「ブルゴーニュ王朝」の版間の差分
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'''ブルゴーニュ王朝'''は、[[1143年]] |
'''ブルゴーニュ王朝'''は、[[1143年]]から[[1383年]]まで[[ポルトガル]]を支配した[[ポルトガルの歴史]]上最初の王朝である。[[ブルゴーニュ]](Bourgogne)は[[フランス語]]名であり、[[ポルトガル語]]に基づいて'''ボルゴーニャ王朝'''(Dinastia de Borgonha)とも呼ぶ。王朝の名前は、創始者である[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]の父親[[エンリケ (ポルトゥカーレ伯)|アンリ]]が[[フランス]]の[[ブルゴーニュ地域圏|ブルゴーニュ]]出身であることに由来する<ref name="zusetsu21">金七『図説 ポルトガルの歴史』、21頁</ref>。[[カスティーリャ王国]]および[[レオン王国]]の王朝にも同じく[[ブルゴーニュ朝 (カスティーリャ)|ブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝]]と呼ばれるものがあるが、起源が異なるので注意を要する(ただし、通婚を重ねて密接なつながりがあった)。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 王国の成立 === |
=== 王国の成立 === |
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[[Image:BatalhaOurique.jpg|thumb|200px|オーリッケの戦い]] |
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⚫ | [[フランス王国|フランス]]王家[[カペー家]]の支流[[ブルゴーニュ家]]の[[エンリケ (ポルトゥカーレ伯)|アンリ・ド・ブルゴーニュ]](ポルトガル語名エンリケ)は[[十字軍]]運動の一環として[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]=[[レオン王国|レオン]]王国の |
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ポルトガル王国の起源は、[[イベリア半島]]におけるキリスト教国の[[レコンキスタ]](国土回復運動)に始まる<ref name="goda360">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、360頁</ref>。 |
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アンリとテレサの子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)は、従兄であるカスティーリャ=レオンの[[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ7世]](在位:1126年 - 1157年)からの独立を試みる。[[1139年]]に[[オーリッケの戦い]]で[[ムラービト朝]]に勝利した後、アフォンソ1世はポルトガル王を称した<ref name="goda360"/>。[[教皇|ローマ教皇]]の仲介によりアルフォンソ7世も[[1143年]]、サモラ条約によりポルトガル王位を承認する。しかし、カスティーリャ=レオン「皇帝」を自称するアルフォンソ7世は諸王国への宗主権を有しており、ポルトガル王国はカスティーリャ=レオンよりも下の地位に置かれていた<ref name="goda361">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、361頁</ref>。アフォンソ1世は国際社会における立場を改善するため、教皇[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]と封建的主従関係を結び、[[1179年]]に[[ローマ教皇庁]]から正式に国王として認められた<ref name="zusetsu21"/><ref name="goda361"/><ref>ブールドン『ポルトガル史』、23頁</ref>。 |
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=== レコンキスタ === |
=== レコンキスタ === |
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アフォンソ1世の治世では首都コインブラを本拠としてレコンキスタが進められ、[[1147年]]にアフォンソ1世はイスラム教徒から[[リスボン]]を奪取した。[[モンデゴ川]]以北ではプレスリア(自由小土地所有者)の中から現れた平民騎士(カヴァレイロ・ヴィラン)がレコンキスタの主戦力として活躍し、モンデゴ川以南の地域では十字軍騎士と[[騎士修道会]]が戦争と植民に従事していた<ref name="goda361"/>。レコンキスタによる南下はさらに続き、[[1168年]]までに[[アレンテージョ]]地方全域がポルトガルの支配下に入った<ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、362頁</ref>。西方十字軍の呼びかけに応じた国外の兵士もポルトガルのレコンキスタに参加し、ポルトガルは1147年のリスボン奪還から[[1217年]]の[[アルカセル・ド・サル]]奪還までの6度の戦闘で彼らの支援を受ける<ref>マルケス『ポルトガル』1、70頁</ref>。また、領土を拡張するポルトガルは、レコンキスタの過程で同じキリスト教国であるレオン王国とたびたび衝突した。 |
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レコンキスタによる南下はさらに続き、[[1147年]]にアフォンソ1世はイスラム教徒から[[リスボン]]を奪取した。イスラムとの戦いはその後も一進一退を繰り返したが、[[1212年]]に[[ナバス・デ・トローサの戦い]]でキリスト教軍が決定的な勝利を収め、[[1249年]]にはポルトガルの国土は南部海岸に達した。レコンキスタの過程では、[[テンプル騎士団]]、[[ホスピタル騎士団]]、[[カラトラーバ騎士団]]、[[アヴィシュ騎士団]]、[[サンティアゴ騎士団]]など宗教騎士団が大きな役割を果たし、レコンキスタ終了後もポルトガルの大荘園領主となった。また王家の信仰を集める[[アルコバーサ修道院]]やコインブラのサンタ・クルス修道院など教会勢力も、寄進によって大荘園領主となっている。 |
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イスラーム勢力との戦いはその後も一進一退を繰り返したが、[[1212年]]に[[ナバス・デ・トローサの戦い]]でキリスト教軍が決定的な勝利を収め、キリスト教諸国の南下はより進展する<ref>金七『図説 ポルトガルの歴史』、21-22頁</ref><ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、363頁</ref>。[[サンシュ2世 (ポルトガル王)|サンシュ2世]]はアレンテージョ全土を回復し、1238年に[[タヴィラ]]、カセーラ、東アルガルヴェを奪還した。[[1249年]]にポルトガルの国土は南部海岸に達し、イスラーム勢力の飛び地となっていた[[アルガルヴェ]]東部の[[ファロ]]と[[シルヴェス]]を陥落させたことでポルトガルのレコンキスタは完了する。一連のイスラーム勢力との戦争で国王と領主が獲得した富の多くが大聖堂、修道院、教会などの宗教施設に充てられ、12世紀半ばから13世紀半ばにかけての宗教建築熱と技術の発展を促した<ref>マルケス『ポルトガル』1、92頁</ref>。また、レコンキスタの過程で奪還した土地では、イスラーム的な中央集権制度を望む国王と特権を求める封建貴族の対立が表面化していく<ref>井上幸治編『南欧史』(世界各国史, 山川出版社, 1957年3月)、351頁</ref>。 |
