԽՈՐՀՐԴԱՅԻՆ ՍՈՑԻԱԼԻՍՏԱԿԱՆ ՀԱՆՐԱՊԵՏՈՒԹՅՈՒՆ}}] - {{lang|hy|Դպրոցական Մեծ Հանրագիտարան, Գիրք II}}</ref>。さらに同時期に[[ネップ]]が重なり、アルメニアは相対的に安定した状態となった。この頃のアルメニアはオスマン帝国末期の激動とは対照的な平穏を保ち、人民は中央政府から薬品や食糧などの物資を受け取り、また[[識字率]]にも大幅な向上が見られた<ref>{{lang|en|Matossian 1962, p. 80.}}</ref>。一方で、[[アルメニア使徒教会]]には共産主義の下で苦難の時代が続いた。

=== スターリン時代 ===
[[1924年]]1月にレーニンが死去すると、[[ソ連]]の最高権力はスターリンの手に渡った。それに伴い、アルメニアの社会・経済政策も変化を迎えた。[[1936年]]12月、ザカフカース連邦は[[スターリン憲法]]によって解体され、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンの3つの社会主義共和国として分割された<ref>アレム(1986) 86頁</ref>。スターリン支配による25年間でアルメニアの状況は悪化した。工業化と教育政策が厳格に規定され、[[ナショナリズム]]は厳しく抑制された<ref>{{lang|hy|Ամատունի Սասունիկի Վիրաբյան, ''Հայաստանը Ստալինից մինչև Խրուշչով'' ՀՀ ԳԱԱ «Գիտություն» հրատ, 2001.}} ISBN 9785808004993</ref>。

教会はアルメニア人虐殺とロシア帝国の[[同化政策]]によりすでに弱体化していたが、スターリンはさらに教会を迫害する措置を講じた<ref>{{lang|en|Matossian 1962, pp. 90-95, 147-151.}}</ref>。[[1920年代]]には教会の[[私有財産]]が没収され、[[司祭]]は迫害を受けた。[[1930年]]には[[アルメニア人ディアスポラ]]のいる各国との関係改善のため、一時期教会への弾圧は緩和された<ref>{{lang|en|Matossian 1962, p. 150.}}</ref>。[[1932年]]には{{仮リンク|ホレン1世|hy|Խորեն Ա Տփղիսեցի}}が[[カトリコス]]に叙されている。しかし、[[1930年代]]後半になると教会に対する当局の攻撃は再開され<ref>{{lang|en|Matossian 1962, p. 194.}}</ref>、この年代に{{仮リンク|アルメニア・カトリック教会|en|Armenian Catholic Church}}からの7人と{{仮リンク|アルメニア・プロテスタント教会|ru|Армянская евангелистская церковь}}からの1人を含めた160人以上の司祭が逮捕され、そのうち91人が銃殺された<ref name="Melkonian8">{{lang|en|Melkonian 2010, p. 8.}}</ref>。[[1938年]]4月6日に[[大粛清]]の一環としてホレン1世が殺害され、8月4日に[[エチミアジン]]の総本山が閉鎖されたことで、弾圧は頂点に達した。だが、教会は地下へ潜伏し、あるいはディアスポラの間に信仰を伝えることで命脈を保った<ref name="Bauer">{{lang|en|Bauer-Manndorff 1981, p. 178.}}</ref>。

大粛清は教会のみならず、共産党員に対しても犠牲をもたらした。[[1937年]]9月、スターリンはアルメニア人の中央政治局員[[アナスタス・ミコヤン]]の忠誠心を試すために、300人の名前の入ったリストを持たせ、[[オールド・ボリシェヴィキ]]が中核をなしていたアルメニア共産党 ([[:en:Communist Party of Armenia (Soviet Union)|en]]) の人員整理を監督させるためにエレヴァンへ派遣した<ref name="モンテフィオーリ">モンテフィオーリ(2010) 449頁</ref>。リストに従って党指導者の{{仮リンク|ヴァガルシャク・テル=ヴァガニャン|ru|Тер-Ваганян, Вагаршак Арутюнович}}は[[モスクワ裁判]]の最初の被告として処刑され、同じく党幹部の{{仮リンク|アガシ・ハンジャン|ru|Ханджян, Агаси Гевондович}}も中央政治局員[[ラヴレンチー・ベリヤ]]に殺害された<ref>ナハイロ、スヴォボダ(1992) 138-9頁</ref>。この時、ミコヤンは友人1名の名を粛清リストから削ったが、その友人は見せしめとしてアルメニア共産党でのミコヤンの演説中にベリヤによって逮捕された<ref name="モンテフィオーリ"/>。最終的に1,000人が逮捕され、その中にはアルメニアの政治局員9人のうちの7人も含まれていた<ref name="モンテフィオーリ"/> 。その後、ベリヤはアルメニアでの自身の影響力を増すために、政治局に贔屓の部下を多く登用した<ref>{{lang|en|Melkonian 2010, p. 7.}}</ref>。

{{仮リンク|アクセル・バクンツ|hy|Ակսել Բակունց}}や[[イェギシェ・チャレンツ]]など、多くの科学者や芸術家も[[亡命]]を余儀なくされるか粛清の対象となった<ref name="Melkonian8"/>。歴史家のアルメナク・マヌキャンの推定によれば、1930年から1938年までにアルメニアでは1万4904人が大粛清の犠牲となり、うち4,639人が殺害されたという(このうち4,530人は1937年から1938年の間に銃殺された)<ref>{{lang|en|Melkonian 2010, p. 9.}}</ref>。

ソ連の多くの少数民族と同様、アルメニア人も数万人単位で粛清や強制移住の対象とされた。1936年にスターリンとベリヤはアルメニアの人口を70万人まで減らしてグルジアへ併合することを目論んで、アルメニア人を[[シベリア]]へ追放した<ref name="Bauer"/>。[[1944年]]には、およそ20万人の[[ヘムシン人]]がグルジアから[[カザフスタン]]や[[ウズベキスタン]]へ移住させられた。[[1948年]]には[[ギリシャ人]]とダシュナク党の支持者5万8千人が沿海地域からカザフスタンへ移住させられている<ref>{{lang|en|{{cite web |author= Ruben Amshentsi, Grigor Hakobyan |date=2004-10-04 |url= http://www.usanogh.com/content/view/418/93/ |title= Muslim Armenians |publisher= USANOGH.COM |accessdate=2007-02-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061005040508/http://www.usanogh.com/content/view/418/93/ |archivedate=2006-10-05}}}} {{en icon}}</ref>。

==== 大祖国戦争期 ====
[[File:ArmenianStamps-066-069.jpg|thumb|right|260px|4人のアルメニア人元帥。左から、<br />[[イワン・バグラミャン]]、<br />[[イワン・イサコフ]]、<br />[[アマザスプ・ババジャニャン]]、<br />{{仮リンク|セルゲイ・フジャコフ|ru|Худяков, Сергей Александрович}}。]]
ソ連の西部地域は[[大祖国戦争]]に沿って甚大な被害を受けたが、アルメニアを含めた南カフカースは主戦場にならず、破壊と荒廃を免れている<ref>北川ほか(2006) 128頁</ref>。しかし、アルメニアは食糧、人材、戦争物資の供給地として大きな役割を担った。推定で30万人から50万人のアルメニア人が出征し、そのうち半数が戻らなかった<ref>{{lang|en|Walker 1980, pp. 355–356.}}</ref>。[[ソ連邦英雄]]の最高位を与えられた者も数多い<ref name="SAE">{{lang|und|Խուդավերդյան 1984, pp. 542-547.}}</ref>。60人以上のアルメニア人が[[将校]]となり、最終的に[[元帥]]までなった者も4人いる<ref name="SAE"/>。一方で、ドイツの[[捕虜]]となったアルメニア人の中には収容所でのリスクと引き換えにドイツ軍に仕えることを選んだ者もいた。彼らは戦後、他の多くのソ連兵捕虜と同様にスターリンによってシベリアの[[グラーグ]]へ送られた。

