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「ホセ・リサール」の版間の差分

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'''ホセ・リサール'''(José Rizal,[[1861年]][[6月19日]] - [[1896年]][[12月30日]])は、[[フィリピン]]独立運動の闘士にしてフィリピンの国民的[[英雄]]。[[医師]]、[[著作家]]、[[画家]]でもあった。志半ばにして捕らえられ、[[スペイン]]軍の手で[[銃殺]]されたが、その意志は人々に受け継がれ、フィリピン独立の英雄としても愛され続ける。8人の[[続柄#高祖父|高祖父]]の内、1人は日系フィリピン人とされている{{要出典|date=2010年2月}}。<!-- 日本人の恋人はいたが...。-->
'''ホセ・リサール'''(José Rizal,[[1861年]][[6月19日]] - [[1896年]][[12月30日]])は、[[フィリピン]]独立運動の闘士にしてフィリピンの「'''国民的[[英雄]]'''(Héroe Nacional)<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:93)]]</ref>」。[[医師]]、[[著作家]]、[[画家]]、学者でもあった。志半ばにして捕らえられ、[[スペイン]]軍の手で[[銃殺]]されたが、その意志は人々に受け継がれ、フィリピン独立の英雄として現在も愛され続けている。8人の[[続柄#高祖父|高祖父]]の内、1人は日系フィリピン人とされている{{要出典|date=2010年2月}}。<!-- 日本人の恋人はいたが...。-->


[[1949年]]から[[1973年]]にかけて1[[フィリピン・ペソ|ペソ]]または2ペソ紙幣に肖像が使用されていた。
[[1949年]]から[[1973年]]にかけて1[[フィリピン・ペソ|ペソ]]または2ペソ紙幣に肖像が使用されていた。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 少年期 ===
フルネームはホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ(Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda)。[[1861年]]、[[ラグナ州]]の[[カランバ]]で父フランシスコ・メルカードと母テオドラ・アロンソの間に生まれた。彼の家系は[[メスティーソ]]といわれる[[中国]]とフィリピンの混血の一族であった。メルカード家は中国・[[福建省]]の[[晋江市|晋江]]から[[17世紀]]に渡りフィリピンの先住の女性と結婚した[[商人]]の末裔であり、元来の姓は「柯」といった。また母方のアロンソ家はスペイン人と先住民の混血の家系で、ホセの曽祖父は、[[日本]]からの[[移民]]と現地女性の末裔にあたる女性と結婚している{{要出典|date=2010年2月}}。
フルネームはホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ(Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda)。[[1861年]][[6月19日]]に、[[ルソン島]]の[[ラグナ州]][[カランバ]]で父フランシスコ・メルカードと母テオドラ・アロンソの間に、11人兄弟の7人目の子として生まれた<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:7-9)]]</ref>。リサールには姉が5人、兄が1人、妹が4人いた<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:7)]]</ref>。


彼の家系は[[メスティーソ]]といわれる[[中国]]とフィリピン[[混血]]の一族であった<ref>[[#鈴木(1997)|鈴木(1997:84-85)]]</ref>。メルカード家は中国・[[福建省]]の[[晋江市|晋江]]から[[17世紀]]に渡りフィリピンの先住の女性と結婚した[[商人]]の末裔であり、元来の姓は「柯」といった。また母方のアロンソ家はスペイン人と先住民の混血の家系で、ホセの曽祖父は、[[日本]]からの[[移民]]と現地女性の末裔にあたる女性と結婚している{{要出典|date=2010年2月}}。
初等教育を終えると[[マニラ]]にあるアテネオ学院(現在の[[アテネオ・デ・マニラ大学]] [[w:Ateneo de Manila University]])に学、[[1877年]]に学士号取得した。さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、当時のフィリピンの最高学府[[サント・トマス大学]]([[w:University of Santo Tomas]])で[[学]]を学んだ。後、母が失明の危機陥ると、サト・トマ大学で[[医学]]を学び始めた。しかし同大学を運営する[[ドミニコ会]]員たちのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去った{{要出典|date=2010年2月}}。