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南部からイスラーム勢力を駆逐した後、ポルトガルはカスティーリャとアルガルヴェを巡って争うが、[[1267年]]までにアルガルヴェの領有権を確保した。 |
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=== 繁栄期 === |
=== 繁栄期 === |
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サンシュ2世の治世にポルトガルは混乱期を迎え、[[1245年]]にサンシュ2世は教会から廃位を宣告された<ref name="zusetsu22">金七『図説 ポルトガルの歴史』、22頁</ref>。代わって国王に擁立されたサンシュ2世の弟[[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]は混乱を収拾し、1249年にレコンキスタを完了させる。[[1255年]]、アフォンソ3世はコインブラからリスボンに遷都した。市民の反発を受けながらもアフォンソ3世はリスボン市内の国王の権限を拡大し、ポルトガル王はリスボンの最大の庇護者となる<ref name="kyoka105">マルケス『ポルトガル』1、105頁</ref>。 |
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レコンキスタを完成させた[[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]は[[1255年]]、コインブラからリスボンに遷都している。次の[[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス]]王はローマ法を導入して王権を強化し、[[1290年]]にヨーロッパでも最古級のコインブラ大学を創設、[[1297年]]にはカスティーリャ王国との国境を確定させるなど、王朝は最盛期を迎えた。[[フランドル]]や[[イングランド王国|イングランド]]との交易も活発に行われた。 |
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次の[[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス1世]]の治世にポルトガル中世の繁栄期が訪れる<ref name="zusetsu22"/><ref>マルケス『ポルトガル』1、107頁</ref>。[[1289年]]に国王と聖職者との間に協定が結ばれ、アフォンソ2世の時代から続いていた教会との抗争が終息する<ref name="kyoka108">マルケス『ポルトガル』1、108頁</ref>。ディニス1世の治下では殖民と干拓が推進され、多くの入植地に定期市の開催を認める特許状が発布されて国内交易が活発になる<ref name="goda366">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、366頁</ref>。農業の発達による収穫量の増加は国内外の商業の発展にもつながり、[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]、[[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]などのイタリア商人が王国内で本格的な活動を始める<ref name="zusetsu22"/>。 |
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[[1295年]]から[[1297年]]にかけて、ポルトガルは長らく友好関係にあったカスティーリャと交戦し、[[アラゴン王国]]と連合してカスティーリャの内戦に介入する。戦争の結果、ポルトガルは{{仮リンク|コア川|pt|Rio Coa}}と{{仮リンク|アゲダ川|pt|Rio Águeda (Douro)}}間の地域を獲得した。また、1297年に締結されたアルカニセス(アルガニーゼス)条約によってポルトガルとカスティーリャ王国との国境が確定し、この条約によって引かれた国境線はヨーロッパ最古の国境として長らく存続し続ける<ref name="goda364">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、364頁</ref>。海運の安定化を図るために保険制度が創設され、[[1317年]]にはジェノヴァ人マヌエル・ペサーニャを招聘して海軍が増強された<ref name="zusetsu22"/>。 |
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=== 王朝の交代 === |
=== 王朝の交代 === |
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[[Image:JohnI-Portugal.jpg|thumb|180px|アヴィス王朝の創始者ジョアン1世]] |
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しかし[[1348年]]、ポルトガル王国は[[黒死病]]に襲われ、[[1383年]]に[[フェルナンド1世 (ポルトガル王)|フェルナンド1世]]王が没すると、後継者問題が生じて政治的危機に見舞われる。フェルナンド王の娘でカスティーリャ王子フアン(のちの[[フアン1世 (カスティーリャ王)|フアン1世]]王)と結婚していた[[ベアトリス (ポルトガル女王)|ベアトリス]]はポルトガル王位を請求し、カスティーリャ軍がポルトガルに侵入する。ポルトガルは[[1385年]]にアルジュバロタの戦いでカスティーリャ軍を撃退、ペドロ1世の私生児で[[アヴィシュ騎士団]]総長の[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]が国民の支持を得て即位することになる。 |
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14世紀中ごろにヨーロッパ・地中海世界で流行した[[ペスト]]([[:en:Black Death|en]])は[[1348年]]にポルトガル王国でも流行し、王国の人口の約3分の1が失われた<ref name="kyoka97">マルケス『ポルトガル』1、97頁</ref><ref name="zusetsu24">金七『図説 ポルトガルの歴史』、24頁</ref><ref name="goda369">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、369頁</ref>。労働人口が減少した農村部では、領主の搾取に抵抗する農民一揆が各地で頻発した<ref name="zusetsu24"/>。労働力の確保を求める貴族・領主は国王に迫って農民の移動を制限する法令を発布させたが、効果は現れなかった<ref name="goda369"/>。この危機の中でリスボン商人を初めとする一部の富裕層は輸出で利益を上げ、国王は彼らの支持を得ようと頻繁に[[コルテス (身分制議会)|コルテス(身分制議会)]]を開いた<ref name="goda369"/>。 |