ソ連政府は戦意高揚のために従来のナショナリズムの抑圧政策を転換した。[[アルメニア語]]の小説が再版されるようになり、[[アルメニアの歴史|アルメニア史]]の英雄{{仮リンク|ダヴィト・ベク|fr|David Bek}}を扱った映画も1944年に制作されている<ref name="Panossian">{{lang|en|Panossian 2006, p. 351.}}</ref>。教会に対する規制も一時的に緩和された<ref name="Panossian"/>。[[1945年]]には{{仮リンク|ゲヴォルク6世|hy|Գևորգ Զ Նորնախիջևանցի}}が新たなカトリコスに選出され、エチミアジンへの常駐を許された<ref>{{lang|en|Matossian 1962, pp. 194-195.}}</ref><ref>アレム(1986) 123頁</ref>。

ドイツが降伏すると、アルメニア共産党第一書記のグリゴリ・アルチュノフや他のアルメニア人ディアスポラは、かつてカルス条約でトルコに割譲されたカルス地方を取り戻すことを再考するよう、スターリンに働きかけた<ref>{{lang|en|Dekmejian 1997, pp. 416-417.}}</ref>。1945年3月、ソ連の[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]外相は1925年に調印されていたソビエト・トルコ友好条約(期限満了まではまだ8か月残されていた)の破棄を通告し、トルコに対してカルス地方の返還を要求した<ref name="中397">[[#中島|中島 (1990)]] 397-398頁</ref>。同年秋までにはすでに[[カフカース]]の赤軍はトルコへの侵攻を目的として編成されたが、これに対してトルコには[[超大国]]と化していたソ連に対抗できるだけの力はなかった。しかし、その後の[[冷戦]]によってトルコが[[NATO]]に加盟すると、[[アメリカ]]の軍事介入を恐れたソ連は[[1953年]]5月にトルコに対する領土の要求を取り下げた<ref name="中397"/>。

==== 戦後 ====
スターリンは戦争によって疲弊したアルメニア経済の復興を期待して、アルメニアの人口増大と労働力強化のためにディアスポラを積極的に国内に呼び寄せるキャンペーンを開始した。帰還の費用をソ連政府が負担したために、多くのディアスポラがこれに応え、[[1946年]]から48年までに推定15万人のディアスポラが[[キプロス]]、[[フランス]]、[[ギリシャ]]、[[イラク]]、[[レバノン]]、[[シリア]]などから帰還し、エレバン、[[ギュムリ|レニナカン]]、[[ヴァナゾル|キロヴァカン]]などに定着した<ref>{{lang|en|Dekmejian. "The Armenian Diaspora", p. 416.}}</ref>。彼らには食品券やよい住宅などの優遇措置が与えられたために、在来のアルメニア人との間に衝突がもたらされた<ref name="中401">[[#中島|中島 (1990)]] 401-402頁</ref>。ソ連で話されていた[[東アルメニア語]]とは異なる[[西アルメニア語]]を話すディアスポラは、在来のアルメニア人からは「兄弟」({{lang|und|aghbars}}) と呼ばれるようになり、当初は冗談交じりに使われていたこの単語は、やがて[[侮蔑語]]へと変わっていった<ref>{{lang|en|Bournoutian 2006, p. 324.}}</ref>。

しかし、ディアスポラに対するソ連政府の扱いが際立ってよかったわけではなかった。1946年に[[オデッサ]]に到着した際に彼らは金やダイヤモンドや布などすべての持ち物を没収され、たとえソ連に失望したとしても国を出ることは許されなかった。元ディアスポラの多くが[[秘密警察]]の監視対象とされ、[[民族主義]]組織との関わりを疑われてシベリアなどの収容所送りとなった<ref>北川ほか(2006) 129頁</ref>。

=== フルシチョフ・ブレジネフ時代 ===
[[File:Armenian Genocide Memorial - Yerevan (2903020364).jpg|thumb|right|230px|ツィツェルナカベルト(アルメニア人虐殺記念館)。モニュメントは高さ44メートル。]]
1953年にスターリンが世を去り、新たなソ連指導者となった[[ニキータ・フルシチョフ]]は[[1956年]]に[[スターリン批判]]を行い、体制に変化が訪れた。消費財や住宅に重点を置くフルシチョフの政策により、アルメニアは急速に文化的・経済的復興を始めた。教会に対しても僅かに自由が与えられ、[[1955年]]には{{仮リンク|ヴァズゲン1世|ru|Вазген I}}がカトリコスに選出された。

[[1954年]]、ミコヤンはエレバンでの演説でアルメニアの党官僚に批判を加え、{{仮リンク|ラッフィ (作家)|label=ラッフィ|hy|Րաֆֆի}}やチャレンツなどの禁止されていた文学作品の再版を許可し、奨励すると述べた<ref name="中401"/><ref>{{lang|en|Matossian 1962, p. 201.}}</ref>。エレバンにそびえていたスターリン像は[[1962年]]に軍によって一晩で撤去され、その跡には{{仮リンク|アルメニアの母|fr|Mère Arménie}}の像が置かれた<ref>{{lang|en|Suny 1983, pp. 72-73.}}</ref>。

[[1964年]]に[[レオニード・ブレジネフ]]が権力を握ると、フルシチョフ時代の改革は停止され、ソ連の製品は質、量ともに不足するようになった。その影響は建材にも表れ、[[1988年]]に[[アルメニア地震 (1988年)|アルメニア地震]]が発生した際も、揺れで[[倒壊]]したのはブレジネフ時代に建てられた建造物がそれ以前の時代のものよりも多かった<ref>{{lang|en|Bobelian 2009, p. 121ff.}}</ref>。

ソ連政府はナショナリズムに対する警戒を続けていたが、それでもスターリン時代よりも制限は弱まり、[[1965年]]4月24日には10万人<ref>{{lang|en|Shelley 1996, p. 183.}}</ref><ref>{{lang|en|Beissinger 2002, p. 71.}}</ref> のアルメニア人が、[[1915年]]の[[アルメニア人虐殺]]への抗議、そしてナゴルノ・カラバフ、ナヒチェヴァンとオスマン帝国内の歴史的なアルメニア人居住地域(いわゆる{{仮リンク|西アルメニア|en|Western Armenia}})の回復を訴えてエレヴァンでデモを行っている<ref>ナハイロ、スヴォボダ(1992) 278頁</ref><ref>{{lang|en|Cornell 2001, p. 63.}}</ref><ref>{{lang|en|Lindy 2001, p. 192.}}</ref> 。当局はこれを受けて[[1967年]]に虐殺を追悼するモニュメント「{{仮リンク|ツィツェルナカベルト|en|Tsitsernakaberd}}」を、[[1968年]]には50年前の対オスマン戦争での{{仮リンク|サルダラパートの戦い|en|Battle of Sardarabad}}を顕彰するモニュメントを建造した<ref name="中バ106">中島、バグダサリヤン(2009) 106頁</ref>。4月24日は公式に記念日として定められ、この日に行進を行うことも許可されるようになった<ref name="中バ106"/>。

=== ゴルバチョフ時代 ===
{{see also|ナゴルノ・カラバフ戦争}}
[[File:Karabakh movement demonstration at Yerevan Opera square (2).jpg|thumb|right|240px|ナゴルノ・カラバフ併合を支持するデモ(1988年、エレバン)]]
[[1986年]]、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]によって[[グラスノスチ]]と[[ペレストロイカ]]が導入されると、スターリン時代に[[カザフ・ソビエト社会主義共和国|カザフスタン]]に強制移住させられた[[ヘムシン人]]が、アルメニアへの帰還を求めて請願を開始した。しかし、[[ムスリム]]である彼らの帰還によって[[キリスト教徒]]のアルメニア人との間に[[民族紛争]]が発生することを恐れた[[ソビエト連邦閣僚会議|ソ連政府]]は、その要求を拒否した<ref name="Cheterian87">{{lang|en|Cheterian 2009, pp. 87–154.}}</ref>。

