イワン・バグラミャン
この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年3月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
イワン・バグラミャン Иван Баграмян | |
---|---|
生誕 |
1897年12月2日 ロシア帝国 エリザヴェトポリ県、エリザヴェトポリ |
死没 |
1982年9月21日(84歳没) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ |
軍歴 | 1915年-1970年 |
最終階級 | ソ連邦元帥 |
墓所 | クレムリンの壁墓所 |
イワン・フリストフォーロヴィチ・バグラミャン(ロシア語: Иван Христофорович Баграмян, アルメニア語: Հովհաննես խաչատուրի Բաղրամյան;1897年12月2日 - 1982年9月21日)は、ソ連の軍人。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄(2度)。ロシアでは「イワン・フリストフォーロヴィチ・バグラミャン」と名乗ったが、アルメニア人としての本名は「ホヴハネス・ハチャトゥリ・バグラミャン」(Հովհաննես Խաչատուրի Բաղրամյան, Оване́с Хачату́рович Баргамян)である。
経歴
[編集]ロシア帝国エリザヴェートポリ(現ギャンジャ)出身。鉄道労働者の家に産まれた。アルメニア人。1915年からロシア帝国軍に召集され、1917年、准尉学校を卒業。
1920年12月、赤軍に志願し、ロシア内戦に従軍。騎兵指揮要員完全化課程(1925年)、上級指揮要員完全化課程(1931年)、フルンゼ名称軍事アカデミー(1934年)、参謀本部アカデミー(1938年)を卒業。1940年9月から軍、後にキエフ特別軍管区の参謀部作戦課長。
1941年の独ソ戦勃発後、南西戦線参謀部作戦課長に任命され、キエフ防衛戦に参加。同年12月末から南西方面参謀長、後に南西戦線参謀長となる。1942年7月から第16軍(1943年4月から第11親衛軍)司令官、1943年11月から第1沿バルト戦線(1945年3月からゼムランド軍集団)司令官となり、ベラルーシのヴィテプスク・オルシャ正面でドイツ中央軍集団を粉砕し、ドヴィナ川を強行渡河した(バグラチオン作戦)。この功績により、1944年7月29日、1つ目のソ連邦英雄称号とレーニン勲章が授与された。その後、戦線部隊はバルト海沿岸を確保し、リガ付近で30個師団以上のドイツ軍を本国と分断した。
1945年4月から第3白ロシア戦線司令官となり、東プロイセン作戦に参加し、ケーニヒスベルクを奪取した。
戦後、1945年~1954年、沿バルト軍管区司令官。1954年から国防省主任監察官、国防次官。1955年3月、ソ連邦元帥。1956年~1958年、参謀本部軍事アカデミー校長。1958年から国防次官、軍後方部長。1968年4月から監察総監主任監察官。
1961年からソ連共産党中央委員会委員(1952年から候補)。第2期~第10期ソ連最高会議代議員。
1982年9月21日、死去。赤の広場のクレムリンの壁墓所に埋葬。
表彰・受勲
[編集]ソ連邦英雄(1944年7月29日、1977年12月1日)。レーニン勲章7個、十月革命勲章、赤旗勲章3個、一等スヴォーロフ勲章2個、一等クトゥーゾフ勲章、三等「ソ連軍における祖国への奉仕に対する」勲章を受章。
- ソビエト連邦元帥
- ソビエト連邦共産党中央委員会の人物
- 第2回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第3回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第4回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第5回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第6回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第7回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第9回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第10回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 沿バルト軍管区司令官
- 第二次世界大戦期のソビエト連邦の戦線司令官
- 第二次世界大戦期のソビエト連邦の参謀長
- ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の軍人
- ソビエト連邦英雄
- レーニン勲章受章者
- 十月革命勲章受章者
- ソ連軍勤務時祖国奉仕勲章受章者
- 赤旗勲章受章者
- スヴォーロフ勲章受章者
- クトゥーゾフ勲章受章者
- スフバートル勲章受章者
- カール・マルクス勲章受章者
- クレムリンの壁墓所に埋葬された人物
- フルンゼ軍事大学出身の人物
- エリザヴェトポリ県出身の人物
- ギャンジャ出身の人物
- ロシア帝国のアルメニア人
- ロシア革命の人物
- ロシア内戦の人物
- 1897年生
- 1982年没