「アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)」の版間の差分
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{{基礎情報 君主 |
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[[ファイル:LibroDesJuegasAlfonXAndCourt.jpg|thumb|250px|アルフォンソ10世と宮廷]] |
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| 人名 = アルフォンソ10世 |
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'''アルフォンソ10世'''('''Alfonso X''', el Sabio, [[1221年]][[11月23日]] - [[1284年]][[4月4日]])は、[[カスティーリャ王国]]の[[カスティーリャ君主一覧|国王]](在位:[[1251年]] - [[1282年]])。一時は[[ローマ王|ドイツ王]](在位:[[1257年]] - [[1275年]])でもあった。[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]と最初の王妃[[ベアトリス・デ・スアビア]]の長男である。[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[オタカル2世]]は母方の従兄に当たる。[[トレド]]の出身。 |
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| 各国語表記 = Alfonso X el-Sabio |
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| 君主号 = |
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| 画像 = Alfons X.jpg |
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| 画像サイズ = 200px |
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| 画像説明 = 1594年に描かれた肖像画 |
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| 在位 = [[1252年]] - [[1284年]] |
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| 戴冠日 = |
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| 別号 = |
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| 全名 = |
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| 出生日 = [[1221年]][[11月23日]] |
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| 生地 = [[トレド]] |
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| 死亡日 = [[1284年]][[4月4日]] |
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| 没地 = [[セビリア]] |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = [[セビリア大聖堂]] |
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| 継承者 = |
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| 継承形式 = |
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| 配偶者1 = [[ビオランテ・デ・アラゴン]] |
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| 配偶者2 = |
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| 配偶者3 = |
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| 配偶者4 = |
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| 子女 = [[#子孫|後述]] |
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| 王家 = ボルゴーニャ家 |
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| 王朝 = [[ブルゴーニュ朝 (カスティーリャ)|ボルゴーニャ朝]] |
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| 父親 = [[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]] |
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| 母親 = [[ベアトリス・デ・スアビア]] |
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| 宗教 = |
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| サイン = |
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'''アルフォンソ10世'''(Alfonso X, [[1221年]][[11月23日]] - [[1284年]][[4月4日]])は、[[カスティーリャ王国]]の[[カスティーリャ君主一覧|国王]] |
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(在位:[[1252年]] - 1284年)。一時は[[ローマ王|ドイツ王]](在位:[[1257年]] - [[1275年]])でもあった。 |
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[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]と最初の王妃[[ベアトリス・デ・スアビア]]の長男である。母のベアトリスは[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の従姉妹であり、[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[オタカル2世]]は母方の従兄にあたる。 |
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軍事面においては失政が多かったが、文化面・行政面における功績は大きく、アルフォンソ10世はこの功績を讃えられて「'''アルフォンソ賢王'''」(エル・サビオ:el Sabio)と呼ばれることとなった。また、天文学上の功績により「天文王」(エル・アストロロゴ:el Astrólogo)とも呼ばれる。 |