だが、民族紛争はそれとは別の原因で発生した。かつてボリシェヴィキがアルメニアとの約束を反故にしてアゼルバイジャンへ編入した[[ナゴルノ・カラバフ自治州]]で、そこに住むアルメニア人たちがナゴルノ・カラバフの「アゼルバイジャン化」を懸念し、同地とアルメニアの統合を求める運動を開始した<ref name="Cheterian87"/>。ナゴルノ・カラバフのアルメニア人を支援するデモが共産党の制止を無視してエレヴァンでも行われ<ref>[[#吉村|吉村 (2008)]] 50頁</ref>、非公認団体の推計で100万人以上がこれに参加した<ref>デューク、カラトニツキー(1995) 230頁</ref>。アゼルバイジャン側もカウンター・デモを奨励した。アルメニア側はゴルバチョフに対してナゴルノ・カラバフの併合を求める請願を行ったが、ゴルバチョフがこれを拒否したために、それまでアルメニア人の間で好意的に見られていたゴルバチョフの評判は下落した<ref>ナハイロ、スヴォボダ(1992) 539-543頁</ref>。

さらに、同年12月7日に[[スピタク]]で数万人が死亡するアルメニア地震が発生した際も、中央政府に先んじて救援活動を行ったのが対アゼルバイジャン強硬派の非公認団体「カラバフ委員会」であったため<ref>デューク、カラトニツキー(1995) 225-226頁</ref><ref name="吉ブ53">吉村(2009) 53-54頁</ref>、彼らに対する支持からアゼルバイジャンとの関係も悪化した。ほどなくしてアゼルバイジャンの[[スムガイト]]で多数の死者を出す民族暴動([[スムガイト事件]])が発生し、これが後のナゴルノ・カラバフ戦争へと繋がってゆく。

=== 独立 ===
ソ連中央政府の威信が低下するなか、[[1989年]]11月末の第29回党大会において、アルメニア共産党は[[ソ連共産党]]からの自立を宣言した<ref name="吉ブ53"/>。同年にはカラバフ委員会を中心として新党「[[アルメニア全国民運動]]」が結成され、[[ソ連憲法]]の改正で導入された[[複数政党制]]に基づく[[1990年]]5月の最高会議選挙で、全国民運動の[[レヴォン・テル=ペトロシャン]]が共産党のウラジーミル・モフセシャン ([[:ru:Мовсесян, Владимир Мигранович|ru]]) を破って議長に就任した<ref name="吉ブ53"/>。軍事組織も前年には[[ソ連軍]]から独立した活動を行っており、その非公式活動はすでに共産党の手を離れていた<ref>廣瀬(2005) 188頁</ref>。

[[1991年]]2月9日には社会政治団体法によって共産党が事実上非合法化され、同年の[[8月クーデター]]で中央政府の保守派が敗れたことを受け、9月23日、アルメニア最高会議はソビエト連邦からのアルメニアの独立を宣言した<ref name="吉ブ53"/>。

== 政治・経済 ==
{| class="wikitable" style="float:right; text-align:center"
|+ アルメニアの人口推移<ref name="bse">[http://bse.sci-lib.com/article071649.html {{lang|ru|Армянская Советская Социалистическая Республика}}] - {{lang|ru|[[БСЭ]]}}</ref>
! 年度 !! 総人口 !! 都市人口 !! 農村人口
|-
! 1913年
| 100万人 || 10万4千人 || 89万6千人
|-
! 1920年
| 78万人 || 11万2千人 || 66万8千人
|-
! 1926年
| 88万1千人 || 16万7千人 || 71万4千人
|-
! 1939年
| 128万2千人 || 36万6千人 || 91万6千人
|-
! 1959年
| 176万3千人 || 88万2千人 || 88万1千人
|-
! 1970年
| 249万3千人 || 148万2千人 || 101万1千人
|}
アルメニア・ソビエト社会主義共和国も他のソビエト連邦構成共和国と同様に、政治権力は最高司法府と[[最高裁判所]]を内包するアルメニア最高会議({{lang|hy|Հայկական ՍՍՀ Գերագույն Խորհուրդ}})にあった。この[[一院制]]の最高会議では人民6千人に1人の割合で選ばれた代表が4年の任期を務め、そのうち民族会議には32の代表がいた<ref name="bse"/>。一方、地区市町村の代表の任期は2年間であった<ref name="bse"/>。1936年に[[スターリン憲法]]が制定されてからは、アルメニアでも18歳以上の男女に対して[[普通選挙|普通選挙権]]が与えられたが、代表候補者は共産党などの推薦を受けた者が各選挙区に1人だけ置かれたため、上のような選挙も単なる[[信任投票]]に過ぎなかった<ref>吉村貴之(2011年2月27日) “[http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~dbmedm06/me_d13n/database/armenia/democratization.html アルメニア・民主化の経緯]” NIHUプログラム・イスラーム地域研究東京大学拠点 中東・イスラーム諸国の民主化 - 2013年9月16日閲覧。</ref>。

最高裁判所[[裁判官|判事]]は最高会議によって選出され任期は5年間、[[検察官]]はソビエト連邦検事総長 ([[:ru:Генеральный прокурор СССР|ru]]) によって任命され任期は5年間であった<ref name="bse"/>。

反体制組織としては、[[1960年代]]後半からソ連からのアルメニア独立を訴える地下組織「民族統一党」が活動を開始し<ref>ナハイロ、スヴォボダ(1992) 265頁</ref>、[[1977年]]にはその元党員らが[[モスクワ地下鉄]]で爆弾テロを行い7人を殺害している<ref name="ナ355">ナハイロ、スヴォボダ(1992) 355頁</ref>。彼らは秘密裁判の後に処刑されたが、これを[[KGB]]による謀略とする説もある<ref name="ナ355"/>。

[[私有財産]]を禁止するソ連の経済体制に対してはアルメニアの農民が活発な抵抗を繰り返していたが、1929年秋から私有農地の国有化が政府によって開始された<ref name="中バ99">中島、バグダサリヤン(2009) 99-100頁</ref>。同年末に[[コルホーズ]]化されていた農村世帯の割合は3.5パーセントであったが、1936年には80パーセントに<ref name="中バ99"/>、1947年には99.7パーセントに達した<ref name="中バ102">中島、バグダサリヤン(2009) 102-103頁</ref>。同時期には工業化も開始され、工業生産額は[[1940年]]に[[1913年]]の9倍に達し、[[1950年]]には産業総生産額に占める工業総生産額も81パーセントまで上昇した<ref name="中バ102"/>。しかし代償として村落や家族のあり方は破壊され、農村の住民は都市への定住を強制され、民間企業も事実上消滅した<ref>{{lang|en|Matossian 1962, pp. 99-116.}}</ref>。また、自然環境にも悪影響が生じた<ref>ナハイロ、スヴォボダ(1992) 504頁</ref>。

工業化が進んでからは[[鉱業]]や[[冶金]]が主要産業となり、[[1980年]]の各ソビエト共和国の中でアルメニアの[[モリブデン]]精鉱と[[硫酸銅]]の生産高は2位、製錬[[銅]]の生産高は3位であったが、[[化石燃料]]に関してはほとんどをアゼルバイジャンと[[北カフカス]]からの輸入でまかなっていた<ref name="ГЭ">[http://www.mining-enc.ru/a/armyanskaya-sovetskaya-socialisticheskaya-respublika/ {{lang|ru|Армянская Советская Социалистическая Республика}}] - {{lang|ru|Горная энциклопедия}}</ref>。元来が資源に乏しいアルメニアでは、産業の維持のため中央政府からの[[利益誘導]]が必要となり、見返りとして政治家への[[賄賂]]も横行した<ref>北川ほか(2006) 130-131頁</ref>。

1980年の国内総発電量は3,516メガワットで、うち[[原子力発電]]が815メガワット、[[水力発電]]が945メガワットであった<ref name="ГЭ"/>。