8歳にして[[タガログ語]]と[[スペイン語]]を身に付け<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:9)]]</ref>、9歳にしてビニヤーン校に入学した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:15)]]</ref>。[[初等教育]]を終えると[[1877年]]に16歳にして[[マニラ]]にあるアテネオ学院(現在の[[アテネオ・デ・マニラ大学]] [[w:Ateneo de Manila University]])に、[[農学]]を学んだ<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:18)]]</ref>。さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、母が失明の危機に陥ると当時のフィリピンの最高学府[[サント・トマス大学]]([[w:University of Santo Tomas]])で[[学]]を学んだ<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:18)]]</ref>在学中1879年スペイ語の詩のコンテ最優秀賞を獲得し、[[1881年]]9月にスペイン政府から「土地査定技師」の免許授与されている<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:18-19)]]</ref>。しかし同大学を運営する[[ドミニコ会]]員たちのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去った{{要出典|date=2010年2月}}。
リサールは父の反対を押し切って[[宗主国]]であるスペインの[[マドリッド]]に留学した。[[マドリード・コンプルテンセ大学]]で医学の勉強を続け、医師免許を取得すると、さらに[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]と[[パリ大学]]で医学の研鑽を積んだ。ちなみにリサールは語学の天才であり、[[アラビア語]]、[[スペイン語]]、[[中国語]]、[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[イタリア語]]、[[マレー語]]、[[ポルトガル語]]、[[ロシア語]]、[[タガログ語]]やフィリピンの諸言語を自在に操り、[[ギリシャ語]]、[[ラテン語]]、[[ヘブライ語]]、[[日本語]]、[[サンスクリット語]]を理解したといわれている{{要出典|date=2010年2月}}。


リサールは父の反対を押し切って[[宗主国]]であるスペインの[[マドリッド]]に留学した。
ホセ・リサールは『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)[ラテン語で『我に触れるな』]と『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』[スペイン語で『反逆者』]という2つの著作で有名である。両方ともスペイン語で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ[[植民地]]フィリピンの様子が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。


=== 最初の海外留学 ===
リサールは[[1881年]]にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌[[1882年]]にサント・トマス大学[[医学部]]を修了した後、同年中にヨーロッパへと旅立った<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:20-21)]]</ref>。1882年[[6月13日]]に[[マルセイユ]]に、6月15日に[[バルセロナ]]に到着した後、最終目的地であった[[スペイン]]の首都[[マドリード]]に到着し、同年10月に[[マドリード・コンプルテンセ大学|国立マドリード大学]]の医学部と[[人文学部|哲文学部]]の両学部に入学した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:18-19)]]</ref>。マドリード大学でリサールは猛勉強し、26歳までに[[スペイン語]]、[[フランス語]]、[[イタリア語]]、[[ポルトガル語]]、[[カタルーニャ語]]、[[中国語]]、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[オランダ語]]、[[スウェーデン語]]、[[ロシア語]]、[[ラテン語]]、[[ギリシャ語]]、[[ヘブライ語]]、[[サンスクリット語]]などの諸言語を習得し<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:24)]]</ref>、[[中国語]]、[[日本語]]、[[タガログ語]]、[[ビサヤ語]]、[[イロカノ語]]を研究していた<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:26)]]</ref>。大学時代の同級生には後に哲学者として著名になる[[ミゲル・デ・ウナムーノ]]がおり、リサールと同じ学級でギリシャ語を学んでいる<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:26-27)]]</ref>。[[1885年]]6月にマドリード大学の哲文学博士と医学士の号を取得したが、金銭事情により医学博士号は取得できなかった<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:28)]]</ref>。マドリード大学を出た後、1885年7月から[[1886年]]1月まで[[パリ大学]]でフランス語と[[眼科学]]を学び、この時に[[フランス革命]]の「[[人権宣言]]」をタガログ語に翻訳している<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:28-29)]]</ref>。1886年2月から[[1887年]]5月までドイツ帝国の[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]、[[ライプツィヒ大学]]、[[ベルリン大学]]で引き続き医学と、加えて[[社会学]]を学び、ドイツ語で書いた社会学の論文が評価されてドイツ国籍の取得を薦められたが、これを固辞している<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:29-34)]]</ref>。ドイツ滞在中の1887年2月21日にベルリンで[[小説]]『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)』[ラテン語で『我に触れるな』の意]を出版した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:34)]]</ref>。1887年7月3日に26歳にしてヨーロッパを離れ、同年[[8月5日]]にフィリピンに戻った<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:38-39)]]</ref>。

