「平安座島」の版間の差分
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|島名=平安座島 |
|島名=平安座島 |
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|画像=[[File:Henza Island aerial.jpg|300px]]<br/>南東方向から撮影(2010年) |
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|座標={{ウィキ座標2段度分秒|26|20|56 |
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'''平安座島'''(へんざじま)は[[沖縄県]][[うるま市]]に |
'''平安座島'''(へんざじま)は、[[沖縄県]][[うるま市]]に属する[[島]]で<ref name="katou148">加藤(2012年)p.148</ref>、[[沖縄本島]]中部の東部海岸に突出する[[勝連半島]]北東約4kmに位置する<ref name="kado-henzajima627">『角川日本地名大辞典』「平安座島」(1991年)p.627</ref>。 |
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== 地理 == |
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沖縄本島[[勝連半島]]の北東約4 [[キロメートル|km]]に位置する。[[面積]]5.32 [[平方キロメートル|km²]]。[[宮城島]]との間に[[沖縄石油基地]]がある。人口500世帯・約1,600人。 |
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面積5.32km²<ref name="island-area">{{Cite web|date=2012-10-01|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201210/shima.pdf|title=平成24年 全国都道府県市区町村別面積調 島面積|format=PDF|publisher=国土地理院|accessdate=2013-12-22}}</ref>、周囲約7km<ref name="katou148"/>、標高115.6mの低平な島で、当初の平安座島は北東 - 南西方向の長軸を持つ[[楕円]]形状の地形で、その南東部に[[砂嘴]]が存在する<ref name="rekishi-henzajima-413jo">『日本歴史地名大系』(2002年)「平安座島」p.413上段</ref>。2012年4月現在の島内人口は1,364人<ref name="katou148"/>。周囲7.13kmの[[琉球石灰岩]]で覆われた台地状であったが<ref name="kado-henzajima627"/><ref name="okinawage-henzajima434">『沖繩大百科事典 下巻』「平安座島」(1983年)p.434</ref>、平安座島と[[宮城島 (沖縄県うるま市)|宮城島]]間のダネー水道が[[石油備蓄基地]]の建造により埋立てられた<ref name="kado-hiramiya604">『角川日本地名大辞典』「平宮」(1991年)p.604</ref>。島周辺の殆どは急斜面を成しているが、砂嘴上に集落を形成している<ref name="rekishi-henzajima-413jo"/>。沖縄本島南部の[[知念半島]]から[[伊計島]]まで伸びる[[サンゴ礁]]群の一つで[[中城湾]]と[[金武湾]]の自然堤防として役割を担っている<ref name="kado-henzajima627"/>。1965年に平安座島一帯の海域は「与勝海上[[政府立公園]]」に指定されていた<ref name="nichigai452">『島嶼大事典』(1991年)p.452</ref>。 |
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平安座島は「平安座」と「平宮(ひらみや)」の[[大字]]で構成される<ref name="kado-henzajima627"/>。後者は1974年に[[埋立て|埋立て地]]に新設された字名で<ref name="okinawage-hiramiya328">『沖繩大百科事典 下巻』「平宮」(1983年)p.328</ref>、'''平'''安座島と'''宮'''城島両島の頭文字を取って名付けられた<ref name="kado-hiramiya604"/>。当初の平安座島は[[勝連町|勝連間切]]の所属で、1687年に与那城間切へ移管、琉球処分後の1896年(明治29年)に[[中頭郡]]、1908年(明治41年)に同郡与那城村の一部となる<ref name="kado-henza-kinsei626">『角川日本地名大辞典』〔近世〕「平安座村」(1991年)p.626</ref>。1994年(平成6年)に[[与那原町]]へ町制施行<ref name="shimadas1189">『SHIMADAS 第2版』(2004年)p.1189</ref>、その後近隣の自治体と合併し2005年(平成17年)にうるま市へ属し、現在に至る<ref name="merge">{{Cite web|url=http://www.soumu.go.jp/gapei/hensen_okinawa.html|title=市町村合併資料集 市町村名逆引き一覧(平成11年3月31日時点の市町村名がどう変わるか)(沖縄県)|format=html|publisher=[[総務省]]|accessdate=2014-02-20}}</ref>。 |
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== 歴史 == |
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[[ファイル:Henza Island.jpg|thumb|平安座島の遠景]] |
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方言でも「ヘンザ」<ref name="kado-henza626">『角川日本地名大辞典』「平安座」(1991年)p.626</ref>または「ヒャンザ」<ref name="rekishi-henzajima-413chu">『日本歴史地名大系』(2002年)「平安座島」p.413中段</ref>と呼ばれ、地名の由来は「[[干潮]]」を意味する[[沖縄方言]]、または[[平家の落人]]が島に[[安徳天皇]]を祀ったという説も挙げられる<ref name="nichigai452"/>。『おもろさうし』には「ひやもざ」ないし「ひやむざ」<ref name="kado-henza626"/>、『正保国絵図』には「平安座(ヒヤンザ)嶋」<ref name="rekishi-henzajima-413chu"/>と記載され、また『ペリー日本遠征記』の地図に「ファンザ(''Fanza '')」<ref name="rekishi-henzajima-413chu"/>、『ペリー提督沖繩訪問記』には「ファニア(''Fania '')」<ref name="kado-henza626"/>と表記されている。 |