== 社会 ==
[[File:Namus.jpg|thumb|left|240px|「ナムス」(1925年制作)]]
[[1923年]]から数年の間、ソ連中央政府は党活動家の民族の偏りを防ぐために、各共和国にそれぞれの母語を普及させる「{{仮リンク|コレニザーツィヤ|en|Korenizatsiya}}」(土着化政策)を行った<ref>ナハイロ、スヴォボダ(1992) 117-118頁</ref>。アルメニアでは、当局が50歳までのすべての[[文盲]]の市民に学校に出てアルメニア語を学ぶよう義務付け、さらに一時期は全機関のあらゆる等級の職員がアルメニア人で占められるに至った<ref>ナハイロ、スヴォボダ(1992) 122頁</ref>。『歴史・言語学ジャーナル』([[:en:Patma-Banasirakan Handes|en]]) を始めとしたアルメニア語の新聞や雑誌が多数発行され、1921年にエチミアジンに文化・歴史研究所が、1920年代と[[1930年代|30年代]]には{{仮リンク|エレバン・オペラ劇場|ru|Армянский академический театр оперы и балета им. А. Спендиарова}}が設立された。また、ソ連の教科書ではカフカス、とりわけアルメニアがソ連の「領土内で最古の文明を持っている」と書かれた<ref>{{lang|en|Panossian 2006, pp. 288-289.}}</ref>。ソ連政府は感染症の予防にも取り組み、[[1963年]]にアルメニアで[[マラリア]]が根絶された<ref name="ԴՄՀ"/>。

1930年代に中央政府がコレニザーツィヤを正反対の[[ロシア語]]化政策に転換した後も、アルメニアではロシア語化は遅れ、1938年までロシア語は中高等教育で必修とされなかった<ref>ナハイロ、スヴォボダ(1992) 142-143頁</ref>。また、他の共和国とは違いザカフカス3国ではそれぞれの母語が憲法上の[[公用語]]であり続けた<ref>ナハイロ、スヴォボダ(1992) 383頁</ref>。

スポーツの分野では[[1950年代]]に9個の金メダルを獲得した体操選手の{{仮リンク|アルベルト・アザリャン|en|Albert Azaryan}}やボクシング世界チャンピオンの{{仮リンク|ダヴィト・トロシャン|en|David Torosyan}}など、卓上ゲームではチェスの世界チャンピオン[[チグラン・ペトロシアン]]などの強豪を輩出し、画家の{{仮リンク|マトリオス・サリヤン|hy|Մարտիրոս Սարյան}}や作曲家の[[アラム・ハチャトゥリアン]]といった芸術家も生み出している<ref name="ԴՄՀ"/>。

最初の国産映画は[[1925年]]制作の『{{仮リンク|ナムス|en|Namus (film)}}』であり、最初の国産[[トーキー]]は[[1935年]]制作の『{{仮リンク|ペポ|ru|Пэпо}}』である(監督はどちらも{{仮リンク|アモ・ベク=ナザーロフ|ru|Бек-Назаров, Амбарцум Иванович}})<ref>{{lang|en|Suny 1997, pp. 356-57.}}</ref>。最初のラジオ放送は[[1926年]]にエレバンで始まり、1956年にはエレバン・テレビセンターも開設された<ref name="bceradio">[http://slovari.yandex.ru/~%D0%BA%D0%BD%D0%B8%D0%B3%D0%B8/%D0%91%D0%A1%D0%AD/%D0%A1%D0%A1%D0%A1%D0%A0.%20%D0%90%D1%80%D0%BC%D1%8F%D0%BD%D1%81%D0%BA%D0%B0%D1%8F%20%D0%A1%D0%A1%D0%A0/ {{lang|ru|СССР. Армянская ССР}}] - {{lang|ru|БСЭ. — 1969—1978}}</ref>。ラジオとテレビの放送はアルメニア語、ロシア語、[[アゼルバイジャン語]]、[[クルド語]]で行われた<ref name="bceradio"/>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* ジャン=ピエール・アレム 『アルメニア』 [[藤野幸雄]]訳、[[白水社]]〈[[文庫クセジュ]]〉、1986年。 ISBN 978-4560056790
* 北川誠一ほか編著 『コーカサスを知るための60章』 [[明石書店]]〈[[エリア・スタディーズ]]〉、2006年。 ISBN 978-4750323015
* ナーディア・デューク、エイドリアン・カラトニツキー 『ロシア・ナショナリズムと隠されていた諸民族 ソ連邦解体と民族の解放』 [[田中克彦]]監訳、李守、早稲田みか、大塚隆浩訳、明石書店、1995年。 ISBN 978-4750306988
* {{Cite book|和書|author=中島偉晴|authorlink=中島偉晴|title= 閃光のアルメニア - ナゴルノ・カラバフはどこへ|year= 1990|publisher= J.P.P. 神保出版会|isbn= 978-4915757037|ref= 中島}}
* 中島偉晴、メラニア・バグダサリヤン編著 『アルメニアを知るための65章』 明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2009年。 ISBN 978-4750329895
* ボフダン・ナハイロ、ヴィクトル・スヴォボダ 『ソ連邦民族・言語問題の全史』 高尾千津子、[[土屋礼子]]訳、田中克彦監修、明石書店、1992年。 ISBN 978-4750304724
* {{Cite book|和書|author=廣瀬陽子|authorlink=廣瀬陽子|title=旧ソ連地域と紛争 : 石油・民族・テロをめぐる地政学 |publisher=慶應義塾大学出版会 |year=2005 |NCID=BA73660070 |ISBN=4766411927 |id={{全国書誌番号|21006024}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007953606-00 |ref=harv}}
* [[サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ]] 『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち 上』 染谷徹訳、白水社、2010年。 ISBN 978-4560080450
* {{Cite journal|和書|author=[[吉村貴之]] |url=https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/95/yoshimura.pdf |format=PDF |date=2005 |title=アルメニア民族政党間関係と ソヴィエト・アルメニア(1920-23年) |journal=[https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/95/95-contents.html スラブ研究センター研究報告シリーズ No.95 〈東欧・中央ユーラシアの近代とネイションIII〉] |publisher=北海道大学スラブ研究センター |year=2004 |ref=harv}}
** {{Cite journal|和書|title=アルメニア民族政党とソヴィエト・アルメニア(1920-23年) |author=吉村貴之 |journal=日本中東学会年報 |volume=21 |issue=1 |pages=173-190 |year=2005 |doi=10.24498/ajames.21.1_173 |url=https://doi.org/10.24498/ajames.21.1_173}}
* {{Cite book|和書|author= 吉村貴之|editor= 岡奈津子|title= 移住と「帰郷」 - 離散民族と故地|url= https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Reports/InterimReport/2007_04_11.html|year= 2008|publisher= [[日本貿易振興機構]] [[アジア経済研究所]]|series= 研究調査報告書 地域研究センター2007-IV-11|ncid= BA85362502|chapter= アルメニア再独立期に見るアルメニア本国と在外社会との関係 - ナゴルノ・カラバフ問題を手がかりに|chapterurl= https://www.ide.go.jp/library/Japanese/Publish/Reports/InterimReport/pdf/2007_04_11_03.pdf|format= PDF|pages= 45-61|ref= 吉村}}
* {{Cite book|和書|author=吉村貴之 |title=アルメニア近現代史 : 民族自決の果てに |publisher=東洋書店 |year=2009 |series=ユーラシア・ブックレット |NCID=BA91851616 |ISBN=9784885958779 |id={{全国書誌番号|21763319}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010602366-00 |ref=harv}}
* {{lang|en|Bauer-Manndorff, Elisabeth (1981). ''Armenia: Past and Present''. New York: Armenian Prelacy.}}
* {{lang|en|Beissinger, Mark R. (2002). ''Nationalist mobilization and the collapse of the Soviet State.'' Cambridge: Cambridge Univ. Press.}} ISBN 9780521001489
* {{lang|en|Bobelian, Michael (2009). ''Children of Armenia: A Forgotten Genocide and the Century-long Struggle for Justice.'' New York: Simon & Schuster.}} ISBN 1-4165-5725-3
* {{lang|en|Bournoutian, George A. (2006). ''A Concise History of the Armenian People''. Costa Mesa, California: Mazda Publishing.}} ISBN 1-56859-141-1
* {{lang|en|Cheterian, Vicken (2009). ''War and Peace in the Caucasus: Russia's Troubled Frontier.'' New York: Columbia University Press.}} ISBN 0-231-70064-4
* {{lang|en|Cornell, Svante E. (2001). ''Small nations and great powers: a study of ethnopolitical conflict in the Caucasus.'' Richmond: Curzon.}} ISBN 9780700711628
* {{lang|en|Dekmejian, R. Hrair (1997). "The Armenian Diaspora" in ''The Armenian People from Ancient to Modern Times, Volume II: Foreign Dominion to Statehood: The Fifteenth Century to the Twentieth Century''. Richard G. Hovannisian (ed.) New York: St. Martin's Press.}} ISBN 0-312-10168-6
* {{lang|en|Lindy, Jacob D. (2001). ''Beyond invisible walls: the psychological legacy of Soviet trauma, East European therapists and their patients.'' New York: Brunner-Routledge.}} ISBN 9781583913185
* {{lang|en|Matossian, Mary Kilbourne (1962). ''The Impact of Soviet Policies in Armenia'' Leiden: E.J. Brill.}} ISBN 0-8305-0081-2
* {{lang|en|Melkonian, Eduard (2010).}} [http://www.laender-analysen.de/cad/pdf/CaucasusAnalyticalDigest22.pdf {{lang|en|"Repressions in 1930s Soviet Armenia," ''Caucasus Analytical Digest No. 22''}}] {{lang|de|Zürich: Heinrich Böll Stiftung.}} {{en icon}}
* {{lang|en|Panossian, Razmik (2006). ''The Armenians: From Kings And Priests to Merchants And Commissars.'' New York: Columbia University Press.}} ISBN 0-231-13926-8
* {{lang|en|Shelley, Louise I. (1996). ''Policing Soviet society.'' New York: Routledge.}} ISBN 9780415104708
* {{lang|en|Suny, Ronald Grigor (1983). ''Armenia in the Twentieth Century''. Chico, CA: Scholars Press.}} ISBN 978-0891306191
* {{lang|en|Suny, Ronald Grigor (1993). ''Looking Toward Ararat: Armenia in Modern History''. Bloomington: Indiana University Press.}} ISBN 978-0253207739
* {{lang|en|Suny, Ronald Grigor (1997). "Soviet Armenia," in ''The Armenian People From Ancient to Modern Times, Volume II: Foreign Dominion to Statehood: The Fifteenth Century to the Twentieth Century'', ed. Richard G. Hovannisian, New York: St. Martin's Press.}} ISBN 978-1403964229
* {{lang|en|Walker, Christopher J. (1980). ''Armenia The Survival of a Nation, 2nd ed..'' New York: St. Martin's Press.}} ISBN 0-7099-0210-7
* {{lang|hy|Խուդավերդյան, Կոնստանտին (1984). «Սովետական Միության Հայրենական Մեծ Պատերազմ, 1941-1945» ''Հայկական սովետական հանրագիտարան, Գիրք X'' Երևան: Հայաստանի Հանրապետության գիտությունների ազգային ակադեմիա}}

