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{{基礎情報 書籍
{{Portal|文学}}
|title = 楢山節考
『'''楢山節考'''』(ならやまぶしこう)は、[[深沢七郎]]作の[[小説]]。[[姨捨山]]伝説をベースに、[[信州]]の寒村に住む人々を描く。
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|author = [[深沢七郎]]
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『'''楢山節考'''』(ならやまぶしこう)は、[[深沢七郎]]の[[短編小説]]。当時42歳の深沢七郎の処女作で、[[民間伝承]]の[[姨捨山#棄老伝説|棄老伝説]]をテーマとした作品である。[[1956年]](昭和31年)、雑誌「[[中央公論]]」11月号に掲載された。当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与えて絶賛され、第1回[[中央公論新人賞]]を受賞した<ref name="hinuma">[[日沼倫太郎]]「解説」(文庫版『楢山節考』)([[新潮文庫]]、1964年。改版1987年)</ref>。単行本は翌年1957年(昭和32年)2月1日に[[中央公論新社|中央公論社]]より刊行された。ベストセラーとなり、これまでに2度、映画化された。現行版は[[新潮文庫]]で重版され続けている。翻訳版も1958年(昭和33年)の[[ベルナール・フランク]]訳(仏題:“La Ballade de Narayama”)をはじめ、各国で行われている。


== 概要 ==
これまでに2度映画化されている。
真冬の楢山へ欣然と死に赴く老母と、その孝行息子が胸のはりさける思いで背板に母親を乗せて姨捨てにゆく物語。貧しい部落の掟に従い、老母を捨てるという残酷な行動と、それとまったく背馳した肉親間の美しい愛情とが奇妙にないまぜられ、全体として酸鼻とも明るさともつかぬイメージを漲らせ、因習にとざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた作品である<ref>「カバー解説」(文庫版『楢山節考』)(新潮文庫、1964年。改版1987年)</ref><ref name="hinuma"/>。

作品背景として、深沢七郎は、「[[姨捨山#棄老伝説|姥捨伝説]]」を[[五成村|大黒坂]]の農家の年寄りから聞いて、それを深沢の実母・さとじの「自分自らの意思で死におもむくために[[餓死]]しようとしている」壮絶な死とからめながら、老母・おりんと息子・辰平という親子の登場人物が創造されたのだという<ref>[[浜野茂則]]『伝記小説 深沢七郎』([[近代文芸社]]、2000年)</ref>。また、おりんの人物造型には、[[イエス・キリスト|キリスト]]と[[釈迦]]の両方を入れているという<ref>[[深沢七郎]]『[[正宗白鳥|白鳥]]の死』([[新潮]] 1963年1月号に掲載)</ref>。

深沢は当時、[[ギタリスト]]として様々な公演に参加し、本作は家と[[日劇ミュージックホール]]の楽屋で執筆していたという<ref name="fukazawa">深沢七郎「あとがき」(『現代の文学31 深沢七郎』)([[河出書房新社]]、1965年)</ref>。そして、そのとき公演の構成演出をしていた[[丸尾長顕]]の勧めで、雑誌「[[中央公論]]」の新人賞に応募し、[[中央公論新人賞]]を受賞した<ref name="fukazawa"/>。なお、審査の選考委員は、[[三島由紀夫]]、[[伊藤整]]、[[武田泰淳]]であった<ref name="hinuma"/>。


== あらすじ ==
== あらすじ ==
[[信州]]の山々の間にある貧しい村に住むおりんは、「楢山まいり」の近づくのを知らせる歌に耳を傾けた。村の年寄りは70歳になると「楢山まいり」に行くのが習わしで、69歳のおりんはそれを待っていた。山へ行く時の支度はずっと前から整えてあり、息子の後妻も無事見つかった。安心したおりんには、あともう一つ済ませることがあった。おりんは自分の丈夫な歯を石で砕いた。食料の乏しいこの村では老いても揃っている歯は恥かしいことだった。
{{節stub}}<!--他からの転載は禁止されています-->
:― 塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る ―
山に囲まれた信州のある村。今年も楢山の歌が歌いだされる季節になった。村の年寄りは七十になると楢山まいりに行くのが習わしで、六十九のおりんはそれを待っていた。息子の後妻も無事見つかって安心したし、山へ行く時の支度はととのえてある。済ませることはあともう一つ…。
「自分が行く時もきっと雪が降る」と、おりんはその日を待ち望む。孝行息子の辰平は、ぼんやりと元気がなく、母の「楢山まいり」に気が進まなかった。少しでもその日を引き延ばしたい気持だったが、長男のけさ吉が近所の娘・松やんと夫婦となり、すでに妊娠5ヶ月で食料不足が深刻化してきたため、そうもいかなくなってきた。雑巾で顔を隠し寝転んでいる辰平の雑巾をずらすと涙が光っていたので、おりんはすぐ離れ、息子の気の弱さを困ったものだと思ったが、自分の目の黒いうちにその顔をよく見ておこうと、横目で息子をじっと見た。「楢山まいり」は来年になってからと辰平は考えていたが、おりんは家計を考え、急遽今年中に出発することを決めた。ねずみっ子([[曾孫]])が産まれる前に、おりんは山に行きたかった。
:-塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る-