フィリピン帰国後暫くは出身地のカランバ村で医者業を行っていたが、間もなく同年に出版した小説『ノリ・メ・タンヘレ』が反植民地的だとフィリピンのスペイン植民地支配層から問題にされたため、身の危険を感じたリサールは27歳にして再び留学へと旅立った<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:40-41)]]</ref>。

=== 二度目の海外留学 ===
二度目の目的地もヨーロッパだったが、前回とは異なり、[[日本]]と[[アメリカ合衆国]]を経由して向かった。[[1888年]][[2月28日]]にリサールは[[横浜]]に到着し、駐日スペイン公使館の庇護を受けつつ、「おせいさん」こと[[臼井勢似子]]と交流を結び、おせいさんとの交流を通じて日本に対して好意的な印象を持ったリサールは翌[[1889年]]に[[ロンドン]]で日本の[[民話]]「[[猿蟹合戦]]」とフィリピンの民話「さる・かめ合戦」を比較した論考を著している<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:41-48)]]</ref>。1888年[[4月13日]]にリサールは[[サンフランシスコ]]行きの船に乗り込み、船中で後に[[衆議院]]議員となる[[自由民権]]運動の壮士、[[末広鉄腸]]と懇意になった<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:48-51)]]</ref>。当初の鉄腸の目的は訪米だったが、リサールと意気投合したために予定を変更して4月28日のサンフランシスコ到着後も行動を共にし、[[5月16日]]に[[リサール]]と共にイギリスの[[リバプール]]に到着した後、ロンドンにて別れている<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:51-53)]]</ref>。ロンドン到着後のリサールは[[大英博物館]]をはじめとする、イギリス、[[ベルギー]]、パリの図書館に通いながら古代史の研究を進め、スペイン人による植民地化以前のフィリピンの歴史を研究した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:53-57)]]</ref>。[[1889年]][[2月15日]]には[[ロペス・ハエナ]]や[[マルセロ・ヒラリオ・デル・ピラール|デル・ピラール]]らスペインの首都マドリードに滞在していたフィリピン出身者と共に、半月刊のスペイン語[[新聞]]『ラ・ソリダリダッド』(スペイン語で「団結」の意)の創刊に加わり、「[[プロパガンダ運動]]」を行っている<ref>[[#鈴木(1997)|鈴木(1997:91-92)]]</ref>。[[1891年]][[9月18日]]にベルギーの[[ヘント]]で二作目の小説『エル・フィリブステリスモ』を出版した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:57-58)]]</ref>。

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リサールは政治的独立のみを目指す革命志向家というよりはフィリピン人たちの生活改善を願う改革者であった。[[バルセロナ]]でスペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織して[[プロパガンダ]]運動を始め、雑誌『ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)』[スペイン語で『連帯』]を創刊した。そこで彼の打ち出した運動の方向性は以下のようなものであった。
リサールは政治的独立のみを目指す革命志向家というよりはフィリピン人たちの生活改善を願う改革者であった。[[バルセロナ]]でスペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織して[[プロパガンダ]]運動を始め、雑誌『ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)』[スペイン語で『連帯』]を創刊した。そこで彼の打ち出した運動の方向性は以下のようなものであった。