== 関連項目 ==
{{commonscat|Armenian Soviet Socialist Republic}}
* [[エレバン放送]]


{{ロシア革命後の国家}}
{{ソビエト連邦構成共和国|state = open}}
{{ソビエト連邦構成共和国|state = open}}
{{ソビエト連邦構成自治共和国}}
{{ソビエト連邦構成自治共和国}}
{{ロシア革命後の国家}}
{{Normdaten}}


{{DEFAULTSORT:あるめにあそひえとしやかいしゆききようわこく}}
{{デフォルトソート:あるめにあそひえとしやかいしゆききようわこく}}
[[Category:アルメニア・ソビエト社会主義共和国|*]]
{{history-stub}}
[[Category:ソビエト連邦構成共和国]]
[[Category:アルメニア]]
[[Category:アルメニアの歴史]]
{{Link GA|en}}
{{Link GA|de}}
{{Link GA|es}}

2024年6月9日 (日) 02:16時点における最新版

アルメニア社会主義ソビエト共和国(1920年-1936年)
アルメニア・ソビエト社会主義共和国(1936年-1990年)
アルメニア共和国
(1990年-1991年)
Հայաստանի Սոցիալիստական Խորհրդային Հանրապետություն
(アルメニア語)
Социалистическая Советская Республика Армения(ロシア語)
(1920 ‐ 1936)
Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Ռեսպուբլիկա
(アルメニア語)
Армянская Советская Социалистическая Республика(ロシア語)
(1936 ‐ 1990)
Հայաստանի Հանրապետություն
(アルメニア語)
Республика Армения(ロシア語)
(1990 ‐ 1991)
アルメニア第一共和国 1920年 - 1991年 アルメニア
アルメニアの国旗 アルメニアの国章
国旗国章
国の標語: Պրոլետարներ բոլոր երկրների, միացե՜ք(アルメニア語)
万国の労働者よ、団結せよ!
国歌: Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետություն օրհներգ(アルメニア語)
アルメニア・ソビエト社会主義共和国国歌
(歌詞付き)

(演奏のみ)
アルメニアの位置
アルメニア・ソビエト社会主義共和国の位置
公用語 アルメニア語
ロシア語
首都 エレヴァン
アルメニア共産党英語版第一書記
1920年 - 1921年ゲヴォルク・アリハニャン
1991年5月14日 - 9月7日アラム・G・サルキシャン英語版
国家元首
1920年 - 1921年 サルキス・カシヤン
1990年 - 1991年レヴォン・テル=ペトロシャン
首相[注釈 1]
1921年 - 1922年アレクサンドル・ミャスニコフ
1990年 - 1991年ワズゲン・マヌキャン
面積
1989年29,800km²
人口
1920年780,000人
1989年3,287,700人
変遷
成立 1920年12月3日
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成1922年3月12日
ザカフカース連邦から分離1936年12月5日
ソビエト連邦の崩壊により独立1991年9月23日
通貨ソビエト連邦ルーブル
国際電話番号+7 885
現在アルメニアの旗 アルメニア

アルメニア・ソビエト社会主義共和国(アルメニア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、アルメニア語: Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետությունロシア語: Армянская Советская Социалистическая Республика)は、1920年アルメニア第一共和国を倒して成立した社会主義共和国である。1922年グルジアアゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を介してソビエト連邦構成共和国となり、1936年にその2国と分離してからも1991年ソビエト連邦の崩壊まで存在した。アルメニア史においては、それまで農業国であったアルメニア工業国への転換を果たした時代でもある。ソ連から独立を宣言したのは1991年のことであるが、1995年憲法フランス語版改正まではソビエト国家の機構を保持したままであった。

歴史

[編集]

共産化(レーニン時代)

[編集]
エレヴァンに進駐する赤軍第11軍(1920年)

1828年から1917年ロシア革命に至るまで、アルメニアエリヴァニ県ロシア語版としてロシア帝国の一部に組み込まれていた。二月革命後、南カフカースでは社会民主主義勢力が台頭し、3国はそれぞれグルジアメンシェヴィキアゼルバイジャンミュサヴァト党、アルメニアのダシュナク党の指導の下に共同してザカフカース民主連邦共和国を形成、ロシア帝国からの独立を果たした[1]。しかし、翌1918年3月のオスマン軍の侵入によって連邦は崩壊し、5月にグルジアはドイツ軍の保護下で、アゼルバイジャンはオスマン軍の影響下で、そしてアルメニアはダシュナク党の指導下でそれぞれ個別に独立を宣言した[1]

ところが、こうして独立したアルメニア第一共和国も、オスマン帝国の後を継いだトルコ共和国とのアルメニア・トルコ戦争で疲弊したところを赤軍に侵攻され、短期間のうちに共産主義勢力へ権力を移譲した。エレヴァンに暫定軍事革命員会が発足したのは、1920年12月3日午前0時のことである(この委員会は5人の共産主義者と2人の左派ダシュナク党員からなっていた)[2]。続く1921年から翌年までに1,400人の元第一共和国軍将校が逮捕され、リャザンの収容所へ送られた[3]