自分が行く時もきっと雪が降る…おりんはその日を待ち望む。
あと3日で正月になる冬の夜、誰にも見られてはいけないという掟の下、辰平は背板に母を背負って「楢山まいり」へ出発した。辛くてもそれが貧しい村の掟だった。途中、白骨遺体や、それを啄ばむ[[カラス]]の多さに驚きながら進み、辰平は母を山に置いた。辰平は帰り道、舞い降ってくる雪を見た。感動した辰平は、「口をきいてはいけない、道を振り返ってはいけない」という掟を破り、「おっかあ、雪が降ってきたよう~」と、おりんの運のよさを告げ、叫び終わると急いで山を降りていった。

辰平が七谷の上のところまで来たとき、隣の銭屋の倅が背板から無理矢理に70歳の父親を谷へ突き落としていた。「楢山まいり」のお供の経験者から内密に教えられた「嫌なら山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいい」という不可思議な言葉の意味を、辰平はそこではじめて理解した。家に戻ると、妊婦の松やんの大きな腹には、昨日までおりんがしめていた細帯があり、長男のけさ吉はおりんの[[袢纏|綿入れ]]を着て、「雪がふって、あばあやんは運がいいや」と感心していた。辰平は、もしまだ母が生きていたら、雪をかぶって「綿入れの歌」を考えていると思った。
:― なんぼ寒いとって綿入れを 山へ行くにゃ着せられぬ ―

== 登場人物 ==
;おりん
:69歳。50年前に向う村から嫁に来た。そのとき村一番の良い器量の女だと言われた。亭主は20年前に死去。一人息子と四人の孫がいる。[[イワナ|岩魚]]捕りがうまい。
;辰平
:45歳。おりんの一人息子。妻は去年栗拾いに行った際、谷底へ転落死。子供は三男一女。
;玉やん
:45歳。[[後家]]になったばかり。亡夫の[[49日]]が済むと向う村からやって来て、辰平の[[後妻]]となる。兄から、おりんはいい人だから、早く嫁に行くように勧められてやって来た。おりんとすぐに気が合う良い嫁。
;飛脚
:玉やんの兄。おりんの家に、後家になった妹・玉やんのことを知らせに来たその日に、後妻にやって来る日もすぐ決める。
;けさ吉
:16歳。辰平の長男。祖母の丈夫な歯を揶揄する歌を作って父に怒られる。近所の娘・松やんと夫婦になる。
;次男
:13歳。辰平の次男。けさ吉が松やんといい仲であることを、いち早く祖母と父にバラす。
;末の娘
:3歳。辰平の長女。この娘に、「おばあはいつ帰ってくる?」と淋しがって聞かれたら何と答えようかと、辰平は困って考える。
;松やん
:けさ吉と夫婦になった娘。実家は川が池のようななっている所の前にある。すでに妊婦。[[大食漢]]。豆を煮ながら、一人でどんどん食べてしまう。意地が悪く、まだ3歳の義妹をおんぶしてあやしながら、その尻をつねって泣かす。けさ吉はこの娘と一緒になってから、おりんに早く山へいった方がいいと言うようになる。
;銭屋
:おりんの隣家。[[越後国|越後]]に行った際、[[天保銭]]を一枚持って帰ったため、「銭屋」と呼ばれる。今年70歳の「又やん」という老父がいる。銭屋は村一番のケチで「楢山まいり」へ行く日の振舞支度や、山へ行く支度も全然しない。「又やん」は70歳をすぎても山へ行く気がなく、倅に縄で縛られるが食いちぎって逃げる。しかし翌日の最期は倅に七谷から突き落とされ転落死し、[[カラス]]の群の餌食になる。
;雨屋
:銭屋の隣家・焼松の隣家。焼松の家に泥棒に入り、みんなに袋だたきにあう。雨屋の家には村中から盗んだ芋があった。先代も[[ヤマノイモ|山の根]]を盗んだことがあり、二代つづいて泥棒。銭屋が「雨屋の一家を根だやしにしなけりゃ!」と、おりんの家で息巻いたその3日後、夜おそく外で大勢の足音がして、その翌日雨屋の一家12名は村から消滅。
;照やん
:50代。「楢山まいり」のお供をしたことのある一番の古参。おりんの「楢山まいり」前夜の振舞酒の儀式で、お山に行く作法や掟を辰平とおりんに教える。そして他の客が帰った一番最後に、「嫌ならお山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいいのだぞ」という誰にも聞かれないように教えることになっている言葉を辰平に言う。

== 作品評価・解説 ==
[[正宗白鳥]]は本作について、「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である」と述べ、「私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである」<ref>[[正宗白鳥]]「推薦文」(『楢山節考』帯)([[中央公論新社|中央公論社]]、1957年)</ref>と高い評価をしている。また[[福田宏年]]も、「私は戦後三十年の日本文学の作品の中でただ一作を選べといわれたら、ためらうことなくこの『楢山節考』を挙げたいとおもいます」<ref>[[福田宏年]]「精神医学から見た文学の諸相」(『わが青春 わが文学II』([[集英社]]、1979年)</ref>と述べている。