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学芸の振興に努めたため「賢王」「賢者」「学者」を意味する''el-Sabio''の別名で知られている<ref name="kobayashi">小林「アルフォンソ10世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』、20-21頁</ref><ref name="kikuchi">菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)、129-130頁</ref>。アルフォンソ自身は権力の基盤は英知にあると考えており<ref name="jac">ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』(吉村作治監修, 遠藤ゆかり訳, 「知の再発見」双書, 創元社, 2006年12月)、95頁</ref>、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]、[[ユダヤ教]]を統べる「三宗教の王」と称されることを好んだ<ref>牛島『スペイン古典文学史』、7頁</ref>。また、現在の[[スペイン語]]の母語となったカスティーリャ語の確立者の一人とみなされている<ref name="lar"/>。彼の治世にカスティーリャの文化・宗教双方の中心地は[[コルドバ]]から首都の[[トレド]]に移り、アラビア文化を学ぼうとするヨーロッパ各地の研究者がトレドに集まった<ref>牛島『スペイン古典文学史』、8頁</ref>。 |
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学術面の功績とは逆に、政治の実績には否定的な評価が下されることが多い<ref name="kobayashi"/><ref name="kikuchi"/><ref name="horupu">グリック「アルフォンソ10世」『世界伝記大事典 世界編』1巻、258-259頁</ref><ref name="lar">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、362-364頁</ref>。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 即位前 === |
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王太子時代は父と共に[[レコンキスタ]]を推進し、その補佐に当たった。1252年、父の死により王位につき、レコンキスタを継続したが、父王フェルナンド3世と比べ軍事的成果はほとんどなく、むしろ失敗が多かったと言われている。 |
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1221年11月23日にフェルナンド3世とベアトリスの長子として、トレドで誕生する<ref name="horupu"/>。幼少期の事績については不明な点が多い<ref>佐竹『概説スペイン文学史』、24頁</ref>。 |
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幼時から統治と軍事についての教育を受け、[[1236年]]からコルドバ地方のイスラム教徒の居住地を征服した<ref>ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、200-201頁</ref>。[[1243年]]にサンチアゴ騎士団とともに[[ムルシア]]のイスラームの領主アブー・バクルを降伏させ、ムルシア地方を支配下に置いた<ref>ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、203頁</ref>。<!-- グリック「アルフォンソ10世」『世界伝記大事典 世界編』1巻、258-259頁では1247年にムルシア攻略 -->[[1248年]]に父フェルナンドが敷いていた[[セビリア]]包囲に参加し、翌[[1249年]]に[[アラゴン王国|アラゴン]][[アラゴン君主一覧|王]][[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]の娘[[ビオランテ・デ・アラゴン|ビオランテ]]と結婚した。 |
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アルフォンソ10世の即位から数年後、[[神聖ローマ帝国]]は皇帝不在の[[大空位時代]]に入ったが、アルフォンソ10世は生母が[[ローマ王|ドイツ王]][[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]の娘であることを理由に皇帝の位を望み、[[コーンウォール伯]][[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]と帝位を巡って争った。一時は[[選帝侯]]達に[[ローマ王|ローマ人の王]]に選ばれる所までこぎつけたが、[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]の猛反対に遭って結局は失敗に終わった。 |
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=== レコンキスタでの活動 === |
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こうした失政の連続に加えて、[[1275年]]には長男の王太子[[フェルナンド・デ・ラ・セルダ]]に先立たれた。それらが原因となって、次男[[サンチョ4世 (カスティーリャ王)|サンチョ]]と王位をめぐる内乱が発生するが、この内乱はアルフォンソ10世の敗北に終わり、1282年にサンチョによって王位を奪われた。その後、[[マリーン朝]]と共謀してサンチョから王位奪回を企んだが、失敗して[[セビリア|セビリャ]]に追放され、失意のうちに1284年、64歳で没した。 |
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1252年にカスティーリャ王位を継ぎ、カスティーリャ、[[レオン王国|レオン]]を相続する。 |
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<!-- 父の時代に拡大したカスティーリャ王国を安定させるため、[[レコンキスタ]]の規模を縮小した<ref name="seki163">関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、163頁</ref>。 --> |
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<!-- 父から引き継いだ[[レコンキスタ]]に注力した<ref>ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、217頁</ref>。 --> |
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イベリア半島南部の[[アルガルヴェ]]地方の国境部の領有を巡って[[ポルトガル王国]]と争い、[[1254年]]には[[ガスコーニュ]]に軍を進めた。ガスコーニュ攻撃の直後に[[ナバラ王国]]の王位の継承権を主張したためアラゴンと対立するが、[[1256年]]のソリア条約で和解した<ref name="horupu"/>。[[1260年]]に[[モロッコ]]の[[サレ]]で[[マリーン朝]]に対する反乱が起きると、アルフォンソは艦隊を派遣して反乱を助けた。カスティーリャ軍はサレを略奪するが、[[ムワッヒド朝]]の残党の包囲を受けて退却し、モロッコにアフリカ進出の拠点を築くことはできなかった<ref>ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、218頁</ref>。 |