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*フィリピン人に法律的平等が与えられること。
*フィリピン人に法律的平等が与えられること。


もしこれらの改革案が受け入れられていれば、リサールの著作にも何の問題もなかっただろう。しかし、スペイン人統治者たちはこのような暴力に訴えない提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視した。[[1892年]]、マニラに戻ったリサールを待っていたのは辺地への追放であった。容疑は「[[ラ・リガ・フィリピナ]](La Liga Filipina, フィリピン連盟)」という組織による破壊工作。[[ミンダナオ島]]の[[ダピタン]]([[w:Dapitan|Dapitan]]、現在の[[サンボアンガ・デル・ノルテ州]]にある)へ追放されたリサールは同地で[[病院]]と[[学校]]を作って住民の啓蒙に努めた。
もしこれらの改革案が受け入れられていれば、リサールの著作にも何の問題もなかっただろう。しかし、スペイン人統治者たちはこのような暴力に訴えない提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視した。
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=== 帰国 ===
[[1896年]]、[[秘密結社]][[カティプナン]]が独立闘争([[フィリピン独立革命#1896年革命|1896年革命]])を開始すると、以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕され、マニラに送致され[[裁判]]にかけられ、暴動の扇動容疑で[[銃殺刑]]が宣告された。リサールの人物を惜しんだスペイン人官吏が国を出て、[[キューバ]]で医療奉仕するなら処刑は取り消せると提案したが、リサールは断り、故国のために死ぬ事を選んだ{{要出典|date=2010年2月}}。<!-- たしか、自ら死を選ぶため留まったのではなく、海外出発前に捕われたのでは? -->
『エル・フィリブステリスモ』の出版後、リサールは1891年[[10月18日]]にマルセイユを発ち、フィリピンに帰国しようとしたが、フィリピン官憲がリサールの反植民地主義を危険視したために帰国が敵わず、11月19日に[[香港]]に到着した後、当地で眼科医を開業した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:59)]]</ref>。しかしながら望郷の念は已まず、翌1892年6月15日にフィリピンに帰国した<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:61-62)]]</ref>。帰国後、リサールは「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟」を組織すべく活動した<ref>[[#鈴木(1997)|鈴木(1997:100)]]</ref>。ラ・リガ・フィリピナの思想的立場は急進的な[[革命]]を望むものではなく、スペイン治下のまま暴力を用いずに穏健な改革を望むものであったが<ref>[[#鈴木(1997)|鈴木(1997:100-101)]]</ref>、この方針をも危険視した植民地政府当局によってリサールは逮捕され、同年[[7月7日]]にフィリピン南部の[[ダピタン]]([[w:Dapitan|Dapitan]]、現在の[[サンボアンガ・デル・ノルテ州]]に位置する)へ流刑された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:62)]]</ref>。流刑地ダピタンでのリサールは医者、及び教師として住民に接し、また、ヨーロッパの学者からの依頼に応じて[[ミンダナオ島]]の地質、[[昆虫]]、[[動物]]についての研究を残している<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:63-66)]]</ref>。この頃までにリサールは20数言語を習得していた<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:67)]]</ref>。