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1345年に即位した[[フェルナンド1世 (ポルトガル王)|フェルナンド1世]]はカスティーリャの王位継承問題に介入し、3度にわたって戦争を挑んだが勝利を収めることができなかった。フェルナンド1世はカスティーリャの王位継承権を[[イングランド王国|イングランド]][[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の息子である[[ランカスター公]][[ジョン・オブ・ゴーント]]に譲り、カスティーリャはフランスと同盟したため、カスティーリャ王位を巡る戦争は[[百年戦争]]の展開と連動する([[第一次カスティーリャ継承戦争]])<ref name="goda370">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、370頁</ref>。また、[[1378年]]からの[[教会大分裂]]の中でポルトガルはローマとアヴィニョンの教皇を交互に支持したが、戦争と教会大分裂はポルトガルに大きな痛手を与えることになる<ref name="kyoka111">マルケス『ポルトガル』1、111頁</ref>。戦争に敗れたポルトガルの国土は荒廃し、海軍は壊滅した<ref name="goda370"/><ref name="kyoka111"/>。このため、フェルナンド1世は娘の[[ベアトリス (ポルトガル女王)|ベアトリス]]をカスティーリャ王子フアン(のちの[[フアン1世 (カスティーリャ王)|フアン1世]])の元に嫁がせなければならなくなった<ref name="goda370"/><ref name="zusetsu24"/>。 |
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フェルナンド1世はディニス1世の路線を継承した経済政策を実施し、外交とは反対に一定の成果を挙げた<ref>ブールドン『ポルトガル史』、36頁</ref>。収穫量を増やすために農民に課した租税を軽減し、未開地の所有者には開墾に従事した人間に土地を譲渡することが義務付けられた。海上交易を推進するため、造船の規制が緩和され、リスボンとポルトには海上保険機関が設置された。 |
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*[[ベアトリス・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃)|ベアトリス]](1383年 - 1385年) フェルナンド1世の娘 - [[僭称]]説が強い。僭称説を採る場合は空位期間となる。 |
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[[1383年]]にフェルナンド1世が没すると、後継者問題が生じてポルトガルは政治的危機に見舞われる。国内はベアトリスの母である摂政レオノールの派閥と、ペドロ1世の庶子である[[アヴィス騎士団|アヴィス騎士団長]][[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ドン・ジョアン]]の派閥に分かれ、大貴族は前者、中小貴族と都市民は後者を支持した<ref name="zusetsu24"/>。1383年12月にレオノールの派閥を支持するカスティーリャのフアン1世がポルトガルに侵攻すると、大法官アルヴァロ・パイスとリスボン市民の一部はドン・ジョアンをポルトガルの指導者に擁立し、ジョアンの擁立に連動して各地で民衆の暴動が発生した<ref name="goda371">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、371頁</ref>。1384年1月にレオノールが[[サンタレン]]に進軍したフアン1世にポルトガルの統治権を譲渡すると、国内はカスティーリャを支持する大貴族とジョアンを支持する下層民・富裕層・中小貴族に分かれて内戦が始まる。ジョアンの籠るリスボンはフアン1世の包囲を受けるが、カスティーリャ軍内でペストが流行したために包囲が解かれる<ref name="zusetsu24"/>。1385年5月にコインブラで開催されたコルテスでジョアンがポルトガル王に選出され、ジョアン1世として即位し、[[アヴィス王朝]]が創始された<ref name="zusetsu24"/>。 |
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== 社会 == |
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他の西欧の国家と比べてポルトガル国王の王権は強く、多くの直属の家臣と最高裁判権を保有していた<ref name="goda364"/><ref>マルケス『ポルトガル』1、80頁</ref>。[[1281年]]の王弟ドン・アフォンソの反乱以後、14世紀から15世紀にかけてポルトガルではしばしば国王の兄弟・息子が中央政府に対して反乱を起こしているが、一連の反乱は他のヨーロッパ諸国で発生した封建闘争との類似性を指摘されている<ref>マルケス『ポルトガル』1、106-107頁</ref>。 |
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財産と土地を所有する教会勢力、レコンキスタの過程で領地を獲得した騎士修道会は王権に対抗できるだけの力を持っていた<ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、364-365頁</ref>。[[アフォンソ2世 (ポルトガル王)|アフォンソ2世]]以降の国王は貴族勢力・聖職者の抑制を試み、検地(インキリサン)と所領確認制(コンフィルマサン)を実施した。インキリサンとコンフィルマサンに抵抗する教会はポルトガル国王に[[破門]]の処分を下したが、なおも検地は続けられ、多くの聖俗貴族が王権に屈した<ref name="goda365">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、365頁</ref>。貴族が有する封建的特権の証明の提出、ディニス1世によって作成された土地台帳により、領主権の伸張は抑制される<ref name="goda365"/>。また、貴族のうち中貴族(インファンサン)、騎士(カヴァレイロ)はポルトガルのレコンキスタの終了に伴い、没落していった<ref name="zusetsu26">金七『図説 ポルトガルの歴史』、26頁</ref>。貴族階級が必要とする多額の出費に対して[[1340年]]に奢侈禁止令が公布されたが、この法令は封建制度によって支えられていた貴族の基盤の揺らぎ、労働者階級の台頭への不安を表していると考えられている<ref name="kyoka97"/>。 |
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レコンキスタの過程で大きな役割を果たした[[テンプル騎士団]]、[[ホスピタル騎士団]]、[[カラトラーバ騎士団]]、[[アヴィス騎士団]]、[[サンティアゴ騎士団]]などの騎士修道会は、レコンキスタ終了後もポルトガルの大荘園領主となった<ref name="goda365">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、365頁</ref>。リスボンへの遷都によってポルトガル南部の重要性が増した後、ポルトガル王は南部に領地を持つ騎士団と協調を図りながら政策を展開した<ref name="kyoka105"/>。[[1312年]]にテンプル騎士団が解散させられた後、国王はテンプル騎士団が保有する財産の流出を防ぐため、1317年にポルトガルに拠点を置く主イエス・キリスト騎士団を創設し、テンプル騎士団の財産を全て移管した<ref name="kyoka108"/>。 |
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王家の信仰を集める[[アルコバーサ修道院]]やコインブラのサンタ・クルス修道院など教会勢力も、寄進によって大荘園領主となった。1348年の黒死病の流行後、神の助けを求める多くの貴族や領主が教会や修道院に寄進を行い、教会勢力の元に多くの土地が集まった<ref name="goda369"/><ref>マルケス『ポルトガル』1、99-100頁</ref>。アフォンソ2世とアフォンソ3世は教会の権限を抑制するため、聖職者法廷の廃止と聖職者裁判の一般化を要求した<ref>ブールドン『ポルトガル史』、28頁</ref>。 |