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[[1262年]]にカスティーリャが[[カディス]]、{{仮リンク|ニエブラ|es|Niebla (Chile)}}を占領したため、[[グラナダ]]の[[ナスル朝]]との関係が悪化する<ref name="satoh">佐藤健太郎「イスラーム期のスペイン」『スペイン史 1』収録(世界歴史大系, 山川出版社, 2008年7月)、120-121頁</ref>。ナスル朝はアンダルシア地方の[[ムデハル]]([[ムスリム]])の反乱を扇動し、[[ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ|ヘレス]]、[[アルコス・デ・ラ・フロンテーラ|アルコス]]などで蜂起が発生した。カスティーリャは[[マラガ]]の有力貴族アシキールーラ家の反乱を支援してナスル朝に対抗し、ナスル朝はアシキールーラ家の反乱鎮圧に専念するため、[[1266年]]に和約を締結した<ref name="satoh"/>。 |
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「聖王」と讃えられた父と較べると外政については失敗の多い人物であるが、内政面では評価の高い人物である。アルフォンソ10世が[[ローマ法]]に基づいて編纂した『[[七部法典]]』(''[[:es:Siete Partidas|Siete Partidas]]'')は、その後の[[スペイン]]における法律の基礎となった。歴史学においては『スペイン史』(''[[:es:Estoria de España|Estoria de España]]'')や『世界史』(''[[:es:Grande e general estoria|General Estoria]]'')、天文学においては『[[アルフォンソ天文表]]』の編纂という業績も残した。さらにはスペインにおける諸学問の保護発展に尽力し、自らも詩を多数創作した。また、[[ガリシア語]]による「聖母マリアのための[[カンティガ|カンティーガ]]集」(''[[:es:Cantigas de Santa Maria|Cantigas de Santa María]]'')の編纂を行うなど、優れた行政手腕や文化手腕を持っていた。国内における[[カスティーリャ語]]の普及にも尽力し、これは後の[[スペイン語]]の基礎になったと言われている。 |
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=== 神聖ローマ皇帝位の請求 === |
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13世紀の終わりに[[トレド]]に翻訳研究所(エスクエラ・デ・トラドゥクトーレス)を設置、[[アラビア語]]を[[モサラベ語]]、[[ラテン語]]に翻訳させた。[[ユダヤ教徒]]の学者を[[ムスリム]]、[[キリスト教徒]]それぞれの学者と同じように宮廷で遇し、[[タルムード]]の翻訳に資金提供をしたが、息子サンチョの反乱以降は[[シナゴーグ]]に閉じ込め、家を壊した。 |
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1250年代初頭からの[[神聖ローマ帝国]]の[[大空位時代]]には、母のベアトリスの出自を根拠に神聖ローマ皇帝位を請求し、[[アンダルシア]]地方への進出を図る[[ピサ]]の[[ギベリン]]からの支持を受けた<ref name="seki163">関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、163頁</ref>。1257年にアルフォンソは同じく神聖ローマ皇帝候補に挙げられていたコーンウォール伯[[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]とともにドイツ王に選出された<ref name="kikuchi"/>。義父であるハイメ1世は反対し<ref>関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、163-164頁</ref>、[[教皇|ローマ教皇]]も[[破門]]を示して即位に反対した。[[1272年]]にリチャードが没すると教皇[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]はドイツ諸侯からのドイツ王の選出を要請し、[[1273年]]に[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]がドイツ王に選出された<ref name="kikuchi">菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)、134,138頁</ref>。 |
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アルフォンソの試みは失敗に終わり、工作に注ぎ込まれた多額の資金と労力は王国に損失をもたらした<ref name="lar"/>。 |
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=== 国内の反乱 === |
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[[Image:Alfonso X de Castilla. Sepulcro.jpg|thumb|180px|セビリア大聖堂に安置されたアルフォンソ10世の棺]] |
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アルフォンソは神聖ローマ皇帝位を獲得する運動に際して国を空けることが多く、王の留守は反乱の温床となった<ref name="horupu"/>。貴族の一部はアルフォンソの弟フェリペを擁して反乱を起こした。 |
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[[1275年]]にアルフォンソが教皇庁に赴いた隙をついて、マリーン朝の君主[[アブー・ユースフ・ヤアクーブ]]がイベリア半島に上陸した<ref name="lom223">ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、223頁</ref>。1275年9月にマリーン朝とナスル朝の連合軍は{{仮リンク|エシハ|en|Écija}}でカスティーリャ軍を破り、アルフォンソの義兄弟であるトレド大司教サンチョが戦死する。翌[[1276年]]にアブー・ユースフが退却するまでの間、王子[[サンチョ4世 (カスティーリャ王)|サンチョ]]がイスラム教徒への抗戦を指導した<ref name="lom223"/>。 |
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1275年に反乱の鎮圧に奔走した王太子[[フェルナンド・デ・ラ・セルダ|フェルナンド]]が病死すると、王位の継承権を巡って国内は分裂する<ref name="horupu"/>。フランスを後ろ盾としてフェルナンドの遺児アルフォンソを擁立する勢力と<ref name="kobayashi"/>、王子サンチョを支持する勢力に分かれ、[[1282年]]にサンチョはアルフォンソの廃位と自らの即位を宣言した。サンチョは国内の貴族、都市、聖職者、[[騎士修道会]]とポルトガル、アラゴン両王国からの支持を受け、アルフォンソはセビリアに追われた<ref name="kobayashi"/>。セビリアに逃れたアルフォンソはサンチョを廃嫡し、マリーン朝に援軍を求めた。アルフォンソとアブー・ユースフはコルドバでサンチョを包囲し、[[マドリード]]に攻撃をかけた。 |
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しかし、マリーン朝からの援軍も状況の打開には結びつかなかった<ref name="kobayashi"/>。アルフォンソはいくつかの都市にしか支持されず<ref name="lar"/>、1284年にセビリアで没した。死後、[[セビリア大聖堂]]に埋葬された。 |
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== 政策 == |