[[木村東吉]]は、「おりんは死ぬべき人間として運命づけられており、彼女は自分の死を完全無欠のものにするために全力を傾注している。息子の後妻のことを心配し、その後妻に自分の知識のすべてを伝えるのみ、自分の死後に息子が困らないようにするためである。(中略)このおりんの生き方には、自分の本能的欲望を主張しようとする姿はまったくなく、彼女は[[自己犠牲]]の道を誇り高く歩んでいるのである」<ref name="kimura">[[木村東吉]]『深沢七郎論―「楢山節考」の夢の崩壊過程について』([[広島大学]]近代文学研究会、1974年2月)</ref>と述べ、おりんの生き方や誇りは地域社会の価値体系に合致し、それは無言のうちに辰平や村人に通じているため、彼女は孤独に陥ることなく、自分の行き方を貫くことができ、自己犠牲の生き方ではあったが、十分幸福であったと解説している<ref name="kimura"/>。そして木村は、このようなおりん像は、作者・深沢自身の母親の像と重なっているとし<ref name="kimura"/>、深沢が[[肝臓癌]]で死んだ母親を、「誇り高い女であった」<ref>深沢七郎『柞葉の母』(1957年4月)</ref>と述懐し、葬儀の夕方から振り出した雨を、「私は雨をあんなに美しいと思ったことはなかった」<ref>深沢七郎『自伝ところどころ』</ref>と『楢山節考』の雪を彷彿させるようなことを述べているエッセイを引きながら、「作者が母親と同じ肝臓癌で死ぬことを理想としているとしばしば述べていることなどを見ると、根っこのおりんの生き方は、そのまま作者自身の理想であったと考えられるのである。すなわち、おりんは作者の母の理想化された像であると同時に、作者の夢を託した人物だったということができる」<ref name="kimura"/>と解説している。

[[中央公論新人賞]]の審査員の一人だった[[三島由紀夫]]は本作の読後感を、「何かこわいというか『[[説教師]]』や『[[賽の河原]]』や『[[和讃]]』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果を感じる」<ref name="itosei">[[伊藤整]]「深沢七郎氏の作品の世界」(『楢山節考』付録解説)([[中央公論新社|中央公論社]]、1957年)</ref>と語っている。また、のちのエッセイの中で審査員が新人の作品を読むときの心境を、年々祭の[[神輿]]の若い担ぎ手が下手になるのを嘆く町会の旦那衆に喩えつつも同時に、「天才の珠玉の前にひれ伏したい気持を持つてゐるのである」とし<ref name="mishima">[[三島由紀夫]]『小説とは何か 十』(波 1970年3・4月号に掲載)。のち『小説とは何か』([[新潮社]]、1972年)に所収。</ref>、自分が永年文学賞の審査に携わって来て、ただ一度生原稿を読んで慄然たる思いがしたのは、深沢七郎の『楢山節考』だったと述べ<ref name="mishima"/>、「いくつかの候補作に倦んじ果てたのち、忘れもしない或る深夜のこと、[[炬燵]]に足をつつこんで、そのあまり美しくはない手の原稿を読みはじめた。はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」<ref name="mishima"/>と述懐している。

さらに三島は、「しかしそれは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが『人間性』と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、『悲劇』が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた」<ref name="mishima"/>と評し、「今にいたるも、深沢氏の作品に対する私の恐怖は、『楢山節考』のこの最初の読後感に源してゐる」<ref name="mishima"/>と述べている。また三島は『楢山節考』とは対蹠的な作品だが同種の読後感を持った作品として、[[アーサー・C・クラーク]]の『[[幼年期の終り]]』も挙げつつ、これら読後のいいしれぬ不快感の傑作について、「浄化を目睹してはゐるが、その浄化がわれわれの信じてゐる最終的な矜りを崩壊させることと引代へでなくては与えられぬやうに仕組まれてゐる」<ref name="mishima"/>とし、「この世には、ただ人を底なしの不快の沼へ落し込む文学作品もあるのである。いはばこれを『悪魔の芸術』と呼ぶことができよう」<ref name="mishima"/>と解説している。

[[日沼倫太郎]]は、「辰平は、はりさけんばかりの心で神の棲む楢山におりんを捨てにいく。こういう残酷な行動と、それとまったく背馳した肉親間の美しい愛情とが奇妙にないまぜられ、全体として、酸鼻とも明るさともつかぬイメージをみなぎらせている」<ref name="hinuma"/>と述べ、その深沢の作り出すイメージの世界のつよさが誰もが認めざるを得ないという理由について、「あらゆる素材が物として処理されているからである。あるいは物としてとらえる存在把握、ないしは存在透視力、ないしは[[形而上学|メタフィジック]]にもとづいているからである」<ref name="hinuma"/>と解説している。そして、「深沢氏にとって世界とは、それ自身としては何の原因もない『自本自根』のものすなわち[[無]]であり、空間の拡がるかぎり時間の及ぶところ、何時はじまって何時終るとも知れない流転である。万象はその一波一浪にすぎない。あらゆる事象は『私とは何の関係もない景色』なのである」<ref name="hinuma"/>と解説し、「深沢氏は、近代の人間中心的な思想とはまったく対蹠的な地点に立っている。これは深沢氏が徹底したアンチ・ヒューマニストであることを示している」<ref name="hinuma"/>と述べ、その作品世界は、[[ニヒリズム]]を支柱として構成されていると論じている<ref name="hinuma"/>。