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モンデゴ川以北でのレコンキスタに参加した平民騎士は兵力の提供と引き換えに様々な特権を与えられ、彼らは後にオーメン・ボンと呼ばれるようになった<ref name="goda361"/>。辺境の防衛組織、征服地に形成された殖民の自治共同体はコンセーリョと呼ばれ、オーメン・ボンで構成される議会の指導下に置かれていた<ref>マルケス『ポルトガル』1、77頁</ref><ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、361,365頁</ref>。王領内の集落は全てコンセーリョとされ、税制、上級行政、集落内の生産手段の権限は国王が有していた<ref>マルケス『ポルトガル』1、75頁</ref>。国王、領主、高位聖職者ら土地の所有者は多くの人間を呼び寄せるために緩やかな統治を布く必要に迫られ、多くの特許状(フォラル)や特権を付与した<ref>ブールドン『ポルトガル史』、26頁</ref>。都市や村落に成立したコンセーリョは国王や領主からフォラルを授与され、租税・裁判に関する権利と義務が制定された<ref name="goda365"/>。[[1254年]]に[[レイリア]]で開催されたコルテスには、有力コンセーリョの一員として初めて平民の代表者が参加した。平民階層には平民騎士のほかに自営の農民、荘園の労働に従事する農奴、手工業者、商人、日雇い労働者などの区分が存在していた<ref name="zusetsu26"/>。農奴の多くは解放されるか、あるいは領主の元から逃亡し、殖民地や都市に移住した<ref name="goda373">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、373頁</ref>。 |
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ポルトガルには[[ユダヤ教徒]]、[[イスラム教徒]]のコミュニティが存在し、差別を受けながらも彼らは宗教・伝統的な習慣を継承していた<ref name="zusetsu26"/><ref>マルケス『ポルトガル』1、76頁</ref>。中でも金融・医術に携わるユダヤ教徒はポルトガル社会に欠かせない存在だった<ref>金七『図説 ポルトガルの歴史』、26-27頁</ref>。一方、イスラム教徒はレコンキスタ終盤の急速かつ苛烈な弾圧を避けて国外に逃れた<ref name="goda373"/>。ポルトガルの征服地からイスラム教徒の領主は消えていき、郊外に移住したイスラム教徒には税金が課せられた<ref>マルケス『ポルトガル』1、73-74頁</ref>。レコンキスタから3世紀が経過した後、イスラム教徒のほとんどはキリスト教に改宗したが、農村では彼らの組織が継承されていく<ref>マルケス『ポルトガル』1、74頁</ref>。 |
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== 経済 == |
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ディニス1世の時代、従来のポルトガルで行われていた移動を伴う牧羊に代わって開墾が進み、多くの新しい村落が作られた<ref name="zusetsu22"/>。収穫の増加に伴って各地で定期市が開かれるようになり、[[フランドル]]や[[イギリス]]への輸出も活発に行われる<ref name="zusetsu22"/>。しかし、商業に比べて手工業の発達は遅れており、国王やコンセーリョからの介入によってギルドに相当する職人組織もまだ現れなかった<ref>マルケス『ポルトガル』1、87頁</ref>。ディニス1世の時代には銀、錫、硫黄の鉱山の開発が進められ、鉄の採掘が許可制にされて生産量の5分の1が国家の取り分とされるようになった<ref>ブールドン『ポルトガル史』、32頁</ref>。 |
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[[1303年]]にはイングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]より、ポルトガル商人はイギリス内の港湾における特権を付与される。主な輸出品としては、[[ワイン]]、オリーブ油、塩、[[イチジク]]、[[アーモンド]]が挙げられる<ref name="zusetsu22"/>。隣国カスティーリャからは織物と穀物などが輸入され、イベリア半島外のフランドル、イギリス、フランスからは織物や木材が輸入された<ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、366-367頁</ref>。ポルトガル・カスティーリャの商取引は両国の国王から保護を受け、カスティーリャから輸入された穀物はポルトガルの飢饉の解消に貢献した<ref name="kyoka85">マルケス『ポルトガル』1、85頁</ref>。ポルトガルの海上交易は、リスボン・[[ポルト]]の商人たちが担い、交通の便が良く良港を有するリスボンは経済の中心地として発展を続けていく<ref>合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、367-368頁</ref>。1270年代からポルトガル貿易に乗り出したイタリア商人たちによってポルトガル・イタリア間の交易は統制され、さらに彼らは北ヨーロッパ諸国との交易において仲介者となったため、ポルトガル商人は[[北海]]交易における活躍の場を失った<ref>マルケス『ポルトガル』1、86頁</ref>。 |
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政府によってイスラーム世界との交易は禁止されていたが、それでもなおイスラーム世界との交易は活発に行われ、国内にはイスラーム国家の金貨・銀貨が流通していた<ref name="goda366"/><ref name="kyoka85"/>。しかし、14世紀に経済の成長は停滞し、人口の増加は食料の不足と物価の高騰をもたらした<ref name="zusetsu24"/>。黒死病の流行によって労働力が減少した後、収益率の高い[[ワイン]]、[[オリーブ・オイル|オリーブ油]]が穀物よりも優先して生産されたが、都市部での穀物の需要は増加しており、この時代より先ポルトガルは長らく穀物不足に悩まされる<ref name="goda369"/><ref>マルケス『ポルトガル』1、99頁</ref>。 |
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== 文化 == |
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[[Image:Alcobaça Monastery (5669338650).jpg|thumb|180px|アルコバッサ修道院]] |
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国王と教会の対立にもかかわらず、ポルトガル市民の生活、ポルトガル文化はカトリック教会の影響下に置かれていた<ref name="goda374">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、374頁</ref>ポルトガル文化の中心となった[[クリュニー会|クリュニー修道会]]、[[シトー会|シトー修道会]]は国の保護を受け、土地が寄進された<ref>金七『図説 ポルトガルの歴史』、27頁</ref>。モンデゴ川以北の地域では、[[コインブラの旧大聖堂|コインブラ大聖堂]]などの12世紀に流行していた素朴な[[クリュニー・ロマネスク様式]]の建築物が多く造られた<ref name="goda374"/><ref>金七『図説 ポルトガルの歴史』、27-28頁</ref>。一方南部地域では[[ゴシック建築|ゴシック様式]]の建築物が多く、アフォンソ1世の寄進によって建立された[[アルコバッサ修道院]]はロマネスク様式からゴシック様式への過渡期に完成した中世ポルトガル最大の建築物である<ref name="zusetsu28">金七『図説 ポルトガルの歴史』、28頁</ref>。 |