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[[Image:LibroDesJuegasAlfonXAndCourt.jpg|thumb|200px|トレドの宮廷のアルフォンソ10世]] |
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アルフォンソは国内の安定に向けて、アンダルシア地方への再殖民、王国の法・政治制度の統合を重視した<ref name="seki163"/>。 |
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アンダルシア地方の建築物は破壊されずに残され、イスラム統治時代の農場や村の境界線はカスティーリャの支配下でも存続した<ref name="lom211">ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、211頁</ref>。カスティーリャはイスラム教徒が支配した痕跡を払拭するためにアンダルシアの地名をすべて改称したが、改称後の名前は定着せず、イスラム時代以前の地名が使われることが多かった<ref name="lom211"/>。 |
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アルフォンソの治下では王権強化のため、国王裁判所の権限強化、[[コルテス (身分制議会)|コルテス]]の定期開催、貴族・廷臣の奢侈の取り締まり、宮廷儀礼の整備が実施された。王権強化策の根底には[[ローマ法|古代ローマ法]]の理念があり、アルフォンソは王である自身を神と地上の臣民の仲介者と考えていた<ref name="seki163"/>。国王裁判所での使用を目的に作成された『七部法典(シエテ・パルティダス)』は<ref name="seki168">関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、168頁</ref>、地方ごとに異なる慣習を統一する役割を持っていた<ref name="lar"/>。『七部法典』は他のイベリア諸国、さらには近代のスペインとその海外植民地の法律にも反映された<ref name="horupu"/>。法令としての役割以外に、『七部法典』は歴史・社会・文学的価値も評価されている<ref name="satake25">佐竹『概説スペイン文学史』、25頁</ref>。 |
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同じローマ法に基づく法令であり、都市法の上位に置かれる『フエロ・レアル』も編纂された<ref name="seki163"/>。しかし、こうした王権強化策に貴族と都市は反発した<ref name="kobayashi"/><ref name="seki164">関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、164頁</ref>。 |
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アルフォンソは経済政策、貨幣制度の改革にも取り組んだが、成功とは言い難かった<ref name="lar"/>。税を引き上げたものの徴収は難航し、レコンキスタで獲得した戦利品から得られる利益も減少した<ref name="lar"/>。また、悪貨の発行によって物価と賃金の高騰を招いた<ref name="seki164"/>。 |
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アルフォンソが志した王権の強化は、[[14世紀]]の[[アルフォンソ11世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ11世]]の時代に実現する<ref>関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、165頁</ref>。[[1348年]]に『七部法典』は初めて公布される<ref name="satake25"/>。 |
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== 文化事業 == |
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=== 言語 === |
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[[Image:Alfonso LJ 97V.jpg|thumb|180px|『チェス、賽子、双六の書』の挿絵]] |
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アルフォンソの宮廷では著述とともに[[アラビア語]]文献の翻訳が推進された。[[1085年]]から続いていたトレド翻訳学派(トレド翻訳学校)は国の後援を受け<ref>牛島『スペイン古典文学史』、7-8頁</ref>、翻訳学派にはイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の学者の集団が属していた<ref name="horupu"/>学術書以外に、図説書『{{仮リンク|チェス、賽子、双六の書|en|Libro de los juegos}}』、説話集『ムハンマドの梯子の書』が翻訳された。アルフォンソ在位中のカスティーリャでは、寓話『[[カリーラとディムナ]]』がアラビア語からカスティーリャ語に訳されたが、彼が翻訳を命じたかは定かではない<ref>佐竹『概説スペイン文学史』、27頁</ref>。 |
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翻訳された書籍は主に日常話されているカスティーリャ語で記述されたため、文献が参照された地域はカスティーリャ内にとどまった<ref name="isjiten">林「アルフォンソ10世」『新イスラム事典』、96頁</ref>。アルフォンソは13世紀当時のカスティーリャで支配的言語の地位にあった[[ラテン語]]からの脱却を目指し、歴史学、宗教、文学の分野でもラテン語に代えてカスティーリャ語の使用を推進した<ref>牛島『スペイン古典文学史』、10,16頁</ref>。そして、カスティーリャ語は著述活動以外に、司法の場でも公用語として用いられるようになった<ref>牛島『スペイン古典文学史』、9-10頁</ref><ref>オルティス『スペイン三千年の歴史』、101頁</ref>。アルフォンソが行ったカスティーリャ語の推進活動は、政治と文化の大衆化、支配者から民衆への意思伝達の改善による、国内の統一の強化を目的としていたと思われる<ref>牛島『スペイン古典文学史』、10頁</ref>。 |
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=== 天文学 === |
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[[Image:Tablas alfonsies.jpg|thumb|180px|アルフォンソ天文表]] |
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様々なアラビア語文献の中でもアルフォンソが興味を持っていた[[天文学]]、[[占星術]]の書籍が、多く訳された<ref name="isjiten"/>。 |
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『天文学の書』では[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の天動説に基づく天体の動きが体系的に説明され、随所に道徳・宗教的な説話が挿入されている<ref name="satake26">佐竹『概説スペイン文学史』、26頁</ref>。他に天体の動きと宝石の関連性について述べた『宝石の書』が著された。 |