[[大木文雄]]は、[[フランツ・アルトハイム]]が『小説亡国論』の中で説いている要旨を、「[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダヌンツィオ]]と[[デーヴィッド・ハーバート・ローレンス|ロレンス]]の小説は、その中に根源[[神話]]を孕んでいるゆえに飼い慣らされた文明を突き抜け、根源にひそむものに触れ得る力を持った文学であること、つまりそれは人間以前の動物的な深淵に触れさせることによって飼い慣らされた文明に風穴を開けさせ、革命させることのできる文学であること」<ref name="ookifu">[[大木文雄]]『深澤七郎の小説「楢山節考」とフランツ・アルトハイムの「小説亡国論」』([[北海道教育大学]]釧路校ドイツ文学研究室、2003年11月)</ref>と論述しながら、『楢山節考』の感動の源泉もまた、アルトハイムの説く「根源神話」と同じ次元から来ているとし、「[[姥捨山#棄老伝説|姥捨伝説]]」は「太古から存在し、現在でも生きている」根源神話であると述べている<ref name="ookifu"/>。そして、「姥捨て」は「[[高齢者福祉]]」という文化的な名前を冠して、21世紀の現在大きな問題として存在し、[[介護老人福祉施設|介護施設]]に入れることは、「楢山まいり」に行くことと同じことではないかと述べ<ref name="ookifu"/>、老人の死の問題は、「まさに『飼い慣らされた文明』を突き抜けてさらに太古にまで溯る動物的な、ロレンスの言う『血と肉』と結びつく根源神話である。子孫のために自ら死を選ぶというありようは、突き抜けると動物の本能にまで溯る。[[鮭]]は産卵のために壮絶な死を選ぶ。生のための死。それは自然の根源法則が支配する世界である。それは[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]のあの『至福なる憧憬』の詩の中にある『死して成れよ』Stirb und werde! の次元である」<ref name="ookifu"/>と解説している。そして、それはもはや神秘の世界に属し、汚すことのできない神聖な領域であり、「楢山には神が住んでいる」というのはそういうことを意味すると解説している<ref name="ookifu"/>。

さらに大木は、「姥捨て伝説はなかった」<ref name="furuta">[[古田武彦]]『〈姥捨て伝説〉はなかった』([[新風書房]]、2002年)</ref>と主張する[[古田武彦]]の根拠の一つである、「親子みんなで、腹をへらしてがんばる、というのが本当じゃないかな」<ref name="furuta"/>という発言に反論し、「まさにそれは『飼い慣らされた文明』の世界での発言である。誰かが死ななければ子孫が生き残れないほどに生活が苦しい状況に直面したときに、『親子みんなで、腹をへらしてがんばる』という言葉は戯言にすぎない。人間は自分だけは生き残りたいと望むのは普通だ。人間だれしも死ほど怖いものがないからだ。それを突き抜けた世界は、それよりもはるかに壮絶な動物的な愛の本能にまで触れる世界である。おりんの『楢山まいり』とそれをいやいやながら手助けする辰平の姿は、恐ろしく、壮絶だが、しかしそこには壮絶故の美が宿っている」<ref name="ookifu"/>と解説している。

== 映画化 ==
*『[[楢山節考 (1958年の映画)|楢山節考]]』([[松竹]]) カラー98分。
*:1958年(昭和33年)6月1日封切。
*:監督・脚本:[[木下惠介]]。
*:出演:[[田中絹代]]、[[高橋貞二]]、[[宮口精二]]、[[市川猿翁 (2代目)|市川團子]]、ほか
{{Main|楢山節考 (1958年の映画)}}
*『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』(今村プロダクション、[[東映]]) カラー131分。
*:1983年(昭和58年)4月29日封切。
*:監督・脚本:[[今村昌平]]。
*:出演:[[緒形拳]]、[[坂本スミ子]]、[[あき竹城]]、[[左とん平]]、[[小林稔侍]]、[[倍賞美津子]]、[[樋浦勉]]、[[江藤漢]]、ほか
*:※ [[カンヌ国際映画祭]]にて[[パルムドール]]を受賞(仏題:''[[:fr:La Ballade de Narayama (film, 1983)|La Ballade de Narayama]]'')。
{{Main|楢山節考 (1983年の映画)}}

== テレビドラマ化 ==
*[[テレビ劇場]]『楢山節考』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
*:1960年(昭和35年)3月18日、25日(全2回) 金曜日 22:00 - 22:30
*:出演:[[飯田蝶子]]、[[青木義朗]]、[[由起かほる]]、[[多摩幸子]]、[[毒蝮三太夫|石井伊吉(現・毒蝮三太夫)]]、ほか
*ゴールデン劇場『楢山節考』([[テレビ東京]])
*:1964年(昭和39年)9月28日 - 10月2日(全5回) 月曜日 - 金曜日 20:00 - 20:30
*:出演:[[浪花千栄子|浪花千榮子]]、ほか

== ラジオドラマ化 ==
*[[文芸劇場]]『楢山節考』([[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第一]])
*:1969年(昭和44年)2月16日 42分。
*:脚色:[[筒井敬介]]。演出:[[平野敦子]]。音楽:[[野沢松之輔]]。効果:[[大木本実]]。技術:[[猪野雅哉]]。
*:出演:[[竹本越路大夫]](ナレーション)、[[山本安英]]、[[宇野重吉]]、[[花柳喜章]]、[[中村美代子]]、[[上野保芳]]、[[香坂真]]、[[竹岡順一]]、[[斎藤隆]]、[[松村彦次郎]]、[[小野泰次郎]]、[[中村武美]]
*:演奏:野沢松之輔、[[竹沢団六]]([[三味線]])、[[馬場典邦]](楢山節)
*:※ 第6回[[ギャラクシー賞]]受賞。
*:※ 1972年(昭和47年)8月12日(土)に再放送。 1987年(昭和62年)12月27日(日)にラジオ名作劇場([[NHKラジオ第2放送|NHKラジオ第二]])で再放送。