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=== 前史から琉球王国時代 === |
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[[縄文時代]]晩期の遺跡「平安座東(あがり)ハンタ原(ばる)貝塚」は、1956年(昭和31年)に島丘陵東端の畑地から発見された<ref name="kado-henzaagari626">『角川日本地名大辞典』「平安座東ハンタ原貝塚」(1991年)p.626</ref>。1968年(昭和43年)に[[琉球大学]]により調査が行われ、[[土器]]の他に[[石斧]]や貝製品が出土したが、発掘調査終了後、石油備蓄基地の建設により消滅した<ref name="okinawage-henza-agari433-434">『沖繩大百科事典 下巻』「平安座東ハンタ原貝塚」(1983年)pp.433 - 434</ref>。また平安座島の最高所に位置する「平安座西(いり)グスク」の築城年は不明だが、[[勝連城]]の浜川按司の次男の居城と伝承され、『[[琉球国由来記]]』には「森城(むいぐすく)」と記されている<ref name="rekishi-irigusuku-414jo">『日本歴史地名大系』「平安座西グスク」(2002年)p.414上段</ref>。西グスクの南西側で土器や[[青磁]]、炭化した[[米穀]]と[[麦]]粒が発見され、また二次的に埋葬された人頭骨も出土している<ref name="kado-henzairigusuku626">『角川日本地名大辞典』「平安座西城」(1991年)p.626</ref>。当グスクは[[野面積み]]の[[石垣]]で囲まれた内部に祠があり<ref name="okinawage-henza-irigusuku434">『沖繩大百科事典 下巻』「平安座西グスク」(1983年)p.434</ref>、現在でも島民にとって聖地で、重要な拝所となっている<ref name="rekishi-irigusuku-414jo"/>。 |
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平安座島の集落は、15世紀初期に西グスクを中心に海岸沿いに移動し、3つの集落(西村渠・古島・新村渠)を形成した<ref name="kado-henza626"/>。慢性的な水不足に苦労し、[[親雲上]]らにより1791年と1819年に天水田の灌漑用水路工事と水田開発を行い、1850年代には傾斜面に開田している<ref name="kado-henza-kinsei626"/>。島民の八端太良は怪力として知られ、『[[球陽]]』(1743年条)には貢納米1[[石 (単位)|石]]を[[那覇]]まで運び、当日のうちに帰島したとされる<ref name="kado-henza-kinsei626"/>。さらに彼の兄弟3人で帆船を持ち上げ、平安座島と対岸の沖縄本島を往来したという<ref name="rekishi-henzamura-412ge">『日本歴史地名大系』(2002年)「平安座村」p.412下段</ref>。 |
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=== 戦前から沖縄戦 === |
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1880年([[明治]]13年)の島内人口は1,501人であったが、1903年(明治36年)は2,623人に増加し、その対策に新村渠集落の東側に新しく集落を設置した<ref name="kado-henza-kinsei626"/>。明治期から戦前にかけては、女性と老人は[[農業]]、男性は[[漁業]]と[[海運業]]を中心に行った<ref name="rekishi-henzamura-412ge"/>。[[大正]]期における漁業は1組30 - 40人による追い込み漁が盛んで、素潜り漁も行われた<ref name="kado-henza-kindai626">『角川日本地名大辞典』〔近代〕「平安座村」(1991年)p.626</ref>。1913年(大正2年)に、平安座島を本拠地とする[[糸満市|糸満]]漁民と[[浜比嘉島]]の漁民により、東方海上に位置する浮原島周辺海域の漁業権を巡る乱闘が発生した<ref name="kado-yonabaru-jiken1004">『角川日本地名大辞典』「与那原町〔沿革〕与那原事件」(1991年)p.1004</ref>。 |
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[[File:Yanbaru Boat.JPG|thumb|昭和初期の山原船]] |
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沖縄本島北部([[山原]])との交易船として発展した平安座島の山原船は、[[酒]]・[[穀類]]と[[生活用品]]を山原に輸送し、さらにそこから[[薪]]・建築用材等を搬出し、他地域へ取引を行っていた<ref name="okinawage-henzabune434">『沖繩大百科事典 下巻』「平安座船」(1983年)p.434</ref>。北は[[奄美群島]]、南は[[先島諸島]]まで赴くなど、広範囲に交易が盛んに行われた<ref name="rekishi-henzamura-413zyo">『日本歴史地名大系』(2002年)「平安座村」p.413上段</ref>。古来からサバニと呼ばれる小舟4隻を組み合わせたテーサン船(組船)が主流であったが、大正末期からは大型の山原船へ移行した<ref name="okinawage-henzabune434"/>。大正時代から1940年([[昭和]]15年)頃までは、100隻以上の船が平安座島に集結すると同時に生活物資をもたらし、さらにそれら目当てに島外から人々が押し寄せるなど、山原船交易の最盛期を築いた<ref name="kado-henza-kindai626"/>。しかし、他籍船の[[首里]]士族の一部が平安座島の田畑を荒らし、婦女暴行事件を起こすなどトラブルが絶えない時期もあった<ref name="kado-yonabaru-jiken1004"/>。 |
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1944年(昭和19年)10月10日の朝、山原船による物資輸送の拠点地として平安座島は[[アメリカ軍]]の[[空襲]]を受け、200隻以上の山原船を焼失させたが、死者は誰一人も出なかった<ref name="kado-henzakubaku1004">『角川日本地名大辞典』「与那原町〔沿革〕平安座への空爆」(1991年)p.1004</ref>。翌年の1945年(昭和20年)に、[[日本軍]]の命令により島民は[[金武町]]に強制疎開させられたが<ref name="kado-henzakubaku1004"/>、同年6月10日に米軍が与那原に上陸した際、平安座・宮城・伊計島と本島側の住民らを平安座島へ収容した<ref name="kado-henzashi627">『角川日本地名大辞典』「平安座市」(1991年)p.627</ref>。終戦後の同年9月に発令した「地方行政緊急措置要綱」により、平安座市の形成と同時に、市長と市会議員も選出された<ref name="okinawage-henzashi434">『沖繩大百科事典 下巻』「平安座市」(1983年)p.434</ref>。当市の人口は8,317人で約7割は女性であった<ref name="kado-henzashi627"/>。翌月の10月から随時住民の帰村が許可され、1946年(昭和21年)2月21日に当市は廃止された<ref name="kado-henzashi627"/>。 |