1921年、トルコとアルメニア、グルジアアゼルバイジャンの各ソビエト共和国の間でカルス条約が結ばれ、これによってトルコはアジャリアを手放す代わりにカルス地方を得ることが定められた[4]。この時にトルコ側に割譲された地域の中には、中世アルメニアの首都であったアニや、アルメニア人の精神的シンボルであるアララト山が含まれていた[4]。さらにその後、ロシア・ソビエト連邦共和国民族問題人民委員であったヨシフ・スターリンは、ナヒチェヴァンナゴルノ・カラバフもアゼルバイジャンの領土とすると決定した[5]。この2つの地域はどちらも、1920年にボリシェヴィキがアルメニアの領土であると保証していたはずのものであった[5][6]

1922年3月12日から1936年12月5日までの間、アルメニアはグルジアとアゼルバイジャンと共にザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成した。この頃のアルメニア革命委員会はサルキス・カシヤンやアヴィス・ヌリジャニャンといった、若く経験の浅い急進的共産主義者によって率いられていた。彼らのとった政策は、国家の厳しい情勢や紛争による人民の疲弊を考慮しない、威圧的な手法によるものであった[7]。ソビエト・アルメニアの歴史家であるバグラット・ボリヤンは1929年に次のように書いている[8]

革命委員会は、手加減せず断固として、社会層の区別も無視し、農民の一般的経済状態も、心理状態も考慮することなく、徴発にとりかかった。徴発は無秩序なやり方で行なわれた。極端な暴力を使って実施されたのである。組織的でなく、方針もなく、国の特殊な条件を考えることなく、革命委員会は徴用人に命令を下し、とくに都市住民への食糧供給と農民の食糧の貯蔵を国有化する命令を発した。混乱したやり方のなかであらゆるものが集められた。軍服、職人の道具、蜜蜂籠、下着類、衣類、家具、等々。

地元のチェーカーによって引き起こされたこのような徴発行動とテロに対して、共和国の元指導者たちに率いられたアルメニア人たちは、1921年2月に反乱を起こし、エレバンから共産勢力を一度は追放している[9]。しかし、グルジアを支配していた赤軍が呼び戻され、反乱は鎮圧された[9]

やがてモスクワは、それらの強硬な政策が地元住民との乖離を招いていると気付き、よりアルメニア人の心情に通じた経験豊富な穏健派のアレクサンドル・ミャスニコフを現地に派遣した[10]。さらに同時期にネップが重なり、アルメニアは相対的に安定した状態となった。この頃のアルメニアはオスマン帝国末期の激動とは対照的な平穏を保ち、人民は中央政府から薬品や食糧などの物資を受け取り、また識字率にも大幅な向上が見られた[11]。一方で、アルメニア使徒教会には共産主義の下で苦難の時代が続いた。

スターリン時代

[編集]

1924年1月にレーニンが死去すると、ソ連の最高権力はスターリンの手に渡った。それに伴い、アルメニアの社会・経済政策も変化を迎えた。1936年12月、ザカフカース連邦はスターリン憲法によって解体され、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンの3つの社会主義共和国として分割された[12]。スターリン支配による25年間でアルメニアの状況は悪化した。工業化と教育政策が厳格に規定され、ナショナリズムは厳しく抑制された[13]

教会はアルメニア人虐殺とロシア帝国の同化政策によりすでに弱体化していたが、スターリンはさらに教会を迫害する措置を講じた[14]1920年代には教会の私有財産が没収され、司祭は迫害を受けた。1930年にはアルメニア人ディアスポラのいる各国との関係改善のため、一時期教会への弾圧は緩和された[15]1932年にはホレン1世アルメニア語版カトリコスに叙されている。しかし、1930年代後半になると教会に対する当局の攻撃は再開され[16]、この年代にアルメニア・カトリック教会英語版からの7人とアルメニア・プロテスタント教会ロシア語版からの1人を含めた160人以上の司祭が逮捕され、そのうち91人が銃殺された[17]1938年4月6日に大粛清の一環としてホレン1世が殺害され、8月4日にエチミアジンの総本山が閉鎖されたことで、弾圧は頂点に達した。だが、教会は地下へ潜伏し、あるいはディアスポラの間に信仰を伝えることで命脈を保った[18]

大粛清は教会のみならず、共産党員に対しても犠牲をもたらした。1937年9月、スターリンはアルメニア人の中央政治局員アナスタス・ミコヤンの忠誠心を試すために、300人の名前の入ったリストを持たせ、オールド・ボリシェヴィキが中核をなしていたアルメニア共産党 (en) の人員整理を監督させるためにエレヴァンへ派遣した[19]。リストに従って党指導者のヴァガルシャク・テル=ヴァガニャンロシア語版モスクワ裁判の最初の被告として処刑され、同じく党幹部のアガシ・ハンジャンロシア語版も中央政治局員ラヴレンチー・ベリヤに殺害された[20]。この時、ミコヤンは友人1名の名を粛清リストから削ったが、その友人は見せしめとしてアルメニア共産党でのミコヤンの演説中にベリヤによって逮捕された[19]。最終的に1,000人が逮捕され、その中にはアルメニアの政治局員9人のうちの7人も含まれていた[19] 。その後、ベリヤはアルメニアでの自身の影響力を増すために、政治局に贔屓の部下を多く登用した[21]

アクセル・バクンツアルメニア語版イェギシェ・チャレンツなど、多くの科学者や芸術家も亡命を余儀なくされるか粛清の対象となった[17]。歴史家のアルメナク・マヌキャンの推定によれば、1930年から1938年までにアルメニアでは1万4904人が大粛清の犠牲となり、うち4,639人が殺害されたという(このうち4,530人は1937年から1938年の間に銃殺された)[22]

ソ連の多くの少数民族と同様、アルメニア人も数万人単位で粛清や強制移住の対象とされた。1936年にスターリンとベリヤはアルメニアの人口を70万人まで減らしてグルジアへ併合することを目論んで、アルメニア人をシベリアへ追放した[18]1944年には、およそ20万人のヘムシン人がグルジアからカザフスタンウズベキスタンへ移住させられた。1948年にはギリシャ人とダシュナク党の支持者5万8千人が沿海地域からカザフスタンへ移住させられている[23]

大祖国戦争期

[編集]
4人のアルメニア人元帥。左から、
イワン・バグラミャン
イワン・イサコフ
アマザスプ・ババジャニャン
セルゲイ・フジャコフロシア語版

ソ連の西部地域は大祖国戦争に沿って甚大な被害を受けたが、アルメニアを含めた南カフカースは主戦場にならず、破壊と荒廃を免れている[24]。しかし、アルメニアは食糧、人材、戦争物資の供給地として大きな役割を担った。推定で30万人から50万人のアルメニア人が出征し、そのうち半数が戻らなかった[25]ソ連邦英雄の最高位を与えられた者も数多い[26]。60人以上のアルメニア人が将校となり、最終的に元帥までなった者も4人いる[26]。一方で、ドイツの捕虜となったアルメニア人の中には収容所でのリスクと引き換えにドイツ軍に仕えることを選んだ者もいた。彼らは戦後、他の多くのソ連兵捕虜と同様にスターリンによってシベリアのグラーグへ送られた。

ソ連政府は戦意高揚のために従来のナショナリズムの抑圧政策を転換した。アルメニア語の小説が再版されるようになり、アルメニア史の英雄ダヴィト・ベクフランス語版を扱った映画も1944年に制作されている[27]。教会に対する規制も一時的に緩和された[27]1945年にはゲヴォルク6世アルメニア語版が新たなカトリコスに選出され、エチミアジンへの常駐を許された[28][29]

ドイツが降伏すると、アルメニア共産党第一書記のグリゴリ・アルチュノフや他のアルメニア人ディアスポラは、かつてカルス条約でトルコに割譲されたカルス地方を取り戻すことを再考するよう、スターリンに働きかけた[30]。1945年3月、ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相は1925年に調印されていたソビエト・トルコ友好条約(期限満了まではまだ8か月残されていた)の破棄を通告し、トルコに対してカルス地方の返還を要求した[31]。同年秋までにはすでにカフカースの赤軍はトルコへの侵攻を目的として編成されたが、これに対してトルコには超大国と化していたソ連に対抗できるだけの力はなかった。しかし、その後の冷戦によってトルコがNATOに加盟すると、アメリカの軍事介入を恐れたソ連は1953年5月にトルコに対する領土の要求を取り下げた[31]

戦後

[編集]