== おもな刊行本 ==
*『楢山節考』([[中央公論新社|中央公論社]]、1957年2月1日)
*:装幀:[[高橋忠弥]]。帯文:[[正宗白鳥]]。付録・解説:[[伊藤整]]「深沢七郎氏の作品の世界」。
*新書版『楢山節考』(中央公論社、1958年5月15日)
*:装幀:高橋忠弥。付録・解説:伊藤整「深沢七郎氏の作品の世界」。カバー袖文:正宗白鳥・[[中村光夫]]。
*:収録作品:楢山節考、東北の神武たち、揺れる家
*文庫版『楢山節考』([[新潮文庫]]、1964年7月30日。改版1987年)
*:カバー装画:[[安野光雅]]。楽譜(著者自筆)。付録・解説:[[日沼倫太郎]]。
*:収録作品:月のアペニン山、楢山節考、[[東京のプリンスたち]]、[[正宗白鳥|白鳥]]の死
*朗読CD『楢山節考』([[新潮社]]、2009年12月)
*:ケース装画:安野光雅。CD2枚(129分)。
*:朗読:[[小沢昭一]]。


== 脚注 ==
孝行息子の辰平は、お供で一緒に行くのだが、気が進まず元気がない。しかし家計を考えて年明けも近い冬の夜、誰にも見られてはいけないという決まりのもと背中に母を背負って楢山まいりへと出かけていく。辛くてもそれが貧しい村の掟なのであった。
<references />


== 評価 ==
== 参考文献 ==
*文庫版『楢山節考』(付録・解説 [[日沼倫太郎]])([[新潮文庫]]、1964年。改版1987年)
1956年第1回[[中央公論]]新人賞応募作品。[[三島由紀夫]]、[[伊藤整]]、[[武田泰淳]]ら選考委員らに絶賛され、同賞を受賞し、ベストセラーとなった。
*『決定版 三島由紀夫全集第31巻・評論6』([[新潮社]]、2003年)
*[[木村東吉]]『深沢七郎論―「楢山節考」の夢の崩壊過程について』([[広島大学]]近代文学研究会、1974年2月) [http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00065309/kbs_12_54.pdf]
*[[大木文雄]]、[[ダールストローム・アダム]]『深澤七郎の小説「楢山節考」とフランツ・アルトハイムの「小説亡国論」』([[北海道教育大学]]釧路校ドイツ文学研究室、2003年11月) [http://ci.nii.ac.jp/els/110000973875.pdf?id=ART0001147120&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1369815549&cp=]
*赤尾利弘『三重奏曲として見た「楢山節考」』(亜細亜大学教養部紀要、1999年) [http://ci.nii.ac.jp/els/110000104826.pdf?id=ART0000448739&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1369815482&cp=]


== 映像化 ==
== 関連項目 ==
*[[姨捨山]]
*[[楢山節考 (1958年の映画)|1958年映画化]] - [[木下惠介]]監督、[[田中絹代]]、[[高橋貞二]]、[[宮口精二]]、[[市川猿翁 (2代目)|市川團子]]ら出演。
*[[うばすてやま]]
*1960年テレビドラマ化 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]「テレビ劇場」で1960年3月18日・25日放送。[[飯田蝶子]]、[[青木義朗]]、[[多摩幸子]]、[[毒蝮三太夫|石井伊吉(現・毒蝮三太夫)]]ら出演。
*[[高齢者福祉]]
*[[楢山節考 (1983年の映画)|1983年映画化]] - [[今村昌平]]監督、[[緒形拳]]、[[坂本スミ子]]、[[あき竹城]]、[[左とん平]]、[[小林稔侍]]、[[倍賞美津子]]、[[樋浦勉]]、[[江藤漢]]ら出演。[[カンヌ国際映画祭]]にて[[パルムドール]]を受賞している(仏題:''[[:fr:La Ballade de Narayama (film, 1983)|La Ballade de Narayama]]'')。


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2013年5月30日 (木) 00:15時点における版

楢山節考
著者 深沢七郎
イラスト 高橋忠弥
発行日 1957年2月1日
発行元 中央公論社
ジャンル 短編小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 上製本
ウィキポータル 文学
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楢山節考』(ならやまぶしこう)は、深沢七郎短編小説。当時42歳の深沢七郎の処女作で、民間伝承棄老伝説をテーマとした作品である。1956年(昭和31年)、雑誌「中央公論」11月号に掲載された。当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与えて絶賛され、第1回中央公論新人賞を受賞した[1]。単行本は翌年1957年(昭和32年)2月1日に中央公論社より刊行された。ベストセラーとなり、これまでに2度、映画化された。現行版は新潮文庫で重版され続けている。翻訳版も1958年(昭和33年)のベルナール・フランク訳(仏題:“La Ballade de Narayama”)をはじめ、各国で行われている。

概要

真冬の楢山へ欣然と死に赴く老母と、その孝行息子が胸のはりさける思いで背板に母親を乗せて姨捨てにゆく物語。貧しい部落の掟に従い、老母を捨てるという残酷な行動と、それとまったく背馳した肉親間の美しい愛情とが奇妙にないまぜられ、全体として酸鼻とも明るさともつかぬイメージを漲らせ、因習にとざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた作品である[2][1]