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=== 戦後から現在 === |
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1968年(昭和43年)にアメリカ資本の石油会社ガルフ社により、平安座島に石油精製基地が建造、1972年(昭和47年)にも当島と沖縄本島を結ぶ[[海中道路]]を完成させた<ref name="rekishi-henzajima-413ge">『日本歴史地名大系』(2002年)「平安座島」p.413下段</ref>。その後の1975年(昭和50年)、[[三菱石油]]と[[丸善石油]]が平安座島 - 宮城島間の海域を埋め立て、石油備蓄基地を建設した(次節を参照)<ref name="kado-henzakubaku1005">『角川日本地名大辞典』「与那原町〔沿革〕石油精製・備蓄基地」(1991年)p.1005</ref>。平安座島の農耕地は少なく、周辺海域での漁業が行われ、集落内には[[交番]]や[[小中学校]]、[[ホテル]]も立地している<ref name="rekishi-henzajima-413chu"/>。 |
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== 石油基地建設の経緯 == |
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[[ファイル:Map of Henza Island.png|thumb|平安座島の地図。 |
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'''A:沖縄ターミナル原油基地'''<ref name="shimadas1190">『SHIMADAS 第2版』(2004年)p.1190</ref>。1969年着工、1970年完成。島の4分の3の土地にCTS、1971年に海中道路を建設。ガルフ社は1972年に「[[沖縄出光|沖縄石油精製]]」と「[[沖縄ターミナル]]」を設立<ref name="matsui-kaihatsu225">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)p.225</ref>。 |
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'''B:沖縄石油基地'''<ref name="shimadas1190"/>。1972年着工、1980年操業。平安座島 - 宮城島間の海域を埋め立て、CTSを建造。1973年、[[三菱石油]]と[[丸善石油]]との出資により「沖縄石油基地」を設立<ref>太田(2004年)p.99</ref>。]] |
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=== 旧・ガルフ社による基地建設 === |
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アメリカの石油会社ガルフ社(後に[[シェブロン]]へ合併)は沖縄へ進出するため、1966年(昭和41年)10月までに[[金武湾]]周辺地域に石油備蓄基地(CTS:''Central Terminal Station'' <ref name="matsui-kaihatsu225"/>)の建設候補地を絞り込んだ。当初の計画では、宮城島に石油基地、伊計島に製油所を建設する予定であった。伊計島では誘致に概ね賛成であったが、宮城島の反対運動により進出計画は白紙になった。次にガルフ社は隣の平安座島へ誘致の検討を進めた。1967年(昭和42年)10月31日に平安座区長とガルフ社が覚書を取り交わし、翌年の1968年(昭和43年)5月17日にガルフ社が平安座島への石油基地進出の最終決定を下し、同日にも平安座島の住民大会でも誘致賛成を表明した。後にガルフ社の副社長が現地視察で来島した際、当時の平安座区長は彼に地主800人以上(面積にして計約64万[[坪]])の土地貸与に関する同意書を提出した。宮城島と違い平安座島では順調に誘致が進んだ理由としては、CTS建造に伴い沖縄本島と結ぶ道路建設を条件に、離島ならでは苦悩(離島苦)を解消する為に誘致に賛成した。<ref name="matsui-kaihatsu287-292">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)pp.287-292</ref> |
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CTSの起工式が1968年(昭和43年)12月8日に行われ、約1ヶ月後の1969年1月から着工された。CTSは1970年に完成した<ref name="rekishi-henzajima-413ge"/>。この工事と並行して海中道路の建設がされた訳ではなく、建設資材は満潮時に渡り船で、干潮時は米軍から売り渡された工事用[[トラック]]で運搬していた。1970年(昭和45年)2月12日に海中道路建設の許可申請を行ったが、道路コースの選定や事務手続きに時間を取られ、翌年の1971年(昭和46年)1月11日に埋立て許可が下りた。同年5月2日に着工し、6月6日に平安座島と本島側が道路によって接続された。<ref name="matsui-kaihatsu293-295">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)pp.293-295</ref> |
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=== 埋立て地での基地建設 === |
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1960年代後半、[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ占領下の沖縄]]が[[沖縄返還|日本復帰]]するという現実味を増す中、離島苦解消や財政強化を目指した当時の与那原村は企業誘致を進めていた<ref name="rekishi-henzajima-413ge"/>。1969年3月、村議会は[[三菱商事]]に平安座島と宮城島間の海域の埋立て事業を要請した<ref>太田(2004年)p.44</ref>。1970年5月に三菱商事を中心とした企業団が来沖し調査を行ったが、工業用水と電力の調達が困難であるとした<ref>太田(2004年)pp.48 - 49</ref>。その際、CTS建設も検討され、三菱石油にも協力を依頼した<ref>太田(2004年)p.49</ref>。三菱商事との折衝役を引き継いだ三菱開発より埋立て計画を決定し、1971年4月28日に与那城村と[[覚書]]を締結<ref>太田(2004年)p.55</ref>、翌月の5月15日に[[琉球政府]]へ公有水面埋立て免許の申請を行った<ref>太田(2004年)p.60</ref>。また琉球政府の行政指導により、外資導入免許の取得を条件に事業主体を与那城村から新会社の「沖縄三菱開発」(以下「沖縄三菱」)へ移行した<ref>太田(2004年)p.78</ref>。しかし反対派の[[立法院 (琉球)|立法院]]議員らの圧力により、申請許可が下りない状態が続いた<ref>太田(2004年)p.83</ref>。沖縄三菱と誘致賛成派の村議員らと共に懇願し、1972年5月9日にようやく認可された<ref>太田(2004年)pp.84 - 88</ref>。 |