スターリンは戦争によって疲弊したアルメニア経済の復興を期待して、アルメニアの人口増大と労働力強化のためにディアスポラを積極的に国内に呼び寄せるキャンペーンを開始した。帰還の費用をソ連政府が負担したために、多くのディアスポラがこれに応え、1946年から48年までに推定15万人のディアスポラがキプロスフランスギリシャイラクレバノンシリアなどから帰還し、エレバン、レニナカンキロヴァカンなどに定着した[32]。彼らには食品券やよい住宅などの優遇措置が与えられたために、在来のアルメニア人との間に衝突がもたらされた[33]。ソ連で話されていた東アルメニア語とは異なる西アルメニア語を話すディアスポラは、在来のアルメニア人からは「兄弟」(aghbars) と呼ばれるようになり、当初は冗談交じりに使われていたこの単語は、やがて侮蔑語へと変わっていった[34]

しかし、ディアスポラに対するソ連政府の扱いが際立ってよかったわけではなかった。1946年にオデッサに到着した際に彼らは金やダイヤモンドや布などすべての持ち物を没収され、たとえソ連に失望したとしても国を出ることは許されなかった。元ディアスポラの多くが秘密警察の監視対象とされ、民族主義組織との関わりを疑われてシベリアなどの収容所送りとなった[35]

フルシチョフ・ブレジネフ時代

[編集]
ツィツェルナカベルト(アルメニア人虐殺記念館)。モニュメントは高さ44メートル。

1953年にスターリンが世を去り、新たなソ連指導者となったニキータ・フルシチョフ1956年スターリン批判を行い、体制に変化が訪れた。消費財や住宅に重点を置くフルシチョフの政策により、アルメニアは急速に文化的・経済的復興を始めた。教会に対しても僅かに自由が与えられ、1955年にはヴァズゲン1世ロシア語版がカトリコスに選出された。

1954年、ミコヤンはエレバンでの演説でアルメニアの党官僚に批判を加え、ラッフィアルメニア語版やチャレンツなどの禁止されていた文学作品の再版を許可し、奨励すると述べた[33][36]。エレバンにそびえていたスターリン像は1962年に軍によって一晩で撤去され、その跡にはアルメニアの母フランス語版の像が置かれた[37]

1964年レオニード・ブレジネフが権力を握ると、フルシチョフ時代の改革は停止され、ソ連の製品は質、量ともに不足するようになった。その影響は建材にも表れ、1988年アルメニア地震が発生した際も、揺れで倒壊したのはブレジネフ時代に建てられた建造物がそれ以前の時代のものよりも多かった[38]

ソ連政府はナショナリズムに対する警戒を続けていたが、それでもスターリン時代よりも制限は弱まり、1965年4月24日には10万人[39][40] のアルメニア人が、1915年アルメニア人虐殺への抗議、そしてナゴルノ・カラバフ、ナヒチェヴァンとオスマン帝国内の歴史的なアルメニア人居住地域(いわゆる西アルメニア英語版)の回復を訴えてエレヴァンでデモを行っている[41][42][43] 。当局はこれを受けて1967年に虐殺を追悼するモニュメント「ツィツェルナカベルト英語版」を、1968年には50年前の対オスマン戦争でのサルダラパートの戦い英語版を顕彰するモニュメントを建造した[44]。4月24日は公式に記念日として定められ、この日に行進を行うことも許可されるようになった[44]

ゴルバチョフ時代

[編集]
ナゴルノ・カラバフ併合を支持するデモ(1988年、エレバン)

1986年ミハイル・ゴルバチョフによってグラスノスチペレストロイカが導入されると、スターリン時代にカザフスタンに強制移住させられたヘムシン人が、アルメニアへの帰還を求めて請願を開始した。しかし、ムスリムである彼らの帰還によってキリスト教徒のアルメニア人との間に民族紛争が発生することを恐れたソ連政府は、その要求を拒否した[45]

だが、民族紛争はそれとは別の原因で発生した。かつてボリシェヴィキがアルメニアとの約束を反故にしてアゼルバイジャンへ編入したナゴルノ・カラバフ自治州で、そこに住むアルメニア人たちがナゴルノ・カラバフの「アゼルバイジャン化」を懸念し、同地とアルメニアの統合を求める運動を開始した[45]。ナゴルノ・カラバフのアルメニア人を支援するデモが共産党の制止を無視してエレヴァンでも行われ[46]、非公認団体の推計で100万人以上がこれに参加した[47]。アゼルバイジャン側もカウンター・デモを奨励した。アルメニア側はゴルバチョフに対してナゴルノ・カラバフの併合を求める請願を行ったが、ゴルバチョフがこれを拒否したために、それまでアルメニア人の間で好意的に見られていたゴルバチョフの評判は下落した[48]

さらに、同年12月7日にスピタクで数万人が死亡するアルメニア地震が発生した際も、中央政府に先んじて救援活動を行ったのが対アゼルバイジャン強硬派の非公認団体「カラバフ委員会」であったため[49][50]、彼らに対する支持からアゼルバイジャンとの関係も悪化した。ほどなくしてアゼルバイジャンのスムガイトで多数の死者を出す民族暴動(スムガイト事件)が発生し、これが後のナゴルノ・カラバフ戦争へと繋がってゆく。

独立

[編集]

ソ連中央政府の威信が低下するなか、1989年11月末の第29回党大会において、アルメニア共産党はソ連共産党からの自立を宣言した[50]。同年にはカラバフ委員会を中心として新党「アルメニア全国民運動」が結成され、ソ連憲法の改正で導入された複数政党制に基づく1990年5月の最高会議選挙で、全国民運動のレヴォン・テル=ペトロシャンが共産党のウラジーミル・モフセシャン (ru) を破って議長に就任した[50]。軍事組織も前年にはソ連軍から独立した活動を行っており、その非公式活動はすでに共産党の手を離れていた[51]

1991年2月9日には社会政治団体法によって共産党が事実上非合法化され、同年の8月クーデターで中央政府の保守派が敗れたことを受け、9月23日、アルメニア最高会議はソビエト連邦からのアルメニアの独立を宣言した[50]

政治・経済

[編集]
アルメニアの人口推移[52]
年度 総人口 都市人口 農村人口
1913年 100万人 10万4千人 89万6千人
1920年 78万人 11万2千人 66万8千人
1926年 88万1千人 16万7千人 71万4千人
1939年 128万2千人 36万6千人 91万6千人
1959年 176万3千人 88万2千人 88万1千人
1970年 249万3千人 148万2千人 101万1千人

アルメニア・ソビエト社会主義共和国も他のソビエト連邦構成共和国と同様に、政治権力は最高司法府と最高裁判所を内包するアルメニア最高会議(Հայկական ՍՍՀ Գերագույն Խորհուրդ)にあった。この一院制の最高会議では人民6千人に1人の割合で選ばれた代表が4年の任期を務め、そのうち民族会議には32の代表がいた[52]。一方、地区市町村の代表の任期は2年間であった[52]。1936年にスターリン憲法が制定されてからは、アルメニアでも18歳以上の男女に対して普通選挙権が与えられたが、代表候補者は共産党などの推薦を受けた者が各選挙区に1人だけ置かれたため、上のような選挙も単なる信任投票に過ぎなかった[53]

最高裁判所判事は最高会議によって選出され任期は5年間、検察官はソビエト連邦検事総長 (ru) によって任命され任期は5年間であった[52]

反体制組織としては、1960年代後半からソ連からのアルメニア独立を訴える地下組織「民族統一党」が活動を開始し[54]1977年にはその元党員らがモスクワ地下鉄で爆弾テロを行い7人を殺害している[55]。彼らは秘密裁判の後に処刑されたが、これをKGBによる謀略とする説もある[55]

私有財産を禁止するソ連の経済体制に対してはアルメニアの農民が活発な抵抗を繰り返していたが、1929年秋から私有農地の国有化が政府によって開始された[56]。同年末にコルホーズ化されていた農村世帯の割合は3.5パーセントであったが、1936年には80パーセントに[56]、1947年には99.7パーセントに達した[57]。同時期には工業化も開始され、工業生産額は1940年1913年の9倍に達し、1950年には産業総生産額に占める工業総生産額も81パーセントまで上昇した[57]。しかし代償として村落や家族のあり方は破壊され、農村の住民は都市への定住を強制され、民間企業も事実上消滅した[58]。また、自然環境にも悪影響が生じた[59]