作品背景として、深沢七郎は、「姥捨伝説」を大黒坂の農家の年寄りから聞いて、それを深沢の実母・さとじの「自分自らの意思で死におもむくために餓死しようとしている」壮絶な死とからめながら、老母・おりんと息子・辰平という親子の登場人物が創造されたのだという[3]。また、おりんの人物造型には、キリスト釈迦の両方を入れているという[4]

深沢は当時、ギタリストとして様々な公演に参加し、本作は家と日劇ミュージックホールの楽屋で執筆していたという[5]。そして、そのとき公演の構成演出をしていた丸尾長顕の勧めで、雑誌「中央公論」の新人賞に応募し、中央公論新人賞を受賞した[5]。なお、審査の選考委員は、三島由紀夫伊藤整武田泰淳であった[1]

あらすじ

信州の山々の間にある貧しい村に住むおりんは、「楢山まいり」の近づくのを知らせる歌に耳を傾けた。村の年寄りは70歳になると「楢山まいり」に行くのが習わしで、69歳のおりんはそれを待っていた。山へ行く時の支度はずっと前から整えてあり、息子の後妻も無事見つかった。安心したおりんには、あともう一つ済ませることがあった。おりんは自分の丈夫な歯を石で砕いた。食料の乏しいこの村では老いても揃っている歯は恥かしいことだった。

― 塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る ―

「自分が行く時もきっと雪が降る」と、おりんはその日を待ち望む。孝行息子の辰平は、ぼんやりと元気がなく、母の「楢山まいり」に気が進まなかった。少しでもその日を引き延ばしたい気持だったが、長男のけさ吉が近所の娘・松やんと夫婦となり、すでに妊娠5ヶ月で食料不足が深刻化してきたため、そうもいかなくなってきた。雑巾で顔を隠し寝転んでいる辰平の雑巾をずらすと涙が光っていたので、おりんはすぐ離れ、息子の気の弱さを困ったものだと思ったが、自分の目の黒いうちにその顔をよく見ておこうと、横目で息子をじっと見た。「楢山まいり」は来年になってからと辰平は考えていたが、おりんは家計を考え、急遽今年中に出発することを決めた。ねずみっ子(曾孫)が産まれる前に、おりんは山に行きたかった。

あと3日で正月になる冬の夜、誰にも見られてはいけないという掟の下、辰平は背板に母を背負って「楢山まいり」へ出発した。辛くてもそれが貧しい村の掟だった。途中、白骨遺体や、それを啄ばむカラスの多さに驚きながら進み、辰平は母を山に置いた。辰平は帰り道、舞い降ってくる雪を見た。感動した辰平は、「口をきいてはいけない、道を振り返ってはいけない」という掟を破り、「おっかあ、雪が降ってきたよう~」と、おりんの運のよさを告げ、叫び終わると急いで山を降りていった。

辰平が七谷の上のところまで来たとき、隣の銭屋の倅が背板から無理矢理に70歳の父親を谷へ突き落としていた。「楢山まいり」のお供の経験者から内密に教えられた「嫌なら山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいい」という不可思議な言葉の意味を、辰平はそこではじめて理解した。家に戻ると、妊婦の松やんの大きな腹には、昨日までおりんがしめていた細帯があり、長男のけさ吉はおりんの綿入れを着て、「雪がふって、あばあやんは運がいいや」と感心していた。辰平は、もしまだ母が生きていたら、雪をかぶって「綿入れの歌」を考えていると思った。

― なんぼ寒いとって綿入れを 山へ行くにゃ着せられぬ ―

登場人物

おりん
69歳。50年前に向う村から嫁に来た。そのとき村一番の良い器量の女だと言われた。亭主は20年前に死去。一人息子と四人の孫がいる。岩魚捕りがうまい。
辰平
45歳。おりんの一人息子。妻は去年栗拾いに行った際、谷底へ転落死。子供は三男一女。
玉やん
45歳。後家になったばかり。亡夫の49日が済むと向う村からやって来て、辰平の後妻となる。兄から、おりんはいい人だから、早く嫁に行くように勧められてやって来た。おりんとすぐに気が合う良い嫁。
飛脚
玉やんの兄。おりんの家に、後家になった妹・玉やんのことを知らせに来たその日に、後妻にやって来る日もすぐ決める。
けさ吉
16歳。辰平の長男。祖母の丈夫な歯を揶揄する歌を作って父に怒られる。近所の娘・松やんと夫婦になる。
次男
13歳。辰平の次男。けさ吉が松やんといい仲であることを、いち早く祖母と父にバラす。
末の娘
3歳。辰平の長女。この娘に、「おばあはいつ帰ってくる?」と淋しがって聞かれたら何と答えようかと、辰平は困って考える。
松やん
けさ吉と夫婦になった娘。実家は川が池のようななっている所の前にある。すでに妊婦。大食漢。豆を煮ながら、一人でどんどん食べてしまう。意地が悪く、まだ3歳の義妹をおんぶしてあやしながら、その尻をつねって泣かす。けさ吉はこの娘と一緒になってから、おりんに早く山へいった方がいいと言うようになる。
銭屋
おりんの隣家。越後に行った際、天保銭を一枚持って帰ったため、「銭屋」と呼ばれる。今年70歳の「又やん」という老父がいる。銭屋は村一番のケチで「楢山まいり」へ行く日の振舞支度や、山へ行く支度も全然しない。「又やん」は70歳をすぎても山へ行く気がなく、倅に縄で縛られるが食いちぎって逃げる。しかし翌日の最期は倅に七谷から突き落とされ転落死し、カラスの群の餌食になる。
雨屋
銭屋の隣家・焼松の隣家。焼松の家に泥棒に入り、みんなに袋だたきにあう。雨屋の家には村中から盗んだ芋があった。先代も山の根を盗んだことがあり、二代つづいて泥棒。銭屋が「雨屋の一家を根だやしにしなけりゃ!」と、おりんの家で息巻いたその3日後、夜おそく外で大勢の足音がして、その翌日雨屋の一家12名は村から消滅。
照やん
50代。「楢山まいり」のお供をしたことのある一番の古参。おりんの「楢山まいり」前夜の振舞酒の儀式で、お山に行く作法や掟を辰平とおりんに教える。そして他の客が帰った一番最後に、「嫌ならお山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいいのだぞ」という誰にも聞かれないように教えることになっている言葉を辰平に言う。