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本土復帰後の1972年10月15日に埋立て工事の着工を行い、計画では2年後の1974年12月までに貯蔵タンクと[[シーバース]]を含めた施設建造を完了させる予定であった<ref>太田(2004年)pp.92 - 93</ref>。しかしこの頃、隣接するガルフ社の製油所から漏洩した原油が流出し、近海が汚染されるなどの[[公害]]問題が深刻化し、これらの事故を機に1973年からCTS建設反対派の運動が激化する<ref name="matsui-kaihatsu267">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)p.267</ref>。1974年4月30日に埋立て工事は完了し<ref>太田(2004年)p.196</ref>、同日に竣工認可を沖縄県へ申請した<ref>太田(2004年)p.131</ref>。1975年10月4日にCTS竣工は許可され、その後埋立て地の所有権登記を行い、与那城村へ編入された<ref>太田(2004年)p.163</ref>。1980年3月6日にCTS貯蔵タンクは建設され<ref>太田(2004年)p.197</ref>、同月12日に操業した<ref>太田(2004年)p.179</ref>。 |
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=== CTS建設問題 === |
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ガルフ社の宮城島進出が周知されると、島内反対派は1967年3月16日に「宮城島を守る会」を、賛成派は「工場誘致促進委員会」を結成した。5月8日の与那城村会議ではガルフ社誘致が議題となり、全会一致で誘致の早期実現に関する要請決議を行い、7月1日に「石油事業誘致特別委員会」を設置した。しかし、7月19日に宮城島内で賛成・反対派よる傷害事件が発生するなど、両者は益々対立した。そもそも島内の賛成派は反対派よりも多数であったが、反対派が所有する土地が建設予定地の半分以上を占め、さらに賛成・反対派の所有地が点在し、用地取得が困難であった。その上再三に亘る反対派への説得にも誘致の支持は得られず、終いに宮城島でのCTS計画は頓挫した。その後、本島と結ぶ海中道路建設を条件に平安座島の島民は、島の4分の3の土地をガルフ社に貸与した。また、島民は建設工事の請負や開業後の雇用促進による経済効果に期待を寄せていた。<ref name="matsui-kaihatsu287-292"/> |
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しかし、CTS建造後の雇用効果は予想を下回り<ref name="okinawachu-cts270">『沖繩大百科事典 中巻』「CTS」(1983年)p.270</ref>、また島内の耕作地が激減し、農業振興地域の指定は解除された<ref name="okinawage-henzashi433">『沖繩大百科事典 下巻』「平安座」(1983年)p.433</ref>。1965年に指定された「与勝海上政府立公園」はCTS計画により取り消された。さらに海中道路の建設により島周辺の海域に[[赤土]]流出・潮流変化に伴い漁業に深刻な打撃を受けた<ref name="kado-henza-kindai626"/>。1973年のガルフ社による原油流出事故を切っ掛けに公害問題が深刻化し、CTS反対運動が激化する<ref name="matsui-kaihatsu267"/>。村議会や開発事務所へ抗議が殺到<ref>太田(2004年)p.98</ref>、反対派団体「金武湾を守る会」(以下「守る会」)は当時の[[屋良朝苗]]知事へ押しかけ、CTS建設の中止を訴えた<ref name="rekishi-henzajima-413ge"/>。これら反対派の中には[[革マル派]]の一員などによる扇動者も含まれていたという<ref>太田(2004年)p.101</ref>。1974年1月19日、CTS建設反対の世論と全国で展開された公害防止運動の高まりを理由に挙げ、知事はCTS反対を表明、これを受け「沖縄三菱」社長は同月23日に知事と会見し、CTS反対決定の撤回を求めた<ref>太田(2004年)pp.122 - 127</ref>。また同月25日、当時の[[中曽根康弘]][[通商産業大臣]]は国会演説で、金武湾におけるCTS建設を積極的に行うべきと発言、さらに翌月2月8日に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]沖縄県支部は、屋良知事の退陣要求デモを県庁前で行った<ref>太田(2004年)p.130</ref>。1974年9月5日に「守る会」に所属する漁民6人は沖縄県を相手取り、埋立て免許の無効確認を要求する裁判を起こした<ref>太田(2004年)p.154</ref>。翌年の1975年10月4日の判決で、既に完工した埋立て地を元の状態へ戻すのは不可能とし、県は全面的に勝訴した<ref>太田(2004年)p.162</ref>。次に「守る会」は1977年4月9日に、[[環境権]]と[[人格権]]の侵害を理由に原告1,250人によるCTS建設の差し止めを求めた<ref name="okinawachu-ctsjudge270">『沖繩大百科事典 中巻』「CTS裁判」(1983年)p.270</ref>。しかし原告側にはCTSが立地する平安座島の住民は存在せず、その後の1979年3月29日の判決で原告は敗訴し、CTS反対運動は次第に衰退した<ref name="matsui-kaihatsu254">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)p.254</ref>。 |
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== 文化 == |