=== 最期 ===
処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの[[辞世]]の詩は、後に「ミ・ウルティモ・アディオス(''Mi Ultimo Adios'',『我が最後の別れ』)」と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年[[12月30日]]、マニラで銃殺された。
[[1896年]]7月に流刑を終えた後、かねてから伝えていた[[軍医]]志望の旨が総督の[[ラモン・ブランコ]]に許可されたため、リサールは[[スペイン海軍]]の[[巡洋艦]]「カスティリア号」に乗り込み、任地のスペイン領[[キューバ]]へと旅立った<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:68-69)]]</ref>。しかし、船が[[地中海]]に入ったところで[[秘密結社]][[カティプナン]]が独立闘争([[フィリピン独立革命#1896年革命|1896年革命]])を開始すると、上陸地のバルセロナで以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:70)]]</ref>。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、[[軍法会議]]にかけられ、同年[[12月26日]]に[[銃殺刑]]が宣告された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:71)]]</ref>。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの[[辞世]]の詩は、後に『ミ・ウルティモ・アディオス(''Mi Ultimo Adios'',『我が最後の別れ』の意)』と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年[[12月30日]]、リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:84-86)]]</ref>。

== 評価 ==
リサールの処刑は巨大な反響を招いた。リサール処刑の翌々年に成立した[[フィリピン第一共和国]]の[[エミリオ・アギナルド]]大統領はリサールが処刑された12月30日を「リサールの日」に指定し、祭日とした<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:88)]]</ref>。このようにリサールはフィリピンで高く評価されている他、[[インドネシア]]初代大統領の[[スカルノ]]も[[オランダ人]]が[[インドネシア語]]に訳したリサールの著作を通して影響を受けた<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:110-111)]]</ref>。リサール初の伝記はスペイン人でありながらも、リサール心酔者となった[[ウエンセスラオ・レタナ]]によって[[1900年]]にマドリードで出版された<ref>[[#安井(1994)|安井(1994:141-142)]]</ref>。

また、[[1888年]]の4月から5月にかけてのリサールのイギリス行に同行した[[自由民権運動]]の壮士、[[末広鉄腸]]は[[1891年]]にリサールをモデルにした主人公が日本人志士の助けを得てスペインからのフィリピン独立運動を戦う[[政治小説]]、『[[南洋之大波瀾]]』を著している<ref>[[#池端(2001)|池端(2001:211-213)]]</ref>。

現在、リサールは『ノリ・メ・タンヘレ』と『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』という2つの小説で有名である。フィリピン最初期の[[近代小説]]である作は共に[[スペイン語]]で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ[[植民地]]フィリピンの様子が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。


リサールが処刑された[[マニラ湾]]を見渡す地は現在、[[リサール公園]]([[w:Rizal Park]]、別名 ルネタ公園 Luneta Park)として整備されており、衛兵に24時間守られている記念碑があり、緑も多くマニラ市民の憩いの場所になっている。また、リサールは[[1888年]]に来日しており、1ヶ月ほど[[東京都]](当時・東京府)内に滞在している。これを記念して東京の[[日比谷公園]]にはホセ・リサール記念像が設置されている。
リサールが処刑された[[マニラ湾]]を見渡す地は現在、[[リサール公園]]([[w:Rizal Park]]、別名 ルネタ公園 Luneta Park)として整備されており、衛兵に24時間守られている記念碑があり、緑も多くマニラ市民の憩いの場所になっている。また、リサールは[[1888年]]に来日しており、1ヶ月ほど[[東京都]](当時・東京府)内に滞在している。これを記念して東京の[[日比谷公園]]にはホセ・リサール記念像が設置されている。


== 著作 ==
== 著作 ==
*『ノリ・メ・タンヘレ([[:en:Noli me tangere|Noli me tangere]])』
* 『ノリ・メ・タンヘレ([[:en:Noli me tangere|Noli me tangere]])』
*『エル・フィリブステリスモ([[:en:El Filibusterismo|El Filibusterismo]])』
* 『エル・フィリブステリスモ([[:en:El Filibusterismo|El Filibusterismo]])』
* 『ミ・ウルティモ・アディオス』


== ホセ・リサールを描いた作品 ==
== ホセ・リサールを描いた作品 ==
=== 映画 ===
*映画ホセ・リサール』 ([[1998年]]、フィリピン、監督マリルー・ディアス・アバヤ、主演セサール・モンターノ
*『[[ホセ・リサール (映画)|ホセ・リサール]] - [[1998年]]、フィリピン、[[マリルー・ディアス・アバヤ]]監督[[セサール・モンターノ]]主演