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トレドでは[[アストロラーベ]]や時計などを用いて天体観測が行われ、その結果を元に[[アッ=ザルカーリー]]が作成した天文表を修正した<ref>関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、169頁</ref>。天文表は彼の名前をとって[[アルフォンソ天文表]]と呼ばれるが、実際にアルフォンソの元で作成されたかを疑う意見もある<ref name="jac"/><ref name="lar"/>。<!-- 1320年ごろにパリの天文学者が作成した天文表は、アルフォンソの側近の事績にちなんでアルフォンソ表と命名(ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』、95頁) --> |
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=== 歴史、文芸 === |
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アルフォンソ在位中のカスティーリャ王国ではイベリア史と世界史の編纂事業が行われ、『スペイン史』『世界史』の2冊の[[年代記]]が完成した。史書の編纂に際してはアルフォンソ自らが編者を選定し、校閲にあたった<ref name="satake25"/>。 |
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『スペイン史』の編纂にあたっては国王年代記、古典史料以外にイスラームの史料、叙情詩も用いられた<ref name="lom810">ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、8-10頁</ref>。叙情詩は散文化された状態で『スペイン史』に収録されており、その中には元の詩が散逸したものも含まれている<ref>ホセ・ガルシア・ロペス『スペイン文学史』(東谷穎人、有本紀明共訳, 白水社, 1976年)、27頁</ref>。いずれの年代記の記述も史実と虚構が混在しているが、こうした傾向には中世ヨーロッパ人の歴史観が現れているとも見なせる<ref name="horupu"/>。『スペイン史』では1252年までのイベリア史が扱われているが後の時代に何度も増補・改訂され、アラゴンやポルトガルでも参照された<ref name="lom810"/>。[[1906年]]、メネンデス・ピダールは『スペイン史』を『第一総合年代記』と題して出版した。 |
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当初『世界史』は[[創世記|天地創造]]からアルフォンソの治世までを記述することが予定されていたが、天地創造から[[聖母マリア]]の家譜を記述するところで終わっている<ref name="satake26"/>。『世界史』には[[ギリシャ神話]]の英雄が多く登場する点が特徴として挙げられる。 |
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アルフォンソは詩作を好み、代表作に1257年から1279年にかけて書かれた[[トルバドゥール]]風の叙情詩『聖母讃歌』の一部分がある<ref name="horupu"/>。 |
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=== 学校との関わり === |
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[[1254年]]に[[サラマンカ大学]]に特権を付与し、大学には食住の付与と一定の自治権が認められた<ref>関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、170頁</ref>。また、アルフォンソはセビリアに学者、詩人を集め、[[セビリア大学]]の母体となる学校を創設した。13世紀後半のセビリアは首都トレドと並ぶ学術研究の拠点となった<ref name="seki168"/>。 |
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ムルシアにもキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が共存する学校が開設されたが、イスラム教徒の学生がカスティーリャから追放されると、教師を務めていたアブー=バクルはナスル朝に亡命した<ref>オルティス『スペイン三千年の歴史』、80頁</ref>。 |
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== 子孫 == |
== 子孫 == |
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[[ビオランテ・デ・アラゴン|ビオランテ(ヨランダ)・デ・アラゴン]]([[アラゴン君主一覧|アラゴン王]][[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]と王妃[[ビオランテ・デ・ウングリア]]の娘)と[[1246年]]に結婚した。実際に嫁いだのは[[1249年]]であるが、それは結婚時に彼女がまだ10歳だったからである。 |
[[ビオランテ・デ・アラゴン|ビオランテ(ヨランダ)・デ・アラゴン]]([[アラゴン君主一覧|アラゴン王]][[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]と王妃[[ビオランテ・デ・ウングリア]]の娘)と[[1246年]]に結婚した。実際に嫁いだのは[[1249年]]であるが、それは結婚時に彼女がまだ10歳だったからである。夭逝した2人を除いて10人の子供をもうけている。 |
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# フェルナンド(生没年未詳) - 幼少時に死亡。[[ブルゴス]]のラス・ウエルガス修道院に埋葬されている。 |
# フェルナンド(生没年未詳) - 幼少時に死亡。[[ブルゴス]]のラス・ウエルガス修道院に埋葬されている。 |
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# ベレンゲーラ(1253年 - 1284年以降) - [[フランス君主一覧|フランス王]][[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の息子で後継者だったルイ([[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]の兄)と婚約したが、[[1260年]]にルイが夭逝した為ラス・ウエルガス修道院に入った |
# ベレンゲーラ(1253年 - 1284年以降) - [[フランス君主一覧|フランス王]][[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の息子で後継者だったルイ([[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]の兄)と婚約したが、[[1260年]]にルイが夭逝した為ラス・ウエルガス修道院に入った。 |
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# ベアトリス(1254年 - 1280年) - 1271年、ムルシアで[[モンフェッラート侯国|モンフェラート]]侯[[グリエルモ7世 (モンフェラート侯)|グリエルモ7世]]と結婚。 |
# ベアトリス(1254年 - 1280年) - 1271年、ムルシアで[[モンフェッラート侯国|モンフェラート]]侯[[グリエルモ7世 (モンフェラート侯)|グリエルモ7世]]と結婚。 |
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# [[フェルナンド・デ・ラ・セルダ]](1255年10月23日 - 1275年7月25日) - 1268年、フランス王ルイ9世の娘ブランシュと結婚、2男をもうけた。王太子であったが父より先に死去し、遺児たちを退けて弟サンチョが父から王位を奪った。 |