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「平安座島には多くの[[伝統行事]]が残されている」といわれ、行事の保存・継承を積極的に行っている<ref name="matsui-okinawa177-178">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)pp.177 - 178</ref>。平安座自治会は、島内に参入した石油関連企業からの土地賃貸料等による潤沢な[[不動産]]収入を得て、行事は盛大に催される<ref name="matsui-okinawa178">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.178</ref>。実際、当自治会の2001年の歳入は約8,500万円であったが<ref name="matsui-okinawa179">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.179</ref>、宮城島や伊計島などの周辺離島の自治会では毎年多くても1,000万円は超過しないという<ref name="matsui-okinawa175">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.175</ref>。予算の掛かる[[綱引き|大綱引き]]に関しては、水田の無い平安座島では[[藁]]は他所から購入しなければならず、財政的に負担の大きい行事であった<ref name="matsui-okinawa178"/>。1960年以降開催されなかったが、1984年に再開された<ref name="matsui-okinawa178"/>。また海中道路の開通で自動車での往来が容易になり、泊りがけで行われた[[旧盆]]も日帰りで済むようになり、行事のあり方にも変化が生じた<ref name="matsui-okinawa182">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.182</ref>。 |
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ガルフ社が平安座島へ進出した際、当時は米軍統治下にあった為、沖縄住民以外の土地所得は[[琉球列島高等弁務官|高等弁務官]]命令により制限されていた<ref name="matsui-kaihatsu291">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)p.291</ref>。賃貸契約を結んだガルフ社と平安座島の土地所有者らは、定期的に土地代改正などに関した協議の場を設ける機会が増え、両者は深い関係を築いている<ref name="matsui-okinawa181">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.181</ref>。[[旧正月]]の[[元日]]に行われる祈願祭「初年頭(ハチニントウ)」に企業関係者も参加<ref name="matsui-okinawa184">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.184</ref>、また旧正月3日目に親族毎に縁のある井泉を巡る「河川撫で(カーウビー)」では石油基地内を通行して行われる<ref name="matsui-okinawa185">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.185</ref>。[[旧暦3月4日]]には「ナンザモーイ」と呼ばれる行事が開かれ、平安座島の東海岸に位置するナンザ島に赴き、本来の豊漁・海の安全祈願や石油企業の安全操業を[[ニライカナイ]]の神に願う<ref name="matsui-okinawa187">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.187</ref>。 |
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1968年にガルフ社と平安座島民が土地賃借契約を締結した後、基地建設地に点在した約150の[[墓]]を共同墓地へ移転した<ref name="matsui-okinawa196">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.196</ref>。1968年9月27日に移転先が決定し、翌年の1969年8月12日に墓地の完成祈願祭が挙行され、その後納骨された<ref name="matsui-okinawa197">松井編『島の生活世界と開発 3 沖縄列島』(2004年)p.197</ref>。 |
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== 交通 == |
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もとは与勝半島と平安座島の海域は遠浅で干潮時に徒歩で往来可能であったが<ref name="rekishi-henzamura-412ge"/>、離島苦の解消は島民にとって積年の願いであった<ref name="kado-kaichu626">『角川日本地名大辞典』「平安座海中道路」(1991年)p.626</ref>。過去には1753年に親子が平安座島へ渡る途中に[[暴風雨]]に遭遇し帰路を見失い、満潮時に流され溺死した事故が起こっている<ref name="rekishi-henzamura-412ge"/>。また戦後にはアメリカ軍が改造した海上トラックも通行していた<ref name="okinawage-kaichu663">『沖繩大百科事典 上巻』「海中道路」(1983年)p.663</ref>。1961年(昭和36年)に島民約3,600人と米軍の工事用トラック車両3台による道路建設に着手したが、2度の[[台風]]襲来で失敗に終わった<ref name="kado-kaichu626"/>。その後の1968年(昭和43年)にガルフ社が平安座島の大半を貸与し石油関連施設を建設する代わりに、1972年(昭和47年)に自社負担で全長約4.75kmの[[海中道路]]を完成させた<ref name="rekishi-henzajima-413ge"/>。しかし、開通後には金武湾を流れる潮流が変化し土砂堆積などの問題が発生した<ref name="okinawage-kaichu663"/>。完成当初は与那城村道45号に指定されたが<ref name="kado-kaichu626"/>、1991年3月31日に沖縄県道として「[[沖縄県道10号伊計平良川線|主要地方道伊計平良川線]]」へ昇格した<ref name="matsui-kaihatsu297">松井編『開発と環境の文化学』(2002年)p.297</ref><ref name="oota176">太田(2004年)p.176</ref>。1999年に4車線に拡張され、駐車場300台分を備えたロードパークを設置した<ref name="shimadas1189"/>。 |
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埋立て以前の平安座島と宮城島は潮流により土砂が寄り集まった1本の盛り土が形成され、[[馬]]と共に渡れたが、埋立てにより2島は「桃原橋」により架橋された<ref name="kado-henzajima627"/>。また1997年2月7日に平安座島と浜比嘉島を結ぶ「[[沖縄県道238号浜比嘉平安座線|浜比嘉大橋]]」が完成・開通した<ref name="oota176"/>。 |