工業化が進んでからは鉱業冶金が主要産業となり、1980年の各ソビエト共和国の中でアルメニアのモリブデン精鉱と硫酸銅の生産高は2位、製錬の生産高は3位であったが、化石燃料に関してはほとんどをアゼルバイジャンと北カフカスからの輸入でまかなっていた[60]。元来が資源に乏しいアルメニアでは、産業の維持のため中央政府からの利益誘導が必要となり、見返りとして政治家への賄賂も横行した[61]

1980年の国内総発電量は3,516メガワットで、うち原子力発電が815メガワット、水力発電が945メガワットであった[60]

社会

[編集]
「ナムス」(1925年制作)

1923年から数年の間、ソ連中央政府は党活動家の民族の偏りを防ぐために、各共和国にそれぞれの母語を普及させる「コレニザーツィヤ英語版」(土着化政策)を行った[62]。アルメニアでは、当局が50歳までのすべての文盲の市民に学校に出てアルメニア語を学ぶよう義務付け、さらに一時期は全機関のあらゆる等級の職員がアルメニア人で占められるに至った[63]。『歴史・言語学ジャーナル』(en) を始めとしたアルメニア語の新聞や雑誌が多数発行され、1921年にエチミアジンに文化・歴史研究所が、1920年代と30年代にはエレバン・オペラ劇場ロシア語版が設立された。また、ソ連の教科書ではカフカス、とりわけアルメニアがソ連の「領土内で最古の文明を持っている」と書かれた[64]。ソ連政府は感染症の予防にも取り組み、1963年にアルメニアでマラリアが根絶された[10]

1930年代に中央政府がコレニザーツィヤを正反対のロシア語化政策に転換した後も、アルメニアではロシア語化は遅れ、1938年までロシア語は中高等教育で必修とされなかった[65]。また、他の共和国とは違いザカフカス3国ではそれぞれの母語が憲法上の公用語であり続けた[66]

スポーツの分野では1950年代に9個の金メダルを獲得した体操選手のアルベルト・アザリャン英語版やボクシング世界チャンピオンのダヴィト・トロシャン英語版など、卓上ゲームではチェスの世界チャンピオンチグラン・ペトロシアンなどの強豪を輩出し、画家のマトリオス・サリヤンアルメニア語版や作曲家のアラム・ハチャトゥリアンといった芸術家も生み出している[10]

最初の国産映画は1925年制作の『ナムス英語版』であり、最初の国産トーキー1935年制作の『ペポロシア語版』である(監督はどちらもアモ・ベク=ナザーロフロシア語版[67]。最初のラジオ放送は1926年にエレバンで始まり、1956年にはエレバン・テレビセンターも開設された[68]。ラジオとテレビの放送はアルメニア語、ロシア語、アゼルバイジャン語クルド語で行われた[68]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 人民委員会議長(1921年 - 1946年)、閣僚会議議長(1946年 - 1991年)

出典

[編集]
  1. ^ a b 北川ほか(2006) 116頁
  2. ^ 中島、バグダサリヤン(2009) 93頁
  3. ^ Melkonian 2010, p. 6.
  4. ^ a b 吉村(2009) 41-42頁
  5. ^ a b Matossian 1962, p. 30.
  6. ^ 中島、バグダサリヤン(2009) 153頁
  7. ^ Suny 1993, p. 139.
  8. ^ アレム(1986) 81頁
  9. ^ a b 吉村(2004) 3頁
  10. ^ a b c ՀԱՅԿԱԿԱՆ ԽՈՐՀՐԴԱՅԻՆ ՍՈՑԻԱԼԻՍՏԱԿԱՆ ՀԱՆՐԱՊԵՏՈՒԹՅՈՒՆ - Դպրոցական Մեծ Հանրագիտարան, Գիրք II
  11. ^ Matossian 1962, p. 80.
  12. ^ アレム(1986) 86頁
  13. ^ Ամատունի Սասունիկի Վիրաբյան, Հայաստանը Ստալինից մինչև Խրուշչով ՀՀ ԳԱԱ «Գիտություն» հրատ, 2001. ISBN 9785808004993
  14. ^ Matossian 1962, pp. 90-95, 147-151.
  15. ^ Matossian 1962, p. 150.
  16. ^ Matossian 1962, p. 194.
  17. ^ a b Melkonian 2010, p. 8.
  18. ^ a b Bauer-Manndorff 1981, p. 178.
  19. ^ a b c モンテフィオーリ(2010) 449頁
  20. ^ ナハイロ、スヴォボダ(1992) 138-9頁
  21. ^ Melkonian 2010, p. 7.
  22. ^ Melkonian 2010, p. 9.
  23. ^ Ruben Amshentsi, Grigor Hakobyan (2004年10月4日). “Muslim Armenians”. USANOGH.COM. 2006年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年2月6日閲覧。 (英語)
  24. ^ 北川ほか(2006) 128頁
  25. ^ Walker 1980, pp. 355–356.
  26. ^ a b Խուդավերդյան 1984, pp. 542-547.
  27. ^ a b Panossian 2006, p. 351.
  28. ^ Matossian 1962, pp. 194-195.
  29. ^ アレム(1986) 123頁
  30. ^ Dekmejian 1997, pp. 416-417.
  31. ^ a b 中島 (1990) 397-398頁
  32. ^ Dekmejian. "The Armenian Diaspora", p. 416.
  33. ^ a b 中島 (1990) 401-402頁
  34. ^ Bournoutian 2006, p. 324.
  35. ^ 北川ほか(2006) 129頁
  36. ^ Matossian 1962, p. 201.
  37. ^ Suny 1983, pp. 72-73.
  38. ^ Bobelian 2009, p. 121ff.
  39. ^ Shelley 1996, p. 183.
  40. ^ Beissinger 2002, p. 71.
  41. ^ ナハイロ、スヴォボダ(1992) 278頁
  42. ^ Cornell 2001, p. 63.
  43. ^ Lindy 2001, p. 192.
  44. ^ a b 中島、バグダサリヤン(2009) 106頁
  45. ^ a b Cheterian 2009, pp. 87–154.
  46. ^ 吉村 (2008) 50頁
  47. ^ デューク、カラトニツキー(1995) 230頁
  48. ^ ナハイロ、スヴォボダ(1992) 539-543頁
  49. ^ デューク、カラトニツキー(1995) 225-226頁
  50. ^ a b c d 吉村(2009) 53-54頁
  51. ^ 廣瀬(2005) 188頁
  52. ^ a b c d Армянская Советская Социалистическая Республика - БСЭ
  53. ^ 吉村貴之(2011年2月27日) “アルメニア・民主化の経緯” NIHUプログラム・イスラーム地域研究東京大学拠点 中東・イスラーム諸国の民主化 - 2013年9月16日閲覧。
  54. ^ ナハイロ、スヴォボダ(1992) 265頁
  55. ^ a b ナハイロ、スヴォボダ(1992) 355頁
  56. ^ a b 中島、バグダサリヤン(2009) 99-100頁
  57. ^ a b 中島、バグダサリヤン(2009) 102-103頁
  58. ^ Matossian 1962, pp. 99-116.
  59. ^ ナハイロ、スヴォボダ(1992) 504頁
  60. ^ a b Армянская Советская Социалистическая Республика - Горная энциклопедия
  61. ^ 北川ほか(2006) 130-131頁
  62. ^ ナハイロ、スヴォボダ(1992) 117-118頁
  63. ^ ナハイロ、スヴォボダ(1992) 122頁
  64. ^ Panossian 2006, pp. 288-289.
  65. ^ ナハイロ、スヴォボダ(1992) 142-143頁
  66. ^ ナハイロ、スヴォボダ(1992) 383頁
  67. ^ Suny 1997, pp. 356-57.
  68. ^ a b СССР. Армянская ССР - БСЭ. — 1969—1978

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]