# [[フェルナンド・デ・ラ・セルダ]](1255年10月23日 - 1275年7月25日) - 1268年、フランス王ルイ9世の娘ブランシュと結婚、2男をもうけた。王太子であったが父より先に死去し、遺児たちを退けて弟サンチョが父から王位を奪った。 |
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アルフォンソ10世には他にも多くの非嫡出子がいた。その一人[[ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・グスマン|ベアトリス]]は[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル王]][[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]に嫁ぎ、[[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス1世]]の母になった。またマルティンは[[バリャドリッド]]の大修道院長になった。他にもウラカという名前の娘がいた。 |
アルフォンソ10世には他にも多くの非嫡出子がいた。その一人[[ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・グスマン|ベアトリス]]は[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル王]][[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]に嫁ぎ、[[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス1世]]の母になった。またマルティンは[[バリャドリッド]]の大修道院長になった。他にもウラカという名前の娘がいた。 |
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== 脚注 == |
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治世の末期にはカスティーリャ、[[トレド]]、[[レオン王国|レオン]]、[[ガリシア王国|ガリシア]]、[[セビリア|セビーリャ]]、[[コルドバ]]、[[ムルシア]]、[[ハエン]]及び[[アルガルヴェ地方|アルガルヴェ]]の王を名乗っていた。 |
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* 牛島信明『スペイン古典文学史』(名古屋大学出版会, 1997年1月) |
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* 小林一宏「アルフォンソ10世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録(平凡社, 2001年10月) |
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* 佐竹謙一『概説スペイン文学史』(研究社, 2009年7月) |
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* 関哲行「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』収録(世界歴史大系, 山川出版社, 2008年7月) |
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* 林邦夫「アルフォンソ10世」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月) |
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* トマス.F.グリック「アルフォンソ10世」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月) |
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* D.W.ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』(林邦夫訳, 刀水書房, 1996年4月) |
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* アントニオ・ドミンゲス・オルティス『スペイン三千年の歴史』(立石博高訳, 昭和堂, 2006年3月) |
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* フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』(原書房, 2004年6月) |
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2013年4月8日 (月) 11:44時点における版
アルフォンソ10世 Alfonso X el-Sabio | |
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1594年に描かれた肖像画 | |
在位 | 1252年 - 1284年 |
出生 |
1221年11月23日 トレド |
死去 |
1284年4月4日 セビリア |
埋葬 | セビリア大聖堂 |
配偶者 | ビオランテ・デ・アラゴン |
子女 | 後述 |
家名 | ボルゴーニャ家 |
王朝 | ボルゴーニャ朝 |
父親 | フェルナンド3世 |
母親 | ベアトリス・デ・スアビア |
アルフォンソ10世(Alfonso X, 1221年11月23日 - 1284年4月4日)は、カスティーリャ王国の国王 (在位:1252年 - 1284年)。一時はドイツ王(在位:1257年 - 1275年)でもあった。
フェルナンド3世と最初の王妃ベアトリス・デ・スアビアの長男である。母のベアトリスは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の従姉妹であり、ボヘミア王オタカル2世は母方の従兄にあたる。
学芸の振興に努めたため「賢王」「賢者」「学者」を意味するel-Sabioの別名で知られている[1][2]。アルフォンソ自身は権力の基盤は英知にあると考えており[3]、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教を統べる「三宗教の王」と称されることを好んだ[4]。また、現在のスペイン語の母語となったカスティーリャ語の確立者の一人とみなされている[5]。彼の治世にカスティーリャの文化・宗教双方の中心地はコルドバから首都のトレドに移り、アラビア文化を学ぼうとするヨーロッパ各地の研究者がトレドに集まった[6]。
学術面の功績とは逆に、政治の実績には否定的な評価が下されることが多い[1][2][7][5]。
生涯
即位前
1221年11月23日にフェルナンド3世とベアトリスの長子として、トレドで誕生する[7]。幼少期の事績については不明な点が多い[8]。
幼時から統治と軍事についての教育を受け、1236年からコルドバ地方のイスラム教徒の居住地を征服した[9]。1243年にサンチアゴ騎士団とともにムルシアのイスラームの領主アブー・バクルを降伏させ、ムルシア地方を支配下に置いた[10]。1248年に父フェルナンドが敷いていたセビリア包囲に参加し、翌1249年にアラゴン王ハイメ1世の娘ビオランテと結婚した。
レコンキスタでの活動
1252年にカスティーリャ王位を継ぎ、カスティーリャ、レオンを相続する。 イベリア半島南部のアルガルヴェ地方の国境部の領有を巡ってポルトガル王国と争い、1254年にはガスコーニュに軍を進めた。ガスコーニュ攻撃の直後にナバラ王国の王位の継承権を主張したためアラゴンと対立するが、1256年のソリア条約で和解した[7]。1260年にモロッコのサレでマリーン朝に対する反乱が起きると、アルフォンソは艦隊を派遣して反乱を助けた。カスティーリャ軍はサレを略奪するが、ムワッヒド朝の残党の包囲を受けて退却し、モロッコにアフリカ進出の拠点を築くことはできなかった[11]。