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File:Crossing on foot between Yokatsu Peninsula and Henza Island.JPG|干潮時の徒歩横断(1955年頃) |
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File:Kaichu-Doro.jpg|完成した海中道路(2010年9月) |
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File:20100526金武湾.JPG|金武湾空撮。画像左側に白く伸びる筋が海中道路。 |
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== 出典 == |
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== 参考文献 == |
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*「角川日本地名大辞典」編纂委員会 『[[角川日本地名大辞典]] 47.沖縄県』 [[角川書店]]、1991年。ISBN 4-04-001470-7 |
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*加藤庸二 『原色ニッポン 《南の島》大図鑑 <small>小笠原から波照間まで 114の"楽園"へ</small>』 [[阪急コミュニケーションズ]]、2012年。ISBN 978-4-484-12217-5 |
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*財団法人日本離島センター編 『日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス) 第2版』 財団法人日本離島センター、2004年。ISBN 4-931230-22-9 |
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*松井健一編 『開発と環境の文化学 <small>沖縄地域社会変動の諸契機</small>』 [[榕樹書林]]、2002年。ISBN 4-9477667-87-7 |
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*松井健一編 『島の生活世界と開発 3 沖縄列島 <small>シマの自然と伝統のゆくえ</small>』 [[東京大学出版会]]、2004年。ISBN 4-13-034173-1 |
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*太田範夫 『沖縄巨大プロジェクトの奇跡 <small>石油備蓄基地(CTS)開発 激闘の9年</small>』 [[アートデイズ]]、2004年。ISBN 4-86119-029-0 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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*[[日本の離島架橋]] |
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*[[沖縄県道10号伊計平良川線]] |
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**[[海中道路]] |
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*[[うるま市有償バス]] |
*[[うるま市有償バス]] |
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*[[沖縄石油基地]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.henza.jp/ 平安座自治会] |
* [http://www.henza.jp/ 平安座自治会] |
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* [http://www.city.uruma.lg.jp/1/231.html 平安座総合バス] |
* [http://www.city.uruma.lg.jp/1/231.html 平安座総合バス] |
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* [http://otc-henza.co.jp/ 沖縄ターミナル株式会社] |
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* [http://octs.co.jp/ 沖縄石油基地株式会社] |
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2014年2月23日 (日) 14:37時点における版
平安座島 | |
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南東方向から撮影(2010年) | |
所在地 | 日本・沖縄県うるま市 |
所在海域 | 太平洋 |
所属諸島 | 沖縄諸島 |
座標 | 北緯26度20分56秒 東経127度57分29秒 / 北緯26.34889度 東経127.95806度 |
面積 | 5.32 km² |
海岸線長 | 7 km |
最高標高 | 115.6 m |
プロジェクト 地形 |
平安座島(へんざじま)は、沖縄県うるま市に属する島で[1]、沖縄本島中部の東部海岸に突出する勝連半島北東約4kmに位置する[2]。
地理
面積5.32km²[3]、周囲約7km[1]、標高115.6mの低平な島で、当初の平安座島は北東 - 南西方向の長軸を持つ楕円形状の地形で、その南東部に砂嘴が存在する[4]。2012年4月現在の島内人口は1,364人[1]。周囲7.13kmの琉球石灰岩で覆われた台地状であったが[2][5]、平安座島と宮城島間のダネー水道が石油備蓄基地の建造により埋立てられた[6]。島周辺の殆どは急斜面を成しているが、砂嘴上に集落を形成している[4]。沖縄本島南部の知念半島から伊計島まで伸びるサンゴ礁群の一つで中城湾と金武湾の自然堤防として役割を担っている[2]。1965年に平安座島一帯の海域は「与勝海上政府立公園」に指定されていた[7]。
平安座島は「平安座」と「平宮(ひらみや)」の大字で構成される[2]。後者は1974年に埋立て地に新設された字名で[8]、平安座島と宮城島両島の頭文字を取って名付けられた[6]。当初の平安座島は勝連間切の所属で、1687年に与那城間切へ移管、琉球処分後の1896年(明治29年)に中頭郡、1908年(明治41年)に同郡与那城村の一部となる[9]。1994年(平成6年)に与那原町へ町制施行[10]、その後近隣の自治体と合併し2005年(平成17年)にうるま市へ属し、現在に至る[11]。
歴史
方言でも「ヘンザ」[12]または「ヒャンザ」[13]と呼ばれ、地名の由来は「干潮」を意味する沖縄方言、または平家の落人が島に安徳天皇を祀ったという説も挙げられる[7]。『おもろさうし』には「ひやもざ」ないし「ひやむざ」[12]、『正保国絵図』には「平安座(ヒヤンザ)嶋」[13]と記載され、また『ペリー日本遠征記』の地図に「ファンザ(Fanza )」[13]、『ペリー提督沖繩訪問記』には「ファニア(Fania )」[12]と表記されている。