作品評価・解説

正宗白鳥は本作について、「ことしの多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の『楢山節考』である」と述べ、「私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである」[6]と高い評価をしている。また福田宏年も、「私は戦後三十年の日本文学の作品の中でただ一作を選べといわれたら、ためらうことなくこの『楢山節考』を挙げたいとおもいます」[7]と述べている。

木村東吉は、「おりんは死ぬべき人間として運命づけられており、彼女は自分の死を完全無欠のものにするために全力を傾注している。息子の後妻のことを心配し、その後妻に自分の知識のすべてを伝えるのみ、自分の死後に息子が困らないようにするためである。(中略)このおりんの生き方には、自分の本能的欲望を主張しようとする姿はまったくなく、彼女は自己犠牲の道を誇り高く歩んでいるのである」[8]と述べ、おりんの生き方や誇りは地域社会の価値体系に合致し、それは無言のうちに辰平や村人に通じているため、彼女は孤独に陥ることなく、自分の行き方を貫くことができ、自己犠牲の生き方ではあったが、十分幸福であったと解説している[8]。そして木村は、このようなおりん像は、作者・深沢自身の母親の像と重なっているとし[8]、深沢が肝臓癌で死んだ母親を、「誇り高い女であった」[9]と述懐し、葬儀の夕方から振り出した雨を、「私は雨をあんなに美しいと思ったことはなかった」[10]と『楢山節考』の雪を彷彿させるようなことを述べているエッセイを引きながら、「作者が母親と同じ肝臓癌で死ぬことを理想としているとしばしば述べていることなどを見ると、根っこのおりんの生き方は、そのまま作者自身の理想であったと考えられるのである。すなわち、おりんは作者の母の理想化された像であると同時に、作者の夢を託した人物だったということができる」[8]と解説している。

中央公論新人賞の審査員の一人だった三島由紀夫は本作の読後感を、「何かこわいというか『説教師』や『賽の河原』や『和讃』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果を感じる」[11]と語っている。また、のちのエッセイの中で審査員が新人の作品を読むときの心境を、年々祭の神輿の若い担ぎ手が下手になるのを嘆く町会の旦那衆に喩えつつも同時に、「天才の珠玉の前にひれ伏したい気持を持つてゐるのである」とし[12]、自分が永年文学賞の審査に携わって来て、ただ一度生原稿を読んで慄然たる思いがしたのは、深沢七郎の『楢山節考』だったと述べ[12]、「いくつかの候補作に倦んじ果てたのち、忘れもしない或る深夜のこと、炬燵に足をつつこんで、そのあまり美しくはない手の原稿を読みはじめた。はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」[12]と述懐している。

さらに三島は、「しかしそれは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが『人間性』と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、『悲劇』が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた」[12]と評し、「今にいたるも、深沢氏の作品に対する私の恐怖は、『楢山節考』のこの最初の読後感に源してゐる」[12]と述べている。また三島は『楢山節考』とは対蹠的な作品だが同種の読後感を持った作品として、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』も挙げつつ、これら読後のいいしれぬ不快感の傑作について、「浄化を目睹してはゐるが、その浄化がわれわれの信じてゐる最終的な矜りを崩壊させることと引代へでなくては与えられぬやうに仕組まれてゐる」[12]とし、「この世には、ただ人を底なしの不快の沼へ落し込む文学作品もあるのである。いはばこれを『悪魔の芸術』と呼ぶことができよう」[12]と解説している。

日沼倫太郎は、「辰平は、はりさけんばかりの心で神の棲む楢山におりんを捨てにいく。こういう残酷な行動と、それとまったく背馳した肉親間の美しい愛情とが奇妙にないまぜられ、全体として、酸鼻とも明るさともつかぬイメージをみなぎらせている」[1]と述べ、その深沢の作り出すイメージの世界のつよさが誰もが認めざるを得ないという理由について、「あらゆる素材が物として処理されているからである。あるいは物としてとらえる存在把握、ないしは存在透視力、ないしはメタフィジックにもとづいているからである」[1]と解説している。そして、「深沢氏にとって世界とは、それ自身としては何の原因もない『自本自根』のものすなわちであり、空間の拡がるかぎり時間の及ぶところ、何時はじまって何時終るとも知れない流転である。万象はその一波一浪にすぎない。あらゆる事象は『私とは何の関係もない景色』なのである」[1]と解説し、「深沢氏は、近代の人間中心的な思想とはまったく対蹠的な地点に立っている。これは深沢氏が徹底したアンチ・ヒューマニストであることを示している」[1]と述べ、その作品世界は、ニヒリズムを支柱として構成されていると論じている[1]