== 脚註 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 註釈 ===
{{Reflist|group=註釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[池端雪浦]] |translator= |editor= |others= |chapter=明治期日本におけるフィリピンへの関心 |title=アジア・アフリカ言語文化研究 |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition= |date=2001年3月31日 |publisher=東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 |location= |id= |isbn= |volume=61 |page= |pages=203-230 |url=http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/21878 |ref=池端(2001)}}
* {{Cite book|和書|author=[[鈴木静夫]] |translator= |editor= |others= |chapter= |title=物語 フィリピンの歴史――「盗まれた楽園」と抵抗の500年 |series=[[中公新書]]1367 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版 |date=1997年6月25日 |publisher=[[中央公論社]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-12-101367--0 |volume= |page= |pages= |url= |ref=鈴木(1997)}}
* {{Cite book|和書|author=[[安井祐一]] |translator= |editor= |others= |chapter= |title=フィリピンの近代と文学の先覚者――ホセ・リサールの生涯 |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=3版 |date=1994年3月20日 |publisher=[[芸林書房]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-7681-5608-8 |volume= |page= |pages= |url= |ref=安井(1994)}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[フィリピンの歴史]]
* [[フィリピンの歴史]]
*[[フィリピン独立革命]]
* [[フィリピン独立革命]]
*[[アンドレス・ボニファシオ]]
* [[アンドレス・ボニファシオ]]
*[[エミリオ・アギナルド]]
* [[エミリオ・アギナルド]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2013年9月10日 (火) 04:46時点における版

ホセ・リサール
生年 1861年6月19日
生地 フィリピンの旗フィリピンラグナ州カランバ
没年 1896年12月30日(満35歳没)
没地 フィリピンの旗 フィリピンマニラ
活動 フィリピン独立運動
所属 ラ・リガ・フィリピナ
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ホセ・リサール(José Rizal,1861年6月19日 - 1896年12月30日)は、フィリピン独立運動の闘士にしてフィリピンの「国民的英雄(Héroe Nacional)[1]」。医師著作家画家、学者でもあった。志半ばにして捕らえられ、スペイン軍の手で銃殺されたが、その意志は人々に受け継がれ、フィリピン独立の英雄として現在も愛され続けている。8人の高祖父の内、1人は日系フィリピン人とされている[要出典]

1949年から1973年にかけて1ペソまたは2ペソ紙幣に肖像が使用されていた。

生涯

少年期

フルネームはホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ(Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda)。1861年6月19日に、ルソン島ラグナ州カランバで父フランシスコ・メルカードと母テオドラ・アロンソの間に、11人兄弟の7人目の子として生まれた[2]。リサールには姉が5人、兄が1人、妹が4人いた[3]

彼の家系はメスティーソといわれる中国人とフィリピン人の混血の一族であった[4]。メルカード家は中国・福建省晋江から17世紀に渡りフィリピンの先住の女性と結婚した商人の末裔であり、元来の姓は「柯」といった。また母方のアロンソ家はスペイン人と先住民の混血の家系で、ホセの曽祖父は、日本からの移民と現地女性の末裔にあたる女性と結婚している[要出典]

8歳にしてタガログ語スペイン語を身に付け[5]、9歳にしてビニヤーン校に入学した[6]初等教育を終えると1877年に16歳にしてマニラにあるアテネオ学院(現在のアテネオ・デ・マニラ大学 w:Ateneo de Manila University)に入学し、農学を学んだ[7]。さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、母が失明の危機に陥ると当時のフィリピンの最高学府サント・トマス大学w:University of Santo Tomas)で医学を学んだ[8]。在学中の1879年にスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を獲得し、1881年9月にスペイン政府から「土地査定技師」の免許を授与されている[9]。しかし同大学を運営するドミニコ会員たちのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去った[要出典]