前史から琉球王国時代
縄文時代晩期の遺跡「平安座東(あがり)ハンタ原(ばる)貝塚」は、1956年(昭和31年)に島丘陵東端の畑地から発見された[14]。1968年(昭和43年)に琉球大学により調査が行われ、土器の他に石斧や貝製品が出土したが、発掘調査終了後、石油備蓄基地の建設により消滅した[15]。また平安座島の最高所に位置する「平安座西(いり)グスク」の築城年は不明だが、勝連城の浜川按司の次男の居城と伝承され、『琉球国由来記』には「森城(むいぐすく)」と記されている[16]。西グスクの南西側で土器や青磁、炭化した米穀と麦粒が発見され、また二次的に埋葬された人頭骨も出土している[17]。当グスクは野面積みの石垣で囲まれた内部に祠があり[18]、現在でも島民にとって聖地で、重要な拝所となっている[16]。
平安座島の集落は、15世紀初期に西グスクを中心に海岸沿いに移動し、3つの集落(西村渠・古島・新村渠)を形成した[12]。慢性的な水不足に苦労し、親雲上らにより1791年と1819年に天水田の灌漑用水路工事と水田開発を行い、1850年代には傾斜面に開田している[9]。島民の八端太良は怪力として知られ、『球陽』(1743年条)には貢納米1石を那覇まで運び、当日のうちに帰島したとされる[9]。さらに彼の兄弟3人で帆船を持ち上げ、平安座島と対岸の沖縄本島を往来したという[19]。
戦前から沖縄戦
1880年(明治13年)の島内人口は1,501人であったが、1903年(明治36年)は2,623人に増加し、その対策に新村渠集落の東側に新しく集落を設置した[9]。明治期から戦前にかけては、女性と老人は農業、男性は漁業と海運業を中心に行った[19]。大正期における漁業は1組30 - 40人による追い込み漁が盛んで、素潜り漁も行われた[20]。1913年(大正2年)に、平安座島を本拠地とする糸満漁民と浜比嘉島の漁民により、東方海上に位置する浮原島周辺海域の漁業権を巡る乱闘が発生した[21]。
沖縄本島北部(山原)との交易船として発展した平安座島の山原船は、酒・穀類と生活用品を山原に輸送し、さらにそこから薪・建築用材等を搬出し、他地域へ取引を行っていた[22]。北は奄美群島、南は先島諸島まで赴くなど、広範囲に交易が盛んに行われた[23]。古来からサバニと呼ばれる小舟4隻を組み合わせたテーサン船(組船)が主流であったが、大正末期からは大型の山原船へ移行した[22]。大正時代から1940年(昭和15年)頃までは、100隻以上の船が平安座島に集結すると同時に生活物資をもたらし、さらにそれら目当てに島外から人々が押し寄せるなど、山原船交易の最盛期を築いた[20]。しかし、他籍船の首里士族の一部が平安座島の田畑を荒らし、婦女暴行事件を起こすなどトラブルが絶えない時期もあった[21]。
1944年(昭和19年)10月10日の朝、山原船による物資輸送の拠点地として平安座島はアメリカ軍の空襲を受け、200隻以上の山原船を焼失させたが、死者は誰一人も出なかった[24]。翌年の1945年(昭和20年)に、日本軍の命令により島民は金武町に強制疎開させられたが[24]、同年6月10日に米軍が与那原に上陸した際、平安座・宮城・伊計島と本島側の住民らを平安座島へ収容した[25]。終戦後の同年9月に発令した「地方行政緊急措置要綱」により、平安座市の形成と同時に、市長と市会議員も選出された[26]。当市の人口は8,317人で約7割は女性であった[25]。翌月の10月から随時住民の帰村が許可され、1946年(昭和21年)2月21日に当市は廃止された[25]。
戦後から現在
1968年(昭和43年)にアメリカ資本の石油会社ガルフ社により、平安座島に石油精製基地が建造、1972年(昭和47年)にも当島と沖縄本島を結ぶ海中道路を完成させた[27]。その後の1975年(昭和50年)、三菱石油と丸善石油が平安座島 - 宮城島間の海域を埋め立て、石油備蓄基地を建設した(次節を参照)[28]。平安座島の農耕地は少なく、周辺海域での漁業が行われ、集落内には交番や小中学校、ホテルも立地している[13]。
石油基地建設の経緯
旧・ガルフ社による基地建設
アメリカの石油会社ガルフ社(後にシェブロンへ合併)は沖縄へ進出するため、1966年(昭和41年)10月までに金武湾周辺地域に石油備蓄基地(CTS:Central Terminal Station [30])の建設候補地を絞り込んだ。当初の計画では、宮城島に石油基地、伊計島に製油所を建設する予定であった。伊計島では誘致に概ね賛成であったが、宮城島の反対運動により進出計画は白紙になった。次にガルフ社は隣の平安座島へ誘致の検討を進めた。1967年(昭和42年)10月31日に平安座区長とガルフ社が覚書を取り交わし、翌年の1968年(昭和43年)5月17日にガルフ社が平安座島への石油基地進出の最終決定を下し、同日にも平安座島の住民大会でも誘致賛成を表明した。後にガルフ社の副社長が現地視察で来島した際、当時の平安座区長は彼に地主800人以上(面積にして計約64万坪)の土地貸与に関する同意書を提出した。宮城島と違い平安座島では順調に誘致が進んだ理由としては、CTS建造に伴い沖縄本島と結ぶ道路建設を条件に、離島ならでは苦悩(離島苦)を解消する為に誘致に賛成した。[32]
CTSの起工式が1968年(昭和43年)12月8日に行われ、約1ヶ月後の1969年1月から着工された。CTSは1970年に完成した[27]。この工事と並行して海中道路の建設がされた訳ではなく、建設資材は満潮時に渡り船で、干潮時は米軍から売り渡された工事用トラックで運搬していた。1970年(昭和45年)2月12日に海中道路建設の許可申請を行ったが、道路コースの選定や事務手続きに時間を取られ、翌年の1971年(昭和46年)1月11日に埋立て許可が下りた。同年5月2日に着工し、6月6日に平安座島と本島側が道路によって接続された。[33]
埋立て地での基地建設
1960年代後半、アメリカ占領下の沖縄が日本復帰するという現実味を増す中、離島苦解消や財政強化を目指した当時の与那原村は企業誘致を進めていた[27]。1969年3月、村議会は三菱商事に平安座島と宮城島間の海域の埋立て事業を要請した[34]。1970年5月に三菱商事を中心とした企業団が来沖し調査を行ったが、工業用水と電力の調達が困難であるとした[35]。その際、CTS建設も検討され、三菱石油にも協力を依頼した[36]。三菱商事との折衝役を引き継いだ三菱開発より埋立て計画を決定し、1971年4月28日に与那城村と覚書を締結[37]、翌月の5月15日に琉球政府へ公有水面埋立て免許の申請を行った[38]。また琉球政府の行政指導により、外資導入免許の取得を条件に事業主体を与那城村から新会社の「沖縄三菱開発」(以下「沖縄三菱」)へ移行した[39]。しかし反対派の立法院議員らの圧力により、申請許可が下りない状態が続いた[40]。沖縄三菱と誘致賛成派の村議員らと共に懇願し、1972年5月9日にようやく認可された[41]。