1262年にカスティーリャがカディス、ニエブラを占領したため、グラナダのナスル朝との関係が悪化する[12]。ナスル朝はアンダルシア地方のムデハル(ムスリム)の反乱を扇動し、ヘレス、アルコスなどで蜂起が発生した。カスティーリャはマラガの有力貴族アシキールーラ家の反乱を支援してナスル朝に対抗し、ナスル朝はアシキールーラ家の反乱鎮圧に専念するため、1266年に和約を締結した[12]。
神聖ローマ皇帝位の請求
1250年代初頭からの神聖ローマ帝国の大空位時代には、母のベアトリスの出自を根拠に神聖ローマ皇帝位を請求し、アンダルシア地方への進出を図るピサのギベリンからの支持を受けた[13]。1257年にアルフォンソは同じく神聖ローマ皇帝候補に挙げられていたコーンウォール伯リチャードとともにドイツ王に選出された[2]。義父であるハイメ1世は反対し[14]、ローマ教皇も破門を示して即位に反対した。1272年にリチャードが没すると教皇グレゴリウス10世はドイツ諸侯からのドイツ王の選出を要請し、1273年にハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ王に選出された[2]。
アルフォンソの試みは失敗に終わり、工作に注ぎ込まれた多額の資金と労力は王国に損失をもたらした[5]。
国内の反乱
アルフォンソは神聖ローマ皇帝位を獲得する運動に際して国を空けることが多く、王の留守は反乱の温床となった[7]。貴族の一部はアルフォンソの弟フェリペを擁して反乱を起こした。
1275年にアルフォンソが教皇庁に赴いた隙をついて、マリーン朝の君主アブー・ユースフ・ヤアクーブがイベリア半島に上陸した[15]。1275年9月にマリーン朝とナスル朝の連合軍はエシハでカスティーリャ軍を破り、アルフォンソの義兄弟であるトレド大司教サンチョが戦死する。翌1276年にアブー・ユースフが退却するまでの間、王子サンチョがイスラム教徒への抗戦を指導した[15]。
1275年に反乱の鎮圧に奔走した王太子フェルナンドが病死すると、王位の継承権を巡って国内は分裂する[7]。フランスを後ろ盾としてフェルナンドの遺児アルフォンソを擁立する勢力と[1]、王子サンチョを支持する勢力に分かれ、1282年にサンチョはアルフォンソの廃位と自らの即位を宣言した。サンチョは国内の貴族、都市、聖職者、騎士修道会とポルトガル、アラゴン両王国からの支持を受け、アルフォンソはセビリアに追われた[1]。セビリアに逃れたアルフォンソはサンチョを廃嫡し、マリーン朝に援軍を求めた。アルフォンソとアブー・ユースフはコルドバでサンチョを包囲し、マドリードに攻撃をかけた。
しかし、マリーン朝からの援軍も状況の打開には結びつかなかった[1]。アルフォンソはいくつかの都市にしか支持されず[5]、1284年にセビリアで没した。死後、セビリア大聖堂に埋葬された。
政策
アルフォンソは国内の安定に向けて、アンダルシア地方への再殖民、王国の法・政治制度の統合を重視した[13]。
アンダルシア地方の建築物は破壊されずに残され、イスラム統治時代の農場や村の境界線はカスティーリャの支配下でも存続した[16]。カスティーリャはイスラム教徒が支配した痕跡を払拭するためにアンダルシアの地名をすべて改称したが、改称後の名前は定着せず、イスラム時代以前の地名が使われることが多かった[16]。
アルフォンソの治下では王権強化のため、国王裁判所の権限強化、コルテスの定期開催、貴族・廷臣の奢侈の取り締まり、宮廷儀礼の整備が実施された。王権強化策の根底には古代ローマ法の理念があり、アルフォンソは王である自身を神と地上の臣民の仲介者と考えていた[13]。国王裁判所での使用を目的に作成された『七部法典(シエテ・パルティダス)』は[17]、地方ごとに異なる慣習を統一する役割を持っていた[5]。『七部法典』は他のイベリア諸国、さらには近代のスペインとその海外植民地の法律にも反映された[7]。法令としての役割以外に、『七部法典』は歴史・社会・文学的価値も評価されている[18]。
同じローマ法に基づく法令であり、都市法の上位に置かれる『フエロ・レアル』も編纂された[13]。しかし、こうした王権強化策に貴族と都市は反発した[1][19]。
アルフォンソは経済政策、貨幣制度の改革にも取り組んだが、成功とは言い難かった[5]。税を引き上げたものの徴収は難航し、レコンキスタで獲得した戦利品から得られる利益も減少した[5]。また、悪貨の発行によって物価と賃金の高騰を招いた[19]。
アルフォンソが志した王権の強化は、14世紀のアルフォンソ11世の時代に実現する[20]。1348年に『七部法典』は初めて公布される[18]。
文化事業
言語
アルフォンソの宮廷では著述とともにアラビア語文献の翻訳が推進された。1085年から続いていたトレド翻訳学派(トレド翻訳学校)は国の後援を受け[21]、翻訳学派にはイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の学者の集団が属していた[7]学術書以外に、図説書『チェス、賽子、双六の書』、説話集『ムハンマドの梯子の書』が翻訳された。アルフォンソ在位中のカスティーリャでは、寓話『カリーラとディムナ』がアラビア語からカスティーリャ語に訳されたが、彼が翻訳を命じたかは定かではない[22]。
翻訳された書籍は主に日常話されているカスティーリャ語で記述されたため、文献が参照された地域はカスティーリャ内にとどまった[23]。アルフォンソは13世紀当時のカスティーリャで支配的言語の地位にあったラテン語からの脱却を目指し、歴史学、宗教、文学の分野でもラテン語に代えてカスティーリャ語の使用を推進した[24]。そして、カスティーリャ語は著述活動以外に、司法の場でも公用語として用いられるようになった[25][26]。アルフォンソが行ったカスティーリャ語の推進活動は、政治と文化の大衆化、支配者から民衆への意思伝達の改善による、国内の統一の強化を目的としていたと思われる[27]。
天文学
様々なアラビア語文献の中でもアルフォンソが興味を持っていた天文学、占星術の書籍が、多く訳された[23]。
『天文学の書』ではプトレマイオスの天動説に基づく天体の動きが体系的に説明され、随所に道徳・宗教的な説話が挿入されている[28]。他に天体の動きと宝石の関連性について述べた『宝石の書』が著された。
トレドではアストロラーベや時計などを用いて天体観測が行われ、その結果を元にアッ=ザルカーリーが作成した天文表を修正した[29]。天文表は彼の名前をとってアルフォンソ天文表と呼ばれるが、実際にアルフォンソの元で作成されたかを疑う意見もある[3][5]。
歴史、文芸
アルフォンソ在位中のカスティーリャ王国ではイベリア史と世界史の編纂事業が行われ、『スペイン史』『世界史』の2冊の年代記が完成した。史書の編纂に際してはアルフォンソ自らが編者を選定し、校閲にあたった[18]。
『スペイン史』の編纂にあたっては国王年代記、古典史料以外にイスラームの史料、叙情詩も用いられた[30]。叙情詩は散文化された状態で『スペイン史』に収録されており、その中には元の詩が散逸したものも含まれている[31]。いずれの年代記の記述も史実と虚構が混在しているが、こうした傾向には中世ヨーロッパ人の歴史観が現れているとも見なせる[7]。『スペイン史』では1252年までのイベリア史が扱われているが後の時代に何度も増補・改訂され、アラゴンやポルトガルでも参照された[30]。1906年、メネンデス・ピダールは『スペイン史』を『第一総合年代記』と題して出版した。
当初『世界史』は天地創造からアルフォンソの治世までを記述することが予定されていたが、天地創造から聖母マリアの家譜を記述するところで終わっている[28]。『世界史』にはギリシャ神話の英雄が多く登場する点が特徴として挙げられる。
アルフォンソは詩作を好み、代表作に1257年から1279年にかけて書かれたトルバドゥール風の叙情詩『聖母讃歌』の一部分がある[7]。
学校との関わり