リサールは父の反対を押し切って宗主国であるスペインのマドリッドに留学した。

最初の海外留学

リサールは1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌1882年にサント・トマス大学医学部を修了した後、同年中にヨーロッパへと旅立った[10]。1882年6月13日マルセイユに、6月15日にバルセロナに到着した後、最終目的地であったスペインの首都マドリードに到着し、同年10月に国立マドリード大学の医学部と哲文学部の両学部に入学した[11]。マドリード大学でリサールは猛勉強し、26歳までにスペイン語フランス語イタリア語ポルトガル語カタルーニャ語中国語英語ドイツ語オランダ語スウェーデン語ロシア語ラテン語ギリシャ語ヘブライ語サンスクリット語などの諸言語を習得し[12]中国語日本語タガログ語ビサヤ語イロカノ語を研究していた[13]。大学時代の同級生には後に哲学者として著名になるミゲル・デ・ウナムーノがおり、リサールと同じ学級でギリシャ語を学んでいる[14]1885年6月にマドリード大学の哲文学博士と医学士の号を取得したが、金銭事情により医学博士号は取得できなかった[15]。マドリード大学を出た後、1885年7月から1886年1月までパリ大学でフランス語と眼科学を学び、この時にフランス革命の「人権宣言」をタガログ語に翻訳している[16]。1886年2月から1887年5月までドイツ帝国のハイデルベルク大学ライプツィヒ大学ベルリン大学で引き続き医学と、加えて社会学を学び、ドイツ語で書いた社会学の論文が評価されてドイツ国籍の取得を薦められたが、これを固辞している[17]。ドイツ滞在中の1887年2月21日にベルリンで小説『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)』[ラテン語で『我に触れるな』の意]を出版した[18]。1887年7月3日に26歳にしてヨーロッパを離れ、同年8月5日にフィリピンに戻った[19]

フィリピン帰国後暫くは出身地のカランバ村で医者業を行っていたが、間もなく同年に出版した小説『ノリ・メ・タンヘレ』が反植民地的だとフィリピンのスペイン植民地支配層から問題にされたため、身の危険を感じたリサールは27歳にして再び留学へと旅立った[20]

二度目の海外留学

二度目の目的地もヨーロッパだったが、前回とは異なり、日本アメリカ合衆国を経由して向かった。1888年2月28日にリサールは横浜に到着し、駐日スペイン公使館の庇護を受けつつ、「おせいさん」こと臼井勢似子と交流を結び、おせいさんとの交流を通じて日本に対して好意的な印象を持ったリサールは翌1889年ロンドンで日本の民話猿蟹合戦」とフィリピンの民話「さる・かめ合戦」を比較した論考を著している[21]。1888年4月13日にリサールはサンフランシスコ行きの船に乗り込み、船中で後に衆議院議員となる自由民権運動の壮士、末広鉄腸と懇意になった[22]。当初の鉄腸の目的は訪米だったが、リサールと意気投合したために予定を変更して4月28日のサンフランシスコ到着後も行動を共にし、5月16日リサールと共にイギリスのリバプールに到着した後、ロンドンにて別れている[23]。ロンドン到着後のリサールは大英博物館をはじめとする、イギリス、ベルギー、パリの図書館に通いながら古代史の研究を進め、スペイン人による植民地化以前のフィリピンの歴史を研究した[24]1889年2月15日にはロペス・ハエナデル・ピラールらスペインの首都マドリードに滞在していたフィリピン出身者と共に、半月刊のスペイン語新聞『ラ・ソリダリダッド』(スペイン語で「団結」の意)の創刊に加わり、「プロパガンダ運動」を行っている[25]1891年9月18日にベルギーのヘントで二作目の小説『エル・フィリブステリスモ』を出版した[26]