本土復帰後の1972年10月15日に埋立て工事の着工を行い、計画では2年後の1974年12月までに貯蔵タンクとシーバースを含めた施設建造を完了させる予定であった[42]。しかしこの頃、隣接するガルフ社の製油所から漏洩した原油が流出し、近海が汚染されるなどの公害問題が深刻化し、これらの事故を機に1973年からCTS建設反対派の運動が激化する[43]。1974年4月30日に埋立て工事は完了し[44]、同日に竣工認可を沖縄県へ申請した[45]。1975年10月4日にCTS竣工は許可され、その後埋立て地の所有権登記を行い、与那城村へ編入された[46]。1980年3月6日にCTS貯蔵タンクは建設され[47]、同月12日に操業した[48]。
CTS建設問題
ガルフ社の宮城島進出が周知されると、島内反対派は1967年3月16日に「宮城島を守る会」を、賛成派は「工場誘致促進委員会」を結成した。5月8日の与那城村会議ではガルフ社誘致が議題となり、全会一致で誘致の早期実現に関する要請決議を行い、7月1日に「石油事業誘致特別委員会」を設置した。しかし、7月19日に宮城島内で賛成・反対派よる傷害事件が発生するなど、両者は益々対立した。そもそも島内の賛成派は反対派よりも多数であったが、反対派が所有する土地が建設予定地の半分以上を占め、さらに賛成・反対派の所有地が点在し、用地取得が困難であった。その上再三に亘る反対派への説得にも誘致の支持は得られず、終いに宮城島でのCTS計画は頓挫した。その後、本島と結ぶ海中道路建設を条件に平安座島の島民は、島の4分の3の土地をガルフ社に貸与した。また、島民は建設工事の請負や開業後の雇用促進による経済効果に期待を寄せていた。[32]
しかし、CTS建造後の雇用効果は予想を下回り[49]、また島内の耕作地が激減し、農業振興地域の指定は解除された[50]。1965年に指定された「与勝海上政府立公園」はCTS計画により取り消された。さらに海中道路の建設により島周辺の海域に赤土流出・潮流変化に伴い漁業に深刻な打撃を受けた[20]。1973年のガルフ社による原油流出事故を切っ掛けに公害問題が深刻化し、CTS反対運動が激化する[43]。村議会や開発事務所へ抗議が殺到[51]、反対派団体「金武湾を守る会」(以下「守る会」)は当時の屋良朝苗知事へ押しかけ、CTS建設の中止を訴えた[27]。これら反対派の中には革マル派の一員などによる扇動者も含まれていたという[52]。1974年1月19日、CTS建設反対の世論と全国で展開された公害防止運動の高まりを理由に挙げ、知事はCTS反対を表明、これを受け「沖縄三菱」社長は同月23日に知事と会見し、CTS反対決定の撤回を求めた[53]。また同月25日、当時の中曽根康弘通商産業大臣は国会演説で、金武湾におけるCTS建設を積極的に行うべきと発言、さらに翌月2月8日に自由民主党沖縄県支部は、屋良知事の退陣要求デモを県庁前で行った[54]。1974年9月5日に「守る会」に所属する漁民6人は沖縄県を相手取り、埋立て免許の無効確認を要求する裁判を起こした[55]。翌年の1975年10月4日の判決で、既に完工した埋立て地を元の状態へ戻すのは不可能とし、県は全面的に勝訴した[56]。次に「守る会」は1977年4月9日に、環境権と人格権の侵害を理由に原告1,250人によるCTS建設の差し止めを求めた[57]。しかし原告側にはCTSが立地する平安座島の住民は存在せず、その後の1979年3月29日の判決で原告は敗訴し、CTS反対運動は次第に衰退した[58]。
文化
「平安座島には多くの伝統行事が残されている」といわれ、行事の保存・継承を積極的に行っている[59]。平安座自治会は、島内に参入した石油関連企業からの土地賃貸料等による潤沢な不動産収入を得て、行事は盛大に催される[60]。実際、当自治会の2001年の歳入は約8,500万円であったが[61]、宮城島や伊計島などの周辺離島の自治会では毎年多くても1,000万円は超過しないという[62]。予算の掛かる大綱引きに関しては、水田の無い平安座島では藁は他所から購入しなければならず、財政的に負担の大きい行事であった[60]。1960年以降開催されなかったが、1984年に再開された[60]。また海中道路の開通で自動車での往来が容易になり、泊りがけで行われた旧盆も日帰りで済むようになり、行事のあり方にも変化が生じた[63]。
ガルフ社が平安座島へ進出した際、当時は米軍統治下にあった為、沖縄住民以外の土地所得は高等弁務官命令により制限されていた[64]。賃貸契約を結んだガルフ社と平安座島の土地所有者らは、定期的に土地代改正などに関した協議の場を設ける機会が増え、両者は深い関係を築いている[65]。旧正月の元日に行われる祈願祭「初年頭(ハチニントウ)」に企業関係者も参加[66]、また旧正月3日目に親族毎に縁のある井泉を巡る「河川撫で(カーウビー)」では石油基地内を通行して行われる[67]。旧暦3月4日には「ナンザモーイ」と呼ばれる行事が開かれ、平安座島の東海岸に位置するナンザ島に赴き、本来の豊漁・海の安全祈願や石油企業の安全操業をニライカナイの神に願う[68]。
1968年にガルフ社と平安座島民が土地賃借契約を締結した後、基地建設地に点在した約150の墓を共同墓地へ移転した[69]。1968年9月27日に移転先が決定し、翌年の1969年8月12日に墓地の完成祈願祭が挙行され、その後納骨された[70]。
交通
もとは与勝半島と平安座島の海域は遠浅で干潮時に徒歩で往来可能であったが[19]、離島苦の解消は島民にとって積年の願いであった[71]。過去には1753年に親子が平安座島へ渡る途中に暴風雨に遭遇し帰路を見失い、満潮時に流され溺死した事故が起こっている[19]。また戦後にはアメリカ軍が改造した海上トラックも通行していた[72]。1961年(昭和36年)に島民約3,600人と米軍の工事用トラック車両3台による道路建設に着手したが、2度の台風襲来で失敗に終わった[71]。その後の1968年(昭和43年)にガルフ社が平安座島の大半を貸与し石油関連施設を建設する代わりに、1972年(昭和47年)に自社負担で全長約4.75kmの海中道路を完成させた[27]。しかし、開通後には金武湾を流れる潮流が変化し土砂堆積などの問題が発生した[72]。完成当初は与那城村道45号に指定されたが[71]、1991年3月31日に沖縄県道として「主要地方道伊計平良川線」へ昇格した[73][74]。1999年に4車線に拡張され、駐車場300台分を備えたロードパークを設置した[10]。
埋立て以前の平安座島と宮城島は潮流により土砂が寄り集まった1本の盛り土が形成され、馬と共に渡れたが、埋立てにより2島は「桃原橋」により架橋された[2]。また1997年2月7日に平安座島と浜比嘉島を結ぶ「浜比嘉大橋」が完成・開通した[74]。
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干潮時の徒歩横断(1955年頃)
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完成した海中道路(2010年9月)
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金武湾空撮。画像左側に白く伸びる筋が海中道路。
出典
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- 松井健一編 『開発と環境の文化学 沖縄地域社会変動の諸契機』 榕樹書林、2002年。ISBN 4-9477667-87-7
- 松井健一編 『島の生活世界と開発 3 沖縄列島 シマの自然と伝統のゆくえ』 東京大学出版会、2004年。ISBN 4-13-034173-1
- 太田範夫 『沖縄巨大プロジェクトの奇跡 石油備蓄基地(CTS)開発 激闘の9年』 アートデイズ、2004年。ISBN 4-86119-029-0