大木文雄は、フランツ・アルトハイムが『小説亡国論』の中で説いている要旨を、「ダヌンツィオロレンスの小説は、その中に根源神話を孕んでいるゆえに飼い慣らされた文明を突き抜け、根源にひそむものに触れ得る力を持った文学であること、つまりそれは人間以前の動物的な深淵に触れさせることによって飼い慣らされた文明に風穴を開けさせ、革命させることのできる文学であること」[13]と論述しながら、『楢山節考』の感動の源泉もまた、アルトハイムの説く「根源神話」と同じ次元から来ているとし、「姥捨伝説」は「太古から存在し、現在でも生きている」根源神話であると述べている[13]。そして、「姥捨て」は「高齢者福祉」という文化的な名前を冠して、21世紀の現在大きな問題として存在し、介護施設に入れることは、「楢山まいり」に行くことと同じことではないかと述べ[13]、老人の死の問題は、「まさに『飼い慣らされた文明』を突き抜けてさらに太古にまで溯る動物的な、ロレンスの言う『血と肉』と結びつく根源神話である。子孫のために自ら死を選ぶというありようは、突き抜けると動物の本能にまで溯る。は産卵のために壮絶な死を選ぶ。生のための死。それは自然の根源法則が支配する世界である。それはゲーテのあの『至福なる憧憬』の詩の中にある『死して成れよ』Stirb und werde! の次元である」[13]と解説している。そして、それはもはや神秘の世界に属し、汚すことのできない神聖な領域であり、「楢山には神が住んでいる」というのはそういうことを意味すると解説している[13]

さらに大木は、「姥捨て伝説はなかった」[14]と主張する古田武彦の根拠の一つである、「親子みんなで、腹をへらしてがんばる、というのが本当じゃないかな」[14]という発言に反論し、「まさにそれは『飼い慣らされた文明』の世界での発言である。誰かが死ななければ子孫が生き残れないほどに生活が苦しい状況に直面したときに、『親子みんなで、腹をへらしてがんばる』という言葉は戯言にすぎない。人間は自分だけは生き残りたいと望むのは普通だ。人間だれしも死ほど怖いものがないからだ。それを突き抜けた世界は、それよりもはるかに壮絶な動物的な愛の本能にまで触れる世界である。おりんの『楢山まいり』とそれをいやいやながら手助けする辰平の姿は、恐ろしく、壮絶だが、しかしそこには壮絶故の美が宿っている」[13]と解説している。

映画化

テレビドラマ化

ラジオドラマ化

おもな刊行本

  • 『楢山節考』(中央公論社、1957年2月1日)
    装幀:高橋忠弥。帯文:正宗白鳥。付録・解説:伊藤整「深沢七郎氏の作品の世界」。
  • 新書版『楢山節考』(中央公論社、1958年5月15日)
    装幀:高橋忠弥。付録・解説:伊藤整「深沢七郎氏の作品の世界」。カバー袖文:正宗白鳥・中村光夫
    収録作品:楢山節考、東北の神武たち、揺れる家
  • 文庫版『楢山節考』(新潮文庫、1964年7月30日。改版1987年)
    カバー装画:安野光雅。楽譜(著者自筆)。付録・解説:日沼倫太郎
    収録作品:月のアペニン山、楢山節考、東京のプリンスたち白鳥の死
  • 朗読CD『楢山節考』(新潮社、2009年12月)
    ケース装画:安野光雅。CD2枚(129分)。
    朗読:小沢昭一

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 日沼倫太郎「解説」(文庫版『楢山節考』)(新潮文庫、1964年。改版1987年)
  2. ^ 「カバー解説」(文庫版『楢山節考』)(新潮文庫、1964年。改版1987年)
  3. ^ 浜野茂則『伝記小説 深沢七郎』(近代文芸社、2000年)
  4. ^ 深沢七郎白鳥の死』(新潮 1963年1月号に掲載)
  5. ^ a b 深沢七郎「あとがき」(『現代の文学31 深沢七郎』)(河出書房新社、1965年)
  6. ^ 正宗白鳥「推薦文」(『楢山節考』帯)(中央公論社、1957年)
  7. ^ 福田宏年「精神医学から見た文学の諸相」(『わが青春 わが文学II』(集英社、1979年)
  8. ^ a b c d 木村東吉『深沢七郎論―「楢山節考」の夢の崩壊過程について』(広島大学近代文学研究会、1974年2月)
  9. ^ 深沢七郎『柞葉の母』(1957年4月)
  10. ^ 深沢七郎『自伝ところどころ』
  11. ^ 伊藤整「深沢七郎氏の作品の世界」(『楢山節考』付録解説)(中央公論社、1957年)
  12. ^ a b c d e f g 三島由紀夫『小説とは何か 十』(波 1970年3・4月号に掲載)。のち『小説とは何か』(新潮社、1972年)に所収。
  13. ^ a b c d e f 大木文雄『深澤七郎の小説「楢山節考」とフランツ・アルトハイムの「小説亡国論」』(北海道教育大学釧路校ドイツ文学研究室、2003年11月)
  14. ^ a b 古田武彦『〈姥捨て伝説〉はなかった』(新風書房、2002年)

参考文献

関連項目