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サンシュ1世の治世から先、宮廷では詩と音楽が発達していく<ref name="goda375">合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、375頁</ref>リスボンに遷都したアフォンソ3世の治世から宮廷がポルトガル文学の中心地となり、ディニス1世は宮廷に出入りする詩人を保護しただけでなく、自らも詩作を嗜んだ<ref>池上岺夫『ポルトガル語とガリシア語』(大学書林, 1984年1月)、76頁</ref>。13世紀末のポルトガルでは南フランスから[[トルバドゥール]]文化が伝わり、イスラム世界の詩の影響を受けて独自の発展を遂げる<ref>金七『図説 ポルトガルの歴史』、29頁</ref>。トルバドゥールの活躍は[[ポルトガル語]]の成立に影響を与え、レコンキスタを経て[[ガリシア・ポルトガル語]]はモンデゴ川以南に居住していた[[モサラベ]](イスラーム勢力下のキリスト教徒)の言語と合わさり、ポルトガル語に分化した<ref name="goda375"/>。ディニス1世の治世にポルトガル語は[[ラテン語]]に代わる公用語として採用され、公文書で使用されるようになった<ref name="zusetsu28"/>。 |
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[[1290年]]、ディニス1世によってリスボンに[[コインブラ大学]]の前身であるエストゥード・ジェラルが設置される。エストゥード・ジェラルでは法学、文学、論理学、医学が教授され、修道院に設置されていた聖職者を養成する学校とは異なり、国政に携わる世俗の人間の教育機関として機能していた<ref name="zusetsu28"/>。しかし、エストゥード・ジェラルの教育水準は他の西欧の大学に比べて低く、14世紀にリスボン・コインブラの間で本部の移動が数度行われたために衰退していく<ref name="goda374"/>。学生と教授には多くの特権が与えられたが、それらはすぐに濫用された<ref>ブールドン『ポルトガル史』、33頁</ref>。 |
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== 参考文献 == |
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*[[アヴィシュ王朝]] |
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* 金七紀男『図説 ポルトガルの歴史』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年5月) |
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* 合田昌史「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年6月) |
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*[[アルコバッサ修道院]] |
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* アルベール=アラン・ブールドン『ポルトガル史』(福嶋正徳、広田正敏共訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1979年5月) |
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* A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル』1(金七紀男訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月) |
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2013年12月22日 (日) 13:17時点における版
ブルゴーニュ王朝は、1143年から1383年までポルトガルを支配したポルトガルの歴史上最初の王朝である。ブルゴーニュ(Bourgogne)はフランス語名であり、ポルトガル語に基づいてボルゴーニャ王朝(Dinastia de Borgonha)とも呼ぶ。王朝の名前は、創始者であるアフォンソ1世の父親アンリがフランスのブルゴーニュ出身であることに由来する[1]。カスティーリャ王国およびレオン王国の王朝にも同じくブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝と呼ばれるものがあるが、起源が異なるので注意を要する(ただし、通婚を重ねて密接なつながりがあった)。
歴史
王国の成立
ポルトガル王国の起源は、イベリア半島におけるキリスト教国のレコンキスタ(国土回復運動)に始まる[2]。
フランス王家カペー家の支流ブルゴーニュ家のアンリ・ド・ブルゴーニュ(ポルトガル語名エンリケ)は、十字軍運動の一環としてカスティーリャ=レオン王国のレコンキスタに参加した。1096年にエンリケはカスティーリャ=レオン国王アルフォンソ6世(在位:1065年 - 1109年)からポルトゥカーレ及びコインブラの伯爵位を授けられ、王女テレサと結婚した。
アンリとテレサの子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)は、従兄であるカスティーリャ=レオンのアルフォンソ7世(在位:1126年 - 1157年)からの独立を試みる。1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝に勝利した後、アフォンソ1世はポルトガル王を称した[2]。ローマ教皇の仲介によりアルフォンソ7世も1143年、サモラ条約によりポルトガル王位を承認する。しかし、カスティーリャ=レオン「皇帝」を自称するアルフォンソ7世は諸王国への宗主権を有しており、ポルトガル王国はカスティーリャ=レオンよりも下の地位に置かれていた[3]。アフォンソ1世は国際社会における立場を改善するため、教皇アレクサンデル3世と封建的主従関係を結び、1179年にローマ教皇庁から正式に国王として認められた[1][3][4]。
レコンキスタ
アフォンソ1世の治世では首都コインブラを本拠としてレコンキスタが進められ、1147年にアフォンソ1世はイスラム教徒からリスボンを奪取した。モンデゴ川以北ではプレスリア(自由小土地所有者)の中から現れた平民騎士(カヴァレイロ・ヴィラン)がレコンキスタの主戦力として活躍し、モンデゴ川以南の地域では十字軍騎士と騎士修道会が戦争と植民に従事していた[3]。レコンキスタによる南下はさらに続き、1168年までにアレンテージョ地方全域がポルトガルの支配下に入った[5]。西方十字軍の呼びかけに応じた国外の兵士もポルトガルのレコンキスタに参加し、ポルトガルは1147年のリスボン奪還から1217年のアルカセル・ド・サル奪還までの6度の戦闘で彼らの支援を受ける[6]。また、領土を拡張するポルトガルは、レコンキスタの過程で同じキリスト教国であるレオン王国とたびたび衝突した。
イスラーム勢力との戦いはその後も一進一退を繰り返したが、1212年にナバス・デ・トローサの戦いでキリスト教軍が決定的な勝利を収め、キリスト教諸国の南下はより進展する[7][8]。サンシュ2世はアレンテージョ全土を回復し、1238年にタヴィラ、カセーラ、東アルガルヴェを奪還した。1249年にポルトガルの国土は南部海岸に達し、イスラーム勢力の飛び地となっていたアルガルヴェ東部のファロとシルヴェスを陥落させたことでポルトガルのレコンキスタは完了する。一連のイスラーム勢力との戦争で国王と領主が獲得した富の多くが大聖堂、修道院、教会などの宗教施設に充てられ、12世紀半ばから13世紀半ばにかけての宗教建築熱と技術の発展を促した[9]。また、レコンキスタの過程で奪還した土地では、イスラーム的な中央集権制度を望む国王と特権を求める封建貴族の対立が表面化していく[10]。