1254年にサラマンカ大学に特権を付与し、大学には食住の付与と一定の自治権が認められた[32]。また、アルフォンソはセビリアに学者、詩人を集め、セビリア大学の母体となる学校を創設した。13世紀後半のセビリアは首都トレドと並ぶ学術研究の拠点となった[17]。
ムルシアにもキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が共存する学校が開設されたが、イスラム教徒の学生がカスティーリャから追放されると、教師を務めていたアブー=バクルはナスル朝に亡命した[33]。
子孫
ビオランテ(ヨランダ)・デ・アラゴン(アラゴン王ハイメ1世と王妃ビオランテ・デ・ウングリアの娘)と1246年に結婚した。実際に嫁いだのは1249年であるが、それは結婚時に彼女がまだ10歳だったからである。夭逝した2人を除いて10人の子供をもうけている。
- フェルナンド(生没年未詳) - 幼少時に死亡。ブルゴスのラス・ウエルガス修道院に埋葬されている。
- ベレンゲーラ(1253年 - 1284年以降) - フランス王ルイ9世の息子で後継者だったルイ(フィリップ3世の兄)と婚約したが、1260年にルイが夭逝した為ラス・ウエルガス修道院に入った。
- ベアトリス(1254年 - 1280年) - 1271年、ムルシアでモンフェラート侯グリエルモ7世と結婚。
- フェルナンド・デ・ラ・セルダ(1255年10月23日 - 1275年7月25日) - 1268年、フランス王ルイ9世の娘ブランシュと結婚、2男をもうけた。王太子であったが父より先に死去し、遺児たちを退けて弟サンチョが父から王位を奪った。
- レオノール(1257年 - 1275年)
- サンチョ(1258年 - 1295年) - カスティーリャ王サンチョ4世。勇敢王(エル・ブラーボ:el Bravo)と呼ばれる。
- コンスタンサ(1258年 - 1280年) - ラス・ウエルガス修道院の修道女
- ペドロ(1260年 - 1283年)
- フアン(1262年 - 1319年) - バレンシア・デ・カンポスの領主。ビスカヤの女領主(ディエゴ・ロペス・デ・アロの死後)マリア・ディアス・デ・アロと結婚し、フアン・エル・トゥエルト(隻眼のフアン)をもうける。
- イサベル(生没年未詳) - 夭逝。
- ビオランテ(1265年 - 1296年) - ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス・デ・アロと結婚。
- ハイメ(1266年 - 1284年)
アルフォンソ10世には他にも多くの非嫡出子がいた。その一人ベアトリスはポルトガル王アフォンソ3世に嫁ぎ、ディニス1世の母になった。またマルティンはバリャドリッドの大修道院長になった。他にもウラカという名前の娘がいた。
脚注
- ^ a b c d e f 小林「アルフォンソ10世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』、20-21頁
- ^ a b c d 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)、129-130頁 引用エラー: 無効な
<ref>
タグ; name "kikuchi"が異なる内容で複数回定義されています - ^ a b ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』(吉村作治監修, 遠藤ゆかり訳, 「知の再発見」双書, 創元社, 2006年12月)、95頁
- ^ 牛島『スペイン古典文学史』、7頁
- ^ a b c d e f g h トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、362-364頁
- ^ 牛島『スペイン古典文学史』、8頁
- ^ a b c d e f g h i グリック「アルフォンソ10世」『世界伝記大事典 世界編』1巻、258-259頁
- ^ 佐竹『概説スペイン文学史』、24頁
- ^ ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、200-201頁
- ^ ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、203頁
- ^ ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、218頁
- ^ a b 佐藤健太郎「イスラーム期のスペイン」『スペイン史 1』収録(世界歴史大系, 山川出版社, 2008年7月)、120-121頁
- ^ a b c d 関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、163頁
- ^ 関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、163-164頁
- ^ a b ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、223頁
- ^ a b ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、211頁
- ^ a b 関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、168頁
- ^ a b c 佐竹『概説スペイン文学史』、25頁
- ^ a b 関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、164頁
- ^ 関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、165頁
- ^ 牛島『スペイン古典文学史』、7-8頁
- ^ 佐竹『概説スペイン文学史』、27頁
- ^ a b 林「アルフォンソ10世」『新イスラム事典』、96頁
- ^ 牛島『スペイン古典文学史』、10,16頁
- ^ 牛島『スペイン古典文学史』、9-10頁
- ^ オルティス『スペイン三千年の歴史』、101頁
- ^ 牛島『スペイン古典文学史』、10頁
- ^ a b 佐竹『概説スペイン文学史』、26頁
- ^ 関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、169頁
- ^ a b ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、8-10頁
- ^ ホセ・ガルシア・ロペス『スペイン文学史』(東谷穎人、有本紀明共訳, 白水社, 1976年)、27頁
- ^ 関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、170頁
- ^ オルティス『スペイン三千年の歴史』、80頁
参考文献
- 牛島信明『スペイン古典文学史』(名古屋大学出版会, 1997年1月)
- 小林一宏「アルフォンソ10世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録(平凡社, 2001年10月)
- 佐竹謙一『概説スペイン文学史』(研究社, 2009年7月)
- 関哲行「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』収録(世界歴史大系, 山川出版社, 2008年7月)
- 林邦夫「アルフォンソ10世」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
- トマス.F.グリック「アルフォンソ10世」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月)
- D.W.ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』(林邦夫訳, 刀水書房, 1996年4月)
- アントニオ・ドミンゲス・オルティス『スペイン三千年の歴史』(立石博高訳, 昭和堂, 2006年3月)
- フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』(原書房, 2004年6月)
関連項目
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