帰国

『エル・フィリブステリスモ』の出版後、リサールは1891年10月18日にマルセイユを発ち、フィリピンに帰国しようとしたが、フィリピン官憲がリサールの反植民地主義を危険視したために帰国が敵わず、11月19日に香港に到着した後、当地で眼科医を開業した[27]。しかしながら望郷の念は已まず、翌1892年6月15日にフィリピンに帰国した[28]。帰国後、リサールは「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟」を組織すべく活動した[29]。ラ・リガ・フィリピナの思想的立場は急進的な革命を望むものではなく、スペイン治下のまま暴力を用いずに穏健な改革を望むものであったが[30]、この方針をも危険視した植民地政府当局によってリサールは逮捕され、同年7月7日にフィリピン南部のダピタンDapitan、現在のサンボアンガ・デル・ノルテ州に位置する)へ流刑された[31]。流刑地ダピタンでのリサールは医者、及び教師として住民に接し、また、ヨーロッパの学者からの依頼に応じてミンダナオ島の地質、昆虫動物についての研究を残している[32]。この頃までにリサールは20数言語を習得していた[33]

最期

1896年7月に流刑を終えた後、かねてから伝えていた軍医志望の旨が総督のラモン・ブランコに許可されたため、リサールはスペイン海軍巡洋艦「カスティリア号」に乗り込み、任地のスペイン領キューバへと旅立った[34]。しかし、船が地中海に入ったところで秘密結社カティプナンが独立闘争(1896年革命)を開始すると、上陸地のバルセロナで以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕された[35]。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、軍法会議にかけられ、同年12月26日銃殺刑が宣告された[36]。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの辞世の詩は、後に『ミ・ウルティモ・アディオス(Mi Ultimo Adios,『我が最後の別れ』の意)』と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年12月30日、リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺された[37]

評価

リサールの処刑は巨大な反響を招いた。リサール処刑の翌々年に成立したフィリピン第一共和国エミリオ・アギナルド大統領はリサールが処刑された12月30日を「リサールの日」に指定し、祭日とした[38]。このようにリサールはフィリピンで高く評価されている他、インドネシア初代大統領のスカルノオランダ人インドネシア語に訳したリサールの著作を通して影響を受けた[39]。リサール初の伝記はスペイン人でありながらも、リサール心酔者となったウエンセスラオ・レタナによって1900年にマドリードで出版された[40]

また、1888年の4月から5月にかけてのリサールのイギリス行に同行した自由民権運動の壮士、末広鉄腸1891年にリサールをモデルにした主人公が日本人志士の助けを得てスペインからのフィリピン独立運動を戦う政治小説、『南洋之大波瀾』を著している[41]

現在、リサールは『ノリ・メ・タンヘレ』と『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』という2つの小説で有名である。フィリピン最初期の近代小説である両作は共にスペイン語で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの様子が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。

リサールが処刑されたマニラ湾を見渡す地は現在、リサール公園(w:Rizal Park、別名 ルネタ公園 Luneta Park)として整備されており、衛兵に24時間守られている記念碑があり、緑も多くマニラ市民の憩いの場所になっている。また、リサールは1888年に来日しており、1ヶ月ほど東京都(当時・東京府)内に滞在している。これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されている。

著作

ホセ・リサールを描いた作品

映画

脚註

註釈

出典

参考文献

  • 池端雪浦明治期日本におけるフィリピンへの関心」『アジア・アフリカ言語文化研究』 61巻、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2001年3月31日、203-230頁http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/21878 
  • 鈴木静夫『物語 フィリピンの歴史――「盗まれた楽園」と抵抗の500年』(初版)中央公論社東京中公新書1367〉、1997年6月25日。ISBN 4-12-101367--0 
  • 安井祐一『フィリピンの近代と文学の先覚者――ホセ・リサールの生涯』(3版)芸林書房東京、1994年3月20日。ISBN 4-7681-5608-8 

関連項目

外部リンク

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