南部からイスラーム勢力を駆逐した後、ポルトガルはカスティーリャとアルガルヴェを巡って争うが、1267年までにアルガルヴェの領有権を確保した。
繁栄期
サンシュ2世の治世にポルトガルは混乱期を迎え、1245年にサンシュ2世は教会から廃位を宣告された[11]。代わって国王に擁立されたサンシュ2世の弟アフォンソ3世は混乱を収拾し、1249年にレコンキスタを完了させる。1255年、アフォンソ3世はコインブラからリスボンに遷都した。市民の反発を受けながらもアフォンソ3世はリスボン市内の国王の権限を拡大し、ポルトガル王はリスボンの最大の庇護者となる[12]。
次のディニス1世の治世にポルトガル中世の繁栄期が訪れる[11][13]。1289年に国王と聖職者との間に協定が結ばれ、アフォンソ2世の時代から続いていた教会との抗争が終息する[14]。ディニス1世の治下では殖民と干拓が推進され、多くの入植地に定期市の開催を認める特許状が発布されて国内交易が活発になる[15]。農業の発達による収穫量の増加は国内外の商業の発展にもつながり、ジェノヴァ、フィレンツェなどのイタリア商人が王国内で本格的な活動を始める[11]。
1295年から1297年にかけて、ポルトガルは長らく友好関係にあったカスティーリャと交戦し、アラゴン王国と連合してカスティーリャの内戦に介入する。戦争の結果、ポルトガルはコア川とアゲダ川間の地域を獲得した。また、1297年に締結されたアルカニセス(アルガニーゼス)条約によってポルトガルとカスティーリャ王国との国境が確定し、この条約によって引かれた国境線はヨーロッパ最古の国境として長らく存続し続ける[16]。海運の安定化を図るために保険制度が創設され、1317年にはジェノヴァ人マヌエル・ペサーニャを招聘して海軍が増強された[11]。
王朝の交代
14世紀中ごろにヨーロッパ・地中海世界で流行したペスト(en)は1348年にポルトガル王国でも流行し、王国の人口の約3分の1が失われた[17][18][19]。労働人口が減少した農村部では、領主の搾取に抵抗する農民一揆が各地で頻発した[18]。労働力の確保を求める貴族・領主は国王に迫って農民の移動を制限する法令を発布させたが、効果は現れなかった[19]。この危機の中でリスボン商人を初めとする一部の富裕層は輸出で利益を上げ、国王は彼らの支持を得ようと頻繁にコルテス(身分制議会)を開いた[19]。
1345年に即位したフェルナンド1世はカスティーリャの王位継承問題に介入し、3度にわたって戦争を挑んだが勝利を収めることができなかった。フェルナンド1世はカスティーリャの王位継承権をイングランドエドワード3世の息子であるランカスター公ジョン・オブ・ゴーントに譲り、カスティーリャはフランスと同盟したため、カスティーリャ王位を巡る戦争は百年戦争の展開と連動する(第一次カスティーリャ継承戦争)[20]。また、1378年からの教会大分裂の中でポルトガルはローマとアヴィニョンの教皇を交互に支持したが、戦争と教会大分裂はポルトガルに大きな痛手を与えることになる[21]。戦争に敗れたポルトガルの国土は荒廃し、海軍は壊滅した[20][21]。このため、フェルナンド1世は娘のベアトリスをカスティーリャ王子フアン(のちのフアン1世)の元に嫁がせなければならなくなった[20][18]。
フェルナンド1世はディニス1世の路線を継承した経済政策を実施し、外交とは反対に一定の成果を挙げた[22]。収穫量を増やすために農民に課した租税を軽減し、未開地の所有者には開墾に従事した人間に土地を譲渡することが義務付けられた。海上交易を推進するため、造船の規制が緩和され、リスボンとポルトには海上保険機関が設置された。
1383年にフェルナンド1世が没すると、後継者問題が生じてポルトガルは政治的危機に見舞われる。国内はベアトリスの母である摂政レオノールの派閥と、ペドロ1世の庶子であるアヴィス騎士団長ドン・ジョアンの派閥に分かれ、大貴族は前者、中小貴族と都市民は後者を支持した[18]。1383年12月にレオノールの派閥を支持するカスティーリャのフアン1世がポルトガルに侵攻すると、大法官アルヴァロ・パイスとリスボン市民の一部はドン・ジョアンをポルトガルの指導者に擁立し、ジョアンの擁立に連動して各地で民衆の暴動が発生した[23]。1384年1月にレオノールがサンタレンに進軍したフアン1世にポルトガルの統治権を譲渡すると、国内はカスティーリャを支持する大貴族とジョアンを支持する下層民・富裕層・中小貴族に分かれて内戦が始まる。ジョアンの籠るリスボンはフアン1世の包囲を受けるが、カスティーリャ軍内でペストが流行したために包囲が解かれる[18]。1385年5月にコインブラで開催されたコルテスでジョアンがポルトガル王に選出され、ジョアン1世として即位し、アヴィス王朝が創始された[18]。
社会
他の西欧の国家と比べてポルトガル国王の王権は強く、多くの直属の家臣と最高裁判権を保有していた[16][24]。1281年の王弟ドン・アフォンソの反乱以後、14世紀から15世紀にかけてポルトガルではしばしば国王の兄弟・息子が中央政府に対して反乱を起こしているが、一連の反乱は他のヨーロッパ諸国で発生した封建闘争との類似性を指摘されている[25]。
財産と土地を所有する教会勢力、レコンキスタの過程で領地を獲得した騎士修道会は王権に対抗できるだけの力を持っていた[26]。アフォンソ2世以降の国王は貴族勢力・聖職者の抑制を試み、検地(インキリサン)と所領確認制(コンフィルマサン)を実施した。インキリサンとコンフィルマサンに抵抗する教会はポルトガル国王に破門の処分を下したが、なおも検地は続けられ、多くの聖俗貴族が王権に屈した[27]。貴族が有する封建的特権の証明の提出、ディニス1世によって作成された土地台帳により、領主権の伸張は抑制される[27]。また、貴族のうち中貴族(インファンサン)、騎士(カヴァレイロ)はポルトガルのレコンキスタの終了に伴い、没落していった[28]。貴族階級が必要とする多額の出費に対して1340年に奢侈禁止令が公布されたが、この法令は封建制度によって支えられていた貴族の基盤の揺らぎ、労働者階級の台頭への不安を表していると考えられている[17]。
レコンキスタの過程で大きな役割を果たしたテンプル騎士団、ホスピタル騎士団、カラトラーバ騎士団、アヴィス騎士団、サンティアゴ騎士団などの騎士修道会は、レコンキスタ終了後もポルトガルの大荘園領主となった[27]。リスボンへの遷都によってポルトガル南部の重要性が増した後、ポルトガル王は南部に領地を持つ騎士団と協調を図りながら政策を展開した[12]。1312年にテンプル騎士団が解散させられた後、国王はテンプル騎士団が保有する財産の流出を防ぐため、1317年にポルトガルに拠点を置く主イエス・キリスト騎士団を創設し、テンプル騎士団の財産を全て移管した[14]。
王家の信仰を集めるアルコバーサ修道院やコインブラのサンタ・クルス修道院など教会勢力も、寄進によって大荘園領主となった。1348年の黒死病の流行後、神の助けを求める多くの貴族や領主が教会や修道院に寄進を行い、教会勢力の元に多くの土地が集まった[19][29]。アフォンソ2世とアフォンソ3世は教会の権限を抑制するため、聖職者法廷の廃止と聖職者裁判の一般化を要求した[30]。
モンデゴ川以北でのレコンキスタに参加した平民騎士は兵力の提供と引き換えに様々な特権を与えられ、彼らは後にオーメン・ボンと呼ばれるようになった[3]。辺境の防衛組織、征服地に形成された殖民の自治共同体はコンセーリョと呼ばれ、オーメン・ボンで構成される議会の指導下に置かれていた[31][32]。王領内の集落は全てコンセーリョとされ、税制、上級行政、集落内の生産手段の権限は国王が有していた[33]。国王、領主、高位聖職者ら土地の所有者は多くの人間を呼び寄せるために緩やかな統治を布く必要に迫られ、多くの特許状(フォラル)や特権を付与した[34]。都市や村落に成立したコンセーリョは国王や領主からフォラルを授与され、租税・裁判に関する権利と義務が制定された[27]。1254年にレイリアで開催されたコルテスには、有力コンセーリョの一員として初めて平民の代表者が参加した。平民階層には平民騎士のほかに自営の農民、荘園の労働に従事する農奴、手工業者、商人、日雇い労働者などの区分が存在していた[28]。農奴の多くは解放されるか、あるいは領主の元から逃亡し、殖民地や都市に移住した[35]。
ポルトガルにはユダヤ教徒、イスラム教徒のコミュニティが存在し、差別を受けながらも彼らは宗教・伝統的な習慣を継承していた[28][36]。中でも金融・医術に携わるユダヤ教徒はポルトガル社会に欠かせない存在だった[37]。一方、イスラム教徒はレコンキスタ終盤の急速かつ苛烈な弾圧を避けて国外に逃れた[35]。ポルトガルの征服地からイスラム教徒の領主は消えていき、郊外に移住したイスラム教徒には税金が課せられた[38]。レコンキスタから3世紀が経過した後、イスラム教徒のほとんどはキリスト教に改宗したが、農村では彼らの組織が継承されていく[39]。
経済
ディニス1世の時代、従来のポルトガルで行われていた移動を伴う牧羊に代わって開墾が進み、多くの新しい村落が作られた[11]。収穫の増加に伴って各地で定期市が開かれるようになり、フランドルやイギリスへの輸出も活発に行われる[11]。しかし、商業に比べて手工業の発達は遅れており、国王やコンセーリョからの介入によってギルドに相当する職人組織もまだ現れなかった[40]。ディニス1世の時代には銀、錫、硫黄の鉱山の開発が進められ、鉄の採掘が許可制にされて生産量の5分の1が国家の取り分とされるようになった[41]。
1303年にはイングランド王エドワード1世より、ポルトガル商人はイギリス内の港湾における特権を付与される。主な輸出品としては、ワイン、オリーブ油、塩、イチジク、アーモンドが挙げられる[11]。隣国カスティーリャからは織物と穀物などが輸入され、イベリア半島外のフランドル、イギリス、フランスからは織物や木材が輸入された[42]。ポルトガル・カスティーリャの商取引は両国の国王から保護を受け、カスティーリャから輸入された穀物はポルトガルの飢饉の解消に貢献した[43]。ポルトガルの海上交易は、リスボン・ポルトの商人たちが担い、交通の便が良く良港を有するリスボンは経済の中心地として発展を続けていく[44]。1270年代からポルトガル貿易に乗り出したイタリア商人たちによってポルトガル・イタリア間の交易は統制され、さらに彼らは北ヨーロッパ諸国との交易において仲介者となったため、ポルトガル商人は北海交易における活躍の場を失った[45]。
政府によってイスラーム世界との交易は禁止されていたが、それでもなおイスラーム世界との交易は活発に行われ、国内にはイスラーム国家の金貨・銀貨が流通していた[15][43]。しかし、14世紀に経済の成長は停滞し、人口の増加は食料の不足と物価の高騰をもたらした[18]。黒死病の流行によって労働力が減少した後、収益率の高いワイン、オリーブ油が穀物よりも優先して生産されたが、都市部での穀物の需要は増加しており、この時代より先ポルトガルは長らく穀物不足に悩まされる[19][46]。
文化
国王と教会の対立にもかかわらず、ポルトガル市民の生活、ポルトガル文化はカトリック教会の影響下に置かれていた[47]ポルトガル文化の中心となったクリュニー修道会、シトー修道会は国の保護を受け、土地が寄進された[48]。モンデゴ川以北の地域では、コインブラ大聖堂などの12世紀に流行していた素朴なクリュニー・ロマネスク様式の建築物が多く造られた[47][49]。一方南部地域ではゴシック様式の建築物が多く、アフォンソ1世の寄進によって建立されたアルコバッサ修道院はロマネスク様式からゴシック様式への過渡期に完成した中世ポルトガル最大の建築物である[50]。
サンシュ1世の治世から先、宮廷では詩と音楽が発達していく[51]リスボンに遷都したアフォンソ3世の治世から宮廷がポルトガル文学の中心地となり、ディニス1世は宮廷に出入りする詩人を保護しただけでなく、自らも詩作を嗜んだ[52]。13世紀末のポルトガルでは南フランスからトルバドゥール文化が伝わり、イスラム世界の詩の影響を受けて独自の発展を遂げる[53]。トルバドゥールの活躍はポルトガル語の成立に影響を与え、レコンキスタを経てガリシア・ポルトガル語はモンデゴ川以南に居住していたモサラベ(イスラーム勢力下のキリスト教徒)の言語と合わさり、ポルトガル語に分化した[51]。ディニス1世の治世にポルトガル語はラテン語に代わる公用語として採用され、公文書で使用されるようになった[50]。
1290年、ディニス1世によってリスボンにコインブラ大学の前身であるエストゥード・ジェラルが設置される。エストゥード・ジェラルでは法学、文学、論理学、医学が教授され、修道院に設置されていた聖職者を養成する学校とは異なり、国政に携わる世俗の人間の教育機関として機能していた[50]。しかし、エストゥード・ジェラルの教育水準は他の西欧の大学に比べて低く、14世紀にリスボン・コインブラの間で本部の移動が数度行われたために衰退していく[47]。学生と教授には多くの特権が与えられたが、それらはすぐに濫用された[54]。
歴代国王
- アフォンソ1世(1128年 - 1185年) ポルトゥカーレ伯エンリケの息子
- サンシュ1世(1185年 - 1211年) アフォンソ1世の息子
- アフォンソ2世(1211年 - 1223年) サンシュ1世の息子
- サンシュ2世 (1223年 - 1248年) アフォンソ2世の息子
- アフォンソ3世(1248年 - 1279年) サンシュ2世の弟
- ディニス(1279年 - 1325年) アフォンソ3世の息子
- アフォンソ4世(1325年 - 1357年) ディニスの息子
- ペドロ1世(1357年 - 1367年) アフォンソ4世の息子
- フェルナンド1世(1367年 - 1383年) ペドロ1世の息子
系図
ロベール2世 フランス王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンリ1世 フランス王 | ロベール1世 ブルゴーニュ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンリ | ヒメーナ・ムーニョス | アルフォンソ6世 カスティーリャ王 | コンスタンサ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユーグ1世 ブルゴーニュ公 | ウード1世 ブルゴーニュ公 | エンリケ ポルトゥカーレ伯 | テレサ・デ・レオン | ウラカ カスティーリャ女王 | ライムンド ガリシア伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マファルダ・デ・サボイア | アフォンソ1世 ポルトガル王 | アルフォンソ7世 カスティーリャ王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サンシュ1世 ポルトガル王 | ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ | テレサ ブルゴーニュ公妃 | アルフォンソ8世 カスティーリャ王 | ウラカ | フェルナンド2世 レオン王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アフォンソ2世 ポルトガル王 | ウラカ・デ・カスティーリャ | フェルナンド フランドル伯 | ジャンヌ フランドル女伯 | エンリケ1世 カスティーリャ王 | マファルダ | テレサ | アルフォンソ9世 レオン王 | ベレンゲラ カスティーリャ女王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サンシュ2世 ポルトガル王 | マティルド2世 ブローニュ女伯 | アフォンソ3世 ポルトガル王 | ベアトリス・デ・カスティーリャ | サンチョ4世 カスティーリャ王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イザベル・デ・アラゴン | ディニス1世 ポルトガル王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アフォンソ4世 ポルトガル王 | ベアトリス・デ・カスティーリャ | コンスタンサ | フェルナンド4世 カスティーリャ王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イネス・デ・カストロ | ペドロ1世 ポルトガル王 | コンスタンサ・マヌエル・デ・カスティーリャ | レオノール アラゴン王妃 | マリア | アルフォンソ11世 カスティーリャ王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テレサ・ロレンソ | フェルナンド1世 ポルトガル王 | レオノール・テレス | ペドロ1世 カスティーリャ王 | エンリケ2世 カスティーリャ王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョアン | ディニス | ジョアン1世 ポルトガル王 | ベアトリス (ポルトガル女王) | フアン1世 カスティーリャ王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ a b 金七『図説 ポルトガルの歴史』、21頁
- ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、360頁
- ^ a b c d 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、361頁
- ^ ブールドン『ポルトガル史』、23頁
- ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、362頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、70頁
- ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、21-22頁
- ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、363頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、92頁
- ^ 井上幸治編『南欧史』(世界各国史, 山川出版社, 1957年3月)、351頁
- ^ a b c d e f g 金七『図説 ポルトガルの歴史』、22頁
- ^ a b マルケス『ポルトガル』1、105頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、107頁
- ^ a b マルケス『ポルトガル』1、108頁
- ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、366頁
- ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、364頁
- ^ a b マルケス『ポルトガル』1、97頁
- ^ a b c d e f g 金七『図説 ポルトガルの歴史』、24頁
- ^ a b c d e 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、369頁
- ^ a b c 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、370頁
- ^ a b マルケス『ポルトガル』1、111頁
- ^ ブールドン『ポルトガル史』、36頁
- ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、371頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、80頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、106-107頁
- ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、364-365頁
- ^ a b c d 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、365頁
- ^ a b c 金七『図説 ポルトガルの歴史』、26頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、99-100頁
- ^ ブールドン『ポルトガル史』、28頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、77頁
- ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、361,365頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、75頁
- ^ ブールドン『ポルトガル史』、26頁
- ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、373頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、76頁
- ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、26-27頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、73-74頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、74頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、87頁
- ^ ブールドン『ポルトガル史』、32頁
- ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、366-367頁
- ^ a b マルケス『ポルトガル』1、85頁
- ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、367-368頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、86頁
- ^ マルケス『ポルトガル』1、99頁
- ^ a b c 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、374頁
- ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、27頁
- ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、27-28頁
- ^ a b c 金七『図説 ポルトガルの歴史』、28頁
- ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、375頁
- ^ 池上岺夫『ポルトガル語とガリシア語』(大学書林, 1984年1月)、76頁
- ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、29頁
- ^ ブールドン『ポルトガル史』、33頁
参考文献
- 金七紀男『図説 ポルトガルの歴史』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年5月)
- 合田昌史「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年6月)
- アルベール=アラン・ブールドン『ポルトガル史』(福嶋正徳、広田正敏共訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1979年5月)
- A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル』1(金七紀男訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)